阿波踊り考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.16日

 (吉備太郎のショートメッセージ)
 ここで、「阿波踊り考」をものしておく。「阿波踊りの歴史」その他参照。

 2016.2.22日 吉備太郎拝


 吉備太郎の阿波踊り考その1  吉備太郎  投稿日:****年**月**日
 ドドーンと腹の底まで響きわたるダイナミックな音。躍動感や激しさを盛り上げてくれる大太鼓。鐘(鉦鼓)と太鼓と篠笛と三味線。この鳴り物を耳にすると心ウキウキしちゃう。この音色は、いつ聴いてもテンションが上がる。2拍子の伴奏にのって連(れん)と呼ばれる踊り手の集団が踊り歩く。

  踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損損

 エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ
 踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…

 ヤットサァー ァ ヤットヤット♪

 「エライヤッチャ」には、「大変な事だが平気だぞ」。「ヤットサ ァ ヤットヤット」には、「久しぶり、元気だった?」と言う意味が込められている。徳島県内の小・中・高校では体育の授業や体育祭などで「阿波おどり」を演目として採用している学校も多数あり、徳島県民の代表的な祭りである。


 旧の阿波国の徳島県徳島市では毎年8月12日から15日までの4日間、「徳島市阿波踊り」が開催される。本番前日の8月11日には「選抜阿波おどり大会前夜祭」が行われる。期間中は連日、昼と夜に分けて阿波踊りを開催。昼には「選抜阿波おどり大会」が行われ、屋内のステージで有名連の熟練した踊りが披露される。夜の阿波踊りは「徳島市阿波おどり」のメインイベントにあたり、演舞場を中心に徳島市のいたるところで阿波踊りが披露される。阿波踊りは徳島県発祥の伝統芸能で、「日本三大盆踊り」のひとつに数えられている。

 阿波おどり三大起源説

 主な起源説は次のとおり。現在は、多くの要因が取り入れられて阿波おどりを形成したものと考えられている。

徳島城築城起源説  後の豊臣秀吉の家来として仕えた蜂須賀小六(家政)は、墨俣一夜城、高松城水攻め、山崎の戦い、四国攻めなど多くの戦に従軍して活躍し「秀吉に人生を捧げた男」と評されている。結果、阿波の国を与えられ、家督を息子の家政に譲った。徳島藩の藩祖・蜂須賀家政は阿波18万石の大名となり、1586(天正14)年、徳島に城を築いた。「城の完成祝いじゃ、好きに踊れ」と触れを出したところ、喜んだ民衆が音のなる物を何でも持ち寄り、ドンチャンドンチャン踊ったと云われる。この無礼講逸話が「阿波の殿様 蜂須賀様(蜂須賀公)が 今に残せし 阿波おどり」と「阿波よしこの節」に歌い込まれている。これが阿波踊りの発祥と云われているが、この時に創始されたのではないのだから発祥とは言い難い。「歴史の表に公認された時」とでも云うべきで、歴史的に相当古くより阿波の国で行われていた踊りであったと認めるべきだろう。
盆踊り起源説 鎌倉時代の念仏踊りから続く先祖供養の踊りを起源とする説。
風流踊り起源説 戦国末期の勝瑞城で行われていた能楽の元とされる「風流踊り」を起源とする説。京都などで人気を博していた。「風流」は着物や装飾に趣向を凝らしたもの。天正6年(1578年)の盂蘭盆には、京都から風流の芸能集団を招いた記録があり、豪華絢爛で相当な人気があった。
ぞめき踊り  精霊踊りとして発生したのがぞめき踊りである。その本流が今日まで継承されている。
俄(にわか)踊り
組踊り
組踊りとは、100から120人ほどの大規模な踊りで、華麗な衣裳や持物で観衆の眼をひきつけ、幻想の世界に人びとを誘うことを狙って贅をつくした豪華絢爛、派手な踊りであった。現在の阿波踊りとは違う。
念仏踊り 悪霊を払うために念仏を唱える際に踊る
精霊踊り
(私論.私見)
 阿波踊りは、古代宗教行事での巫女の舞が起源ではないのか。この観点は良い。但し、これを例の如く日ユ同祖論の立場から関連づける論考がある。私はこの説を採らない。私は、日ユ同祖論との関連を排し、日本古神道との絡みで見ようとしている。この差は存外と大きい。「徳島藩祖・蜂須賀家政による築城記念起源説」であれ盆踊り起源説であれ風流踊り起源説であれ、阿波踊りがそれより始まったとするには無理がある。恐らく相当昔からの伝統踊りとして受け止め、阿波古代よりの風習として認める方が良いように思われる。例えば、魏志倭人伝に「喪主哭泣、他人就歌舞飲酒」と記されている。ここに「歌舞」とある。これを阿波踊りのルーツとみにす方がより正確に近いだろう。あるいは天照大御神が神隠しされた際、アメノウズメが桶を逆さに伏せた上に立って、胸をはだけ、女陰までちらつかせながら踊ったと記録されているが、これらの方がよほど阿波踊り発祥の真実に近いだろう、と思う。
 阿波踊りは、平和を謳歌し互の繁栄を願い、どこまでも楽しむといった踊りである。名もない徳島城下の町人百姓たちが、藩による妨害に抵抗しつつ伝統を守り抜き、時に応じて創造性を加えることによって、より楽しく、より明るいものに仕上げていった踊りである。いわば民衆芸能そのものであった。この踊りには伝統があり、思想があり、約束ごともある。但し、他の多くの郷土芸能のような面倒な正調などはない。阿波踊りの精神の継承により、どの連も自由自在の芸態を創造すればよいことになっている。

