池田室長の大阪事件

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.6日

 「7月17日 若き日の池田名誉会長 大阪拘置所を出獄の瞬間           「正義は必ず勝つ!」」。
■大阪事件
 月刊潮 連載記事「池田大作の軌跡」より 一部抜粋紹介 

《池田室長の15日間》 昭和32年7月

 【7月3日(水)】
 空路、府警本部へ出頭のため大阪へ。出発前、羽田空港で戸田会長は叫んだ「お前が死んだら、俺もお前の上にうつぶして死ぬ」と。19時、大阪府警本部へ出頭。買収容疑2件と戸別訪問容疑1件で逮捕・勾留。

【7月4日(木)~7日(日)】
大阪府警、東警察署で取り調べ。大阪地検から勾留状が発行される。雨模様の蒸し暑い日が続く。

【7月8日(月)】
大阪拘置所に移送。検事調室で取り調べ。夕食抜きで22時過ぎまで続く。最高気温32・3度。

【7月9日(火)】
検事調室で取り調べ。手錠をかけたまま拘置所の本館と別館の間を往復。

【7月10日(水)】
 弁護士と検事調室で面会。約50分。検察側の意向のまま自白するように説得される。この日午前の取り調べでも、池田室長はいささかも妥協しない。八木主任検事は一計を講じていた。それは、大滝弁護士を室長に接見させ、自白を説得させることである。その場に猪川、田部井の両検事も同道させた。拘置所内の検事調室。大滝弁護士から次のような言葉が出た。「検事のいうことに符号した自供をしないと、検察は、大蔵商事(戸田会長が経営した会社)、創価学会本部に手入れするといっている。さらに、戸田会長、白木薫次(室長の岳父)、牛田寛(青年部長)も逮捕するといっている」。22時、激しい雷雨。
【7月11日(木)】
 関西本部に、買収事件の首謀者中村某が駆けつける。池田室長は絶対逮捕しないからと、取り調べ官に騙され、池田室長に罪をなすりつける虚偽の供述をしてしまったと告白する。

【7月12日(金)】
 東京では蔵前国技館で不当逮捕を糾弾する「東京大会」。拘置所で室長と対面した大滝弁護士の様子がおかしい。金網越しに、何ごとか早口にまくし立てている。お国訛りの山形弁で「戦闘開始だ!」と口走っていたことが後にわかった。なぜ興奮していたのか。弁護士に検察との妥協を選択させた中村某の「供述書」――これが、でたらめだったのである。地検は中村に「池田との関与を吐け。池田は絶対に逮捕はしない」と約束して、ウソの供述書を取った。しかし地検は中村との約束を反故にして、その供述をもとに室長を逮捕した。怒った中村某が学会側弁護士に真相を告げたことで“検察による陰謀″が発覚したのである。猛り狂うように大滝弁護士が戦闘開始と叫んだが、それは後の祭りだった。

【7月13日(土)】
 第1回の検察調書を取られる。最高気温30・7度。十日の弁護士の説得に従った室長の供述から、最初の検察調書が作成された。室長が「一人五票」と会合で呼びかけた――そのことが、戸別訪問教唆に当たる旨を認める調書となっていた。

【7月14日(日)】 最高気温31・2度。
 日曜日だが、23時近くまで取り調べ。検事は、山田・鳥養と戸別訪問を謀議した架空の供述を誘導。十三日の調書を見ながら、検事が卑劣な言葉を吐いた。「これだけでは公判でひっくり返される」。つまり「一人五票」だけでは弱い。もっと具体的な教唆の事実でないと、裁判ではひっくり返されるおそれがあるというのだ。 そこで検事が考えついたのは、すでに釈放されていた山田徹一と鳥養国夫である。この二人に、池田室長から戸別訪問を指示された旨の供述をさせる。さらに室長からも、山田、鳥養に指示したという調書を取ろうと企んだのである。この内容は全くの「架空そのもの」である。室長は強い抵抗を示した。そのため検事らは、十六日の朝、山田、鳥養両人に会わせることを約束。その上で一気に“決め手″となる虚偽の調書を完成させる段取りを狙った。

【7月15日(月)】
 第2回の検察調書。14時に最高気温31・7度。真夏日が続く。最大湿度も連日95%前後。

【7月16日(火)】
 第3回・4回の検察調書。23時過ぎ、暗夜に稲妻。山田、鳥養との面談は実現しなかった。再三、約束を反故にされてきた池田室長は野村検事に怒りの声をあげた。野村検事は、真っ青になり上司の八木主任検事に直ちに報告、八木検事は「これ以上捜査を拡大しない! 戸田会長、学会本部への捜査はしない!」と、、、  その約束を信じて室長は、署名した。

