「神田祭」考1

 更新日/2019(平成31).1.29日

 (吉備太郎のショートメッセージ)
 ここで、「「神田祭」考1」をものしておく。

 2016.2.22日 吉備太郎拝


 2019.5.11日配信乃至政彦なぜ? 日本三大祭り「神田祭」の知られざる祭神不明の過去」。
 神田祭の起源とは?

 平将門は「朝敵」、「逆賊」、「悪王」など散々に言われているが、地元の東国方面はもちろん、西国でもそれほど嫌われていない。それどころか彼を祭る霊場は日本中のいたるところにあって、大変な人気者である。反逆者として「天罰」がくだり、戦死したはずなのに、今や関東の守護神と化している。都内には将門を祭る二大霊場がある。そのうち「将門塚」についてはすでに触れたので、ここでは「神田明神」に目を向けてみよう。ちょうど神田祭のシーズンなので、タイムリーでもある。

 神田祭は、京都の祇園祭と大阪の天神祭に並ぶ日本三大祭りのひとつと呼ばれるお祭りだ。江戸時代には「天下祭」とも呼ばれていた。ところがそれ以前の神田祭については、よくわからないことが多い。公式情報として社伝が残されているが、その内容は確かな裏付けが取れていないのである。すると、そこに夢やロマンはないのであろうか。祈りは誰に届くのか。信仰は可能なのか。その答えを将門に聞いてみたい。

 デュラハンが倒れた地

 神田祭の起源は明確にされていない。

 徳川家康がこの地を支配していたころ、旧暦で隔年(2年に1回)の9月15日に行われていたという。この日はちょうど1600年に家康が関ヶ原合戦に勝利した日で、それに因むという声もある。しかし事実ではないだろう。神田祭は関ヶ原より前から行われていたといわれているからである。江戸初期の記録を見ると、その起源は将門伝説にあるという。940年、下総国で討たれた平将門の死体が、むくりと起き上がった。立った死体には頭がなかった。将門の首はすでに切り取られており、京都で晒されていたのだ。デュラハン状態の将門は、首を求めて関東を歩き始めた。歩くこと約60キロ。西に向かう途中、将門は武蔵国の江戸で力尽きた。倒れた地は当時の神田明神だった地(いまの将門塚)の付近である。倒れた将門の胴体を見た現地の人々は、境内に祠を建てて、毎年9月15日に祭ることになったという。祟りを恐れてのことであろう。当初、その祭りは猿楽(神事能)を捧げるだけの慎ましいものだったらしい。

 それから400年ほど後の1524年、この地に進出する北条氏綱(早雲の子、氏康の父)がこの地域で合戦をしたため、神田祭は1年休みになった。以降、隔年の催しになったという。デュラハン伝説の実否は『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書)に詳述した通り、すべて作り話だと言ってよい。そもそも人が胴体だけで歩けるなら、中世に〝斬首刑〟が普及するはずがない。日本はゾンビの国ではない。

 なぜ? 日本三大祭り「神田祭」の知られざる祭神不明の過去

 祭神不明だった神田明神

 江戸時代中期の史料を見ると、神田祭は将門とあまり関係なく行われていたことがわかる。なぜなら、当時の人々が「あそこの祭神は誰なのか?」と首を傾げる証言がいくつも残されているからだ。人々は「あそこは熱田大明神を祭っている」、「いや、神功皇后だ」など、諸説紛々たる有様で、その起源は不明だったのである。当時の識者である新井白石は「昔は平将門だったが、いまは牛頭天王と洲崎明神を祭っている」と言い、山崎闇斎も「素盞嗚命をお祭りしているところだ」と唱えていた。見事にバラバラである。定説がないということは、神田明神自体が公式見解を示していなかったのだろう。祭神が不明では、神田祭が何をお祭りするイベントなのかも不明だったはずである。それが江戸時代後期に地誌ブームがあって、「やっぱり将門でいいのではないか」と言われるようになり、明治になると「俗習ばかりの神社は認めない。ちゃんとした由緒を示して、祭神を明らかにするように」とのお達しがあって、ようやく祭神・将門が公式化したのである。