【阿波踊りの歴史考】
 昔の阿波踊りは、能面を被って踊るのが当たり前だった云々。
 江戸時代、蜂須賀の歴代の藩主は、この「ドンチャンドンチャン踊り」(阿波おどりの呼称は昭和に入ってから)の熱狂が一揆につながることを懸念し何度も踊りの禁止令を出している。しかし、阿波の民にとっては古からの伝統踊りとして身に染みて継承されていたので、阿波っ子たちの心に流れる阿波おどりを完全に絶やすことはできなかった。このことが今日の隆盛をもたらしている。特に戦後の阿波おどりの復興ぶりは目ざましく、今日では日本を代表する民族舞踊の地位を確保している。
 徳島藩による城下の盆踊り対策は、建て前のきびしさに対して本格的に取締ることは諸般の事情によって容易ではなかった。とくに宗教的な発生事情をもつぞめき踊りに対してはたびたび規制されているが、実際には「有来りの踊り」と規定して一貫して踊りを禁止することはなかった。
 城下の盆踊りは、町切りを命じると群衆は「新町橋まで行かんかこいこい」と声を揃えて橋をめざした。これは一種の抗議行動であった。文化・文政のころからきびしく禁じられたのが笹踊りである。笹踊りは盆だけでなく神社の祭礼にも演じられていたもので、歌舞伎風の衣裳で寸劇を演じたり、仮装や裸体の演技を披露することで、広儀には俄踊りの範疇に属するといわれている。風俗の乱れに神経質であった藩としては、盆踊りに混乱を持ち込むことを恐れてきびしく禁止していた。しかし、笹踊りを実際に取締った事例は幕末の史料でしか確認することができない。
 17世紀の中頃、城下の内町や新町の町人たちを氏子とする春日神社の祭礼に、各丁が組踊りをくり出して競演していた。この踊りは中世の細川・三好氏の本拠であった勝瑞城下で盛行していた風流踊りを復活したものである。この組踊りが盆行事に移されると、城下全域に波及し大踊りなどといわれ大いに人気を博した。但し、この踊りは豪華絢爛で見物する人びとを幻想の世界に誘うような芸態を特色としていたことから、財政再建をめざすたびたびの藩政改革などのとききまって禁止されるなどの措置がとられる宿命を負っていた。そのたびしばしば中断されているし、明治維新以降は盆踊りの市中から組踊りの姿が消えた。
 元禄期を中心とする18世紀前半は、わが国の衣料革命の進行を背景として阿波藍の需要が急増し、藍商たちは大坂や江戸をはじめ各地の市場に進出して藍玉の売り込みに奔走した。藩内の農村は藍生産を増大させた。その栽培には大量の金肥を必要としたので、肥料商の活動も活発となるなど徳島城下は藍商や肥料商などの積極的な活躍によって活況を呈した。これら新興商人の台頭により各地の芸能が伝播された。そのうちもっとも注目されるのが俄踊りの流行だった。18世紀以降の城下の盆踊りは、伝統的なぞめき踊りと盆行事に移行した組踊りのほか、手軽に演技できる俄踊りという3種の踊りが併行して互に影響しながら盆踊りを盛り上げていた。但し、この俄踊りも明治後半の日清・日露の戦間期になると、各種の大衆娯楽の普及によって、次第に新鮮な魅力を失って、急速に衰退していった。
 19世紀に入ると城下に藍大市が建てられるようになり、各地から良質の藍玉を需めて顧客が殺到した。その接待の場となったのは色街であり、そこは諸国の芸能を受容され、それに創造を加えて阿波の諸芸として再生産された。ぞめき踊りの変遷や俄踊りの波及にも色街の果たした役割が大きかった。

