吉備太郎の西大寺会陽考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).2.19日

 (吉備太郎のショートメッセージ)
 ここで、「会陽裸祭り考」をものしておく。

 2016.2.22日 吉備太郎拝


 吉備太郎の西大寺会陽考その1  吉備太郎  投稿日:2016年 2月21日
 会陽(えよう)裸祭りは日本各地にあるらしい。当地の西大寺会陽は高野山真言宗別格本山/西大寺観音院で行われるもので、裸祭りの筆頭に挙げられる伝統を誇っている。「天下の奇祭」、「日本三大奇祭の一つ」としての人気を保持している。その歴史は遠く奈良時代に始まる。「室町時代の1510年、時の住職の忠阿(ちゅうあ)上人が新年祈願の際、牛玉紙を木に巻き付けて信徒の群衆に投与した護符を奪い合ったのがルーツ」とも云う。応仁の乱を経て戦国の乱世に向かう頃で、疫病が続き平癒の願いがあったのかもしれない。1959(昭和34)年、岡山県により重要無形民俗文化財に指定されている。 2016年3月、日本三大奇祭の一つとして国の重要無形民俗文化財への指定が決まった。昔は午前零時を期してであったが、会陽500周年を迎えた2010(平成22)年から午後10時に変更された。

 会陽の語源は「一陽来復」であり、厳しい冬が過ぎ春を迎える吉兆の意味がある。本来、祭りは神仏に感謝し、災いを祓って豊かな生活や安心を祈る宗教儀式である。今日では修正会結願(しゅしょうえけちがん)行事の地域的名称となっている。岡山県以外でも香川県善通寺市の善通寺会陽などがある。岡山県には金山寺会陽(岡山市)、安養寺会陽(美作町)、岩倉寺会陽(西粟倉村)など多くの会陽がある。何といっても全国に名を知られているのが西大寺会陽(岡山市)である。

 この西大寺会陽に、恥ずかしながら小生はこの年になるまで出向いたことがない。阿波踊りには5年連続詣で、最後の年に徳島警察署の変な信号に引っ掛かり、交通違反切符切られて以来憑き物が落ちたように無沙汰する身となったが、県外の出し物に興じる割には地元のそれに詣でていなかった。今年、それはオカシイと非常に気にし始めた。西大寺会陽に行くことがなかった最大の理由は2月第3土曜日と云う極寒の最中の祭りだからである。当地では、「奈良のお水取り」として知られる東大寺の修二会(しゅにえ)の法要行事と同様に、これを境に「備前平野に春を呼ぶ」と云われている季節メロディーの行事となっている。そういう値打ちもんのものではあるが、寒さが苦手の私は敬遠し続けていた。

 ところが、今年は何となく行きたくなった。それも数年前にできた西川原駅を外からは確認しているものの実際に乗車してなかったので、その駅の初乗車も兼ねて電車で行ってみたいと思った。朝から雨模様だったが、天気予報で夕方には止むと知らされていたので気にならなかった。実際、雨は5時頃に止んだ。午後6時半頃の電車に乗った。車内はほとんど高校生、大学生だった。忘れていた青春を思い出し懐かしかった。半数近くの若者が携帯スマホでラインしているのが微笑ましかった。新しい風俗だなと思った。

 高島、東岡山、大多羅の次が目的地の西大寺駅で約15分ほどで着いた。駅を降りると花火が打ちあがっていた。花火そのものは幾分か間延びしており、たいしたものではなかったが、雰囲気の盛り上げに一役買っていた。同時下車した人がそこそこ居り、その人の流れに添っていくうちに西大寺に着いた。道中、裸衆詰所が灯りを灯しており妖気を漂わせていた。商店街のあちこちに居酒屋が開設されていた。寺院入り口近くの両サイドに夜店が並んでいた。この夜店通りの幅が、進む者と来る者が互いに二、三人同士で交わると肩が当るかどうかにしてある。これが何ともいえない味わいがある。

 午後7時頃、境内に入った。既に見物客が多い。報道人も多い。地元消防団、警察官も相当数出張っている。まず本殿に拝をしてからあちこちを見て回った。例年午後3時半頃、「少年はだか祭り」が行われ、地元の小学生男児が宝筒の争奪戦を繰り広げる。未来の頼もしの若衆予備軍である。女性の水垢離も行われ、毎年50名近くがさらしに白襦袢を身につけ、男と同じように垢離取場、本堂、牛玉所殿を巡って祈願する。新しい岡山名物踊りとして評価を増しつつある「うらじゃ」による盛り上げも行われている。それらの余韻が残っている中を散策した。朝からの雨のせいで地面が少しぬかるんでいる。

 暫くすると、「ピッピッ」の笛の音が聞こえて来た。小生ごとながら、この笛の音に弱いんだ。それはともかく、裸衆第一陣とも云うべき数百人の隊列が「ワッショイ」の掛け声と共にやって来た。「ワッショイ」の掛け声には家族の健康や豊作への願いが込められていると云う。「その根底にあるのは生命を大切にする気持ちです」とある。裸衆は家族や親族の思いもまわしに託して会陽に臨む。

 裸衆第一陣は4人縦列しており先頭が学芸館高校の横断幕を掲げている。それも一直線に本堂に向かうのではない。仁王門方向に向かって突き抜け、暫くすると戻って来て、本堂前に整列し直し、気合いが満ちた頃を見計って本堂の大床(おおゆか)に雪崩れ込む。圧巻である。争奪戦の模擬演習をしているのだろう、両腕を上げ喚声を挙げ本押しする。本堂2階から柄杓水(ひしゃくみず)が掛けられるたびに蒸気になる。この往来を二度、三度繰り返す。

 午後8時頃、褌(ふんどし)まわし姿に白足袋の男たちが西大寺境内に続々集まり、寺の前を流れている吉井川の水を引いた垢離取場(こりとりば)で水垢離(みずごり)をして身を清める。その後、本堂、千手観音、牛玉所殿(ごおうしょでん)のある牛玉所大権現(だいごんげん)の順にお参りする。本堂裏手を抜けて四本柱に至る。四本柱をくぐり抜けたあと本堂建物の前半分の大床で本押し模擬をする。裸衆は垢離取場、本堂、牛玉所殿を3度巡る。本堂の大床で「地練り」(じねり)といって「ワッショイワッショイ」と掛け声をかけながら互いを押し合う。それを見て、清水方(せいすいかた)が頃合いに御福窓の脇窓から柄杓で水をまく。

 いよいよ大人の連隊がやって来た。先頭に横断幕を掲げ、どこの連か分かるようにしている。思い出すままに記すとNTT、岡山トヨペット、武蔵倶楽部、旭電業、岡山土地倉庫、三井住友等々だったと思う。これらは連の名ではなくスポンサー名かも知れない。各連隊が五月雨式に境内を練り回る。これも「地練り」と云うのだと思う。その後、高校生の演技同様に本堂前に整列し、気合いが満ちた頃を見計って本堂に雪崩れ込む。「ワッショイ」、「ドスコイ」、「ワッショイ、ドスコイ」、「ワッショイ、ワッショイ、ドスコイ」の様々な掛け声が連によってあるようである。

 本堂の大床に向かう道中、両翼に人垣ができており、若い娘が、通り過ぎる裸若衆と握手したり肩を叩いてエールを贈っている。これが何と云うのか妙に自然体でやり取りしている。ここに陣取る若い娘たちはこれをやる為に毎年来ているのだろうと思うほど嬉しげ楽しげである。雰囲気が盛り上がる。

 最近は外人部隊の連もあるようで総勢50名ぐらいになっていたのだろうか。これまた楽しそうに参加している。殆どが白人なのだが黒人が一人居た。カメラマンに人気があるようで、外人部隊の連に付きっ切りでフラッシュを焚き続けていた。予感として、外人部隊の連は今後相当に増えて行くのではなかろうか。まさに阿波踊りの心境で「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン」の精神が受け継がれて行くのではなかろうか。

 ちなみに、この黒人は、テレビ東京系で放送中の人気バラエティー番組「YOUは何しに日本へ?」のナレーションを担当しているタレントのボビー・オロゴンさん(42歳)だった。同番組収録のため西大寺会陽に初挑戦し会場の熱気を体当たりでリポートしたことになる。ボビーさんは「宝木(しんぎ)獲得に燃える男たちの姿に感動した。祭りの神聖な空気感を多くの人に伝えたい」と話したとのことである。

 この雰囲気を更に盛り上げる為、俄かに太鼓隊が登場する。紺地服の男衆5名、紅地服の女衆5名が躍り出て来て、太鼓リズムを奏で始める。女衆ドラマーが裸衆に接近してマンツーマンで太鼓を叩くと、踊り始める若衆も出る。頃合を見て大太鼓が入る。大太鼓のバチ音と小太鼓のバチ音が絡んで最高潮になる。この太鼓のリズムの流れる間、「地練り」が続いている。

