河井継之助

 (最新見直し2010.09.22日)

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 ここで、河井継之助の人となりを確認する。「ウィキペディア河井継之助」、「河井継之助」その他を参照する。

 2010.09.22日再編集 れんだいこ拝


【履歴総評】

 河井 継之助(かわい つぐのすけ、正字体:繼之助)は、1827(文政10).1.27日(1.1日) -1868(慶応4).10.1日(8.16日)を生き抜いた幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣である。最終的に長岡藩家老を務める。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぐのすけ」とも「つぎのすけ」とも読まれる。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが」。  

 国史大辞典等では「つぐのすけ」で記載されており、この読み方に親しんでいる者も多くいるが、明治31年発行の戸川残花著「少年読本第三篇 河井継之助」(博文館)では「つぎのすけ」とルビがふられており、河井家の遺族や地元・長岡では「つぎのすけ」で統一されている。


【出自と家系】
 1827(文政10)年元旦、長岡城下同心町の河井代右衛門秋紀と貞との長子として生まれた。

 河井家の出自は次の通り。河井家の先祖は、もともと近江国膳所藩本多氏の家臣である。藩主の娘が初代長岡藩主・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。はじめに兄・河井清左衛門の家系は、その総領の義左衛門が近習・目付と班を進め大組入りした。戊辰戦争で銃卒隊長であった河井平吉は清左衛門の分家筋に当たる。

 弟の忠右衛門は、はじめ祐筆役となり、その後郡奉行となった。この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、宝永4年(1707年)に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。その後、勘定頭、新潟奉行を歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。継之助の父で郡奉行や新潟奉行などを歴任した4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされ120石となったと『河井継之助傳』にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、良寛とも親交があった。

 以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年(1865年)に郡奉行に抜擢されて藩政改革を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる。


【生長期】
 幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。12、3歳の頃、それぞれに師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に負えないと厄介払いされるほどであった。

 15才で、藩校の嵩徳舘に入学。藩校で儒学を学ぶ。長岡に初めて体系的な陽明学を教えた人と云われている高野松陰は、朱子学を表看板にしつつも陽明学も教えた。その影響で陽明学に傾倒していった。幼児より聡明にして豪胆、神童と云われた。文武に秀で陽明学を修め、水練、馬術、槍術に長じ特に砲術の研究を深めた。

 1842(天保13)年、元服、秋義を名乗る。信堅系の河井家の当主は、元服すると代々通称として「代右衛門」を世襲したが、継之助は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。

 1843(天保14)年、17歳の時、屋敷の庭に王陽明を祀り生け贄の鶏を割き、補国を任とすべきこと即ち藩を支える名臣になる旨の立志を誓ったと言われている。継之助のルーツは陽明学にあってよいと断言できるエピソードの一つである。幼少の頃から英才をうたわれ、長岡の青年時代の写本が残されているが、佐藤一斎「言志録」は高野松陰から借りたものだと伝えられている。その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。  

 1850(嘉永3)年春、24歳の時、梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹すが(16歳)と結婚する。

 継之助は青年時代から主に日本・中国(宋・明時代)の儒学者・哲学者の語録や明・清時代の奏議書の類の本をよく写本した。また、読書法について、後に鵜殿団次郎とそのあり方について議論した際、多読を良しとする鵜殿に対し、継之助は精読を主張したという。こうした書物に対する姿勢は後の遊学の際でも一貫していた。さらにこの時期には小山良運(130石)や花輪馨之進(200石、のち奉行本役)、三間市之進(350石、のち奉行役加判)、三島億二郎(37石、藩校助教授、のち目付格、代官)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通じ合わせていた。このグループは周囲からは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれていたらしく、慶応期藩政改革の際には村松忠治右衛門(70石、安政期藩政改革の主導者、のち奉行格、勘定頭・郡奉行ほか諸奉行兼帯)や植田十兵衛(200石、のち郡奉行・町奉行兼帯)らとともに次第に要職に就き、河井を中心とする改革推進派の主要メンバーとなった。


【学問期】

 1852(嘉永5)年、継之助26歳の時。秋頃、継之助は江戸に遊学する。江戸にはすでに三島や小林虎三郎らが佐久間象山の許に遊学に来ていた。継之助はまず、三島を仲介に古賀謹一郎(茶渓)の紹介で斎藤拙堂の門をくぐった。また、同じ頃に象山の塾にも通い始めた。継之助は遊学中、三島や小林らと江戸の町を見物したり酒を飲んだりと自適の日々を送った。当時、大坂の適塾にいた小山は小林の手紙でそんな3人の様子を知り、たいへん羨ましいと長岡の知人への手紙の中で述べている。

