南都六宗

 (最新見直し2008.6.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


【南都六宗】
 政界のこの動きに合わせて、元興寺や興福寺を中心にして法相宗を始めとする南都六宗のいわゆる学問仏教が盛行していた。 南都六宗とは、奈良時代に平城京を中心に栄えた仏教6宗派(三論宗、法相宗、倶舎宗、成実宗、華厳宗、律宗)の総称で奈良仏教とも云う。当時からこう呼ばれていたわけではなく、平安時代以降平安京を中心に栄えた「平安二宗」(天台宗、真言宗)に対する呼び名である。

 民衆の救済活動に重きをおいた平安仏教や鎌倉仏教とは異なり、これらの六宗は学派的要素が強く、仏教の教理の研究を中心に行っていた学僧衆の集まりであったといわれる。つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、宗教上の実践行為は鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う程度であったといわれる。ただし、中国に渡り玄奘から法相宗の教理を学び日本に伝えた道昭は、このような国家体制の仏教活動に飽きたらず、各地へ赴き井戸を掘ったり橋を架けるなどをして、民衆に仏教を教下する活動を行ったとされる。なお、同じく民衆への教下活動を行った行基の師匠も道昭であったといわれる。南都六宗は、宗派というよりもお互いに教義を学び合う学派のようなもので、東大寺を中心に興隆して勉強し合っていた。(「ウィキペディア南都六宗」参照)

 (南都六宗各派については「南都の六宗」が詳しいのでこれを参照する。暫くこれを転載させていただく)

【三論宗】
 高句麗の僧・慧潅によって日本に伝えられた。慧潅は初め入唐して嘉祥大師吉蔵から三論宗を学び、推古天皇33年に来朝して宮中で三論を講じ、元興寺に勅住して盛んに唱導した。中国では吉蔵以後三論宗の系統は明瞭を欠き、いずれかといえば衰運を辿ったようであるが、我が国において隆盛に向ったのである。

 三論宗は羅汁の訳出した竜樹の中論、十二門論、提婆の百論を所依の論として成立している宗派で、竜樹、提婆の中観派の系統である。中国では羅汁が開祖で嘉祥大師吉蔵が大成者とされている。

 破邪顕正と真俗三諦と八不中道との三科によって述べられ、これによって顕し証せんとする所は無所得空であり、それを無得の正観と称する。破邪は邪なる迷情を破することであり、顕正は正しい義理を顕すことの謂れであるが、三論宗は空宗と呼ばれるように、一切皆空を説くのが主であるから、人間や事物一切のものに固定的実体を考える考方を否定し是正することが破邪になる。この空を徹底せしめると我々の有する実体観も凡て払拭されて少しも残照がなくなる。即ち真空無所得になってそこに無得の正観が顕れる。これが顕正であって、顕正は破邪の外に別に存在するのではない、破邪の究竟がそのまま顕正となるので、破邪顕正であると説く。

 真俗二諦は中論に基づくもので、諸法が因と縁によって生起しているのを有(う・存在)と説くのが俗諦、一切は畢竟空であると説くのが真諦である。二諦は衆生を導く為に説くのであるから、空に滞るものには俗諦を説いて有を明かし、有を執するものには真諦を説いて空を明かし、そして有空を止揚した非有非空の中道を悟らしめようとするのである。故に二諦も破邪顕正と同一趣旨であって、一切皆空の適用に他ならない。

 八不中道もまた同じ趣意の説で、八不を説くのは、生・滅・去・来・一・異・断・常の八迷を破するためであり、一切の相対的な分別(有所得心)を洗浄するためであるという。諸法について抱くところの迷見の種類は甚だ多いが八種に約されるとするから、八迷で凡てを尽くすことになるという。故にこの一々に附して否定すれば、衆生の迷見のすべてを破し得るから、八不によって中道が現れるとなすのである。八不は破邪と同じで、八不中道は邪邪顕正である。