 小生には何やら縄文時代の祭りの光景、例えばアイヌの「イヨマンテの夜」に繋がる情景が垣間見えた。会陽は縄文時代との今に続くDNAの連綿を証しているのではなかろうか。ちなみに太鼓につき次のように解説されている。「祭りの開始を告げる会陽太鼓の打ち手は全て女性である。心の炎を燃やして男たちを鼓舞する炎祷と龍神の2曲を交互に演奏。これから始まる男たちの裸祭りに祈りを捧げる」。

 同時に気づかされた。これはどこかで見聞きした風景に似ている。ズバリ云おう。そうだ、これは全共闘系学生運動のデモの光景である。ヘルメット覆面がフンドシに代わっただけに過ぎない。裸衆の一連隊はセクトのそれになぞらえられる。学生運動をそういう風に捉えたことはなかったが、案外これが深層の真相だったのかも知れない。ピッピッの笛、それに合わせて「ワッショイ」、「ドスコイ」の掛け声で前進し、最後に本堂へ駆け上る姿は、むしろソックリではなかろうか。してみれば、あのデモは当人たちが気づかなかっただけで、会陽裸祭りの乗りと同じで実は縄文人のエネルギーを発散していたのではなかろうか。

 くどいけども書き足しておく。学生運動が逼塞して久しい。もはや壊滅されきっており往年の活力の復元は望むべくもない。今となってはそれを回顧することしかできない。その際の頂点のシーンとして東大安田砦攻防戦が挙げられる。しかしそれは滅びの美学のそれでしかない。本当に追憶すべきは全共闘集会のシーンの方ではなかろうか。こちらは上げ潮期のそれである。

 1968年11.22日の日大・東大闘争勝利全国総決起集会の光景が次のように描写されている。「午後2時頃から安田講堂前に集結し、銀杏並木と正門前が約2万名の学生でうずめられた。安田講堂前の広場は赤、白、青、緑、黒、銀色のヘルメットで埋めつくされ、その周囲に報道、一般学生が隙間なく立ち並んでいた。講堂正門には各派と各大学の旗が立ち並び、それを背景に各派のマイクアジテーションが続いた」。この全共闘が1969年9.5日、学生約3万4000名が結集した全国全共闘会議結成へと続く。さぞかし圧巻だったであろう。

 もとへ。裸衆の各連隊は何度となく境内を「地練り」し、仁王門と4本柱ゲートを少なくとも3回以上出入りを繰り返す。そうこうしているうちに定刻が近づく。辺りは静けさを装い始める。10時1分前、堂内の明かりが消される。いよいよ宝木が投下される寸前、裸衆の興奮は最高潮に達し、地響きのようなドゥオーの雄たけびが響きわたる。「裸たちのどよめきの声は、古の江戸時代、遠く四国の香川県まで届いた」と伝えられている。午後10時。真っ暗闇に消灯された堂内に雷鳴のようなフラッシュが点滅点灯する。僧侶たちが高さ約4mの本堂の御福窓(ごふくまど)から、まず小ぶりな枝宝木(えだしんぎ)を100組投げる。これは宝木の功徳のお裾分けの意味あいがある。

 最後に院主が、手にすると福を授かると云われる木の棒を束ねた守護札の宝木を2本投下する。同時に明かりがつき千人余の裸衆が奪い合う。裸衆は万歳のように両手を上げるのが鉄則で、手を下げていたら周囲の圧力で下に押されて踏みつぶされてしまう。大量の水が撒かれるが一瞬で湯気に変えてしまうほどの熱気に包まれる。

 本物の宝木は修正会の2週間、高価なお香が焚きしめられているので非常に良い香りがする。但し、裸衆たちにはどれが枝宝木でどれが本物の宝木なのか分からない。運よく宝木を手にすることができたら、まわしの中に入れて走り逃げる。仁王門を出るまでは奪ってもいいというルールになっており、その阻止線を必死で搔い潜ることになる。宝木を手にすることができるかどうかは運次第で容易なことではない。「宝木は奪うものではなく授かるもの。信仰心を持ち精進していれば福は自然とやってくるのだ」と云われている。

 宝木取り争奪肉弾戦は例年凡そ25分近く続く。あちこちに渦ができる。その渦が次第に仁王門へと向かって行く。渦の下では熾烈な宝木取りが行われている。柵の外に待機している消防士が渦に水をかけるが直ぐに蒸気となる。「宝木が抜けたもよう」というアナウンスがあるまでもみ合いが続く。2本目の宝木が何時抜けたのか分からず、アナウンスが1回だけで終わったりアナウンスがないときもある。宝木がもはや境内にないことが分かると、揉み合っていた群衆が次第にテンションを下げ始め裸祭りが終了する。「俄然筆舌に尽くし難い争奪戦が展開され、境内を西に東に裸の渦となってもみ合う様は勇壮無比である。その御福(ごふく)にあやかろうと3万人の参拝者が境内を埋め尽くす」と記されている。

 参加者の中には正月から精進潔斎し、宝木投下に臨む熱心な者が大勢いる。阿波踊り同様にこれがやりたくて一年を生きている者が居る。わざわざ遠方より帰ってくる者も居る。県外の者も居る。県外の裸祭りに出向く者も居る。そういう連中がチームを作り、宝木獲得の練習に精を出し、作戦を綿密に立てグループ参加している。主なグループは「林」(林昭二郎代表、約40人。1980年結成)、「寺坂」、「梶原」、「阪田」、「庄司」、「樽井」(樽井義人代表、約30人)、「高原」、「栢原」、「池内」らで100近くあると云う。

 クライマックスの宝木の争奪戦を最終的に制し宝木を手にした者を取り主(拾い主)と云う。境内を抜けた取り主は速やかに寺の近くの岡山商工会議所西大寺支所内に設けられた宝木仮受所に持って行く。宝木は白米を盛った一升枡(ます)に突き立てられる。直ちに寺に連絡され、検分役の僧侶が宝木削り(宝木の原木から宝木を削る行事)のときに切り放した元木と一升桝の宝木の木理(もくり、木目のこと)が合致するかどうかを判定する。

 鑑定により本物と認められれば取り主は晴れて福男に認定され、宝木の協賛者にあたる祝主(いわいぬし)が用意した祝い込みの場所まで持って行く。近年、祝い主は会陽奉賛会により事前に決められている。寺から赴いた山主が朱塗りの丸形の厨子に納め、祈願して祝主に渡す。かくして宝木は祝主のものとなる。祝主は「御福頂戴」(ごふくちょうだい)と書かれた45cm×120cmの白い額行燈(がくあんどん、横長の額の形に似た行灯)を掲げて披露する。福男には表彰状が授与される。福男にはその年の幸福が霊的に約束されている。宝木は1年で御利益がなくなる訳ではないが、祝主は毎年会陽の始まる前に宝木を寺に持ち込んで祈祷を受け、新たな気持ちで年を迎えると云う。

 以上が私の西大寺会陽見聞録である。充分堪能させてもらって帰路についた。来て見て、宝木取りの瞬間だけが素晴らしいのではない、そこに向かうクライマックスまでの舞台がすばらしいことが分かった。さすがに伝統の産のものだけはある。自分まで福をもらった気持がする。来年も来たいと思った。飲んで帰ろうかと思ったが、一人では何分寂しく過半の流れに従い駅に向かって歩き始めた。

 その道中で、裸衆の道路渡りに出くわした。裸衆が仁王門から潮を引くように引き揚げている。道路は車両止めの歩行者天国になっており次から次へと道路を渡っている。それを両翼で人垣が囲み、特に女性軍がエールを送っている。夫か彼か友達かなのだろう親しく語り合っている者も居る。裸衆は誰も戦いの後の余韻に浸って頬が紅潮し肌が美しく光っている。男の裸がかくも美しいことを問わず語りで晒している。すばらしい男気の香りを発散させている。これに出会いたくて老若男女が会陽に寄るのだろう。

 裸衆たちは近くの簡易テントやそれぞれのグループ控え所に戻って、着替えを済ませて帰っていく。午前零時15分頃になると境内の裸の数は徐々に減り、やがて静寂な観音院の姿に戻っていくと云う。私は臨時列車に乗り岡山駅前まで戻り行きつけの日本酒バーに行って、今見てきたことを語り合った。幸せな一日だった。


 吉備太郎の西大寺会陽考その2、吉備太郎  投稿日:2017年 2月23日
 吉備太郎が去年の感動のままに今年も西大寺会陽に行って参りました。去年のブログを補足しておきます。

 7時過ぎに西大寺観音院に着いた。既に終わっていたのか花火の音は聞こえなかった。仁王門に入ると、何と凡そ百名の林グループが揃い踏みして気合の入った行進をしていた。ほぉーこれが林グループかといきなり感動した。