 佐藤一斎のもとで学び、塾頭も勤めた。斎藤拙堂、古賀謹一郎、佐久間象山、山田方谷と親交があった。遊学中は放蕩を尽くし、学問に頓着はしなかったという。

 1853(嘉永6)年、継之助は斎藤の許を去り、古賀の久敬舎に入門し、寄宿する。斎藤の塾を去ったのは、そこには自分を高める会心の書がなかったためと言われる。一方、象山の塾には依然通い続け、砲術の教えを受けていた。ただし継之助は象山の人柄は好きではなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。久敬舎では講義はほとんど受けず、書庫で巡りあった『李忠定公集』を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。そのため継之助は門人たちからは「偏狭・固陋」な人物と思われた。

 同年、ペリーが来航する。この事件で継之助に転機が訪れる。当時老中であった藩主牧野忠雅は三島を黒船の偵察に派遣する一方、家臣らに対し広く意見を求めた。それを受け、継之助、三島、小林らはそれぞれ建言書を提出する。三島と小林はその内容が忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。反対に継之助の建言は藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付役評定随役に任じられ帰藩する。そのため、『李忠定公集』全巻を写し終え題字を認めてもらうと、継之助は久敬舎を去り長岡へ戻った。但し、藩政の刷新を企図し帰藩した継之助であったが、藩主独断での人事に反感を持った家老など藩上層部の風当たりが強く、藩閥の頑迷な封建体制は新参者を拒み、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。この固陋な有様に憤慨した継之助は藩主に対し門閥弾劾の建言書を提出する。その後、とくに何もないままの日々を過ごす。

 安政元年、河井継之助は江戸遊学を終え、長岡藩に帰藩する。評定方随役に任ぜられての帰藩であった。したが、国家老の山本勘右衛門らにその就職を拒まれる。理由は、継之助の任命について国家老に何の相談もなく、若輩が重職に任命されるはずがない、というものであった。結局、継之助は任務を与えられず、1~2ヵ月ほどで辞職する。その際、藩主に改革書を提出し、藩内に継之助の心意気が知れ渡ることとなる。

 1855(安政2)年、忠雅の世子・牧野忠恭のお国入りにあたり、継之助は御前にて経史の講義を行うよう命じられる。しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」と述べ、御聴覧を断った。藩庁からお叱りを受ける。御聴覧を断り、叱りを受けた継之助は、しばらく不遇な時代を過ごすことになる。この間、射撃の練習に打ち込んでその腕を上げる一方、三島とともに東北へ遊歴した。この頃、「武士の家を弓馬の家というが、今後は砲艦の家といった方がよかろう」と次の時代を見据えたことを語っている。
 
 1855(安政2)年、藩主の養嗣子忠恭の学問指南役の御聴覧に任命されるもこれを辞退する。

 1857(安政4)年、継之助の父が隠居したため、継之助は河井家の家督を相続する。外様吟味役に任命。

 1858(安政5)年、12.28日、江戸へ再度遊学のため長岡を発つ。雪の碓氷峠を越え、江戸に出る。雪深い時期に躊躇せずに峠を越えて行ったことになる。27歳で江戸に出て開国論者の佐久間象山、斎藤拙堂に経学、兵学などを学ぶ。

 安政6年、継之助の第二の転機が訪れる。再度江戸留学に赴いた。古賀の久敬舎に再入学。この遊学中には備中松山藩宰相の山田方谷を訪ね、方谷に師事し藩政改革を学んだ。さらに足を延ばして四国・九州に遊学し長崎にも遊歴する。

 文久3年、継之助の第三の転機が訪れる。藩主忠恭が京都所司代に任じられた際、公用人として京都に入った。当時の京都は尊王攘夷の乱暴狼藉が極みに達しており、この時の勤王家の印象は継之助の今後に大きく影響されていくことになる。小千谷会談決裂も岩村精一郎にこの当時の勤王家の影を見たのではないだろうか。

