阿波踊り連考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).8.15日

 (吉備太郎のショートメッセージ)
 ここで、「阿波踊り連考」をものしておく。「阿波踊りの歴史」その他参照。

 2016.2.22日 吉備太郎拝


【阿波踊りの有名連】
 賜天覧(してんらん)は数ある阿波おどり連でも数連しか名乗れない。その理由は、昭和25年3月、昭和天皇、皇后両陛下が御来県し、天水連、藤本連(現蜂須賀連)、のんき連、娯茶平連が、天覧踊りを披露したことに由来している。
娯茶平  連員350人を超える徳島県最大規模の連であり、賜天覧4連のうちの一連。娯茶平調である。 東京の飛鳥連と姉妹連である。
のんき連  賜天覧4連のうちの一連で、歴史と伝統のある阿波踊りの家元的存在。結成時より「見る者も踊る者も一つに解け合って楽しむ」というのが信条で、常に阿波おどり界をリードし天皇陛下御巡幸の際の天覧踊りを始めとし出演経験も数多く国内はもとより、世界各国を訪問し徳島の盆踊りというだけでなく、日本を代表する伝統芸能として広く世界に広めてきた。各地で阿波おどりが踊られる現在、正調阿波おどりの歴史と伝統を守りつつ新時代の阿波おどりへの挑戦を続けている。
新のんき連  姓億政明を初代連長とする、のんき調の連である。東京支部として東京新のんき連がある。
阿呆連  阿波踊り三大主流と呼ばれるもののうちの一つ、阿呆調である。東京の江戸っ子連と姉妹連である。「阿波の阿の字は阿呆の阿の字」の掛け声でお馴染みで、阿呆連のシンボルは浴衣の肩の「破れ笠」。武士の心と正調阿波踊りを守り続ける連。ほうかむりをして提灯を振り、差し足という技法を守り豪快ダイナミックに踊る。男踊りは特に人気がある。
 阿波おどり振興協会、徳島県阿波踊り協会等に加盟する阿波踊り連33連を「有名連」と呼ぶ。これを確認しておく。
連名 結成日 連長 連員数
のんき連 1925(大正14)年7月 近藤雅人 阿波おどり振興協会 100名。
娯茶平 1946(昭和21)年5月1日 岡秀昭(7代目) 徳島県阿波踊り協会 310名
天水連 1946(昭和21)年6月 山田実(4代目) 阿波おどり振興協会 234名。
蜂須賀連 1946(昭和21)年7月1日 岡本慎治 徳島県阿波踊り協会 232名。
藤本連が前身。
水玉連 1946(昭和21)年8月 坂良雄 阿波おどり振興協会 118名。
浮助連 1946(昭和21)年 中村睦男 阿波おどり振興協会 86名。
うきよ連 1948(昭和23)年8月1日 中谷好行 徳島県阿波踊り協会 95名。
ゑびす連 1948(昭和23)年5月1日 鶴瀬幸子(7代目) 阿波おどり振興協会 150名。
阿呆連 1948(昭和23)年 森一功 阿波おどり振興協会 130名。
平和連 1948(昭和23) 吉田公欣 徳島県阿波踊り協会 106名。
新ばし連 1950(昭和25)年7月 赤澤敬二 阿波おどり振興協会 90名。
殿様連 1951(昭和26)年4月1日 笹田清一(2代目) 徳島県阿波踊り協会 116名。
住吉連が前身。
酔狂連 1951(昭和26)年 江渕豊和 徳島県阿波踊り協会 95名。
阿波連 1957(昭和32)年4月 桑原ひとみ 阿波おどり振興協会 80名。
うずき連 1957(昭和32)年4月 高瀬大輔 阿波おどり振興協会 120名。
阿波鳴連 1959(昭和34)年9月 新見佳昭 阿波おどり振興協会 77名。
さゝ連 1960(昭和35)年4月 武市正 阿波おどり振興協会 115名。
独楽連 1961(昭和36)年4月 朝田初雄 徳島県阿波踊り協会 88名。
みやび連 1965(昭和40)年10月1日 中野貞昭 徳島県阿波踊り協会 71名。
葵連 1966(昭和41)年3月25日 大西雅士 徳島県阿波踊り協会 95名。
扇連 1967(昭和42)年10月1日 石川正豊 阿波おどり振興協会 95名。
まんじ連 1968(昭和43)年3月 大西義博 徳島県阿波踊り協会 65名。
ほんま連 1968(昭和43)年6月1日 後藤田朋和 徳島県阿波踊り協会 145名。
新のんき連 1968(昭和43)年 池田順子 徳島県阿波踊り協会 90名。
菊水連 1971(昭和46)年4月 丸山副武 徳島県阿波踊り協会 114名。
若獅子連 1973(昭和48)年8月1日 福本一紀 阿波おどり振興協会 70名。
悠久連 1975(昭和50)年1月1日 郡誠也 徳島県阿波踊り協会 100名。
藝茶楽 1975(昭和50)年5月1日 福田一夫 徳島県阿波踊り協会 107名。
無双連 1976(昭和51)年5月 岸大輔 阿波おどり振興協会 96名。
葉月連 1978(昭和53)年8月 片山裕二 阿波おどり振興協会 103名。
都連 1987(昭和62)年6月7日 小寺順子 徳島県阿波踊り協会 77名。
阿波扇 1990(平成2)年9月1日 勇正昭 徳島県阿波踊り協会 122名。
天保連 1947年(昭和22年)4月 畑山節郎 阿波おどり振興協会 108名。
風来坊連 1953年 徳島県阿波踊り協会 80名。
吉野連 1965年 徳島県阿波踊り協会 90名。
阿波藍連 阿波おどり保存協会
隠元連 阿波おどり保存協会
かずら連 阿波おどり保存協会
紀州連 阿波おどり保存協会
武秀連 阿波おどり保存協会
本家大名連 阿波おどり保存協会
舞女流華連 阿波おどり保存協会
みつ花連 阿波おどり保存協会
よしこの連 1962(昭和37)年 山室博 阿波おどり保存協会 70名。

