影の闇文書

 (最新見直し2010.05.10日)

 「★阿修羅♪ > 議論30の影の闇氏の2010.5.26日付け投稿「オウムへの仮説   −”ユダ”達

 93年夏に、米国防総省が、英国の研究機関に将来予測されるテロの様相についての研究を委託しておりますが、同じ頃、オウムはサリンなど毒ガス兵器によるテロに言及し始めます。 そうして、同研究機関による、地下鉄テロを予測した「テロリズム2000年ー将来のテロリズムの様相」と題した報告書が出たのは、何と、「地下鉄サリン事件」の直前の95年2月!

 ーこれを見れば、ある程度客観性を保つ為に、英国に「どのような形態のテロが起こるのか?」研究させ、日本で、実際に、その中身を研究、そして実験する、という図式が浮かんで来ます。事実、日本の医療研究機関は米国防総省関係の委託研究が多い事で知られますが、中でも林郁夫の母校である慶大医学部は「化学・細菌戦」関連の研究が最も盛んな所だとか。 もし背後で、何等かのルートで繋がっていたとするなら、その林郁夫を筆頭に、医者グループの事件での位置及び役割はこれまで思われてきたよりも遥かに重要であったのかも知れません。 そうして又、オウムの信者達は米軍に攻撃されてると信じていたようですが、実はそれは実験(ケム・トレイル?)だったと考えれば、納得も出来ます、実際に被害者が多数出ていたことも。 また、これに関して、麻原彰晃は、毒ガス攻撃にやられた上に、Q熱リケッチアにも罹っていたと思い込んでいた様ですが、それが医者等による(仕組まれた)ものとしたら、全てが納得出来るように思えるのです。94年の3月から4月にかけて、林郁夫は「化学兵器資料調査」を名目に米国に出かけていますが、本当は何しに行ったのか?自分達の「師」や「仲間」を攻撃してるという、その国に。

 その頃には麻原は体調を崩し、病状が悪化して、上九一色から外に出ることは滅多に無くなり、床に伏せることが多くなっている。 それから間もなく「松本サリン事件」が起きるのですから、彼の手を離れた途端、オウムは暴走するー否、暴走させられる? ーということを考えれば、麻原彰晃は殆ど”ツンボ桟敷”に置かれていたのでしょう。 主治医の法皇官房中川智正は、恐らく、見張り役というか監視役も兼ねていたのではないか?後に法廷で「証言」に立った中川智正が、殆ど狂人になった(された?)麻原彰晃を見て流した涙は、或いは”ユダの涙”だったのかも知れません。渡辺脩氏によると、外に出なくなってからというもの、麻原の目及び耳となったのは「大蔵大臣」石井久子と「科学技術省大臣」村井秀夫。

 -ところで、この構図で村井を排除すれば、実は、「オウムの犯罪」は成立します。どういうことかと言えば、全ての犯罪を<麻原→村井→実行犯>と繋げばーそういう図式を取ればー全てを(村井を通して)麻原の指示でやったという構図の(村井を通して)の部分が証明不可能になれば、この構図について、立証も反証も出来なくなるからです。 これがもし村井が生きていれば、当時、他の誰よりも全体を見通し、統括出来る立場にあり、オウムが具体的に何をやっていたのか知り得る立場に在ったのだから、反証も反論も容易だったでしょう。 つまりは村井を消すことによって、逆に「オウムの犯罪」は成立しているのです。 

 「地下鉄テロ」の大きな謎に、「実行犯」は、林郁夫以外は、豊田亨や広瀬健一等、「科学技術省」の幹部達ばかり、というのがあります。何故、「シークレットワーク」お得意の「諜報省」井上嘉弘直属?の(現?元)自衛隊員にやらせず、「実戦」にはあまりに不向きな(特別その方面の訓練をした形跡もない)、医者とか技術者・研究者達ばかりだったのか?ーから、逆にこの真相が見えては来ないか? 多分その「実行犯」達は実際にサリンを撒いたかその仲間であったと思ってるのでしょうが、彼らには、そう思い込み、また参加せざるを得ない、何か抜き差しならぬものが在ったのではないか? そしてそれは、彼らがサティアンでやっていたことと関係しているのではないか? この際だから想像を逞しくして言えば、それは恐らく、”プロフェッショナル”の指導・協力を得て、オウムの信者達を使い、様々な兵器の人体実験・生体実験を行っていたということではないか? オウム信者には何人もの死者が出ていますが、それは”修行”を名目にした、この種の実験によるものだったのでは?(勿論、その中にはスパイも居たでしょうが) 

 そうだとすれば、彼らが選抜されたのは、こうした生体実験・人体実験を含む研究の全貌を、彼等の存在共々、永久に封印することがその真の目的であった?かも知れません。医者達のやった事を始め、オウムの背後の闇を追求すべきだという声に、当時の警察中枢は”警察でもどうしようもないことが日本にはあるのだ”と漏らしたといいます。 数々の「冤罪事件」が物語るように、我々からすれば、警察が日本の中で出来ないことなど無いようにすら思えるのに、このチョー弱気の発言は、しかしながら、問わず語りに、その間の事情を伝えてくれている?

