太陰暦と太陽暦

 (最新見直し2007.5.17日)

 (最新見直し2007.5.17日)
 「暦」は、「ウィキペディア暦」で次のように説明されている。

 暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日常生活上の日本語でいわゆる「カレンダー」)をも指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記したものをも含める。

 日を記録するものをカレンダー、天象を予報するものをエフェメリス(天体暦)と分け、さらに日ごとに天象に加えて行事や占いや曜日などを総合して記述したものをアルマナック(生活暦)というように目的別に区分できるが、民間においてこれらは分かちがたく結びついていた。


 まず昼夜の周期が日となり、の満ち欠けの周期が月に、季節の周期が年となった。何を基準として1年を定めるか、閏(閏日・閏月)をどのようにして決めるかなどにより、さまざまな暦法がつくられた。大きく分けて太陽暦、太陰暦、太陰太陽暦の3種類がある。

 ここで暦法を考察するのは、著作権法とのからみで、著作権などがなかった時代に於ける知の格闘、知の共同による結晶、その成果の無償の提供を暦法史の中に見出し確認する為である。文字の発明、楽器楽譜の発明もそうであるが、それを著作権などで囲わずに世に広めてきた長い歴史がある。近時の著作権法が如何にその歴史に対する野蛮な蹂躙を仕掛けているのか思うべきであろう。このことに気づいたので以下検証する。インターネット検索で出てきた「月進日歩 トップページ」、「暦のはなし」、「暦法・紀年法のページ」、「日本の暦の歴史 」その他を参照する。

 2007.8.21日 れんだいこ拝


【太陰暦、太陽暦考】
 暦には、1年の長さを太陽の動きによって決める太陽暦と、1月の長さを月の動きによって決める太陰暦がある。太陰暦で1月の長さを月の動きによって決め、1年の長さを太陽の動きに調整する暦を太陽太陰暦と云う。日本では、明治5年までは太陽太陰暦を使用していた。これを一般に旧暦と云う。明治5年の改暦以降使用されている太陽暦を新暦と云う。

 日本での暦法は、日本書紀によれば、持統天皇4年11月11日「勅を承ってはじめて元嘉暦と儀鳳暦を行う」とあり、実際に使われ始めたのは持統天皇6年(西暦692年)からである。 日本で使われていた暦法は、幾度となく改められ明治の太陽暦への改暦まで使われていた「天保暦」まで次表の通りである。

暦  法 使 用 開 始 年 使用年数
元  嘉 持統天皇6年 (692) 5年
儀  鳳 文武天皇元年 (697) 67年
大   天平宝字8年 (764) 94年
五  紀 天安2年 (858) 4年
宣  明 貞観4年 (862) 823年
貞  享 貞享2年 (1685) 70年
宝  暦 宝暦5年 (1755) 43年
寛  政 寛政10年 (1798) 46年
天  保 弘化元年 (1844) 29年

 日本では、従来太陽太陰暦を使用していたが明治に至り太陽暦の採用となった。明治5年太政官布告第337号(明治5年11月9日)により「今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」とされ、それまでの天保暦に変わり太陽暦が採用されることとなった。明治5年の改暦の布告には、4年ごとに閏年を置くことは記載されていたが、現在使用している置閏法が決定されたのは、明治31年勅令第90号(明治31年5月11日)による。勅令は、次の通りである。「神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス。但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス」。

【太陰暦の基礎知識】
 まず、太陰暦、太陽暦、太陰太陽暦の概要を確認する。 

 太陰暦(The lunar calender)とは、月の地球周回を基準に月の満ち欠けで日を数える暦法である。月と地球、太陽の位置関係により月の満ち欠けが生じる。これを「朔望周期」と云う。新月(朔)から上弦、満月(望)、下弦となり、また新月になる。新月から新月までを1月とし、1月は平均すると約29.5日となる。月は、29.5日(29.530589日)かけて地球の周りを1周している。これを公転と云う。太陰暦は、1月の長さを月の動きによる29日と30日とし、29日になる月を「小の月」、30日になる月を「大の月」と云う。これで12ヶ月を1年とすると、1年が約355日となり、太陽の周期に比べ10日ほど短くなってしまう。これを調整するために設けられているのが、「閏月」である。つまり閏月のある年は、1年が13ヶ月になり、だいたい3年に1度の割合で閏月が存在することになる。