【7月17日(水)】
 未明に豪雨、落雷。午前中に買収容疑とは無関係の調書。室長がいる八木検事室に入ってきたのが山田、鳥養である。 二人とも検察のシナリオ通り、池田室長を有罪に陥れる虚偽の調書を取られた。山田は心配でたまらず、池田室長に尋ねている。「先生、これでよいのでしょうか」。「いいんだよ! 戦いはこれからなんだよ!」。八木検事が見ている目の前で言い切った。正午過ぎ室長は、釈放され拘置所を出た。
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【無罪判決】
 昭和三十七年一月二十五日。時計の針は午前十時を指していた。一礼して着席。右陪席は野曽原秀尚判事、左陪席は鈴木清子判事補である。一段高い判事席から、傍聴人や司法記者で埋まった廷内がよく見えた。廊下に「傍聴満員」の札が出ているはずである。目の前に公職選挙法違反に問われた二一人の学会員。大人数のため二列でも並びきれない。判事席の左、弁護側に列が伸び、一番手前に創価学会の池田大作会長。二年前の五月三日、第三代会長に就任していた。冬のよく晴れた日である。法廷には物音もない。「それでは判決を言い渡します」。裁判長は判決文に目を落とした。左陪席の鈴木判事補が書き上げたものである。二一人への判決であり、主文だけで一〇〇〇文字を超す長さがあった。「主文――」」。低いが、よく通る声。それぞれに罰金や訴訟費用の負担などを宣告していった。この時、池田会長の名前が出てこないので、傍聴席の学会員は、じりじりしながら待った。主文は、最後の一行にいたった。「池田大作は無罪」。転瞬、傍聴席から、どよめきと拍手が起こった。「うおーっ!」。静粛こそ法廷の錠である。裁判長は厳しい表情で注意した。傍聴席の学会員は、さっと静まったが、安堵から天を仰ぐ者や、握手を交わす人がいる。司法記者は夕刊に間に合わせるため、法廷を飛び出している」。当の池田会長に表情の変化はない。無罪判決の瞬間、ちらりと検察側に視線を向けただけである」。初公判から四年三カ月にわたった「大阪事件」(概要を別掲)の審理で池田会長に無罪判決が下った瞬間である」。日本の刑事事件の有罪率は九九パーセントを超える。検察が自らの威信をかけて起訴する以上、ほぼ間違いなく有罪を宣告されるのが刑事裁判の現実である。その“常識″を覆した大阪事件の全貌とは。検察の狙い、思惑、作戦とは何か。いかに裁判官は真実を見極めたのか。事件の深層に迫ってみたい。

      【大阪事件】

 昭和三十二年の参院選大阪地方区補欠選挙で、池田室長はじめ多数の学会員が公職選挙法違反の容疑で逮捕された「後の裁判で室長の無罪が明らかになった冤罪事件。同年四月二十三日に行なわれた同選挙で創価学会は中尾辰義(当時、船場支部支部長)を支援したが、三位で落選した。 一部の会員から違反者が出た。東京から応援に来ていた中村某(蒲田支部の地区部長)らが、大阪市内で候補者名を記したタバコ、名刺をつけた百円札などを配った。また、戸別訪問で逮捕された者もいた。裁判の結果、それぞれの罪科に応じて刑に処せられた。検察当局は、一連の違反が支援責任者である池田室長の指示とする構図を描いたが、そのもくろみは法廷で崩れた。

