西大寺会陽資料

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.16日

 (吉備太郎のショートメッセージ)
 ここで、「会陽裸祭り考」をものしておく。

 2016.2.22日 吉備太郎拝


【西大寺の御堂構成】
 2019.3.18日、国の文化審議会(佐藤信会長)が、西大寺得会陽の舞台である西大寺観音院(岡山市東区西大寺中)の仁王門(江戸中期の建立)、石門(国内最大級の竜宮造)、高祖堂、鐘楼門、経蔵の5件、大浦神社(浅口郡寄島町)の本殿、祝詞殿、幣殿、拝殿など計8件を登録有形文化財にするよう、柴山昌彦文部科学相に答申した。
 1.観音院 本堂

 金陵山西大寺(観音院)の本堂には、御本尊として、皆足媛が長谷の観音様の化身の仏師に造っていただいたとされる千手観音像が安置されている。ご開帳は三十三年に一度行われる。

 2.観音院 牛玉所殿(ごおうしょでん)

 牛玉所殿(当地ではゴオショオサマと訛る)には、牛玉所大権現と金毘羅大権現が御祭されている。そして、皆足媛の御位牌も安置されている。金毘羅大権現の御本体は、明治初頭に吹き荒れた廃仏棄釈の嵐の中、縁あって、讃岐から西大寺に移された。 それを記念して造られた金牛神輿が展示されている。なお、皆足媛の没年は延暦十五年四月十八日とお位牌に刻まれている。

 3.山口五社宮(皆足神社)

 山口五社宮は、観音院の北西50Mほどにある。 素戔鳴、大名持、小彦、稲荷、大國主の五社があり、中央の御社には、皆足媛の御霊が合祀されている。山口と名前がついているのは、皆足媛の出身地である山口県から移ってきた山口姓の一族が祖先を祀るために造ったからである。この神社は、当地では権現地と呼ばれている。当初は山口権現と呼ばれていたが、 皆足媛の死後、京より命(みこと)の位が授けられ、のちに皆足媛を御祭するため、この権現地を選び、ここにあった権現様を観音院に移し、替わって皆足媛の御霊をお迎えしたと云われている。故に皆足媛の御神体とされる宝剣も安置されている。

 4.観音堂

 皆足媛が観音像を安置した松中島の草堂とも云われる。場所は、金岡の庄、川北にある。


【西大寺会陽その他】
 宝木(しんぎ)の原木は、会陽で福男が獲得した宝木が本物かどうかを確かめる検分に用いられる。宝木は木を二つに割って作り、切断面を合わせて調べる。宝木は擬宝珠(ぎぼし)に入れられ、牛玉紙(ごおうし)やシキビのほか五薬、陀羅尼などと共に和紙で包んで封入りされてて保管される。この仕組みは、坪井住職が、三重県の伊勢神宮内宮につながる宇治橋の欄干に神札が納められた擬宝珠(ぎぼし)があり、参拝者がご利益を求めて触れに来ることから思いつき、令和天皇陛下の即位礼正殿の儀に合わせて10.22日、本殿前に設置され公開された。擬宝珠は真ちゅう製で、表面に「牛玉(ごおう)西大寺寶印(ほういん)」と書かれた金文字が刻まれている。高さ140cmほどの吉野杉の柱の上に取り付けられており、誰でも自由に触ることができる。宝木は福男しか手にすることができないが、「参拝者にも間接的であるが原木に触れてもらい、ご利益を願って欲しい」との思いが込められている。
 2019西大寺会陽(国重要無形民俗文化財)は2.16日に行われる。1.28日、一連の行事の開始を告げる「会陽事始め」が西大寺観音院で始まった。「事始め」に先立ち、書家・奥田桂峰(75、西大寺地区出身にして瀬戸内市邑久町)が「一陽来福 西大寺会陽」と揮毫(きごう)した。裸衆が奪い合う宝木(しんぎ)を作る道具を職人が手入れした。白装束に身を包んだ棟梁の次田尚生(ひさお、80歳、岡山市東区邑久郷)、息子の典生(49歳)親子が、古式にのっとり、客殿二階の広間で烏帽子(えぼし)に白装束姿で作業をし、かんなやのこぎりなど約20点を砥石で丹念に研ぐなどした。会陽の無事を祈る法会も営まれた。祝い主の旭電業、山陽新聞社、会陽奉賛会の関係者ら約30人が出席し、坪井綾広住職(42)らが読経した。

