生涯履歴

 (最新見直し2012.11.06日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


【カントの履歴】
 1724年、旧東プロイセンのケーニヒスベルク(現ロシア領クリーニングラード)に生まれ、終生同地で過ごした。1770年にケーニヒスベルク大学教授に就任。1781年、「純粋理性批判」、1788年、「実践理性批判」、1790年、「判断力批判」と三批判書を出版。人間の理性の認識能力の限界を探り、自由意思に基づく自律を道徳の根本に据えた。1795年、「永遠平和のために」を著しているが、国際平和、軍縮思想の起源となっている。1804年没。

その著『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunf, 1781初版/1787第2版)
「ア・プリオリ(a priori)な総合判断」
 
直接,物自体を把握できるか。
カントは,ロックやライプニッツらのような,認識が対象に依存しそれを「模写」するだけだという認識論(模写説)を,そうではなく,対象が認識に依存すると考えた(構成説).彼はこの発見を,コペルニクスの地動説の発見に例えて,「コペルニクス的転回」と言っている.
カントは対象をそのままで認識できるという考え方を放棄し,われわれ人間と無関係にそれ自体で存在する「物自体」(das Ding an sich)は認識することが出来ないとした.
空間は,あらゆる現象の形式(Form)に他ならない,
空間も時間も,われわれの知覚に先天的(ア・プリオリ)に備わっている「感性的直観の純粋形式」(reine Formen sinnlicher Anschauung)である.空間や時間の中で知覚される世界は,あくまで「現象」(Erscheinung)の世界なのである.ア・プリオリな学問であるかのように思われる数学も,このような「空間」「時間」といった「純粋直観」がなければ成立しない.
しかし,では,時間や空間によって把握される現象世界は客観的ではないのか,というと,カントはそうではないと言う.
時間は,われわれ人間の直観の主観的(subjektiv)条件に他ならない.そしてこの主観を度外視すれば,時間はそれ自体無(nichts)である.しかしながら,時間は,およそ現象に関しては,必然的に客観的(objektiv)である
つまり,カントは時間や空間の「経験的」実在性(empirische Realitaet)は主張するが,「絶対的」実在性は拒否する.
時間や空間は,あくまで現象の世界に属するのであり,その限りでは,実在性をもつが,それが物自体に属する,つまり超越論的観点から見ると,何者でもない,つまり観念性しかもたない,ということである.
空間あるいは時間において直観されるすべてのもの,つまり,われわれにとって可能的な経験のすべての対象は,現象以外のなにものでもない.言い換えれば,単なる表象(Vorstellung)以外のなにものでもない.この表象はわれわれの〈思想〉以外のところには,それ自身で基礎づけられるような存在をもってはいないのである.私はこの学説を,超越論的観念論(transzendetale Idealismus)と名づける.超越論的な実在論者は,われわれの感性の変様をそれ自体で存在するものにしてしまい,だから単なる表象を事象そのものにしてしまうのである
つまりカントは,「超越論的には観念論」であるが,「経験的には実在論」なのである.
このようにして空間や時間は現象世界を成立させるために,「対象を直観するところの主観に属する」感性の形式であった.しかしカントによると,
経験は,きわめて異なる2つの要素,つまり,認識の「質料」(Materie)と,この質料に秩序を与える「形式」(Form,形相)とを含んでいる
認識の材料(質料)などは感性の受容性によって,世界から受け取る.しかし,そのまったくの素材に,形や脈絡を与える(形相)のは,主観の側の自発性の能力なのである.そのような,感性によって受け取った素材を何か意味のあるもの,脈絡のあるものとして関与するのが,悟性の能力,「純粋悟性概念」(reine Verstandesbegriffe)なのである.
私たちの認識(Erkenntnis)は心意識の2つの源泉から生じる.第一の源泉は,表象(Vorstellung)を受取る能力(受容性−感性)であり,また第二の源泉は,これらの表象によって対象を認識する能力(自発性−悟性)である.それだから,直観と概念とが,私たちのいっさいの認識の要素であり,直観をもたない概念も,あるいは,概念をもたない直観も,それだけでは認識になり得ない
そしてその先天的諸概念を「カテゴリー」(範疇,純粋悟性概念)と呼んで,そのようなカテゴリー表を掲げようと試みた.アリストテレスもこのようなカテゴリー表を掲げようと試みているが,しかし彼はこれを共通の一原理から導き出さないで,経験的に拾い集めており,しかも直観形式であって,純粋な悟性概念でない空間および時間をそのうちに入れるという誤りを犯しているとカントはいう.
では,カントの言う共通の一原理はなにか.それは「判断」である.判断のあらゆる種類を考察すれば,悟性の根本概念は完全に見出されるであろう.こうして,カントは,カテゴリーを次のような3個ずつの4組,計12個あるとした.
@ 量に関して(Quantitaet):単一性(Einheit),数多性(Vielheit),全体性(Allheit)
A 質に関して(Qualitaet):実在性(Realitaet),否定性(Negation),制限性(Limitation)
B 関係に関して(Relation):実体性(Subsistenz)と偶有性(Inhaerenz),原因性(Kausalitaet)と依存性(Dependenz),相互性(Gemeinschaft)
C 様相に関して(Modalitaet):可能性(Moeglichkeit),存在性(Dasein),必然性(Notwendigkeit)
これらのカテゴリーももちろん主観的なものに過ぎない. このように,受動的な直感の能力である感性と自発的な概念の能力である悟性という2つの能力が働くことによって認識は成立するわけだが,これら異質の2つの能力を媒介するのが超越論的構想力(想像力)である.
第1章で見たように,デカルトによって,人間理性は他の存在者の現実存在を保証するこの世界を超え出た「超越論的」原理となる.しかし,それはまだ,あくまで神的理性によってその座が保証されているのである.しかし,カントは,そのような神的理性の後見なしに,有限ではあるが,それ自体は世界を超え出ていながらその世界の存在を基礎付ける主観の働きとしての「超越論的主観性」として,人間理性を規定したのである(このためにはカントのいう「コペルニクス的転回」が必要であった).イギリス経験論におけるロックやバークリーの「精神」(spirit)はまだ個人的な心的実体であったが,カントの場合は先天的な(つまり「超越論的な)主観なのであり,現象の世界は客観的なのである
しかし,このように,人間の悟性概念を12個だけに固定化することには,当初から反論があった.後にヘーゲルはこれをもっと柔軟化し,人間の認識能力は,弁証法的過程によって際限なく増大していくとした.
(5) 図式
さて,ここで問題になるのは,次のことである.すなわち,カントによると,対象は感性から悟性へと来たり,認識される.この時,いかにして,感性的な対象にカテゴリーを適用するのか,ということである.感性的対象への悟性の適用は,直接的にではなく,この両者の間には,両者の性質をあわせもっているもの,すなわち,一方で純粋で先天的であり,他方では感性的であるような第3のものが介在しなければならない.このような性質をもっているものはなにか.それは時間である.先験的な時間規定,たとえば同時存在の規定は,一方にはア・プリオリであるからカテゴリーと同質であり,他方には現象するものはすべて時間のうちにのみ表象されうるから現象する対象とも同質である.この意味でカントは先験的な時間規定を先験的図式(das transzendentale Schema)と呼び,悟性がおこなうその使用を純粋悟性の先験的図式性(transzendentaler Schematismus des reinen Verstandes)と呼んでいる.図式は自発的に図式的に規定する構想力(Einbildungskraft)の産物である.
先に見たように,カテゴリーには,4組ある.それぞれどのような図式をもっているのだろうか.
@ 量の普遍的な図式は,時間系列(Zeitreihe)あるいは数である.数とは単位(同質的なもの)を単位に順次に加えることを含むところのひとつの表象である.量という純粋な悟性概念を表象にもたらすためには,いくつかの単位を次々と構想力のうちにつくりだすよりほかにない.この算出を最初で止めるとき単一性が生じ,さらにこれを進めるとき数多性が,そして限りなく続けるとき全体性が生ずる.
A 質の図式は時間の内容(Zeithalt)である.質に属する実在性という悟性概念を感性的なものに適用しようとする場合,充たされた時間,すなわち時間の内容を考える.ある時間を充たしているものは実在的である.否定性という純粋な悟性概念を表象しようとする場合,空虚な時間を思いうかべればよい.
B 関係の図式は時間の順序(Zeitordnung)である.なぜなら,関係を表象するとき,つねに時間のうちにおける事物の一定の順序を考えるからである.実体性は,実在するものの時間内における事物の恒存として現れ,因果性は時間内における合則的な継起として,相互性はある実体のうちにある諸規定と他の実体のうちにある諸規定との合則的な共存として現れる.
C 様相の図式は時間の総括(Zeitbegriff)である.可能性の図式はある表象が時間の諸条件一般と合致することであり,存在性のそれは,対象が一定の時間のうちに存在していることであり,必然性のそれは対象があらゆる時間に存在していることである.
このようにしてわれわれは,諸現象を経験認識へと高めることができるのだ.
(6) 超越論的統覚
感性的直観の多様が超越論的構成力によって悟性のもとに結合される場合,「統一」という概念が必要である.つまり,結合することによって統一があるのではなく,「統一」という自発的な意識が「結合」を可能にするのである,そしてこの統一を形成する主観の根源的な働きを「統覚」(Apperzeption)という.
「私は考える」(≫ Ich denke ≪)という意識は,私のあらゆる表象に伴ないうるのでなければならない.私はこの意識を純粋統覚と名づける
私はそれを純粋統覚と名づけて,経験的統覚から区別する.また根源的統覚とも名づけるが,その理由は,この統覚が,もはや他の統覚から導出されえず,逆にあらゆる他の諸表象に伴なう「私は考える」という表象を生みだす自己意識(Selbstbewusstsein)だからである
もともと「統覚」という言葉はライプニッツが導入した用語であり,「知覚」(Perzeption)を取りまとめる(ad-)という意味であった.そして,われわれのが与えられた多様にある「形」を与えようとするならば,必ずそれには「私は…と考える」という自発的な自己意識が必要である.だから「純粋統覚」とはそのような「統覚」の根拠であり,ほぼデカルトの「コギト・エルゴ・スム」に対応する.それゆえ
結合は決して対象のうちに存在していて知覚によって取り出されるようなものなのではない.この結合はまったく悟性のなすわざである.つまり悟性は,ア・プリオリに結合する能力であり,また直観における多様な表象を統覚によって統一する能力に他ならない.そしてこの統覚の統一という原則こそ,人間の認識全体の最高の原理なのである
ということになる.もう一度,まとめると,われわれは悟性という能力によって感性によって与えられた多様を,あるカテゴリーのもと「概念」として形を与えるのだが,それには,「私は…として考える」という自己意識としての「統覚」が必要なのである.

