阿波踊り史考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).8.15日

 (吉備太郎のショートメッセージ)
 ここで、「阿波踊り史考」をものしておく。「阿波踊りの歴史」、「阿波踊りの魅力」その他参照。

 2016.2.22日 吉備太郎拝


【阿波おどり起源説考】
 旧の阿波国の徳島県徳島市では毎年8月12日から15日までの4日間、「徳島市阿波踊り」が開催され、期間中は連日、昼と夜に分けて阿波踊りが演舞される。本番前日の8月11日には「選抜阿波おどり大会前夜祭」が行われる。昼には「選抜阿波おどり大会」が行われ、屋内のステージで有名連の熟練した踊りが披露される。夜の阿波踊りは「徳島市阿波おどり」のメインイベントにあたり、演舞場を中心に徳島市のいたるところで阿波踊りが披露される。阿波踊りは徳島県発祥の伝統芸能で、「日本三大盆踊り」のひとつに数えられている。

 阿波おどり三大起源説

 主な起源説は次のとおり。現在は、多くの要因が取り入れられて阿波おどりを形成したものと考えられている。

徳島城築城起源説  後の豊臣秀吉の家来として仕えた蜂須賀小六(家政)は、墨俣一夜城、高松城水攻め、山崎の戦い、四国攻めなど多くの戦に活躍し「秀吉に人生を捧げた男」と評されている。結果、阿波の国を与えられ、家督を息子の家政に譲った。徳島藩の藩祖となる蜂須賀家政は阿波18万石の大名となり、1586(天正14)年、徳島に城を築いた。「城の完成祝いじゃ、好きに踊れ」と触れを出したところ、喜んだ民衆が音のなる物を何でも持ち寄り、ドンチャンドンチャン踊ったと云われる。この無礼講逸話が「阿波の殿様 蜂須賀様(蜂須賀公)が 今に残せし阿波おどり」と「阿波よしこの節」に歌い込まれている。これが阿波踊りの発祥と伝説されているが、この時に創始されたのではないのだから発祥とは言い難い。「歴史の表舞台に公認された時」とでも云うべきで相当古くより阿波の国で行われていた踊りであったと認めるべきだろう。
盆踊り起源説 鎌倉時代の念仏踊りから続く先祖供養の踊りを起源とする説。
風流踊り起源説  阿波おどりの特色である組おどりが、能楽の源流をなすといわれる「風流」の 影響を強く受けていると云われている。1663(寛文3)年の「三好記」 の中に、1578(天正6)年の盂蘭盆に、十河存保が、勝瑞城で、京都などで人気を博していた能楽の元とされる「風流踊り」の芸能集団を招いた記録がある。豪華絢爛で相当な人気があったと記されており、これが阿波おどりの原型となったとする説。「風流」とは着物や装飾に趣向を凝らしたものを云う。
ぞめき踊り  精霊踊りとして発生したのがぞめき踊りである。その本流が今日まで継承されている。
俄(にわか)踊り
組踊り
 組踊りとは、100から120人ほどの大規模な踊りで、華麗な衣裳や持物で観衆の眼をひきつけ、幻想の世界に人びとを誘うことを狙って贅をつくした豪華絢爛、派手な踊りであった。現在の阿波踊りとは違う。
念仏踊り  悪霊を払うために念仏を唱える際に踊る
精霊踊り

(私論.私見) れんだいこ版阿波踊り起源考
 阿波踊りは、上記で云われているよりも実はずっと旧く、はるか古代の祭政一致御代の祈念行事での巫女の舞(いわゆる卑弥呼の舞)、以来続く民衆踊りが起源ではないのか。こう観点を据えるべきである。

 ところが、同じく古代からの踊りとして位置づけながらも、これを日ユ同祖論の立場から関連づける論考が登場し、阿波踊りの由来を古代イスラエルの祭祀踊りに求め、何としてでも日ユ同祖論に溶け込ませようとしている。情けない限りの愚説である。

 私はむしろ日ユ同祖論との関連を排し、日本古神道との絡みで評することを責務としている。ところが今度は、日ユ同祖論者は、日本古神道をも古代イスラエルの宗教と結びつけようとする。これがなかなか煩(うるさ)い。阿波踊りを古代からの踊りとして見なすところは同じだが、その起源を古代イスラエルの祭祀踊りと結びつけるのか、日本在来の古神道との絡みで評するのか、この差は真逆となるので曖昧にできない。私に言わせれば、日本的なるものの祖型とユダヤ的なるものの祖型は、その思想の質に於いて真反対のものである。思想の質に於いて真反対のものが同祖である訳がない。互いの差を認めあって補完的に関係せしめることはできる。しかしそれを同祖論に流し込めてはいけない。そういうものではない。ここでは、これぐらいにしておく。


