天台宗概論

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).11.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、天台宗を概括しておく。ウィキペディア天台宗」、「天台宗」、「教学」、[ 天台宗 ] 中国の天台宗 日本の天台宗」その他を参照する。

 2011.2.13日 れんだいこ拝


【天台宗総合解説】

 天台宗は、法華経に三宗を加えた円密禅戒を旨とする。山門派と寺門派に分かれる。日本近現代の教団としての天台宗。比叡山延暦寺を総本山とする仏教教団。天台宗山門派。延暦寺派。

 教主:久遠実成の釈迦如来、開祖:天台智者大師・伝教大師 最澄(767年-822年)。主な経典:法華経・阿弥陀経・大日経・梵網菩薩戒経。寺院の御本尊:金剛界・胎蔵界曼荼羅に含まれるすべての諸仏・諸菩薩・諸明王・諸天。お唱えする文句:南無妙法蓮華経・南無阿弥陀仏。

 比叡山の教学は、開祖伝教大師が「山家学生式」(さんげがくしょうしき)において、比叡山で修学修行する者の専攻を「止観業(しかんごう)」と「遮那業(しゃなごう)」の両業と定めたことを基本としている。「止観業」とは、中国隋代の天台大師・智顗(ちぎ)(538~597)が自らの証悟により体系づけた法華経を教義の根幹とする天台教理及び実践のことを云う。「遮那業」は、大日経を中心とする真言密教のことを指している。

 最澄は、比叡山で修学修行する者は、止観業か遮那業のいずれかを専攻することと定め、日本天台宗の教学の根本をなす柱となしている。止観業である「法華一乗(ほっけいちじょう)」の教えと、遮那業である「真言一乗(しんごんいちじょう)」の教えは共に成仏する為の究極の教えであり、両者に優劣をたてるべきではないとしている。これを「円(天台法華)密(真言密教)一致説」と言っており、伝教大師の門弟である慈覚大師円仁(794~864)や智証大師円珍(814~891)、五大院安然(841~902~)などによって教学的に体系づけられて行った。

 止観業で説く法華一乗の実践を「止観」(しかん)といい、「止」とは禅定、「観」とは智慧を指している。具体的には「四種三昧」(ししゅざんまい)(常坐三昧、 常行三昧、 半行半坐三昧、非行非坐三昧)という修行形態で示されている。「常坐三昧」はもっぱら坐禅を行う修行法であり、この法門からは栄西禅師や道元禅師などを生み禅宗が開祖された。「常行三昧」は常に歩くという行道の形態の行法で、阿弥陀仏を本尊として念仏を唱えることから、この法門から恵心僧都源信和尚や法然上人、親鸞聖人などの叡山浄土教が開祖された。「半行半坐三昧」は法華経による法華三昧の行法を指す。この法門からは、法華の題目を唱えた日蓮聖人による法華信仰が開祖された。「非行非坐三昧」は、坐禅や行道以外のあらゆる修行方法のことであり写経などの行法がある。端的に言えば日常生活がそのまま止観の修行であるということになる。

 一方、「遮那業」は身と口と意の三業(行為)による真言念誦を指し即身成仏を目指す。天台宗の密教は台密といい、胎蔵界、金剛界、蘇悉地の三部だてであり、中世以降になって台密13流が興隆し、現在も三昧(さんまい)流、法漫(ほうまん)流、穴太(あのう)流、西山(せいざん)流が伝承されている。

 比叡山の修行は、真言密教の不動明王を本尊として礼拝行道する千日回峰(かいほう)行や伝教大師御廟浄土院での十二年篭山行など、現在に伝承されている。比叡山の天台仏教の特色は、教えと実践が一致しなければならないという点にある。これを「教観双美(きょうかんそうび)」とも「解行一致(げぎょういっち)」とも云う。天台大師は「智目行足(ちもくぎょうそく)もて清涼池に到る」と説いた。即ち仏の教えをよく学んで智慧の目を養うだけでなく、自らの足で歩むという実践が伴って始めて清涼池のごとき仏が目指す理想の境地「悟り」に到り着くことができると示した。(「教学」参照)

【中国の天台宗】

 天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつであり、中国に発祥した教学で妙法蓮華経(法華経)を根本経典とする。初祖は北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智顗である。龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする説もある。慧文は、龍樹による大智度論と中論に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。慧文教理が慧思を介して智顗に継承された。

 隋の天台智者大師・智顗(ちぎ)(538年-597年)は、釈迦の説法の違いに着目し、5つの時代にわけて仏教の諸経典を体系的に分類し(五時八教)、その最終時に属する「法華経」を軸にして諸宗の教学を総合した。鳩摩羅什訳の法華経・摩訶般若波羅蜜経・大智度論、そして涅槃経に基づいて教義を組み立て、法華経を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観を中心とした修行法を体系づけ、止観理論面と実践面を共に重視する新しい教学体系をうちたてた。智顗の主著「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」は天台三大部または法華三大部といわれる。他にも多くの経典注釈書や実践論を著わしている。これにより智顗を実質的な開祖とする。

 智顗は、中国の浙江省天台県にある仙霞嶺山脈中の一高峰の天台山を修行の地に定め根本道場を開いたため天台大師と呼ばれ、その系譜が天台宗と呼ばれるようになる。しかしながら、鳩摩羅什の訳した法華経は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されているという説がある。羅什が法華経、摩訶般若波羅蜜経、大智度論を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。

 天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。主に智顗の法華玄義、法華文句、摩訶止観の三大部を天台宗の要諦としている。これらの智顗の著作を記録し編集したのが第四祖の章安灌頂(561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)が居り、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗(672年-753年)が出る。灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖・荊渓湛然(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。その門下に道邃と行満が出て最澄に天台教学を伝えることになる。