【他にもあるよ連】
連長
龍虎連 1912年 富杉眞二 50名。
よあかし連 1955年 木原守 35名。
大名連 1977(昭和52)年1月1日 清水理 故.山中一郎連長によって創立。徳島藩祖の蜂須賀家政に扮(ふん)し、お姫さまや太刀持ちを従えて踊るスタイルで知られている。
楽々 1980年10月 笹川直人 80名。
六右ェ門 1980年 濱田祥希 75名。
あらそわ連 1981年 国籍・人種・宗教などの違いを乗り越えて、「争いのない平和な世界」という理念のもと、徳島在住の外国人や留学生たちが一緒になって踊りを楽しんでいる国際交流連。
娯座留連 1989年 稲津義博 「葵連」の小野正巳、「写楽踊り」の姓億(せいおく)政明と共に名手「三羽ガラス」と呼ばれた「娯茶平」の四宮生重郎が立ちあげた連。「手を上げて足を上げれば、それが阿波踊り」。
グループ虹 1989年 四宮賀代
楽茶連 1993年 小林敏弘 60名。

【阿波踊りのその他の連】
 阿波踊りを踊る団体・グループのことを「連」という。連には、地域住民などで構成された一般連や阿波踊り振興協会などの団体に加盟する有名連、学生で構成される学生連、企業で結成した企業連など、大小さまざまな連がある。阿波踊りの醍醐味のひとつは、各連の演舞や衣装、演奏を楽しめることだ。
一般連  阿波踊り好きの人達が集まり、外部の力を借りずに連員達で運営を行う連の総称
企業連  企業が立ち上げた連。連員は、基本的に従業員から従業員の家族で構成されている。
学生連  大学や専門学校のサークルの一環として活動を行う連。、「徳島大学連」や「徳島文理大学連」、徳島大学医学部「たけのこ連」などがある。
にわか連  阿波踊り大会などで結成される即席の連。希望すれば飛び入りで参加できる。有名連の踊り子によるレッスンとリハーサルのあと、演舞場で実際に踊ることができる。