 そのような芸能風土の形成は、とくに三味線の普及を契機として、城下の商家などでは娘たちに三味線を習わせることが流行するため、三味線の稽古所が続々と出現する。少し弾けるようになると発表の場が欲しくなり、その場が盆中の三味線流しとなった。親たちが競って娘に華麗な衣裳を着せて送り出し、自慢の種にしたという。こんな盆の市中を彩る情緒が定着していたのも、阿波が芸所であることを自然に表現する珍らしい行事の一つであった。 こうしてそのような多彩な盆踊りを演出したのが色街であった。色街の果たした役割や阿波踊りを演出した機能が評価されねばならない。
 一方、文化・文政期に豪商としてならした藍商人たちが全国各地との文化交流の担い手となり、各地のさまざまな要素が阿波おどりに取り入れられた。阿波おどりのリズムは、奄美・八重山の「六調」、沖縄の「カチャーシー」、九州の「ハイヤ節」、広島の「ヤッサ節」などとの共通点が多く、南方に端を発する「黒潮文化のリズム」とされることがある。また「阿波よしこの節」は、茨城県の潮来節が元になっているとされている。こうして、阿波おどりは日本全国の伝統的な踊りとクロスしている。庶民のパワーによって支えられながら徳島の伝統芸能として定着してきた。
 1830(文政13)年の御蔭詣では徳島城下から始まり、阿波衆は伊勢で「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂ったという。この踊りがおもしろいというので大流行し、上方の豊年踊りに転化したとする有力な説がある。「ええじゃないか」は豊年踊りをモデルとしたという説がある。そのような説から考えてみると、阿波では阿波踊りが「ええじゃないか」踊りと混交したのはごく自然なことであった。ただそれまでの阿波踊りは、人形浄瑠璃の太棹が鳴物の主力を占めていたといわれるように若干テンポの緩やかな踊りであったのに対して、テンポの早い「ええじゃないか」の大流行を契機として、阿波踊りもテンポを速め、鳴物の主役も細棹に取り替えられていったとする説がある。実証することはできないが興味深い。
 1841(天保12)年、徳島阿波藩の中老・蜂須賀一角が踊りに加わり、乱心であると座敷牢に幽閉され、厳封、改易されたとする次の記録が残っている。蜂須賀直孝は10代藩主重喜の子で、幼名は次郎吉、中老の士組頭蜂須賀一学直芳の養子となり、天保元年(1796)6月10日に直芳の死により7月19日に家督相続して士組頭を勤めた。
 「御老中千石の蜂須賀一角様、昨年七月盆踊りのみぎり(おり)、かねて近年『御家中は踊りの場所へ出候儀は堅く御停止』のところ、抜けて踊るところを見つけられ、乱心に申し立て座敷牢に入れ候ところ、当7月牢を抜け出し讃州白鳥辺りまで参り候を、古物町商人三人参り合せ、御屋敷へ飛脚差し越し、御迎えに参り連れ帰り申すにつき右三人へ金五匁宛の御礼これあり候趣、右につき又々内牢に入れ置き候云々」。

 蜂須賀一角は乱心扱いで入牢させられたあげくに本人追放、家族は家中預かり、つまり改易に処された気の毒な記録が残されている。
 1844(天保15)年の記録には「組踊り少し、俄は多し、昼夜ともぞめきは例年のごとし、御免許町に野稽古の踊を趣向して、右発願人町役人など皆々御咎を蒙る」と記している。御免許町は西新町5丁目であるが、組踊りに武家社会を風刺する野稽古の踊りを演じたことで、きびしく取締められたというものである。
 1846(弘化3)年、仮装で踊った20人の婦人が捕えられて入牢、その後に市中引廻しという厳罰に処せられたと記録されている。この史料によると坊主姿や半裸の仮装で演じた俄踊りであるが、御免許町の出し物といい、この婦人の俄といい、ともに武家支配を揶揄したり、藩の規制を全面的に無視した踊りであって、当然そこには藩政に対する抵抗の意思が城下の町人層の間に漲っていたという社会状況を象徴している。ここまでくると藩でも黙認することはできなかったのであろう。