 「警察でもどうしようもないこと」とは、この問題は治安上のマターではなく、更に上位、安全保障に関わって来る問題であるということ。 そしてもしこれが自衛隊がやったと見ているのであれば、「日本には」という限定は付けず、単に「国家には」と、もっと一般的な言い方をしたでしょうから、この発言は、自ずと、その正体を暗示するものとなっているのです。

 「オウム裁判」を振り返って、渡辺氏は「警察・検察が本当は一連のオウム事件の真相に触れたくなかったからではないのか」と述べていますが、正解です。 何故なら、オウム事件の真相を明らかにすることは「防衛」の真実を明らかにすることであり、それは日米関係の真の姿を明らかにすることだからです。まさに今、同じ事が「韓国哨戒艦沈没」についても言えるのです。

 オウムへの仮説  −ヤヌスの双面としての自衛隊

 自衛隊は、その名の通り、国防軍的な側面と、その出自から、米軍の下部組織=米衛隊的な側面が有ります。冷戦期までは渾然となっていたものが、最近の陸海空の自衛隊幹部の言動によりハッキリと現れてる通り、米衛隊の側面が極めて強く、大きくなっております。 その枝分かれしたのが、やはり、この辺りに在ったのではないか?と考えると、オウムについての残された謎も見えて来るようです、、、

 CIAリポートで指摘する「100人に上る現役自衛隊員」や「米国防総省を凌駕する、多数の科学者・科学技術者の存在」、また村井が記者会見で豪語した「1000億の資産」、ついでに「金丸氏宅と同じ<金の延べ棒>がオウムに在ったこと」。

 これらを、相互に矛盾無く、説明出来る<仮説>とは、オウムが、防衛族のドン金丸信氏の地元である山梨県、富士山麓の自衛隊駐屯地や演習場に近い場所にサティアン群を置いた事からして、軍事関連の背景があり、しかもそれが冷戦後の思惑も重なっていたと考えると、そこには、ABC兵器も含めた高度の軍事兵器の研究・開発を行うべく、自衛隊の国防軍的な部分からの影響が及んでいた、と考えるのが自然です。 多数の科学者・科学技術者が集まっていたことや高度の軍事技術や兵器に異常な関心を示してアプローチしていたこともこれで説明出来るし、多数の現役自衛官(元も入れれば更に増えるはず)は技術的なアドバイザーとかコーチ、或いは外部からのスパイを防ぐ防諜関係の役回りもあったのかも知れません。 また、潤沢な資金の出処は、その辺の決して表には出て来ない類のものだったのでしょう、<金の延べ棒>が在ったということからして。

 そういった、本来「国防軍」的な部分からの研究・開発であったものが、細川政権登場以来の政治潮流の変化によって、米衛隊部分の色が濃くなり、また、それに乗じて、外部からの介入も在ったということでしょう。

 オウム事件には様々な「怪文書」が沢山出ましたが、恐らくはその最初、松本サリン事件の直後に出たモノに興味深いコトが書かれております。 文章の内容から、国防関係或いはその周辺の人物によって書かれたもの、と推測出来ますがー

 情報の出所は欧州の軍事筋とし(やけに詳しいことから、英国の駐在武官辺りか?)、事件はCIA所属の5名の米国籍(日系2世、日本語も堪能、外見からは日本人と識別不能)の専門工作員によるもので、欧州・アジアの主要国から180人を超す諜報担当者が松本に集まり、その5人の動静を監視しているーとしている。

 この怪文書自身が別の意図を持ったものと解釈することも勿論可能ですが、単なるガセと考えたくないのはー妙に生々しく具体的であることもありますがーここに出て来る国防総省直属の組織と同じ名前が、地下鉄テロのまさに一ヵ月後、95年4月19日(日本時間4月20日)に起きたオクラホマ連邦ビル爆破事件、「9.11」の前哨とも言われるこのテロ事件の際にも浮上し、またその「9.11」の時にも、例の「炭素菌」騒動の折にその組織が取沙汰されたりして、単なる偶然では片付けられない要素が重なってるからです。もし彼らと、「地下鉄ー用のサリンを作った」とされるジーヴァカ=遠藤誠一を始め、他のオウム幹部=使徒達が米衛隊を媒介に何処かで結び付いていたのであればーそれが解明出来れば!−この謎に満ちた事件の構造も見えて来るのでしょうが、、、、

 また、従来の「国防軍」的な要素と「対米自立」を追及する小沢氏を中心とする政治勢力とは何処かで共鳴するものではなかったのか?ーと考えると、この時期の政権交代という政治の<力関係>の変化がオウム内部での「米衛隊」部分の暴走にも繋がって行ったのでは?ーということも考えられます。 