 それにしても、築城記念起源説であれ、盆踊り起源説であれ、風流踊り起源説であれ、阿波踊りがそれより始まったとする通説には無理があり過ぎる。その時点で既に民衆芸能として阿波踊りが存在していたことが確認できるのだから、その時既に存在していた踊りの起源を訪ねるのが普通だろう。阿波踊りの鳴り物旋律、拍子、これに合わせてのうら若き踊り子女子のエロティシズムと躍動、男踊りのひょうきんさと躍動、これらは一朝一夕にできるものではなかろう。ン百年否ン千年の伝統を持つ阿波古代よりの風習としての民芸踊りと認める方が自然なのではなかろうか。

 例えば、魏志倭人伝に「喪主哭泣、他人就歌舞飲酒」と記されている。ここに「歌舞」とある。これを阿波踊りのルーツとみなす方がより正確に近いだろう。あるいはその大昔、天照大御神が「天の岩戸隠れ」した際、アメノウズメ(天鈿女)の命が桶を逆さに伏せ、その上に立って胸をはだけ、女陰までちらつかせながら踊ったところ、それをはやし立てる声を聞いた天照大神が不審がり思わず岩戸を開けてしまったと記す古事記神話があるが、この系譜で阿波踊りを捉える方がよほど阿波踊り発祥の真実に近いだろう。

 私の見立てによれば、魏志倭人伝に記す「鬼道に事え、能く衆を惑わす」邪馬台国女王の卑弥呼が「婢千人を以って自ら侍らす」、「卑弥呼死す。(中略)徇葬者奴婢百余人」とある卑弥呼鬼道の、神道祭祀の際に伴奏され演舞された卑弥呼踊りを始祖とするとしたい。卑弥呼踊りから始まり巫女(みこ)踊りへと繋がり、次第に大衆的な民芸踊りへと発展していった。この流れが日本舞踊の原型であり、阿波踊りはその元祖筆頭格で牽引して来たのではなかろうか。こう捉えた方がよほど阿波踊り発祥の真実に近いだろうと思う。残念ながら、あまたの阿波踊り起源論があるが、この観点からのそれは少ないようである。恐らく探せばあるだろうと思う。これをもう少し掘り下げると、邪馬台国所在地論、卑弥呼出自論に関係して来る。仮にそうなると阿波踊り起源論は歴史の深層に関わっていることになる。

