栄西(えいさい、ようさい、永治元年(1141年) - 建保3年(1215年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧である。明菴 栄西(みんなん えいさい、みんなん ようさい)とも呼ばれる。臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。生年には異説がある。生地は備中国賀陽郡(岡山県加陽郡は現在加賀郡吉備中央町)。
栄西の履歴考 |
(最新見直し2008.5.19日)
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栄西(えいさい、ようさい、永治元年(1141年) - 建保3年(1215年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧である。明菴 栄西(みんなん えいさい、みんなん ようさい)とも呼ばれる。臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。生年には異説がある。生地は備中国賀陽郡(岡山県加陽郡は現在加賀郡吉備中央町)。 |
1141(保延7、永治元)年、4.20日、吉備津神社の社家の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生。曽祖父は薩摩守貞政。誕生地は、賀陽町(現岡山県加賀郡吉備中央町上竹)という説もある。
『紀氏系図』(『続群書類従』本)には異説として紀季重の子・重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。
1148(久安4)年、8歳の時、『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。 1154(久寿元)年、14歳の時、千寿丸が比叡山延暦寺にて出家得度、受戒して「栄西」の名を戴く。以後、延暦寺、吉備安養寺(現臨済宗建仁寺派)の天台宗寺門派 靜心に付き修行する。寺伝によれば栄西自作の栄西像がある。伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。 1156(保元元)年、保元の乱。 1157(保元2)年、17歳の時、千明の指導を受ける。靜心の遺言。 1158(保元3)年、18歳の時、千明より虚空蔵求聞持法を受ける。 1159(保元4)年、19歳の時、叡山の有弁。竹林院で天台教学を学ぶ。平治元年。平治の乱。池禅尼(平頼盛の実母)が頼朝の命を助ける。 1162(応保2)年、22歳の時、全国に疫病。父母を故郷に訪ねる。 1163(応保3)年、23歳の時、安養寺。千明。金山寺。日応寺。三摩耶の行(穀物を断つ21日間)。 1166(仁安元)年、26歳の時、頼盛。鎮西の太宰府。頼盛、太宰の弐になる。平頼盛(清盛の異母弟)。太宰権小弐に宇佐神宮の神官、宇佐大宮司をあて、香椎宮の領家となり、西海一帯の支配を強める。 1167(仁安2)年、27歳の時、第55代天台座主。明雲に。伯耆 大山寺天台密教阿闍梨・基好上人に付き、蜜乗の肆をうけ、穴太流の蘊奥を究める。叡山 横川 南楽房・顕意阿闍梨に密潅をうける。第55代天台座主明雲に会い、頼盛にも会う。備中 安養寺千明和尚を訪ね、師匠静心の墓参をする。師走3日 父母の元を辞して、宇佐神宮に参る。 1168(仁安3)年、28歳の時、平清盛が出家。阿蘇山、安楽寺(現太宰府天満宮)、宝満山、箱崎宮、香椎宮、住吉宮に参拝。形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平氏の庇護と期待を得て南宋に留学。4月3日、博多(袖湊)出港。4月24日、甬江(ようこう)溯ること約20キロ明州(,寧波)の港に着く。重源(48歳俊乗房)と出会う。栄西の「入唐縁起」によれば「相視互流涙」と記している。5月19日、明州の四明(浙東地区)から(丹丘)天台山に重源と行く。横護庵(おうごあん)から入山。万年寺の山門。白鶴鎮を越えて、石橋(七星橋の一つ)を渡る。5月24日、万年寺に到着。5月25日、天台の石橋 餅峰(蒸餅峰) 五百羅漢に茶を供える。国清寺を尋ねる 国清寺は598年隋開皇18年天台宗として開創。建炎4年(1130)「易教為禅」の詔により禅宗となる。新章疏をもとめる。6月10日、体調崩し丁子を煎じ戴く。後に「喫茶養生記」の体験談となる。6月上旬、阿育王寺の仏舎利塔参拝「舎利法光」開山は慧達。廬山に上り、東林寺を参拝。9月、重源と帰国。怡土の今津比叡山座主明雲に中国国清寺で求めた天台新章疏30余部60巻を献上する。当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった。 明雲より「明」の字を戴く。東谷・葉上房 天台密教 葉上流を開き、開祖となる。 1169(仁安4)年、29歳の時、備前御野郡 遍照院(金山寺)を法相宗から天台宗に改める。備中後月郡 清和寺を安井寺に改称 (明治15年復称)。備前津高郡 日応寺。 1174(仁承安4)年、34歳の時、鎮西(九州)へ。 1175(安元元)年、35歳の時、10月23日 誓願寺 落慶法要「誓願寺創建縁起」。仲原氏太良の願楽 僧・寛智が建立。誓願寺盂蘭盆一品経縁起、胎口決、出纏大綱、菩提心別記、菩提心論口決等を著す。 1177(安元3)年、37歳の時、『無明集』( 密教について問答形式で書かれた入門書)を誓願寺で書く。治承4年(1180年)に写された写本を名古屋市の大須観音が所蔵している。大須観音は『無明集』のほか『隠語集』など複数の写本に加え、直筆書状15通なども所蔵する。 1180(治承4)年、40歳の時、暮れ、東大寺火災 平重衡(清盛の子)。 1181(治承4)年、41歳の時、2月4日 清盛 滅。養和元年 東大寺造営大勧進 重源61歳。 1184(元暦元)年、44歳の時、大仏修復 宋の鋳物師・陳和卿。 1185(文治元)年、45歳の時、平頼盛出家、得度 戒師 栄西。5月29日 東大寺大仏開眼供養。