 松本サリン事件の謎に、事件後数日で概要を掴んでいたはずなのに、警察は何故、事件とは明らかに無関係の河野さんを犯人に仕立てようとしたのか?というのがあります。 多分そこに「帝銀事件」に似たものを感じ取ったからでしょうが、穿った見方をすれば、犯行の目的又は犯人の意図を絞ることが出来なかったからではないか?そしてそこには、オウムをどうするのかを巡っての、体制内の暗闘が在ったのではないか? −とすると、小沢氏の勢力が政権復帰の目が無くなった94年秋以降、オウムの運命は決まったのでしょう。 捜査方針が9月になって劇的に変わったことは多くのマスコミが証言するところですが、何故か一旦本格化した捜査がズルズルと伸び、年を越して仕舞います。 恐らくは公安捜査でいう”泳がせ”だったと思われますが、ひょっとしたら、そこにオウムを利用して破壊・謀略工作をやろうとしている勢力からの撹乱も混じっていたのかも知れません。

 オウム事件の「怪文書」として、一躍有名になった例の「松本サリン事件に関する一考察」もそんなモノの一つでしょう。その年の9月に書かれた事を記していながら、マスコミ各方面に出されたのは年を明けてから。もしこれが警察側の意図によるものであったら、オウムの内部及びその周辺に居る監視対象が、この情報でどのように動くのか反応を観るということでしょうが、私はこの説は採りません。 何故なら、元旦の読売新聞のトップ記事が正にそれに当たるからです。 ポイントは二つ、一つは、本文は9月に一旦書いてそのままにし、年が明けて、元旦の読売新聞のトップ記事を見て追伸を入れたという形を採ってるということと、もう一つは「帝銀事件」への言及です。 前者からは、<捜査方針>の変更の節目を知ってる(それに合わせた反応である)ということ。 後者は、何故、河野さんじゃないと判っていながら「犯人役」に仕立てようとしたのか?内情をズバリ言い当ててる、その上「帝銀事件」の類似を引きながら、さりげなく「犯人像」に触れてる(示唆してる!)ということ。 「軍事技術を応用し、熟練した手際の殺人」、即ち軍人かその種のプロ! こちらの方も捜査当局の本音をズバリと言い当ててるのです。 

 捜査当局がこれを読んだら、自分達の手の内をスッカリ見透かされてる!と感じたことでしょう。そして、これがもし「真犯人」によるものであったとしたら、「追伸」の中で示された危惧も別の意味が感じられたに違いない。「ガイアナの人民寺院事件」や「ブランチ・ダビディアン」の様な集団自殺(を装った殺戮ーによる証拠隠滅)に加え、地下鉄や東京ドームでの「テロ」。 −即ちこれは、<予測>や<危惧>を装った、<予告>ではないのか? ーその意味で、「今捜査に入ると、このような事が起こるぞ」と、捜査当局に向けられた恫喝だったのではないか?

 1月に入るはずの捜査が伸びて仕舞ったのは、この「怪文書」を受けてと考えると、逆に納得がいきます。ただでさえ、今関西の「阪神大震災」で大変な事になっているのに、この上関東で、「地下鉄テロ」に加え「ガイアナの人民寺院事件」や「ブランチ・ダビディアン」の様な武装抵抗、挙句の果ては「集団自殺」などやられたら、日本の治安はメチャクチャなことになる!と。こうして、3月に入り、多少落ち着いたところで、春休みに入る前、プロ野球公式戦が始まる前ということで3月20日になったのではないか?なお、私見によれば、この「怪文書」を装った捜査当局への恫喝という手法は、それから2年後、「神戸少年連続殺傷事件」の際にも使われております。

 見えない戦争

 整理してみましょう。細川政権(93〜94年)が対米関係を中心に戦後体制の見直しを掲げていたのに対して、村山(自・社・さ)政権(94〜95年)は、その意味では、戦後体制への復帰と言えるものでした。 そうして、久しぶりの自民党本格政権と言われた橋本政権(96〜98年)の時に、この総崩れとも言うべき転向が起きている。 とすると、ターニング・ポイントは村山政権の時に有った事が分かります。 外交・軍事面で言えば、95年2月の「ナイ・イニシャチブ」から始まった流れが「新ガイドライン」ー「安保再定義」へと繋がって行くように。 そうして、この動きは、細川前政権時の「多角的安保」や「国連待機軍構想」で示された方向へのアメリカ側からの巻き返しでした。 つまり、小沢氏を中心とする勢力が日米安保(=対日軍事支配)からの離脱を志向したことへの危機感から発し、再度、軍事・外交的に箍を締め直す=対日軍事支配の強化ーそれが「新ガイドライン」「安保再定義」であった、ということです。

 そして、これが表の動きであったとするなら、裏の動き、それが「サリン事件」だったのではないか?