 月と太陽の黄経(天文学で使用される座標系の1つ、黄道座標で経度方向の角度)の差により、地球から見て、太陽と月と地球が一直線に並ぶ0度の時が新月(朔さく)であり、これを一月の第一日(ついたち)とする。三日月を経て90度の時が上弦の月、地球から見て太陽と月が正反対の180度の時に見える時を望(ぼう)と云い満月(十五夜とも云うになり、270度の時に下弦の月となり、再び新月と変化する。この経緯が約29.530589日であり、太陰暦ではこれを1朔望月と云い一月とする。

 これによると1年は1朔望月を12倍した12ヶ月が1年=354日(閏年は355日)となる。1ヶ月の平均日数(29.5日)と月の満ち欠けの周期(29.530589日)とのずれは、2、3年で一日分に達する。これを調整するために閏年を30年に11回置く。あるいは19年間に7回閏月を設けて太陽の周期と調整する(19年7閏法)。

 現在もイスラム諸国で用いられているヒジュラ暦(イスラム歴)が太陰暦の代表である。太陰暦では29日の月と30日の月が朔からずれないように調整されており、1ヶ月が31日となるということはない。太陰暦の長所は、月の形を見ればその日がわかることにある。逆に日を聞けば月の形がわかるという利点がある。

【太陽暦の基礎知識】
 他方、月と地球の関係で暦を作る太陰暦に対し、太陽と地球の関係から暦を作る研究も進んでいた。これを太陽暦と云う。太陽暦(The solar calender)は、地球が太陽の周囲を公転する(古くは、太陽が地球の周りを一周して元野位置に戻る)365日余(365.2422日)を基準に1年として日数を数える暦法である。

 これによると1ヶ月は30日前後となる。つまり、太陰暦は月の公転周期、太陽暦は地球の公転周期を基準に日を決めていることになる。400年に97回、閏日1日を置くのがグレゴリオ暦である。主な暦は、エジプト暦、エチオピア暦、マヤ暦、インカ暦、イラン暦、グレゴリオ暦。

 因みに、日本が1873(明治6)年に太陽暦に移行したのは、明治政府が年に13回給料を払う事が当時の財政上の負担が大きかったからだと云われている。(実際にはこの時、12月が数日に抑えられたので実質的に2か月分の給料を削減したことになる)

 明治新政府は、1872年(明治5年)11月9日、旧来の太陰太陽暦法(月を中心とし、1年を12ケ月か13ケ月とする)による天保暦を廃し、新しく太陽暦の採用を決定し、同年陰暦12月3日を1873年(明治6年)1月1日とした。太陽暦は太陽の運行を基準とした暦法で、365日を1年と定め、4年ごとにうるう日をおき、100年ごとにうるう年をはぶき、400年ごとにうるう日をはぶくことをやめる。現行のものは16世紀以来のグレゴリオ暦です。(樋口清之、生活歳時記、太陽暦を採用(明5)、p.647、三宝出版(1994)より)


【太陰太陽暦の基礎知識】

 太陰暦と太陽暦を折衷するのが太陰太陽暦(旧暦)(The solar-lunar calender)で、年要素には太陽暦を取り込み太陽の運動を基準にして1年とし、月要素には太陰暦を取り込み月の運動を基準として1月とする暦である。この場合、太陽年(地球の公転で成す1年)を基準にすると、朔望月(月の満ち欠けが作る1ヶ月)が構成する年とは一致しなくなる。これを詳しく見ると、太陽暦の1年は約365日であるのに対し、太陰暦の1回帰年の近似値である12ヶ月は約354日であり、毎年約11日のズレが生じる。太陰暦12ヶ月=1年とすると3年で約1か月のずれが生じ、数年も経つと季節とのズレが激しくなり太陰暦の特徴である季節感が役にたたなくなる。その差は16−7年たつと約半年に及び、真夏に正月がやってきてしまうことになる。

 この為、平均太陽年と平均朔望月の最小公倍数に近い数字から、太陽暦と太陰暦の差を補完する必要が有り、約3年に1回につき余分な1ヶ月を閏(うるう)月として挿入することでこのズレを修正する。閏月うるう月が挿入される年は1年が13ヶ月となる。これにより季節を調整する。

