輪島


 更新日/2018(平成30).10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「輪島」を確認しておく。「ウィキペディア輪島大士」、「」その他を参照する。

 2015.11.30日 れんだいこ拝


【第54代横綱輪島死去
 2018.10.8日午後8時、大相撲・元横綱の輪島大士(本名・輪島博)が、4年前に引っ越した東京・世田谷区の自宅で死去した(享年70歳)。遺族への取材で分かった。「昨日8日、都内の自宅でソファに座ったまま亡くなっていたのを発見された」と云う。葬儀・告別式は未定で、喪主は妻の留美(るみ)さんが務める。

輪島の角界入り前履歴
 1948(昭23).1.11日、石川県七尾市生まれ。石川・香島中。石川・金沢高で相撲を始め、1日2、3時間も基本を反復した。幼い頃、虫を怖がる気弱な子だった輪島は岡大和監督の指導通り黙々と四股を踏んだ。「高校時代が一番稽古したなあ。あれが僕の基礎をつくってくれた」と述懐している。この時、国体を制している。高校2年生の時、二所の関部屋の横綱・大鵬が実家を訪れスカウトされている。引退後に部屋を起こすときに備えての誘いだったが、熟慮の末に横綱の誘いを断って日大進学を決めた。

 日大相撲部では入学直後の4月に行われた東日本新人選手権大会で優勝し、レギュラーの座を確保。当時、日大相撲部ではすき焼きの日はレギュラーだけに卵が支給されていたといい、相撲部新記録というどんぶり14杯を平らげた。大学3年で全国学生選手権決勝で後の日大理事長/田中英寿を制して学生横綱になった。4年時にも優勝を飾り、史上3人目のとなる連覇を果たした。学生として偉大な記録を打ち立てた一方、「アマ横綱」のタイトルは一度も手にすることができなかった。学生時代のタイトルは14個で幕内の優勝回数と同じだった。輪島の日本大学時代、田中英寿・日大理事長の1つ後輩だった。「自分はプロに行きます、先輩はアマチュアで頑張ってください」という言葉を遺している。日大からは66人が入門、51人が関取になっている。輪島は燦然(さんぜん)と輝く第1号。

輪島の角界履歴
 1970年、卒業2ヶ月前、スカウトされて花籠部屋に入門した。師匠は元幕内・大ノ海。入門直後、下積みの代名詞でもあるちゃんこ番を免除され、学生時代と同じ日大合宿所での寝起きを許された。しこ、てっぽうと土俵上が中心のけいこにランニングを採用する「型破り」を通した。親方衆の不興を買ったが安定した下半身を作った。「僕は体がないから、相手の重心が崩れかけた一瞬に投げないと決まらない。走ったのは瞬発力をつけるためだよ」と引退後に解説した。

 同年初場所に幕下尻付け出し(幕下60枚目格)で初土俵を踏んだ。日大応援団が駆けつけた。「2年連続学生横綱の実力をプロの土俵でもいかんなく発揮した。上手と下手の投げの打ち合いは体が外になる上手有利が定石だが、輪島は「黄金の左」と呼ばれた左からの下手投げなどを武器に活躍した。「下手投げ力士は大成しない」とのジンクスを一蹴したその下手投げは、右から強烈にしぼり、相手の重心を持ち上げておいて、たたきつけるように打った。しこ名も本名で通した。

 幕下を2場所連続優勝して当時の最短記録で十両に昇進した(夏場所新十両)。1970.9月、秋場所の6日目、高校時代からしのぎを削ってきた東農大出身の長浜(後の元小結・豊山)と5戦全勝同士で対戦した一番にはファンが選出する懸賞までかかった。日大と東農大の応援部による応援合戦が繰り広げられるほど盛り上がり輪島が制した。長浜との対戦では翌71年九州場所でも時津風部屋の有力後援者の会社が懸賞を出した。現在の懸賞は幕内の取組のみと内規で決められているが、当時でも十両の土俵で懸賞旗が回ることは珍しい出来事だった。

 輪島は西十両6枚目で13勝2敗/十両優勝を決めた。ところが翌場所東十両筆頭に据え置かれた。十両の定員が28人となった1967年5月場所以降、十両で13勝を挙げた力士が翌場所も十両に据え置かれたケースは12回発生しているが、輪島のケースは最も高い地位で「13勝据え置き」となった記録を作っている。

 重要な場所の前、稽古場に報道陣や見物客が多いほど燃えた希代のスター性を見せている。まげが結えるまでは長髪にパーマ。番付が上がると三役昇進前から高級車リンカーン・コンチネンタルを乗り回し場所入りした。夜は銀座で豪遊した。何かと批判されたが、後援者を当てにして飲む力士が多い中、「自分の金で車を買って、遊んで何が悪いと思ったもんだ」と言っていた。

