地下鉄サリン事件の実行犯の刑期考

更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.6日 

 2021.3.6日、(青沼 陽一郎/文春新書)オウム裁判で下された「誰も殺していない男」の死刑判決 その運命の分かれ道」。

 1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与した信者が次々と逮捕された。 やがて起訴された者の中には、ひとりも殺していないのに死刑判決が下された者もいた。ジャーナリストの青沼陽一郎氏が記録した判決に至るまでを、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)
 横山真人の場合


 ここからは、ひとりも殺していない死刑囚の話をしたいと思う。彼は、現実的に誰一人も殺してない。だけど、死刑になったのだ。その男の名を、横山真人といった。地下鉄サリン事件で残る一路線、丸ノ内線荻窪発池袋方面往き車内でサリンを撒いた人物だった。ところが、この路線では、ひとりも死者が出ていないのだ。それどころか、液状のサリン入り袋2つを、傘の先で突いて漏出気化させるはずが、気の弱さが影響したのか、はたまた実行能力に欠けていたのか、1袋しか穴を開けていなかった。散布量がはじめから違ったのだ。しかも、残る1袋は無傷のまま警察によって押収できたものだから、犯行に使われたサリンの成分分析のサンプルとしては最高のものが提供されたことになった。いわば、事件の真相究明には、多大な貢献をしたことになる。ところが、彼は死刑になった。 わかりやすく、他の地下鉄サリン事件の実行犯とその功罪を較べてみれば、こういうことになる。

林泰男 日比谷線(北千住─中目黒方面) 死者8名 死刑
豊田亨 日比谷線(中目黒─東武動物公園方面) 死者1名 死刑
廣瀬健一 丸ノ内線(池袋─荻窪方面) 死者1名 死刑
横山真人 丸ノ内線(荻窪─池袋方面) 死者0名 死刑
林郁夫 千代田線(我孫子─代々木上原方面) 死者2名 無期懲役
 
 2人を殺した林郁夫が無期懲役になって、1人も殺していない横山真人が死刑になる。どこか、不自然ではないか?

 誰も殺していない男と2人殺した男 

 地下鉄サリン事件は、いうなれば東京を舞台にした同時多発テロだった。5人の実行犯が同時に行動を起こして、当初の目的が遂行される。彼らを乗降駅まで送迎した車の運転手役も、重要な役割を担った。1人が欠けても、計画は結実しない。だから、事件に参画したものは、同じ責任を負う。計画立案した者、化学兵器サリンを作った者、すべてが「共謀共同正犯」として、5路線で12人が死亡したことに、みんな同じ刑事責任を負うことになる。ただ、実際にサリンを撒いた実行役と、彼らを送迎した運転手役には、明らかに役割の違いがあるとして、同一チームのペアを組んだにも拘わらず、運転手役には、他に死刑に相当する事犯がない限り、裁判所は無期懲役の判決を言い渡していた。それで、実行役だった横山には、担当路線で殺した人間が0名であるにも拘わらず、死刑が下ったのだ。彼が、もしもサリンの袋を突くところまでいかず、そのまま逃げ出していたなら、死刑にはならなかったかもしれない。ところが、林郁夫は死刑を免れている。12人の死亡に共同の責任を負うはずが、しかも、自分の担当路線では直接2人も殺しているというのに。その理由は、繰り返しになるが、同事件における「自首」だった。地下鉄サリン事件どころか、最初は、他人の自転車を勝手に乗り回していた“自転車泥棒”の容疑で身柄を拘束され、その後、指名手配中のオウム信者の逃走を手助けし、匿った容疑で逮捕されている。そのまったくの別件の取調中に、捜査当局ですら予想もしていなかった一言、「私が地下鉄にサリンを撒きました」と、零したことから、事態は一変。事件の全容が明らかとなり、実行犯、運転手から、麻原の逮捕にまでつながっている。取り調べ段階から知り得る限りの事実関係、犯罪事実を積極的に供述し、公判においても躊躇することなく証言を繰り返した。もちろん恭順的な態度で。その姿勢と貢献を、判決はもとより、捜査当局が高く評価。もはや検察の論告において「無期懲役」が求刑されていた。