 都市伝説を生んだ福沢諭吉の筆力

 いまの神田祭は5月15日に行われている。しかし、先にも触れたように、江戸時代は旧暦の9月15日に行われていた。これが明治になると新暦の9月15日からの期間に移されることになった。すると神田祭は公式化したばかりの将門と、切り離されることになってしまった。神田明神が〝将門は朝敵だ〟という声に配慮して、将門を主神から外したのだ。すると神田祭も行われなくなった。将門に関係ないお祭りなどする必要がないというわけである。しかし10年ほど経つと、「将門抜きでいいから、またあの大きなお祭りをやろうじゃないか」という機運が高まった。こうして明治20年(1884)、氏子たちはかなり大掛かりな資金と人員を揃えて、祭りの準備を整えた。神田ッ子たちは「祭りは!  俺らの中にある!」と思い切ったのだろう。しかし祭りの直前、未曾有の巨大台風が急接近した。台風は関東の「家も蔵も森も林も平等一切」あらゆるものを吹き飛ばした。このため、15日の祭りは中止となった。福沢諭吉は『時事新報』のコラムで、この台風を「将門様の御立腹」によるものだと説いた。ただし、諭吉は大のオカルト嫌いで有名だ。本気で言ったのではなく、世俗的な読み物として口から出まかせの漫言を書いたに過ぎない。これがなぜか、あとから真実味を帯びていき、近現代に将門怨霊伝説を増産させるに一役買うこととなった。たとえば、「将門塚を更地にしたあと、大蔵大臣が急死した」などの祟り話をご存知の方も多いだろう。だが、この大臣は、将門塚が更地にされたときの大臣と別人である。しかもその死は「大往生」と報道されていて、死亡当時に将門の祟りとは言われていなかった。その後、復興された将門塚を壊して駐車場にしようとする業者が作業中に事故死したという話も有名だが、例によってエビデンスのない巷説に過ぎない。つまり、将門の祟り話は根拠なき俗話ばかりなのである。

 なぜ? 日本三大祭り「神田祭」の知られざる祭神不明の過去

 9月から5月に移った神田祭

 神田明神に関係する都市伝説に、神田祭が9月から5月に移った原因を、いま述べた「将門台風」にあるとするものがある。もしこれが事実とすれば、その霊力の巨大さに戦慄させられる話である。だが、そうではない。15日の神田祭は休みとなったが、なんとその翌日である16日にはいつも通り再開されているのだ。また開催月が移ったというのもこの6年後のことで、原因は伝染病が流行ったことにある。つまり、神田祭が5月になった理由は、将門とまったく関係ないのだ。その後も、将門が祟るという怪しい伝説は続々と作られていった。これについては『平将門と天慶の乱』に細かく書いた。電子書籍取扱書店のサイトに行けば、ある程度のところまで見本が読めるようになっているので、怨霊論を語りたい人はぜひ手にとってもらいたい。もし将門の祟り話が1個でも本物なら、将門が日本最強最悪の怨霊であるように仕立てた『帝都物語』の作者である荒俣宏先生こそ、真っ先に何らかの障りがありそうなものだ。しかし、先生は今もお元気だと聞いている。将門が東京に災いをなすというなら、神田明神のある東京が世界屈指の文明都市として繁栄しているのはどう説明できようか。将門塚のすぐ近くにある皇居も長年の平和を保っている。『平将門と天慶の乱』で怨霊譚のことごとくを否定したわたしも、発売から1ヵ月が経つのに今もってピンピンしている。これからもビンビンだろう。

 まさかど様が戻った神田祭

 ともあれ、神田祭は開催月を変えながらも、江戸時代から今日までこうして平和に続いている。なお、明治初期に祭神から外された将門が、ふたたび神田明神の神さまに戻ったのは昭和59年(1984)のことであることに留意されたい。台風事件の明治20年(1884)のから、約100年もの間、神田祭は将門抜きでお祭りを続けてきたのだ。神田ッ子たちは、それでも懸命にお祭りを楽しんできた。そして今では将門抜きで行えないお祭りに育っている。