 三論宗は教即観を特色とし、理論はそのまま実践に現われねばならぬとする。それで成仏を談ずるにも、本来から云えば一切衆生は仏で、迷も悟もなく、従って成仏も不成仏もないわけであるが、現象的には迷と悟、成仏と不成仏があり、素質の利純によって成仏に遅速があるとする。一刹那の心に悟りを証するものは利根で速、三祇を経て万行を積み五十二位の段階を経るものは鈍根で遅である。然し、段階を認めてもそれは差別観に基づいて固定的に立てたものではない。そして衆生に本来具有している仏性が煩悩に覆われているのが迷であり、迷を破して本有の仏性を顕した時に仏と成るとする。

【法相宗】
 法相宗は元興寺道昭(629〜700)が白雉四年に入唐し、玄奘に師事して唯識説を学び、帰朝して伝えたのが第一伝である。道昭は帰朝して後、元興寺に住して湯唯識教学を講じ、又諸国を遍歴して社会事業を行い、遺言して火葬せしめた。これがわが国火葬の最初である。その門下に智通、智達の二人があり、いずれも入唐して玄奘とその弟子・基に学んで帰朝したが、これが第二伝である。これらは後に元興寺伝、又は南寺伝と称する。

 更に、大宝三年(703)、新羅の智鳳が智鸞・智雄と共に入唐し、基の孫弟子で法相宗第三祖の撲揚大師智周について学んだのが第三伝で、養老元年(717)に玄ムが入唐して同じく智周に受学して天平七年(735)に帰朝したのが第四伝である。これらを興福寺伝、又は北寺伝とも称し、ここに慈恩大師の新しい法相教義が伝えられたもののようである。

 したがって、南寺伝は旧伝であり、北寺伝新伝である。中国本土では法相宗は玄奘以後約70年間栄えたが、地周以後は勢いを失い、それに反してわが国では奈良時代を通じて盛んに研究が行われ、多くの学者によって著述が為された。

 南寺伝系には行基、勝虞、護命などが出て、北寺伝系には義淵、玄ム、善珠などが出る。

 行基(668〜749)は義淵にも教えを受けており、諸国を巡礼して化導につとめ、橋梁を架し、池を掘り、道路を通じ、港湾を修築し布施屋(宿泊施設)を造り、寺院を建てるなど社会事業に尽くしたので名声広く聞えた。聖武天皇に命ぜられて東大寺建立の勧進を行い、天皇、皇后に菩薩戒を授けて天平一七年(745)に初めて大僧正に任ぜられた。時人その徳を尊んで菩薩と呼ぶのである。

 玄ム(691〜746)は才学にすぐれ、唐の玄宗に重んぜられ紫衣を賜わり、天平七年、吉備真備と共に帰朝して経論五千余巻を著わし、聖武天皇の信任を得て我が国で初めて紫衣を許され、内道場に入って僧正に任ぜられた。然し後、筑紫の観世音寺別当に左遷され大宰府にて没した。

 教学史上においては護命と善珠の二人が有名である。元興寺護命(750〜834)は勝虞に従って唯識を学び、吉野山に庵居していたが、後、京に出て宮中において経を講じた。僧正に任ぜられ、元興寺の小塔院に住じた。著書に唯識枢要解節記、大乗法相研神章など多数あり北寺伝の善珠と共に相相宗傑出の学者である。伝教大師最澄の大乗戒壇設立に反対して論難を交えたのはこの護命である。
善珠(723〜797)も法相、因明(印度の論理学)に熟達した碩学で僧正に任ぜられ、秋篠寺の開基である。主に唯識論の著述多数があり、慈恩大師の権化であると云われた。

 護法の成唯識論に基づく宗で、この成唯識論は世親の唯識三十頌を護法独特の学説組織によって解釈したものである。世親は印度カシミールに出た四世紀頃の論師で、万法唯識の古説を万法不離識の新説に修正して学説を組織した。それが成唯識論で弟子の戒賢から玄奘に伝わり、慈恩大師・基のよって一宗が組織された。