 閏月は、現在「メトン法」と呼ばれる方法で計算されている。「メトン法」とは、19年に7回閏月を挿入することによって季節のズレを修正する方法で、古代中国やバビロニアでも発見されていたが、BC5世紀のギリシャの天文学者メトンの名を取って「メトン周期」とも云う。「メトン周期」によれば、19太陽年=6939.602日、235朔望月=6939.688日、19年の運用につき生じる差は、235−19×12=7ヶ月という理屈で「19年に7回」ということになる。19年の日数は、365.24222日×19年=6939.602日である。235朔望月(=12×19+7)は、29.530589日×235月=6839.688日となりほぼ等しくなる。19年後の1月1日がほぼ同じ月齢になるという訳である。

 閏月の名称は、挿入する前の月の名前に「閏」を付けて呼ぶ。仮に、7月のあとに閏月を挿入した場合、その閏月の名称は「閏7月」となる。この命名法は便宜的なものであり、「7月が2回続くのだから、その年は暑い」というようなことではない。

 中国暦法でもうるう月が考案されていた。暦と季節とのずれを検出するために二十四節気により区分され、1年を24等分したものを一つおきに交互に中気、正節(節気)に分ける。正節から次の正節までの間を節月という。節月は約30日であり、1朔望月よりも長い。中気は1年の12分の1=30.4368日となる。月の公転周期(朔望月)は29.530589日で、暦と季節とのずれが蓄積されてゆくと中気を含まない月が生じることになる。この中気を含まない月をうるう月とする。うるう月を入れるタイミングは「中なき月をうるうとす」というルールによって決められる。また、月名も、その月に含まれる中気によって決め、例えば雨水を含む月を「一月(正月)」とした。 ときどき中気が含まれない月がある。中気が無い月を「うるう月」とする。

 このようにして生まれたのが太陰太陽暦である。つまり、太陰暦を基にしつつ実際の季節とのずれをも閏月を挿入して補正した暦が太陰太陽暦ということになる。主な暦として、ユダヤ暦、ギリシャ暦、バビロニア暦、中国暦、日本の旧暦などがある。日本の旧暦(和暦)は太陰太陽暦である。この太陰太陽暦を太陰暦と呼ぶ場合もある。


【太陰暦、太陽暦の歴史の基礎知識】
 太陽暦は、古くは古代エジプト王朝で策定され、太陰暦は、メソポタミアで策定されたと云われている。ヨーロッパや西アジアでは紀元前45年1月1日に太陰太陽暦のローマ暦から太陽暦ユリウス暦へ移行し、更に「グレゴリオ暦」へと至る。現在この「グレゴリオ暦」が世界で広められている。他方、東アジアを太陰太陽暦を発達させた。

【古代ローマ暦】

 B.C.(紀元前)750年ごろからB.C.46年までのローマで使われていた暦を便宜上「古代ローマ暦」と呼ぶ。B.C7100年までがロムルス・レムス暦、以降がヌマ暦という暦と呼ばれる。古代ローマ暦は、太陰太陽暦の一種で、閏月を挿入して暦を調整していた。ローマ暦の月は10ヶ月しかなく、後に2ヶ月増えたので、年末が2ヶ月ずれて2月が28日という変則的な日数になっている。その名残が現在の英語の月名と月の日数である。但し、閏月の入れ方がきちんと守られなかったり、あるいは政治権力者の陰謀で入れたり入れられなかったりということがあり次第に乱れたものとなっていった。

 ロムルス・レムス暦が古代ローマ暦の最初の暦であり、Martius(英語で言うところのMarch)からDecemberまでの10ヵ月(304日)が基本の1年で、残った日を、Decemberの後に付加するという制度でした。B.C710年の改定(ヌマ暦)で、その付加日を2つに分けて、これをJanuarius(January)とFebruarius(February)と二つの月にするよう改めた。

 古代ローマでは、冬の明けるFebruarius末の23日がテルミナリアという祭日だったが、閏月を入れる年は、このテルミナリアの後に更に1ヶ月入れるということで対処していた。この習慣は、ユリウス暦導入後の閏日の挿入にも引き継がれている。

 B.C.153年の法律で、年開始日はJanuariusの1日とすることになったものの、このような事情もあって、庶民への浸透には相当な時間がかかった。ユリウス暦の開始日もそれに倣っていますが、暦の終わりはFebruariusという感覚だけは、やはりぬぐえなかったようです。