第2節 理性批判

(1) 先験的仮象
さて,「悟性」と「理性」は異なる.悟性はカテゴリーを,理性は「理念」(Idee)をもつ.そして,悟性は概念から原則(Grundsaetze)をつくるが,理性は理念から,そのうちに悟性の原則が最高の基礎づけを見出すところの原理(Prinzipien)を作る.理性の固有な原則は,一般に,悟性の制約された認識にたいして無制約的なものを見出し,これによってその統一を完成することである.だから理性は無制約的なものの,すなわち原理の能力であるが,しかし対象と直接に関係せず,悟性とその諸判断とのみ関係するから,その活動はあくまで内在的でなければならない.もしそれが最高の理性的統一を単に先験的な意味に理解せず,認識の現実的な対象にまで高めようとするならば,それは悟性の概念を無制約的なものの認識に適用することによって超験的となる.カテゴリーのこのような超験的な誤った使用から純粋悟性を経験を越えて拡大しうるかのような幻想をもってわれわれを欺くところの先験的仮象(transzendentaler Schein)が生まれる.理性の思弁的理念は,
@絶対的主観の理念,思考する実体としての魂の理念(心理学的理念)
Aあらゆる制約および現象の総体としての世界の理念(宇宙論的理念)
Bすべてのものの可能性の最高の条件としての,もっとも完全な存在としての神の理念(神学的理念)
の3つである.これらは経験的な現実にはまったく適用できず,構成的原理(konstitutive Prinzip)でなくて規制的原理(regulatives Prinzip)であり,何らの対象も感性的経験内ではそれに対応していないところのたんなる理性の産物にすぎない.したがってこれらは,それでもなお経験に適用されるとき,すなわち現実に存在する客体と考えられるとき,まったくの論理的誤謬,はなはだしい誤謬推理と詭弁に陥る.
そして従来の形而上学問いは,結局は,その3つに関する問いで,それは物自体の側に属するのだから,そもそもが理論理性によっては答えが出ないのである.そのことをカントは『純粋理性批判』の「先験的弁証論」(Die transzendentale Dialektik)において示そうとした.
(2) 心理学的理念
伝統的な合理的心理学は魂(心)を,非物質性という属性によって霊的なもの(Seeliending)とし,非破壊性という属性によって単純な実体とし,人格性という述語によって数的に同一な叡智的実体とし,不死という述語によって空間的でない思考的存在としていた.
しかし,それらはすべて「わたしは考える」(Ich denke)から導き出されていて,これは直観でもなければ概念でもない,単なる意識,すなわちあらゆる表象および概念にともなってそれらを統合し担っているところの心の作用である.
この思考作用が誤って物と考えられ,主観としての自我が客観,魂としての自我の存在とすりかえられ,前者について分析的に妥当することが後者へ綜合的に移されるのである.自我を客観として取り扱い,これにカテゴリーを適用しうるには,自我は経験的に直観のうちに与えられていなければならないのに,実際はそうではない.であるから,不死の証明は誤った推理に基づいている.
合理的心理学は,われわれの自己認識になにものかを加えるところの学説(Doktrin)として存在するものではなく,教訓(Disziplin)としてのみ存在する.すなわちそれは,この分野で思弁的理性に越えてはならない限界を定め,そうすることによって一方では理性が魂のない唯物論の懐に身を投じないようにし,他方では生活上われわれにとって何根拠もない唯心論のうちをさまよって道を失うことがないようにするものである.この意味でそれはむしろわれわれに,理性がこのような現世を越えた好奇的な問題にたいして満足のゆく答を拒むという事実を,われわれの自己認識を効果のない幻想的な思弁から有効な実践的使用に向けよという示唆とみなすように警告するものである.
と,このような結論を,カントは,その合理的心理学の批判から導き出している.
(3) 宇宙論的理念
宇宙論的理念に関する問題は,4組のカテゴリーに関して,それぞれ4つ考えられる.そしてカントは,これらの問いには理論理性によっては答えられないことを,「アンチノミー(Antinomie,二律背反)」によって示そうとした.何かある主張したい命題のことを定立(Thesis,テーゼ)といい,その反対の命題を反定立(Antithesis,アンチテーゼ)という.そして,これら4組のカテゴリーに関して,それぞれ次の4組のテーゼ/アンチテーゼで表現できる.すなわち,
@ 定立:時間・空間は有限である.
    反定立:時間・空間は無限である.
    (量について)
A 定立:世界にはそれ以上分けられない単純な部分がある.
    反定立:世界にはそれ以上分けられない単純な部分がない.
    (質について)
B 定立:世界には自然の法則に従う現象ばかりではなく,自由に基づく現象がある.
    反定立:世界には自然法則に従う現象しかない.
   (関係について.第一原因があるのか,ないのか.すなわち,第一原因はその原因を持たないのだから「自由」である).
C 定立:この世界には必然的な存在がある.
    反定立:この世界には必然的な存在はいない.
   (様相について.この世界に「目的(もしくは神)」があるのか,ないのか).
の4組である.そして,カントはこれら4組それぞれについて,テーゼ/アンチテーゼのどちらも証明できることを証明したのである.つまり,たとえば人間は,時間・空間が客観的に存在すると信じているから第1アンチノミーが生じるわけである.時間・空間は主観的なものに過ぎないのだから,有限でも無限でもない.
ここで,第1アンチノミーに関するカントの証明を少し見てみよう.まずテーゼの証明から.
仮に世界は時間的な始まりをもつとしよう.そうすると与えられたどんな時点をとってみても,それまでに無窮の時間が経過している,従ってまた世界における物の相続継起する状態の無限の系列が過ぎ去ったことになる.しかし系列の無限ということは,継時的綜合によっては決して完結され得ないことを意味する.故に過ぎ去った無限の世界系列は不可能であり,したがってまた世界の始まりは,世界の現実存在の必然的条件であるということになる―これが証明されるべき第一のことであった.
もう少し簡単な言い方が出来ないのか,と思うのだが,正確を期すためにはやむを得ない.敢えて簡単に言うと,もし時間が無限ならば,現在までに無限の時間が過ぎたはずである.しかし,「無限の時間が過ぎる」などということはありえない.故に時間は無限ではない.すなわち,時間は有限である.ということだ.次に,テーゼのうちの空間に関する証明を見てみよう.