 地下鉄テロは、当初の「霞ヶ関が狙われた」という見方から、やがて、単に、「捜査の撹乱を狙った」という焦点のボケたものになって行きましたが、その理由はお解かりでしょう。 一から十まで、全てオウムがやったとするならそのような図式にならざるを得ない。 その結果、内実が、木に竹を接ぐ様な、辻褄の合わない、メチャクチャなものになり、麻原彰晃の弁護人を務めた渡辺脩氏が慨嘆するデタラメな「オウム裁判」になって行ったのでした。

 それでは「地下鉄テロ」とは何だったのか? ーそれは、この五つの路線が霞ヶ関で8時10分前後に交差する、というところに求められます。 しかも他の曜日とは異なる官公庁の登庁時間に合わせてることからして、官僚に向けられたものと考えていい。 そして、ダミー=オウムの使徒達が撒いた時間と被害者が出た時間帯に矛盾があるように、真犯人は周到にそれを避けている。 もしも使徒達の撒いたモノがホンモノだったら、撒かれた時間帯からして、被害者の多くが霞ヶ関から出たことが考えられるからです。 更に、最大の被害者を出したのが、当時防衛庁の在った六本木を通る日比谷線。 その上、実際に使われたのがサリンより遥かに劣るものとなるとー   この辺りから、この「テロ」の無言のメッセージが見えて来ないでしょうか?

 「我々は、その気になれば、いつでも、日本の国家の中枢を殲滅出来る!」

 そしてその10日後、日本の治安への不安が擡げてきた時に、その治安のトップが標的になるテロ(国松警察庁長官暗殺未遂事件)が起きますが、これも又「地下鉄テロ」と同じく、ダミー(小杉巡査長)と真犯人という構図であったことが後にバレることになる。 また、何故、現場のトップである警視総監ではなく、事務方だったのか?から、「地下鉄ー」と同じ様なメッセージが覗えるのです。

 「我々の標的は治安にではなく、あくまで国家ー官僚にある!」

 更に、犯人が置いたものと思われる、北朝鮮軍のバッジと韓国硬貨ーそのまさに同じ日、「日朝の国交樹立」を目的とした、超党派の訪朝団(渡辺美智雄団長)がピョンヤンを訪問していることから、これまでの半島政策を変えようとすることへの脅し(!)でもあったことが見えて来ます。

 こうして、95年3月の2つのテロは、日本の<国家意志>に向けられた(暴力を伴う)脅迫であった、と言えるのです。

 戦争を、個人レベルでの暴力と同様、自らの意思を相手に強制することをその本領とするなら、正しくそれは戦争と言うべきでしょうが、しかしながら、一般には(当事者以外には)それが見えて来ない。 これは、無論、旧来の(見える形の)戦争概念では捉えられない、新しい形の「見えない戦争」とでも呼ぶべきで、かってボードリアールが『湾岸戦争』に関して論じた事と本質は同じ、徹頭徹尾<メディアの時代>になって、<見せる>ことが政治(の力学)そのものとなり、見せる・見せぬ(=可視化)が政治の最大の要諦となる時代の趨勢を示すものなのでしょう。 しかしながら、そこでは、見せることは隠すことー明らかにされたものは隠蔽されたものーという逆説も又成り立つ(尚且つ、見世物になるのは敗者であり、見せられるのは弱者、勝者は見せる側で、強者は常に不可視の側に居る)、<メディアの時代>においても又、権力の一般的な法則は貫かれてる、ということです。

 ほぼ同じ時、「ナイ・イニシアチブ」として、表向き「日米のパートナー・シップ」を謳い上げながら、その実それが装いを替えた対日(軍事)支配のタガの締め直し、そして日本へ提案する一方、影ではかかる暴力的な脅迫!ーまぁ、戦争は政治の別の手段とする古典的な定義が当て嵌まってるようにも思いますが、とはいえ、私は、ここで、このテロに米国政府が直接関係しているとは、無論、考えておりません。 当時のクリントン政権と軍部は疎遠だったことを思うと、特にね。それに、米軍が直接手を下さなくとも、「松川事件」や「下山事件」同様、周辺がその意を汲んで暴走すれば、結果としては、同じことですからね。

 日米関係は、或る面から言えば、かっての日本と満州の関係にソックリでして、在日米軍は、言わば海の関東軍と言える。そして、関東軍の周辺に謀略・破壊活動を旨とする幾つもの組織が在った様に、在日米軍及びその周辺にも、キャノン機関やガーゲット機関の流れを汲む数々の組織・集団が、日本の独立後も姿・形を変えて生き残り、戦後の怪事件・謀略事件の背後で暗躍していたことは、ご存知の方も居るでしょう。 極めて興味深いことに、この新旧の関東軍の「特務機関」は、その多くが、人脈的にも重なり合っており、そのネットワークは旧満州=中国東北部から朝鮮半島=北朝鮮・韓国まで繋がっているんですね。
(その辺を勘案しておれば、「日本人拉致」の真相などというものも案外解り易いと、私などには思えるのですが)

 更に、このダークな部分が自衛隊の一部及びその周辺と重なっていたことは、「三無事件」や「三島事件」でも窺えるところです。そしてこの流れは、現在にも引き継がれていると見るべきでしょう。 だって、謀略・破壊活動の(実戦)訓練なんて、この部分じゃないと、現実には出来ないわけですから。従って、真犯人或いは本当の実行犯は、海の関東軍と海の満州国軍の交わりの部分ー灰色のこの部分及び周辺辺りーということが必然的に導き出されるのです。

 「地下鉄テロ」の余韻冷めやらぬ95年6月、その後首相になる橋本通産相が、会談に入る前の入り口の所で、USTR(米通商代表部)のミッキー・カンター代表が持っていた竹刀の先を、自分ののど元に押し当てるパフォーマンスを演じてみせました。ニコリともせず、感情を押し殺したようにして自らの喉笛に押し付ける様子を見て、オウム事件を上記のように捉えていた私には、日本国民に向けて、日米関係の真実を、現在日本がどのような立場に置かれてるかを暗示した、ギリギリのパフォーマンスのように感じられたのですが、穿ち過ぎだったでしょうか?