 1.30日深夜から31日未明にかけて如法寺無量寿院(岡山市中区広谷)に原木を取りに行く(「宝木取り」)。1.31日朝、「宝木削り」が始まる。2.3日、五穀豊穣などを祈願する修正会(しゅしょうえ)が始まる。2019年から会陽節分祭が始まる。2.8日、西大寺会陽奉賛会は、今年の「西大寺会陽」の祝い主を、旭電業(同市南区西市)と山陽新聞社(同市北区柳町)に決めたと発表した。両社とも3回目。19年に創業70年を迎える旭電業は00年と09年、19年が創刊140周年となる山陽新聞社は1999年と09年に続いて祝い主を務める。宝木(しんぎ)を獲得した福男に賞金を贈るほか、宝木を作る道具を磨く「会陽事始め」などの関連行事に立ち会う。

 西大寺会陽は1510年に始まったとされる。日本三大奇祭の一つとして知られ、まわし姿の男衆1万人が福を求めて宝木を奪い合う。毎年2月の第3土曜日に開かれ、午後10時に宝木が投下される。 2.16日に結願となり、午後10時、本堂で宝木が投下される。

 その裸衆が身に着けるまわしは呉服卸・貸衣装業の土川良(岡山市北区今、土川良人社長)が請け負っている。まわしは長さ約10m、幅約40cm。これに観音菩薩の御利益があると云う宝印と、備前国西大寺と刻まれた朱印を西大寺観音印から借り受けて押す。同社は1500枚の注文を受けている。これを祝い主の旭電業(岡山市南区西市)と山陽新聞社(岡山市北区柳町)のほか、歴代の祝い主などに届ける。印のないまわしは1枚1200円程度で岡山市東区のスポーツ店などで売り出される。鑑めーと散るのう
 1819年に完成した西大寺観音院石門と1854年に焼失する前の旧本堂が描かれていることから、この間に描かれたと思われる、A3版ほどの画面に、渦となって境内へなだれ込む裸衆がごま粒大でびっしりと埋め尽くされている「備前西大寺正月十四日会陽之図」が遺されている。絵師は梅斎。版元は地元・西大寺刷り師。
 1900(明治33).2.13日付け山陽新報附録が伝える西大寺会陽の挿絵を見ると、髪を下ろした女性達が合掌して境内を進み、男衆がさっと道を開ける様子が伺える。第二次世界大戦中は出征した夫や息子の武運長久を祈って参拝する女性が増えたと云う。
 明治以降、行政の変遷により合併が幾度か行われ、昭和の戦後には当地は上道郡西大寺町、古都、可知、光政、津田、九蟠、金田、雄神の各村と邑久郡豊、幸島、太伯、朝日、大宮の各村と邑久町長沼の合計14町村に分かれていた。

 1953(昭和28).2月、14町村の内の西大寺町と古都、可知、光政、津田、九蟠、金田、豊、幸島、太伯各村と邑久町の内の長沼(東谷地区のぞく)の11町村が合併し西大寺市を新設、かつての西大寺村域に市役所を構えた。翌年には邑久郡大宮村宿毛の内の一部(幸地崎町)が西大寺市へ編入し、続く同30年に上道郡雄神村、邑久郡朝日村の2ヶ村が編入、さらに同31年には邑久郡大宮村(千手地区の一部は牛窓町へ編入)が編入合併し、現在の西大寺エリアが確定した。  

 1969(昭和44).2.18日、岡山市と西大寺市が合併。岡山市への西大寺市の編入合併が成立16年間の市政にピリオドを打った。

【西大寺会陽太鼓】
 「西大寺会陽太鼓」のメンバーは全員女性。2019年で結成27年目、岡山市西大寺地区を中心に20-50代の14名が活動中。3年前に始まった会陽前日の「会陽宵祭り」では、宝木を獲得する福男にならって、女性に限定した餅まきと福引きで福女二名を決める。

