「自分の王国」を作ろうとした男
平将門と平清盛の距離感
平将門はずいぶん古い時代の人である。とても古い。それをあまりきちんと把握できていない。刺激的な新書『平将門と天慶の乱』(乃至政彦 講談社現代新書)を読んで、つくづくそうおもっている。それはおそらく「平安時代」の長さを身体的に捉えられてないからだろう。具体的に言ってみれば、「平将門と平清盛の距離感」がわかってないのだ。同じ平氏で、どっちも平安時代の人だから、なんか頭の中で何となく似通ったグループに入れてしまっている。でもこの二人はかなり離れている。平将門は10世紀前半の人である。だいたい900年から910年くらいの生まれ。平清盛は12世紀後半の人だ。1118年の生まれ。200歳ちょっとの差である。200歳の年齢差というのは実感しにくい。いまの人でいえば、トランプ大統領は1946年生まれだけど、歴代大統領をさかのぼっていけば初代大統領ワシントンが1732年生まれで、年齢差が214歳だ。1954年生まれの安倍晋三首相と比べるなら、そうですねえ、寛政の改革の松平定信が1759年生まれなので195歳差、それぐらいになってしまいます。清盛から見た「将門さん」は、トランプからみたワシントン、安倍晋三から見た松平定信くらいの距離があったということになる。これでもまだ、遠いという感じしかわからない(平清盛は、将門を倒した従兄弟の平貞盛の直系子孫である)。
平安時代に珍しい「肉感的な男」
平安時代をざっくり4つに分けると、将門は2つめの時代の前のほう、清盛は4つめの最後ということになる(図版にしてみました)。拡大画像表示
将門は、武士の鎌倉時代よりも、大仏の奈良時代のほうに近い人なのだ。平安時代の有名人を思い浮かべると、時代が長いわりにさほど浮かんでこない。歴代天皇と摂関家を除いたら、菅原道真、清少納言と紫式部、あとは平清盛に源頼朝あたりになってしまう。天皇とその周辺だけで世界がまわっていたかのようだ。(それ以外の記録が少ないということだろうけど)これぐらいの知識では具体的な世界がなかなか想像できない。そのなかで、あらためて平将門はきわめて肉感的な人物である。言ってしまえば、物語で語られる人物だということでもある。それは『平家物語』で語られる人物と同じヴィヴィッドさがある。だから、平将門と平清盛を同じように捉えてしまうのだろう。もう一度確認しておくけれど、平将門は、菅原道真のすぐあとの時代の人である。彼が死んでからずいぶん経って、「藤原道長、清少納言、紫式部」の時代が来る。光源氏からコメントを取れたとしても「将門って、けっこう昔の人ですよねえ」としか言われないとおもわれる。何のコメントかわからないけど。
長く日本では忌避されてきた存在
平将門は、武士ではない。武士の原型のような人ではあるけれど、武士として生まれて武士として育つ、という時代の人ではない。貴族時代の人である。残念ながら貴族でもない。「無位無冠」のまま生涯を終わっている。それが将門にとっても大きな引っかかりだったようだ。新書『平将門と天慶の乱』を読んでいると、そのへんの時代風景が沸き立つように見えてきて、とても興味深い。平将門のドラマは私は一回しか見たことがない。1976年のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』である。加藤剛が将門を演じていた。日本史上、類のない反逆者である将門は、なかなかドラマ化されない。まあ、時代が昔すぎて細かいことがわからないというのもあるが、変わらず天皇家の国である日本では、将門は「怨霊」とした語られる時代が長かった。見方にもよるけれど「“日本”の歴史上ただ一人の天皇以外の統治者だった(可能性がある)男」として、強く忌避されてきたのだ。書いていてふとおもいだしたが、1976年のNHKの大河ドラマを放映したいたとき、一緒に見ていた明治生まれの祖母が「将門って悪い人やとおもてたけど、けっこう良い人やったんやなあ」と感慨深く言っていたことがあった。明治の教育では、この素敵な反逆者は、徹底的な悪として教えられていたのだろう。(“日本”の歴史上と書いたのは、つまり“日本”という国号が使われるようになった7世紀末以降の“日本”国において、という意味である。それ以前のいろんな王権が乱立していたような時代には、いまの天皇家の祖先以外の統治者もたくさんいたとはおもう)
『ワンピース』に出てきそうな人物