 ダイコク様・エビス様・まさかど様の由緒

 ついでに神田明神の祭神について述べておこう。将門が復帰したことで現在は一ノ宮にダイコク様(大己貴命=オオナムジノミコト)、二ノ宮にエビス様(少彦名命=スクナヒコナノミコト)、三ノ宮にまさかど様(将門命=マサカドノミコト)が祭られている。ただ、初期の神田明神がいずれの祭神を祭って来たのか、実はよくわかっていない。社伝によれば、神田明神は天平2年(730)に出雲出身の真神田臣(まかんだおみ)氏が創建したことにされている。このとき祭神とされたダイコク様(大己貴命)は、安房神社(千葉県館山市)から分祀されたものだという。しかしその安房神社では、今も昔もダイコク様を祭神としていた形跡がなく、この伝承には疑念が残る。今、二ノ宮に祭られるエビス様は、明治になって将門を祭神から外したとき、取り急ぎ祭神に加えられたものである。今では三ノ宮に祭られる将門も、首無し死体が歩いたり、首が飛来したという伝説を信じる現代人はいないだろう。将門がもともとどういう経緯で祭神となったのかは、歴史学の見地で首肯できる回答が見出されていない。これらのことから神田明神のもともとの祭神は不明と言わざるを得ないのである。

 神田明神と将門命

 ここまで神田明神ならびに神田祭の由緒や変遷について、色々と疑念を挟み込んできた。だが、これで人々の信仰が揺らぐようなことはあり得ないだろう。そもそも、我々の歴史への愛や、霊場への信心は、文献史や風俗史の手法による研究・検証・指摘で霧散するほど、脆いものではないはずだ。お祭りに参加する人々の将門に対する敬慕の念、江戸総鎮守府への熱意、そして祭神への信仰心は、どれも一点の曇りなく真実そのものだと言い切れる。神田明神の由緒と変遷がどうであれ、現在の祭神が「ダイコク様・エビス様・まさかど様」である事実は、これからも変わらない。

 今も生き続ける坂東の虎

 生前の将門は、困った人たちを見捨ることなく、常に勇気づけ続けてきた。また、関東の民が国司たちに見放されたとき、彼らのために立ち上がるような男だった。そんな将門のことだから、神田祭で活力にあふれる我々の姿も、笑顔で見守ってくれているだろう。その由緒がなんであろうと、我々は胸を張って「祭りなら!  我らの中にある!」と、将門に微笑がえしすればいいのだ。


 堀井 憲一郎/コラムニスト「平将門はなぜ日本史の中で「特異な存在」に見えるのか」。
 「自分の王国」を作ろうとした男

 平将門と平清盛の距離感

 平将門はずいぶん古い時代の人である。とても古い。それをあまりきちんと把握できていない。刺激的な新書『平将門と天慶の乱』(乃至政彦 講談社現代新書)を読んで、つくづくそうおもっている。それはおそらく「平安時代」の長さを身体的に捉えられてないからだろう。具体的に言ってみれば、「平将門と平清盛の距離感」がわかってないのだ。同じ平氏で、どっちも平安時代の人だから、なんか頭の中で何となく似通ったグループに入れてしまっている。でもこの二人はかなり離れている。平将門は10世紀前半の人である。だいたい900年から910年くらいの生まれ。平清盛は12世紀後半の人だ。1118年の生まれ。200歳ちょっとの差である。200歳の年齢差というのは実感しにくい。いまの人でいえば、トランプ大統領は1946年生まれだけど、歴代大統領をさかのぼっていけば初代大統領ワシントンが1732年生まれで、年齢差が214歳だ。1954年生まれの安倍晋三首相と比べるなら、そうですねえ、寛政の改革の松平定信が1759年生まれなので195歳差、それぐらいになってしまいます。清盛から見た「将門さん」は、トランプからみたワシントン、安倍晋三から見た松平定信くらいの距離があったということになる。これでもまだ、遠いという感じしかわからない(平清盛は、将門を倒した従兄弟の平貞盛の直系子孫である)。

