不審物について
まずは図2を御覧頂きたい。これは地下鉄サリン事件で、地下鉄日比谷線霞ケ関駅で目撃された毒ガス発生装置である(『東京新聞』95年3月21日朝刊)。本文記事にはこうある。
営団地下鉄日比谷線霞ケ関駅ホ-ムで至近距離から不審物を目撃した複数の乗客によると、その“兵器”は透明ビニ-ル袋の中に茶色の箱の形をした紙袋があり、ガラスかプラスチック製の瓶の口のようなものが二つあった。この口から透明の液体が流れ出し、包んでいる袋に染み、列車の床に液体が広がっていたという
あれれ、おかしいぞ。オウム真理教の実行犯が傘で突き刺したというサリン入りのナイロン袋とは違うではないか。こう思った人は、催眠術から目を覚ます希望が残されている。これはどう見ても、ナイロン袋と呼べる代物ではない。四角い箱の中に二つの瓶があって、そこから液体が流れ出している。 不審物の目撃例はこの他にもまだ沢山ある。
東京.営団地下鉄の車内で有毒ガスが流出した地下鉄サリン事件で、車内に残されていた不審物は、複数の薬品をそれぞれ溶剤に溶かして試験管のようなガラス製容器に詰め、容器を割って混合させるとサリンが発生する構造だったことが二十二日までの警視庁捜査本部の調べで分かった。犯行後逃走する時間を稼ぐため、溶剤でサリンが揮発する時間を調整しようとしたものとみている。 調べでは、不審物のいくつかは平べったい弁当箱大の包みにおおわれ、内部から割れたガラス片が多数見つかった。形状から試験管大のガラス容器とみられる。また日比谷線霞ケ関駅の電車からはガラス瓶を押収した。一方、別の日比谷線の電車では、異臭がする直前に、乗客がガラスの割れる音を聞いていた。 現場の残留物からサリン製造の際に出来るメチルホスホン酸ジイソプロピルエステルが検出されており、捜査本部は、複数のガラス容器にサリン合成の最終段階の液体二種類を溶剤に溶かして別々に入れ、倒すなどして容器を割って混ぜ合わせ、サリンを発生させたと見ている。(『毎日新聞』95年3月23日朝刊)
ガラス瓶が押収されたと聞いて驚かれた人も多いと思う。しかし警察は口が裂けてもそんなことは公言しない。真実が明らかになっては困るからだ。我々一般庶民には、本当に大切なことは何もあかされないのである。 このガラス容器が割れる音については、別の証言もある。
北千住駅から日比谷線に乗り、前から三両目にいた。秋葉原駅で自分の後ろの方でパリンという音がして、シンナ-のようなにおいがした。(『毎日新聞』95年3月21日朝刊)
八丁堀-築地駅間では、網棚におかれていたビンが落ちて割れ、その瞬間に一人が倒れたという。(『産経新聞』95年3月20日夕刊)
病院で治療を受けた足立区に住む会社員(32)は、「日比谷線の人形町の手前でびんの割れる音がした。床が液体でぬれていてシンナ-臭かった。みんなせき込んでおり、けいれんをおこした人もいた。目の前が真っ暗になった」と話した。(『産経新聞』95年3月20日夕刊)
不審物にはガラス容器が含まれていたことは間違いないようだ。犯人がガラス容器を使ったのは、複数のガラス容器を割ることで中の液体を混合させ、現場で毒ガスを発生させるためである。これを専門用語で「バイナリ-方式」と呼ぶ。
東京の地下鉄サリン事件で、犯行に使われたサリン発生源は、踏みつけるなど衝撃を与えると容器が割れ、数分後にサリンガスが発生する仕組みになっていたことが二十四日、警視庁特捜本部の調べでわかった。 これまでの調べでは、包みの中には二つの密閉された容器が入っており、容器を踏むなど衝撃を与えるとそれぞれの密閉パックに入った液体の化学物質が混ざって反応し、サリンが発生する仕組みだった。 専門家によると、化学防護服などを着けない限り、猛毒のサリンをそのままで持ち歩くことはできない。このため、犯人グル-プは、サリン生成の最終工程に使われる毒性の低い化学物質を別々に溶剤に溶かして、二つの容器に分け、毒ガステロの目的地で混合させ、サリンガスを発生させる方法を使ったとみられる。 二種類の化学物質を使用する場所で混合するやり方は「バイナリ-方式」と言われるが、これだと、サリンガスの発生までしばらく時間がかかり、犯人が電車から降りる直前に容器を割れば、自分がサリンの被害を受ける危険性は少ない。(『読売新聞』95年3月24日夕刊)
一方、佐藤重仁.筑波大臨床医学系助教授(麻酔学)は「自分で容器を開けることは、自身にも危険だ。サリンの前段階の二種類の液体を別の容器に入れてロケットで打ち上げ、振動で混じり合わせるという兵器のアイデアを米国が持っていたと聞く。今回も、電車の振動で液体が混じり合うようにしたこともあり得る」と話している。(『毎日新聞』95年3月21日朝刊)
これまでの調べで、一部の電車内にあったサリンの発生源の容器は中が二つに分かれていたことが分かり、警視庁築地署特捜本部は犯人が現場で化学物質を反応させてサリンを生成したとの疑いを強めている。目撃証言などによると、発生源となった容器は、中が二つに分かれていたとみられる。(『日本経済新聞』95年3月27日夕刊)