 「事件」前夜の政治情勢

 オウムの活動が活発になっていった90年代前半は宮沢内閣で、中心的課題とされたのは”バブル崩壊”への対応と「政治改革」、即ち政治・経済における戦後体制の行き詰まりの打開でした。 その動きの中から小沢氏を中心とする勢力が主導権を握り、やがて細川政権に繋がって行くのですが、その際彼が打ち出した理念が「普通の国」。 

 これは、先ずは、明治の「有司専制」以来の官僚=オカミ主導の体制からの転換という、原敬や田中角栄を引き継いだ、政党政治家の宿願である以外に、折から世界の支配的潮流に成りつつあった<新自由主義>という錦の御旗を逸早く掲げることによって、政治の主導権を握ると同時に、対外的には極限まで高まりつつあった欧米の「日本異質=封じ込め論」を封じ込めることにありましたが、それらに止まるものではありませんでした。 それが明確な形で打ち出されたのが外交・安全保障における、対米関係を「大人の関係」とし、他方での「多角的安保」(防衛問題懇談会)と「国連待機軍構想」で、これは巧妙に仕組まれた「日米安保体制」の無力化と在日米軍の無意味化を志向するものでした。

 多くの人が小沢氏を「新自由主義者」の片割れと思っていたようですが、私は寧ろ、「一身の独立」と「一国の独立」を重ね合わした、福沢諭吉の思想を観るものです。つまりはそれは、こうした行き詰まりの原因が過度の対米依存に在ると見、そこからの脱却を底意とするものであったと言えます。 恐らくは、その辺が吉本隆明と江藤淳という左右の思想家・言論人が高く評価する処なのでしょう。 左と右、一見対極に在りながら、<自立>と<成熟>、共に(西欧)近代において「一人前に行動すること」を旗印としていたのですから。ともあれ、オウムの変貌は、かかる日米関係を中心にした戦後体制の見直しの時期とピタリと一致するものでした。 

: 「事件」前後の政治情勢

 それでは、現実の政治とオウム(事件)はどのように関わっていたのか? 時系列的に追っていけば、92〜93年に掛けて、「湾岸戦争」や「ソ連崩壊」が生々しかった頃、積極的にロシアに進出し、又上九一色村にサティアン等巨大施設やプラントを次々に作っていくー恐らくオウムが急激に大きくなっていくこの時期に政治と最も近付いたのでしょう。

 93年春に、麻原が初めてサリンに言及し、その半年後には「毒ガス攻撃を受けている」と公言するーその半年後には実際、麻原は体調を崩し、寝込むことが多くなって、実際的な運営及び権限は他に委ねることになる。 政治的には細川政権のこの時期にオウムの変貌は起こってると見るべきで、宗教集団とは別物に変わったことを示すメルクマークとなるのが、国家を模したとされる、所謂「オウム省庁制」です。 時期的には、細川政権の事後処理的に、短命に終わった羽田政権の頃、そしてこの政権の崩壊前夜に「松本サリン事件」が起きています。 

 オウムの変貌とは即ち、オウムに別の力学が働いていたことを示すものですが、その事を最もよく、象徴的に表したのが、(地下鉄テロ用のサリンを作ったとされている)ジーヴァカ=遠藤誠一が、事件が起きる何ヶ月も前から、使徒や信徒達の居並ぶ前で、公然と、しかも面と向かって!尊師麻原への罵倒を繰り返したことです。「”ジーヴァカは私の言う事を全然聞かなくなった”とこぼしていた」という『土谷証言』こそ、この変貌更には事件の核心に迫るものとして、記憶されるべきでしょう。 

 何より、平気で「尊師=神聖法皇」の意向に逆らうこと自体、既に、彼(等)が麻原より上の<権威>なり<権力>の下に在ることを示していたのですから。 ではその<権威>なり<権力>或いは別の力学とは何か? この点について最も刺激的な説を唱えたのが下里正樹氏で、「平成の2.26事件」(現役自衛官によるクーデター未遂事件)だったというものですが、私に言わせれば、後ろ向きに、飛ばした方角が正反対、精々言って、見当違いの大ファールだった、と思います。

