開祖/日蓮履歴考 |
「我日本の柱とならむ!我日本の眼目とならむ!我日本の大船とならむ!(開目妙) 」 | |
1222(貞応元)年2月16日(3月30日/4月6日)、安房国(長狭郡東条郷片海。現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で漁師の子として生まれた。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。 | |
1233年(天福元年)、12才の時、近くにある清澄寺の住僧/道善房に入門。後日、光日尼 に与えた書によると、この年日蓮は、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者になしたまえ」と立願したと言う。満願の日に虚空蔵菩薩より知恵の宝珠を授けられた ことを感得し、以来眼が開けて諸経の奥旨を究明することができたという。(『清澄寺大衆中』) | |
1238年(暦仁元年)、16歳の時、出家し、「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。やがて師の許しを得て鎌倉、京を目指す。 | |
1245年(寛元3年)、天台根本道場である比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学した。ここを根拠にして三井寺、高野山、四天王寺など京都諸宗を 経巡り、32才になるまで研鑽した。(『妙法比丘尼御返事』) | |
1246年(寛元4年)、三井寺へ遊学。 | |
1248年(宝治2年)、薬師寺、仁和寺へ遊学。 | |
1248年(宝治2年)、高野山・五坊寂静院へ遊学。 | |
1250年(建長2年)、天王寺、東寺へ遊学。 | |
日蓮は、「諸宗、諸経あまたあるうち、どれが成仏の教え、即ち仏教の眼目、真髄であり、道にかなうも のであるか?」を問い続けた。南都6宗、山門(叡山)寺門、諸大寺は腐敗堕落していた。「末法」の世はことごとく眼前にあるとして、これを救うべき教法はどれか?問い続けた。結論的に云えば、諸宗諸経を学び、現実を直視しながら仏法の道理、仏典の証拠、社会の現実、即ち理証、文証、現証の3証を具備するや否やが仏法の浅深、 邪正判定の基礎になる事を徹見し、法華経最勝の信念をつかんだ。「ある夕、若き日蓮は釈迦入滅直前に説いたと言う『涅槃経』に目を注いでいた。その時、一文が目に飛び込んできた。「依法不依人」 (人によるな、法によれ)その瞬間迷いは晴れたと言う」。 | |
1253(建長5年)年、32才の春、日蓮は諸国遍歴を終えて故郷の清澄寺に帰った。法華最勝の信念を口外せずにおくべきか、これを胸中に秘めず人に報せて迷妄を破りブッタの本懐を教えるべきかに悩んだ。これを言い出すならば3障4魔に責められ、生命にも及ぶ。しかし、「言わずばこの人生は楽に生きられても、死後必ず地獄に落ちるだろう」(『開目抄』)と行くも地獄行かぬも地獄の道ながら行く地獄を選ぶことを断固決意した。 | |
1253(建長5)年、4月28日(5月26日/6月2日)朝、日蓮は旭森の山頂に立ち、太平洋の彼方に昇る朝日の日の出に向かい、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、法界に向って開宗の宣言をした(立教開宗)。この日の正午、日蓮は清澄寺持仏堂で初説法を行い、「法華経最勝」を述べ、さらに諸宗の誤りを指摘し「ことに念仏は無限地獄の業、禅は天魔の法である」と痛烈に批判した。名を日蓮と改め、中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける。 | |
日蓮教理は、熱心な念仏者であったこの地の地頭を怒らせ、日蓮を殺害しようとした。難を逃れた日蓮は鎌倉におもむき 松葉谷に草庵を結んだ。この鎌倉での初期の弘法によってしばしば石を投げられたが、日昭、日朗などの多くの信者を獲得した。 | |
1254(建長6)年、清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始する。 | |
1256年、8月、鎌倉では洪水があり、また風疹が全国的に流行、その後わずか3年間に大地震、大火、飢饉と天変地異が続き人々は苦しみあえいだ。幕府も朝廷 も神に祈り、仏を仰いで諸寺に大法、秘法を修させたが災は増加した。日蓮は「ただ事ではない」と感じこの根因を経文に求め法華経に辿り着く。 | |
1257(正嘉元)年、富士山興法寺大鏡坊に法華経を奉納する。 | |
1258(正嘉2)年、所伝によれば、この年、実相寺にて一切経を閲読。この頃、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房とする。 | |
1259年、守護国家論(しゅごこっかろん)。 | |
1260年、災難興起由来(さいなんこうきゆらい)、災難対治抄(さいなんたいじしょう)、立正安国論(りっしょうあんこくろん)。 | |
1260(文応元)年、7.16日(8月24日/8月31日)、日蓮が、前執権/得宗の幕府最高実力者である北条時頼に立正安国論を進献した(第一回国家諌言)。日蓮は、相次ぐ災害の原因は、人々が正法である法華経を信じずに浄土宗や禅宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経一乗の正信に帰せば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。禅宗を信じていた時頼は何の反応も示さず黙殺した。 | |
安国論建白の40日後、日蓮の立正安国論の内容に激昂した浄土宗の宗徒数千人による松葉ヶ谷の草庵焼き討ち日蓮襲撃事件を招いた。日蓮は難を逃れた。 | |