 現代の評者は、時代がずっと下って江戸時代に発祥した踊りと解説している。無難な解説だが味気ない。阿波踊りはそういう比較的新しい踊りではない。

【阿波踊りの歴史考】
 踊りは古くは宗教的儀式として行われていた。恐らく「音楽と踊り」による一種のトランス状態に入っての祈祷、集団共感に意味が見出されていたのではなかろうか。呪術的儀式の踊りは世界各地の祭祀・祭礼の儀式の中で取り入れられている。皇室で演奏される宮中雅楽もその流れのものである。日本舞踊の起源は一種の巫女舞(みこまい)として神事と深く結びついていた。
 魏志倭人伝に「喪主哭泣、他人就歌舞飲酒」。
 大昔、天照大御神が「天の岩戸隠れ」した際、アメノウズメ(天鈿女)の命が桶を逆さに伏せ、その上に立って胸をはだけ、女陰までちらつかせながら踊ったところ、それをはやし立てる声を聞いた天照大神が不審がり思わず岩戸を開けてしまったと記す古事記神話。
 魏志倭人伝に記す「鬼道に事え、能く衆を惑わす」邪馬台国女王の卑弥呼が「婢千人を以って自ら侍らす」、「卑弥呼死す。(中略)徇葬者奴婢百余人」とある神道祭祀の際に伴奏され演舞された卑弥呼踊りを始祖とするとしたい。卑弥呼踊りから始まり巫女(みこ)踊りへと繋がり、次第に大衆的な民芸踊りへと発展していった。この流れが日本舞踊の原型であり、阿波踊りはその筆頭格で牽引して来たのではなかろうか。
 12世紀頃、男装した女性が笛、太鼓を伴奏に踊る白拍子と云われる歌舞が伝わっている。
 鎌倉時代、時宗の開祖「一遍上人」が念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」を編み出し、これが日本各地に広がっていった。一遍上人は、「踊りの疲れと興奮の果に煩悩は去り仏と一心になる」、「南無阿弥陀仏を唱えることで、穢れたものでも極楽往生が叶う」と教えを説いたと伝わっている。
 昔の阿波踊りは、能面を被って踊るのが当たり前だった云々。
 14世紀頃、物語を語りながら舞う能が完成している。
 室町時代、京都の「町衆」を中心に「踊り念仏」が「風流踊り」として催行されるようになった。「風流踊り」は派手な衣装や鬼や天人の扮装で踊り、交流した。国会図書館には織田信長が風流踊りで奇抜に扮装した様子を記録した書物が保管されている。「風流踊り」から「死者を供養する盆に催行され、皆が同じ所作で踊る」ようになり、これが「盆踊り」の源流のひとつになっていると云われている。「盆踊り」が全国各地で普及すると日本の夏の風物詩となり、「豊作祈願、その御礼」、「暑気払い」、「他村・他地域との交流手段、その延長上での男女の出会いの場」としての要素を増していった。
 「風流踊り」
 戦国末期、畿内を征圧した三好政権下で、三次政権を軍事的に支えた阿波の国人衆の間で「風流踊り」が大流行し、阿波三好氏の本拠である板野郡の勝瑞城下にも伝播して町人衆の間で盂蘭盆行事となって定着していた。1578(天正6)年の盂蘭盆には、時の城主十河存保は京都から風流の芸能集団を招いて勝瑞城内で演じさせ、誰にも観覧することを許したことが福島玄清の「三好記」に詳述されている。当時の阿波に風流熱が高揚していたことを知ることができる。但し、勝瑞城は1582(天正10)年に長宗我部元親によって落城させられている。
 1585(天正13)年、蜂須賀家政が阿波に入部した。その居城として徳島城を築城し、その周辺に城下町を整えていった。その町屋に続々と勝瑞城下から商工業者が移住しはじめ、やがて城下の町屋における多数派が形成されていく。この多数派が阿波踊りを庇護していくことになる。
 1586(天正14)年、徳島城が竣工した際、当時の阿波守・蜂須賀家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したと伝えられている。これを発祥説にする説もあるが、既に存在していたことが分かるのであるから発祥説にはなるまい。