▼出陣の歌「霧の川中島」
 「めでたい日だ。順番に歌を歌いなさい」。上機嫌の戸田城聖会長は、温顔を皆に向けた。大阪事件の初公判を二カ月後に控えた昭和三十二年八月二十日。戸田会長と池田青年室長は北海道・夕張にいた。学会が寄進した寺院落慶の祝賀の宴である。あの炭労事件を勝利した後だけに、会員の喜びもひとしおだった。宴たけなわ、戸田会長に声をかけられた幹部たちが歌い出した。職場の慰労会で披露されるような演歌や流行歌の類が続いた。戸田会長の表情が、だんだん曇っていく。無表情を通りこして、怒気さえはらんできた。強い口調で言い放った。「大、歌いなさい」。「はい!」。サッと立ち上がる室長。若く、凛々しい声が響いた。「霧の川中島」である。戦国の名将、武田信玄と上杉謙信が繰り広げた川中島決戦が歌われていた。聴きながら、じっと会長は目をつぶっていた。眼鏡の奥からにじみ出る光があった。戸田会長は「もう一度」「もう一度」とうながし、熱唱は三回を数えた。異様とも言える光景に、居合わせた幹部の中には、ある感慨を抱く者がいた。“これは大阪の裁判への出陣の歌ではないか″初公判の期日が迫っていた。真の決戦は、これからである。そう考えれば、なぜ夕張の祝宴で「霧の川中島」が歌われたか腑に落ちる。その場にいた黒柳明は述懐している。「“これから私の弟子が、もう一度戦いに出ていくんだ″。戸田先生のお姿には万感の思いが感じられてなりませんでした」決戦の舞台は、大阪地方裁判所の法廷に移った。

▼当時の大阪地方裁判所は、堂島川に面した赤レンガ三階建てである。正面に大きな蘇鉄の木。建物は「田」の字型で中庭が四つある。中央には丸屋根の塔がそびえていた。このほか、川から見て右手に別館や弁護士会館があり、その奥に法廷棟が鎮座している。

▼初公判翌日の質疑応答
 昭和三十二年十月十九日。初公判の翌日である。この日も池田室長は大阪と京都をめまぐるしく動いている。関西本部にもどった夜、男子部の代表と短時間だが、質疑応答の機会をもった。その詳細な記録が残っている。しきりに裁判の行方を心配している。どこか怯えた心を打ち破るように、室長は語り始めた。「これっぽっちのこと、なんてことないよ。ネルーは九回牢獄に入って九年の牢生活だ。ガンジーだってそうだ。中国共産党の指導者も弾圧された。革命の闘士とは、そういうものだ」。「いわんや我々は未聞の宗教革命をなさんとする青年部じゃないか。これくらいで動じたり、へこたれては断じてならない!」 日蓮大聖人も社会的な罪を捏造されて難にあった例を引いた。「学会も同じです。仏法の問題ではなく、世間の問題をでっち上げられて迫害される」。事件をめぐる、秘めた真情も明かした。室長より前に、戸別訪問の容疑で何人か逮捕されていた。「大変な思いをしている同志を見捨てるわけにいかない。だから大阪府警に自分で行った。私には戦いの責任がある。当たり前の態度だ。私はやっていません。やった人が可哀想だから行った」。逮捕者を救いたくて出頭したのである。「私は覚悟の上です。心配ありません。こんなこと朝飯前だ。幕末の志士だって、どれだけ迫害されたことか。それに比べれば遊びのようなものだ。裁判もいい勉強です。劇を演じるようなものだ」。現存する発言記録からは、すさまじい気迫が伝わってくる。

▼検察側の陰謀
【七月十日(水)】
 この日午前の取り調べでも、池田室長はいささかも妥協しない。 八木主任検事は一計を講じていた。それは、大滝弁護士を室長に接見させ、自白を説得させることである。その場に猪川、田部井の両検事も同道させた。拘置所内の検事調室。大滝弁護士から次のような言葉が出た。「検事のいうことに符号した自供をしないと、検察は、大蔵商事(戸田会長が経営した会社)、創価学会本部に手入れするといっている。さらに、戸田会長、白木薫次(室長の岳父)、牛田寛(青年部長)も逮捕するといっている」。
     
▼「検察捜査そのもの」が裁かれた
 池田会長が出廷した第七十回公判から審理は一変した。最大の争点である、検察調書の疑念――。いかなる取り調べから検察調書は生まれたのか。だれが、どんな取り調べをしたのか。ここから、大阪事件の法廷に、際だった特異性が現れてくる。要するに「検察捜査そのもの」が裁かれていったのである。弁護団の法廷戦術も、この一点に集約されていく。八木源弥。田部井淳。猪川利夫。柿本宏。野村幾太郎。渡部義彦。取り調べに関わった検察官は全員、証言台に立たされた(野村、渡部は東京で実施)。裁判長、弁護士、そして公判検事から質問を浴びたのである。
 手錠をかけたか。大声を張り上げたか。遅くまで取り調べたか。供述を誘導したか。虚偽の調書を作ったか。
 当然のことでもあるが、彼らはことごとく否認している。こんな場面があった。