新書『平将門と天慶の乱』が楽しいのは、将門が魅力的に描かれているからだ。将門の乱について書かれた唯一の同時代記録「将門記」に沿い、将門の立場に立って、反逆者とならざるをえなかった男の半生を描いている。NHKの大河ドラマでも同じだった。将門の立場に立てば、それなりの事情がある、ということになる。『平将門と天慶の乱』は、いままでの将門像について、いくつもの疑問を投げかけ、あたらしい将門像を提供する。この本では研究書とはおもえないような、生き生きとした将門に出会える。まず将門の年齢設定が新鮮であった。通説より10歳ほど若いのではないかと推定、最初の争乱を起こしたころを20歳ころとする。「新皇」を名乗り、京都の天皇政権と別の政権を打ち樹てようとしたのがだいたい30歳くらいである。10世紀の関東の平野に立ち、鬼神のごとき働きによって敵を蹴散らし続ける20代の若者というのは、それだけで魅力的に見える。20代を戦いにあけくれ、そして30歳で独立国を樹てて、そしてあっさり滅ぼされてしまう。ロマン漂う風景である。しかもこれは小説ではない。先人の研究をもとに書かれたある種の専門書なのだ。血湧き肉躍る研究書である。漢の劉邦みたいなものであると言いたいが、打ち樹てた独立国は継続しなかったから、陳勝呉広とか、明末の李自成あたりでもいいですけど、おのれの才覚と武力でもって、私的集団をまとめあげ、腐敗した公的機関をぶちのめして、自分たちの国を造った男の話である。めちゃおもろいヤツやん。あらためてそうおもった。言ってしまえば中国の王朝交代劇のような話であり、また漫画『ワンピース』みたいな話でもある。
鬼神のような戦いぶり
平将門は桓武天皇の5世の孫である。つまり、自分の「父の父の父の父の父が」桓武天皇だ。朝廷がしっかり支配できていない遠国を、安定支配するよう現地にて努力している「辺境軍事貴族」という立場だ。将門は武士の棟梁を目指していたわけではない。彼が求めていたのは「辺境ながらも貴族」としてのしっかりした地位の保証であった。位階を叙され、できれば公認の貴族(の仲間)になりたかったはずである。地方で睨みを利かせられる「肩書き」が欲しかっただろう。でも彼は無位無冠のままに終わる。将門は、桓武天皇五世の孫であるから、蔭位というシステムによって、自動的に叙位されるはずだった(従六位下というような位階が授けられるということ)。彼は若いころ、京都で、当時の最大権力者である関白・藤原忠平のもとで奉公していたとされる。21歳になると自動的に叙位され、やがて地方の貴族として認められるはずだった。でも叙位されていない。当書によると、相続すべき土地や軍事機関などを伯父たちに奪われそうになったので、地元へ戻り、土地を守るために戦ったのが21歳より前だったからではないか、ということだ。となると、とても若々しい将門像が現前してくる。19なり20歳で国へ帰り、戦いはじめると鬼神のごとき働きをみせ、連戦連勝、名を馳せ、自分の土地を守りきる。しかし、その戦いぶりも尋常ではなく(当時としてはめずらしく敵を殲滅したらしい)周囲の恨みも買う。関東エリアで何を勝手に暴れ回っているのだ、と、いちど、朝廷に呼び出され、京都に上がって釈明をする。しばらく京都に留まり、許され、自分の地に帰ってくる。将門の本拠は下総と常陸、だいたいいまの茨城県の千葉よりのほうである。地元を留守にしていた将門を殺そうとして、伯父や従兄弟に襲われ、再び戦さになる。戦さが重なり、罠に掛けられたように「常陸国の国衙」を襲うことになる。京都の朝廷の出先機関を襲い、中央から派遣された国司を追い出してしまう。勢い、国に対する反乱軍となった。そのままの流れで関東諸国の国司を追い出し、関東一円を支配した(そこまで広く支配していないのではないか、という見方も存在するが)。
京都の朝廷は驚く。将門は、この瞬間に日本史上に突然、出現した。彼の死亡年はわかっているが、誕生年がわからないのは、「反逆者として殺された」という事実しか中央の正史には残っていないからである。
自分の王国を作ろうとした
朝廷はここで、将門に懸賞首をつける。誰であろうと、将門の首を取ったものは「貴族にしてやる」という報償が示された。ものすごい報償である。「デッドorアライブ」という手配書を国中に張り出したようなものだ。「ワンピース」でいうならば、まあ「50億ベリーの賞金首」というあたりじゃないだろうか。比べるもののなき巨魁とされた。そして懸賞首効果は著しく、周縁の荒くれ者たちは一斉に立ち上がり、将門を襲う。この瞬間に「武士」が生まれた。俵の藤太と呼ばれる藤原秀郷など、彼自身がもともと懸賞首レベルのならず者だったようだが、将門狩りに参加し、将門を倒す。その功績で彼は貴族に叙せられた。前歴のよくわからない藤原秀郷であったが、彼の子孫は武家の名家として歴史に残ることになる。「将門の首」が多くの武士を生んだのだ。将門の首についての伝説が、1000年を越えて語られるのもむべなるかな、というところだ。
将門は、自分の地元だけを治めようとしただけで、関東エリア全域を独立させ、別国家の樹立を考えてなぞいなかっただろう、という研究者もいる。でもどう考えたって、「おれたちは日本から独立して、おれたちだけの関東の王国を作る」という話のほうがロマンに満ちている。そもそも、唯一の記録書である『将門記』がそういう方向で記しているのだから、そのように捉えたくなる。なぜ天皇と並び立とうとしたのか、その飛躍についてはただ想像するしかないのだが、そういう男だった、ということで納得するしかないし、またそういう納得をしたくなる。将門は、つまり「関東王に、おれは、なる!」と叫んだのだ。この新書は、1000年以上昔の関東エリアに、そういう中国史に再三でてくるようなタイプの英雄がいた、ということを示してくれる。読んで、ひたすら興奮する一書である。