 徳島城下における盆踊りは時代とともに隆盛をみたが、いよいよ藩の危機が深刻さを増した天保期から幕末期には、踊りも大規模に展開すると、一部には藩の規制強化に対する反発も強まりをみせるようになる。

 1867(慶応3).12月、「ええじゃないか」の乱舞が阿波の撫養に上陸し、翌4年にかけて阿波一円は「ええじゃないか」で浮き立つことになる。当時の数少い記録によると徳島城下では群衆が「ええじゃないか、ええじゃないか、何でもええじゃないか……」と囃しながら勢見の金刀比羅神社に練行し、そこから讃岐の金刀比羅宮や施行の船に乗り込んで伊勢神宮に向う人も多かったことを伝えている。阿波踊りと「ええじゃないか」では囃す文句も踊る所作も異なるが、通底していたとみなすべきだろう。
 1870(明治3)年、版籍奉還後、阿波の盆踊りが中止させられた。その理由は庚午事変の発生にあった。この事件が徳島藩を大きく揺るがした。その翌年、廃藩置県が断行され、明治政府による相次ぐ改革が実施に移されていった。新しい時代を迎えたことによって、阿波の盆踊りが自由になったかと云うと明治初期の史料でみる限り盆踊りに対する統制はかなりきびしい。明治3年の盆踊り中止を始めとして、近代の盆踊りはたびたび中止の措置がとられている。そのような中止の理由について調べてみると、数度の戦争や大正7年(1918)3月の米騒動などのときである。
 明治〜大正期にも、日本文化全体のモダン化に足並みを揃えるかのように、鳴り物にバイオリンなどの西洋楽器が取り入れられたり、派手な縞模様のぱっち(股引)の衣装が流行るなど、近代化した様子がうかがわれる。大正時代に晩年を徳島で過ごしたポルトガル人・モラエスが母国に送った『徳島の盆踊』では、その熱狂ぶりを描写するとともに、古来から続く「死者を敬う踊り」としての精神性を記述している。
 大正期から「阿波おどり」という言葉が使われることはあったが、阿波おどりの発展に尽くした日本画家・林鼓浪が徳島商工会議所(当時は商業会議所)に提案し、昭和に入って「徳島盆踊り」から「阿波おどり」という呼称が定着していった。これは、観光資源として全国に広めていこうという積極的な動きの一つであったためと考えられる。
 1931(昭和6)年、「お鯉さん」こと多田小餘綾がコロムビアレコードで『阿波よしこの節(阿波盆踊唄)』を録音。その名を全国に知らしめるきっかけとなった。
 1937(昭和12)年、の盧溝橋事件を発端とする中国との戦闘開始以来、第二次大戦にいたるまで戦争によって阿波おどりが中止されることが多くなった。
 1941(昭和16)年、封切られた東宝映画「阿波の踊子」(監督:マキノ正博、主演:長谷川一夫)で、徳島で大々的なロケが行われ阿波おどりのシーンでは芸妓たちがエキストラの踊り手として多数参加した。同作が上映された市内の映画館は観客であふれた。
 1945(昭和20)年、徳島はB29による空襲で市内の約62%が焦土となった。
 1946(昭和21)年、終戦翌年、ぽつぽつとバラックが建ち始めた状況の中で阿波おどりが復活した。踊りもまちまちで洗練されたものではなかったが平和への喜びとともに現在まで続く老舗連が徐々に設立されていった。
 1950年代、この頃の阿波踊りの映像記録が残されており、これを見ると、腕は胸までしか上げず、手もだらりと下げて踊っている。
 1957(昭和32)年、東京・高円寺で阿波おどり大会(当初は『高円寺ばか踊り』の名称)が始まり、阿波おどりが全国で開催される嚆矢となる。
 1970(昭和45)年、大阪で開催された日本万国博覧会で徳島合同連が踊りを披露したり、海外遠征が行われるなど、「徳島の阿波おどり」から「日本の阿波おどり」へと広く認知されていった。こうした動きに伴い「見せる阿波おどり」への志向も強まり、昭和40年代は踊りや音が、より洗練された芸能へと変化していった。
 1980年代、これは女踊りのレジェンドと言われる四宮賀代さんが、腕を高くつき上げ、指も点を指すように伸ばし、脚を高くけりあげる、今の阿波おどりのスタイルを編み出し、これが普及した。この「洗練された美」の阿波踊りを「見せる芸術」の域に高め、日本最大の祭りの一つとして人々を魅了するようになった。
 さらに、従来の「跳ねるリズム(2拍子、浮き拍子)」だけでなくエイトビートを叩く鳴り物の連も登場するなど、多様化への道も進んでいく。
 そして現在、全国各地で阿波おどり大会が開催され、それぞれの地域の連が徳島の連とのつながりを深めたり、徳島から各地に阿波おどりの伝統を伝える動きが活発化している。徳島では本場として正調阿波踊りを受け継ぎながらも、新たな可能性を探り、次の世代へと阿波おどりの魂を引き継いでいく模索が続けられている。守るべきものを守りながらも、時代の変化を取り込んでいく。それこそが阿波おどりの伝統であり、未来へと続いていく力であると言える。