【さいだいじ冬フェスティバル】
 2.1-3.3日までの間、「2019さいだいじ冬フェスティバル」が開幕する。行事は次の通り。
開催日&開始時間 イベント名 会場
2.1-2.28 8時半 西大寺会陽写真&ポスター展 東区役所
1.31-2.17 9時 西大寺会陽写真&ポスター展 西大寺緑化公園・百花プラザ
2.1-2.28 17時半 西大寺ファンタジー2019点灯 JR西大寺駅前広場
2.3 13時 郷土芸能フェスティバルイン西大寺2019 西大寺公民館
2.9 13時半 第26回うたごえコンサート 西大寺ふれあいセンター
2.10 9時 浅越スポーツパーク第16回ゴルフ無料 浅越スポーツパーク
10時半 第60回西大寺駅伝競走大会 神崎山公園競技場
13時 第68回西大寺会陽川柳大会 西大寺ふれあいセンター
2.15 18時 会陽宵祭り 西大寺観音院
2.16 15時20分 少年はだか祭り 西大寺観音院
うらじゃ演舞&吹奏楽演奏 西大寺観音院
裸衆の地練り 西大寺観音院
19時 会陽冬花火(約3千発) 西大寺観音院周辺
22時 西大寺会陽宝木投下 西大寺観音院
2.17-3.3 10時 太伯振興梅まつり 神崎緑地公園
2.22-24 9時 第49回道文会額西部書道展 西大寺緑化公園・百花プラザ
2.23 8時 第6回会陽カップ少年サッカー大会 学芸館瀬戸内グランド
3.3 正午 沖田神社道通宮子供会陽 沖田神社境内

【東大寺2月堂のお水取り】
 東大寺2月堂のお水取り。正式には修二会(しゅにえ)と云い、中心になるのは本尊/十一面観音に日頃の罪科を懺悔して五穀豊穣、防災招福を祈る「悔過」(けか)と云う儀式。厳しい修行に望む練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧侶が板に体を打ちつける「五体投地」などが行われる。練行衆の道明かりとして本行が始まる1日から14日まで毎晩、松明(たいまつ)が登場し火の粉が闇の中で幻想的に舞い散る。12日だけ長さ約8m、重さが通常の2倍近い約60-70キロの籠松明が登場し、付き人の童子(どうじ)が練行衆を導きながらお堂へ入る。石段を上りきると、燃え盛る籠松明をお堂の欄干から火の粉を降らせながら駆け抜ける。13日未明、お水取りの由来となった「お香水」(おこうすい)を汲み上げで、2月堂本尊の11面観音に備える儀式があり、15日未明に満行を迎える。752年の創始以来、一度も途切れることなく受け継がれている。


【西大寺会陽ユーチューブビデオ】
 2008西大寺会陽はだか祭り!宝木投下ver1
 2009岡山 西大寺 裸祭り 1/5
 2009西大寺会陽【岡山の歴史と文化】
 2010西大寺会陽
 2011西大寺会陽 裸ひしめく奇祭
 2011Japanese Naked Man Festival 岡山西大寺 会陽 はだか祭り
 2012西大寺会陽に行ってきました パート1 Stereo音声(2012.2.18)
 2012SAIDAIJI-EYOU Hadaka Matsuri (Semi-Naked Festival)
 2013岡山西大寺会陽22時宝木投下
 2013★日本三大奇祭・西大寺会陽TV中継★
 2014西大寺会陽(裸祭り)
 2014西大寺はだか祭り・宝木この手に9000人雄叫び
 2015西大寺会陽
 2015西大寺会陽福男
 2016日本三大奇祭 はだか祭り(西大寺会陽)ダイジェスト版
 2016西大寺「はだか祭り」 男衆1万人が宝木激う
 2016西大寺会陽2016福男 寺坂グループ・林グループ
 2017西大寺会陽
 2017西大寺会陽はだか祭り(宝木投下)-石門
 2017西大寺会陽裸まつり Saidai-ji Eyo Hadaka Matsuri
 2017西大寺会陽2017福男 高原グループ・林グループ
 第509回西大寺会陽【和太鼓演奏】