 智顗の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作は禅の解説書ではあるが、止観(精神集中と観察)の結果として禅定=三昧(心身の安定)を考え、漸悟(段階的な悟り)を考えた点が、頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視した、華厳宗の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、潙仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の禅宗と考え方が異なっていた。しかし、智顗の著作の座禅に関する名解説は中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。

 天台宗の教学は、華厳宗の教学とともに中国仏教の二大思想として展開し、後世に大きな影響をあたえた。智顗のあとを弟子の灌頂(かんじょう)がついで天台宗の教団の基礎を確立し、中唐には湛然(たんねん)が三大部の注釈書などをあらわし、華厳思想をとりいれた教学を展開した。その後、戦乱などによって中国仏教全体が衰退したが、宋代には知礼(ちれい)らが70年におよぶ活発な教学論争をくりひろげた。明代以降は禅や浄土思想(→浄土教)との融合がすすみ、明末には智旭(ちきょく)が天台宗の復興につとめた。(「[ 天台宗 ] 中国の天台宗 日本の天台宗」) 

【中国の鑑真和上の来日】

 遣唐使の栄叡(ようえい)と普照が「日本では、かつて隋の南岳大師慧思が日本の聖徳太子に生まれ変わって ※ 法華経を弘めたものの、今だ戒律が伝わらず、戒律を授ける高僧10人が是非とも必要です」と言った。慧思は天台大師の師匠でもあるが、鑑真にとっても5~6代前の祖師に当たる。天台と戒律に詳しい鑑真和上はこの言葉に鑑真和上は祖師である南岳大師慧思が日本から自身を呼んでいる実感をいだいた。それが、難破や師僧の出国を願わぬ弟子などの妨害など5回の失敗を乗り越え、自ら視力を失う辛苦を味わいながらも日本に渡った理由になる。

 天平5年(733)に派遣された遣唐使により、インドの菩提僊那(ぼだいせんな)や唐の道弱(どうせん)といった僧を日本に招請したが、正式な授戒には少なくとも三師七証の10人の僧が必要だった。そこで、鑑真和上の招請となる。律宗と天台宗兼学の唐の高僧・鑑真和上(687-763※)が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。来日してからは東大寺に戒壇院を築いて、日本で最初の受戒会を弟子とともに行った。また、唐招提寺を開いて戒律を教え導いた。日本の律宗の開祖となる。古寺を修理したり、一切経を写経するなど高僧として信望があつかった。一方日本では僧尼令があったが、それに反した行基菩薩(668-749)の民間伝道や私度僧の増加などにより、律令政府は唐の授戒制度や戒律研究を必要としていた。 

 鑑真和上の入滅から3~4年後に生まれた伝教大師最澄(767-822)はこの典籍を読んで天台法華教学に目覚め、後に入唐して天台仏教を日本にもたらす。実に鑑真和上の不屈の日本渡航の業績は天台法華仏教にとっても大きな偉業である。鑑真和上の生没年には、688-763、687-763、688‐769など諸説あり。

 「遊方記抄」(大正新脩大藏經 51巻 P988 b L13)

 榮叡普照至大明寺。頂禮大和尚足下。具述本意曰。佛法東流。至日本國。雖有其法。而無傳法人。日本國昔有聖徳太子。曰二百年後。聖教興於日本。今鍾此運。願大和上東遊興化。大和上答曰。昔聞南岳思禪師遷化之後。託生倭國王子。興隆佛法。濟度衆生。

【最澄の履歴】
 後に日本の天台宗の開祖となる最澄(さいちょう)(伝教大師、でんぎょうたいし)生年に関しては766(天平神護2)年説、767(神護景雲元)年説が存在する。子に恵まれない両親が、比叡山にお祈りしたところ授かったと伝えられている。

 767(神護景雲( じんごけいうん )元)年説は次の通り。最澄(さいちょう)が近江国滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生を受ける。最澄入寂の翌年にあたる823(弘仁(こうにん)14)年または825(天長(てんちょう2)年の成立とされる最澄に関する最も基本的な伝記「叡山大師伝」(えいざんだいしでん)が生誕年を明記せず、822(弘仁13)年に寂した最澄の享年を「五十六」(数え年)と記しているので、そこから逆算して767年という生年が導かれている。

 別説の766(天平神護(てんぴょうじんご)2)年説は次の通り。こちらは当時の公文書にもとづいている。例えば、780(宝亀(ほうき)11年に近江国府(こくふ)によって発給された最澄を得度(とくど)させることを認める「近江国府牒(ふちょう)」は、当時の最澄の年齢を「十五」と記しており、そこから逆算すると、生年は766年になる。最澄の生年を766年とする公文書はこの他に「度縁」(どえん)、「僧綱牒」(そうごうちょう)の二つがある。但し、現存する「近江国府牒」と「度縁」は正文ではなく案文)。近年では後者の説が尊重されるケースが多い。
 最澄の出身地/本貫(ほんがん)は、「国府牒」などによれば、近江国滋賀郡古市(ふるち)郷になる。滋賀郡の南端を占める郷で、現在の地名でいうと、滋賀県大津市南部の瀬田(せた)川西岸一帯にあたる。粟津市(あわづのいち)という市が置かれ、北側に琵琶湖を臨み、交通や通商の要衝として古くから栄えた土地で、瀬田川を渡った対岸の栗太(くりもと)郡には近江国府があった。最澄の出生地について、比叡山東麓の大津市坂本にある生源寺(しょうげんじ)のある場所がそれだとする伝承もある。

 最澄の俗姓は三津首(みつのおびと)。父は今の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首の百枝(ももえ)、最澄の俗名は三津首の広野(ひろの)であったと伝えられている。母親については、後世の伝説では、名を藤子といい、のちに妙徳夫人と改めたとされる。