 第七十六回公判(昭和三十六年九月二十二日)。証人として出廷した八木検事に対し、大滝弁護士が尋問している。 池田室長に自白させるため、自分を接見させた前後のことを尋ねた。大滝「(あなたは)自供せしめるように協力してくれということを(私に)話をしたことがありますか」。八木「そういうことはないですね」。大滝「ない?」。八木「はい」。素っ気なく言い放った。接見の事実も「あったかもしれません」とだけ平然と答えた。この態度を見て、田中裁判長が色をなした。裁判長は、大滝らが検事調室に池田室長を呼びだした時間の記録を示した。「そのことについて(大滝弁護士から)質問されているんですからね」と裁判長。それでも八木は「どういう目的で会うことになったか私には記憶がないんです」とシラを切った。また、この公判では、池田会長が直接、八木検事に尋問している。室長が自供すれば、学会本部の手入れや幹部の逮捕はないと約束した件について。八木「記憶はないんですよ」。ニセ調書の撤回を申し出たときに、内線電話で説得してきた件について。八木「私はそういう言葉を使ったのかどうか記憶ありませんよ」。逃げの一手である。どちらが検事で、どちらが被告かわからない。八木は口に手を当て、ぼそぼそとしゃべるので、裁判長が「もっと、はっきり答えてください」と注意する場面もあった。

◆「勝負は裁判だ。裁判長は必ずわかる」

▼検察調書は「却下」
 拘置所の看守も次々に呼ばれ「取り調べ中も手錠を外さなかった」という複数の証言があった。一方の検事たちは、口をそろえて「手錠は外した」という。これほど検察側の言い分と公判供述が食い違う審理も珍しい。 真実は、ひとつである。そして、どう裁判官が判断するかである。大阪の裁判所には、東京とは違った自由な気風が維持されていた。個性的な名物裁判官も手腕を発揮していた。「戦後の大阪の裁判所が裁判官の独立を尊重する、きわめてリベラルな空気の漂う場所だったことは多くの裁判官・元裁判官が証言するところである」(『裁判官のかたち』毛利甚八) 大阪事件当時、戸田会長は池田室長に語っている。「勝負は裁判だ。裁判長は必ずわかるはずだ。裁判長に真実をわかってもらえば、それでいいじゃないか」。まさに、その通りの展開となったのである。裁判は、いよいよ大詰めを迎えた。第八十回公判(同年十一月一日)。 裁判所は、重大な決断を下した。検察が池田会長を起訴した“唯一の根拠″であった四通の調書すべての採用を「却下」したのである。取り調べが常軌を逸脱したものと認め、そこで取られた供述調書に証拠能力はないものとした。検察の目論みは雪崩をうって崩れた。

▼大阪地検は控訴を断念
 第八十一回公判(同年十一月十五日)。検察側の論告求刑である。この期に及んでも検察側は厳しい求刑を突きつけてきた。 池田会長に禁固十カ月。鳥養に禁固八カ月、山田に禁固六カ月などである。戸別訪問による量刑は略式起訴(公判を行わないで刑を下すこと)による罰金刑が通常で、禁固の求刑自体が異常だった。

 第八十三回公判(同年十二月十六日)。池田会長は最終陳述で四点にしぼって証言した。

第一に、学会が選挙運動を行うことは憲法に保障された国民の権利であること。第二に戸別訪問の違法性について、他国では認めている国もあるほど可変的なものであること。第三に大阪の土地柄を悪用し、大阪の検事が極めて横暴な態度であったこと。第四に、恩師・戸田会長から、裁判長にわかってもらえばいい、との励ましを受けた事実などを簡潔に述べた。 特に裁判長を大きくうなずかせたのは、戸別訪問の違法性について各方面で議論されている点であった。議会制民主主義の先進国・イギリスでは戸別訪問が選挙運動の主流であり、草の根のデモクラシーを育んできた一面がある。

 判決の日(昭和三十七年一月二十五日)―――。田中裁判長から池田会長の無罪が宣告された。検事席。公判を担当した高藤検察官は、判決を下した裁判長に丁寧に頭を下げた。その後、池田会長のもとに駆け寄り「このような結果になるのではないかと思っていた」と述べている。異例のことであろう。冤罪のでっち上げに焦った取調検事と、実際の法廷で処理する公判担当検事とでは、後者のほうが、よほど冷静に事件が見える。この日、大阪地検の公判部長は「当然控訴することになるだろう」と新聞にコメントしたが、結局は断念した。関西の会員が無罪判決にわきたったことはいうまでもない。「池田先生は絶対に無実や!」。室長の大阪拘置所からの釈放をうけて、あの雨の大阪大会で叫んだ願いが現実となったからである。

