創価学会史その1

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.6日

 創価学会教祖 池田大作のセックス&バイオレンス
 創価学会はカルトです 2017年5月31日発行

 昭和33年(1958年)3月、創価学会はまたしても、日蓮正宗の僧侶へのリンチ事件を総本山大石寺において引き起こした。この時は、創価学会員の寄付により建てられた法華本門大講堂が竣工し、その落慶記念式典が催されたことから、多数の学会青年部員が大石寺に泊まりこんでいた。その際に青年部員たちが、大石寺の所化(いわゆる「小僧さん」)にとった態度を批判した僧侶・的場正順氏対し、池田大作(当時、学会本部参謀室長)の指揮のもと、暴力で応えたのである。溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』から、この事件を描いた箇所を引用する。
 大講堂落慶法要の際、創価学会の青年部員三、四十名が大石寺の大坊に泊まりこんでいた。彼らは僧の卵ともいうべき所化を、タバコを買いにやらせるなどの私用に使い、チップがわりに菓子を与え、ソバ代を出すなどしていた。彼らには所化とはいえ、僧侶一般に対する畏敬の念はなかった。所化を指導する立場にあった的場はこれらのことを見聞きし、青年部責任者・土屋某に再三にわたって注意を促した。三月二十二日の夜、的場は青年部員間で、「正宗の坊主も邪宗の坊主となんら変わりない。ものさえ与えればいうことを聞く」と話されているのを聞き、翌二十三日朝、大石寺内の一僧房である六壺に所化と青年部員を集めて厳重な注意を与えた。「大坊は一人前でない僧が法主の指南で修行する場所であって、本来が青年部員の起居するところではない。教育にさわるような真似はやめてほしい」(中略)が、この三時間後、的場は池田に呼び出されて裸にされ、近くの御塔川原に放りこまれる。青年部員がかわるがわる的場に馬乗りになって的場の顔を水の中につけ、池田はポケットに手を入れて見下ろしながら、指揮したという。的場は事件後、被害者にもかかわらず逆に約二週間の謹慎を命じられたうえ、北海道の新寺院に四年、その後、鳥取へと、地方回りの生活を余儀なくされた(『週刊文春』昭和五十二年九月一日号)。宗門は創価学会の組織と財力に制圧されつくして、的場の正義をバックアップすることも、その権利を回復することも長くできない状態にあった。

 この事件は、『人間革命』第十二巻にも取り上げられているが、例によって事実関係は大きく捻じ曲げられている。『人間革命』の当該箇所を以下に記す。
 三月も末に迫った日のことであった。総登山の整理役員として登山していた青年が、早朝、六壺の廊下を通りかかると、一人の僧侶が、お小僧さんたちを怒鳴り散らす光景に出くわした。彼らの多くは小・中学生であり、見るからにあどけない少年もいた。「勤行のやり方がなってねえんだよ。いいか、だいたい。お前らはな……」 青年は、いたいけな少年たちを怒鳴りつける僧侶を見て、あっけにとられて立ち止まった。この僧侶は所化頭であった。酒を飲んでいると見え、顔は異様に赤かった。(中略) 所化頭はさんざん罵声を浴びせると、ひとかかえほどもある六壺の大きな鈴を手にし、一人のお小僧さんの頭に被せた。そして、その上から、鈴棒を力まかせに振り下ろし、打ちすえたのである。(中略)青年たちにしてみれば、この所化頭の振る舞いはとても許すことのできない所業であった。伸一は、所化頭に反省を求める必要があると考え、総本山の内事部を訪ねた。内事部にいた宗門の理事は、事情を聞くと、「それでは、彼を呼んで反省を促し、謝罪させましょう」と約束してくれた。しかし、所化頭は、自分の言動が問題にされていることを知ると、姿を隠してしまった。だが、近くの旅館の押入に隠れているところを見つけられ、やむなく六壺にやってきた。そこには、学会の青年部の幹部も二、三十人ほど出向いていた。所化頭は、酒の臭いをぷんぷんさせながら、憮然とした表情をしていた。学会の青年たちは、日頃の所化頭の言動をあげて、その真意をたずねるとともに、反省を求めようとした。(中略)間もなく御開扉のために、日淳上人がここを通られる時間が迫っていた。青年たちは、御心配をおかけしてはならないとの思いから、場所を移して話し合うことにした。立ち合いの僧侶と所化頭とともに、青年たちは潤井川へ向かった。河原に下りると、青年たちは、また、さっきと同じ質問を発したが、所化頭は傲然として睨みつけ、やがて、不貞腐れたようにそっぽを向いた。(中略)青年の一人が言った。「酔っているのなら、顔を洗ってきたらどうですか」 所化頭は衣を脱ぐと、川に入り、顔を洗いはじめた。戻ってくるのを待って、伸一は込み上げる激情をこらえ、諄々と諭すように語りはじめた。 「(前略)あなたはお小僧さんを不当に苛めている。鈴を被せて打つなどということは、修行でも、訓練でも、決してないはずです。暴力、暴言は、私どもとしても見過ごすわけにはいきません。是非おやめください。(後略)」 伸一は忍耐強く、噛んで含めるように所化頭の非をただした。真心をつくしての説得であった。所化頭は、意固地になっていると見え、憮然とした態度を取りつづけていたが、次第にうなだれていった。最後に伸一は、「あなたのことは宗門にお任せしますが、私たちの思いをわかってください」と言って、立ち上がった。その時、それまで押し黙っていた所化頭の、「すいません……」という声が、かすかに聞こえた。