 1603年、出雲の阿国(おくに)が芸能一座を率いて京都の四条河原で踊りを舞った記録が遺されている。これが見世物踊りの始まりと云われている。阿国は百年以上続いた戦国時代から抜け出した庶民の開放的で亨楽的な風潮をいち早く捉え「夢の浮世じゃ、ただ狂え」と唄い踊り、民衆の人気を博した。阿国を中心とする美女集団は、時には男装したり子どもの仕草で踊ったり、念仏踊りなど、一風変わった常識ではない踊りを踊り、「阿国かぶき」と云われ評判となった。「傾き」(かぶき)には半身構えで世に対する傾いてる者の意味合いがあり、それが歌舞伎の由来になったと云われている。東京の新宿歌舞伎町の名前の由来も傾き者の集まる街という意味で命名されていると云う。
 17世紀、歌舞伎踊りが大流行し遊女までも真似するようになった。風紀を乱すとして徳川幕府が禁止した。それに変わって登場したのが美少年が踊りる若衆歌舞伎である。ところが若衆歌舞伎も男色(だんじき、男性が男性を買う)の対象にされ禁止された。その後登場したのが大人の男性のみが踊る野郎歌舞伎で、これが現在の歌舞伎の源流となる。歌舞伎では女形といって男性が女役を演じるのはこの様な歴史がある故である。歌舞伎もまた大流行し、それを寺子屋のお師匠さん達が真似て覚え、子ども達に教えるという形で一般に広まっていったのが日本舞踊であるとされる。寺子屋では読み書き以外に踊りや三味線や礼儀作法も教えていた。18世紀中頃になると町人が経済の実権を握るようになり、この頃の庶民の生活、物売り(シャボン玉や人形、団子などを売り歩く者)、男女の恋愛話、廓話(遊女の話)などの舞踊が多く作られ、これが庶民の娯楽となり今の日本舞踊へと繋がっている。
 江戸時代、蜂須賀の歴代の藩主は、この「ドンチャンドンチャン踊り」(阿波おどりの呼称は昭和に入ってから)の熱狂が一揆につながることを懸念し何度も踊りの禁止令を出している。しかし、阿波の民にとっては古からの伝統踊りとして身に染みて継承されていたので、阿波っ子たちの心に流れる阿波おどりを完全に絶やすことはできなかった。このことが今日の隆盛をもたらしている。特に戦後の阿波おどりの復興ぶりは目ざましく、今日では日本を代表する民族舞踊の地位を確保している。
 徳島藩による城下の盆踊り対策は、建て前の厳しさに対して本格的に取締ることは諸般の事情によって容易ではなかった。とくに宗教的な発生事情をもつ「ぞめき踊り」に対してはたびたび規制されているが、実際には「有来りの踊り」と規定して一貫して踊りを禁止することはなかった。
 「笹踊り」
 城下の盆踊りは、町切りを命じると群衆は「新町橋まで行かんかこいこい」と声を揃えて橋をめざした。これは一種の抗議行動であった。文化・文政のころから厳しく禁じられたのが「笹踊り」である。「笹踊り」は盆だけでなく神社の祭礼にも演じられていたもので、歌舞伎風の衣裳で寸劇を演じたり、仮装や裸体の演技を披露することで、広儀には俄踊りの範疇に属するといわれている。風俗の乱れに神経質であった藩としては、盆踊りに混乱を持ち込むことを恐れて禁止していた。しかし、「笹踊り」を実際に取締った事例は幕末の史料でしか確認することができない。
 「組踊り」
 1650(慶安3)年、「春日祭記」(四国大学図書館蔵の凌霄文庫)が次のように記している。
 「組踊りというのは100から120人ほどの大規模な踊りで、華美な舞台で小人数で演じるメインの踊り(中踊り)と、その回りを多数の踊り子が回り踊りで景気づけるほか、踊りを乱されることがないように警固役を配していた。この踊りは本来華麗な衣裳や持物で観衆の眼をひきつけ、幻想の世界に人びとを誘うことを狙った贅をつくした踊りであった」。