 戦後の大掛かりなクーデター(未遂)事件、実際に、現役の自衛隊幹部が絡んでいた「三無事件」や「三島事件」を見ても、極東情勢及び米軍の動向と深く連動しているのであり、仮にクーデター的要素があれば、極東情勢や米軍の動向との絡みで見られなければならないからです。 「三無事件」が、その人脈から歴然としてるように、韓国の朴正煕軍事クーデターと連動し、東アジアへの本格的な武力干渉に向かおうする米軍に呼応したものだったとするなら、「三島事件」は、軍事的劣勢が明確になったベトナム戦線に抗して、極東に第二戦線を開こうとする策動に呼応したものだった、と言えます。 とすると、今回の場合、北朝鮮の不安定化と、特に戦後体制(日米関係)の見直しを秘めた細川政権の登場に絡んだものだったのでは?ということが一応は言える。とはいえ、無論、私はここで、本来それは細川政権に向けられたものであったーということを言ってるわけではありません。

 「日本権力構造」的観点から言えば、一政権に止まらず、権力システムを持続的かつ実体的に担う官僚、政治家を前面に押立て、黒子役に徹しつつ、自らの目的を達しようとする彼らの存在を除いて、この問題は立てられないからです。

 細川首相が「で、私はどうすればいいのか?」と振り付けを全部官僚に委ねたのは有名なエピソードですが、その彼が日米首脳会談後の記者会見で「日米は大人の関係になった」とし、「交渉決裂」をものともしない姿勢を示した背後には、当然、官僚の意志が在ったというべきでしょう。しかしながら、僅かその10年後、小泉政権の時に顕在化した「年次改革要望書」に見られる、米側の要求を次々に呑み、http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/104.htmlで指摘してる様に、アメリカの「構造」に同化しようとすらする、180度の姿勢転換ー言わば完全に転向しているのです。

 私見によれば、このような大きな転換は96、7年、橋本政権の時で、それを象徴的に示していたのが「新ガイドライン」ー「安保再定義」であり、そして「拉致問題」の顕在化でした。 当時私は、ああ「国策」を転換するのだな、結局は真犯人の思惑通りに、東アジアで孤立の途に歩み出したのだな、と暗澹たる思い駆られたものです。 何故なら、1980年1月の国会答弁で「北朝鮮の工作」を明確に否定したように、事件の概要を掴んでいたにも係らず、公安当局のそれまでの姿勢は「拉致は存在しない」とするものでした。 無論、そうすることで、真犯人の思惑通りにはならないという事を示し、以って最低限の国家意志を表わしたのでしょう。 こうした官僚の姿勢が一斉に変わっていったのがこの頃だったのです。

 しかもそれが、上記の如く、全面屈服とでも形容したくなる態のもので、その有り様を観た当時の中国首相李鵬氏が「このままで行くと日本という国は消滅する」と、皮肉とも懸念とも言えぬ、発言をしたのです。僅か3、4年前には、「衝突コースに入った」と日米のマスコミから騒ぎ立てられた程に、抵抗の意志を示したことを考えれば、このような全面恭順に至るまでに何が有ったのか?それを促したものは何だったのか?という疑問が当然湧いて来るはず、です。

 オウム事件への政治的考察   ー「文明の衝突」より

 この事件で、オウム真理教が日本のみならず全世界の注目を浴びた時、私が真っ先に思い浮かべたのは、その頃ジャーナリズムや論壇で話題に上っていた、S.ハンチントンの「文明の衝突」でした。ハンチントンには−或はそのような<眼差し>で日本を見ている者には−この「事件」はどのように映ってるのだろうか?−と。また、更に進んで−「冷戦」後のアメリカの支配層の関心の在処(本音)を語り、その針路図を提示したとされるあの書物に沿って見たら、それでは「期待される日本」像とは如何なるモノになるのだろう?

 もっと露骨に言えば−文明と言っても、中身は宗教であり、宗教的な対立がこれまでのイデオロギー対立に取って替わるとしたらーそのような「衝突」なり<対立>には無縁(鈍感!)な日本人を、自らの戦略の為に、これまで以上に従順に手なずけるには?−といった<視点>から見れば、どういった日本が望ましくどういった日本は排除すべきとなるだろう?そしてその為には何が必要となるのだろうか?

 もうお解りでしょう。 「文明の衝突」的な観点から見れば、「反米」を呼号する過激な宗教集団の登場は必然(必要!)であり、本来であれば排除されるべき阻害要因であるはずのものも、「過激な宗教団体=テロリスト集団であり、日本にとっても危険である」という認識を植え付ける事が出来る契機となるなら、それは願っても無いコトとなる!

 ーこのように見て行けば、オウムは、彼らには、うってつけの存在であったことが見えて来ないでしょうか?
後は、オウムを暴発するように仕向け、そちらへ誘導して行くことですが、これなど赤子の手を捻るようなものだったでしょう。 その主張(?)に表れてる通り、軍事的には勿論、政治的にも無垢、つまりは赤ん坊も同然なのだから。しかも尚且つ、本国以外には最大の軍事基地と戦闘員を置き、更には事実上の下部組織(自衛隊)や外部組織を配して、軍事的に観れば、属国とか植民地同然の状態に在るのだから!