1261(弘長元)年、5.12日、幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流される(「伊豆法難」)。 「教えを広める者は、難に遭う」という法華経の言葉通りとなり、「法華経の行者」としての自覚を深めることになった。 | |
1262年、顕謗法抄(けんほうぼうしょう)。 | |
1264(文永元)年、日蓮は、安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失う。 | |
1264年、日蓮は郷里に戻った。「預言者、枕するとこなし」の諺通り、地頭の襲撃を受け、あやうく鎌倉に戻った(小松原法難)。 | |
1268(文永5)年、時頼没後、蒙古モンゴル帝国から臣従を要求するフビライの国書が届けられる。臣属しなければ討つという。 | |
日蓮が、安国論御勘由来を著して再度上奉する。しかし幕府要人達はこれに何の対応も見せない。 | |
10月、日蓮が、執権執権時宗をはじめ平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観など11箇所に檄文を送る(『11通御書』)。他宗派との公場対決を迫る。 しかし相変わらず無視される。 | |
元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。 | |
1269(文永6)年、富士山に経塚を築く。 | |
1969年、3月、9月、蒙古の使者が来る。 | |
1970年、日蓮は再び書条を送る。 | |
1271(文永8)年、7月、極楽寺良観の祈雨対決。忍性との雨降らし対決で勝つ。 | |
9月、良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかける(「竜口法難」)。処刑を免れる。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。 | |
1271年、日蓮は捕らえられ佐渡に流罪となった。この間、日蓮の弟子達も激しい迫害を受けた。日蓮は後に「1000人の内999人まで落ちた」と述懐している(『新尼御前御返事』)。 | |
佐渡の厳しい自然は老境にさしかかった日蓮にはこたえるものであった。しかし日蓮の使命感はいよいよ燃え盛る。「我、日本の柱とならむ。我、日本の眼目とならむ。我、日本の大船とならむ(『開目抄』)」。それは単に使命感というにはあまりにも高貴なものであった。 | |
10月、評定の結果、佐渡へ流罪。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である。 | |
1272年、法華浄土問答抄(ほっけじょうどもんどうしょう)、八宗違目抄、開目抄(かいもくしょう)、真言諸宗違目 、祈祷抄(きとうしょう)。 | |
1273年、如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)、顕仏未来記(けんぶつみらいき)、小乗大乗分別抄、木絵二像開眼事。 | |
1274(文永11)年春、赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれる。日蓮は、「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。 | |
そこで日蓮は幾人かの信者を得るとともに『四恩抄』などの重要な著作をした。日蓮の流罪が不当であると言う反省が 幕閣におこり、日蓮は赦免され鎌倉に帰った。直後、日蓮に呼応しなかった時頼は37才の若さで急死したのである。 | |
1274年3月、流罪放免となった日蓮は鎌倉に戻って来た。多くの信者を得、又上行菩薩としての確信を得た宗教的には実り多き日々であった。そして佐渡に天変があった。ある日、太陽が3つ見え、東方の明星が2つ並び現じたと言う。 | |
1274年、『開目抄』、『観心本尊抄』、法華取要抄(ほっけしゅようしょう)などの主著をあらわしている。 | |
4月8日、 幕府に召喚され「蒙古はいつごろおしよせるであろうか?」と問われ、即座に「今年こそ」と答える。「天の怒り少なからず、よも今年はすごすまじ」さらに 「これにつけても念仏、禅などの帰依を止めるべきである。中でも真言は大禍の根源であるから蒙古の調伏の祈りはゆめゆめ真言師に仰せつけられてはならぬ」と 憚ることなく進言した。日蓮は、立正安国論の献進と竜口法難前後の諫言と、この会見を持って3度の諫言と言っている(『撰時抄』)。しかし幕府は日蓮の諫言を受け入れることはなかった。 | |
5月、日蓮は失意し鎌倉を去った。その後、身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて甲斐、身延入山。身延山を寄進され、身延山久遠寺を開山する。草庵を結び、以後の7年を弟子の育成にあてた。 | |
1274(文永11)年、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。 | |
1275年、神王国御書、種種御振舞御書、撰時抄(せんじしょう)。 | |
一谷入道御書文永の役の際の元・高麗連合軍による対馬侵攻について、現在伝世されている日蓮の書簡のうち、建治元年五月八日付のいわゆる「一谷入道御書」に、日蓮が接した当時の伝聞が伝えられている 。