 大きな分かれ道になった「逮捕された順番と時期」

 それならば、と強く主張したのが、豊田と廣瀬の弁護人たちだった。豊田や廣瀬も、逮捕された直後から、素直に取り調べに応じ、公判でも罪を認めて、共犯者の公判でも積極的に証言を繰り返してきた。その反省の姿勢は、林郁夫となんら変わるところはない。あと付けになるが、現実の判決の中にだって、彼らの姿勢は高く評価されている。ただ、違うとすれば逮捕された順番と時期に他ならなかった。自転車泥棒で林郁夫が逮捕されていなければ、林よりも先に、豊田が、あるいは廣瀬が別件で逮捕されていれば、きっと彼らだって素直に地下鉄サリン事件の自供をはじめたに違いない。彼らにこそ、自首が認められることになったのではなかったのか。弁護人は、そう主張して死刑回避を求めたのだ。他よりも1袋多い3袋を破ってサリンをまき散らし、8人を殺害した林泰男にだって同じことが言えた。たまたま、捜査の網をかいくぐって逃走を長く続けたとはいえ(もっとも、自転車泥棒で捕まるようなヘマはしなかった)、判決では「被告人の資質ないし人間性それ自体を取り立てて非難することはできない」とまで断じているのだ。順番が違えば、立場も変わっていたかもしれない。

 しかし、あくまでそれは、“たられば”の仮定の話。仮に、豊田、廣瀬が先に捜査当局に身柄を拘束されたとして、本当に彼らが自供をはじめていたかは、誰にもわからない。教団の教えには強固なものがある。指示されていた通りに、黙秘を貫いていたかもしれない。2人が供述に至ったのだって、実行犯であることが捕まった時点でばれていたから、観念したのかもしれなかった。想像を判決に反映させるわけにはいかない。現実として、間抜けなことに自転車泥棒で捕まって、最初に事件を暴露した林郁夫が、美味しいところを持っていった。早い者勝ちだったのだ。それでも、共謀共同正犯というのであれば、林もまた12人全員の罪を背負うべきである。12人を殺しておいて、自首したからと、死刑回避もないだろう。だったら、量刑均等の立場から、林も死刑、あるいは全員が無期懲役になってもおかしくはあるまい。反省・悔悟の情ならば、林に勝るとも劣らないのだから……。まして、豊田、廣瀬が担当の路線で殺したのは、それぞれ1人ずつだった。林郁夫の2名よりも少ない。それどころか、横山は自分の撒いたサリンで1人も殺してはいないのだ。

 警察官からの暴行が?


 豊田と廣瀬、それに横山もいっしょに、最初は地下鉄サリン事件で起訴された。これに杉本繁郎が加わっていた。だから、本来ならば、4人が同じ法廷で、同時に、同じ裁判官のもとで裁かれるはずだった。ところが、罪を認める豊田、廣瀬たちとは別に、横山は事実関係を争うことになる。そこで、裁判は分離され、裁判長は同じでも、公判審理はまったく別に進むことになった。

 横山は、傷害を主張したのだ。

 だって、地下鉄サリン事件の殺人罪で起訴されたとはいえ、彼は本当に1人も殺していなかったのだから。しかも、2袋のうちの1つは破ってさえもいない。ただ、その穴の空いた1袋のサリンを吸った乗客は、それで身体の異常を訴え、傷ついている。だから、傷害に留まる。これを殺人というのはおかしい、というのだ。その上、公判では、供述調書作成の違法性を争った。取り調べ中に警察官から暴行を受けた、と主張したのだ。