【御本尊異聞】
 「皆足媛(みなたるひめ)」参照。
 1299(正安元)年正月22日、落雷により本堂はじめ多数の伽藍が炎上した。その時御本尊が突如として大身を現わし山のごとくなり、そのため外に出すことかなわず、やむなく合掌の御手だけ打ち落として持ち出した。その後焼け跡から、完全なお首を発見し、同年8月11日、そのお首と合掌の御手とをもって御本尊を修造した。
 1483(文明15)年12月12日、但馬の兵、山名新兵衛という不信心者が、お堂の軒下を壊して薪にし、それで兵士の飯などを炊いたりした。ところがそれを食したものは顔面たちまち土色に変色し、卒倒してしまった。皆仏罰のよるところと畏れおののき、以後信仰を深くするようになったという。
 1490(延徳2)年、大洪水が起こり濁水が境内に氾濫した。その時たまたま本堂の床下に、乳飲み子を抱えた母犬がいたが救い出すことができなかった。洪水が引いてみると、不思議なことに母子とも無事であったので、当時の人々は、これは犀角の霊力によるものに違いないと感歎したそうである。
 1532(天文元)年、山守の乱民が寺内に侵入して伽藍に放火した。にわかの事で、御本尊を運び出すことができなかったが、御本尊は自ら向うの洲に飛び移られ、 数日後吉井川のほとりで発見されたが、無傷であったため、人々は観音の威徳をおおいにたたえたという。
 もと御野郡の住人太田太郎兵衛なるもの邑久郡(現在の岡山県瀬戸内市)に転住し、久しく御本尊を信仰し、日参して 誓願をしていたが、 ある時にわかに洪水となり、濁流堤に溢れ、人馬の往来も絶えてしまった。太郎兵衛は困惑して向こう岸にたたずんでいたところ、一人の僧侶が小舟を漕ぎ寄せ、 彼を乗せて観音堂の前の岸に無事送り届けるやいなや、たちまちにして舟も人も共にあとかたもなく消え失せてしまった。太郎兵衛は、これはひとえに観世音菩薩のお助けによるものと感じ入りますます信心を篤くしたとのことである。