 法相宗は真俗二諦を客観的に相互に対立した境界と認め、その中の俗諦を立場とし、その立場の上で心外の外界の諸法の実在を否定して唯識のみであると説くのである。

 識とは眼耳鼻舌身の前五識、第六の意識、第七の末那識、第八の阿頼耶識のことで、その体は各別であるとなす。更に細説してされている種子が顕現して対象の相をとったもの、不相応は識の差別の上の位で、色と心と心所との区分、関係、差別、状態であり、無為は識の実性で識と不離に存する本性であると、何れも識を離れていないから皆唯識にほかならないと説くので、これを万法不離識という。

 唯識説では八識を立てて、しかもその体は各別であるとする。八識の中で眼識・耳識・鼻識・舌識・身識を前五識といい、対象をそのまま感受するが決して自ら判断することはないものとされる。第六意識は第七末那(意)識に依る識の義で、前五識と併せてすべてを前六識ともいう。前五識とともに働いて判断、推論をなしたり、或いは前五識を伴なわず夢の中、定めの中で単独に働いて認識をなしたりする。

 第七末那識は第八識の作用を我と誤認思量する外には何等他の作用のないものである。我々が夢寐の間にも我執を離れないのはそのためであり、自己と客体との差別を立てて迷誤を犯す根本となっている。

 第八阿頼耶識は蔵識ともいい、一切諸法の種子(しゅうじ)を貯蔵しているという意味である。この識は善悪業の果報を受ける。即ち阿頼耶識は無始以来相続して間断することがないが、然し同一のものがそのまま永く相続するのではなく、善悪業の報いで或いは人間の阿頼耶識として相続したり、或いは畜生四悪趣の阿頼耶識として相続したりする。阿頼耶識の中に含まれる種子が善悪業の影響を受け、それが因となって五趣(地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)等いずれかの阿頼耶識の果を生ずるからである。さらにこの識は一切諸法の種子を包蔵して諸法を生起せしめるので種子識ともいう。種子とは諸法を生起せしめる作用を実体視した名である。従って種子がその内容で種子の集まりを一つの総体と見た時に阿頼耶識と名づけるのである。

 さて阿頼耶識は善悪業の報でその果体を生じた時、内には種子と有根身(五根を具える肉体)とを変現し、外には器界(山川・大地・草木等衆生の生存する環境)を変現する。即ち、心と身体と環境とを現しだすのである。

 阿頼耶識の因縁力によって生ぜしめられた種子と有根見と器界との中で、種子だけを阿頼耶識の内容とし、有根身と器界とを種子の現象したものとしてその相互関係を説くのが阿頼耶識縁起である。種子は諸法を現象せしめる一種の潜勢的作用をいうのであるから、必ず結果としての諸法、即ち現行を生ずるとなす。現行は生ずると同時に、今度は因となって阿頼耶識に印象勢力を残し留める。そのことを薫習(くんじゅう)といい、残し留められた気分、慣性のようなものを習気(じっけ)と称する。この習気が新しい種子となるのである。種子が現行を生ずることを種子生現行といい、現行が習気を薫習することを現行薫種子という。また因縁がととのわない為に種子が現行を生ぜずに種子として存続するのを種子生種子という。種子生現行と現行薫種子は同一刹那において行われ、衆生と器界とは一刹那毎に阿頼耶識から生じては阿頼耶識に還り、又生ずることを循環的に繰返すのであるが、それが日常の迷妄生活になっているというのである。

 実践修行についてみれば、唯識説では修行者をその能力に陥って五種に分け、永久的な差別をたてる。これを五性格別という。五性とは声聞定性、縁覚定性、菩薩定性、不定性、無生をいい、この中仏となり得るものは不定性の一部分とされている。そして仏果に達するには資糧位、加行位、通達位、修習位、究竟位の五位の階梯と三阿僧祇の間を経るを必要と説く。


【成実宗】
 百済の僧・道蔵が成実論を講じて注疎十六巻を作ったのが伝来の最初とされる。その後は三論の付宗となって独立の一宗とはならなかった。

 成実論は中国で羅汁が412年に訳出してから、大乗論として三論と結合して研究される。この論は印度の訶梨跋摩(カリバツマ)の作ったもので、その全体の論旨は四諦の説により、各諦の下を細分化して小乗部派の教義項目の重要なものを網羅し、それに対して自説の空の思想を主張せんとしたものである。