 1858(安政5)年、家督をついで外様吟味役になると、さっそく宮路村での争いを解決へと導いた。

 1859(安政6)年、32歳の時。正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。6月、さらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。山田方谷とは、備中松山藩(現岡山県高梁市)で藩務を執り、赤字にあえいでいた松山藩の財政を立て直した人物で、その藩政改革は、陽明学をその中心にすえて、文武奨励、産業振興、負債整理、紙幣刷新、士民撫育、上下節約等を行なった。山田方谷は、最初は継之助の入門を断ったが、「先生の作用を学ばんと欲する者、区々経を質し、文を問わんとするにはあらず」と継之助が言ったため、許可された。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度に出ていた継之助も山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。

 山田の許で修養に励む間、佐賀、長崎、熊本も訪れ、知見を広める。義兄の梛野嘉兵衛に宛てた手紙の中で、「天下の形勢は遅かれ早かれ大変動する。攘夷などと唱えるものは愚昧で、隣国との交際は大切にしなければならない。長岡藩は小藩だが、藩政をよく治めて実力を養うことが大事だ。」と述べている。

 翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。

 この継之助の西国遊学の際に書かれた旅日記が有名な「塵壺(ちりつぼ)」で、各地の民情視察や、山田方谷のもとで学習した記録、四国・九州を巡った紀行文といった中身になっている。

 1860(万延元)年、継之助は山田方谷のもとを去り、江戸へ戻る。方谷に対して、継之助は正座をして幾度も頭を下げ、別れを告げたといわれている。横浜でファブルブランドやエドワード・スネルらと懇意になる。

 1862(文久2)年、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰を命じられる。

 1863(文久3)年正月、上洛し京都詰となる。継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。9月、忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は公用人に命じられ江戸詰となると、忠恭に老中辞任を進言する。その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、結局この責任をとるかたちで公用人を辞し、帰藩した。


【藩政改革】
 1865(慶応元)年、継之助39歳の時。非凡な才能が認められ外様吟味役に挙げられ、藩政改革に乗り出し、同10月、郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。山中騒動の解決を治め、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、村政・町政、行政機構、兵制の改革を断行する(詳細は「越後長岡藩の慶応改革」)。

 1866(慶応2)年、継之助は累進し町奉行を兼帯する。

 1867(慶応3).3月、評定役・寄会組になる。4月、奉行職になる。小諸騒動を解決。但し翌年11月に再燃。同年11月には家老職となり、有能な人材を抜擢、三間市之進、花輪馨之進、植田十兵衛、村松治右衛門らを藩首脳部に上げ、着々と藩政改革の実を上げた。

【幕末政局の対応】
 その最中、将軍慶喜は大政を奉還。長岡藩は時代の渦に巻き込まれることとなる。

 1867(慶応3).10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。12月、藩主牧野忠訓と共に上洛、朝廷に建言書提出。 慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古を発し、幕府などを廃止する。一方長岡藩では、藩主・忠恭は隠居し牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。

 1868(慶応4).1.3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却。その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にスネル兄弟などからガトリング砲やフランス製の2000挺の最新式銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。ちなみにガトリング砲は当時日本に3つしかなく、そのうち2つを継之助が持っていた。


【北陸戦争】

 4月、家老。閏4月に家老上席、軍事総督に任命される。家老上席となり政務を担当。継之助はこの間大いに藩政を改革し、藩財政を確立するとともに兵制を改革するなど長岡藩をして奥羽の雄藩としての基礎を作り上げた。遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。

 戊辰の役は、鳥羽伏見の戦いから、勝海舟と西郷隆盛の江戸開城、彰義隊討伐、会津征伐、そして函館五稜郭の戦いと進んで行く。官軍が最も苦戦を強いられたのは北越戦争と呼ばれる徳川譜代の越後長岡藩との戦いだった。一般的には西国諸藩が、早くから西洋技術に目覚め、軍備も洋式化していたにもかかわらず、東国諸藩は、武備は戦国時代から大きくは変わらず、慌てて装備した洋式銃も多くは旧式銃を買わされて結局のところ、軍事力に大差がついた戦いになっていた。そんな中で、新式銃を装備し砲兵も持ち、さらにはガトリング・ガンと呼ばれる機関銃まで長岡藩は装備していた。長岡公国の創設に奔走し、貨殖の才を発揮し藩庫に莫大な余剰金を蓄えた。

 新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥出身の家老首座連綿・稲垣平助、長岡藩で藩主・牧野氏の先祖と兄弟分の契りを結んでいたとされる重臣・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。こうした中で継之助は、まず自説を曲げずに継之助にことごとく刃向かう反河井派の急先鋒・安田鉚蔵を藩命として永蟄居となした。そして、恭順派の拠点となっていた長岡藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えて武装中立を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。

