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 (最新見直し2013.07.05日)

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 2013.07.05日 れんだいこ拝


 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ

 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte, 1762年5月19日 - 1814年1月27日)は、ドイツの哲学者である。息子のイマヌエル・フィヒテ(通称:小フィヒテ)も哲学者。

 1762年、ドイツ東部・ドレスデン近郊の寒村ランメナウの農家の息子として生まれた。貧困のため修学できず、近くの教会で行われた説教や親族に聞かされたゲルマン神話などを糧に少年時代をすごす。教会で聞いた説教は、すべてほぼ完璧に覚えていたため、たまたま教会で説教を聴きそこなった、貴族ミリティツ侯にそれを聞かしたところ、侯から学資の援助をしてもらえることになった。

 ドイツの名門校プフォルタ学院に進学、(ここは後にニーチェランケも通う)そしてイェナ大学へと進学することができた。イエナ大学で神学を修めた。ついでライプチヒ大学で哲学と法学を修めた。しかし、ミリティツ侯が死亡し学資がストップしたため、26歳のとき大学での研究は潰える。自殺を決心するほど、貧困に苦しんだが、友人の紹介でスイスにおいて家庭教師の職を得る。そこで、カント哲学を教材として扱い、カントの哲学に興味を覚え、1793年に70歳近くになったカントのいるケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)を訪ねる。

 翌年、30歳の時、カントの推奨で、カントの実践理性批判を元に宗教概念を論じた処女作『あらゆる啓示批判の試み』(Versuch einer Kritik aller Offenbarung) を公刊して評判をとる。

 イエナ大学教授に迎えらイェーナ大学教授に就任。この頃の大学での講義における「人がどんな哲学を選ぶかはその人間がどんな人間かによる」という言葉が有名。

 1793年、匿名で「フランス革命論」(正式のタイトルは「フランス革命についての公衆[Publicum]の判断を正すための寄与」)を出版している。このとき同時にフィヒテは短い「思想の自由回復の要求」というテクストも出版している。この時点では、フランス革命の擁護者であった。「フランス革命論」では、「人権」という「譲り渡すことのできない権利」と「契約」をつうじて「譲り渡すことのできる権利」という考えを軸に、国民に国家体制を変革する権利があるかどうかを問うている。その結果、いかなる国家体制も「契約」にもとづく以上、国民には変革の権利があるとする見地を披歴している。

 1794/1795年、『全知識学の基礎』(Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre) を著し、知識人を唸らせた。これは編集的世界観の近代的な芽生えのひとつであって、また現象学の萌芽でもあった。同年、「学者の使命について」を著わしている。1797年、「知識学通論」を著わす。

 1798年、フィヒテは哲学雑誌を編集していたが、そこに載せた文章が無神論だとの非難をうけ、1799年、神概念のあり方をめぐり無神論論争 (Atheismusstreit) を引き起こした。翌年、無神論者のレッテルを貼られ、イエナ大学を追われるようにして去った。その後のフィヒテは、シュレーゲル兄弟、シュライエルマッハー、ティークらのロマン派の文人たちと交流、新たなドイツ人としての深い自覚に入っていった。主としてベルリンに滞在した。このころに、『人間の使命』(Die Bestimmung des Menschen) などを著す。一般に1801年以降を後期思想とよぶ。後期思想では自我概念が後退し、絶対者あるいは神が中心的な主題として現れてくる。この神はキリスト教の神そのままではなく、自由な道徳的主体の総体である我々(das Wir)を可能にする根拠であり、そのような神的な性格をもつものとしての絶対者をいう。

 1800年、「人間の使命について」(Die Bestimmung des M)を著わしている。同年、「封鎖商業国家論」を著わし、同書の中で「社会主義的」な発想を述べている。

 ベルリン大学が開講されると、その初代の哲学教授に就任した。そこに立ち塞がったのがナポレオンである。フランス軍がプロイセンを支配するなか、フィヒテは何度も軍靴高まるベルリンのアカデミー(ウンターデン・リンデン通りにある真冬のベルリン・アカデミーの講堂)で講演に立ち、祖国の再生を訴えた。講演は14回にわたった。これが『ドイツ国民に告ぐ』(Reden an die Deutsche Nation)である。熱烈な祖国復権論だった。他にも『浄福なる生への指教』(Die Anweisung zum seligen Leben) などを行う他、知識学の講義も行っている。晩年はスイスの教育者ペスタロッチにも傾倒。自らも『学者の使命・学者の本質』(Einige Vorlesungen Über die Bestimmung des Gelehrten) を著した。

1809年、ベルリン大学が創設されると、フンボル卜らの努力でその初代総長となった。

 晩年はリューマチ熱に苦しんだ。ナポレオンがプロイセンから敗退した後、夫人が混乱する国内の救援にボランティア看護婦として参加し、その経緯でチフスに感染した。

 1814年、夫人を看護し続けたフィヒテもチフスに感染、間もなく急逝した(享年52歳)。

 遺体はベルリンのドローデン墓地へ埋葬された。フィヒテの後にはヘーゲルがベルリン大学教授として招聘された。後年、ヘーゲルの強い希望により、ヘーゲルの遺体はフィヒテの墓のとなりに埋葬されることになった。現在は、フィヒテ夫婦とヘーゲル夫婦の墓が隣り合わせに並んでいる。


 フィヒテ哲学考

 フィヒテの無神論の内容とは、「知識学によれば、存在とは、感覚的な概念だ。経験の対象となるものだけが『存在する』と云われ得るのだから、『存在する』という言葉は神には使えない」とするものである。フィヒテに於いては、神とは存在ではなく、諸事象の秩序として、つまり世界法則として現れるのであるとしていた。これはなかなか深い指摘であるが、「カント哲学の継承者フィヒテは、カントの二元論的な矛盾を克服する為、彼の『物自体』の思想を完全に捨て去り、主観的な観念論と自我論の極端に走った」と評されている。

 以下の評も参考にとどまる。

 「フィヒテ哲学の出発点は自我である。彼は、哲学が必ず『根本的で絶対的に無制約的な基本的原理』から出発しなければならないと考えたが、この原理こそが自我であって、全てはこの自我から推論されねばならない。彼は又自我が独立して他に依存しないものであるが、他の一切は全て自我に依存すると考えた。フィヒテは、客観的存在を非我と呼んだが、この非我はまさに、自我によって創造され築きあげられたものであって、自我の活動の結果に他ならない。あらゆる実践活動はこの『自我』と『非我』の矛盾を克服する為のものである。自我が非我を生み、主体が客体を生み、思想が存在を生み、精神が物質を生む。これこそがフィヒテの基本的哲学思想である。カント哲学を継承したフィヒテは、ヘーゲル、シェリングと並ぶドイツ観念論哲学の大物足り得ている」。




(私論.私見)