「一谷入道御書」は日蓮が佐渡配流中に世話になっていた一谷入道の女房に宛てて文永の役の翌々年に書かれたもので、その後段部分に文永の役における対馬の被害について触れたものである。これによると蒙古軍は上陸後、宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し、島内の民衆を殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、という話を伝えている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書簡にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたことかどうかは詳らかではない。 日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している。例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し」と記している。 しかしながら、近年の研究によると、「一谷入道御書」以降の書簡では文永の役における壱岐・対馬などでの被害や惨状について幾度も触れられているものの、「捕虜の手に穴を開けて連行する」という記述は「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡において類する言及は見られないため、文永の役での情報が錯綜していた時期に、あまり根拠のない風聞も書簡中に書かれたのではないかという推測がされている。日蓮は「諌暁八幡抄」などで他の仏教宗派を批判した際、四箇格言(しかかくげん)を述べた。真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊の四つを謂う。ただし、自身はこれを四箇格言とは命名していない。 |
|
1276年、報恩抄(ほうおんしょう)。 | |
1277(建治3)年、9月、身延山山頂からの下山中、日蓮が弟子一同に説法をしていた時、それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし且つ感激させたという伝承が残されている。 | |
1277年、四信五品抄(ししんごほんしょう)。 | |
1278(弘安元)年、日蓮が立正安国論の改訂を行う(「広本」)。さらに2回目となる「立正安国論提出」に踏み切り、合わせて生涯に3回目となる「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。 | |
1279(弘安2)年、9月21日、駿河熱原の神四郎等20人が滝泉寺行智等に讒せられ鎌倉に送らる。 | |
1280年、諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)。 | |
1281(弘安4)年、蒙古軍再襲来(弘安の役)。 | |
9月8日(10月10日/10月17日)、病を得て、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山する。
|
|
弘安5年9月18日、10日後、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名する。 | |
10月8日(11月9日/11月16日)、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。 | |
1282年10月13日(11月14日/11月21日)、池上宗仲邸にて入滅した(享年61歳)。現在、大本山池上本門寺となっている。苦難多き人生であった。日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、信徒や弟子達もこれを大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片は600点を越える 。 | |
三大秘法禀承事(さんだいひほうほんしょうじ、さんだいひほうぼんじょうのこと)1282年(但し、真偽両説あり)、唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)、本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)、兄弟抄、下山御消息(しもやまごしょうそく)。 | |
臨終に際して日蓮からじきじきに京都開教を依託された日像(1269~1342)は祖師同様に21年間に三度の洛外追放の目にあいながら京都に布教した (「日像/三黜三赦 」。日像門下は、多くの京都町民を改宗させ、日親門下と共に目覚しい勢いで町民ばかりか、15世紀には将軍の生母、日野重子を始めとする将軍家側近、さらには近衛家や花山院家などの上級公家達をさえ熱心な帰依者として、爆発的に京都、奈良、堺に教線を拡大し、16世紀前半には「天皇改宗」まで後一歩とせまっていた。比叡山延暦寺がこれに反発し、「久吉・華王房、法論対決」となる。比叡山延暦寺は、これを機に大名と結託し日蓮宗を京から武力で追い出した。この3障4魔の働きによる「天文法華の乱」(1536年)で、この時代の〔天皇改宗〕摂理は成就しなかった。死後日蓮は臨終まで自分に従い、最も自身の非妥協の性質と教理を正確に受け継いだ日興門流に『不開門』 を啓示して、『天皇改宗』の意義と価値 を教えようとした。 | |
日蓮の死後、すぐさま分派が生じ今日に至っている。 日蓮教理にあっては特に「神祇の拝・不拝」問題を浮上させていた。日蓮の神祇観は天照以下すべての神の本地を釈尊とする本地垂迹説から出発している。日蓮は「八幡大菩薩は正法を力として王法をも守護し給ひける也」(『諫暁八幡抄』)、「守護の善神は法味をなめざる故に威光を失い、
利生を止め」(『唱法華題目抄』)と言い、神は法華経の功徳によって始めて生きながらえる事ができると説いた。日蓮の死後、最初の分派となった日興門流の分派の原因が神祇の拝、不拝問題であった。日興が身延を去る事になった契機は、身延の檀家の三島明神参詣などの謗法供養であった。学頭日光が「参詣すべし」とこれを認めたので、日興は日蓮の正義を継承するのはこの地では不可能であると嘆じ、身延を離れた。その後の日蓮宗全体は概ね神祇不拝を説き、門流によっては神社参拝を厳しく禁止した。
|
(私論.私見)