ここでもまたその反対(すなわち世界は有限である)を想定してみよう.そうすると世界は,同時的に実在している物から成る与えられた無限の全体ということになるだろう.ところでいかなる直感についても,その直感のある限界内で与えられないような量の大いさということになると,われわれは部分の綜合によって考えるよりほかに仕方がないし,またかかる量の全体は,完結された綜合によるかさもなくば単位を単位へ繰り返し付け加えることによるかしなければ,どんなにしても考えられ得ないのである.従って一切の部分的空間を満たしている世界を一つの全体と考えるためには,無限の世界を形成している一切の部分の継時的綜合が完結していると見なさなされねばならない,換言すれば,無限の時間は,並存する一切の物を余すところなく枚挙することによって,経過したものと見なさねばならない―しかしこのことは不可能である.それだから現実的なものの無限の集合は,与えられた全体とみなされ得ないし,従ってまた同時的に与えられているものと見なされ得ない.故に世界は,空間における延長という点から言えば,無限ではなくて限界を有する.
なんのこっちゃ.「無限の空間」というものをわれわれが想像しようとしても一時には出来ない.そこで,小さな部分から考えてそれをだんだんと大きくしていくのだが,それには無限に時間がかかるので不可能である.故に空間は無限ではない,ということだろうか.空間における「有限性」の証明は正直いってよく理解できない.ともかく,今度はアンチ・テーゼの証明を見てみよう.
 世界が時間的に始まりを持つと仮定してみよう.始まりというのは,現実的存在のことである,すると物の存在していない時間がそれよりも前にあるわけだから,世界が存在していなかった時間,換言すれば空虚な時間がその前にあったに違いない.しかし空虚な時間においては,およそ物の生起は不可能である,かかる空虚な時間のどんな部分も他の部分に優先するようなもの,換言すれば,非存在の条件の変わりに現実的存在の条件を含んでいるという意味で,他の部分から区別されるようなものをもたないからである.故に世界においては,なるほど物の多くの系列が始まりをもたないし,従ってまた過ぎ去った時間について言えば,世界は時間的に無限である.
要するに,時間がはじまる前,というのが考えることが出来ない,ということである.次に空間について,
 世界は空間的な有限であり,また限界を有すると考えてみよう.そうするとこの世界は,限界を有しないような空虚な空間の中にあるということになるだろう.そうすると空間の中における物の相互関係ばかりでなく,空間に対する物の関係もあることになる.ところが世界は絶対的全体であって,その外には直感の対象もなければ,従ってまた世界に対する相関者も存在しない.それだから空虚な空間に対するこの世界の関係というのは,けっきょく世界の関係するような対象は存在しないということである.しかしかかる関係は無意味であり,従って空虚な空間によって世界に限界が付せられることもまた無意味である.故に世界は空間的に全く限界を持たない,換言すれば,世界は延長に関して無限である.
これも,時間の場合と同様で,世界の外というものを考えると都合が悪い,ということだ.しかし,ここでもう少し考えてみよう.時間が有限だからといって,それが時間に「はじまり」があるということを意味しているのか,世界が空間的に有限であるからといってそれが世界に「外」があるということか.
たとえば,地球表面を考えてみよう.地球に「端」があるだろうか.地球表面にいる限り,地球の外というものは考えられない.しかし,地球は有限である.宇宙も同様で,地上が地球という三次元球の表面であるように,宇宙が四次元球(時間まで考慮すると五次元球)の表面だとすれば,世界は時間・空間的に有限でありながら,世界の「外」は存在しないし,時間の「始まり」も存在しない.現代宇宙物理学では,球表面のような物かどうかはともかく,宇宙空間は非ユークリッド的な空間だとされて,空間的には「端」がないとされているようだ.
ところで,ラッセルは時間・空間を主観的なものとするカントの説にたいして,『西洋哲学史』の中で,次のような反論を述べる.すなわち,われわれが認識する空間や時間の配列が誰にとっても等しいことがカントの理論だと説明できないことを指摘する.つまり,たとえば,誰が誰の顔を見ても,常に相手の口の上に鼻があり,鼻の上に目がある,という配列になっているが,それがなぜだかが分からない.雷が落ちた時に,誰でもが,雷光を見た後に雷鳴を聞く.しかし,その,われわれの目に雷光であると知覚せしめた原因となる物自体Aと雷鳴として知覚させた原因の物自体Bは別であり,しかし,AはBより以前にあったわけではない.ならばなぜ,そのような無時間的なものに起因する2つの現象の時間配列がつねに同じなのか,それがカントの理論では説明できないのだ.
(4) 神学的理念
@ 存在論的証明(der ontologischer Beweis,本体論的証明)
「AがBである」と言うとき,この「である」は,その「事象内容」を示すだけで,主語のA「がある」必要はない.ある概念に存在が欠けていても,それの性質はひとつとして減るわけではないのである.だからそれがあらゆる性質をもっているとしても,それはまだ決して存在していることにはならない.「がある」という意味の存在は事象内容ではないのだ.
したがってまったく勝手に作り上げた理念から,それに照応する対象そのものを案出しようということは,まったく不自然なことであり,机上の知識をことあたらしくつくりかえたものにすぎない.
してみると,この有名な証明に費やされた労苦はすべて無益だったのである.人がたんなる理念によってその知恵を増すことができないのは,商人がその状態を改善するために,彼のもっている現在高へいくつかのゼロを足しても何の役にも立たないのと同様であろう.
カントは「財布の中の(現実的)百ターレル」と「想像上の(可能的)百ターレル」の区別を例として用いる.「想像上の」百ターレルは,想像「出来る」が,だからといって「存在する」わけではない.どちらの一万円も「(一万円)である」という形で表されるが,「がある」という点で決定的に異なる,ということだ.神の存在論的証明はそのようなものだ,というわけだ.
つまり,神は完全であるからあらゆる肯定的な性質を持っている.「存在する」は肯定的な性質である.だから神は存在する,というのが,存在論的証明の基本戦略であるが,「存在」をそのもののもつ「性質」にしているところが問題なのだ(「事実存在」と「本質存在」を混同している).