 三津首氏は、正確には「三津」が氏(うじ)で「首」は姓(かばね)。叡山大師伝によれば、中国・後漢の孝献(こうけん)帝(在位189~220年)の末裔で、孝献帝の子孫登万貴王(とまきおう)が応神天皇の時代(4~5世紀)に来日し、近江国滋賀郡に居地を賜り、また三津首の氏姓を賜ったと云う。これによると、三津首氏が大陸もしくは朝鮮半島から海を渡ってやって来た、いわゆる渡来人の系統と云うことになる。近江の琵琶湖岸には三津首氏のほかにも孝献帝の子孫と称する渡来系氏族が多く住み着いていたとされる。「近江国府牒」には、三津首氏の当時(780年)の戸主が「正八位下」(しょうはちいげ)の「三津首浄足」(きよたり)であると明記されている。浄足を最澄の父百枝の別名と解する説もあるが、最澄の祖父か伯父の名とみる説もある。「正八位下」は位階で地方官人としては上位にあたる。「最澄は、渡来人が多くて外来文化の色彩が濃い、いうなればハイカラな地域の、比較的裕福な役人の一族のもとに生を承けたといえる」。

(私論.私見)

 「最澄の血筋の三津首氏が大陸もしくは朝鮮半島から海を渡ってやって来た、いわゆる渡来人の系統と云うことになる」は果して真なりや。私は、日本の有益なるもの万事渡来説調の悪しき迷妄説として却下しようと思う。最澄も空海も出雲系出自とみなす。その出雲系の当時の最高頭脳英才が唐に出向き、唐の精神文明システムを出雲系頭脳で読み解き帰国し、更に練ったと見なす。最澄帰化人説は何でもかでも外国頼みにする凡学通説の悪しき例に過ぎぬと読む。


【空海の履歴】
 770年、光仁天皇即位。仏教の粛清を行い、山林修行を公認する。時は奈良時代、仏教は国家の統制下にあり、その主流は南都仏教であった。南都仏教は、仏教を学問的に研究し、学説を論じ討論した。

 774(元)年.6.15日、後の空海が、讃岐国多度郡屏風が浦(現在の香川県海岸寺、75番善通寺)で、佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)を父、安刀(あと)氏出身の母の三男として出生。幼名は真魚(まお)。

 779年、13歳の時、出家し近江国分寺現在の大津市石山)に入る。国分寺とは、桓武天皇が国ごとに造営させた官寺であり、そこで最澄は非凡な才能を発揮する。

 780年、14歳の時、国分寺僧補欠として11.12日に得度し名を最澄と改めた。その後、何時の時点かは不明ながら奈良の都に行き、さらに勉学を積む。


【最澄、空海の並行登龍考】

 781(8)年、(桓武天皇即位)中国皇帝的な事業と統治を行う。

 784(延暦3)年、桓武天皇による長岡京への遷都が突如として行われた。

 785年、20歳の時、奈良東大寺・戒壇院で具足戒を受戒、国家公認の僧侶となる。 

 がくてそして延暦4年(785)、奈良の東大寺で具足戒を受ける。具足戒とは僧侶として守らなければならない行動規範であり、250もの戒めを完備していることから具足戒と呼ばれる。当時、東大寺・戒壇院で受戒を許される者は一年に数十名程度であり厳しい試験であった。国家仏教のエリートとして将来の出世が確実に約束されたことになる。しかし最澄は、当時の南都仏教のあり方に疑問を感じ、厳しい修行を通じて実践による仏の道を模索するため、比叡山に入山し山林修行に励む。

 788(延暦7)年、最澄は、「明らけく 後(のち)の仏の御世(みよ)までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび」と詠む。この灯火は大切に受け継がれ今日でも根本中堂の内陣中央にある3つの大きな灯籠の中で「不滅の法灯」として光り輝いている。

 最澄は、一乗止観院を建てて自ら刻んだ薬師如来を安置し、大蔵経を読破する。その修行期間は12年にも及んだ。この修行中さまざまな仏教典籍を読破するなか鑑真和上によってもたらされた天台の典籍に出会う。

 789年、空海16歳の時、このころから母方の伯父である大学者・阿刀大足(あとおおたり)に師事。(伝承)71番弥谷寺の獅子窟で学問に励む。

 791年、最澄が、宮廷から「修行入位」という僧位を授けられる。

 791年、空海が大学に入り、その後中退し山林修行を始める。

 792年、空海19歳の時、大足に伴われて上京(長岡京)、大学に入学。

 793年、空海20歳の時、ある沙門から「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)を授かる。阿国大滝岳(現在の21番大龍寺の舎心ケ岳)、土州室戸岬(現在の御蔵洞)に勤念。谷響きを惜しまず明星来影す。(伝承)和泉国槙尾山寺で沙弥戒を受ける。

 794年、桓武天皇による平安遷都が行われ、奈良仏教に批判的な最澄が、宮廷に重んじられる。

 797年、最澄の行学の成果が結実し、国家的権威のある内供奉(ないぐぶ)十禅師に任ぜられる。

 797年、空海24歳の時、4.9日、(伝承)東大寺の戒壇院で具足戒を受ける。12.1日、思想劇「三教指帰」(さんごうしいき)完成。道教、儒教と仏教を比較し、仏教の優位を説いた。これにより自身(仮名乞児)が官を捨て仏門へ入ることの正当性を主張する。これに匹敵するのはゲーテの教養小説「ウイルヘルム・マイスター」であるとされる。

 798年、空海25歳の時、(伝承)大和国久米寺東党の下で「大日経」を感得。

 801年、最澄が比叡山一乗止観院にて法華十講奉修。南都六宗の高僧10名に講師を依頼する(請十大徳書)。

 802年、最澄が和気氏の菩提寺である高雄山寺(後の神護寺)法華会(ほっけえ)講師に招かれた。天台著作(法華玄義、法華文句など)を講義し、和気氏の支援を受けるようになる。