 今年はやや落ち着いて眺めることができた。女太鼓が素晴らしかった。しばらく見取れた。男太鼓の方もドシンドンドンと打ち続けてムードを盛り上げており、その入魂のバチさばきが圧巻だった。笛の音に耳を傾けると、やはりあの時のそれに似ており思わず情景がよみがえった。

 桟敷席の後ろの立見席券を買って入場した。なるほど正面から見えたが、1時間余つま先立ちしたことでふくらはぎがケイレンし、肝腎のときにうずくまってしまった。それはともかく、本堂大床(おおゆか)に裸衆が詰め合う光景はまさに「立錐の余地なし」だった。裸衆が両手を揺れ動かしていた。あれは何の意味か分からなかった。時にドドドッと雪崩落ちていた。ケガしないまま又入り込んでいた。それらを堪能させてもらった。

 私がなぜ今年も会陽に来たのか。その原理が分かった。会陽はお陰(かげ)渡しであり、最もお陰を受けるのが福男と祝主。福男は生涯の誉、家門の誉れとなる。次にお陰を受けるのが出場した裸衆。次に裏方。その次に観客だろう。そういうお裾分け構造になって銘々が相応しい立場で福を授かっているのではなかうか。寒いからと云う理由で来ない者には分からない、来てる者には病みつきになるご利益であろう。帰ってから溜り場で見てきたことを話したら、来年は行こうと云っていた。私のような信者を一人ゲットしたかもしれない。

 室町時代の「金陵山古本縁起」に寺の起りが描かれている。それによると、観音院の始まりは、奈良時代の751(天平勝宝3)年、観音菩薩の厚い信仰者だった周防(すおう)国玖珂庄(現在の山口県玖珂郡周東町)の媛(姫)、藤原(秦)の皆足媛(みなたるひめ)の旅立ちによる。或るとき、姫が、千手観音像を当時の都の長谷寺にお運びして彩色をほどこし 開眼供養をしなければと思い立ち、観音像を船に乗せて長門を出港して瀬戸内海の航路の途次、備前の金岡(現在の観音院の地)港に到着した。再び出港しようとすると船が膠着して動かない。「これはきっと、観音様がこの地から離れたくない」と云うお告げと悟り、金岡の郷の松中島に庵をむすんで観音像を安置したのが始まりとされる。それから媛は大和へ赴き、長谷寺に参詣して、帰路この草堂に立ち寄って、仏具を備え、香華を供してから、郷里の周防に戻った。

 その後26年を経て777(宝亀8)年、紀伊の人で大和の長谷寺で修行三昧されていた安隆上人(あんりゅうしょうにん)という御方の夢枕に、長谷の観音様が立たれて、 「備前金岡庄の松中島に草堂があるので、それを修築するように」とお告げがあった。安隆上人は周防に赴き、皆足媛を訪ねて資材を募り、帰路についたが、その途中の児島の沖で、突如として龍神が海上に出現して、上人に犀角を授け、「この犀角を埋めてその上に搭堂を建て、観音像を安置すれば法灯末永く輝くであろう」と云われた。上人は備前に帰り、龍神の云われた地に犀角を埋め、千手観音像も移し、お寺を建立した。これにより、西大寺は当初は犀角を戴く「犀戴寺」と称されていた。後に後鳥羽上皇の宸筆により西大寺と改称されたと云われている。

 「備陽國誌」 によると、西大寺は備前四十八箇寺のひとつにして、報恩大師の開基に係るとある。報恩大師は、備前津高郡の出身で、その事蹟は各所に散見でき、大師の墓は、御津郡金山寺と邑久郡弘法寺にある。一方、安隆上人の事蹟は、西大寺古縁起の外、見当たらず、上人が西大寺を建立した宝亀九年と、大師が寺を創立した時代はほとんど同一年代のため、沼田博士は二人は同一人物であるかもしれないと論じている。

 その後、西大寺の寺地が備前第一の大河である吉井川の河口に位置して高瀬舟の水運拠点として交通の要地でもあったので、門前町が発達して座商人が各地から集まり、西大寺は備前南部における信仰、交易、商業の中心地として栄えた。しかし、戦国期に伽藍は2回炎上している。境内にはいずれも近世の建物であるが古建築が並んでいる。石門、本堂、三重塔、庫裏(くり)、方丈、仁王門、牛玉殿(ごおうでん)、大師堂、経蔵などの諸堂は拝観必見となっている。
 西大寺観音院の正式名称は「金陵山西大寺」。会陽の起源は、奈良東大寺の良弁(ろうべん)僧正の高弟・実忠(じっちゅう)上人が創始された修正会(しゅしょうえ)即ち新年の大法会(だいほうえ)を持ち込んだことから始まると云う。当時は毎年旧正月から14日間行われていた。修正会とは正月に修する法会の意で、十数人の僧侶が斉戒沐浴して、祭壇に牛玉(ごおう)を供え、観世音菩薩の秘法を修し祈祷を行う。牛玉というのは、杉原や日笠という丈夫な紙に右から左へ牛玉、西大寺、宝印と順に並べて刷ったもので、祈祷を経て満願になると当年の五福(寿、富、康寧、好徳、終年)が授かり、その牛玉を信徒の年長者や講頭に授けた。牛玉をいただいた農家は作物がよく取れ、厄年の人は厄を免れる。これが「ぼっけぇ利益があるんじゃそうな」と評判となり年々希望者が増えて行った。

 1510(永正7)年、室町時代の時の住職の忠阿上人が牛玉の紙を宝木(しんぎ)に代え、これを群がる信徒の中に投げ、得た者が五福をいただくようにした。このときより会陽(えよう)と名づけられた。この頃は「真木」と書いて「しんぎ」と呼んでいたが後に「宝木」と書くようになって今日に至っている。水運で発展した江戸期には、遠く四国、九州からも会陽に訪れ大いに賑わった。会陽初期の様子を伝える江戸前期の金陵山古本縁起(観音院蔵、岡山県重要文化財指定)では裸と着衣の男が入り交じっている。江戸後期の会陽図では裸衆による争奪戦になっている。この頃より裸衆スタイルとなったのだろう。昭和30年頃まで、一帯は朝から混雑した。境内だけでなく商店街も押すな押すなの賑わいだったと伝えられている。

 御利益は次の通り。安産(会陽で使ったまわしを妊婦が腹帯に巻くと、安産のお陰をもらい、丈夫な赤ちゃんが生まれる)、疫病平癒(裸祭りに参加した男は風邪を引かない)、除厄招福(垢離取場で身を浄め、祭りに参加した男は厄を除き福を招く)、豊作(裸祭りの翌日、本堂の大床の上に上がった土を田畑にまくと豊作になる)、五穀豊穣、万民豊楽、世界平穏(天下泰平、国家安穏)。

 西大寺会陽の行事は現在では2月の第3土曜日と定め、それに合わせて諸行事を行う。最初の行事は凡そ19日前の事始め式に始まる。会陽の安全を祈る法会があり、別室では宝木削りに使用する道具が磨かれる。3日後、宝木の原木を受け取りに行く「宝木取り儀式」が深夜から未明にかけて行われる。高野山真言宗別格本山金陵山/西大寺(岡山市東区西大寺中)の世話役を担う使者9名が、観音院本堂で読経後の深夜0時、伝統に従って法被を着て草鞋に手甲脚絆、菅傘をかぶり、手に提灯を持ち観音院の西方4キロ離れた如法寺無量寿院(同広谷)に向けて出発する。

 道中無言で約35分ほどで到着し、持参した「挟箱」(はさみばこ)に大石賢映副住職(35歳)から原木2本を納めてもらって引き返す。観音院では同日午前9時半から、原木の「宝木削り」が世襲の棟梁によって厳かに執り行われ、2本の宝木(長さ約20cm、直径約4cm)に仕立てる。会陽の二週間前、「修正会」(しゅしょうえ)が本尊千手観世音の宝前で開白され、結願(けちがん)となる刻まで山主(やまぬし、住職)以下十余名の職衆(僧侶)により国家安穏、五穀豊穣、万民豊楽を祈念厳修する。本番が間近に迫るにつれ、お経を唱えながら身を清める水垢離行をする裸衆が増え始める。

 2017.2.18日、508回目となる西大寺会陽が同観音院で開催された。今年は初めてインターネット動画で中継される。カメラを本堂の天井と境内南側の石門の上の2カ所に設置し、配信は18日午後3時ごろから始め「子ども会陽」なども映す。午後10時のクライマックスの宝木投下、翌午前0時頃の本堂裏手の牛玉所殿(ごおうしょでん)で福男が宝木を納める「祝い込み」の様子まで配信する。