文治寺 筑前香椎庄 天台宗の寺院 開山栄西 開基平頼盛。神泉苑祈雨 後鳥羽天皇(6歳)より「葉上」号、紫衣を賜る。阿蘇山に和修吉竜王、狗留孫山に健盤竜王・婆寫竭竜王。筑前今津に八大竜王 唐泊東林寺に青体竜王を祀る。 1186(文治2)年、46歳の時、7月「金剛頂宗菩提心諭口決」 天竺行きを決意。 1187(文治3)年、47歳の時、4月19日 再び入宋。今津より出航。4月25日 臨安に着く 銭塘江 六和塔(六角十三層)。天竺行きは許可されなかったので、帰国の途に着く。暴風に遭い浙江省南東 瑞安に漂着。もう一度天台山に行く事する。万年寺を訪れ、虚庵懐敞に出会い師事する。 1188(文治4)年、48歳の時、万年寺の山門・回廊の修復、放生池(栄西池)造成。智者塔院(真覚寺)大慈寺(修禅寺)。疫病退散の祈祷、雨祈祷により南宋の孝宗より「千光」の号を賜る。吉祥旦三蔵法師の墓前の偈。海外精藍得得来。青山迎我笑顔開。三生未朽梅花骨。石上尋思掃緑苔唐土(もろこし)の梢もさびし 日の本の ははその紅葉 散りやしぬらむ (続古今集)。 1189(文治5)年、49歳の時、9月15日 虚庵より大乗菩薩戒(心地無相戒)を授受される。菩提樹を日本へ送る 「出家大綱」を著す。暮 天童寺(太白山天童景徳寺)に虚庵に就いて移る。 1191(建久2)年、51歳の時、虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受ける。同年、帰国。 福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前、肥後を中心に布教に努める。 7月 虚庵懐敞に嗣法 印可状授与。帰国 平戸島北部 古江湾の葦ノ浦に着く 戸部侍郎清貫が出迎える。8月8日 法筵を富春庵(後の千光寺)で開く。 1192(建久3)年、52歳の時、報恩寺で初めて菩薩大戒にて布薩会(授戒会)を行う。 1193(建久4)年、53歳の時、筑後に千光寺を開く 草野永平より七堂伽藍(塔中七ヶ寺)、田12町歩の寄進を紹煕4年(中国) 周防の材木を送り、天童寺に千仏閣を建立。石碑「太白名山千仏閣記」あり。背振山霊仙寺石上坊(いわがみぼう)に茶を植える。栂ノ尾の明恵上人に茶の種を送る 宇治にも茶を植える。 1194(建久5)年、54歳の時、彼や大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。 1195(建久6)年、55歳の時、博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。 同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。3月12日 東大寺 大仏殿落慶。菩提樹を東大寺、鯖木の跡に植える。博多 聖福寺を日本最初の禅宗寺院として創建する 栄西言上書。 1197(建久8)年、57歳の時、張国安と面談。 1198(建久9)年、58歳の時、 『興禅護国論』執筆。 禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。「未来記」。 1199(正治元)年、59歳の時、 栄西禅師 鎌倉に入る 二代頼家に会見する。釈円房栄朝が参じる 葉上流の密。 1200(正治2)年、60歳の時、 北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。1月13日 法華堂にて頼朝一周忌の導師を行う。2月 亀谷の源頼朝の旧跡を寿福寺とする。7月 北条政子、寿福寺に16羅漢像を置き、開眼供養の導師は栄西禅師に。行勇 寿福寺に栄西禅師を尋ねる。 1202(建仁2)年、62歳の時、源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。 建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。2月 沼浜の旧跡を移し、寿福寺の殿堂にする。6月22日 建仁寺を創建 二代頼家 真言、止観、禅門の三宗。 1204(建仁4)年、64歳の時、建仁寺に菩提樹を植える。「斎戒勧進文」・「日本仏法中興願文」を著す。 1206(元久3)年、66歳の時、重源(東大寺)、栄西より菩薩戒を受ける。建永元年6月5日 重源 寂 南大門(国宝、重源の時)。9月18日東大寺 大勧進になる 鐘楼(国宝、栄西の時)。重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。 1207(建永2)年、67歳の時、この頃、明恵上人参ずる。 1211(承元5)年、71歳の時、正月「喫茶養生記」を著す。 1212(建暦2)年、72歳の時、法印に叙任。 1213(建保元)年、73歳の時、権僧正に栄進。鎌倉幕府2代将軍源頼家の子の栄実が栄西のもとで出家する。 1214(建保2)年、74歳の時、2月 三代実朝に「茶」と「喫茶養生記」を献ず。『喫茶養生記』は上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)という別称もある。書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが定説はない。 1215(建保3)年、75歳の時、7月5日 建仁寺で遷化。享年75(満74歳没)で病没。終焉の地は鎌倉と京都の2説がある。『吾妻鏡』によれば結縁を願って鎌倉中の人々が集まり、源実朝の代理として大江親広が臨終に立ち会ったという(建保三年六月小五日癸亥条)。 |
日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、夜の説法(●意味不明)を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回も披露している。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最近の研究では会っていないとされる。 |
(私論.私見)