 最澄の名声が時の帝・桓武天皇の耳に達し、最澄の才能と力量を認められた。これにより最澄の名声は一挙に高まった。平安新仏教の第一人者となった最澄は地位に甘んじることなく、真の仏道を求め唐への留学を希望し、「入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)」に選ばれる。当時の遣唐使船は遭難する確率が高く命がけの旅であった。


【最澄、空海それぞれの中国修行】

 804(延暦23).7月、最澄38歳の時、空海31歳の時、最澄は、通訳に門弟の義真(781-833、後に初代天台座主)を連れ遣唐副使の第二船(「判官」菅原清公)に乗って九州を出発した。

 同年、空海31歳の時、第1船(遣唐大使・藤原葛野麻呂(かどのまろ)、橘逸勢(たちばなのはやなり))の4船団で難波の港を出帆して入唐の旅に上る。第3船と第4船は行方不明。7.6日、空海は、肥前国田ノ浦(現・平戸)を出帆。8.10日、中国大陸福州赤岸鎮(せきがんちん)の南に漂着。ここから長安(現在の西安)に至る。 

 9月、大使の藤原葛野麻呂の乗った船が遠く福州に漂流して散々苦労したのに比べ、最澄の乗った船は無事に中国の明州(寧波)に到着し入唐する。船旅に体調を崩し、しばらく天台山への出発を遅らせる。9.15日 明州の牒(ビザ)を得て弟子の義真を伴い天台山に向かう。9.26日、約160km歩いて台州の臨海に到着。天台山に直行せずに大回りをしたのは台州の滞在許可(ビザ)が必要だったことによる。台州刺史(最高長官)・陸淳に面会し、当時の天台宗の最も優れた高僧だる道邃和尚への紹介を得る。道邃和尚は陸淳刺史の依頼で、たまたま天台山から台州の龍興寺に『摩訶止観』の講義に来ていた。道邃(どうずい)と行満(ぎょうまん)について天台教学を学び、道邃に大乗菩薩戒を受け、翛然(しゅくねん)から禅、順暁(じゅんぎょう)から密教を相承する。こうして天台教学、真言密教、禅、戒律を学び中国天台教学を授かる。

 最澄は天台大師の祖廟参拝のため臨海から約50kmの天台山に登る。国清寺では惟象阿闍梨から雑曼荼羅の供養法(密教)を受け、天台山仏隴では行満和尚に八十余巻の仏典と妙楽大師湛然の遺品を授けられた。そして、天台大師の廟のある真覚寺に詣でて、「求法斎文」を誦した。

 11.5日 天台山巡礼を終えて臨海の龍興寺にもどる。ここで受学と日本に持ち帰る仏典書写に専念する。最澄は8ヶ月の入唐期間のうち6ヶ月をこの台州に留まり、そのほとんどを龍興寺で過ごした。弟子の義真は12.7日、国清寺の戒壇で具足戒(小乗戒)を受ける。同時に国清寺固有の典籍を書写する。義真は帰国後に入唐僧として十分な資格を得て後に初代天台座主となる。

 12.23日、空海が、唐の都長安に東門(春明門)より入る。

 805(延暦24).2.20日、滞在中に経典類103部253巻(一説には230部460巻)もの写経を終えた。還学生(短期留学)の最澄にとって帰国船に乗るまでの期間は限られていた。それにも関わらずこれだけの成果を出した。これには陸淳が20人の写経生の動員に協力し、道邃和尚、行満和尚も資料の厳選と収集や僧侶を動員など好意的な協力を惜しまなかったことによる。3.2日、最澄と義真は円教菩薩戒を受戒した。これが、後に比叡山で法華経による大乗円頓戒の独立への根拠となる。

 3.25日、明州(寧波)に到着。出発の船の準備が整っておらず、1ヶ月半待たねばならなかった。この時を利用して最澄は越州の竜興寺に順暁を訪ね密教を学ぶ。順暁から密教の法文を学び、灌頂をうける。4.3日、遣唐使一行が明州(寧波)に到着。4.8日、最澄は越州(紹興)に向けて出発。越州(紹興)では天台密教のもととなる受法をする。5.18日、多くの仏教典籍と共に遣唐第一船に乗船し、日本に向け出航。6.5日、対馬に着く。帰路の途中、和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創する。これが日本における天台宗のはじまりである。

 805.2.10日、遣唐大使らは長安・宣陽坊を発って帰国の途につく。空海は逸勢とともに西明寺に残る。青竜寺の真言密教の第7祖・恵果の名声を聞き、訪ねる。恵果は空海をみるなり 「私はあなたを待っていた。さっそく密教の秘法である灌頂(かんじょう)を授ける」と言ったという。6.13日、恵果より学法灌頂壇で胎蔵の灌頂を受け、密教を法灯伝授される。7月、恵果より金剛界の五部灌頂を受ける。投華得仏では大日如来に落花した。恵果は空海に遍照金剛の名を授けた。現在、青龍寺跡地に「恵果・空海記念堂」が建てられている。8.10日、.恵果より阿闍梨位の伝法灌頂を受ける。わずか2ケ月で密教の大法をことごとく授かる。12.15日、青竜寺の東塔院で恵果が入滅。

 806.1月、空海が門下を代表して恩師恵果の碑文を撰した。

 「…弟子空海、故郷を顧みれば東海の東。行李を想えば難が中の難なり。波濤万々たり、雲山幾千ぞ。来ること我が力にあらず、帰らんこと我が志にあらず…」。

 大詩人・馬総は空海に対して詩を贈る。

 「何ぞなんじ万里より来たれる。その才を衒うにあらざるべけんや。学を増して玄機を助けよ。土人、なんじが如きなるもの稀なり」。

 3月、空海が、20年滞在の約束にもかかわらず長安を離れ帰国の途につく。4.20日、浙江省に到着。ここで4ケ月滞在。8月、遣唐副使・高階真人遠成の船で逸勢と共に寧波から帰路につく。12.13日、高階真人遠成は入京し復命。なぜか空海は大宰府に留めおかれる。中国から持ち帰った請来の経典を朝廷に奉進するが、留学任期を切り上げた欠期(けつご)の咎(とが)で大宰府に止まる。