 藩政初期の組踊りは、そのように春日神社の神事として当社の氏子によって演じられていたが、助任・福島・富田・佐古などの町屋にも勝瑞からの移住者が多く、風流踊りを復活したいと思うようになった。ところが、各町が氏神の神事として大規模な組踊りを奉納することになると、9月17日の春日神社から10月末の金刀比羅神社の祭礼まで毎日のように城下のどこかで華麗な組踊りが演じられ、見物衆が押し寄せることになった。そのため、藩が神事から分離して盂蘭盆の3日間に集中して演じるように指導したようである。それがいつ頃のことであったかについてははっきりしない。その後の組踊りは大踊りといって、盆踊りの主流に踊り出てきたが、その最初のピークは元禄期のことであったと考えられる。初期の組踊りを経済的に支えていたパトロンは、各町の特権的な初期豪商たちであるが、この踊りがピークに達した元禄期は、阿波藍の需要が急増したことから、城下にも新興の藍商や肥料商などの進出が目立つようになって、藩の経済政策も転換期を迎えることになる。そのような状況の変化を背景にしてやがて、組踊りは下火になっていった。

 17世紀の中頃、城下の内町や新町の町人たちを氏子とする春日神社の祭礼に、各丁が「組踊り」をくり出して競演していた。この踊りはかって細川・三好氏の本拠であった勝瑞城下で盛行していた「風流踊り」を復活したものである。この「組踊り」が盆行事に移されると、城下全域に波及し大踊りなどといわれ大いに人気を博した。但し、この踊りは最初から大規模の踊りとして華麗さを誇っており、豪華絢爛で見物する人びとを幻想の世界に誘うような芸態を特色としていたことから、財政再建をめざす度々の藩政改革などのとききまって禁止されるなどの措置がとられる宿命を負っていた。そのたびしばしば中断されているし、明治維新以降は盆踊りの市中から「組踊り」の姿が消えた。
 1657(明暦3)年、江戸時代の阿波踊りは過激で反体制の面があった。これにより、徳島城下の盆踊りに対する藩の規制として最古の触書が出されている。この触書によると盆中の踊りを取締ったのは20人の町横目(下級藩士)で、町奉行の下でその任を担っていた。
 1671(寛文11)年、最初の触書から14年後、二度目になる触書が出されている。今度は次のように具体的なものになっている。1)盆踊りは7月14日から16日までの3日間に限ること。2)家中は盆の3日間の外出を禁じられ、どうしても踊りたければ門を閉ざした屋敷内で踊ること。3)諸寺院に踊り込むことを厳禁する。この種の規制は他の諸藩においてはもっと早くに示されているもので、鳥取藩などでは承応期(1652―54)という18年ほど以前に出されている。このたびの触書が鳥取藩の触書をそっくり真似ていることが興味深い。
 1685(貞享2)年、徳島立藩からちょうど100周年に当たる年、三度目になる触書が出されている。寛文の触書が寺院に踊り込むことを禁じるだけのものであるのに対して、家人の動向も監視できるように開放することや、見物人は整然と見物することを命じるなど、踊り子だけでなく見物人にも規制が及ぶようになっている。
 「俄踊り」
 元禄期を中心とする18世紀前半は、わが国の衣料革命の進行を背景として阿波藍の需要が急増し、藍商たちは大坂や江戸をはじめ各地の市場に進出して藍玉の売り込みに奔走した。藩内の農村は藍生産を増大させた。その栽培には大量の金肥を必要としたので、肥料商の活動も活発となるなど徳島城下は藍商や肥料商などの積極的な活躍によって活況を呈した。これら新興商人の台頭により各地の芸能が伝播された。そのうちもっとも注目されるのが「俄踊り」の流行だった。
 「ぞめき踊り」
 19世紀に入ると城下に藍大市が建てられるようになり、各地から良質の藍玉を需めて顧客が殺到した。その接待の場となったのは色街であり、そこは諸国の芸能を受容され、それに創造を加えて阿波の諸芸として再生産された。この頃「ぞめき踊り」が登場している。「ぞめき」とは騒がしいなどの意味で、二拍子の軽快で陽気さを特徴とする派手で賑やかな踊りにつけられた名称である。「ぞめき踊り」の変遷や俄踊りの波及にも色街の果たした役割が大きかった。