 結願の会陽当日は、西大寺の旧町内を南北二つに分けて会陽を知らせる触れ太鼓がある。午後3時20分、小学生による「少年はだか祭り」で幕を開ける。今回で46回目。小学生約280名が参加する。1、2年生は宝餅、3,4年生は五福筒、5、6年生は宝筒を奪い合う。その後、学芸館高校生、ダンス部などによる演舞奉納、地元の女性和太鼓グループの演奏で祭りムードを盛り上げる。うらじゃ踊り連「蓮雫」(れんげ、2010年結成)が「奉納演舞」に登場し踊りを披露する。午後7時頃、近くの吉井川河川敷から花火約3千発が打ち上げられる。8時頃より裸衆が境内を練り歩く「地練り」が本格化する。宝木を真剣に狙っている裸衆は定刻1時間前くらいから本堂で場所取りしている。午後10時、修正会が結願し、本堂の御福窓から宝木が投げ込まれ祭りがクライマックスを迎える。

  会陽を報じた地元紙・山陽新聞の1面写真の見出しは「裸衆1万人の渦 西大寺会陽」。祝主は、フジワラテクノアート、トヨタカローラ岡山。宝木を獲得したのは高原グループの浮田昌宏(41)、浮田明成(41)、光本友彦(41)の幼馴染組。高原グループは初めての獲得。もう1本は林グループの木村慎太郎(37)、小倉晴生(37)、重松龍太(19)。林グループは昨年に続く12回目の獲得。
 会陽初期の様子を伝える江戸前期の金陵山古本縁起(観音院蔵、岡山県重要文化財指定)では裸と着衣の男が入り交じっている。1735(享保20)年に建てられた教典を納める経蔵が描かれている一方1819(文政2)年建立の石門がないところから、この間に制作されたと見られる江戸後期の会陽図(縦55cm、横135cmの軸装)では裸衆による争奪戦になっている(同絵図は、2016年9月、鶯梅院(岡山市東区西大寺、西隆寺)で庫裏の片付け中に見つかり、同10月、西大寺観音院に寄贈された。作者名は記されていない)。西大寺会陽図として狩野永朝が描いた絵馬(1877年作、観音院蔵、岡山市重要文化財)も知られている。
 西大寺観音院の坪井綾広(りょうこう)副住職が、境内各所の防犯カメラの設置・運用で付き合いがある中区の防犯設備会社「セキュリティハウス」の小野真人社長に相談、境内の外でもスマートフォンで祭りの模様が楽しめるよう同社が提供するハンディーカメラで撮影しネット配信することにした。動画は観音院ホームページ(http://www.saidaiji.jp/)から閲覧できる。後日、編集したダイジェスト版のアップも計画している。

 吉備太郎の西大寺会陽考その3、吉備太郎  投稿日:2018年2月17日
 2018(平成30).1.29日、2016年に国指定重要無形民俗文化財に指定され、日本三大奇祭の一つに数えられる西大寺会陽(えよう)の509回目の幕が開いた。2.17日、西大寺観音院で今年の「会陽事始め」が執り行われた。白装束の棟梁・次田尚生(79歳)、同典生(48歳)の父子が客殿二階の広間で、のこぎり、かんななど道具11点を砥石で丹念に研ぐなど手入れした。その後、本堂で会陽の無事を祈る法会が営まれた。今年の祝い主は徳山電気製作所、ネッツトヨタ岡山で、その代表者、西大寺会陽奉賀会の関係者ら約50名が出席。坪井綾広住職らが読経した。

 1.31日深夜から2月1日未明、檀家にして寺の総代の約十名の一行が法被を着て草鞋に手甲脚絆、菅傘をかぶり、手には提灯を持ち観音院を出発、約8キロ40分ほどかけて芥子子山中腹にある如法寺無量寿院(岡山市東区広谷)に向かう。今年の役は佐伯徹(56歳)が行棒頭を務め、裃(かみしも)姿の正使・岡田康志(49歳)ら使者9名が随行し、大石賢映住職(34歳)から宝木(しんぎ)の原木を受け取った。これを「(原木)宝木取り」と云う。

 使者は同じ道を引き返して観音院へ無事届ける。2.1日朝、観音院で「宝木削り」が行われる。2.4日より五穀豊穣、天下泰平を祈願する「修正会」(しゅしょうえ)が始まる。山主(住職)以下10余人の僧侶により、国家安穏、万民豊楽が14日間毎日祈り続けられる。この間、宝木に香が焚き込まれる。これに合わせて境内の垢離取り場で水垢離行が行われる。前日の2.16日、前夜祭となる「会陽宵祭り」が2016年より開かれている。福女を決める「五福餅巻き」が行われ、福を掴もうとする女性たちの熱気が溢れる。午後7時過ぎ、本堂から約2千個の餅が投げられる。 

 2.17日、2月第3土曜日、結願当日、宝木が投下される10時に合わせて行事が組み込まれており各地から数万の参拝者が訪れる。午後3時20分、少年裸祭り。小学1.2年生は餅投げ。小学3.4年生は五福筒争奪戦。小学5.6年生は宝筒争奪戦。その後、白装束の女たちが水垢離(みずごり)をする「女会陽」が行われる。午後5時40分、会陽甚句のうらじゃ演舞。午後6時30分、会陽和太鼓。午後7時、吉井川河川敷で約3000発の冬花火の打ち上げが始まる。

 午後7時半、会陽和太鼓。8時頃、ふんどし一丁姿の裸衆からなる「連」が仁王門から入り、石門をくぐり、垢離(こり)取り場で身を清め、旧年の厄を落とした後、次々に「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声とともに境内へ入場し始める。一旦本堂大床(おおゆか)に詣でて千手観音を拝し、牛玉所殿(ごおうしょでん)に詣でて牛玉所大権現(ごおうしょだいごんげん)の裸の守護神を拝し、本堂裏手を抜けて会陽に向けて拵えられた四本柱(しほんばしら)をくぐり、隊列を整えた後に再び本堂大床に駆け入り本押しする。本堂では御福窓の脇窓からは清水方(せいすいかた)が柄杓で水をまき裸衆の熱気を冷ますも忽ちのうちに水蒸気と化す。「連」が境内で地練りをしながら度々の出入りを繰り返す。各「連」がこれを交互に行うことでムードを盛り上げる。

 午後9時、西大寺の旧町内を南北二つに分けて「触れ太鼓」が時刻を知らせる。この頃より裸衆が本堂大床へ入り陣取りし始める。9時30分、これより10分刻みのアナウンスが入る。10時に近づくにつれ押し合いが熾烈になる。宝木投下の時刻に合わせて修正会結願の行法が終わり、山主(やまぬし、住職)及び職衆(お坊さん)が御福窓と脇窓に立つ。午後10時丁度、結願となり照明が一斉に消される。高さ約4mの本堂二階の「御福窓」(ごふくまど)から大床上にひしめく数千人の裸男衆へ向けて、香を焚きしめられた直径約4センチ、長さ約20センチの円柱形の2本1対の宝木がそれぞれ牛玉紙に包んで投下される。瞬間、周囲が殺気立ち、男たちは「うおー」と叫びながらの激しい宝木争奪戦が繰り広げられる。裸衆の巨大なうねりと渦が形成され、激しさと厳かさが溶け合った絵巻物語が続く。

 今年の宝木取り名人は、林グループ(29人)の横山睦致(53歳、岡山市兼基)、小林壮吉(66歳、兵庫県宝塚市)、高田和明(43歳、千葉県市川市)。林グループは3年連続13回目。栢原グループ(23人)の栢原直行(47歳、倉敷市真備町)、栢原忠幸(43歳、総社市三輪)、三宅凌雅(17歳、玉島高3年)。9度目の挑戦で初めて福を掴んだ。

 2.18日、一夜明けて「会陽あと祭り」。3.4日まで続く。2.25日、子供たちが華やかな衣装を着て境内を練り歩く「稚児入練(いりねり)供養」。最終日、無病息災や商売繁盛を願う「柴燈(さいとう)護摩」が行われる。

 参加申し込みは西大寺会陽奉賛会(086-942-0101)。西大寺会陽に合わせて人物画の鬼才と言われる中国人画家・はん曽(はんそう)氏の作品を収蔵するはん曽美術館(両備.西大寺バスセンター2階)が2.16-18日まで特別開館する。海外からの参加者や観覧者が増えている。毎年、数百の企業、団体、ボランティアが物心両面の支援を続けている。
 私の西大寺会陽詣では今年で3年連続。行く道中で考えた。来年も行けたら良いがと願っている、と云うよりぜひにも続けたい。なぜなら、西大寺会陽に感応し続けているからである。この感動の感覚は5年連続で通った阿波踊り以来のものである。西大寺会陽が「日本三大奇祭の一つ」と云うのはへりくだった物言いで、実は「日本随一奇祭」の地位を占めているのではなかろうか。こたびはここのところをはっきりさせておきたいと思う。