上に述べたように,カントは,「存在」というのは,主語概念の事象内容を示す述語ではないとする.では,一体どのような働きによって,事物は「現実的に」存在するのだろうか.カントはその働きを認識主観の行う働き,定立作用だと考えている.
ハイデガーによると,カントにあっては「事実存在」を成立させる働きは,認識主観のおこなう「知覚作用」,あるいはもっとひろく「表象作用」であるという.ハイデガーはさらに分析を進め,カントのこの「表象作用」はもっと広い意味での「制作作用」のヴァリエーションと見ることができるから,カントの考えの根底には,本人もはっきりと気づかないままに,「存在する」ということを「被制作性」(Hergestelltheit)と見る存在概念が潜んでいるという.
A 宇宙論的証明(der kosmologischer Beweis)
宇宙論的証明は,存在しているものの必然性から出発する.すなわち,あるものが現存しているとすれば,その原因として必然的な存在者もまた存在しなければならないということである.アリストテレスでいう「不動の動者」である.しかし,この証明は,先の宇宙論的アンチノミーによって批判されている.すなわち,現象する偶然的なものから経験を越えて必然的な存在者を推論しているという誤りを犯している.
仮にこのような推論を承認しても,それによってはまだ神は与えられない.そこでさらに,絶対に必然的でありうるのはあらゆる実在性の総括である存在だけである,ということが推論される.この命題を逆にして,あらゆる実在性の総括である存在者は絶対に必然的であると言えば,ふたたび存在論的証明がえられ宇宙論的証明はこれと同じになる.
B 自然神学的証明(der physikotheologischer Beweis,目的論的証明)
一定の経験から出発して,この世界の事物の秩序と性状から最高の現存を推論するのが,自然神学的証明である.いたるところに合目的性があるが,それは世界の事物にとって外来的すなわち偶然的である.したがって必然的で智恵と叡智とをもって作用するところの,この合目的性の原因が現存する.この必然的な原因はもっとも実在的な存在でなければならない.したがってもっとも実在的な存在は必然的に現存している.
これは世界の形式から,この形式にふさわしく十分な原因を推論するのであるが,このような仕方では世界の形式の創始者すなわち世界の建築者がえられるだけで,質料の創始者でもあるもの,すなわち世界の創造者はえられない.
そこでやむをえず一足とびに宇宙論的証明に走り,形式の創始者をもって内容の根柢にある必然的な存在と考えるのである.このようにしてわれわれは世界の完全にふさわしい完全を有する絶対的存在をもつわけであるが,しかし世界には絶対的な完全はないから,われわれは非常に完全な存在者をもつにすぎず,もっとも完全な存在者を得るにはふたたび本体論的証明が必要である.このように,目的論的証明の根柢には宇宙論的証明があり,宇宙論的証明の根柢には存在論的証明があるので,形而上学的な証明はこのような循環を出ないのである.
自然が物理法則にしたがうのは一見,非常に不思議なことに見えるが,カントによると,それはそのように人間の精神の構造が出来上がっているのである.この世があまりに秩序だって見えるからといって,そこに神を見るのは誤りであるというわけだ.科学は科学としてこの世界がなぜ,秩序だっているのかなどということに思い煩わされずに,法則を見つけることに専念すればよいということになる.
(5) 理性,そして悟性・感性
もう一度ここまでの話を整理しておこう.
カント以前の観念論対実在論の争点は,認識は感覚のみか,知性(知的直観)によって対象を十全に把握できるものか,ということで,とにかく認識というものは,対象をそのまま模写することであると思われていた.それをカントはひっくり返し,われわれの主観が世界を成立させるとした.ただしこの世界は物自体の世界ではなく,現象の世界なのである.われわれは物自体を認識することはできない.しかし現象の世界は客観的に認識できるのである.そして,それはわれわれ人間に先天的に備わった感性の形式と,統覚のおかげなのである.
われわれは,外部の現象世界からの刺激を,アプリオリな感性的直感(純粋直感)の形式である時間・空間によって整理し,秩序付けて受け入れる.次にその受取った現象世界からの刺激を,量に関して,質に関して,関係に関して,様相に関して,それぞれ3つ(計12)の,これもアプリオリな純粋悟性概念(カテゴリー)に基づいて,感性と悟性の橋渡しをする構想力(とりわけその図式機能:シェーマ)によって綜合することにより認識する.このようにして,われわれは「物自体」を客観的に認識することはできないが,「超越論的主観」によって「現象」の世界は,仮象としてではなく,客観的に認識できるとした.
つまり,カントは,理論理性によって捉えることのできる「現象界」と捉えることのできない「物自体の世界」(intelligible Welt,叡智界)とを峻別する.しかし今見てきたように,われわれは経験を超越したようなもの(理念,Idee;理想,Ideal)を求める存在である.例えば,宇宙があまりも秩序だって見えるからといって,そこに理由(原理)を求めようとする.「理性」(Vernunft)というのは,悟性や感性の上に立つ「原理の能力」であるが,このような理念,理想を追い求める性質がある.そして,理性が求めるような理念,理想は人間の精神にとっては必然ではあるが,論証できないもの(先験的仮象,超越論的仮象)であり,そのため形而上学的な難問が生じるのである.
では,われわれの理性の働きは無駄のものなのかというと,そうではない,とカントは言う.理性が求める理念,理想は認識不可能なものなのだから,逆に実践することによって目指されるべきものなのである.このような理性は,だからむしろ,実践的立場において必然的に要請され,この意味で実践的理性の優位カントは説く.かつて,アリストテレスは,実践的行為より観照の方が優れていると説いたが,カントは理論的理性より実践的理性の方を上位に置いたのだ.
われわれは客観的には十分でないにせよ,主観的には十分な信念をもっている.意志の自由,魂の不死,神の存在が,知識には必要でないのに,理性が切にわれわれにもたせようとしている3つの根本原理であるとすれば,それらの本来の意義は実践の世界において,すなわち道徳上の確信にたいして存在するのである.確信とは論理的な確実さではなくて道徳的な確実さである.

