れんだいこの温泉効能論

 更新日/2018(平成30).5.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは総合的な解説をしておく。

 2009.2.9日 れんだいこ拝


 「湯来・湯の山温泉 ゆき・ゆのやまおんせん」その他を参照する。

 「温泉は、病気に待ったをかける妙手」。温泉はリハビリなどの療法に積極的にとり入れられて効果をあげているが、療法にならない前の病気予防のための休養、保養に利用するのが一番賢い方法である。温泉には薬害もない、温泉地に来たというだけで転地解放感があり軽いストレスなら消える。病気になってから、あわてても遅い。"先手必勝"の一手である。温泉は手術や注射と違って即効的でなく、漢方薬的性質のものだから、やんわりじっくり時間をかけて生活リズムの中にとり入れたら素晴らしい。当人が気付いていない病気予防にかなりの効果がある・・・・・・と。山懐に抱かれた心休まる静かなたたずまい。この自然と清流、それに澄んだ空気が「うまい」と感じる温泉である。神経痛やリウマチ、神経マヒ、自律神経の過敏症に効果がある。打たせ湯が自慢でマッサ-ジにかかるより効果があると療養、保養をかねた、働き盛りの中年の人達で賑わっている。

【各地の温泉定め譚】
 温泉湯治療法即ち「薬湯」は元々出雲王朝系のお手のもので、酒や和方薬処方同様に少彦名の命の登場以前のかなり古くからあったと思われる。少彦名の命の値打ちは、その伝統を正しく継承し、更にこれに磨きをかけたところに認められる。これにより少彦名の命は大国主の命と共に各地に湯治場(とうじば)を設営して行った形跡が認められる。且つ入浴文化とでも云うべき型を創った。温泉そのものは世界にあろうが、「裸の付き合い」を前提とする日本式入浴の型ほど洗練されたものはない。そういう意味で、少彦名の命が大国主の命と共に温泉の祖となっている。

 全国各地に逸話が残されており、これを確認する。少彦名命と大国主の命、あるいはそのどちらかが開いた有名温泉地(それ以前に存在していた古湯も含む)として、出雲(島根県)の玉造温泉、美作(岡山)の奥津温泉、豊後(大分県)の別府温泉、筑紫(長崎県)の雲仙温泉、伊予(愛媛県)の道後温泉、播磨(兵庫県)の有馬温泉、越後(新潟県)の松之山温泉、弥彦温泉、箱根(神奈川県)の元湯温泉、熱海(静岡県)の温泉、上州(群馬県渋川市)の伊香保温泉等が確認できる。他にも多々あり言い伝えが遺されている。こうした温泉地には、これを守護する神社が設営されており、大国主命と少彦名命の二神を柱として祭祀している。興味深いことは、少彦名の命&大国主の命が見出した温泉は今日でも利用者が多く賑わっている名湯中の名湯ばかりであることである。湯量豊富で源泉かけながしの名所となっている。その効能が並はずれて優れものばかりを見出しているところに凄さがあろう。日本各地の名湯探しは大和朝廷下でも続けられ、奈良時代以降は役の行者を祖とする修験者山伏系の僧侶によって引き続き開基されて行くことになった。その元一日の「うったて」を作ったのが少彦名又は大国主の命と云うことで間違いない。


 玉造の湯について、出雲風土記は次のように記している。
 「川の辺に出湯(いでゆ)あり。出湯の在る所海陸を兼ねたり。仍りて男女老いたるも少(わか)きも、あるいは道路に駱駅し、あるいは海中に洲(す)を沚(は)て、日に集いて市を成し、繽紛として燕楽す。一たび濯うときは形容端正、再び浴すれば万の病悉に除く。古より今に至るまで験を得ずということなし。政、俗人(よしひと)神の湯と云えり」。

 嶋根郡の前原(さきはら)の埼の宴遊について、出雲風土記は次のように記している。

 「陂(つつみ)と海との間の浜は東西の長さ一百歩、南北の広さ六歩あり。肆松蓊欝(まつしげ)り浜鹵(なぎさ)の淵澄めり。男女時に随(よ)りて叢会(つど)い、あるいは愉楽(たのし)みて帰り、あるいは眈遊(えら)ぎて帰ることを忘れ、常に燕喜(うたげ)する地なり」。