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 大阪事件を審理した田中勇雄裁判長は退官後、弁護士、調停委員として働いた。すでに他界しているが、同事件や池田会長に、どのような印象を抱いていたのか。複数の法曹関係者から聞くことができた。 まず、池田会長の人物像。「ワシ(田中)の目から見たら、池田会長は他の人と違う。輝いている。この人は将来、ものすごく偉くなる人。まあ、見ててみい。ワシの目に狂いはない」。もちろん裁判官に最も問われるのは「公平性」である。私情をはさんではならない。この点について元判事の意見。「池田会長の経歴は全部、検事が調べています。判事たちも当然、記録を公平に読んだはずです。そのうえで田中さんは、池田会長という人の“人間″を見たのではないでしょうか」。次に、事件当時の社会状況。街頭では、学生と労働者が赤旗を振り回していた。暴力団の抗争も激しい。裁判所には案件が山積みされ、公判は荒れに荒れた。「“裁判官が何や。裁判所がなんぼのもんじゃい″という時代です。特に労働者と学生は、暴力団よりも態度が悪かった」。だからこそ、学会員の姿が際立った。田中裁判長は懐かしそうに振り返ったという。「学会の皆さんは、礼儀正しいですな。驚きました。名前を順番に呼んだら、自分たちで整理して、どんどん席に座る。あんなの初めての経験や」。さらに、無罪判決について。田中裁判長の信念は、裁判とは法の解釈をもてあそぶのではなく「決断こそ大事」。次の点が判決の決め手だった。「(検察の指摘する)池田さんが指示したという日より以前に、戸別訪問の動きがあった。池田さんが会合で話すよりも前なんです。これでは、あかんじゃないか。それで検事の調書がいっぺんに崩れた」。いかにも簡単そうに聞こえるが、無罪判決には大きな決断を要したはずである。田中裁判長の法曹界の友人が語ってくれた。「あの時分、検事が起訴したら、まず有罪です。検事だって命懸けですから。よほど池田さんという方に特別な輝きがあったのでしょう。田中さんみたいな経験のある方が裁判長をやった。 その裁判長に潔白を感じさせる人格の力があった。そういうことだと思います」。田中裁判長は退官後、こんな言葉を漏らしている。「偉そうなことを言うようですけど、ものすごく池田会長が立派になられ、いつも驚いています。時間があれば、お会いしたい。あの時は裁判長という立場で話したが、今、個人対個人の次元で会うと、まったく声も出ないほど、話ができないんではないかな……」。その目に、狂いはなかった。
              *文中敬称略、検察関係者は一部変更        
( 月刊潮 連載記事より一部抜粋紹介)
 連載記事は全4巻の単行本として刊行された。

  「徹底した現場取材をもとに、池田SGI会長に実際に接した人々による豊富な証言と資料で、その実像を描き出す迫真の人物ドキュメンタリー。
月刊誌『潮』の連載企画の単行本化、第1弾。  連載第1回~第8回に、未収録の一章も加える。」
           第一巻 目次
第一章 昭和三十一年・大阪(上)―民衆は、かく戦い、かく勝った
第二章 昭和三十一年・大阪(下)―最前線こそ本丸だった/
第三章 大阪事件――「ワシの目に狂いはない」
「池田大作は無罪」/出陣の歌「霧の川中島」/四通の検察調書/初公判翌日の質疑応答/手錠をかけた取り調べ/池田会長が証言台に立つ/検察側の陰謀/「検察捜査そのもの」が裁かれた/検察調書は「却下」/大阪地検は控訴を断念/雨の大阪大会/思想検事の系譜/仇を討った無罪判決/領袖の失墜/検事たちのその後/「ワシの目に狂いはない」
第四章 もう一つの「大阪の戦い」――西日本でも“まさかが実現”
第五章 炭労事件――/夕張でも“まさか”が実現/
第六章 中南米への旅――その時、カストロは軍服を脱いだ
/トインビー対談が開いた扉/
第七章 日中国交正常化を提言(上)――日本は池田提言に救われた
第八章 日中国交正常化を提言(下)――周恩来の遺志/
第九章 創価大学の開学――たった一人で開いた創立への道
<詳細リンク>
池田大作の軌跡 Ⅰ 平和と文化の大城   潮出版社
刊行された全4巻の詳細
http://www.usio.co.jp/html/search/list.php?p_series_cd=4201





(私論.私見)