文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。
象山の号は近隣の黄檗宗象山恵明(ぞうざんえみょう)禅寺に因んだとされる。その呼称については、一般に”しょうざん”、地元では”ぞうざん”と呼ばれており、弘化2年に象山自身が松代本誓寺への奉納文書に「後の人我が名を呼ぶなばまさに知るべし」と反切法を用いて”しょうざん”と呼ぶように書き残している。象山は信州松代藩の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。
天保4年(1833年)、33歳の時、江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸で私塾・「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。
ところが天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は江川英龍(太郎左衛門)の下で、兵学を学ぶことになる。温厚で思慮深い江川は象山のことを嫌っていたようだが、ともかくも象山は江川の下で兵学の素養を身につけることに成功し、藩主・幸貫に「海防八策」を献上し高い評価を受けた。また、江川や高島秋帆の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。
これ以降、象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになる。次第に陽明学の方に心惹かれていき佐藤一斎門下に入る。更に洋学を摂取し、西洋軍事(砲)術を学ぶ。真に憂国の士となり、海防論、国防論、藩政改革論等「常に国家の存亡を我が身で担っているという、強い自負心に燃え続けた」。この間慕う者多く、門弟300人とも言われる。吉田松陰、勝海舟、坂本竜馬等々の面々が輩出している。
ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。
1854(嘉永7)年、再び来航したペルー艦隊の吉田松陰密航失敗事件に連座して、捕らえられ、伝馬町に入獄する羽目になり、8年にわたって蟄居謹慎生活を余儀なくされる。更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。その後、その名声と学識を買われ、1864(元治元)年、象山は一橋慶喜に招かれて信州松代から入洛し幕府に登用される。長い幽囚を解かれて政治の舞台に登場した佐久間は、全身全霊をぶつけて政務に励んだ。この頃、「東洋道徳、西洋芸術(技術)」観点による東洋的なるものと西洋的なるものの合体を目指しており、開港・貿易推進派となっていた。攘夷派の朝廷に対して、攘夷主義からの脱却を訓育しようとし、幕府には公武一致の開港精神で日本を統一するよう東奔西走した。こうした情熱や理念が理解されることのないまま「西洋かぶれ」という印象を持たれた。
1864(元治元年)7.11日、京都木屋町痛りで、尊王攘夷派の前田伊右衛門、河上彦斎等刺客に襲われ、終に馬上帰らぬ人となった(享年54歳)。佐久間象山遭難之碑(京都市中京区木屋町御池上ル)、佐久間象山寓居跡(京都市中京区木屋町御池下ル)が建てられている。
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