【阿波踊り連&所属協会】
【阿波踊り振興協会所属】
 徳島市観光課内に事務局を置き、16連が所属しています。TEL:088-621-5232
のんき連
阿呆連
水玉連
天保連
浮助連
阿波鳴連
若獅子連
無双連
天水連
ゑびす連
新ばし連
扇連
うずき連
さゝ連
阿波連
葉月連
【徳島県阿波踊り協会所属】
 (一社)徳島新聞社地域振興部内に事務局を置き、17連が所属しています。TEL:088-655-7331
葵連
うきよ連
藝茶楽
独楽連
酔狂連
蜂須賀連
ほんま連
都連
悠久連
阿波扇
菊水連
娯茶平
新のんき連
殿様連
平和連
まんじ連
みやび連
【阿波おどり保存協会所属】
 事務局長 清水氏(本家大名連 連長)TEL:090-8979-5186
阿波藍連
かずら橋
武秀連
舞女流華連
隠元連
紀州連
本家大名連
みつ花連

【全国に広がる阿波踊り】
 阿波踊りは徳島県内各地で阿呆踊りが披露される。中でも、「徳島市阿波おどり」が本場であり、最大の規模を持ち観光入込客は120万人を超えている(徳島県平成27・28年度発表)。これは国内最大規模にあたる。県内の他の市町村各地でも次のように開催されている。
徳島市阿波おどり (徳島市)
阿南の夏まつり (阿南市)
鳴門市阿波おどり (鳴門市)
いけだ阿波おどり (三好市)
小松島港まつり (小松島市)
吉野川阿波おどり大会 (吉野川市)
つるぎ町阿波おどり大会 (美馬市・つるぎ町)
那賀町踊ろうふるさと阿波おどり (那賀町)
勝浦の阿波おどり (勝浦町)
阿波市阿波おどり (阿波市)
 現在は全国各地で次のところで阿波踊り祭りが開催され、それぞれの地域の連が徳島の連とのつながりを深めたり、徳島から各地に阿波おどりの伝統を伝える動きが活発化している。徳島は本場として正調阿波踊りを受け継ぎながらも新たな可能性を探り、次の世代へと阿波おどりの魂を引き継いでいく模索が続けられている。
北海道 仁木町阿波踊り (仁木町)
東北 山形県 みちのく阿波おどり(9月第1週) (山形市)
福島県 みちのく阿波おどり(9月第3週) (郡山市)
関東 東京都 東京高円寺阿波おどり (杉並区高円寺)
初台阿波踊り (渋谷区初台)
糀谷阿波おどり (大田区糀谷)
下北沢一番街 阿波おどり (世田谷区下北沢)
神楽坂阿波おどり (新宿区神楽坂)
東京大塚阿波おどり (豊島区大塚)
成増阿波おどり大会 (板橋区成増)
中村橋阿波おどり (練馬区)
きたまち阿波おどり (練馬区)
都立家政阿波おどり (中野区)
三鷹阿波おどり (三鷹市)
小金井阿波おどり (小金井市)
目黒銀座商店街夏祭り (目黒区中目黒)
神奈川県 かわさき阿波おどり (川崎市川崎区)
神奈川大和阿波おどり (大和市)
相模原東林間サマーわぁ!ニバル (相模原市南区)
埼玉県 南越谷阿波踊り (越谷市)
みさと阿波おどり (三郷市)
新座阿波おどり (新座市)
狭山入間川七夕まつり (狭山市)
千葉県 もばら阿波おどり (茂原市)
小金宿まつり (松戸市)
群馬県 阿波おどり@高崎まつり (高崎市)
中部 静岡県 すその阿波おどり大会 (裾野市)
山梨県 大月阿波おどり (大月市)
愛知県 江南阿波おどり大会 (江南市)
近畿 大阪府 北千里阿波おどり (吹田市北千里)
天神天満阿波おどり (大阪市北区)
兵庫県 淡路島まつり おどり大会 (洲本市)
中国 岡山県 備前阿波おどり祭り (赤磐市)
 海外
  • Awa Odori Paris 2015(フランスパリ)
  • 本場阿波踊り in Bangkok (タイ王国バンコク)

