別章【Qアノン考】 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).3.16日
(れんだいこのショートメッセージ) |
思想も哲学も宗教もロゴス的に語られることにより「学」となるが、本質的に感性的なものであると云えばお叱りを受けるだろうか。だがしかし、れんだいこはそのように思っている。では、なぜ感性的なのか、それを解いてみる。 ロゴスはつまり言葉はつまり知はつまり理論は、体系とならざるを得ない。なぜか? それは発展していくからである。その場合、まず基礎を据えその上に次々と接ぎ木していくことになる。それはこの方法によってしか深化為しえないからである。ところが、そういう大事な基礎を据えるときに、その打ったてにおいて、何と非合理な投企を余儀なくされているのか。詳細は省くが、れんだいこは「学」の基礎にある投企性に注目している。ちなみに、基礎が「学」的に完成されることは永遠にないだろうと思っている。 どういう意味かをもう少し説明してみる。我々が論を立てる時、その論は任意な或る思考のレールに沿って組み立てている。レールが長ければ長いほど知の体系がそれだけ繁茂しているということである。だがしかし、そのレールはそも敷かれていたものを継承しているのであり、出発点のレールの敷き方が問われるということはほぼない。もしレールが間違って敷設されていたらどうするのか。誰もそのことには触れない。しかしそういうことは良くあることだ。 実際には、我々は生活上において知の世話にばかりなってはいない。いわば本能的いわば情念的なものとのバランスで船頭が櫓を漕ぐようにして処世しているから、そういう知の体系の悪影響から免れることができている。だから、通常人の場合は敢えて思想や哲学や宗教の為に身を損なうことはない。狂信とは、こういう場合に度が過ぎて思想や哲学や宗教に没化することを云う。 であるならば、思想や哲学や宗教は不要なのか、と云えばそれがそうでもない。人間の頭脳がそれを第二次本能的に紡ぎ出すのであり、知は体系に向かうことを好む故に致し方ない。そしてその威力も絶大なものがある。そこでれんだいこは思う。このレールを歩み走ればよい。だがしかし、如何に精緻に論が構築されていようとも、そもそもの打ったてにおいて「未だ不十分な基礎」の上から出発しているのだという弁えが欲しいということである。補足すれば、基礎のように大事なものほど「永遠に不十分であり続けるだろう」という認識が欲しいということだ。 このことさえ確認することができるなら、人類史上に現われた様々な思想、哲学、宗教の門を叩くにひるむ理由はなかろう。このことを弁えない狂信家は傍迷惑である。典型的なのがかのポア理論であるが、始末に悪いことに己を除いて他の者をポアしにかかることである。まずもつてそういう当人こそがポアされれば良いのに。 2002.9.23日 れんだいこ拝 |
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Qアノン考 |
(私論.私見)