 最澄は一年、空海は二年の勉強を終え、それぞれ帰国した。


【帰国後の最澄、空海のその後の活躍】
 806年、桓武天皇の後継として平城天皇(へいぜい)が即位する。

 日本に帰国した最澄は大スポンサーである桓武天皇に報告する。このとき病を患っていた桓武天皇は天台宗には見向きもせず、密教の祈祷に深い関心を寄せはじめ、最澄に密教の祈祷をするよう命じる。桓武天皇はこの時期、自ら死を命じた同母弟の早良皇太子の祟りに悩まされており密教のもつ呪術に期待した。早速奈良の長老を集め国家に事業として密教の灌頂を行うこととなった。しかしながら、最澄の祈祷のかいなく、桓武天皇は崩御。最澄は強力な下護者を失う。

 806(延暦25)年、最澄は、法華経に基づき「すべての人が仏に成れる」という天台の教えを日本に広めるために、天台法華円宗の設立許可を願い出る。その際、「一つの網の目では鳥をとることができないように、一つ、二つの宗派では、普く人々を救うことはできない」と述べている。最澄の願いが受け容れられ、華厳宗、律宗、三論宗(成実宗含む)、法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて12名の年分度者が許されることになった。ここに天台宗が公認されたことになる。この日を以て「日本天台宗」の始まりとし、比叡山延暦寺をはじめ多くの天台宗の寺院では、この日を「開宗記念日」として報恩報謝の法要を行っている。

 最澄は、高雄山寺に作られた灌頂(かんじょう)の壇で、奈良の高僧に灌頂を授けた。奈良の高僧が天台宗にひざまついたことになる。

 この灌頂のあとで、空海が唐から帰ってきて自分が密教の正式な跡目で相続したかずかずの経典、蜜具、法具の一覧表を宮中に提出した。最澄は苦難の時代を向かえ、逆に空海のほうは平城天皇から替わった嵯峨天皇が空海に理解を示し、空海の密教が正式なものとして評価が高くなっていった。そして都では、唐から帰国した空海が、中国密教の正当な伝承者として人々の関心を集めていた。  

 809(大同4)年、空海35歳の時、桓武天皇の息子・神野親王が第52代嵯峨天皇(さが 位809~823年)が24歳で即位する。嵯峨天皇即位後、空海が入洛し高雄山寺に住む。空海が重んじられるようになる。彗星のごとく現れた空海は仏教界の大きな星となり、最澄と肩を並べるライバルとなる。

 2.3日、空海が最澄に刺(し)を投ずる。8.24日、最澄は弟子の経珍を使いに空海が請来した密教経典12部を借覧。特に「大日経」に関心。10.4日、「世説」8巻のうちの秀文を屏風にして嵯峨天皇に献上する。 
 
 806.正月3日、最澄は「年分度者」(得度を許される一定数の者)の新しい割当を申請する。律、華厳、三論、法相などの従来10人に、天台法華宗2人の追加をもとめたもので、これの許可によって、天台宗は公認されることになる。奈良を中心に栄えた法相(ほっそう)宗など、南都六宗と総称される、既存の仏教勢力から独立した新しい仏教を開始した。活動拠点となったのが比叡山に開いた延暦寺であった。最澄は、持ち帰った経典の「筆授」(ひつじゅ)と云われる方法で天台教学を確立して行った。

 最澄の上表により、天台業2人(止観(しかん)業1人、遮那(しゃな)業1人)が年分度者となる。これは南都六宗に準じる。これが日本の天台宗の開宗である。朝廷に認められ、比叡山を賜り「天台宗」を開く。開宗は、延暦25年(806)1月26日とされている。正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

 この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年、円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)、五大院尊者安然、慈慧大師良源、恵心僧都源信等多くの僧侶を輩出した。この間、密教が極められ、現在の天台宗の形が完成する。 江戸時代にも、慈眼大師天海という名僧が出現。江戸城や日光東照宮などの建設の際も風水や密教占星術を用いて、「江戸曼荼羅」を完成させる。

 810年、空海36歳の時、「東大寺要録」によれば、この年から813年まで東大寺の別当職に任じられる。 

 810.1月、泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった。

 810(弘仁元).9月、平城上皇は「都を平城京に戻す」と宣言。これに対し、嵯峨上皇は直ぐに反撃を開始。たまたま平安京にいた藤原仲成を逮捕し斬首すると、坂上田村麻呂率いる軍勢をを平城京に向けて進軍。また、その他の拠点にも直ぐ朝廷軍を派遣し、平城上皇を包囲。一度は平城京を脱出した平城上皇と薬子は逃亡を断念。平城上皇は出家し、薬子は自害。僅か数日でクーデターは終了した。これを薬子の変と云う。これによって、藤原式家は没落し、冬嗣の北家が繁栄していくことになる。皇太子である高丘親王は廃され、出家して空海の弟子となる。後年、インドに渡海しようとして、途中の羅越国で亡くなる。(参照)渋沢龍彦:高丘親王航海記。  

 最澄は空海密教を学ぶ必要を感じ、空海に何度も経典を借り、空海の弟子になっても学びたい旨申し入れる。こうして最澄と空海が相結ぶことになる。当時、最澄は名声ともに最高の高僧であり空海はまだ一介の学僧にすぎなかったが、最澄は、目指す真の仏道のために密教の秘技を請うべく空海に弟子の礼を取る。この頃、最澄は、空海から真言、悉曇(しったん)(梵字)、華厳(けごん)の典籍を借り研究する。ところが、密教の中枢経典である「理趣釈経」を借りる段階で空海は拒み始める。