第3節 真理とは何か
(1) 対応説的真理概念
さて,カントによると,「真理」とは何か.哲学史上,「真理」の定義として,最も基本的なものは,対応説的真理概念(adaequatio rerum et intellectus)である.たとえば「雪が白い」という認識が真理であるのは,事態として,雪が白い場合である.雪が白いという事態と,「雪が白い」という認識が合致していれば,つまり真理である.しかしでは,われわれは対象と認識が合致しているとどのようにして分かるというのだろうか.対象そのものを調べようとしても,それを調べたとき,必ずそれは「認識」としかならない.カントは認識についての真理の普遍的基準を求める問いを不合理であるとしている.
真理がその対象との合致にあるなら,このことによってその対象は他の諸対象から区別されなければならない.…ところで,真理の普遍的基準は,すべての認識について,その対象の区別なく妥当するようなものであるものであるはずである.
つまり,対象との合致,ということは,何か具体的な,特定の,対象について考慮しなければならない.なのに,「普遍的」基準ということは,特定の対象ではなく,すべての対象に妥当するものでなければならない.それは矛盾だ,と言うのだ.
しかし,明らかなのは,この基準にあっては,認識のすべての内容が捨象されているのに,真理はまさしくこの内容に関るのであるから,認識の内容の真理の基準を問うのは,まったく不可能であり,不合理であるということである.…こうした要求はそれ自身において矛盾したことなのである.
そしてカントは,「超越論的真理」(transzendentale Wahrheit)という考え方を提示するのである.
(2) 超越論的真理概念