 『人間革命』の記述では、暴力をふるった側の創価学会が、逆に僧侶の暴力をたしなめたことになっているほか、所化頭は川で顔を洗っただけということになっている。

 上記の引用には、不自然な点が多い。法主に心配をかけないよう場所を移す必要があったにしても、別の建物か境内の目立たない一角に行けばよいことであり、河原に行く必然性はないはずである。また、この数年前に小笠原慈聞氏に対する暴行事件を起こした当事者が、一体どの口で「暴力、暴言は、私どもとしても見過ごすわけにはいきません。是非おやめください」などと言えるのだろうか。

 この事件については、元公明党都議の龍年光氏(当時は参謀として池田の部下だった)も著書で詳述している。それによると池田大作は、的場氏が青年部に抗議したことを聞いて激怒し、的場氏に報復制裁を加えるためだけに、わざわざ東京から大石寺(静岡県富士宮市)に駆けつけたという。
 的場師の指摘は、池田の最も痛いところを突いたのだ。逆上した池田は、我々に対してこう宣言した。「これから所化頭の的場を徹底的にやっつける。彼は大変、素行が悪い。小僧さんをいじめ、煙草を買いに行かせたり使い走りをさせている。こんなことでは、これから学会員の子弟は僧侶に志願しなくなってしまう。だから、断固として粛清するのだ」 これは事実と正反対だが、それにしても筋の通らぬ話だ。(中略) ついに池田は、「的場の頭を冷やしてやれ!」と叫んだ。的場師は、「後で白衣や襦袢を洗濯するのは大儀だから、自分で脱ぐから待て」といい、自ら帯を解き、白衣を畳んで石の上に置いた。すると池田は、裸になった的場師を青年部員に担ぎ上げさせ、冷たい水の中に何度も押し込ませた。この時の池田の異常な形相は、これまで誰にも見せなかった険悪なものだった。(龍年光著『池田創価学会を解散させよ』より引用)

 当事者の証言からは、創価学会側が当時、参謀室長であった池田大作(『人間革命』では「山本伸一」)の指示のもと、僧侶に対する暴行事件を引き起こしたことは明白である。それを『人間革命』では恥知らずにも、池田が暴力をやめるよう説得したと書いているのである。

 創価学会は表面的には日蓮正宗を敬いながらも、宗教法人して一定の独立性を確保することで、教団の運営に日蓮正宗から口出しできないようにし、さらに小笠原慈聞氏や的場正順氏のような反対派に対しては、直截的な暴力という実力行使により沈黙させ、宗門の運営方針についても主導権を確立していった。もちろん、暴力だけで僧侶を従わせたわけではない、日蓮正宗はもともとは小宗派に過ぎず信者が少ないことから、その寺院経営は楽ではなかった。創価学会のおかげで信徒が
増えたことは、正宗にも少なからず富をもたらした。