 その「主張」に賛同するようにして近付き、或いは味方の振りをし、過激な言動を煽り、オウムの使徒達を仲間に引き入れ、又ダミーとしてコントロールしながら、やがて勝手に破壊活動に突き進むーこのやり方は9.11以降、イラクやアフガン、更には世界的に展開されて行くことになるのです。

 勿論、これだけでオウムを語ったことにはなりません。 オウム事件には様々な謎があり、同様にオウムも様々な顔がありますが、冒頭で述べた通り、一番不鮮明なままになっているのが政治との絡みです。何人かの政治家は登場しますが、あくまで断片的であり、それもミスリードさせるような仕掛けが為されたり(例えば、金の延べ棒を巡っての、金丸氏と北朝鮮との関連付け)して、一向に、像を結べなくなってるからです。

 こういった場合、報道されてる文脈から切り離し、ハダカの事実は何か?ということを検証しながら、それを当時の政治状況に置いてみるといい。 そうすれば、例えばオウムについてのCIAリポートでいう「ロシアのネットワーク」についても、当時のロシアの政治状況に置くと、同書の指摘とは真逆ー即ち、当時のロシアは、91年暮れの「ソ連邦崩壊」に始まる破壊と混乱の只中にあり、国家機能が最も弱体化し、とても他国に工作を仕掛けるような意図も能力も有していなかったーと見るのが正しいからです。 

 逆にこの時期、後に「オレンジ革命」(ウクライナ)・「チューリップ革命」(キルギス)・「バラ革命」(グルジア)等(これ等を米では<革命>と言わずに<プロジェクト>と言っている。 詰まりは計画されたものということ)の親米政権を生み出し、カフカスやグルジア等の紛争に繋がっていく、アメリカ側からのロシア及び旧ソ連邦地域に対する破壊・謀略工作が最も活発になされたのであり、そうした観点に立ってみれば、これもそれらの工作の一環であり、オウムはそのダミーに過ぎなかったーと見る方が正しいことが解って来るでしょう。 ウクライナを始め、オウムのロシアコネクションで登場する人脈及びネットワークは、アメリカ極右を中核とするWACL(世界反共連盟)に重なっていることを見ても!

 北朝鮮についても同断です。 ソ連の崩壊以降、極端なエネルギー不足に伴う経済と安全保障環境の悪化に加え、建国の父=金日成氏が死去し、3年の喪に服したこの時期、只でさえ閉鎖的、内向的、全身ハリネズミのようにして生きて来たこの国は、更に小さく縮込まって、自らの身を守るのが精一杯だったのだから。 逆に、この窮状につけ込んで、外部からの様々な「働き掛け」が為されていたと考えるのが自然であって、この点においても、ロシアと同様、ベクトルは全く逆なのです。

 ロシアや北朝鮮が何等かに絡んでると思ってる人は、それこそ、マインド・コントロールされているのです。同様に、同リポートで指摘する「100人に上る現役自衛隊員」や「米国防総省を凌駕する、多数の科学者・科学技術者の存在」も、当時の日本の政治状況に置いてみれば、全く異なった光景が浮かんで来ます。

 オウム事件への政治的考察  ーオウム事件=サリン事件ではない

 本論の骨子の部分は、10何年か前、阿修羅とは別の場所で書いたモノですが、今回載せるに当り、その後の経過も含めて、現在から解り易いように、書き直し(加え)ました。 勿論、政治的考察の骨格は変えていませんし、今もそれは有効であると思っておりますが、現在と繋げることで更に良く理解出来ると考えたからです。
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 さてオウム事件ですが、問題をハッキリとさせる為に、サリン事件とは別けて考えたいと思います。 勿論重なってる部分も在りますが、「オウム裁判」の全過程が明らかにしているように、実体から見れば明らかに別モノとしてみるべきだからです。オウムにはサリンを製造することも出来なければ、それを使って、松本や地下鉄であったような破壊活動を行う能力も無かった(彼らが作ったモノはサリンもどき、作った本人土谷の言葉を借りれば、ダミーサリン)ーあらゆる先入観とか偏見を排して客観的に見て行く限り、そのような結論にならざるを得ない。では現実に起きたサリン事件との凄まじい落差をどのように考えたら良いのか? 言うまでも無くそれがオウムとサリン事件の重なる部分ということですが、そちらへ行く前に、オウムとは何だったのか?何故オウムだったのか?を探ってみようと思います。

 オウムを見て先ず気付くのは、冷戦が終焉に向かう頃から活動が活発になり、勢力が急激に拡大して行ってることです。 無論、その客観的な背景は明らかでしょう。冷戦体制というそれまで社会を覆っていた擬制、或いは無意識の内に共有していた枠組みが崩れ、それまで疑われることの無かった物事の自明性が揺らいでくる時、生き方とか在り方も含め、改めて基軸を求め直す手掛りとなるのは宗教であり、殊に宗教が本来持っている原初的な<世直し>のエネルギーが最も感じ取れるところに惹き付けられていくー多くの宗教学者や専門家が言及しているように、当時、オウムはそういったポテンシャルを有する存在として映っていたことは確かだったでしょう。 近代化という世俗化が、或る意味、極限まで進んだ日本において、宗教の持つ超俗的な面と、選挙に出たりビジネスに走るという、極めて俗的な面を併せ持つ集団ー近代的でありつつ、同時に近代を超える潜勢力を持った存在として、時代の動向に最も鋭敏に反応したのがオウムだった、と言う訳です。