第4節 カントの道徳観

(1) 理論理性と実践理性
カントは「理論理性」の捉える現象の世界と「実践理性」の働く道徳世界とをはっきり区別し,それそれの批判を目指した.理論理性の批判の眼目は,いかにして純粋理性がア・プリオリに客体を認識しうるかであり,たいして実践理性の批判の眼目は,いかにして意志を客体に関してア・プリオリに決定しうるかを研究する.実践理性の批判においては,意思の決定が問題となのである.理論的認識を本源的に規定するものは直観であるが,たいして意志を本源的に規定するものは原則と概念である.したがって,実践理性は,道徳的原則から出発しなければならない.
つまり,「存在」としての自然の事実を説明する理論理性の立場と「当為」(Sollen,まさになすべきこと)の世界としての実践的理性の立場,自然科学的観点と道徳的行為的観点とはそれぞれまったく別の秩序と法則によって方向づけられているとしたのだ.因果律や空間・時間の概念は,現象世界に関するものであり,理論理性の世界であった.ここでは,われわれは自由・不死・神といった理念を追求することはできなかった.だが,実践理性の世界では,理性と外的事物の関係ではなく,内的なもの,意志との関係であり,ここにおいて,自由・不死・神の理念もまた,確実性を取り戻すことができるのである.
では,どのようにして実践理性によって,この因果律に縛られた現象世界,経験世界を超えることが出来るのか.それは,道徳律(Sittengesetz)仮言命法としてではなく,定言命法(kategorischer Imperativ)として受取ることである.
(2) 仮言命法と定言命法
仮言命法とは,「もし〜なら〜すべきだ」というものである.道徳律においても,このようなものは多く見られる.たとえば,「もし人から信用されたいのならば,嘘を吐いてはいけない」だとか「早起きは三文の得」などがそれにあたる.それにたいして,条件なしに「〜すべきだ」とだけ命ずることを定言命法(無上命法)という.
例えば,「もし人から信用されたいのならば,嘘を吐いてはいけない」という道徳律があったとしよう.そうすると,この道徳律は,「人に信用されなくても構わない」という人には通用しない.カントは道徳律とは仮言命法ではなく,定言命法でなくてはならない,と考えた.「嘘を吐いてはいけない」という道徳律があったとすると,それがたとえ人を助けるためであったとしても,嘘を吐いてはいけないのである.
それに,仮言命法は,道徳律が「手段」となる.「〜のため」にという考え方は,まさしく因果律に縛られたものだ.われわれの理性はその因果律の縛めから逃れようとしているのだから,そういう意味でも道徳律は定言命法であるべきであり,それが「自由」なのだ.例えばわれわれは,「お金がないから(法を破ってでも)盗みをする」ということがしばしば「自由」である,と考えがちだが,そうではない.「お金がないから,盗みをする」というのは必然によるものであるから,因果律を超え出ていない,すなわち「自由」ではないのだ.欲望のために物事をなしてはならない.
欲求能力の対象(質料)を意志の規定根拠として予想する全ての実践的原理は,一般に経験的であり,実践的法則をあたえることはできない
のである.だから,ある規則があったとして,その規則を守るにあたり,「この規則を守ればこんないいことがある」とか「この規則を破ればこんな悪いこと(罰則)がある」とか考えてはいけない.
このような実践のために私たちは,目先の欲望にとらわれないためにも,自分で決めた規則を守るようにすべきである.それが格率(Maxim,マキシム)である.たとえばどのような状況にあろうが,「嘘をついてはならない」と自分で決めたらついてはならないのだ.たとえそれが友人や家族を守るため,であっても嘘をついてはいけない.そしてそのような格率は,しかし,自身の快不快で決めてはならない.それは
汝の意志の格率が同時に普遍的な立法の原理として通用しうるように行為せよ
と言われるように,ここの格率は,普遍立法によって定めなければならないのだ.「純粋実践理性の根本法則」である.
(3) 善意志
「冷静で的確な判断力」や「勇気」などは一見,「善い」ものだとみなすことが出来そうだが,これらはこれらを使用する意志が善くなければ有害になりうる.例えば,この「冷静で的確な判断力」や「勇気」が備わっている犯罪者は,そうでない犯罪者より有害であろう.同様に,権力や富,名誉,健康といった一般に「幸福」といわれる状態も善いものだと言われるが,それらが心に及ぼす影響を制御できなければ,それらを所有する人間を奔放にさせ,高慢にさせる.
このように見てくると,人間が備えることが出来るもののうちで無条件に善い,と言えるのは「善意志」のみである.さらに,カントによると,この「善意志」はそれが何かを達成したり,何かに役立ったりするから「善い」のではなく,「それ自体において善い」のであって,たとえ「善意志が最大の努力を払ってもこの意志によってなにごとも成就せず,ただ善意志のみが残る」としても,
この善意志はあたかも宝石のように,自らの全価値をおのれ自身のうちに持つものとして,それだけで光り輝く
のである.
われわれがここで思い出すのは,ドゥンス・スコトゥスの主意主義だろう.それまでの哲学においては,われわれは「善」を知っていると必ずそれをおこなうものだと考えられていた.しかしスコトゥスの登場によって,われわれは善を知っていならがそれをおこなわないことができるということになったのである.そしてスコトゥスの言うことによると,われわれは信仰をしないこともできる.だからこそ,そこであえてみずからの意志において信仰を選び取ることに意義があるのであった.
カントにおいても,(ライプニッツモナド論における「欲求」を通じて)この考え方は受け継がれたわけなのである.

第4章 ドイツ観念論

第2章 大陸合理論とイギリス経験論

目次



 

第4章 ドイツ観念論

カントでは,われわれの「精神」と,われわれには決して認識することのできない「物自体」の2つに世界は分かたれてしまっていた.さらにその結果,「理論的自我」と「実践的自我」の2つに「自我」も分離してしまった.この2つをふたたび統合するために,「ドイツ観念論」(Deutscher Idealismus)が生まれる.