 出雲風土記の「意宇郡 忌部の神戸の条」は次のように記している。
 「忌部の神戸、郡家の正西*一里二百六十歩なり。国造、神吉詞(かむよごと)望(ほが)いに、朝廷に参向(まいむか)う時、御*(みそぎ)の忌の里なり。故、忌部という。即ち、川の辺に湯出づ。出湯の在るところ、海陸(うみくが)を兼ねたり。よりて、男も女も、老いたるも少(わか)きも、或いは道路(みち)につらなり、或いは海中を洲(はま)に沿いて、日に集いて市を成し、みだれ紛いて宴す。ひとたび濯(すす)げば、形容(かたち)端正(きらきら)しく、再び湯浴みすれば、万の病悉に除(い)ゆ。古(いにしえ)より今に至るまで験(しるし)を得ずということなし。故、俗人(くにひと)、神の湯という」。

 四国の愛媛県の松山にある道後温泉は神代の頃からある日本最古の名湯として知られる。開湯には様々な説があり、伊豫国風土記には、大国主の命が重病の少彦名命(すくなひこなのみこと)を助けようとして掌に乗せて温泉に入れたところ、不思議とよみがえり、温泉の側にあった玉の石を踏んで立ち上がり、「真暫寝哉(ましましいねたるかも)」(暫く昼寝をしたようだ)と叫んで、石の上で舞ったと言われている。この伝承から、大国主命と少彦名命の二神を道後の湯の神として、道後温泉本館側の湯神社に祭祀してある。伊予国風土記逸文に次のように記されている。
 「二神(大汝貴命と少彦名命を云ふ、以下に従う)はかくの如く、各地を跋歩経営し、而して後伊予に来り、國土を開き温泉を修む。伊予風土記に曰く、温郡(ゆのごほり)、大穴持命、見悔耻面、宿奈比古那命、欲活面、大分速水湯、自下桶持度来、以宿奈比古那命而、漬浴者、暫間、有活起居、然詠曰眞暫寝哉、践健跡處、今中石上也」。

 これによると、「少神(少彦名命を云ふ、以下之に准ふ)が病臥して居ませるを大汝(大汝貴命命の略、以下之に従ふ)が之を活かさんとして、大分速水の湯をば、下桶にて渡し来し、少神をあむせしかば、暫時にして蘇生し、元気回復せし。践みたけびし跡、今湯中の石上に在りといへるのは、今道後温泉又新殿の側にある玉の石是れなり」とある。

 次のように解説されている。
 「上記は和銅年間、國司勅令を奉じ録上したるものにして、本項は古来の伝説を記したるものなり。二神は、伊予の東西を通じて経営し、後にこの温泉に及びたること推知すべきのみ。二神は、道前道後方面の経過綸を了り、尋で喜多平野の開拓に従事せられたるものの如し、而してその居る所は一定せず、所々転々したるは見易きの理なり。喜多郡内ノ子町字植松に、少神を祭れる植松神社あり、社下半町の所に平地あり、ここに古墳ありて(二十許前に除かる)その傍らに太夫屋敷と云ふ所あり、少神最初の居館と伝ふ、神去後その霊を祀りて天神と称す。少神は至て小さき御方也、大汝は之を袂に入れて旅行せられき、されど大汝は大兵にして魯鈍、少神は矮小にして怜悧なり、一日少神一巳にて宮が瀬を渉り給ふ時、川に白手拭を被りたる老媼あり、之を見てこそは急流にして危険なりと注意を與ふると同時に、少神は溺死したまえり、その字媼がしろ手拭をかぶり居たるに因み、以来この川に来る者、白手拭を着くるを忌む、もし之を犯せば、必ず災あり云々」。

 日本最古の漢文とされるもののひとつに伝聖徳太子作の道後温泉碑文がある。このなかに「沐浴神井而李疹」(神井に沐浴して疹を李す)とある。当時から温泉につかっていたことが分かる。平安びとがこよなく愛した白楽天の長恨歌には「温泉水滑らかにして凝脂を洗ふ」という有名すぎるくらい有名な句がある。





(私論.私見)