徳川幕府は、身分制を肯定し上下秩序を重んじる朱子学を精神的道徳規範とし、為政者の公認学問としていた。 そのため一般庶民大衆と同じ目線で物事を見る革新的傾向の強い陽明学はむしろ警戒され公式には受け入れられなかった。
しかし直弟子の熊沢蕃山はじめ 後には佐藤一斎、大塩平八郎、佐久間象山、吉田松陰、橋本左内、西郷隆盛など陽明学の流れをくむ逸材が輩出した。
藤樹の教えのエキスは 「心即理」 を出発点とし、「致良知」 「知行合一」 を説くものである。 その講堂藤樹書院のパンフレットにはこう解説されている。
「人は誰でも良知という美しい心を持って生まれてきているが、多くの人は醜いいろいろの欲望のために つい美しい良知を曇らせる。 人間は自分のいろいろな欲に打ち勝って、この良知を鏡のように磨き、何事もその良知の指図に従うようにしなければならない」。 「致良知」を王陽明は「良知を致す」と読んだが、藤樹は「良知に致(至)る」と読ませている。
この教えこそが藤樹教育思想の核心とされている。彼の学統には、熊沢蕃山、渕岡山等がいる。また、大塩平八郎、吉田松陰など異才も生まれている。
藤樹思想の特質は、すべての存在根拠となるのは孝であるとしたことにある。徳は、孔子以来、儒教で重視していた徳目であったが、藤樹は、孝の心の本質とは愛敬、つまり、まごころをもって人に親しんで、目上の者をうやまい、目下の者を決してあなどらない、と更に踏み込んで解釈し、これは、親子関係にとどまらず、主従関係や夫婦関係、兄弟や友達といったような人間関係を成立させるものであり、その孝の心は、時(時期)と処(場所)と位(身分)を考慮して実践すべきだと具体化させた。
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