第1節 フィヒテとシェリング


(1) フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte,1762〜1814)
カントによると,認識する「私」(理論的自我)と実践する「私」(実践的自我)は分裂していた.フィヒテはこのようなカントの二元論に不満を抱いた.カントは自我の制限を物自体による制限だと考えたのだが,フィヒテは,そのような制限を,自我そのものによる制限だと考えたのだ.
どんな経験のうちにも自我と物,知性とその対象がある.この二側面のうちどちらの側面が他に還元されなければならないのであろうか.もし自我を捨象すれば,物自体が得られ,表象は対象の産物と考えられねばならない.すなわち実在論である.もし対象を捨象すれば,自我そのものが得られる.すなわち観念論である.フィヒテによると,カントのとったような第3の立場は不可能で,したがって,どちらかを選ばねばならない.その際に気をつけるべきことは次の2点である.
@ 自我は意識のうちに存在するが,これに反して物自体はまったく作り上げられたものである.というのは,われわれが意識のうちにもっているのは,感覚されたものだけであるから.
A 独断論は表象の発生を説明しなければならない.そこでそれは表象の発生を対象自体から説明し,意識のうちには存在しないあるものから出発するが,しかし存在が引き起こすものはただ存在であって表象ではない.
このように見てくると,存在からではなく知性から出発する観念論だけが正しいのである.観念論にとっては,知性が最初のものであり絶対的なものであるから,知性はひたすら能動的であって受動的でなく,まさにそのゆえにそれには行動のみが属して存在は属しない.この行動の諸形式,すなわち知性の必然的な行動の仕方の体系は,知性の本質から導き出されなければならない.カントがカテゴリーをそうしたように,知性の諸法則を経験から拾い上げるならば,人は二重の誤りを犯すとフィヒテは言う.すなわち,
@ なぜ知性がそのように行動しなければならないのかということ,およびこれらの法則がなおかつ知性の内在的法則であるかどうかということがわからない.
A 次に客体そのものがどうして生ずるかがわからない.したがって知性の諸原則も客観も,自我そのものから導き出されねばならない.
このようにして,フィヒテは自我を原理として他のすべてのものを自我から導き出そうとした.このような自我は,カントにおけるように物自体によって制限されない無制約な自我(Ich)である.フィヒテがその主著『全知識学の基礎』の中で述べた自我に関する3原則を見てみよう.
@ 自我は根源的に絶対的に,自己自身の存在を定立(Setzen)する(第1根本命題):このような,何らかの働きという行為をするということにおいてみずからであるような存在である自我を,事行(Tathandlung)という.これは,行為の結果(Tat)とその行為そのもの(Handlung)とが同時に生じているということを示すフィヒテの造語である.→これによってわれわれは「実在性」というカテゴリーを得る.
A 自我にたいして絶対的な非我(Nicht-Ich,自我でないもの)が反定立(Gegensetzen)される.→「否定性」というカテゴリーを得る.
B 自我は自我の中に可分的な(制限された)自我にたいし,可分的な非我を反定立する.→これは,すなわち,実在性と否定性が互いに破壊し会うことなしにひとつの意識という同一性の中へ取り入れなければならないから,それらは制限しあわなければならい.ゆえに「制限性」というカテゴリーを得る.そしてこの制限制という概念のうちには,可分性(Teilbarkeit),量の能力(Quantitaetsfaehigkeit)といった概念も存在している.
フィヒテによると,無制約的かつ確実なものは,以上3つの原則で尽きる.それは,
自我は自我のうちで可分的な自我に可分的な非我を反定立する.(Ich setze im Ich dem teilbaren Ich ein teilbares Nicht-Ich entgegen)
という定式のうちに総括される.
さて,このように自我と非我が相互に制限されるのであるが,このことから次のことが言える.すなわち,
@ 自我は非我によって制限されたものとして自分自身を定立する.(自我は認識の態度をとる)
A 自我は逆に,自我によって制限されたものとして非我を定立する.(自我は行為の態度をとる)
理性としての自我は働きであるのだが,現実的な理性は限界をもった可分的なものであるから,具体的な非我という対象に働きかけることで自我を自覚するのであり,その非我をわがものにしていく過程を通して,自我と非我の対立を越えた理念としての絶対自我(das absolute Ich)を実現することになる.
しかし,フィヒテの哲学はやはり自我に対立するもの,カントの物自体に相当する非我を仮定していて,ただそれがフィヒテにおいては内面的になっているのである.
(2) シェリング(Friedrich Wilhelm Schelling,1775〜1854)
まずはシェリングの主著『哲学の原理としての自我』の一節を見てみよう.
哲学の本質すなわち精神は形式や文字ではなくて,また哲学の最高の対象は概念によって媒介されたものではなくて,それ自身直接に人間のうちに現存するものでなくてはならないのである.
フィヒテの自我哲学では,自我と非我は対立してあった.しかし,フィヒテはそれらは自然の両極であると言う.自然はフィヒテの言うような自我の働きを待ってはじめて定立される非我のようなものではなく,それ自身で活動している生きた有機体なのである.
生きた自然は,統一と分裂の運動によってみずから活動する.自然のこの自己活動性をシェリングは分極性(Polaritaet)という表現で説明する.たとえば,磁石に正と負があるように,自然は熱と寒,肯定と否定,全体と個別など,つねに2つの極に分かれることによってひとつであるような存在である.しかも,この分極性は一方の極が単独で存在することのありえない点に特徴をもつ.分極性は相互に他の極をみずからの極の成立根拠にしているのであり,その限りにおいて自然は全体としてつねにひとつなのである.
この自然は無制約者(das Unbedingte)とも呼ばれるように,条件や限界をもたない神的な存在であり,みずからのうちに精神(Geist)を有していて,精神の意識的な作用との分極的な関係においてみずからであることができる.つまり,自然という世界は,意識という主観的な働きとその作用によって対象化される客観存在との二極性によって成立しているのであり,従来の哲学は,この分極のあり方を,精神と自然,意識と対象,主観と客観,自我と非我などと区別してきたのであるが,精神と自然とは本来は同一のものであり,同一の世界の単なる2つの極に過ぎない.自然は見られうる精神であり,精神は見られえざる自然である.
自然と人間はもともと一体のものであったのだが(このような哲学を「同一哲学」という.スピノザの哲学も同一哲学である.フィヒテの場合は,この自我と非我が対立していた),近代的な理性が(「反省」によって)これらを分離させてしまった.自然と精神の違いは,質的なものではなく量的なものなのだ.つまり,シェリングによると,精神の中にも自然的要素はあり,ただ観念的な面が強いだけで,逆に自然の中にも精神的な要素があり,ただ自然的な要素が強いだけなのだ.フィヒテが絶対的な自我の中にだけ認めていた絶対者の観念を徹底させ,無差別的な同一性として対象の側にも及ぼしたのである.そして,近代知性によってわかたれたこれらの統一性は,芸術などの「直観」を通して回復される,とシェリングは言う.そうして,後期のシェリングは宗教的な思想へと傾いていく.