 西大寺会陽は始まりが室町時代の永正年間(16世紀)であると云う。とすれば裕に500年を超えて今に伝わっており、裸衆祭りとして最も古い歴史を持つことになる。それだけではない。裸祭り舞台の盛り上げ方がすばらしい。「香の匂い立つ宝木を天井から投下させ、その争奪戦」と云う仕掛けが、他のどの裸祭りよりも格段に秀逸な祭り舞台を演出している。それ故にであろうか、この祭りが地元民の自発的な熱狂に支えられて今日に至っている。ご当地の寒さの極限の日を選んで春触れさせる暦祭りとなっていることも興味深い。

 西大寺会陽の奇祭ぶりは世界に押し出ししても何ら遜色がない。「夏場の阿波踊り、冬場の西大寺会陽」として、日本が世界に向けて誇る祭りなのではなかろうか。そういう祭りとして世界に押し出して行くべき祭り足り得ているのではなかろうか。リオのカーニバル並みの観覧客を招くことが将来的に予想される出色の祭りなのではなかろうか。地元の岡山県人が知らないだけで、西大寺会陽は白桃、マスカットに続く世界に誇る岡山名物なのではなかろうか。その値打ちをこう確信するから来年も、否生命の限りに、足腰が続く限りに来たいと思う訳である。

 今年は、列車に乗る時間が一便遅れ、7時過ぎに西大寺駅に着いた。西大寺へ入ってお参りを済ませた後、和太鼓を堪能したかったのだが、花火の打ち上げ場所の河川敷へ足を向けたことにより結果的に逸失してしまった。ユーチューブで見ておこうと思う。その途中で花火が終わってしまい、そのまま夜店の通路を往来した。夜店は西大寺に隣接する向州公園付近に相当多く出店している。食べ物関連ばかりのようだが楽しめる。若い男女の行き交う中を分け入ったことで若い人の生命息吹をいただいた気がする。お腹がすいたのでお好み焼きを買った。美味しかった。

 さて、それではと裸衆を見に行った。初回のときは自然に境内仕切りの内側へ入れたのだが、今年は囲いの外側を往来することになった。去年は、宝木取りの様子を桟敷席後ろの立見席で見たのだが、ふくらはぎ痙攣してしまい、あれに懲りたので今年は小高くなっている500円立見席場に入って見た。10時までの間が長かったが、これは待つ身だからで裸衆たちにとっては愉悦のひと時なのかもしれない。毎度のことなのだろうが、本堂内部で掛け声とエールの波が続いている。あの臨場感は大床に入った者のみに授かる興奮とお陰なのだろう。

 いよいよ10時、宝木投下。それが何やらあっけなく終わった気がする。宝木が通過した模様とのアナウンスがあるまで取り合いしていたのはグループのダマシだったことが分かり可笑しかった。帰り道、いつものように歩行者天国の人垣アーチの中を裸衆が通り過ぎるのを見守った。かなりの人が震えており、例年より寒かったのではないかと思われる。

 吉備太郎の西大寺会陽考その4、吉備太郎  投稿日:2019年2月16日
 2018(平成30).1.29日、2016年に国指定重要無形民俗文化財に指定され、日本三大奇祭の一つに数えられる西大寺会陽(えよう)の510回目の幕が開いた。2.**日、西大寺観音院で今年の「会陽事始め」が執り行われた。白装束の棟梁・(**歳)、(**歳)が客殿二階の広間で、のこぎり、かんななど道具11点を砥石で丹念に研ぐなど手入れした。その後、本堂で会陽の無事を祈る法会が営まれた。今年の祝い主は旭電業、山陽新聞社で、その代表者、西大寺会陽奉賀会の関係者ら約50名が出席。坪井綾広住職らが読経した。

 1.30日深夜から1.31未明、檀家にして寺の総代の約十名の一行が法被を着て草鞋に手甲脚絆、菅傘をかぶり、手には提灯を持ち観音院を出発、約8キロ40分ほどかけて芥子子山中腹にある如法寺無量寿院(岡山市東区広谷)に向かう。今年の役は田尾公人(58歳)さんが行棒頭を務め、裃(かみしも)姿の正使・佐伯徹(57歳)さんら使者9名が随行し、大石賢映住職(35歳)から宝木(しんぎ)の原木を納めた「挟箱」(はさみばこ)受け取った。これを「(原木)宝木取り」と云う。

 使者は同じ道を引き返して観音院へ無事届ける。同日朝、観音院で原木を宝木に仕上げる「宝木削り」が行われる。2.3日より五穀豊穣、天下泰平を祈願する「修正会」(しゅしょうえ)が始まる。山主(住職)以下10余人の僧侶により、国家安穏、万民豊楽が14日間毎日祈り続けられる。この間、宝木に香が焚き込まれる。これに合わせて境内の垢離取り場で水垢離行が行われる。前日の2.15日、前夜祭となる「会陽宵祭り」が2016年より開かれている。福女を決める「五福餅巻き」が行われ、福を掴もうとする女性たちの熱気が溢れる。午後7時過ぎ、本堂から約2千個の餅が投げられる。 

 2.16日、2月第3土曜日、結願。当日10時、本堂の御福窓から宝木が投下される。これに合わせて行事が組み込まれており各地から数万の参拝者が訪れる。午後3時20分、少年裸祭り。小学1.2年生は餅投げ。小学3.4年生は五福筒争奪戦。小学5.6年生は宝筒争奪戦。その後、白装束の女たちが水垢離(みずごり)をする「女会陽」が行われる。午後5時40分、会陽甚句のうらじゃ演舞。午後6時30分、会陽和太鼓。午後7時、吉井川河川敷で約3000発の冬花火の打ち上げが始まる。

 午後7時半、会陽和太鼓。8時頃、ふんどし一丁姿の裸衆からなる「連」が仁王門から入り、石門をくぐり、垢離(こり)取り場で身を清め、旧年の厄を落とした後、次々に「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声とともに境内へ入場し始める。一旦本堂大床(おおゆか)に詣でて千手観音を拝し、牛玉所殿(ごおうしょでん)に詣でて牛玉所大権現(ごおうしょだいごんげん)の裸の守護神を拝し、本堂裏手を抜けて会陽に向けて拵えられた四本柱(しほんばしら)をくぐり、隊列を整えた後に再び本堂大床に駆け入り本押しする。本堂では御福窓の脇窓からは清水方(せいすいかた)が柄杓で水をまき裸衆の熱気を冷ますも忽ちのうちに水蒸気と化す。「連」が境内で地練りをしながら度々の出入りを繰り返す。各「連」がこれを交互に行うことでムードを盛り上げる。

 午後9時、西大寺の旧町内を南北二つに分けて「触れ太鼓」が時刻を知らせる。この頃より裸衆が本堂大床へ入り陣取りし始める。9時30分、これより10分刻み、直前では5分刻みのアナウンスが入る。10時に近づくにつれ押し合いが熾烈になる。宝木投下の時刻に合わせて修正会結願の行法が終わり、山主(やまぬし、住職)及び職衆(お坊さん)が御福窓と脇窓に立つ。午後10時丁度、結願となり照明が一斉に消される。高さ約4mの本堂二階の「御福窓」(ごふくまど)から大床上にひしめく数千人の裸男衆へ向けて、香を焚きしめられた直径約4センチ、長さ約20センチの2本1対の宝木がそれぞれ牛玉紙に包んで投下される。瞬間、周囲が殺気立ち、男たちは「うおー」と叫びながらの激しい宝木争奪戦が繰り広げられる。裸衆の巨大なうねりと渦が形成され、激しさと厳かさが溶け合った絵巻物語が続く。

 今年の宝木取り名人は、阪田グループ(人)の小峰直人(25歳、岡山市南区郡)、道口愼(25歳、岡山市南区阿津)、片岡宏之(25歳、高梁市成羽町)。阪田グループは8年ぶり16回目。寺坂グループ(人)の羽納直浩孝(38歳、岡山市東区松崎)、羽納通浩(36歳、岡山市中区米田)、小林達史(36歳、岡山市東区西大寺中)。寺坂グループは3年ぶり9回目。

 西大寺会陽は室町時代の1510年に始まったと伝わる。今年の祝い主は、旭電業(同市南区西市)と山陽新聞社(同市北区柳町)が務めた。17日未明、牛玉(ごおう)所殿で祝い主が福男を祝福する福受け式が執り行われた。西大寺観音院の坪井住職が宝木を逗子に納める「牛玉封じ」儀式を行い、福男に牛玉紙を授与した。