 そのような芸能風土の形成は、とくに三味線の普及を契機として、城下の商家などでは娘たちに三味線を習わせることが流行するため、三味線の稽古所が続々と出現する。少し弾けるようになると発表の場が欲しくなり、その場が盆中の三味線流しとなった。親たちが競って娘に華麗な衣裳を着せて送り出し、自慢の種にしたという。こんな盆の市中を彩る情緒が定着していたのも、阿波が芸所であることを自然に表現する珍らしい行事の一つであった。 こうしてそのような多彩な盆踊りを演出したのが色街であった。色街の果たした役割や阿波踊りを演出した機能が評価されねばならない。
 一方、文化・文政期に豪商としてならした藍商人たちが全国各地との文化交流の担い手となり、各地のさまざまな要素が阿波おどりに取り入れられた。阿波おどりのリズムは、奄美・八重山の「六調」、沖縄の「カチャーシー」、九州の「ハイヤ節」、広島の「ヤッサ節」などとの共通点が多く、南方に端を発する「黒潮文化のリズム」とされることがある。また「阿波よしこの節」は、茨城県の潮来節が元になっているとされている。こうして、阿波おどりは日本全国の伝統的な踊りとクロスしている。庶民のパワーによって支えられながら徳島の伝統芸能として定着してきた。
 18世紀以降の城下の盆踊りは、伝統的なぞめき踊りと盆行事に移行した組踊りのほか、手軽に演技できる俄踊りという3種の踊りが併行して互に影響しながら盆踊りを盛り上げていた。
 1754(宝暦4)年、徳島藩の財政事情は悪化の一途を辿っていた。10代藩主の重喜が襲封したこの年、藩は莫大な負債で窮迫し家臣層の窮乏化も目に余るものがあったことが記録されている。重喜とその子で11代藩主治昭は、たびたびの藩政改革を実施することによって、藩財政の建て直しに全力投球した。その改革は増税をめざし、領民に質素倹約を押し付けることを基調としていた。また、家臣たちに対しても風紀を引締めることを命じるものであった。それは盆踊りにも反映することを避けられなかったが、もっとも規制の対象とされたのは華麗な芸態をもつ組踊りや衣裳俄であった。こうして盆踊りの本流である「有来りの踊り」といわれていたぞめき踊りと、浴衣懸けでも演じることのできる走り俄などは許したが、こうした抑圧は城下の盆踊りの態様を大きく変容させるものであった。藩の対策は、当然のように町人社会の反発を招いた。組踊りが禁じられたことから、城下周辺の各所では密かに組踊りが演じられていたことが記録されている。また、盆中に顧客を招待した商人たちは、その宴席に武士による早俄を招いて演じさせるなど、藩の規制の網目をくぐって、何としても踊りの伝統の火を消させないように苦心していることも史料によって確認することができる。盆踊りは規制を受けるたびに不死鳥のようによみがえり、規模も大きくなっていった。それに対して藩も取締りを徹底させることができなかった。
 「ええじゃないか踊り」
 1830(文政13)年の御蔭詣では徳島城下から始まり、阿波衆は伊勢で「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂ったという。この踊りがおもしろいというので大流行し、上方の豊年踊りに転化したとする有力な説がある。「ええじゃないか」は豊年踊りをモデルとしたという説がある。そのような説から考えてみると、阿波では阿波踊りが「ええじゃないか」踊りと混交したのはごく自然なことであった。ただそれまでの阿波踊りは、人形浄瑠璃の太棹が鳴物の主力を占めていたといわれるように若干テンポの緩やかな踊りであったのに対して、テンポの早い「ええじゃないか」の大流行を契機として、阿波踊りもテンポを速め、鳴物の主役も細棹に取り替えられていったとする説がある。実証することはできないが興味深い。
 1841(天保12)年、徳島阿波藩の中老・蜂須賀一角が踊りに加わり、乱心であると座敷牢に幽閉され、厳封、改易されたとする次の記録が残っている。蜂須賀直孝は10代藩主重喜の子で、幼名は次郎吉、中老の士組頭蜂須賀一学直芳の養子となり、天保元年(1796)6月10日に直芳の死により7月19日に家督相続して士組頭を勤めた。
 「御老中千石の蜂須賀一角様、昨年七月盆踊りのみぎり(おり)、かねて近年『御家中は踊りの場所へ出候儀は堅く御停止』のところ、抜けて踊るところを見つけられ、乱心に申し立て座敷牢に入れ候ところ、当7月牢を抜け出し讃州白鳥辺りまで参り候を、古物町商人三人参り合せ、御屋敷へ飛脚差し越し、御迎えに参り連れ帰り申すにつき右三人へ金五匁宛の御礼これあり候趣、右につき又々内牢に入れ置き候云々」。