 810.11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶している。最澄はしきりに、真言密教の心髄に触れる経典の借用を求めたのに対し、空海はそれを拒絶したことになる。最澄は経典の研鑽による修法を重んじたのに対し、空海は、厳しい修行によってしか密教は拾得できないとの立場だった。最澄は空海に阿闍梨灌頂を伝授するように願ったが、なお3年の実修を要すといって拒否されている。梅原氏が現代語訳した空海の手紙の一部は次のように記している。
 「あなたは理趣釈経をかりたいといっているが、理趣とはなんのことかご存知か。理趣に三つあり、耳で聞く理趣、これはあなたの言葉、目で聞く理趣、これはあなたの体、心で思う理趣、これはあなたの心、あなた自身のなかに理趣があるのにどうしてよその求めるのか。あなたは真理を紙の上にのみ見る人のようです。紙の上より真理はあなた自身のなかにあるのです。あなたは行を修めたのか、行を修めるより、いたずらに字面だけで密教を知ろうとすることは本末転倒もはなはだしい」。

 811年、空海37歳の時、11.9日、乙訓寺の別当に任じられる。

 812(弘仁3)年、空海38歳の時、9.11日、空海から最澄へ書状「風信帖」。「…風信雲書、天より翔臨す」。11.15日、空海による高尾山寺の金剛界灌頂。最澄は進んで受者となる。(空海自書:「灌頂歴名」) 最澄は一番弟子の泰範、円澄、光定(こうじょう)らと高雄山寺におもむき空海から金剛界灌頂(かんぢょう)を受ける(乙訓寺で空海に会い、共に仏教をひろめようと誓い合う)。

 同年12.14日、空海による高尾山寺での胎蔵界灌頂儀式が執り行われ最澄以下145名が受者となる。この時、大僧と呼ばれる位の高い僧が22名、沙弥(しゃみ)と呼ばれる若い僧が37名、近事(ごんじ)と呼ばれる在家信者が41名、童子と呼ばれる年少の在家信者が45名、総勢145名が、空海のもとで胎蔵界の『灌頂(かんじょう)』と呼ばれる密教入門の儀式を受けた。その大僧の中に天台宗の宗祖である伝教大師・最澄がいた。奈良の高僧も灌頂を受けたので、空海は仏教界の頂点に立ったことになる。

 普通の灌頂を受けた最澄は、もっと重要な阿闍梨灌頂を受けたいと空海に依頼する。先輩である最澄に、誇りはないのかと言いたくなる。空海は「密教の真髄を知るには3年の実習が必要だ」と断った。3年も実習できない最澄は、弟子を空海の元に残し、自分は比叡山に戻った。翌年、経典を貸して欲しいと依頼。これに対し空海は強い調子で断ったという。このやりとりで決裂し、再び接触することはなかった。 

 814年、最澄の「法華一乗」と「真言一乗」は同じ大乗仏教であり、何ら相違ないという立場と、空海の顕教と密教とは次元が異なるという思想により、双方は離別していく。この後、二人は二度とまみえることはなかった。

 最澄から天台学を学び、若くして、叡山の学頭(一宗の学問の統括者)になった泰範が、最澄に「謹んで暇を請う」という手紙を書き、近江にある自坊に帰った。最澄は、遺書を公表して泰範を叡山の総別当即ち後継者に任命し泰範の出戻りを促している。最澄が高雄山寺で空海から最初の灌頂を受けた時も「一緒に受けようではないか」という手紙を送ったが断る。ようやく泰範は2回目の灌頂時に最澄の要請に応じて出てくる。師である最澄が空海から灌頂を受けているのを見た泰範はそのまま居残り、空海のいる高雄山寺の南院に自坊を造る。最澄は、泰範に比叡山に戻るよう手紙を送り続けたが泰範は帰らなかった。最澄の一番弟子であった泰範が空海についたことにより最澄と空海の確執が決定的となった。 最澄が泰範に送った最後の手紙となる弘仁7年5月1日付けの一文は「法華一乗ト真言一乗ト何ゾ優秀有ラン」。これに対し、空海自身が泰範の名を使い「代筆」として最澄に手紙を送りつけている。その内容は、「法華も真言も優劣優劣がないなどという、御高説にたいして黙っていること出来ませぬ‥」というくだりから始まって、天台と真言には明らかな優劣があることをしたためていた。空海が代筆した文章は「性霊集」におさめられている。この手紙により最澄と泰範のつながりは切れ、最澄と空海の交流も途絶えた。

 815年、最澄が、和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争始まる。南都の僧綱から反駁にこたえて『顕戒論』を執筆。『内証仏法血脈譜』を書いて正統性を説く。

 南都諸宗(→南都六宗)の一派である法相宗(ほっそうしゅう)の学僧・会津徳一(とくいつ)との間に、法相宗と天台宗の優劣をめぐる「三一権実(さんいちごんじつ)の論争」を引き起こしている。「三一権実(さんいちごんじつ)の論争」とは、最澄が悉皆成仏論で信心すれば誰でも仏になれると他力信仰論を主張したのに対し、徳一が修業功徳の利を主張し、簡単には仏になれないと自力信仰論で論戦した争いであった。徳一が「仏性抄」(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は「照権実鏡」(しょうごんじっきょう)で反駁した。論争は、比叡山へ帰った後も続き、「法華去惑」(こわく)、「守護国界章」、「決権実論」、「法華秀句」などを著したが、決着が付く前に最澄も徳一も死んでしまったので、最澄の弟子たちが徳一の主張はことごとく論破したと宣言して論争を打ち切った。