 2.17日、一夜明けて「会陽あと祭り」。2.17日(日曜)から3.3日まで続く。会陽の日から1週間目の日曜日、観音院境内・本堂で、子供たちが華やかな衣装を着て境内を練り歩く「稚児入練(ちごいりねり)供養」。最終日、無病息災や商売繁盛を願う「柴燈(さいとう)護摩」が行われる。

 参加申し込みは西大寺会陽奉賛会(086-942-0101)。西大寺会陽に合わせて人物画の鬼才と言われる中国人画家・はん曽(はんそう)氏の作品を収蔵するはん曽美術館(両備.西大寺バスセンター2階)が2.16-18日まで特別開館する。海外からの参加者や観覧者が増えている。毎年、数百の企業、団体、ボランティアが物心両面の支援を続けている。
 私の西大寺会陽詣では今年で4年連続。今年も行く道中で考えた。来年も出向くつも、足腰立つ限りぜひにも続けたい。なぜなら、西大寺会陽に感応し続けているからである。この感動の感覚は5年連続で通った阿波踊り以来のものである。西大寺会陽が「日本三大奇祭の一つ」と云うのはへりくだった物言いで、実は「日本随一奇祭」の地位を占めているのではなかろうか。こたびはここのところをはっきりさせておきたいと思う。

 西大寺会陽は始まりが室町時代の永正年間(16世紀)であると云う。とすれば裕に500年を超えて今に伝わっており、裸衆祭りとして最も古い歴史を持つことになる。それだけではない。裸祭り舞台の盛り上げ方がすばらしい。香の匂い立つ宝木を天井から投下させ、それを争奪すると云う仕掛けが、他のどの裸祭りよりも格段に秀逸な祭り舞台を演出している。それ故にであろうか、この祭りが地元民の自発的な熱狂に支えられて今日に至っている。ご当地の寒さの極限の日を選んで春触れさせる暦祭りとなっていることも興味深い。

 西大寺会陽の奇祭ぶりは世界に押し出ししても何ら遜色がない。「夏場の阿波踊り、冬場の西大寺会陽」として、日本が世界に向けて誇る祭りなのではなかろうか。そういう祭りとして世界に押し出して行くべき祭り足り得ているのではなかろうか。主催者側にその気さえあれば、リオのカーニバル並みの観覧客を招くことが将来的に予想される出色の祭りなのではなかろうか。地元の岡山県人が知らないだけで、西大寺会陽は白桃、マスカット、備前焼、大原美術館、瀬戸大橋に続く世界に誇る岡山名物なのではなかろうか。その値打ちをこう確信するから来年も、否生命の限りに、足腰が続く限りに来たいと思う訳である。

 今年は午前中は所要で神戸に出掛けた。その帰りに岡山駅から直行で赤穂線に乗り、6時過ぎに西大寺駅に着いた。いつものように徒歩で西大寺へ向かい、お参りを済ませた後、総勢13名からなる女性和太鼓を堪能した。衣装が変わっていた。どういう訳か男太鼓は登場しなかった。今年の太鼓の乗りは幾分か硬かった気がする。境内へ降りての裸衆への景気づけ太鼓も見たかった。続いて夜店の通路を往来した。夜店は西大寺に隣接する向州公園付近に相当多く出店している。食べ物関連ばかりのようだが楽しめる。但し、私が欲しくなるようなものはなかったので雑踏を交叉しただけのこととなった。若い男女の行き交う中を分け入ったことで若い人の生命の息吹をいただいた気がする。

 ピッピッピッのあの音色に引きつけられ境内へ戻った。何度聞いてもワクワクする。どれほど似ているのか違うのか確かめてみたが、やはり聞けば聞くほど似ている。私は、会陽の裸衆には縁がないままなり損ねたが、学生運動の中で会陽体験していたのかもしれない。学生運動内の理論理屈なぞそれほど値打ちがあるものではなく、活動家間の関係性こそ命だったのかもしれない。学生運動の値打ちはひょっとして会陽性の中にあったのかもしれない。とかあれこれ自問自答しながら寄って行った。

 高橋グループの肩車隊列に遭遇した。最前列に子供を配置した一族郎党デモで雰囲気を盛り上げていた。続いてやはり最前列に子供を配置した一族郎党デモで林グループが登場した。こちらはほら貝つきで修験道行者の雰囲気を漂わせていた。時計を見やると7時半頃、今年は学芸館チームが出てこないなと思っていた途端に威勢よく登場して来た。数が多い上に高校生特有の活気があり、特に今年は気合が良く境内を大いに景気づけた。8時頃からグループ連、企業連の登場とあいなり境内全体が喧騒し始めた。あちこちでピッピッの笛の音とワッショイの掛け声が巻き起こり、順次大床駆け込みを繰り返す。私は大床上りの階段で見とれ、元気のお裾分けを貰った。階段の向かい側には娘さんとお姉さんがおり、裸衆とハイタッチしまくっていた。とても幸せそう嬉しそうで、見てるこちらまで楽しい気分にさせてくれる。

 さて、そろそろ立ち疲れし始めたので腰を下ろせる場所を見つけに向かった。仁王門を出て商店街に出ようとしたら既に規制線が張られ通行止めになっていた。いったん駅方向に向かって外に出るしかなく、また入ろうとすればかなりの大回りを余儀なくされた。疲れ始めていた身にはきつかった。初回のときは自然に境内仕切りの内側へ入れたのだが、今年は囲いの外側を往来することになった。既に桟敷席後ろの立見席、少し離れて小高くなっている立見席場は経験済みなので無料のところで見物することに決めた。9時頃のことである。その時は空いていたが次第に人が集まりはじめ、宝木投下直前の頃には後ろまでびっしりと人で埋まっていた。10時までの間が長かったが、既に経験済みなのでじっと待つことにした。

 大床も裸衆で立錐の余地もなしの状態になりつつある。とても入りきれず境内へ四列五列並び始めていた。毎度のことなのだろうが、本堂内部で掛け声とエールの波が続いている。あの臨場感は大床に入った者のみに授かる興奮とお陰なのだろう。宝木投下までの小一時間が裸衆たちにとって最高の愉悦のひと時なのだろう。

 いよいよ10時、宝木投下。それが何やらあっけなく終わった気がする。宝木が通過した模様とのアナウンスがあるまで取り合いしていたのはグループのダマシだったことが分かり可笑しかった。帰り道、いつものように歩行者天国の人垣アーチの中を裸衆が通り過ぎるのを見守った。

 今年の会陽の特徴で気づいたことがもう一つある。それは、外国人参加者につき、白人系のそれは多くもならず少なくもなっていない気がした。それに比べて中国人の数が恐らく数百人はいただろうと思えるくらいあちこちで中国語で話している人が多かつた。今後はどうなるのだろうか注目してみたい。

【「中国地方の旅・岡山県:備前岡山/西大寺と裸祭り」】
 「中国地方の旅・岡山県:備前岡山/西大寺と裸祭り」を転載しておく。
 天下の国道2号線のバイパスを西に向かって進む途中に吉井川のたもと、あの「裸祭り」で有名な「西大寺」があった。いきなり大甍(おおいらか)を配した本堂前に出たようである。一隅に、のんびりと母子がじゃれあって遊ぶ姿が長閑で良い。広い境内の隅に祭り用の観覧席であろう、雛壇様(ひなだんよう)に並んでいる。

 西大寺創建の歴史は古く、奈良時代の天平に遡るという。創建当初の境内域は広大で、約48ヘクタール(1ha=1万平方米)にも及んで、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など実に百十数宇の堂舎が並んでいたという。寺の所在は備前第一の大河である吉井川の河口に位置して交通の要地でもあった。そのため門前町が発達して座商人が各地から集まり、西大寺は備前南部における信仰、交易、商業の中心地として栄えたという。文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。

 現在は、本堂をはじめ仁王門、三重ノ塔、大師堂、経蔵、鎮守堂等が配せられている。鎮守堂には一山の守護神である牛玉所大権現(ごおうしょだいごんげん:本尊・千手観音の守護神)が祀られているほか、金毘羅大権現(金刀比羅宮)が合祀されている。 

 世に有名な「裸祭り」は、牛玉所大権現の信仰が特異な行事に発展したものと言われ、毎年、2月の第3土曜日の寒中に行われる日本三大奇祭と言われる祭りである。深夜、西大寺観音院本堂大床(おおゆか)に参集した、ふんどし一丁の男たち約9千人が、12時(0時)に投下される2本の宝木(しんぎ・牛玉所大権現の札木)をめぐって、裸男たちがすさましい争奪戦を繰り広げる。 会陽は近年、死者を出したほどに荒っぽい。宝木を拾う福男になるには、よほどの運の良さと体力が勝負であることはTVの映像などでも判る。宝木には地元のスポンサーにより賞金がついているそうで、争奪戦にも一層熱が入る。規模といい、内容といい、知名度といい、これはどう見ても天下の奇祭である。 

 「裸祭り」の根源とは・・?