 蜂須賀一角は乱心扱いで入牢させられたあげくに本人追放、家族は家中預かり、つまり改易に処された気の毒な記録が残されている。
 1844(天保15)年の記録には「組踊り少し、俄は多し、昼夜ともぞめきは例年のごとし、御免許町に野稽古の踊を趣向して、右発願人町役人など皆々御咎を蒙る」と記している。御免許町は西新町5丁目であるが、組踊りに武家社会を風刺する野稽古の踊りを演じたことで、きびしく取締められたというものである。
 1846(弘化3)年、仮装で踊った20人の婦人が捕えられて入牢、その後に市中引廻しという厳罰に処せられたと記録されている。この史料によると坊主姿や半裸の仮装で俄踊りが演じられている。御免許町の出し物といい、この婦人の俄といい、ともに武家支配を揶揄したり藩の規制を全面的に無視した踊りであって、当然そこには藩政に対する抵抗の意思が暗喩されていたであろう。故に厳罰が伴っていたのであろう。

 徳島城下における盆踊りは時代とともに隆盛をみたが、いよいよ藩の危機が深刻さを増した天保期から幕末期には、踊りも大規模に展開すると、一部には藩の規制強化に対する反発も強まりをみせるようになる。

 1867(慶応3).12月、「ええじゃないか」の乱舞が阿波の撫養に上陸し、翌4年にかけて阿波一円は「ええじゃないか」で浮き立つことになる。当時の数少い記録によると徳島城下では群衆が「ええじゃないか、ええじゃないか、何でもええじゃないか……」と囃しながら勢見の金刀比羅神社に練行し、そこから讃岐の金刀比羅宮や施行の船に乗り込んで伊勢神宮に向う人も多かったことを伝えている。阿波踊りと「ええじゃないか」では囃す文句も踊る所作も異なるが、通底していたとみなすべきだろう。
 1870(明治3)年、版籍奉還後、阿波の盆踊りが中止させられた。その理由は庚午事変の発生にあった。この事件が徳島藩を大きく揺るがした。その翌年、廃藩置県が断行され、明治政府による相次ぐ改革が実施に移されていった。新しい時代を迎えたことによって、阿波の盆踊りが自由になったかと云うと明治初期の史料でみる限り盆踊りに対する統制はかなりきびしい。明治3年の盆踊り中止を始めとして、近代の盆踊りはたびたび中止の措置がとられている。そのような中止の理由について調べてみると、明治後半の日清・日露の戦間期になると各種の大衆娯楽の普及によって次第に新鮮な魅力を失って急速に衰退していった。
 明治〜大正期にも、日本文化全体のモダン化に足並みを揃えるかのように、鳴り物にバイオリンなどの西洋楽器が取り入れられたり、派手な縞模様のぱっち(股引)の衣装が流行るなど、近代化した様子がうかがわれる。大正時代に晩年を徳島で過ごしたポルトガル人・モラエスが母国に送った「徳島の盆踊」では、その熱狂ぶりを描写するとともに古来から続く「死者を敬う踊り」としての精神性を記述している。
 盆踊りはわいせつなものとして禁止され衰退する時期もあったが、衰退した盆踊りが復活するのは大正時代から昭和初期にかけてである。大正時代に起こった、生活の中から美を見つける「民芸運動」がきっかけと云われている。
 1918(大正7).3月、米騒動。この年も中止措置がとられている。
 大正期から「阿波おどり」という言葉が使われることはあったが、阿波おどりの発展に尽した日本画家・林鼓浪が徳島商工会議所(当時は商業会議所)に提案し、昭和に入って「徳島盆踊り」から「阿波おどり」という呼称が定着していった。これは、観光資源として全国に広めていこうという積極的な動きの一つであったためと考えられる。
 1931(昭和6)年、「お鯉さん」こと多田小餘綾がコロムビアレコードで『阿波よしこの節(阿波盆踊唄)』を録音。その名を全国に知らしめるきっかけとなった。
 1937(昭和12)年、の盧溝橋事件を発端とする中国との戦闘開始以来、第二次大戦にいたるまで戦争によって阿波おどりが中止されることが多くなった。
 1941(昭和16)年、封切られた東宝映画「阿波の踊子」(監督:マキノ正博、主演:長谷川一夫)で、徳島で大々的なロケが行われ阿波おどりのシーンでは芸妓たちがエキストラの踊り手として多数参加した。同作が上映された市内の映画館は観客であふれた。
 1945(昭和20)年、徳島はB29による空襲で市内の約62%が焦土となった。
 戦後、盆踊りの宗教的な側面が薄れ娯楽的な「祭り」として行われるようになった。盆踊りの復活にはレコードの普及が一役買ったとされ「東京音頭」などは今でも盆踊りで定番となっている。 BON DANCE」、六本木「BON DISCO」といった新たなスタイルの盆踊りが賑わいを見せている。
 1946(昭和21)年、終戦翌年、ぽつぽつとバラックが建ち始めた状況の中で阿波おどりが復活した。踊りもまちまちで洗練されたものではなかったが平和への喜びとともに現在まで続く老舗連が徐々に設立されていった。
 1950年代、この頃の阿波踊りの映像記録が残されており、これを見ると、腕は胸までしか上げず、手もだらりと下げて踊っている。
 1957(昭和32)年、東京・高円寺で阿波おどり大会(当初は『高円寺ばか踊り』の名称)が始まり、阿波おどりが全国で開催される嚆矢となる。
 1970(昭和45)年、大阪で開催された日本万国博覧会で徳島合同連が踊りを披露したり、海外遠征が行われるなど、「徳島の阿波おどり」から「日本の阿波おどり」へと広く認知されていった。こうした動きに伴い「見せる阿波おどり」への志向も強まり、昭和40年代は踊りや音が、より洗練された芸能へと変化していった。
 1980年代、これは女踊りのレジェンドと言われる四宮賀代さんが、腕を高くつき上げ、指も点を指すように伸ばし、脚を高くけりあげる、今の阿波おどりのスタイルを編み出し、これが普及した。この「洗練された美」の阿波踊りを「見せる芸術」の域に高め、日本最大の祭りの一つとして人々を魅了するようになった。
 2017.8月、阿波踊りで「内紛」が勃発。市長側の指示で阿波踊りの最大の見せ場である総踊りの中止が決定され、それに反発した阿波おどり振興協会が独自に開催する意思を表明した。大きな反響を呼び、全国的に注目される中、市長の反対を振り切る形で総踊りが行われた。
 2018.1.10日、主催者団体の一つ、市観光協会の「4億円の赤字」問題を受け、市主導の阿波おどり実行委が開催し阿波おどり振興協会を徳島市役所に招いて委員会を開催し、雪解けムードを演出した。遠藤市長は、阿波おどり振興協会に対して、今年8月に予定される阿波踊りについて、「総踊りを4つの演舞場で踊って頂きたい」、「阿波踊りを盛り上げるため、成功させるために皆様のご協力を」と呼びかけ「和解」を申し入れた。手のひら返しの遠藤市長の申し入れに、数々の「遺恨」がある阿波おどり振興協会の山田実理事長はこう怒った。「総踊りだけで、阿波踊りは成功しません」、「遠藤市長は去年、総踊りは面白みがない、ぎゅうぎゅう詰めで踊っている、あれは阿波踊りやないと言い、否定された」。徳島市とともに阿波踊り実行委員会のメンバーで、中核的に役割を果たした徳島新聞社の米田豊彦社長も「去年はボタンの掛け違いがあった。これからは改善したい。今日は論議するのではなくて…」と火消しを図るも、山田理事長の怒りはおさまらない。「遠藤市長、不毛の二文字で片づけていいのか? それで新たな建設的な話し合いができますか」、「徳島新聞社には、何度も話し合いをと連絡したが、わからないというばかりだった」、「阿波踊り、徳島のため、総踊り、やれと言われればやります。条件が整えば、総踊りなどやります。しかし、反省なしにやってもダメだ。これまでの間違いは認めるべき」。