 地下鉄サリン事件で逮捕された直後から、東京荏原警察署の取調室で3人の警察官から取り調べを受けた。そこで横山は「弁護士が来るまで黙秘します」と告げる。すると、警察官の1人が「ふざけた態度をとるなよ」とドスの利いた声で罵倒をはじめ、丸めた新聞紙と透明プラスチックの30㎝定規で、胸、頭、肩を叩きはじめたという。「やわらかいたたき方ではなく、尖ったところでチョップのように、みぞおちの部分を。頭の素肌の出ているところは、平たい部分で……」前頭部の禿げ上がった横山は、人のよさそうな眼鏡をかけた中年男性に見えるのだが、そのしゃべり方は小さな声でぼそぼそと、まるで何かに怯える小動物のように見えた。

 「口の中から歯が3本出てきました」


 それから、横山の証言によると、取調官に自分の座った椅子を横から蹴られ、壁に叩き付けられた、そのときに「人殺し!」と怒鳴られて、定規、新聞で叩かれ、取り調べの最後は立たされたままだったという。
その翌日は、厳しい口調でやはり「人殺し!」と怒鳴りながら、正面に座った取調官が机を前に押し出して、壁の間に身体を押し挟むようにした。その時に、机の脚が右足の親指にあたって激痛が走り、見ると内出血して爪が一部剥がれていた。さらにその翌日。座っていたら、いきなり胸ぐらを掴まれ、強い力で持ち上げられる。「私も立ち上がるかたちになって、胸ぐらを掴まれて、壁に押し付けられることになりました。耳が痛くて瞬間的に口を閉じて、そのあと、下から突き上げられるように殴られました。アッパーカットみたいに……」、「瞬間的なことなんで、ガツン!   ガツン!と、2回衝撃がありました。たぶん、拳と肘があたったと……。顎が麻酔をかけられたみたいに痺れて、血がブクブクと溢れてきて、それをゴクゴク飲んでた」、「殴られた瞬間、血がドクドク出てくるので、飲み込むのに一生懸命で、しばらくしてアメを舐めてるみたいにジャリジャリしてきて、房に入ってみると、口の中から歯が3本出てきました」弁護人の質問に、擬態語を交えながらそう話していた。これが本当なら、大騒ぎである。

 不貞腐れた男と号泣した男…地下鉄サリン事件「実行役」が法廷で語った言葉 へ続く
 2021.3.6日、青沼 陽一郎「不貞腐れた男と号泣した男…地下鉄サリン事件「実行役」が法廷で語った言葉

 1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与した信者が次々と逮捕された。その中には、逮捕された順番と時期によって判決が分かれた者たちもいた。そうした判決までの公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでを描いた青沼氏の著書『 私が見た21の死刑判決 』(文春新書)から一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。 前編 を読む)
 それから、検察官の取り調べが並行して行われるようになる。それ以来、警察の調べには応じなくなった。検察も暴行のあったことを警察に注意してくれたとする。横山にしたら、優しく映り、救いだったのだろう。それでも、検察官の取り調べにも最初は黙秘したり、調書の作成を拒否していた。ところが、その検察官の口調も時間が経つうちにだんだん厳しくなっていき、調書をとらないと起訴に間に合わないと、せっつかれるようになった。

 「検察とケンカ別れしたら、警察の取り調べがはじまると思ったので」

 調書の作成も、他の共犯者の取り調べが済んでいて、話を聞く前から作文が出来上がっていた。ここにサインをしろという。サリンの毒性の認識もなかったのに、そこにはサリンは毒ガスであり、殺人の為に使用されると認識していたとする記載があった。そんな調書を認めることは、本意ではない。それでも、調書にサインをした。「検事さんと話していて、調書にサインすれば全部終わると。それでも教祖のことが気掛かりだったんで、教祖の名前は出したくない、法廷にも呼ばれたくないと、言ったと思いますけど、そうしたら検事さんが強い口調で、『それは絶対にない。教祖の法廷に呼ばれることは絶対にない』と。検事さんが約束してくれるなら、調べにも応じるし、調書のサインにも応じると。検事さん、絶対約束は守ってくださいと、その時に言いました」。ところが、だった。現実には、麻原の法廷に横山も検察側の証人として呼び出されていた。そのとき、横山は相当悔しかったのだろう、証言を拒否して鼻水と涙を、ただひたすら流して、証言台の前で泣いているばかりだった。
 執拗な検察官の質問に逆ギレしたように…