 裸祭りは全国各地、北海道から九州までの各地神社で行われているようである。一般には、その年の豊作と繁栄を願う祭で、農機具などが近代化される前は、強い働き手となる男性の存在が最も求められており、併せて、成人男女の出会いの場、強く逞しい裸体を披露することで婚姻相手を探していたともいわれる。

 家督の維持、子孫の繁栄には強く逞しい男性の存在が欠かせず、裸祭を通じて男性は村の長老や女性に披露することで、結婚相手となる嫁や自家への入婿を探す男女の出会いの場として、村の行事のうち最重要の位置付けとされていた。裸祭に神木の取り合い等の闘争が多いのも、闘争能力の高さが男性の強さや生殖能力を象徴し、農家でより強い働き手であることを示すものでもあるだけに、伝統的に裸祭の参加は成人男性に限定されていた。

 裸祭は禊(みそぎ・水で身体を清める)の後、お堂の内外で神木、玉など、その祭の「象徴」を奪い合う場合が多い。その時期は、休耕となる真冬を中心に開催されるものが多く、これは冬場の娯楽の少ない農耕社会で鬱積した気分を解消させることを目的としていたともいわれる。

 又、男性の闘争本能を呼び起こさせることで、地域社会の若者層の暴走を抑えることや、厳しい冬の寒さの中を裸で立ち向かわせることで、逞しい男らしさを演出させることでもあった。一方、真夏に漁師を主体とした神輿を担ぐ祭、春から秋に掛けて神輿や山車を担いだり曳いたりする祭りもある。

 この「裸祭り」ついて、昨今の世相を反映してか、本年(2008年)ある問題が提起された。岩手県奥州市の黒石寺で1000年以上の歴史がある「蘇民祭」(岩手県を中心に伝わる裸祭り)の観光ポスター掲示をめぐって、JR側が「ポスターは客に不快感を与えるかもしれない」として断ったという。ポスターは写真3枚を組み合わせたもので、「ひげ面に胸毛がある男性が大きく掲載され、奥に下帯姿の男性らがいる」絵を表示したものである。「単純に裸がダメというわけではないが、胸毛などに特に女性が不快に感じる図柄で、見たくないものを見せるのはセクハラ」としたものであった。ポスターなどは、万人に全てに対して好意的だとはとは考えにくい媒体だけに、主観の入るセクハラ道義にはどうかと思うが、セクハラとは、セクハラだと思ったらセクハラだという定義を聞いたことがある、このポスター提示に関しては意見が様々なようでもある。

 私見だが・・、この西大寺の祭りは「奇祭」なのである。世に言う歴史と伝統のある「蘇民祭」と同等の「天下の奇祭」なのである。この歴史ある天下の奇祭を、「はしたない」と非難する人が・・! たかがポスター一枚に関して、一言、二言苦言があったからといって、直に反応するのは如何なものか・・? 過敏に反応しすぎるのは、昨今のお粗末な男女自由平等主義や敏感に反応する世相に似ている。現代人は過去の人々と比して、「おおらかさ」という人間本来の気概を失っているのでは・・?。その内、「裸祭り」そのものも問題になって、歴史から消されてしまう時期が来るのではないかと、聊かな危惧の念も感じるのである。

 西大寺は、中国三十三観音霊場の第一番札所でもある。お参りした後、先程から母子で睦まじく戯れているのを垣間見ながら、偶然その傍を通り退出しようとした。小っちゃな女の子に何気なく「バイバイ」と挨拶したら、予期せぬような返事で「ばいばい」と、にこやかに手を振り、そして、若くて美しい母親もニッコリ笑顔で会釈してくれた。こんな胡散臭い「おじん」に、母子観音のような素直な笑顔で挨拶を返せる親子が羨ましく、微笑ましく、心が和み、得したような気持ちになった。これも、西大寺・観音菩薩の思し召しか・・!。


【「日本三大裸祭り」、「日本三大奇祭」】
 西大寺会陽(裸祭り)は日本三大奇祭の一つだと云われているが、他の二つはというとはっきりしない。即ち、日本三大奇祭として特定で認められているものではなく、いわばそれぞれがお国自慢的に「うちの祭りは日本三大奇祭の一つ」と謳っているだけのようである。よって全国に多くの日本三大奇祭が存在する結果となっている。「日本の祭り歳時記」では、「なまはげ(秋田県)、吉田の火祭り(山梨県)、西大寺会陽の裸祭り(岡山県)」の三つが日本三大奇祭と記載されている。興味深いことは、西大寺会陽(裸祭り)こそは自他共に認める日本三大奇祭の一つであり、この謂いは素直に受け入れられていることであろう。と云うことは、「日本三大奇祭の一つ」と云うのはへりくだった物言いで、西大寺会陽こそが実は「日本一奇祭」の定番位置を占めているのかもしれない。否、日本のみならず、規模は違うけれども祭りの質的にはリオのカーニバルにも負けない出色の祭りになっているのではなかろうか。