 ここに至るまで、市観光協会の存続を求める踊り手団体「阿波おどり振興協会」が総踊りの中止や演出方法をめぐって反発し混乱した。結局、阿波踊りのフィナーレを飾る「総おどり」は実行委員会の委員長を務めた遠藤彰良市長の一存で中止された。遠藤市長はそれまでの主催者であった市観光協会(徳島新聞社と共催)を「運営能力なし」と決めつけて破産させ、自らが実行委員長として運営責任者に就任した。市長と実行委員会は、「改革」と称して「総おどりの中止」を一方的に決め、踊り子と激しく対立。結果、振興協会は桟敷のない道路で独自に総おどりを強行することとなり、ヒートアップする両者のにらみ合いは全国的な注目を集めた。4日間の人出が例年より1割以上減り約2900万円の赤字となった。
 2018.10.20日、日仏友好160年にあたり、フランスの芸術の都パリのパリ・アクリマタシオン庭園にて、大規模な日本文化・芸術の祭典「ジャポニスム2018:響きあう魂」が開催され、徳島県阿波踊り協会と阿波おどり振興協会から選抜された踊り子たち約40人が参加し、オープニングを飾り演舞した。(ジャポニスム2018:響きあう魂、http://matsuri.japonismes.org/
 2019年、問題も解消されて無事に開催された。阿波おどり振興協会に所属する14の有名連が集結し、踊り子千人・鳴り物数百人という規模で演舞場を進んでいく大迫力な最大の見せものとなる総踊りが2年ぶりに復活。会場が2018年までは「南内町演舞場」のみでの開催だったが、2019年から毎日総踊りの演舞場が変わるシステムとなった。初めて民間事業者のキョードー東京が運営する祭りとなった。大型の台風10号が直撃し後半2日間は中止になった。
 (「独自の地図を作成する方法についての記事」)
 2019(令和元)年11.2日、国内外から阿波おどりに取り組む人々が集い、踊る意義を語り合う「世界阿波おどりサミット」が徳島市のアスティとくしまで初開催された。
 2020(令和2)年、新型コロナウイルスの影響で、徳島市の阿波踊りが戦後初めて4日間全てが中止となった。
 2021(令和3)年、新型コロナウイルスの影響で前年同様中止。
 2022(令和4)年、新型コロナウイルスの影響によるマスク着用推奨下で復活。

【日本大相撲が米国興行の際に阿波おどりが前座を務め盛り上げる】
 残念ながらこの史実が出てこない。


【「世界阿波おどりサミット」開催、「世界阿波おどり宣言」採択】
 2019(令和元)年11月02日、国内外から阿波おどりに取り組む人々が集い、踊る意義を語り合う「世界阿波おどりサミット」が徳島市のアスティとくしまで初開催された。徳島県と県観光協会が主催。国内の阿波おどり開催地の団体に加え、欧米やブラジル、台湾からも踊り手らが参加した。シンポジウムでは11団体の代表者が各自の取り組みを紹介。阿波おどりが世界中に広まっていることを報告した。

 米ニューヨークから来た西谷尚武さんは、現地に徳島県人会があるのに踊りのグループ(連)がないことを疑問に思い、昨年連を発足。連長に就任した。現在は約45人が所属。「夢は5番街で練り踊ること」と笑顔で語った。。
 世界阿波おどり宣言の採択について」参照。
 「世界阿波おどり宣言」は、各阿波おどり団体の代表者の皆様が集い、「阿波おどり」の理念や未来のあり方について話し合い、共通認識を持つことができた内容を、将来に引き継ぐ指針として取りまとめたもの。当日、阿波おどり「ちびっ子」たちがら「世界阿波おどり宣言」を読み上げき、会場において採択された。
 世界阿波おどり宣言(宣言全文)は次の通り。
 400年以上の歴史を誇る「阿波おどり」は、最高のワクワク感・ドキドキ感を与えてくれる伝統芸能、「世界に誇る徳島の宝」。徳島から全国各地へ、また国境を越え、世界に拡がり、「平和の象徴」として、国籍や人種、宗教や言語などを超え、「よしこののリズム」が人を笑顔にしています。 私たちは、これからも手を携え、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」の言葉どおり、「誰もが参加できる」阿波おどりの魅力を世界に伝え、「おもてなしの心」を繋ぎながら、おどりの輪をさらに広げ、「阿波おどり」を「世界の宝」に育ててまいります。
 令和元年11月2日





(私論.私見)