 平安時代に珍しい「肉感的な男」

 平安時代をざっくり4つに分けると、将門は2つめの時代の前のほう、清盛は4つめの最後ということになる(図版にしてみました)。拡大画像表示

 将門は、武士の鎌倉時代よりも、大仏の奈良時代のほうに近い人なのだ。平安時代の有名人を思い浮かべると、時代が長いわりにさほど浮かんでこない。歴代天皇と摂関家を除いたら、菅原道真、清少納言と紫式部、あとは平清盛に源頼朝あたりになってしまう。天皇とその周辺だけで世界がまわっていたかのようだ。(それ以外の記録が少ないということだろうけど)これぐらいの知識では具体的な世界がなかなか想像できない。そのなかで、あらためて平将門はきわめて肉感的な人物である。言ってしまえば、物語で語られる人物だということでもある。それは『平家物語』で語られる人物と同じヴィヴィッドさがある。だから、平将門と平清盛を同じように捉えてしまうのだろう。もう一度確認しておくけれど、平将門は、菅原道真のすぐあとの時代の人である。彼が死んでからずいぶん経って、「藤原道長、清少納言、紫式部」の時代が来る。光源氏からコメントを取れたとしても「将門って、けっこう昔の人ですよねえ」としか言われないとおもわれる。何のコメントかわからないけど。

 長く日本では忌避されてきた存在

 平将門は、武士ではない。武士の原型のような人ではあるけれど、武士として生まれて武士として育つ、という時代の人ではない。貴族時代の人である。残念ながら貴族でもない。「無位無冠」のまま生涯を終わっている。それが将門にとっても大きな引っかかりだったようだ。新書『平将門と天慶の乱』を読んでいると、そのへんの時代風景が沸き立つように見えてきて、とても興味深い。平将門のドラマは私は一回しか見たことがない。1976年のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』である。加藤剛が将門を演じていた。日本史上、類のない反逆者である将門は、なかなかドラマ化されない。まあ、時代が昔すぎて細かいことがわからないというのもあるが、変わらず天皇家の国である日本では、将門は「怨霊」とした語られる時代が長かった。見方にもよるけれど「“日本”の歴史上ただ一人の天皇以外の統治者だった(可能性がある)男」として、強く忌避されてきたのだ。書いていてふとおもいだしたが、1976年のNHKの大河ドラマを放映したいたとき、一緒に見ていた明治生まれの祖母が「将門って悪い人やとおもてたけど、けっこう良い人やったんやなあ」と感慨深く言っていたことがあった。明治の教育では、この素敵な反逆者は、徹底的な悪として教えられていたのだろう。(“日本”の歴史上と書いたのは、つまり“日本”という国号が使われるようになった7世紀末以降の“日本”国において、という意味である。それ以前のいろんな王権が乱立していたような時代には、いまの天皇家の祖先以外の統治者もたくさんいたとはおもう)

 『ワンピース』に出てきそうな人物

 新書『平将門と天慶の乱』が楽しいのは、将門が魅力的に描かれているからだ。将門の乱について書かれた唯一の同時代記録「将門記」に沿い、将門の立場に立って、反逆者とならざるをえなかった男の半生を描いている。NHKの大河ドラマでも同じだった。将門の立場に立てば、それなりの事情がある、ということになる。『平将門と天慶の乱』は、いままでの将門像について、いくつもの疑問を投げかけ、あたらしい将門像を提供する。この本では研究書とはおもえないような、生き生きとした将門に出会える。まず将門の年齢設定が新鮮であった。通説より10歳ほど若いのではないかと推定、最初の争乱を起こしたころを20歳ころとする。「新皇」を名乗り、京都の天皇政権と別の政権を打ち樹てようとしたのがだいたい30歳くらいである。10世紀の関東の平野に立ち、鬼神のごとき働きによって敵を蹴散らし続ける20代の若者というのは、それだけで魅力的に見える。20代を戦いにあけくれ、そして30歳で独立国を樹てて、そしてあっさり滅ぼされてしまう。ロマン漂う風景である。しかもこれは小説ではない。先人の研究をもとに書かれたある種の専門書なのだ。血湧き肉躍る研究書である。漢の劉邦みたいなものであると言いたいが、打ち樹てた独立国は継続しなかったから、陳勝呉広とか、明末の李自成あたりでもいいですけど、おのれの才覚と武力でもって、私的集団をまとめあげ、腐敗した公的機関をぶちのめして、自分たちの国を造った男の話である。めちゃおもろいヤツやん。あらためてそうおもった。言ってしまえば中国の王朝交代劇のような話であり、また漫画『ワンピース』みたいな話でもある。

