イッキュウ考 |
(最新見直し2008.5.19日)
風狂の高僧「一休宗純」 (1394~1481年) | ||||||||
前稿「良寛」に続き、同じく禅僧でありながら「風狂」の自由人、大胆な愛情表現を詩にまじえた「一休宗純」を寄す。一休の漢詩には、当時の堕落した禅僧たちへの批判とともに、悟りの境崖を喝仰(深く仏を信じること)する純粋な姿勢が現れている。 | ||||||||
①出自・来歴
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禅宗である臨済宗の僧侶で、室町時代に生きた。一休の母は、南朝の藤原氏の血筋であるが、北朝の後小松天皇に仕え、後小松天皇に寵愛された側室で、一休は後小松天皇帝の落胤とも伝えらる。 母の悲運と自らの数奇な生い立ちは、一休の生涯に影響を与えたとされる。6歳で出家し戒名「宗純」を得る。各地の寺を転々とし禅の修行に励む最中、入水自殺未遂を経験、25歳の時に大徳寺高僧から「一休」の法名を授かる。 一休は寺を出て各地を行脚しながら自由人として88歳ま で生きた。一休は説法を行うとともに、名利を否定、酒を浴びるほど飲み、女色を愛し、男色を好み、詩歌、書画に秀でる歌を詠み、「風狂」生活を送る。「風狂」とは、中国の仏教、特に禅宗において重要視される。仏教の戒律などを逸した行動について、その悟りの境地を現したものとして肯定的に評価する言葉で、風変わりな一休の行動には、仏教界への批判と抵抗がその背景にあったとされる。 | ||||||||
②「風狂」の自由人 | ||||||||
一休の生きた時代は「応仁の乱」などが起こった戦乱の時代。干ばつや冷夏、台風など異常気象が起こり、飢饉や疫病も発生、人々は苦しみの中にあった。その混乱の中、仏教は形骸化して僧侶の多くは堕落していた。禅僧でありながら、同じ「臨済宗」、あるいは「曹洞宗」の指導者、禅宗俗物僧侶に対する激しい批判を繰り返し、規律を否定した反骨的で奔放な叛逆の人生を送った。81歳のとき、勅をうけ臨済宗「大徳寺」本山の住職となる。
無念の思いから出た奇行は、やがて伝説化されて、死後「一休咄」が作りだされ、現在に至るも「一休さん」として、広く親しまれている。
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一休、晩年の恋 | ||||||||
一休77歳の頃、30歳の遊芸人の「森女」(しんじょ)と出会う。住吉神社の巫女で盲目だった「森女」は、美女で舞いは美しく歌は艶やかであった。森女は一休を慕い、一休頼って身を寄せる。 老禅師は偈頌(禅僧の詩)集『狂雲集』の中で、森女のことを「一代風流之美人」と語り愛しんだ。一休宗純の恋は、純真一途であった。一休88歳で亡くなるまでの約10年間、「森女」と共に過ごした。「狂雲集」のなかで、森女との交情を数多く詠んでいる。一休の命の声が聞こえる。 | ||||||||
詩と偈頌語録 『狂雲集』 | ||||||||
代表作は偈頌漢詩集『狂雲集』。七言詩の型式をとる説法という形で衆人に示された。「狂雲」とは一休の自号。中国では「狂」という言葉は、文学的な高い境地を示す言葉として用いる。詩集は自由奔放、「破戒」を印象づける詩が多いのが特徴。
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①「無題」
秀句寒娥五十年 秀句寒娥五十年
愧泥乃祖洞曹禅 愧ずらくは泥乃の洞曹禅に泥みしことを
秋風忽酒小時涙 秋風 忽ち酒(そそぐ)小時の涙
夜雨青灯白髪前 夜雨 青灯白髪の前
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字義・補記
〇寒娥(かんが) 寂しい歌 〇泥乃(だいそ) 祖父 〇洞曹禅) 洞曹禅のこと 〇青灯 暗く寂しい灯影
〇この詩は70歳時に、13歳で初めて詩を学んだ頃のことを回想し詠んだ。
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②「春衣花宿」
吟行客袖幾詩情 吟行の客袖幾ばくの詩情ぞ、
開落百花天地清 開落百花、天地清し
枕上香風寐耶寤 枕上の香風、寐(み)か寤(ご)か、
一場春夢不分明 一場の春夢、分明ならず。
意訳
花の香りのもとで、たのしみをつくした一時の思いにふける。
あっという間に散った百花の情。家に帰って寝ころんでみたものの、夢かうつつか、まだ瞼に消えず、枕元にかけられた衣から、その香りがただよってくる。
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補記
これは、一休15歳のときに作った色歌。「春衣宿花」とは、花見の新しい晴れ着をつけて、花の下に眠ること。艶めかしい感じがある。春は男女の恋を譬え、「開落花」、「枕上香風」、「一場春夢」等、艶めき15歳一休が女性への強い関心を示し、早くも艶詩を作る素質を見せている。
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③「題淫坊」
美人雲雨愛河深 美人の雲雨愛河(あいが)深く
樓子老禅樓上吟 樓子(ろうし)老禅樓上に吟ず
我有抱持啑吻興 我に抱持(ほうじ)啑吻(そうふん)の興有りて
竟無火聚捨身心 遂に火聚(かじゅう)捨身(しゃしん)の心無し
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字義・補記
〇淫坊 淫売窟・女郎屋 〇美人雲雨愛河深 美女との情愛の愛慾は深く
〇雲雨 中国「巫山雨」の故事に基づく男女の交情をいう。
楚の襄王が巫山で夢に神女と契ったことをいう。神女は朝は巫山の雲となり夕べには雨になるという故事。