 その教義は、真俗の二諦を立て、俗諦(世俗の世界)は有、真諦(真実の世界)は空と説く。即ち俗諦においては諸法を五位八十四法に分類し、真諦においては実有を否定して一切皆空を説くのである。これは小乗の説一切有部の教説によたものである。

 真諦は四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)の中の滅諦で涅槃の謂れであり、仮名心、法心、空心の三種の心を滅することによって得られると説く。

 仮名心(けみょうしん)は常識的に一切諸法を実有となす考で、この考を滅するには一切法が因縁によって現象していること、また相互依存の関係にあることを知らなければならない。かく知れば空智が生じ空観を得ることになるが、この空観は人間に常一主宰の自我のないことを知る人空観である。

 法心は色、受。想、行、識の五陰(おん)の存在を認める考えである。この考を眼するには空智を更に進めて五陰は消滅すべきものであると見なければならない。これが法空をみることで、ここに法空観が得られる。この法空観は微塵を更に分析すれば空無に帰すると考えるところに得られるものである。然しこの段階ではまだ一切法は空であるとみる空心を残しているから更に進んで空心を滅しなければならない。

 空心は涅槃を理として認識する心で、無所有、即ち無をみているのであるからこれをを滅する必要がある。空心が滅するのは真理作用のなくなった状態の滅尽定(めつじんじょう)と、前世の果報である身体がなくなった無余涅槃(むよねはん)とに入った時であるとされる。中でも空心が本当に滅するのは無余涅槃の場合で、真実智が生じるからこれを第一義の有と名付ける。滅を第一義の有というのは涅槃といっても単なる無ではないという趣旨を表すものである。

【倶舎宗】
 倶舎宗は南都六宗にかぞえられるけれど、別に一学派の成立をみるに至らず、法相宗の附宗たるにすぎない。教学的にも法相宗の予備学問であるので、共に道昭、智通、智達等によって伝えられたものとみられる。

 用滅(ようめつ)説の立場は、諸法の滅するのはその実体が滅するのではなく、作用が滅するからであり実体は過去・現在・未来の三世にわたり実有であると説く。
対して体減説は、諸法は縁によって生じ、刹那刹那にその本体が滅亡するものであると説いたという。

 倶舎宗は印度の世親の著作である倶舎論(詳しくは阿毘達磨倶舎論)を本とする。小乗一切有部の論書、阿毘達磨発智論の注釈である大毘婆沙論の教理を世親が組織的批判的にまとめたものである。

 根本教理は三世実有、法体恒有で、諸法の実体は時間的に実在であると共に空間的にも実在であると説く。法相宗とともに、この法体を色法、心法、心所有体、不相応法、無為法の五位に分け、更にそれぞれを細別して七十五法とする。この五位七十五法によって輪廻の世界が成立いるとなす。

 色法は眼・耳・鼻・舌・身の五根(感官)とその対境たる色・声・香・味・触の五境、及び行為のあとに残る余力を実体視した無表色であり、心法は六識全体、心所有法は心理的作用、不相応法は得、非得など関係、状態を実体視したもの、無為法は空無を一種の実体として立てたものである。

 実践門としては苦・集・滅・道の四諦の因果の道理をよく観じて心所有中の道徳的不善なるもの、煩悩的なるものを制止しつつ根本の煩悩を滅し、身体的条件のなくなった無余涅槃に達しなければならぬと説く。

【律宗】
 伝来は天武天皇の時、道光(ー694)が入唐し戒律を学んで帰ったのが最初ではあるが、未だ受戒の実際的儀式・作法については多くを知らなかったようである。従って、律宗真の伝来は天平勝宝六年(754)に来朝した鑑真(687〜763)を始となすである。鑑真は南山宗の道岸、弘景に就いて律を学び、揚州大明寺に住じて戒律を講じていた時、743年日本の入唐僧栄譽、普照の懇請を受けて日本に渡来することを決意した。