【阿波おどり協会考】
 2017.6.29日、阿波踊りの本家大名連(70人)が、所属していた徳島県阿波おどり保存協会を脱会し新団体「阿波おどり伝承会」を立ち上げた。県外連の受け皿づくりなどが主な目的という。清水理(さとる)連長(69歳、徳島市南佐古四番町)が5月に保存協会に脱会を申し出て、6月1日に開かれた協会の理事会で承認された。当面、本家大名連のみで伝承会を運営しながら、県内外の踊り連に加入を呼び掛けていく。所属連同士の交流に力を入れ、県外にも積極的に出向いて踊るという。清水連長は「世界に通じる伝統芸能である阿波踊りの魅力をさらに発信する取り組みをスタートさせたかった」と話している。

 本家大名連の脱会で保存協会の所属連は7連となった。徳島市内には他に、有名連17連でつくる県阿波踊り協会と16連でつくる阿波おどり振興協会がある。


【棟方志巧(Shiko Munakata1903-1975)と阿波踊り】
 棟方志巧〈一九〇三~一九七五〉

 1903(明治36).9.5日、青森市で代々鍛冶職を営んできた父棟方幸吉・母さだの三男として生まれた。青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだ。

 1921年、ゴッホの「ひまわり」を見て画家になろうと決心する。

 1924(大正13)年、東京へ上京する。帝展や白日会展などに油絵を出品するが落選が続いた。


 1928(昭和3)年、油絵「雑園」が第9回帝展に初入選し、平塚運一と出会い版画を始め版画誌「版」の同人となる。第8回日本創作版画協会展、第6回春陽会展に入選。油絵「雑園」で帝展初入選。

 1930(昭和5)年、文化学院で美術教師を務める。

 1932(昭和7)年、日本版画協会会員となる。

 1934(昭和9)年、佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで感動、制作のきっかけとなる。

 1935年、国画会会友に推挙される。

 1936年、第11回国画展に「大和し美し」板画巻を出品。これが契機で、柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らの民芸運動の人々と知り合い、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼし棟方志功の世界を一段と飛躍させた。

 1938(昭和13)年、35歳の時、第2回文展に「善知鳥(うとう)」板画曼荼羅を出品し、官展への版画の出品作として初めて特選を受賞。

 1939年、「釈迦十大弟子」を制作。

 1945(昭和20)年、戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。

 同年8.15日、敗戦により終戦。戦後も名作を次々に発表する。

 1946(昭和21)年、富山県福光町栄町に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付けた。また住居は谷崎潤一郎の命名によって「愛染苑(あいぜんえん)」と呼んだ。現在は栄町にあった住居を移築保存し、鯉雨画斎として一般公開している。
 
 1952年、スイスのルガノ国際版画展で優秀賞受賞。

 1954(昭和29)年、この年まで富山県西礪波郡福光町に在住した。志功はこの地の自然をこよなく愛し、また多くの作品を残した。

 1955(昭和30)年、ブラジルの第3回サンパウロ・ビエンナーレ版画部門最高賞受賞。

 1956(昭和31)年、「湧然する女者達々」がイタリアの第28回ベニス(ヴェネツィア)・ビエンナーレ版画部門で日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。棟方志功の作品は日本のみならず世界各国で高い評価を受け「世界のムナカタ」の地位を確立した。