〇樓上 女郎屋 〇樓子(ろうし) 遊女 〇老師
一休のこと
〇竟無火聚捨身心 煩悩の身を捨てるという心は、起きなかった
〇捨身 仏教用語 仏門にはいること 出家
〇火聚(かじゅ) 仏教用語、煩悩の火に包まれている人間の譬
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④「婬水」
夢迷上苑美人森 夢に迷う上苑美人の森
枕上梅花花信心 枕上の梅花 花の信の心 滿口淸香淸淺水 口に満つる清き香、清浅の水
黄昏月色奈新吟 黄昏の月色、新吟を奈(いかん)せん
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⑤「美人陰有水仙花香」
楚臺應望更應攀 楚臺 應に望むべく更に應に攀づべし
半夜玉牀愁夢顏 半夜玉牀愁夢の顏
花綻一莖梅樹下 花は綻ぶ一莖梅樹の下
凌波仙子繞腰間 凌波の仙子腰間を 繞る
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⑥「端午」
千古屈平情豈休 千古の屈平情豈休せんや
衆人此日酔悠々 衆人 此日酔って悠々
忠言逆耳誰能会 忠言耳に逆う誰か能く会せん
只有湘江解順流 只湘江の順流を解する有り
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補記
端午の節句を詠んだ作品。5月5日は楚の「屈平」が「汨羅」にを投じた日。屈平の霊を祭る為に端午節が出来た。
21歳のとき人生に悲観して瀬田川に身を投じたが運よく助けられた一休、「汨羅」の江に身を投じた楚の「屈平」に想いを馳せ、慈しんで詠ったか
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⑦「辞世の詩」
十年花下理芳盟 長らく花の下に詩情を理(おさ)めてきた
一段風流無限情 私の一生涯の風流は、無限の情の中にある
惜別枕頭児女膝 枕辺に侍する女の膝に別れを惜しむ
夜深雲雨約三生 夜更けの交情を生まれ替わっても誓う
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大意
長らく花の下に詩情を理めてきた一生涯の風流は、無限の情中にある枕辺に侍する女の膝に惜別す 夜更けの交情を生まれ変わっても誓う
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⑧「座右の銘」
一休、後半生長い巡歴生活の中で、次の詩を座右の銘にしていた。
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補記
時の権力を握る者と結びつけば、自由を売ったと同じく、真の宗教家になれず、その追従者にならざるを得ない。これは古今東西、誰もが権力との癒着によりもたらされる罰を遁れない。
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「諸悪莫作 衆善奉行」 (書) | ||||||||
一休は優れた「書家」でもあった。中でも「諸悪莫作 衆善奉行」と書いた、対の掛け軸が評価高く有名(京都・真珠庵所蔵、画像参照)。「七仏通誡偈」と呼ばれる句のうちの初めの2句です。
諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
補記
この句は、仏教の教義の根本を表す言葉として有名
“ どんな悪もなさず善を行い、自ら心を綺麗にすることが仏の教えである”
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一休宗純、「名言集」抜粋 | ||||||||
一休が布教の先々に説法という形で衆人に発した言葉。以下抜粋。
①「大丈夫だ、心配するな なんとかなる」 (一休の遺言)
一休が亡くなる間際に、どうしても困ったときに開けないさい、と弟子たちに残した手紙には「大丈夫だ、心配するな なんとかなる」と書かれていた由。しかし、一休臨終の最後の言葉は、「死にとうない」だったとされる。
② 「正月は、冥土の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし」
③「自心即ち仏たることを悟れば、阿弥陀願うに及ばず 自心の外に浄土なし」
④ 「自分の人生は、自分一代のもの」
⑤「詩を作るより、田を作れ」
⑥「この道を行けば、どうなるものか危ぶむ莫れ 危ぶめば道はなし迷わず行けよ行けばわかるさ」
⑦ 「渇して水を夢み、寒ずれば衣を夢み、閨房を夢見る、すなわち余乃性なり」
⑧ 「生まれては、死ぬるなり。釈迦も達磨も、猫も杓子も」
⑨ 「人間の有様は、万事が止まることがない。生の始まりを知らないと、死の終わりを弁(わき)まえない。やみやみ茫々として、苦しみの海に沈んでいく」
➉ 「袈裟がありがたく見えるのは、在家の他力本願」
⑪「自心、すなわち、仏であることを悟るなら、阿弥陀に願うに及ばず、自心の外に浄土なし」
⑫ 「花は桜木 男は武士 柱は檜 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの」
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画像(PC)
①一休禅師 ②一休宗純と森女 ③京都・酬恩庵一休寺(一休示寂の寺) ④ 「諸悪莫作 衆善奉行」 (京都・真珠庵―臨済宗大本山大徳寺の塔頭、一休宗純が開祖創建) ⑤京都・大徳寺 (臨済宗大徳寺派大本山)
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(私論.私見)