西大寺会陽資料 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.16日
(吉備太郎のショートメッセージ) |
ここで、「会陽裸祭り考」をものしておく。 2016.2.22日 吉備太郎拝 |
【西大寺の御堂構成】 | ||||
2019.3.18日、国の文化審議会(佐藤信会長)が、西大寺得会陽の舞台である西大寺観音院(岡山市東区西大寺中)の仁王門(江戸中期の建立)、石門(国内最大級の竜宮造)、高祖堂、鐘楼門、経蔵の5件、大浦神社(浅口郡寄島町)の本殿、祝詞殿、幣殿、拝殿など計8件を登録有形文化財にするよう、柴山昌彦文部科学相に答申した。
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【西大寺会陽その他】 |
宝木(しんぎ)の原木は、会陽で福男が獲得した宝木が本物かどうかを確かめる検分に用いられる。宝木は木を二つに割って作り、切断面を合わせて調べる。宝木は擬宝珠(ぎぼし)に入れられ、牛玉紙(ごおうし)やシキビのほか五薬、陀羅尼などと共に和紙で包んで封入りされてて保管される。この仕組みは、坪井住職が、三重県の伊勢神宮内宮につながる宇治橋の欄干に神札が納められた擬宝珠(ぎぼし)があり、参拝者がご利益を求めて触れに来ることから思いつき、令和天皇陛下の即位礼正殿の儀に合わせて10.22日、本殿前に設置され公開された。擬宝珠は真ちゅう製で、表面に「牛玉(ごおう)西大寺寶印(ほういん)」と書かれた金文字が刻まれている。高さ140cmほどの吉野杉の柱の上に取り付けられており、誰でも自由に触ることができる。宝木は福男しか手にすることができないが、「参拝者にも間接的であるが原木に触れてもらい、ご利益を願って欲しい」との思いが込められている。 |
2019西大寺会陽(国重要無形民俗文化財)は2.16日に行われる。1.28日、一連の行事の開始を告げる「会陽事始め」が西大寺観音院で始まった。「事始め」に先立ち、書家・奥田桂峰(75、西大寺地区出身にして瀬戸内市邑久町)が「一陽来福 西大寺会陽」と揮毫(きごう)した。裸衆が奪い合う宝木(しんぎ)を作る道具を職人が手入れした。白装束に身を包んだ棟梁の次田尚生(ひさお、80歳、岡山市東区邑久郷)、息子の典生(49歳)親子が、古式にのっとり、客殿二階の広間で烏帽子(えぼし)に白装束姿で作業をし、かんなやのこぎりなど約20点を砥石で丹念に研ぐなどした。会陽の無事を祈る法会も営まれた。祝い主の旭電業、山陽新聞社、会陽奉賛会の関係者ら約30人が出席し、坪井綾広住職(42)らが読経した。 1.30日深夜から31日未明にかけて如法寺無量寿院(岡山市中区広谷)に原木を取りに行く(「宝木取り」)。1.31日朝、「宝木削り」が始まる。2.3日、五穀豊穣などを祈願する修正会(しゅしょうえ)が始まる。2019年から会陽節分祭が始まる。2.8日、西大寺会陽奉賛会は、今年の「西大寺会陽」の祝い主を、旭電業(同市南区西市)と山陽新聞社(同市北区柳町)に決めたと発表した。両社とも3回目。19年に創業70年を迎える旭電業は00年と09年、19年が創刊140周年となる山陽新聞社は1999年と09年に続いて祝い主を務める。宝木(しんぎ)を獲得した福男に賞金を贈るほか、宝木を作る道具を磨く「会陽事始め」などの関連行事に立ち会う。 西大寺会陽は1510年に始まったとされる。日本三大奇祭の一つとして知られ、まわし姿の男衆1万人が福を求めて宝木を奪い合う。毎年2月の第3土曜日に開かれ、午後10時に宝木が投下される。 2.16日に結願となり、午後10時、本堂で宝木が投下される。 その裸衆が身に着けるまわしは呉服卸・貸衣装業の土川良(岡山市北区今、土川良人社長)が請け負っている。まわしは長さ約10m、幅約40cm。これに観音菩薩の御利益があると云う宝印と、備前国西大寺と刻まれた朱印を西大寺観音印から借り受けて押す。同社は1500枚の注文を受けている。これを祝い主の旭電業(岡山市南区西市)と山陽新聞社(岡山市北区柳町)のほか、歴代の祝い主などに届ける。印のないまわしは1枚1200円程度で岡山市東区のスポーツ店などで売り出される。鑑めーと散るのう |
1819年に完成した西大寺観音院石門と1854年に焼失する前の旧本堂が描かれていることから、この間に描かれたと思われる、A3版ほどの画面に、渦となって境内へなだれ込む裸衆がごま粒大でびっしりと埋め尽くされている「備前西大寺正月十四日会陽之図」が遺されている。絵師は梅斎。版元は地元・西大寺刷り師。 |
1900(明治33).2.13日付け山陽新報附録が伝える西大寺会陽の挿絵を見ると、髪を下ろした女性達が合掌して境内を進み、男衆がさっと道を開ける様子が伺える。第二次世界大戦中は出征した夫や息子の武運長久を祈って参拝する女性が増えたと云う。 |