 最澄はその後東国へ旅立つ。関東で鑑真ゆかりの上野の緑野(みとの)寺(現在の群馬県浄法寺に位置する)や下野の小野寺を拠点に伝道を展開する。

 816年、空海42歳の時、6.19日、修禅の道場建立のため高野山の下賜を願い出て下賜される。
 
 817年、空海43才の時、この頃から法相宗の会津の徳一と法論を戦わせ、そのなかで諸法実相という天台の思想を確立していく。

 818(弘仁9)年、最澄が自ら具足戒を破棄。「山家学生式」(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。

 5.13日、最澄は、「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す。・・・一隅を照らす。此れ則ち国宝なりと・・・」で始まる「天台法華宗年分学生式」(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(六条式)を天皇に奏上する。天台宗の年分度者が認可されたあとも正式な僧侶となるためには奈良で具足戒を受けなければならなかった。最澄は、法華経の精神に基づいて、僧侶だけでなくすべての人々を救い、共に悟りを得るためには、戒律は大乗の梵網菩薩戒でなければならないとして、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇院を建立することを国に願い出た。しかし奈良の僧侶たちの猛反対にあい、なかなか認可されないまま最澄が遷化する。

 以後、最澄は天台宗の布教伝道に努め、中部地方や関東地方、さらには九州の筑紫国(現在の福岡県)にも向かい精力的に活動する。出向いた各地で協力を得て法華経を写経し、これを納めた宝塔を建立した(六所宝塔)。加えて、旅人の難儀を救うための無料宿泊所を設けた。その一方で、長年の夢であった大乗戒壇の設立に力を注ぐが、生前の完成を見ることなく、この世を去る。大乗戒壇の設立は、最澄の死後七日目であったと言われている。

 818年、空海44歳の時、満濃池決壊。築池使の路浜継は3年がかりで修復を図ったが成功しなかった。821年、空海47歳の時、4月、満濃池修築別当に任じられ、6月からの3ケ月で完成させる。

 822.6.26日(弘仁13.6.4日)、比叡山の中道院で没(享年56歳、満54歳)。最澄は死に臨んで、弟子たちに次のように遺誡している。

 「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ(私のために仏を作り、経を写すなどするよりも、私の志を後世まで伝えなさい)」。

 6.4日を最澄の命日として、延暦寺をはじめ各地の天台宗寺院で「山家会(さんげえ)」という法要が行われている。

 嵯峨天皇は、最澄の死を惜しみ「延暦寺」という寺号を授けた。このときから比叡山寺(日枝山寺)から延暦寺とよばれるようになった。年号を寺号にしたのはこれが最初となる。没後7日目、最澄の悲願であった大乗戒壇院の建立を許される詔が下された。大乗戒壇設立は、弟子・光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許。

 866(貞観8)年、清和天皇から最澄に伝教大師(でんぎょうだいし)の諡号(しごう)が贈られた。同時に円仁に「慈覚大師」の諡号が贈られた。大師とは人を教え導く偉大な指導者という意味で、日本ではこれが最初の大師号となる。これ以後、最澄は「伝教大師最澄」と称されるようになった。


【最澄没後の天台宗の歩み】
 最澄の弟子である円仁(794~864年)、円珍(814~891年)は密教の教えを本格的に取り入れる。最澄の門下の円仁、円珍は、ともに入唐して密教の充実をはかり、のちに安然が大成する。これにより、真言宗の密教を東密とよぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。その二人が激しく対立するようになり内向化する。10世紀末、良源が死去すると、円珍の門徒3千0人余は比叡山を追われ園城寺(おんじょうじ:三井寺)に移る。以後、に円仁グループは延暦寺で山門流を形成する。円珍グループは園城寺(三井寺)で寺門派を形成する。のち次第に、両者は激しくぶつかり合うようになり僧兵をだす争いをくりかえした。、鎮護国家どころか、朝廷を巻き込む厄介な争いを繰り広げることになる。

 平安末期の木曽義仲による天台座主の惨殺や、戦国時代の1571年、織田信長による比叡山焼き討ちで寺院が焼失する憂き目に遭う。天台宗の勢威は衰えたが、江戸時代になって徳川家に尊崇された天海が上野に東叡山寛永寺を開き、比叡山、日光山輪王寺とともに天台三山と称して、天台座主と輪王寺宮をかねた管領宮が仏教界に君臨した。また、比叡山の守護神である山王とよばれる日吉大社の神を仏の垂迹(すいじゃく。→神仏習合)とする信仰がひろまり山王神道が成立した。 

 明治維新の神仏分離によって神社と切りはなされて以後、天台宗は各派が独立し、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗のほかに、園城寺の天台寺門宗、西教寺の天台真盛宗、大阪四天王寺の和宗、東京浅草(せんそう)寺の聖観音宗などが成立して今日にいたっている。 

【最澄没後の空海のその後の活躍】
 823年、空海49歳の時、1.19日、嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を受預される。密教の道場とした。現在も講堂に空海独創の立体曼荼羅(五仏、五菩薩、五大明王、六天)を残す。 

 823年、比叡山寺が延暦寺と改名する。

 828年、空海54歳の時、綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)を開設。教育理想を記した「綜藝種智院式じょ序」を表す。

 830年、空海56歳の時、人間精神の弁証法的な発展過程を克明に説いた「十住心論」を著す。

 832年、高野山で万燈会を開き、願文「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きん…」を残す。

 835年、3.21日、空海が高野山に死す(享年61歳)。 

 921年、空海に弘法大師号が贈られる。

 空海は、中国語、サンスクリットに通じ、現在の50音図につながるいろは歌を作り上げたとも伝えられている。

 空海密教の教義の特徴は、言葉として書かれた経典を重視する顕教に対し、身口意の三密行に基づく密教を仏教の最上位に位置づけると共に、衆生はこの身このままで悟りが開けるという「即身成仏」を唱えた点にある。