 5月2日(6月21日)、河井は小千谷の新政府軍本陣に乗り込み、付近の慈眼寺において新政府軍監だった土佐の岩村精一郎(のちの岩村高俊)と会談した。河井は奥羽への侵攻停止を訴えたが、成り行きで新政府軍の軍監になった岩村に河井の意図が理解できるわけもなく、また岩村が河井を諸藩によくいる我が身がかわいい戦嫌いなだけの門閥家老だと勘違いしたこともあり、降伏して会津藩討伐の先鋒にならなければ認めないという新政府の要求をただ突きつけるだけであった。交渉はわずか30分で決裂。

 継之助は長州の山縣狂介か薩摩の黒田了介を交渉相手に望んでいたが、若輩である岩村が出てきたことが計算外だった。継之助の交渉相手としては岩村の器は小さすぎた(岩村も後に自伝で、この対応が不適切だったことを認めている)。一方新政府軍にとっても、岩村が継之助を捕縛せずにそのまま帰してしまったのが大失敗だった。これにより長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する。

 小千谷談判は、江戸城を無血開城に導いた幕臣の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛との会談と対比されることが多い。最終判断を誤ると結果が大きく変わってしまう典型的な例となっている。

 
この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な世直し一揆が発生する。5月20日(7月9日)に発生した吉田村・太田村(現在の燕市)を始め、巻村など領内全域に広がり一時は7,000人規模となった。長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して6月26日(8月14日)までに全て鎮圧した。この鎮圧のために長岡藩は一時兵力の多くを割くこととなり、新政府軍との戦いにも支障を来たした上、多くの領民が処罰され長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなった(『新潟県史』通史編6)。

 長岡藩は7万4千石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、家老首座連綿の稲垣平助茂光は交戦状態となる直前に出奔。家老次座連綿の山本帯刀や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法御三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍に恭順を主張するも藩命に従った。上級家臣団のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督。但し先法御三家は筋目(家柄)により継之助の命令・支配を受ける謂われはなかったので、藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる。

 継之助の長岡慶応改革によっても、先法御三家の組織上・軍制上の特権を壊せたとする史料は存在しない。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。その後6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。これは軍事史に残る快挙であった。

 ところがその奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩にはもはやこの新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていく。

 継之助は会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。しかし、この時すでに継之助の傷は手遅れな状態にあった。継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく庄内藩と行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託した。また外山修造には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。

 継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。塩沢村では不安定な状態が続いた。15日(30日)の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥った。そして、再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃、破傷風により死去した。享年42。


【その後の流動】

 継之助の葬式は会津城下にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下に埋葬される。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。

 戦後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄凉寺に再び埋葬された。しかしその後、継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として継之助を恨む者たちによって、何度も倒された。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助がすでに戦没していたため、政府より死一等を免じる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(河井の養女の夫)に新知100石を与えて河井の家族を扶養させた。

 継之助の父母、妻すがは新政府軍に捕らえられ、高田の牢屋に入れられる。 8ヶ月後にようやく牢から出て、父母と共に会津へ行き、継之助の遺骨を持ち帰り、長岡の菩提寺の栄涼寺へ弔う。しかしながら長岡の人々は、継之助を戦争犯罪人として許さず、家族にまで中傷と罵声を浴びせる。中傷は収まらずに、翌年も更にその翌年も、続いたと言われている。そのような中で、父の代右衛門は、精神的に苦しみながら死んでいく。しかしながら、それでも中傷や嫌がらせは止むことがなかったと伝えられており、ついに、すがも母を連れて明治5年に、長岡を離れ北海道の江別へ移る。

 雪明かり 吐く息つらし わが病

 これは、すがが病の床で詠んだ歌です。病気は肺結核でした。明治27年、河井すがは、北海道で61才の生涯を閉じる。明治22年に明治政府は、戊辰戦争で賊軍と呼ばれた多くの獅子たちに恩赦を与え、継之助の賊軍の汚名は消え去ったが、すがは長岡へ帰ろうとはしなかった。その遺骨はしばらくして、長岡へ移し、菩提寺の栄涼寺に継之助と共にある。

 明治16年(1883年)に河井家は再興を許され、森の子・茂樹を養嗣子として迎え入れた。

 明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵で知られる小林虎三郎は親類である。小林の人物像が語られる時においては河井は好戦的な人物として描かれることも少なくないが、薩長の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」としぶしぶ開戦を支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことが伺える。北越戦争においても、開戦は藩としての自立を確保するための自衛的な意味合いが強かった。