 また、時には単純な暴力だけではなく、謀略も用いた。話はやや前にさかのぼるが、創価学会は昭和26年(1951年)10月に宗教法人としての設立届を東京都に提出した。本来、在家信者の団体として日蓮正宗の傘下にある創価学会が、独立した宗教法人になる必要などないはずである。創価学会側は〝折伏でトラブルになった際に、宗門に迷惑をかけないため〟などと説明したが、本音は宗教ビジネスの儲けを宗門に吸い上げられることを防ぎたかったのであろう。

 創価学会は日蓮正宗僧侶に対する暴行事件を引き起こす以前から、暴力的な折伏を行っており、それだけでなく、「病気が治る、金が儲かる」と、極端に現世利益にかたよった教義解釈を前面に打ち出していることについても、日蓮正宗内部には憂慮する意見が少なくなかった。

 こうした懸念を持った僧侶たちが、創価学会が日蓮正宗の傘下にありながらも、宗門が運営について口出しをしにくい独立した宗教法人でもあるという、特権的な地位を手に入れることについて、反対したのは当然であろう。

 前回述べた〝狸祭り事件〟には、こうした反対派を威圧し沈黙させる目的もあった。ただ、宗教法人設立の届出に際しては暴力だけでなく、策略も用いられている。創価学会の元顧問弁護士・山崎正友氏の著書から、該当する記述を引用する。
 創価学会の宗教法人認可に当たっても、日蓮正宗は必ずしも乗り気ではなかった。できれば許したくない、という空気の方が強かった。それを、創価学会が力と謀略で押し切ったのである。戸田城聖の指示で、青年部幹部は、日蓮正宗の高僧に対して女性を近づけ誘惑させた。その女性が懐妊すると、戸田城聖はその高僧を責めた「他人は許しても、この戸田は許しませんぞ」 戸田城聖はそう言って、ひたすら謝る高僧を、持っていた数珠で何度も打った。その席に、池田大作と藤原行正が同席していた。 (山崎正友著『懺悔の告発』より引用)

 策とは言っても単純なハニートラップだったわけだが、僧侶は聖職者という体面を守らなければならないため、成功した場合の効果は絶大だったであろう。この他にも僧侶を温泉に招き、芸者をあげて接待するなどの懐柔策も用いられたらしい。

 以上見てきたように、創価学会は〝性と暴力〟という、人間の最もプリミティブな衝動を利用することにより、日蓮正宗を従わせてきた。

 『人間革命』第一巻(昭和40年発行)には、日蓮正宗について「これほど、清浄にして慈悲に満ちた宗団が、世界の何処にあろうか」などと書いてあるとあるが、私にはどう見ても世間並に汚濁にまみれているとしか思えない。そして、創価学会の汚さは世間並どころではない。上辺は敬うように見せかけて取り入り、やがては暴力や策謀によって完全に支配下に置こうとする、彼らの卑怯なやり口には、いくら警戒してもし過ぎではないのだ。なんとなれば、創価学会員は現在では至る所に浸透しており、公権力に対しても内部から影響力を行使しようとしているからである。社会の行く末に関心をもつ者なら誰であれ、彼らの好きにさせてはならないということを、ご理解いただけるはずである。


 補足 「追撃の手をゆるめるな!」

 『人間革命』第十二巻には、的場氏へのリンチ事件について池田大作が戸田城聖に報告した際に、「宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。(中略)追撃の手をゆるめるな!」と戸田から言われ、これが遺言になったと述べられている。しかし、この言葉は池田大作によるデッチ上げだと、元教学部長の原島嵩氏が暴露している(私説〝五重相対〟①参照)。龍年光氏も前掲書で「これは池田の完全な『捏造』である」と述べている。創価学会は、若年者への教育上の配慮という、ごく真っ当な要求をした的場氏に対して集団リンチで応え、しかも『人間革命』においては事実関係をまったく逆にして、的場氏の側に非があったように捏造して広めた。何の落ち度もない者を卑劣な手段で苦しめ、恬として恥じることがない、この邪悪さこそが、池田大作および創価学会の本質なのである。

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