 「500周年!西大寺会陽(絵巻)【和田フォト】 - Wa Daフォトギャラリー 」。
▲鐘楼門の鐘は、朝鮮鐘(ちょうせんがね)と呼ばれている銅鐘(口径650×総高1112mm)で、10世紀中葉に造られたものと鑑定されている。当時の新羅(しらぎ)から伝わったもので、国の重要文化財に指定されている。橦木(しゅもく)が当たる前後二箇所の撞座(つきざ)には、五体一組の舞踏奏楽飛天(ぶとうそうがくひてん)が表裏に鋳出(ちゅうしゅつ)されている。
▼金陵山西大寺は、度々火災に遭い、観応(かんおう)2年(1351)の「権少僧円慶寄進状案」が最古の文献で、それ以降の資料しか残されていない。寺の創建や来歴は、永享(えいきょう)12年(1440)の「備前国西大寺勧進帳」や永正(えいしょう)本、寛文(かんぶん)本、延宝(えんぽう)本、享保(きょうほう)本の「備前西大寺縁起絵巻」に書き継がれている。
 これらの文献によると、天平(てんぴょう)3年(751)周防玖珂庄(すおうくがしょう)(現山口県玖珂郡)に住む藤原皆足(ふじわら・みなたる)という女性が観音菩薩の妙縁を感じて金岡(かなおか)の荘(現西大寺金岡)松中島(まつなかじま)に草庵を建て、千手(せんじゅ)観音を祀ったのが始まりという。写真下は、その観音霊験譚を描いたものである。
▼宝亀(ほうき)8年(777)には、開山の祖と仰がれる安隆上人(あんりゅうしょうにん)が奈良の長谷寺(はせでら)に参籠して、「備前の国・金岡に行って観音堂をあらため、つくるべし」との夢告(むこく)を得たため、西国に下り、東児島槌戸の瀬戸で龍神から犀角(さいかく)(犀の角つの)を授かり、「犀角を埋めて堂を建立すべし」との教えに従って、四面五間(しめん・ごけん)の堂を建立したのが今日の西大寺であると伝えられている。写真下は、この伝説を描いたものである。
 このとき、寺号を「犀角を戴く寺」犀戴寺(さいだいじ)と号したが、承久(じょうきゅう)の乱(1221)で後鳥羽上皇が執権北条義時への倒幕の祈願を行った際に書かれた御宸筆(ごしんぴつ)により、「西大寺」と改められ、現在に至っている。
▼かつては犀戴寺(さいだいじ)だったことから犀(さい)の角(つの)が西大寺に伝わっている。日本では、現在でも動物園でしか見ることができない珍獣であるが、化石はともかく、右の犀の角は、形が細長く、実在の犀の角とは全く違っており、偽物であることは明らかである。
 ちなみに、犀の角は骨質ではなく、蹄(ひづめ)と同じで、皮膚の死んだ表皮細胞がケラチンで満たされてできた角質で構成されている。そのため風化が早くて化石になりにくく、折れても時間が経てば再生されるという。
▼池田藩から寄進された備前西大寺縁起絵巻の収納箱の蓋(ふた)に犀(さい)の絵が描かれているが、見たことがない人が描いたもので、似ても似つかぬ姿をしている。鎖国政策を続けた江戸時代の情報不足が嘆かわしい。
▼毎年2月1日になると、西大寺会陽に向けた「会陽事始め」の儀式が西大寺観音院で行われ、裸衆が奪い合う一対の宝木(しんぎ)を作る道具磨きの後、無事を祈る法会(ほうえ)があり、本番までの一連の行事が始まる。
▲道具磨きは、岡山市東区邑久郷の棟梁・次田尚生さん(71)と典生さん(40)父子が烏帽子に白装束姿となって客殿で行われた。古式にのっとり、鋸(のこぎり)を目立てし、鉋(かんな)の刃を砥石で磨くなどして十数点の道具を丁寧に手入れした。
▼本堂内陣で行われた法会(ほうえ)には、今年の祝主の両備グループ代表や西大寺会陽奉賛会の関係者ら約50人が参列し、坪井全広(つぼい・ぜんこう)住職らが読経した。
▼2月第3土曜日の会陽の日より17日前の深夜午前零時になると、使者が西大寺を出発し、その北西3kmの芥子山(けしごやま)山腹にある広谷山無量寿院(ひろたにさん・むりょうじゅいん)へ宝木(しんぎ)の原木を受け取りに行く。
 一列縦隊となった一行は7~9名で、一文字の菅笠(すげがさ)に手甲脚絆草鞋履(てっこう・きゃはん・わらじばき)という伝統装束に提灯を携える。1名は裃(かみしも)姿となり、道中は一切無言である。写真下は昔のもので、現在、この橋は架け替えられて車道となっているが、往復するルートや伝統装束は昔のままである。
▼筆者は、事前踏査の日にJR西大寺駅で西大寺会陽を撮り続けて20年になるという地元アマチュア写真家の中井三郎さんと知り合い、ご支援・ご指導を賜った。会陽当日、昼食後、中井さんに途中まで案内して頂き、この無言行列のコースをたどり、無量寿院を訪ねた。宝木(しんぎ)の原木は、この裏手の芥子山(けしごやま)山中で切り出されるという。往復6kmの歩行は大変だったが、広々とした田畑(でんぱた)の間を歩くのは清々しく、都会では味わえない貴重な体験となった。
 切り出された原木から長さ約18cm(6寸)、直径約4cmの円筒形に整えるのは、観音院の宝木担当の僧侶である。新たに生まれた2本の宝木は、香を塗り焚き込められて、西大寺牛玉寳印(ごおうほういん)と記された聖なる紙に包まれ、御本尊・千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)の後に納められる。そして、14日間の修正会(しゅしょうえ)が執り行われ、結願(けちがん)の日に五福をもたらす霊験新たな宝木が誕生する。