第2節 ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770〜1831)
(1) 反対の一致
ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus, 1401〜64)は神を反対の一致(coincidentia oppositorum )として把握した.彼によると,神は「絶対的に最大のもの」であり,そのうちには,すべてのものが包含される.そこでは,最大なものは最小なものと一致する.「絶対的に最大なもの」には,どんなものも対立し得ないので,それは絶対的な一性である.絶対的な一性はすべてのものを包含する.
神におけるこのような反対の一致を理解するための手引きとして,クザーヌスは多くの幾何学の例を挙げている.たとえば無限大の円の円周は曲線であり,また直線である.三角形のひとつの角が2直角に無限に近づくとき3つの辺はひとつの直線に近づくので,三角形は直線である.彼のこのような考えは,ヘーゲルの弁証法に強い影響を与えた.
(2) 真なるものは全体である
はじめヘーゲルは,シェリングと同様に,カント,フィヒテらの自我から出発する哲学にたいして,実在に先行するものは,個別的なもの,自我ではなく,すべての個別的なものを含んでいる普遍的なものであると考えた.ここで,シェリングと異なりヘーゲルは,このような普遍的なものを,無差別と考えず,発展と考える.すなわち,区別の原理を内に含み,自分自身を開示して,自然および精神の世界に表現される豊かな現実となる普遍者と考える.ここで,ヘーゲルの主著『精神現象学』(Die Phaenomenologie des Geistes,1807)に述べられている「真なるもの」に関する2つのテーゼを見てみよう.
 @ 一切を左右する要点は,真なるものをただ単に実体として把握し,表現するだけではなく,全く同様に主体としても把握し表現するということである.
 A 真なるものは全体である.しかし,全体とは,ただ自己展開を通じて己を完成する実在のことに他ならない.
ヘーゲルは,全体が「ひとつの」単純な実体ではなく,有機体的な複合体系であるとした.すなわち外見的な個々の事物はある程度の実在性をもつが,それは「全体」の中において関係づけられているのである.パルメニデスは,実体はひとつしかないので,運動を否定したわけだが,ヘーゲルの思想では世界は動的なものである.
シェリング哲学においても,たとえばヘーゲルが『精神現象学』の序文において彼を批判しているのは,その絶対者の理念への到達の仕方と絶対者を無差別なものと考える考え方,そしてシェリングの原理は自己展開的でなく,すでに出来上がった図式(観念と実在との対立)をさまざまな対象へと適用する仕方である.シェリングによると,絶対者の理念に到達するのに直接的に「知的直観」(intellektuelle Anschaunuung)をもってする方法であり,それにたいしてヘーゲルは,絶対者への到達は,現象学のうちで一歩一歩進まなければならないとした.そして,絶対者はそのうちに諸区別の体系を内在的に定立していると考えた.
ヘーゲルにおいては,対立はすでに普遍者のうちに含まれており,それが自己展開していくのである.ではヘーゲルは,いかにして「運動」が可能だと考えたのだろうか.
 (3) 弁証法
弁証法(Dialektik)とは,運動の内的構造を明らかにするためにある方法である.まず,あるテーゼ(定立,正)を立てる.そしてそれにたいするアンチテーゼ(反定立,反)が立つ.その後,テーゼとアンチテーゼの内容を保存したまま,それらを統一する,さらに高次の概念のジンテーゼ(綜合,合)に至る.このような正−反−合といたるプロセスを止揚(aufheben,アウフヘーベン,揚棄)という.
そのようにして得られたジンテーゼにたいして,再びアンチテーゼが立てられ,また,そのジンテーゼに統一され,というように,われわれの認識はより高度になり,「真なるもの」すなわち「全体」へ近づいていく.そしてこの時,全体は,もちろん,その諸段階におけるテーゼをその中に保存しているのである.
(4) 自己意識としての精神
ヘーゲルによれば,一般に精神の精神たるゆえんは,おのれ自身を知っているということ,つまり自己意識ないし自覚にある.しかし,精神はそのはじめから,自己自身を完全に知りつくしているわけではなく,生まれたばかりの精神はあくまで可能的な自己意識であり,眠れる精神でしかない.この眠れる精神が目覚め,可能的な自己意識を現実化してゆくところにその本質があり,精神の存在とは,精神が精神になるその生成の運動に他ならない.そして,精神のこの自覚は,カントのように自分自身のうちに閉じこもり自己を反省するという仕方で果たされるものではない.精神が真に自己を知ろうと思うならば,精神はむしろ自己自身を抜け出て,外的世界に働きかけ,そこに映し出されてくる自己を見るべきなのである.この精神の外的世界への働きかけが「労働」(Arbeit)である.
この労働によってなぜ精神が自己意識になるのであるか.つまり,「労働」とは,自己(正)が自己以外のもの(反)に働きかけ,それを自己の望む形に変えることである(合).つまり,労働の主体は,労働を通じて,いわば対象のうちに自己を移し入れ,自己外化(Selbstveraeusserung)するのである.この時,対象は,主体と対立するものであるから,主体の思うままになるものではなく,そのためには,主体自身も変わらなければならない.すなわち,労働において,労働の対象がその姿を変える間,その労働の主体も変化していくのである.そして労働が完了し,労働の主体が対象のうちに自己を外化し,そこにいわばおのれの分身を認めうるようになったとき,その主体は自分のもっていた可能性の,少なくともその一部を現実化し,反省によっては知ることのできなかった自己を自覚するのにいたるである.つまり,ヘーゲルの言う自覚とは,労働をつうじての自己実現であり,そうして,労働の主体は対象のうちに自己の分身を見ることができる.これが,
他者において自己自身のもとにある.
ということであり,精神はより大きな自由を得ることができる.ただし,労働が完了したときには,自己自身も変化しているわけであるから,労働によって実現した自己は労働が完了したときの自己ではない.そこでそれはふたたび精神に対立するものとして現れてくる.このように,精神は,労働により,正−反−合という弁証法的プロセスを経て成長していく.
(5) 絶対精神
このようにして,精神が弁証法的に成長していき,最終的に外界に精神と対立するものがなくなり,精神がすべてのもののうちに自己自身を見,すべてのものにおいて自己自身のもとにありうるようになったとき,精神は絶対の自由を獲得し,「絶対精神」(der absolute Geist)となり,歴史が完結する.
ヘーゲルにとって,歴史とは,絶対精神が絶対精神として自己を自覚する,自己実現するプロセスなのである.すなわち,ヘーゲルにとって,「労働」とは一般的な意味の労働だけではなく,歴史的な事業,アレクサンダー大王の東方遠征や,フランス革命,ナポレオンのイェナ占領も「労働」であり,絶対精神の自己実現の過程なのである.
ちなみに,ヘーゲルは,彼の時代はそうした絶対精神が絶対精神となる歴史の最終段階だと考えていた.彼はナポレオンを「世界精神」と呼んでいる.
こうして,人間理性はデカルトからはじまりカントを経て,ヘーゲルにいたりついに超越論的主観としての位置を完全に保証される.このことは,ヘーゲルの著書『法哲学講義』の序文にある
理性的なものは現実的であり,現実的なものは理性的である.
という言葉に端的に表わされている.これはつまり,理性の認めるものだけが現実に存在する権利をもち,したがって現実に存在するすべてのものは合理的であり,理性によって隈なく認識されえ,合理的に改造されうる,という意味である.

カントの名文句
「ますます増加する驚嘆と畏敬とをもって、心を充たすものが二つある。天上の星と地上の道徳律」(「実践理性批判」)
「人間性を、常に目的として用い、決して単に手段としてのみ使用しないようにせよ」(「道徳形而上学原論」)
「諸君は私から哲学を学びはしないであろう。だが哲学することを学ぶであろう」、「自ら思索し、自ら探求し、自らの脚で立て!」(「実践理性批判」最終節、墓碑銘)


 カントは晩年の1793年、宗教論集「単なる理性の限界内における宗教」を公刊したが、これが宮廷牧師の眼に触れて、翌74年、71歳のカントは勅令により緘口令をしかれた。批判精神の鋭さが起した事件であった。ドイツでは、哲学することは「革命」つまりぎりぎりの行為だった。(加藤尚文「名言百選」)



第5章 マルクス主義

第3章 カント目次






(私論.私見)