 何故オウムだったのか?というのも、単えに、この点に係ってくるのです。

 「地下鉄サリン事件」の概要が分かった時、これは殆ど軍事作戦だと想われ、軍人か十分に訓練を受けた者の仕業だと感じました。事件後、直ぐに韓国から軍事専門家がやって来て、詳細な検証の結果、「これは素人がやったものではない」という結論に達し、それを受けて、韓国政府が全土に非常厳戒態勢を敷いたという事実も、私の見方を裏付けるものでした。そうして、石原莞爾が「最終戦争」の後に予見していた、少数の戦闘者による不正規の戦い、所謂<不正規戦>の時代にいよいよなったのだな、と思いました。

 更にこの後、2期目に入ったクリントン大統領が直ちにやったのが統合参謀本部議長即ち制服組のトップに、米軍史上初めて、不正規戦部門出身者を据えたことも、我が見方を補強するものだと思っております。しかしながら、現実の展開は、ご承知の通り、「全てオウムがやったこと」となっています。 それは何故なのか?何故オウムだったのか?

 オウム事件再考   ー「普天間」と「韓国哨戒艦沈没」を繋ぐもの

 「戦後最大の外事事件」(川辺克朗)とされながら、その全貌はもとより、肝心な部分が明らかにされないまま、限りなくあやふやな形でオウム事件は終わり、忘れ去られようとしています。 詰まりはそれは、「気が狂った奴等が起こした社会的事件」というイメージに閉じ込められたまま,それ以外の一切の関わりが不明のままになってるからです。 私見によれば、取り分けそれは政治との繋がりが隠蔽されているからで、従って、隠蔽された政治との繋がりを明らかにすることはこの事件の真相に迫る近道と、逆に、言えるかも知れません。 そしてこれが、単に過ぎ去ったことではなく、現在の政治をもなお拘束しているとしたら、やはりこの点からのアプローチは是非とも必要と考える次第です。 翻って、それが現在の政治状況を逆に照射することにもなるでしょうから。

 更に又、一部で囁かれている危険な兆候、即ち”グローバリスト”による、「IT」の次なるビジネスモデルとしての「国土安全保障」(要するに、治安や安全を金儲けの手段にすること)のターゲットに日本も含まれているということを過小にみるべきではないと思う故に。改めて言うまでも無く、9.11から「対テロ戦争」という軍事バブルを生み出したビジネスモデル(!)の原図が「狂信的な宗教過激派によるテロリズム」であり、サリン事件はその嚆矢であったとしたら、最近俄かに騒がれ始めた”核テロの脅威”を「共通の認識」にすることを目的に開かれた「核保安サミット」なるものが次なるビジネスの為のプレゼンテーションの前哨として捉えると、かかるビジネスモデルを稼動させる為の”何か”が仕掛けられることは十分に考えられるからです。  果たしてその舞台になるのは何処か? またまた日本なのか?それとも再びアメリカなのか?或いはそれ以外の何処かなのか?、、、

 その意味で、オバマ直々の要請で次の開催地が韓国になったのは、やはり、注意を要すべきことであろうと、敢えて言っておきます。 加えて、極めてタイムリーに起きた「韓国哨戒艦沈没」、原因が何であれ、これが、鳩山政権の前身ともいえる、細川政権崩壊の大きな要因となった「朝鮮半島核危機」と似た様な展開になっていくのかどうか? この時の「朝鮮半島危機」が、細川政権追い落としの為に、米軍が意図的に膨らませたもの(と私は見ております)とするなら、今回もまた、似た様な状況が現出して来ることも考えられるからです。 そうして、羽田政権崩壊と相前後して起きた松本サリン事件と翌月の金日成氏死去、今また金正日氏の健康不安説が取沙汰されてる中、宮崎で起きた「口蹄疫」−伝えられてる通り、最初の発症が3月26日だとすると「韓国哨戒艦沈没」と同じ日!しかもウィルスの潜伏期間が1週間前後と言われてることを考えれば3月20日前後、つまり「地下鉄サリン事件」から丁度15年目に当たる!−まぁ、これらが偶然だとしても、何となく、状況が前回と不気味に似通って来るような、、、、、

 無論これらがオウム事件と政治的に同じ意味を持ってると主張したいわけではありませんが、その違いを考える為にも、オウム事件を政治的に捉えておくことが必要と考えた次第です。本論の方は「議論」板に載せておきますので、興味ある方は覘いてみて下さい。なお本論の骨子の部分は、10何年か前、阿修羅とは別の場所で書いたモノです。  





(私論.私見)