【阿波踊りの流派考】
 阿波踊りは二拍子で、手をあげてお囃子にあわせて踊る。阿波おどりの大きな特徴は振付けがないことで、手をあげて鳴り物(お囃子)に合わせて踊れば阿波おどりになる。比較的自由度の高い踊りだが踊り方は大きく3つに分類できる。これを流派と云い「阿波踊り三大主流」と呼ぶ。それぞれ「のんき調」、「娯茶平調」、「阿呆調」(ごぢゃへいちょう)に分けられる。各連の踊りは三大主流のいずれかにあてはまるとされている。ここで各流派の違いについて確認しておく。「阿波踊り三大主流」は次の通り。四番目として「苔作調」も加えておく。
のんき調  老舗連「のんき連」から生まれた。「のんき調」の男踊りは、背筋を伸ばして、腰を曲げず膝を深く曲げることで腰を落とし、つま先を立てて、大地を刻むような足運びする。キレのある手さばきとリズムの中に個人の個性を織り込んで表現する踊りが特徴。女踊りは、スローテンポを基調とし、優しく女性らしい足運び、そして優雅に舞う上半身と、しなやかにのびる指先で踊る。
娯茶平調  有名連「娯茶平」から生まれた。「娯茶平調」は、ゆったりとした正調のお囃子に合わせたスローダンスな動きが特徴。男踊りは地を這うように腰を低く落とし、体を低く低く下げ、ゆっくり踊る。漁師の投網を表現すると云われる団扇さばきが有名で、すり足で歩みを進めていく。優美な女性による男踊り(女法被と呼ばれる)もある。
阿呆調  有名連「阿呆連」から生まれた。「阿呆調」は、三大主流の中でも特に豪快に激しく踊ることが特徴。男踊りは前傾姿勢でリズミカルに動く。手には提灯を持つことが多く、その見事な手さばき、後ろ足をガンガン蹴り上げ、時に跳ぶところに特徴がある。凧をイメージした奴踊りや、男と女がぶつかる「団子」の流し踊りも有名。
苔作調  徳島の連「苔作」から生まれた「苔作調」がある。鳴り物が大太鼓や締太鼓(しめだいこ)、鉦(かね)などの打楽器のみで編成されていることが特徴で、踊りや衣装はロック調、ストリート系などの独特なテイストで、若者を中心に支持を集めている。

【阿波踊りの「男踊り」と「女踊り」】
 阿波踊りには豪快な「男踊り」と艶やかな「女踊り」の違いがある。
男踊り  浴衣か半天法被(はっぴ)をしりからげに着て、足袋を履いて踊る浴衣踊りが基本。女踊りに比べて自由に大きく踊るダイナミックな動きが特徴となる。但し踊りの所作の振りは大小さまざまである。時には勇猛に時には滑稽に躍る。基本的には素手で踊るが団扇や提灯を持って踊ることもある。腰に瓢箪をつって踊る場合もある。この男踊りを女性の踊り手や少女が踊る場合もある。
女踊り  女物の浴衣を着て編み笠を深く被り、草履ではなく下駄を履いて踊りすり足で前進していくのが特徴。艶っぽく、上品にしなやかに踊るのが良いとされる。一般の浴衣と異なりじゅばん、裾除け、手甲を付け黒繻子の半幅帯をお太鼓のように結ぶ場合が多い。
子ども踊り  連に子どもが所属している場合は、法被を着て元気よく子ども踊りを踊る。