 呼び名にもその形跡が見られます。ラテン語でも英語でも、9月はSeptemberと綴りますが、septはラテン語では7の意味※です。同様にOctoberのoctは8、Novemberのno(non)は9、Decemberのdec(deca)は10です。暦を改定した時に、呼び名を変えないでそのまま残してSeptember=9としてしまったので、9月を表す単語だが意味は7月、というような妙なことが起こっています。


【ユリウス暦】 

 B.C.46年、政敵であったポンペイウスを排除してディクタトルの地位に就いたユリウス=カエサル(ジュリアス=シーザー)は、「古代ローマ暦」との乱れを改定することを決意し、天文学者ソシゲネスに古代エジプト暦を参考にした完全な太陽暦を作らせ、1年を365日とし、4年に1度閏年を設け366日とするものを全ローマ下に公布した。この暦を「ユリウス暦」と云う。太陽暦にしたのは「閏月を入れずに済むから」という理由のようで、この暦の採用が「太陽暦」をスタンダードたらしめる要因となった。

 カエサルは、ユリウス暦の採用に当たり、入れられていなかった3ヶ月分の閏月をB.C.46年に一度に入れ、冬至からすぐの新月をB.C45年1月1日にした。この為、B.C.46年は445日にもなっている。新月を元日にしたが、朔望月の周期は太陽の年周運動による1ヶ月とはまったく一致しないため、翌年の元日は新月にはならない。この辺はまだ前の暦のしきたりを引きずっている感もある。

 ユリウス暦の規則は、1・1年を365日とする。2・4年に 1回、閏年(うるうどし)を置き、2月23日と24日の間に閏日を1日付加するというものであった。これによると、1年の平均日数は、(365×3+366×1)/4=365.25日となる。実際の太陽の年周運動の周期は、365.24219879…日で、年差は約0.0078日(約11分14秒)発生する。この方法では約130年1日ずれが生じることになる。

 ユリウス暦はその後、1600年以上も運用された。ただそれは順当にというわけではなく、ミスで閏年の入れ方を間違えるということがあり、3年ごとに閏日を入れたりする、いわゆる「混乱期間」も長らくあった。これに動いたのが、オクタヴィアヌス帝(アクティウムの戦いで地中海を平定したオクタヴィアヌスは、B.C.27年、プリンキパトゥス(実質上の帝政)を開始し、その元首に就いた)で、B.C66年〜A.C88年の間の13年間、閏年を入れずに暦を修正した。

 彼は、自らの功績をたたえる意味で、誕生月であるSextilis(8月)を、自分の尊称からとってAugustus[アウグストゥス]と改称した。実は、カエサルもかつて同じように自分の誕生月のQuintilis(7月)をJulius[ユリウス]と改称しており、それに倣った。(英語の8月はAugust、7月はJulyとなっている所以である) 更に、オクタヴィアヌスは、、平年の2月を29日から28日にした上で、30日だったその8月を31日とし、後の月の大小を逆転させた。交互に訪れる大の月と小の月が、8月から反対になるのはこのせいです。

 ※ Augustusは、「尊厳ある者」の意で、オクタヴィアヌスがローマ元首となった際、元老院(言うなれば議会)から贈られた尊称である。プリンキパトゥス開始後も、形の上では、元老院は維持されたのである。


【グレゴリオ暦】
 「ユリウス暦」は、長い年月のあいだに季節にズレが生じてきたため「グレゴリオ暦」に改められることになる。太陽暦として現在、世界で用いられているのは「グレゴリオ暦」とよばれるもので、1582年、時のローマ教皇グレゴリオ13世の勅令によって、1582.10.4日の翌日を10.15日にすることが決められた。.フランスはただちに受け入れた(「グレゴリオ暦採用の歴史」)。

 「グレゴリオ暦」の暦法ルールは、1・1年を365日の平年と366日のうるう年に分ける。2・西暦年数が4で割り切れる年を原則としてうるう年とする。3・但し、4で割り切れても100で割り切れれば平年とする。4・但し、100で割り切れても400で割り切れればうるう年とする。これにより、西暦1900年や2100年は平年、2000年はうるう年になる。

