中江藤樹(なかえとうじゅ)(1608〜1648)

 (最新見直し2007.3.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝


【履歴】
 中江藤樹(なかえとうじゅ)は1608.4.21日(慶長13年3月7日) - 1648(慶安元年8月25日)の人で、近江国滋賀県)出身の江戸時代初期のわが国の陽明学の開祖と云われる陽明学者。近江聖人と称えられた。は原(はじめ)、は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した。
 1608.4.21日(慶長13年3月7日)、近江国(滋賀県安曇川)の生まれ。農業中江吉次の長男として誕生。

 9歳の時、伯耆米子藩主加藤家の150石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴く。

 1617(元和2)年、米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。

 1622(元和8)年、祖父が死去し、家督100石を相続する。

 1634(寛永11)年、27歳の時、母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。そこで、私塾を開く。

 1637(寛永14)年、伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤があったことから、門下生から藤樹と呼ばれるようになる。塾の名は、藤樹書院という。

 はじめ朱子学を学んだが、37歳の時、『王陽明全書』に出逢って共鳴、陽明学に転向した。格物致知論を究明するようになる。孝を重んじ、民衆の教化につとめた。かれはすぐれた活動によって「近江聖人」と尊敬され、藤樹書院という塾を開いて子弟の教育にあたった。 地元では「近江聖人」と呼び崇められ、その遺跡はほぼ完全に保存整備されている。中江藤樹の著書には『翁問答』、『大学解』などがある。
中江藤樹は江戸初期の儒学者であり 当初学んだのは当然のことながら「論語」・「大学」・「中庸」・「孟子」の四書をベースにした朱子学であった。 その後「王陽明」に触発され朱子学の限界と誤りを感じ、目を転じて陽明学に傾倒し深く入り込む事になった。藤樹は陽明学の思考を深め実践するため、27歳で武士の身分を捨て生まれ故郷に帰って、地元の庶民大衆を相手に陽明学を解り易く教え普及せしめる事に生涯を捧げた。

 1646(正保3)年、妻・久が死去。翌、1647(正保4)年、近江大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚する。

  1648(慶安元)年、藤樹が41歳で亡くなる半年前に郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商工人まで広く浸透し「近江聖人」と呼ばれた。代表的な門人として熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔などがいる。

 身辺随想

【思想】
 徳川幕府は、身分制を肯定し上下秩序を重んじる朱子学を精神的道徳規範とし、為政者の公認学問としていた。 そのため一般庶民大衆と同じ目線で物事を見る革新的傾向の強い陽明学はむしろ警戒され公式には受け入れられなかった。 しかし直弟子の熊沢蕃山はじめ 後には佐藤一斎、大塩平八郎、佐久間象山、吉田松陰、橋本左内、西郷隆盛など陽明学の流れをくむ逸材が輩出した。

 藤樹の教えのエキスは 「心即理」 を出発点とし、「致良知」 「知行合一」 を説くものである。 その講堂藤樹書院のパンフレットにはこう解説されている。 「人は誰でも良知という美しい心を持って生まれてきているが、多くの人は醜いいろいろの欲望のために つい美しい良知を曇らせる。 人間は自分のいろいろな欲に打ち勝って、この良知を鏡のように磨き、何事もその良知の指図に従うようにしなければならない」。 「致良知」を王陽明は「良知を致す」と読んだが、藤樹は「良知に致(至)る」と読ませている。 この教えこそが藤樹教育思想の核心とされている。彼の学統には、熊沢蕃山、渕岡山等がいる。また、大塩平八郎、吉田松陰など異才も生まれている。

 藤樹思想の特質は、すべての存在根拠となるのは孝であるとしたことにある。徳は、孔子以来、儒教で重視していた徳目であったが、藤樹は、孝の心の本質とは愛敬、つまり、まごころをもって人に親しんで、目上の者をうやまい、目下の者を決してあなどらない、と更に踏み込んで解釈し、これは、親子関係にとどまらず、主従関係や夫婦関係、兄弟や友達といったような人間関係を成立させるものであり、その孝の心は、時(時期)と処(場所)と位(身分)を考慮して実践すべきだと具体化させた。

【名言集】
 

著書
 大学啓蒙(1628年)、持敬図説(1638年)、原人(1638年)、論語郷党啓蒙翼伝(1639年)、翁問答(1640年)、孝経啓蒙(1642年)、小医南針(1643年)、神方奇術(1644年)、鏡草(1647年)、大学考(1647年)、大学解(1647年)、中庸解(1647年)、中庸続解(1647年)。





(私論.私見)