【阿波踊りの楽器「鳴り物」】
 阿波踊りは特有の二拍子リズムで踊る。テンポは、早い連、遅い連と様々である。これらが連の個性を演出する重要な要素となっている。波踊りに用いられる楽器は「鳴り物」と総称される。阿波踊りは、踊り手と鳴り物の二重演舞になっている。 阿鳴り物は、踊り子の引き立て役として阿波おどりに欠かせない存在である。演舞場を通り抜ける際は、踊り子の後方にポジションをとる。基本的には以下の6つの楽器とその演奏者で構成される。
かね  指揮者の役目を果たす重要なポジションで、演舞の踊り始めの時や、テンポアップする際の合図などを行い、演舞をリードする楽器となっている。連の中では、連長など阿波踊り熟練者が担当することが多い。撞木(しゅもく:鉦を鳴らす棒)を用いて「チリンチリン」と鳴らす。よく響く高い音が特徴。
ふえ  主旋律を奏でる。日本の伝統的な横笛で篠竹で作られた「篠笛」が多く用いられる。情緒を感じる旋律を奏で、澄んだ音が特徴の楽器。合同演奏用に基本となるメロディのぞめき囃子があるが、メロディは連によって微妙に異なる。高い音を出すまでの難易度が高く、演奏者が減りつつある。
三味線 しゃみせん  鳴り物の中では最前列で演奏される。笛の調子に合わせて調律される。笛と同じメロディ楽器で、歯切れの良い音を奏でる。
大太鼓 おおだいこ  「ドンドン」と響く大きな豪快な音が特徴で、阿波踊りの躍動感やダイナミックさを演出する役割を担っている。重低音が踊り子や観客を高揚させる。重量は約10kg。締太鼓と大太鼓は基本的に平胴太鼓と呼ばれる和太鼓を用いるのが一般的。連のスタイルにより洋太鼓を使用する場合もある。
締太鼓 しめだいこ  大太鼓と比べて小ぶりな太鼓で、大太鼓よりも軽快な音を奏でる。締め具合で調律できる太鼓であることから、笛や三味線の調子に合わせ、三味線の二弦または三弦(三下がり)の音に合わせて締めるのが基本になっている。大太鼓と揃って演奏されることが多い。
つづみ  お囃子のアクセントとなる音色を奏でる楽器。鼓で「合いの手」を入れることで、演奏を引き締める効果がある。ぞめき囃子の曲に合わせた合いの手、裏打ちと表打ちを使い分ける演奏などから、難易度が高いとされる。