 その前までは、他の共犯者の法廷に呼び出されても、ぼそぼそとした口調ながら、事件についての証言はしていた。わずか1~2回ほどのことだったが、教祖の法廷に呼ばれたことを契機に、もうどこの法廷でも何も語らなくなったのも事実だった。検察の“裏切り”を、取調中の口約束から強調して、捜査の違法性を指摘したかったのだろう。警察官からの暴行の事実と、不本意な供述調書が作成されたことを語ったあと、検察側からの反対尋問がはじまる。検察としては、被告人の訴追が危ぶまれるどころか、社会的信用・信頼、沽券に関わる問題だから、こと細かく、それでいてネチネチと問い質さないわけにはいかない。ところが、そうした検察の質問に、次第に横山が耐えられなくなり、執拗な検察官の質問に逆ギレしたように不貞腐れていく。「だから!   最初の言葉はハッキリ覚えてない!   そう言ってるわけだから」、「だから!   それはあとでチャンと言います」。子どもが、拗ねているような言い方に変わっていく。そして、しまいには検察官の質問に黙って答えなくなった。それを見かねた弁護士が「ちょっと、いいですか」と、被告人のそばに近寄り、耳元で声をかけて翻意する。そうして、気を取り直したように、質問には答えるのだが、また2つ3つ検察官の尋問が進むと、黙り込んでしまう。状況を見かねた裁判長が「弁護人に聞いてもらっては」と、検察官の質問を弁護人に委ねて、被告人を優しく諭すようにしては答えを導いていくようになった。それでも、その弁護人の質問にすら程なくして黙り込むようになってしまった。「どうしたんですかねぇ……」。さすがに裁判長も拗ねた子どもを見守るような声で、本音を漏らす。「被告人、こちらに戻りなさい。弁護人とよく相談しなさい」。
 もはや裁判長の言葉も届かなかった

 証言台の横山を弁護士の前の席に戻して、弁護人と話して心を落ち着けるように促す。それから、話をした弁護人が保護者のように説明する。「あの、検察官には不信感を持っていて、質問の聞き方にカチンとくることがあったようで、質問の仕方を考えて欲しいんですが……」。「そうすると、答える意思がないワケではないんですね」。裁判長が確認の声を上げた。すると、何を思ったか、横山がこれに答えた。「今日は、もう、答えたくありません!」。呆れたように裁判長が言う。「せっかく、2期日続けて取り調べのことを聞いてきて、検察官にも反対尋問の権利があるわけですから。このままでは、裁判所も中途半端な気持ちになってしまいますよ」。反対尋問権が行使されなかった証拠は採用できない。まして、弁護人の主尋問を通して自分に有利になることばかりを言わせておきながら、不利になる検察側の尋問に答えないとあっては、信憑性も疑いたくなる。「中途半端な気持ち」とは、被告人にとっても不利なことになってしまいますよ、と裁判所が気を使って示唆して言ったのだ。ところが、もはや裁判長の言葉も横山には届かなかった。まるで裁判長の気遣いを無視するように、検察官を正面に睨み付けて、「尊師の法廷には呼ばないと言うから、協力してきたのに!」。吐き捨てるように言った。「ここは、あなたの裁判だから……」。裁判長が、落ち着かせて考え直させようと言ったところで、もはや横山は止めようがなかった。「だって、最初の検事さんはまわりにちゃんと言っておくって、言ったんですよ!   次に引き継ぐ検事も、同じ釜のメシを食った仲だから、ちゃんと通じるって!   その次に来た検事さんにも協力しようと思ったのに!」。その言いっぷりは、明らかな子どもだった。とても40歳手前の頭の禿げかけた大人には見えなかった。「休廷でもしますか?」。
 泣き出しそうな真っ赤な顔で放った言葉