 「日本三大奇祭の一つ」を自称する奇祭は次の通りである。日本列島の北から確認する。
黒石の裸祭り 青森県
なまはげ 秋田県
黒石寺蘇民祭 岩手県
吉祥山普光寺の浦佐毘沙門堂裸押合大祭 新潟県 吉祥山普光寺
浅間温泉の松明祭、たいまつ祭り 長野県 浅間温泉
諏訪の御柱祭 長野県 諏訪
島坂の尻叩き祭り 富山県 島坂
岩間町愛宕神社の悪態祭り 茨城県 岩間町愛宕神社
吉田の火祭り、すすき祭り 山梨県 吉田
島田の帯祭り 静岡県 島田
国府宮のはだか祭り 愛知県 国府宮
古戸花祭り 愛知県 古戸
古川祭り 岐阜県 古川
鍋冠祭り 滋賀県
宇治のあがた祭り 京都府 宇治
太泰牛祭 京都府 太泰
四天王寺どやどや 大阪府 四天王寺
大避神社の牛祭 兵庫県 大避神社
西大寺会陽のはだか祭り 岡山県 西大寺
蛸舞式神事 鳥取県
御田祭 高知県
大山祗神社おしろい祭 福岡県 大山祗神社
泥打ち祭り 福岡県
博多山笠 福岡県 博多
 「日本の三大裸祭り」を始まり順に確認しておく。
  岡山・西大寺会陽(さいだいじえよう)(「岡山・西大寺会陽」)/宝木の奪い合いが見物
 岡山県東区にある西大寺で毎年2月の第3土曜日に開催される。「会陽」は、西大寺本堂の御福窓から信者たちに二本の宝木を投げる行事。その始まりは室町時代の永正年間(16世紀)。当初は参拝者に守護札を配布していたものの、希望者が増えたために群衆の頭上に投げ入れるようにしたところ壮絶な奪い合いになったことが始まりとされる。祈祷を込められた宝木(しんぎ)御札を本堂大床に投下し、待ち受ける裸衆が奪いあい、宝木を手にした男が門の外に出た時点で争奪戦が決着する。勝者が「福男」となり祝福を受ける。宝木の奪い合いをするのは男、祭りの開始を告げる太鼓を打つのは女、両者が水垢離(みずごり)する会陽となっている。(西大寺 /岡山県岡山市東区西大寺中3-8-8)
 国府宮のはだか祭り(愛知県)
 博多祇園山笠(「博多祇園山笠」)
 岐阜・古川祭り(ふるかわまつり) (「岐阜・古川祭り」)/付け太鼓の荒々しさが見物
 岐阜県飛騨市古川町の気多若宮(けたわかみや)神社の例祭で、その行事の一つである起し(おこし)太鼓が裸祭りとして知られる。例祭で曳きまわされる屋台の最古の記録は1776年、起こし太鼓は1831年となっている。起し太鼓は4月20日の祭りの開始を告げるもので、19日深夜から氏子地内を巡回する。大太鼓を載せた櫓を起し、太鼓主事という当番組が担ぎ、それめがけて付け太鼓という各地域の小さな太鼓が突入する激しく荒々しいもの。その荒っぽさから何度も付け太鼓禁止令が出されたが明治時代に解禁されて現在に至っている。戦前にはケンカに発展し警察署に投石や突入が行なわれるなど激しい事件も起こっている。
 大分・若宮八幡神社裸祭り(わかみやはちまんじんじゃはだかまつり)(「大分・若宮八幡神社裸祭り」) /大松明川渡し行事が見物
 大分県豊後高田市にある若宮八幡神社の秋季大祭の別名。秋季大祭は豊作を感謝する祭りで、1084年に荒行の一つとして始められたものと云われている。現在は陰暦10月15日に近い週末に開催されており、神輿の曳き手がふんどしと腹帯に白衣をきた姿をしていることから裸祭りの通称がついた。一番の見どころは「川渡し行事」で、寒くなってくる季節のなか裸に近い姿の男衆が御輿を担いで川を渡る勇壮なもの。その際に灯される大松明も有名。
 日本には古くから伝わる祭がたくさんある。その地域独特の風習や伝承に基づいており、その中でも際立つ“風変わり”なものを「奇祭」と呼ぶ。ここでは「なまはげ柴灯祭」、「御柱祭」、「吉田の火祭」その他を挙げておく。「日本三大奇祭」 につき、何を当て嵌めるのかにつき諸説あり決着がついていない。「日本三大奇祭」その他を参照する。
 なまはげ柴灯祭(せどまつり)/「柴灯祭」と「なまはげ」の組み合わせが見物
 毎年2月。秋田県男鹿市の真山神社の正月の神事「柴灯祭」と、伝統的な風習である「なまはげ」を組み合わせ、神社境内で開催している。神事の再現、太鼓や踊り、クライマックスである下山まで、「なまはげ」の魅力がふんだんに盛り込まれている。「なまはげ」は民間伝承から発生している風習であり由来ははっきりしていない。原始的な信仰に原点があると考えられる。真山神社は景行天皇が創建したと伝えられている。(真山神社/ 秋田県男鹿市北浦真山字水喰沢97 )
 御柱祭(おんばしらまつり)/命懸けの「山出し」、「木落し」、「川越し」が見物
 4月上旬-5月下旬。長野県の諏訪大社は諏訪湖湖畔に2社4宮あり全国の諏訪神社の総本社である。その4宮の「御柱」として樹齢200年の樅の巨木16本を7年目ごとの寅と申の年に曳き建てる神事を云う。10トン近くなる巨木を人力で「山出し」、次々と坂を下る「木落し」、川を曳き渡る「川越し」と、男達の度胸を試す命がけの行事になっている。その歴史は古い。毎年20万人以上の氏子や観光客が集まる。長野県指定無形民俗文化財。(諏訪大社 上社本宮 長野県諏訪市中洲宮山1、御柱祭公式ホームページ)
 吉田の火祭(よしだのひまつり)/ 夜空を焦がす大松明の荒々しい炎による「鎮火祭」が見物
 毎年8月の終わり(8/26~8/27)。北口本宮冨士浅間神社とその摂社(境内社)の諏訪神社の「鎮火祭」を云う。町中に松明が焚き上げられ富士山の噴火を鎮める祭礼となっている。夜空を焦がす大松明の荒々しい炎に人々は興奮し魅了される。この火祭の起源も古い。室町時代の元亀年間(16世紀)には神輿渡御、さらに江戸時代には松明を燃やす祭が始まっている。 (北口本宮冨士浅間神社 山梨県富士吉田市上吉田5558、吉田の火祭)
 黒石寺蘇民祭(こくせいじそみんさい) /「蘇民袋」の奪い合いが見物
 「蘇民祭」とは、岩手県を中心に各地にある裸祭。特に、奥州の黒石寺で毎年旧正月に行われる「蘇民祭」は、岩手の蘇民祭として国指定重要無形民俗文化財に登録されているものの中で有名なものとなっている。祭のクライマックスは、全裸に下帯のみの男衆が、福物の小間木を配った後の「蘇民袋」を奪い合う行事。奪い取った者が、東西どちらに向かい、凱歌を挙げるかによって、その年の豊作を占う神聖な祭礼。(黒石寺/岩手県奥州市水沢区黒石町字山内17)
 裸押合大祭(はだかおしあいたいさい)/お札の奪い合いが見物
 3.3日(3.2日に前夜祭あり)。豪雪地帯の南魚沼の普光寺で行われる。除災招福を願い、御利益のお札を裸の男衆が奪い合う。一般の人も参加できるため全国から多くの人が参加できる。そもそも祭礼は、平安時代の名高い武将・坂上田村麿が遠征した際、御堂を建立したことに起源すると云われている。年々参拝者は増え、正月のご開帳では人々が押し合いになる程の熱気になり、それがやがて現在に残る祭へとつながっていった。(普光寺/新潟県南魚沼市浦佐2495、南魚沼市・大和観光協会)
 吉良川の御田祭(きらがわのおんたまつり)/神事芸能が見物
 2年に一度、5.3日。高知の御田八幡宮で催される「吉良川の御田祭」は、天下泰平、五穀豊穣を祈念し、古典的な舞などの芸能を奉納する祭である。演目は田植えから稲作まで。猿楽や田楽、能楽など古式ゆかしい神事となっている。鎌倉幕府を開いた源頼朝がはじめさせたと伝えられている。国指定重要無形民俗文化財となっている。(御田八幡宮/高知県室戸市吉良川町甲2413 )
 鍋冠祭(なべかんむりまつり)/練り歩く「鍋冠祭」が見物
 5.3日。「鍋冠祭」は、数えで8歳の少女8人が狩衣(かりぎぬ)を着て黒い張り子の鍋を冠って練り歩く祭礼。行列には他に獅子や太鼓山(曳山)など総勢200人近くとなり、華やかに雅な様子を見せる。まさに平安絵巻のような光景で実際に平安貴族にもこの祭礼は知られていた。伊勢物語には「筑摩の祭」として歌われている。筑摩神社の祭神が食物に関係している神であることから、食物や特産の土鍋を供えたのが始まりと考えられている。(筑摩神社 滋賀県坂田郡米原町朝妻筑摩1987、鍋冠祭保存会ホームページ)
 島田大祭 帯祭(しまだたいさい おびまつり)/大奴(おおやっこ)が練り歩くのが見物。
 3年に一度、10月体育の日頃の3日間。大井神社の大祭。大奴(おおやっこ)が安産祈願の丸帯を提げた太刀を両脇に差し蛇の目傘を差しながら踊るように練り歩く。この所作は現在まで厳密に伝承されており静岡県無形文化財に指定されている。鹿島踊りや神輿渡御、屋台踊りなど見どころがたくさんある。祭の起源は江戸時代の元禄年間(17世紀)。当時島田では嫁入りの際に丸帯を持って町中を挨拶回りする風習があった。それが大井神社の神輿渡御の際に、大奴の太刀に下げて披露するようになり、さらには帯業者たちが流行の見極めに見学に集まるようになって、どんどん豪華になっていったと云われる。 (大井神社 /静岡県島田市大井町2316 )

【和田義男氏の西大寺会陽論】
  2010.3.13日、和田義男「西大寺会陽に思う」。
 筆者が全国の裸祭りを取材して、その規模や勇壮さ、伝統の継承、市民の熱狂度などを比較した結果、博多祗園山笠(福岡市)・西大寺会陽(岡山市)・國府宮(こうのみや)はだか祭(愛知県稲沢市)が群を抜いて評価が高い。全国に日本三大裸祭と自称する祭が散見されるが、このビッグ・スリーこそが日本三大裸祭と呼ぶに相応しい勇壮な祭礼である(和田説)。こうしてみると、西大寺会陽は、日本三大奇祭と日本三大裸祭のふたつのタイトルに輝く類い希な祭礼であり、その歴史の重みと相まって日本の祭文化の至宝であるといえよう。しかし、岡山県の調査によると、岡山県下では2月20日の西大寺会陽を筆頭に、かつては100箇所を超える会陽が行われていたが、現在では2月6日の金山寺会陽(岡山市北区)や2月13日の安養寺会陽(美作市)など、13箇所にまで激減しているという。その理由は、過疎化による廃寺のほか、宝木争奪戦という性格上避けて通れない死傷事故や喧嘩沙汰などのためというが、伝統文化が次々に消滅してゆくのはとても残念である。西大寺会陽では、戦後、2人の裸が本堂大床(おおゆか)で命を落としている。國府宮はだか祭も同様で、「死者を出すような危険な祭は、即刻中止すべきだ」との批判があり、安全安心な裸祭を催行するにはどうすべきかが問われている。会陽は、裸で垢離を取るという日本国民に共通する正月行事であり、日本が世界に誇る裸褌文化として、これからも変質させることなく幾久しく存続させるために、官学民が一体となって叡智を出し合って欲しいと思う。西大寺会陽は、現在、岡山県の重要無形民俗文化財に指定されているが、国の指定を受けていないのが不思議な程である。日本全国の祭礼を取材して思うことは、国が一元的に審査して仕分けしているのではなく、申請を待って審査するというシステムになっているらしく、何故これが国の指定を受け、これが県の指定に止まっているのかといった不合理が見られる。地元民や教育委員会の熱意に左右される部分も大きいと思われるが、これも有識者の叡智を出し合って、国の重要無形民俗文化財(国宝相当)の指定を受ける努力を重ねて頂きたい。




(私論.私見)