明治以降、行政の変遷により合併が幾度か行われ、昭和の戦後には当地は上道郡西大寺町、古都、可知、光政、津田、九蟠、金田、雄神の各村と邑久郡豊、幸島、太伯、朝日、大宮の各村と邑久町長沼の合計14町村に分かれていた。 1953(昭和28).2月、14町村の内の西大寺町と古都、可知、光政、津田、九蟠、金田、豊、幸島、太伯各村と邑久町の内の長沼(東谷地区のぞく)の11町村が合併し西大寺市を新設、かつての西大寺村域に市役所を構えた。翌年には邑久郡大宮村宿毛の内の一部(幸地崎町)が西大寺市へ編入し、続く同30年に上道郡雄神村、邑久郡朝日村の2ヶ村が編入、さらに同31年には邑久郡大宮村(千手地区の一部は牛窓町へ編入)が編入合併し、現在の西大寺エリアが確定した。 1969(昭和44).2.18日、岡山市と西大寺市が合併。岡山市への西大寺市の編入合併が成立16年間の市政にピリオドを打った。 |
【西大寺会陽太鼓】 |
「西大寺会陽太鼓」のメンバーは全員女性。2019年で結成27年目、岡山市西大寺地区を中心に20-50代の14名が活動中。3年前に始まった会陽前日の「会陽宵祭り」では、宝木を獲得する福男にならって、女性に限定した餅まきと福引きで福女二名を決める。 |
【さいだいじ冬フェスティバル】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2.1-3.3日までの間、「2019さいだいじ冬フェスティバル」が開幕する。行事は次の通り。
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【東大寺2月堂のお水取り】 |
東大寺2月堂のお水取り。正式には修二会(しゅにえ)と云い、中心になるのは本尊/十一面観音に日頃の罪科を懺悔して五穀豊穣、防災招福を祈る「悔過」(けか)と云う儀式。厳しい修行に望む練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧侶が板に体を打ちつける「五体投地」などが行われる。練行衆の道明かりとして本行が始まる1日から14日まで毎晩、松明(たいまつ)が登場し火の粉が闇の中で幻想的に舞い散る。12日だけ長さ約8m、重さが通常の2倍近い約60-70キロの籠松明が登場し、付き人の童子(どうじ)が練行衆を導きながらお堂へ入る。石段を上りきると、燃え盛る籠松明をお堂の欄干から火の粉を降らせながら駆け抜ける。13日未明、お水取りの由来となった「お香水」(おこうすい)を汲み上げで、2月堂本尊の11面観音に備える儀式があり、15日未明に満行を迎える。752年の創始以来、一度も途切れることなく受け継がれている。 |
【御本尊異聞】 |
「皆足媛(みなたるひめ)」参照。 |
1299(正安元)年正月22日、落雷により本堂はじめ多数の伽藍が炎上した。その時御本尊が突如として大身を現わし山のごとくなり、そのため外に出すことかなわず、やむなく合掌の御手だけ打ち落として持ち出した。その後焼け跡から、完全なお首を発見し、同年8月11日、そのお首と合掌の御手とをもって御本尊を修造した。 |
1483(文明15)年12月12日、但馬の兵、山名新兵衛という不信心者が、お堂の軒下を壊して薪にし、それで兵士の飯などを炊いたりした。ところがそれを食したものは顔面たちまち土色に変色し、卒倒してしまった。皆仏罰のよるところと畏れおののき、以後信仰を深くするようになったという。 |
1490(延徳2)年、大洪水が起こり濁水が境内に氾濫した。その時たまたま本堂の床下に、乳飲み子を抱えた母犬がいたが救い出すことができなかった。洪水が引いてみると、不思議なことに母子とも無事であったので、当時の人々は、これは犀角の霊力によるものに違いないと感歎したそうである。 |
1532(天文元)年、山守の乱民が寺内に侵入して伽藍に放火した。にわかの事で、御本尊を運び出すことができなかったが、御本尊は自ら向うの洲に飛び移られ、 数日後吉井川のほとりで発見されたが、無傷であったため、人々は観音の威徳をおおいにたたえたという。 |
もと御野郡の住人太田太郎兵衛なるもの邑久郡(現在の岡山県瀬戸内市)に転住し、久しく御本尊を信仰し、日参して 誓願をしていたが、 ある時にわかに洪水となり、濁流堤に溢れ、人馬の往来も絶えてしまった。太郎兵衛は困惑して向こう岸にたたずんでいたところ、一人の僧侶が小舟を漕ぎ寄せ、 彼を乗せて観音堂の前の岸に無事送り届けるやいなや、たちまちにして舟も人も共にあとかたもなく消え失せてしまった。太郎兵衛は、これはひとえに観世音菩薩のお助けによるものと感じ入りますます信心を篤くしたとのことである。 |
「500周年!西大寺会陽(絵巻)【和田フォト】 - Wa Daフォトギャラリー 」。
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(私論.私見)