 1956(昭和31).12.15-17日、「棟方志功芸業展」(徳島芸術鑑賞会主催)が徳島市憲法記念館で開催され、16日夕方、展覧会に合わせ来徳。志功は徳島市建設会館で開かれた座談会に出席。次のようなことを語っている。 「私が板画を始めたのは伊原宇三郎画伯にすすめられたのがキッカケです」、いっそ絵をやめて人のやらないものに手を出したら、との伊原の言葉が板画を始める契機になったという。なお、この来徳で志功は徳島新聞夕刊に「歳末徳島」を五回連載(12.18日~28日)したり、貞光へ講演会に行ったりもしている。

 この年12月の冬の晩、志功が宴会の二次会で言問の料亭を訪れた。「塩かれ声で、こんな分厚い眼鏡を掛けて」とお鯉さんが志功の風貌について語る。 「熱い燗がお好きな方でした」。お鯉さんは志功のリクエストに応じて阿波風景やよしこのを唄った。お鯉さんとめぐりあった志功はうれしくなった。鮮やかな墨色の美しい躍鯉を捧げるに、お鯉さんほど相応しい人はいなかった。頃合いを見て「先生一筆、って申し出てみたら、『ヨシッ』って」。 志功はちゃぶ台スレスレに顔を近づけて、一気に、奔放に、三枚もの色紙を書き上げた。肉筆作品(志功の、いわゆる「倭画」)になる「女人図」には「爲言問大主人」の為書と「花深処」の字句を添える。芳醇で豊艶な女人にはお鯉さんの面影が重ねられていたかもしれない。「裸の女のひたいに丸い星をつければ仏になる」と語っていた志功に、お鯉さんは妙なる音楽を奏する菩薩に映った。 「わが胸の想ひのごとに舞いめぐる 土佐の白鷺 けわし しろさぎ」。志功も酔いが回ったのか「土佐」の歌となっている。もう一枚は躍り跳ねる鯉魚の図。余白には造形的な文字により、いろは歌をみっしりと書き込む。志功の倭画には「御群鯉図」や「御躍鯉図」等、鯉魚をモチーフとしたものが数多い。拓摺の「夢応鯉魚版画柵」もある。

 棟方志功は江戸浮世絵の美人画「大首絵」に興味を持ち、1956年の作品「鍵板画柵」以来、多くの女性画作品を制作している。ほんのりと頬を赤く染めた吉祥天女は、ふくよかでとても女性らしい美しさを抱いている。 

 1960年、日展評議委員となる。左眼を失明。日版会を設立。

 1963年、紺綬褒章を受章。倉敷の大原美術館に棟方館完成。

 1969(昭和44).2.17日、青森市から初代名誉市民賞を授与される。

 1970(昭和45).8月、万博ム-ドに湧く阿波踊りに招待され、「やっと念願果たせた/棟方さん大浮かれ」と徳島新聞で報じられている。 「黒色の足駄、赤と白の鼻緒、それに足のつま先で立っている姿がいいですね(中略)今後の作品に阿波踊りが入ってくるのが当然であり、必然であると思います」。 この年、文化勲章受賞する。文化功労者に顕彰される。毎日芸術大賞受賞。

 1972(昭和47).4.6日、「南海道棟方板画」準備のため徳島を訪問、翌7日、初代天狗久の碑を訪れた後、高知へ向かった。 この年制作の「南海道棟方版画」は、翌年度安川電機カレンダーのための作品で、徳島を題材としたものに二月「天狗久彰碑の柵」、三月「阿波の木偶の柵」は中西仁智雄の『阿波の木偶』への感動、また「阿波おどりの柵」は一昨年の印象に拠って制作された。

 1975(昭和50)年.9.13日、東京の自宅で肝臓癌のため逝去(享年72歳)。青森市に棟方志功記念館が開館する。

 棟方志功は生涯、故郷の青森を愛し続けた。ねぶた祭りや美しい自然のある青森への思い、望郷の思いを胸に、なくなるまで旺盛な制作活動を続け、比類なき棟方芸術を創出した。




(私論.私見)