 六度目にして辛うじて来朝することができた鑑真を迎えて東大寺大仏殿の前に戒壇が築かれ、聖武太上天皇、光明皇后、孝謙天皇、皇太子をはじめとして四百四十余人が受戒された。鑑真の来朝によって我が国にも受戒の法式が具わるようになったのである。やがて大仏殿の西に戒壇院が建てられ、天平宝字五年(761)には下野の薬師寺と筑紫の観世音寺とにも戒壇が建てられて、爾来天下の三戒壇として凡ての僧が受戒することになった。

 鑑真に随行して渡来した弟子は法進・如宝・法載・思託など三十五人を数えたという。
法進は国語に熟達して南山系の三大部を講じ、梵網経註など著述も少なくなかった。また天台宗の三大部(法華玄義・法華文句・摩訶止観)を四回にわたって講じており我が国天台教学を興す始をなした。日本天台宗を開いた最澄は法進を天台宗の附法系統に入れている。

 律宗は経・律・論の三蔵中の律蔵に依る宗で、他の宗が経蔵か論蔵のよって立つのとは異なる。律は止悪門と作善門とに分けられ、止悪門は不殺生、その他の禁止条項であり、作善門は受戒、布薩、安居などの行事・儀式である。そして止悪・作善二門の整備しているのは小乗律であって、大乗律は止悪門だけであり、それも小乗律と大同小異で、ただ禁止条項を守る態度を大乗思想で説いているにすぎない。

 小乗律は漢訳に四十五部あるが律宗はその中の四分律によるのである。いわば四分律宗である。大乗一実円頓の妙宗が律宗であって、大小乗戒というのは方便的な区別にすぎないとし、戒律を全く大乗の根本から解釈するのである。

【華厳宗】
 華厳教学の伝来は天平八年(736)唐僧・道センが華厳章疏を伝えたのが始まりとされるが、華厳宗としては天平十二年に金鐘寺(東大寺羂索堂で法華堂とも三月堂ともいう)の良弁(ろうべん)が新羅の審祥を請じて華厳経六十巻を講ぜじめたのを最初とする。良弁は義淵に就いて法相教学を学び、また華厳をも研究した僧である。

 東大寺以外では元興寺や薬師寺でも華厳が講じられており、西大寺でも兼学されて華厳教学は一時南都において重要な位置をしめ、多くの学者を輩出したのである。良弁はまた、大仏建立に尽くして東大寺初代別当となり、その弟子実忠は二月堂の修二会(しゅにえ)を創め、涅槃会を修している。

 華厳宗は天台宗とならんで中国仏教の精華と称せられるものである。華厳経は仏陀が仏陀伽耶の菩提樹の下で成道した直後、悟ったところをそのまま聴聞者の利鈍を顧慮せずに説いた経典であると伝えられ、その経旨は事事無礙円融の法界縁起を説くにあるとされる。

 華厳宗は特色のある唯心論の立場をとり、即ち一切衆生は本来仏であるというのであるが、しかしこれは修行中のものの観方ではなく、悟りを得たものの仏智に照らされた世界であるという。
この一心法界の諸法は無際限に次から次へと関係連絡(重々無尽)し、相互に他の全てを包摂(相即)、し、また相互に依存しあって独立孤存のない(相入)ものである。

 日常生活を例にとってみても、米飯は我々自信が作るのではなく、農民、精白業者、配給者、炊飯人に依って得るのであり、農民もまた田畑、天候、肥料などによって作るのであるから、我々が食するまでには天地自然、人工の一切が関係し、米飯の中に一切が収まる道理であるから、我々の世界は凡て重重無尽に関係し、相即相入の関係にあることが分かる。

 華厳宗の教義はこれらのように現象と現象との関係を重重無尽、相即相入も関係で説明するのが特徴であり、他の大乗仏教が理と事、即ち真理と現象との関係を説くのとは異なり、思弁的には確かに進んだ教説ではなるが、そのような事事無礙の法界を廬舎那仏の悟りの相とした為に一切衆生本来成仏と説かざるをえなくなり、従って衆生が修行して悟りを証する実践門の教説が立て難くなってほとんどその方面が欠けているのである。華厳宗が平安時代以後勢力を失い、現今も全く勢力がないのは仏教の生命である実践門が欠如しているからである。







(私論.私見)