 裁判長がそう声を挟んだ時には、もはや横山は興奮し切っていて、鼻息も荒く、肩で息をしながら、いまにも泣き出しそうに顔は真っ赤だった。「人の気持ちを、弄ぶようなことして……!」。弁護人が被告人の前にまわって、しゃがみ込むようにして横山の顔を覗き込んだ。そして何かを囁くように声をかけたが、横山はたった一言だけ吐き捨てただけだった。「もう、黙ってます!」。以来、横山は自分の法廷でも何も語らなくなっていった。もはや被告人質問にも答えなかった。ただひたすら黙ってしまった。拗ねて、投げやりになってしまった──そうとしか、思えなかった。結局、横山の裁判に臨む姿勢は、他の実行犯とは程遠いものだった。他人の法廷はもとより、自身の裁判ですら、事案の究明に積極的ではなかった。反省、悔悟の念も明らかになるものではなかった。忌憚のないところを言ってしまえば、他の誰よりも幼稚で甘えん坊だった。しかし、反省や悔悟といったところで、いったい何を思えばいいのだろうか。自分が殺した人の名前や顔を想像しようにも、そんな対象がなかった。林郁夫でさえ、自白を決意する時には、自分が殺した2人のことを思った、と言った。林郁夫は、地下鉄サリン事件の自供に至ったきっかけに、拘置所での自殺を考えたことをあげた。その時のことを、法廷でこう語っている。(1997年12月10日被告人質問より)「そのときは、自分が信念として行動してきたオウムは正しい、そう信じてきた。信念で行動してきたことを伝えたくなったんです。
 誰に向かって涙するのか

 捕まって、苦しくて自殺するんじゃない。まあ、自分からの逃避なんだけど、ひとことひとことが囚われてでてきたんです。死のうと思った時、一言残せないことが無念に思えてきた。そうしたら、自分が殺した人たちはどうだったんだろうと。──自分は千代田線だから、亡くなられた菱沼さんと高橋さん(霞ケ関駅駅員)のことを思いました。この2人は、自分が死ぬことすらわからなかったんじゃないか。それから、その家族、それから苦しくって死ぬってことも意識になかったんじゃないか。すごく無念だったんだろうなと思って……。私は修行していて、自分の家族のことは結論が出ていると思っていて、それでも死ぬとなると、一言書き残しておきたいと、ましてや亡くなった2人の家族にとっては、その思いというのは、大変なものだったとわかったんです……。私に、家族や、縁のある人がいるように、2人にも家族がいて、お子さんがいて、親御さんがいて、その2人がどうして亡くなられたのか……私の撒いたサリンを、電車を走らせるために片付けたことで、亡くなられたわけなんだから……。私は医者で、本来……人を助ける本来の職業でありながら、そういう人たちに較べて……うっ!   だぁっー!」。あとは声を上げて泣くばかりだった。時折、大きく深呼吸しながら、ずっと堪えて証言を続けていたものが、堰を切って襲ってしまった。頭を抱えて証言台に突っ伏し、人目をはばからずに号泣していた。どうにもおさまらずに、裁判長が言った。「15分、休廷します」。法廷はそのまま休廷になった。こうした態度が、反省・悔悟の情が顕著と評価されたことにつながった。そればかりか、遺族の心も揺り動かしていった。遺族のひとりは、法廷で林郁夫には極刑を望まないとまで述べている。では、横山はどうしたらいいのだろうか。 誰に向かって涙したらいいのだろうか。(青沼 陽一郎/文春新書)




(私論.私見)