 鬼神のような戦いぶり

 平将門は桓武天皇の5世の孫である。つまり、自分の「父の父の父の父の父が」桓武天皇だ。朝廷がしっかり支配できていない遠国を、安定支配するよう現地にて努力している「辺境軍事貴族」という立場だ。将門は武士の棟梁を目指していたわけではない。彼が求めていたのは「辺境ながらも貴族」としてのしっかりした地位の保証であった。位階を叙され、できれば公認の貴族(の仲間)になりたかったはずである。地方で睨みを利かせられる「肩書き」が欲しかっただろう。でも彼は無位無冠のままに終わる。将門は、桓武天皇五世の孫であるから、蔭位というシステムによって、自動的に叙位されるはずだった(従六位下というような位階が授けられるということ)。彼は若いころ、京都で、当時の最大権力者である関白・藤原忠平のもとで奉公していたとされる。21歳になると自動的に叙位され、やがて地方の貴族として認められるはずだった。でも叙位されていない。当書によると、相続すべき土地や軍事機関などを伯父たちに奪われそうになったので、地元へ戻り、土地を守るために戦ったのが21歳より前だったからではないか、ということだ。となると、とても若々しい将門像が現前してくる。19なり20歳で国へ帰り、戦いはじめると鬼神のごとき働きをみせ、連戦連勝、名を馳せ、自分の土地を守りきる。しかし、その戦いぶりも尋常ではなく(当時としてはめずらしく敵を殲滅したらしい)周囲の恨みも買う。関東エリアで何を勝手に暴れ回っているのだ、と、いちど、朝廷に呼び出され、京都に上がって釈明をする。しばらく京都に留まり、許され、自分の地に帰ってくる。将門の本拠は下総と常陸、だいたいいまの茨城県の千葉よりのほうである。地元を留守にしていた将門を殺そうとして、伯父や従兄弟に襲われ、再び戦さになる。戦さが重なり、罠に掛けられたように「常陸国の国衙」を襲うことになる。京都の朝廷の出先機関を襲い、中央から派遣された国司を追い出してしまう。勢い、国に対する反乱軍となった。そのままの流れで関東諸国の国司を追い出し、関東一円を支配した(そこまで広く支配していないのではないか、という見方も存在するが)。

 京都の朝廷は驚く。将門は、この瞬間に日本史上に突然、出現した。彼の死亡年はわかっているが、誕生年がわからないのは、「反逆者として殺された」という事実しか中央の正史には残っていないからである。

 自分の王国を作ろうとした

 朝廷はここで、将門に懸賞首をつける。誰であろうと、将門の首を取ったものは「貴族にしてやる」という報償が示された。ものすごい報償である。「デッドorアライブ」という手配書を国中に張り出したようなものだ。「ワンピース」でいうならば、まあ「50億ベリーの賞金首」というあたりじゃないだろうか。比べるもののなき巨魁とされた。そして懸賞首効果は著しく、周縁の荒くれ者たちは一斉に立ち上がり、将門を襲う。この瞬間に「武士」が生まれた。俵の藤太と呼ばれる藤原秀郷など、彼自身がもともと懸賞首レベルのならず者だったようだが、将門狩りに参加し、将門を倒す。その功績で彼は貴族に叙せられた。前歴のよくわからない藤原秀郷であったが、彼の子孫は武家の名家として歴史に残ることになる。「将門の首」が多くの武士を生んだのだ。将門の首についての伝説が、1000年を越えて語られるのもむべなるかな、というところだ。

 将門は、自分の地元だけを治めようとしただけで、関東エリア全域を独立させ、別国家の樹立を考えてなぞいなかっただろう、という研究者もいる。でもどう考えたって、「おれたちは日本から独立して、おれたちだけの関東の王国を作る」という話のほうがロマンに満ちている。そもそも、唯一の記録書である『将門記』がそういう方向で記しているのだから、そのように捉えたくなる。なぜ天皇と並び立とうとしたのか、その飛躍についてはただ想像するしかないのだが、そういう男だった、ということで納得するしかないし、またそういう納得をしたくなる。将門は、つまり「関東王に、おれは、なる!」と叫んだのだ。この新書は、1000年以上昔の関東エリアに、そういう中国史に再三でてくるようなタイプの英雄がいた、ということを示してくれる。読んで、ひたすら興奮する一書である。








(私論.私見)