 「グレゴリオ暦採用史」は次の通り。325年、コンスタンティヌス帝が、キリスト教会初の公会議となる「ニケーア公会議」を召集し、三位一体説(神,キリスト,聖霊は一体で不可分とする考え方)を正統派とし、アリウス学派(キリストに人間的な面を強く認める考え方)を異端として追放した。この時、キリスト教国では、キリストが復活したお祝いをする日に当たるイースターすなわち復活(感謝)祭を、「春分の後の最初の満月からすぐの日曜日」と定義した。

 春分と言うのは、暦学でも、天文学でも重要な現象であった。春分とは、太陽の見かけの公転軌跡である黄道が、南から北へ地球の赤道を横切る瞬間(太陽黄経0°)のことを云う。とりあえず、「3月下旬、太陽が真東から出て真西に沈み、昼夜の時間が等しくなる日に起こる現象」とする。この春分の起こる点(春分点)というのは、毎年少しずつずれていく。このイースターの基準となる春分を完全に暦に一致させることが宗教上重要なことであった。

 はじめ春分の日は、カエサルによって、3月25日とされていた。それから、370年経ったニケーア公会議のとき、精密に計算した春分と開きが大きすぎるということで、3月21日に改められた。が、1年間で11分以上も狂っている暦で、日にちを変えたということだけで片付けるのは、大きい意味で言って解決になっていなかった。次の年にはまた、正確な春分時から11分遅れ、2年後には22分遅れ…となるからである。16世紀後半にもなると、これが大きな問題になってきた。単純計算上、その差は10日以上。いくらなんでもずれ過ぎだと誰もが感じるところまできてしまった。

 1年の平均日数は、[((365×3+366×1)×25−1)×4+1]/400=365.2425日。実際の太陽の年周運動からの差は約0.0003日。

 グレゴリウス13世は、1582年10月4日でユリウス暦を打ち切り、10月5日を新10月15日として、1583年のイースターの日を修正した。とはいえ、カトリック教国はすぐにこれに従ったものの、プロテスタントの国々は威信もあり、採用までに相当な抵抗があった。ただ、それらの国々も暦の不正確さから不利な立場に追い込まれ、結局は1900年くらいまでには相次いで採用するに至っている。グレゴリオ暦は制定以後、修正されることなく機能している。(閏秒の挿入は除く。)

 グレゴリオ暦の欠陥

 ローマ暦の時代に作られた不合理な暦をいまだに使い続けているため1月は31日、2月は28日か29日、3月は31日・・・・というように1ヶ月の日数に一定のルールがない。奇数月が31日というわけでもない。また、太陰暦のように実際の月齢(新月や満月のような月の満ち欠け)を示しているわけでもない。それでいて、グレゴリオ暦を含む太陽暦は「月概念」の遺産を引き継いでいる。その意味で、現在の太陽暦は真の太陽暦ではなく太陽太陰暦というようなものと考えることができる。


【「イスラム暦」】
 イスラム暦。西暦632年6月8日没のムハンマドが、イスラム教徒の暦はユダヤ人の太陰太陽暦やキリスト教徒の太陽暦と差別化するために、純粋に太陰暦のままにすべきだ」と唱え、死ぬ少し前に制定した。2代目カリフのウマルが、西暦634年頃制定した。イスラム教の預言者ムハンマドがメッカからメディナ(アラビア語でヒジュラ)に移住した年を紀元とする。メディナへの移住は、9月だったが、新月から新年を始めるために、西暦(ユリウス暦)622年7月16日を紀元とした。

 イスラム教国でも、通常はグレゴリオ暦を使っているが、宗教的な儀式などではイスラム暦が利用されている。そのため、断食で有名なラマダーンやメッカへの巡礼も季節が不特定である。農耕民のイスラム教の方々には不便なのでイスラム太陽暦が考え出されている。

【「ユダヤ暦」】
 イスラエルでは、今でも政治的行事、宗教的行事、命日などにはユダヤ暦を使用している。例えば、ラビン首相暗殺事件は、西暦では1995.114日であるがユダヤ暦では11.12日になる。(「暦(こよみ)入門」、「現代こよみ読み解き事典」)

【中国の易姓革命論】
 干支紀年法で用いられる十干と十二支の組み合わせ。中国では辛酉の年には革命が起こるという説がある。60年ごとにやって来る。その10倍の600年ごとに王朝が交替する。




(私論.私見)