【名言集】
  人間と言ふものは棺桶(かんおけ)の中に入れられて、上から蓋(ふた)をされ釘を打たれ、土の中に埋められて、それからの心でなければ何の役に立たぬ。

【参考文献、ネットリンク集】
 塵壺 継之助自筆の旅日記「河井継之助の妻「すが」の証言」島宏著 柏書房
 司馬遼太郎「峠」のなかの陽明学
 『河井継之助伝』 今泉鐸次郎著。初版は明治43年(1910年)、博文館。昭和6年(1931年)に目黒書店から増補改版。昭和55年(1980年)および平成8年(1996年)には象山社から増補版の再版が刊行。

 『少年読本第三編 河井継之助』(戸川残花著、博文館、1899年)

  • 『北越戊辰戦争と河井継之助』(井上一次 著、イデア書院、1928年)
  • 『河井継之助』(「人物研究叢刊第17」、神村実 著、金鶏学院、1933年)
  • 『英雄と学問 河井継之助とその学風』(「師友選書第12」、安岡正篤 述、明徳出版社、1957年)
  • 『峠』司馬遼太郎 著、新潮社、1968年)
  • 『河井継之助のすべて』(安藤英男 編、新人物往来社、1981年)
  • 『河井継之助余聞』(緑川玄三 著、野島出版、1984年)
  • 『河井継之助写真集』(安藤英男 著、横村克宏 写真、新人物往来社、1986年)
  • 『愛憎 河井継之助』(中島欣也著、恒文社、1986年)
  • 『河井継之助の生涯』(安藤英男 著、新人物往来社、1987年)
  • 『武士(おとこ)の紋章』(池波正太郎 著、新人物往来社、1990年)
  • 『良知の人河井継之助 義に生き義に死なん』(石原和昌 著、日本経済評論社、1993年)
  • 『日本を創った先覚者たち ― 井伊直弼・小栗忠順・河井継之助』(新井喜美夫 著、総合法令、1994年)
  • 『小説河井継之助 武装中立の夢は永遠に』(童門冬二 著、東洋経済新報社、1994年)
  • 『北越の竜河井継之助』(岳真也 著、角川書店、1995年)
  • 『河井継之助 薩長に挑んだ男』(『歴史読本』第40巻第7号「シリーズ人物検証 7」、新人物往来社、1995年)
  • 『北越蒼龍伝 ― 河井継之助の生涯』(菅蒼一郎 著、日本図書刊行会、1997年)
  • 『小説 幕末輸送隊始末 ― 悲憤の英将 河井継之助』(竹田十岐生 著、新風舎、1997年)
  • 『河井継之助』(星亮一 著、成美文庫、1997年)
  • 『歴史現場からわかる河井継之助の真実』(外川淳 著、東洋経済新報社、1998年)
  • 『河井継之助 立身は孝の終りと申し候』(稲川明雄 著、恒文社、1999年)
  • 『河井継之助 信念を貫いた幕末の俊英』(芝豪 著、PHP文庫・PHP研究所、1999年)
  • 『河井継之助 吏に生きた男』(安藤哲也 著、新潟日報事業社、2000年)
  • 『河井継之助と明治維新』(太田修 著、新潟日報事業社、2003年)
  • 『怨念の系譜 河井継之助、山本五十六、そして田中角栄』(早坂茂三 著、集英社、2003年)
  • 『龍虎会談 戊辰、長岡戦争の反省を語る』(山崎宗彌 著、2004年)
  • その時歴史が動いた コミック版 志士たちの幕末編 』「北越の蒼龍“明治”に屈せず-河井継之助地方自立への闘い」(井上大助 作画、ホーム社、2009年)

 論文 継之助について考察した主な論文を挙げた。幕末期の長岡藩関係の論文などは含まない。

  • 『幕末期における政治主体と政治意識 ― 河井継之助の政治思想について」(安藤哲也、1976年)
  • 『河井継之助生誕の地を求めて ― 越後長岡藩における河井家の位置」(小川和也、『歴史読本』48巻1号、2003年)
  • 『鈴木無隠の「河井継之助言行録」について』(吉田公平、『東洋大学中国哲学文学科紀要』14号、2006年
  • 『長岡郷土史』所収の該当論文(長岡郷土史研究会 編、第1~44号、1960~2007年)





(私論.私見)