地下鉄サリン殺傷事件で犯行に使われた不審物は、別々の袋に詰めたサリン一歩手前の物質とアルコ-ルの一種を車内で反応させてサリンを作る“二液混合方式”だった可能性の強いことが、二十七日までの警視庁築地署捜査本部の調べで分かった。 捜査本部は、犯人が新聞紙に包んだ袋に何らかの方法で穴を開け、二種類の薬物を流出させて混合、サリン発生前に逃走した疑いがあるとみて目撃情報などから容疑者の割り出しを急いでいる。 長野県松本市のサリン事件では、容器は見つかっていないが、白煙が上がるなど、現場でサリンが発生した形跡があり、捜査当局は同じ方式だった可能性が強いと見ている。 調べによると、地下鉄事件でサリンが発生した五車両のうち、少なくとも二車両の不審物は、複数のビニ-ル袋を新聞紙で包んであり、袋から液が漏れ出しているのを乗客が目撃している。
さらに(1)サリンと一緒に、サリン合成時に副生成物として生じる「メチルホスホン酸ジイソプロピル」が検出された(2)二車両で不審物から白煙が出ている(3)被害が出るまでの時間やサリン発生の規模が各現場で異なっている-などの状況が、二つの液体を混ぜてサリンを発生させた際の特徴と一致しているとみている。
専門家によると、サリンの生成方法は何通りかあるが、この方式は、生成の最終段階で、三塩化リンから作る「メチルホスホン酸系化合物」と「イソプロピルアルコ-ル」を混ぜ合わせ急激な化学反応を起こす。この際「メチルホスホン酸ジイソプロピル」が発生し、白煙が上がるという。 被害が出た五本の電車のうち、北千住発の日比谷線では急激にサリンが発生したことを示す白煙が車内に充満、五本の中で最も被害が大きかった。中目黒発日比谷線では、男が不審物を置き去ってから約五分後に異常が起きた。これに対し、丸ノ内線の一車両では不審物が見つかってから四十分以上経過してから被害が出ており、捜査本部は混合スピ-ドの差で被害に違いが出たとみている。(『共同通信』95年3月27日)
白煙が出たこと、被害発生までの時間や被害の規模が各車両で異なっていることなどが、「バイナリ-方式」の特徴と合致しているのだ。隠蔽されたのはガラス容器だけではない。事件直後の乗客の目撃証言はさらなる多様性を示している。
乗客の話では、列車の座席の下に新聞紙に包まれた箱が置いてあったり、ガソリン容器のようなものが倒れたりしていた。また車内に透明の液体がまかれたという証言もある。(『朝日新聞』95年3月20日夕刊)
調べでは、不審物は五本の電車に、それぞれ一つずつ置かれていた。捜査本部が密閉して保管しているが、二十五日までに中身を確認したところ、三つは弁当箱くらいの大きさの容器が、二つはビニ-ル袋がそれぞれ新聞紙に包まれていたという。(『朝日新聞』95年3月26日朝刊)
日比谷線小伝馬町駅-電車が駅に着いた時、車内に直径、高さとも35センチ位の筒状の物が二重のビニ-ルに包まれて置いてあった。乗客が「これは危ない」とホ-ムにけ飛ばした。(『読売新聞』95年3月20日夕刊)
丸ノ内線池袋駅-午前8時30分ごろ、2両目に乗ったところ、ドア付近に新聞紙に包まれたものがあった。円柱状で人の頭大だった。(『読売新聞』95年3月20日夕刊)
不審物の多くは、二十-四十センチ四方の弁当箱状のもので、中には直径約三十五センチの筒状のものもあったという。(『読売新聞』95年3月20日夕刊)
日比谷線-新聞紙かチラシのようなものでくるまれ、ビニ-ルのひもで十文字に結わえられた縦、横二十センチぐらいの紙袋が床に落ちているのに気付いていた。(『読売新聞』95年3月21日朝刊)
これまでのところ車内にあった新聞にくるんだ不審物から液が漏れ出しガスが発生したという。不審物は二十センチほどの大きさの弁当箱のような金属製の物体。(『毎日新聞』95年3月20日夕刊)
日比谷線-男が車内に置いたとみられる不審物は、直径.高さとも三十五センチ程度の円筒形で、新聞紙やビニ-ルで包まれており、液体はサリンとみられている。(『東京新聞』95年3月21日朝刊)
千代田線国会議事堂前駅では、ホ-ムに居合わせた清掃作業員(65)が午前八時十三分着の代々木上原行き電車の先頭の床に強烈な異臭を放つ、高さ約三十センチ、幅約十五センチの白いプラスチック製の水筒のようなものを見つけた。布切れの上に置かれていたので、ホ-ムに持ち出し、警察が押収したという。(『東京新聞』95年3月20日夕刊) 車内にはシンナ-のような強い異臭が立ちこめていた。車内を探したところ、床に落ちていたビンのような容器に入った白いポリ袋からにおいが出ているのを発見。駅構内の管理室内に運んだ。(『日本経済新聞』95年3月20日夕刊)
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