【阿波踊りの有名連】
娯茶平  連員350人を超える徳島県最大規模の連であり、賜天覧4連のうちの一連。娯茶平調である。 東京の飛鳥連と姉妹連である。
のんき連  徳島一の歴史を誇る賜天覧4連のうちの一連で、歴史と伝統のある阿波踊りの家元的存在。結成時より「見る者も踊る者も一つに解け合って楽しむ」というのが信条で、常に阿波おどり界をリードし天皇陛下御巡幸の際の天覧踊りを始めとし出演経験も数多く国内はもとより、世界各国を訪問し徳島の盆踊りというだけでなく、日本を代表する伝統芸能として広く世界に広めてきた。各地で阿波おどりが踊られる現在、正調阿波おどりの歴史と伝統を守りつつ新時代の阿波おどりへの挑戦を続けている。
新のんき連  姓億政明を初代連長とする、のんき調の連である。東京支部として東京新のんき連がある。
阿呆連  阿波踊り三大主流と呼ばれるもののうちの一つ、阿呆調である。東京の江戸っ子連と姉妹連である。
 阿波おどり振興協会、徳島県阿波踊り協会等に加盟する阿波踊り連33連を「有名連」と呼ぶ。これを確認しておく。
連名 結成日 連長 連員数
のんき連 1925年(大正14年)7月 近藤雅人 100名。
娯茶平 1946年(昭和21年)5月1日 岡秀昭 310名
天水連 1946年(昭和21年)6月 山田実 234名。
蜂須賀連 1946年(昭和21年)7月1日 岡本慎治 232名。大正時代に作られた藤本連が前身。
水玉連 1946年(昭和21年)8月 坂良雄 118名。
浮助連 1946年(昭和21年) 中村睦男 86名。
うきよ連 1948年(昭和23年)8月1日 中谷好行 95名。
ゑびす連 1948年(昭和23年)5月1日 鶴瀬幸子 150名。
阿呆連 1948年(昭和23年)結成 森一功 130名。
平和連 1948年(昭和23年) 吉田公欣 106名。
新ばし連 1950年(昭和25年)7月 赤澤敬二 90名。
殿様連 1951年(昭和26年)4月1日 笹田清一 116名。徳島市住吉島の住吉連が前身。
酔狂連 1951年(昭和26年) 江渕豊和 95名。
阿波連 1957年(昭和32年)4月 桑原ひとみ 80名。
うずき連 1957年(昭和32年)4月 高瀬大輔 120名。
阿波鳴連 1959年(昭和34年)9月 新見佳昭 77名。
さゝ連 1960年(昭和35年)4月 武市正 115名。
独楽連 1961年(昭和36年)4月 朝田初雄 88名。
みやび連 1965年(昭和40年)10月1日 中野貞昭 71名。
葵連 1966年(昭和41年)3月25日 大西雅士 95名。
扇連 1967年(昭和42年)10月1日 石川正豊 95名。
まんじ連 1968年(昭和43年)3月 大西義博 65名。
ほんま連 1968年(昭和43年)6月1日 後藤田朋和 145名。
新のんき連 1968年(昭和43年) 池田順子 90名。
菊水連 1971年(昭和46年)4月 丸山副武 114名。
若獅子連 1973年(昭和48年)8月1日 福本一紀 70名。
悠久連 1975年(昭和50年)1月1日 郡誠也 100名。
藝茶楽 1975年(昭和50年)5月1日 福田一夫 107名。
無双連 1976年(昭和51年)5月 岸大輔 96名。
葉月連 1978年(昭和53年)8月 片山裕二 103名。
都連 1987年(昭和62年)6月7日 小寺順子 77名。
阿波扇 1990年(平成2年)9月1日 勇正昭 122名。

【阿波踊りのその他の連】
 阿波踊りを踊る団体・グループのことを「連」という。連には、地域住民などで構成された一般連や阿波踊り振興協会などの団体に加盟する有名連、学生で構成される学生連、企業で結成した企業連など、大小さまざまな連がある。阿波踊りの醍醐味のひとつは、各連の演舞や衣装、演奏を楽しめることだ。
にわか連 希望すれば飛び入りで参加できる。有名連の踊り子によるレッスンとリハーサルのあと、演舞場で実際に踊ることができる。

全国に広がる阿波踊り
 阿波踊りは徳島県内各地で阿呆踊りが披露される。中でも、「徳島市阿波おどり」が本場であり、最大の規模を持ち観光入込客は120万人を超えている(徳島県平成27・28年度発表)。これは国内最大規模にあたる。県内の他の市町村各地でも次のように開催されている。
 現在は全国各地で次のところで阿波踊り祭りが行われている。
 関東地方

 阿波踊りを観る場所はおもに、演舞場と「おどりロード・おどり広場」の2つ。いずれの場所も、開催期間中は多くの観客が集まる。それぞれの特徴を紹介しよう。

・演舞場
 踊り子が踊り歩く道の両端に、ひな壇状の観覧席が設けられている会場。市内には4つの有料演舞場と、2つの無料演舞場がある。いずれの演舞場も18時から。開演し、22時半に終了となる。有料演舞場は特別席と指定席、自由席に分けてチケットが販売されている。演舞場には有名連が多く出場するため、特に見晴らしのいい席が人気だ。
 有料演舞場
演舞場 全長 収容能力
市役所前演舞場 110m 6,000人
藍場浜演舞場 122m 8,000人
紺屋町演舞場 104m 4,500人
南内町演舞場 18m 5,000人
無料演舞場
両国本町演舞場  
F 新町橋演舞場  
G 元町おどり広場  
H 徳島市役所前市民広場 市役所入り口前
I 新町橋東おどり広場  
J 両国橋南おどり広場 公園内の舞台
K 両国橋南詰おどりロード  
L よんでんおどり広場

阿波おどりを楽しもう 阿波おどり会館
徳島県徳島市新町橋2丁目20番地
TEL.088-611-1611 FAX.088-611-1612 

 




(私論.私見)