 明治以降、呪術的色彩が濃い密教は一般思想界で黙殺され、空海の自己顕示欲は敬遠された。空海を「編集の天才」とみる松岡正剛編集工学研究所所長は、「現代思想が還元主義的になっているのに対し、多様性を増やして総合的にまとめる空海の思想は学ぶべき価値がある」と空海の現代的意義を強調している。(2004.3.13日、日経新聞文化欄「空海 入唐1200年 再評価進む」編集委員・河野孝)


【空海の四国霊場巡り考】
 空海の真言宗は、その後高野山に金剛峯寺を開き、高野聖と言われる僧を全国各地に広めて行き、在野による布教によって広がっていくの。天台宗がどちらかと言えば精神論哲学的だったのに対し、真言密教は現世利益的な秘術に見えて、仏教に現世利益を求める当時の日本人に受けた。空海自身も、各地を転々と歩いたらしく、日本全国に空海ゆかりの地が見られる。その最たるものが四国八十八カ所巡り。空海が見つけたと言われる温泉は日本中にある。何にしても、最澄と空海、平安時代初期のこの二大巨人によって、後々の日本の仏教が大きく形作られていく。
 霊場廻り。信仰的修行の聖地探訪として。物見遊山として。弘法大師信仰に基づいた四国88箇所廻り。発心の道場・阿波23ヶ寺、修業の道場・土佐16ヶ寺、菩提の道場・伊予26ヶ寺、涅槃の道場讃岐23ヶ寺。全行程1400キロに及んでいる。

 大師の分身でもある金剛杖を持ち、「同行二人」と書かれた菅笠を被り、死装束の意味合いを持つ白衣を身に着ける。遍路の心。「新生生まれ変わり」、「我が身を棄て、大師と共に歩む修行」、癒しの発見。自然に触れ湧き上がる生の喜び、生かされていることへの感謝、「88の祈りを達成して初めて得られるという清清しい生まれ変わりの感動」、遍路の行く先々で出会う大師伝説、霊験たん。逸話。

【最澄教学、空海教学考】

 最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていない)、南都の学僧が反論したことは当時の常識に照らして妥当なものと言えよう。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号が贈られた。

 真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

 しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁(じゅんぎょう)から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

 最澄は、法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していた。円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)などの弟子たちが最澄の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。

 円珍は、空海の「十住心論」(じゅうじゅうしんろん)が密教を最高唯一のものとし、他の宗派はそれにいたる途上のものと論じ、この理論が永らく権威を持っていたのに対し、「十住心論」には五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。円珍は讃岐の出身で空海の血縁に当たる人物であった。その円珍は空海の真言に入らずになぜか叡山に入った。後に最澄や空海のように唐に渡ってさらに最新の密教を二人の死後にもたらした。

 なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。

 日蓮を末法の本仏とする宗派などは、現在の日本の天台宗は密教を大幅に取り入れているためむしろ真言宗に近く、最澄亡き後、その意向を無視した円仁・円珍などが真言密教を取り入れ比叡山を謗法化(正しい法を信じずそしること)したものだと批判する向きもある。しかし歴史を検証すれば、完全に否定される。

 また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み(「円・密・禅・戒の四種相承」)、それらの融合を試みた独特なもので、性格が異なるもの、また智顗の天台教学を継承しつつそれをさらに発展しようと試みたものであると指摘されている。したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。

 天台宗の修行は法華経を中心とする法華禅とも言うべき「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた(しかし、法華経の教義が正しいのならば、なぜ念仏や加持を行わねばならないのか、という疑問・批判もある)。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。


 良源の弟子には覚運や「往生要集」をあらわして日本念仏思想の基礎をきずいた源信らが輩出した。源信の門流を恵心(えしん)流、覚運の流れを檀那(だんな)流とよび、両派はのちに八流にわかれた。これらの分派では、人間は生まれながらにしてさとっているとする本覚思想や、奥義を師から弟子へ直接つたえる口伝法門が盛んだった。 源信らによって教義づけられた念仏思想は叡山浄土教ともよばれ、法然や親鸞など鎌倉浄土教を生む土台となった。

 天台宗学は長く日本の仏教教育の中心となり、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗の「法然」、浄土真宗の「親鸞」、臨済宗「栄西」、曹洞宗の「道元」、日蓮宗の「日蓮」、時宗の「一遍」、室町時代には真盛(しんぜい)が天台宗の中にあって、天台の戒律と称名念仏を一致させた戒称二門の教えを成立させた。 いずれも天台宗を学び、そこからひとり立ちして各宗を開宗し、学僧を多く輩出することとなる。

 平安時代後期、院政によって絶大な権力を振るった白川上皇の言葉に「自分の思い道理にならない物は、鴨川の流れと比叡の山伏」というのがあるように、最澄亡き後の天台宗は次第に政治と結びつき始める。

 天台宗の各派、( )内は総本山・大本山は次の通り。

 天台宗(滋賀・比叡山延暦寺)、天台真盛宗(滋賀・西教寺)、天台寺門宗(滋賀・円城寺(三井寺))、聖観音宗(浅草・浅草寺)、金峯山修験本宗(吉野・金峯山寺)、修験宗(京都・聖護院)、和宗(大阪・四天王寺)。

 京都 大原 三千院
 三千院は、天台宗の門跡寺院で伝教大師 最澄が開かれました。国宝の仏像や美しい庭が有名です。また、大原は、天台声明の聖地です。三千院の三千は、天台宗の観法の一つの「一念三千」が由来です。一念三千とは、大雑把にいうと人の心の一瞬一瞬には、現在、過去、未来の世界のすべてのものが含まれているという考え方です。人はいろいろな生き方をしていますが、そのどれもが自分の心にあるということです。そして、世界のすべてのものは、自分の心とつながっているということです。つまり、一人ひとりの念が良い方向に向けば、世界は、良い方向に向かっていくということです。




(私論.私見)