▼約1200年前、金陵山西大寺を安隆上人が創設したとき、奈良東大寺の良弁(ろうべん)僧正の弟子実忠上人(じっちゅうしょうにん)が編んだ修正会(しゅしょうえ)が伝えられた。修正会は正月に修する法会(ほうえ)で、西大寺では14日間、一山の全僧侶十余人が斎戒沐浴して、祭壇に牛玉(ごおう)を供え、観世音菩薩の秘法を修し、国家安穏、五穀豊穣、萬民繁栄の祈祷を行う。
▼修正会(しゅしょうえ)では、八幡(はちまん)や明神(みょうじん)など、国内の125社の神々を勧請(かんじょう)して修される。明治維新の際に神仏分離・廃仏毀釈が行われたが、西大寺ではその被害を免れ、現在も見事な神仏習合の仏教文化が存続している。
▼牛玉(ごおう)(牛玉紙)は、右から左へ「牛玉」「西大寺」「寳印」と順に並べて彫り込んだ版木(はんぎ)と墨汁を用いて杉原や日笠という丈夫な和紙に刷り込み、5箇所に宝珠の朱印を捺(お)した護符である。14日間の祈祷を経て、満願になると、今年一年の五福(寿・富・康寧・好徳・終年)を授ける意味で、この牛玉を信徒の年長者や講頭(こうがしら)に授けたところ、牛玉を頂いた農家は作物が良く取れ、厄年の人は厄を免れるので、年々希望者が増え、奪い合うようになったという。
▲西大寺には現在2枚の牛玉紙版木(ごおうしはんぎ)が伝えられている。写真上の牛玉紙は、下の版木を使ったもので、240mm×318mmの大きさがある。
▼もう一つは、裏面に安政4年(1857)の墨書銘を持つ 300mm×428mm の大きさのもので、二枚とも現在も使用されているという。私は前者の文字がより達筆で美しいと思う。
寺社が頒布する護符である牛玉宝印(ごおうほういん)は、特に熊野三山の三社権現のものが有名で、その裏に誓約(起請)文を書く誓紙は、熊野誓紙と呼ばれ、戦国武将たちの盟約や商人の取引などに広く使われていた。 玉宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあればたちまち神罰を被るとされた。
 牛玉 (ごおう)という不思議な名は、牛黄(ごおう)(牛の胆嚢(たんのう)結石で貴重な霊薬)をお札の朱印に用いていたことに由来しているともいわれているが、なぜ「ごおう」というのか、なぜ「午うま王おう」と書かずに「牛うし玉たま」と書くのかは、謎のままである。詳しくは、早春の熊野三山を参照されたい。
 ちなみに、熊野の牛玉宝印は三本足の八咫烏(やたがらす)と宝珠が組み合わされた絵文字で、三山それぞれデザインが異なる。本宮は88羽、新宮は48羽、那智は72羽の烏が使われており、本宮と新宮は「熊野山宝印」、那智は「那智瀧宝印」と記されている。日本サッカー協会 Japan Football Association のシンボルマークや日本代表チームのエンブレムには1本の足でサッカーボールをつかみ、二本足で立つ八咫鳥がデザインされている。
▼牛玉紙では奪い合うとちぎれるので、今から丁度500年前、室町時代の永正(えいしょう)7年(1510)、時の忠阿上人(ちゅうあしょうにん)が牛玉紙を長さ6寸(約18cm)の木製の宝木(しんぎ)に換え、むらがる信徒の中に投げ入れ、これを得た者に五福を与えるようにし、このとき初めて會陽(えよう)と名付けられた。平成22年(2010)は、それから丁度500年目に当たり、500周年記念の会陽が盛大に執り行われたが、回数的には501回目となる。
 かつては、陰陽二本の宝木が牛玉紙に包まれて投下されていたが、現在は、陰陽の区別がなくなり、二本の宝木が1枚の牛玉紙に包まれて御福窓から大床に投下される。
▼忠阿上人(ちゅうあしょうにん)は、西大寺中興の祖・会陽の開祖と伝えられ、高さ31cmの座像が本堂内陣に安置されていて、拝観することが出来る。右手に持つのが牛玉杖(ごおうづえ)といわれるもの。木造彩色で、江戸後期の作品という。
 西大寺縁起には、「十穀の聖、紀州の人なり、無二の願いを起こして再興の志切なり、これ又化身の随一なるをや」と記され、観音化身の一人に数えられている。
▼下の会陽の図は、藩主池田光政の家老が寛文(かんぶん)年間に奉納した備前西大寺縁起絵巻の一部である。会陽の始まった初期の有様を描いた最古の会陽の図で、岡山県指定重要文化財となっている。
▼西大寺寺宝の縁起絵巻は、時代が下るにつれ、書き写されて奉納されており、下の図は、最古の図が原形になっていることが伺われる。素朴な会陽を描いたものであるが、男たちの生き生きとした表情が良く画けている。
▼展示コーナーには、日本三大奇祭の一つ大阪・四天王寺の「どやどや」の牛玉宝印(お札)が展示されていた。解説文によると、西大寺会陽(岡山県)・四天王寺どやどや(大阪府)・黒石寺蘇民祭(岩手県)が日本三大奇祭と呼ばれ、寺院の祭礼で正月に祈願したお札をふんどし姿で取り合うところが共通するとしている。「どやどや」と「蘇民祭」は既に取材済みであり、詳しくは日本三大奇祭を参照願いたい。
▼西大寺の西大寺会陽を「岡山県指定無形文化財として指定する」と記載された昭和28年(1953)5月4日付の指定書が展示されていた。かなり痛んでいるが実物である。
▼本堂内陣入口の通路に展示されている巨大な「なで珠数」は、欅(けやき)の本堂の古材で造られたもので、長さは、365日を象徴する365寸(約11m)あり、この珠数をなでれば1年中健康でいられるよう祈りをこめて造られたもの。




(私論.私見)