 1971年、初場所に新入幕。入門からわずか1年で新入幕した。1972年、夏場所で幕内初優勝。9月、秋場所。「千秋楽の貴ノ花 vs 輪島戦」が水入り4分間の激闘を演じ伝説の名勝負となっている。輪島が制して場所後に大関に昇進した。大関昇進を機に四股名を「輪島」から「輪島大士」に改名した。貴ノ花も同時昇進し、“貴輪時代”を築くかと思われたが2人の差は次第に開いた。貴ノ花はその後幕内優勝を2回達成したのみで横綱昇進は果たせず、大関在位50場所(当時歴代1位)目の1981.1月場所を最後に現役引退した。東京・阿佐ケ谷の花籠部屋での輪島(左)と初代・貴ノ花が並んで喜ぶ写真が遺されている。

 1973.5月、夏場所(東京・蔵前国技館)11日目、大関・輪島は大関・大麒麟を破りただ一人の全勝を守る。輪島は途中から縁起をかついで14日目までひげを剃らずに土俵へ上がった。場所後に横綱昇進を果たしたが、無精ひげについては横綱審議委員会の席上、辛口の高橋義孝委員(ドイツ文学者、のち委員長)から「見苦しい」と物言いをつけた。連続3場所準優勝した輪島は、この場所で全勝優勝。

 初土俵から3年4ヶ月、大鵬をしのぐ大関在位4場所というスピード出世で文句なしに「ツナ」を手中にして第54代横綱に昇進した。時に25歳。本名をしこ名にして最高位へ就いたのも、学生相撲出身者としても初の横綱となった。「蔵前の星」と期待されるも、たたき上げから「学生さん」と見下され、大成しないと言われた学生相撲から初めてで唯一の横綱昇進でジンクスを打破した。

 横綱2場所目に全勝優勝。翌九州場所で連勝を続けていた12日目に貴ノ花をつり出しで倒して連勝は27まで伸びた。但し、この時の貴ノ花戦で右手の人差し指と中指の間を裂傷し、左手で懸賞金を受け取ると病院に直行して6針を縫った。13日目を強行出場した輪島は北の富士の外掛けに敗れ連勝記録が途絶えたが、貴ノ花が3敗の琴櫻を倒したことで輪島の4度目の優勝が決まった。その晩に39度の高熱が出たこともあり師匠と相談して休場した。千秋楽の星取表には休場を意味する「や」が付いた。千秋楽は表彰式のみを務めた。休場して優勝した史上初の力士となった。輪島は、インタビューで、「私は今幸運に酔っている。幸運の女神様、来年もまた私のそばに来てください」とのコメントを遺している。大相撲の歴史上、休場したものの優勝した力士は他に1989年3月場所の千代の富士(14勝1不戦敗)だけであり、星取表に「休」を含む優勝者は、この時の輪島だけである。

 第55代横綱北の湖としのぎを削って「輪湖(りんこ)時代」を築き上げ、大相撲人気を支えた。1974年、名古屋場所、北の湖を千秋楽結び、優勝決定戦とこの技で連勝。逆転優勝でファンを歓喜させた。直接対決での通算成績は輪島の23勝21敗。横綱同士での対戦成績は北の湖が18勝14敗と勝ち越し。後に日本相撲協会の理事長になった北の湖親方は生前「常に輪島さんとの一番を意識していた。絶対に負けられんぞと気合が入ったものだ」と明かしていた。

 「輪湖時代」、北の湖と舌戦を繰り広げたことがあった。1974年、5月場所前の靖国神社奉納相撲の時、北の湖が、輪島について「もう力が落ちてきたから相手にならない」とコメントし、これが週刊誌に掲載された。7月場所前、北の湖コメントについて記者から質問された輪島が、「オレ、知らないよ。新聞も雑誌も読まないからな。だけど、北の湖だってもうじき糖尿病でガクッだぜ。(肩を落とす真似をして見せ)北の湖は糖尿病でもうダメだ。俺の方が強いことがよくわかるはずだ」と切り返した。後に、この時のコメントについて聞かれると、笑ってこう述べている。
 「あはは、あれは記者から聞かれて思わず言っちゃったんだよ。実は北の湖は雑誌に俺の悪口を言っていたんだけど、俺は本とか雑誌とかぜんぜん、読まない。漢字も難しいのはダメだからね。まあ、ちょっとくらい土俵外で盛り上げたら面白いだろうとしゃべったら、大変なことになった。まあ、それが相撲人気につながったからいいんじゃないか。北の湖と仲が悪いとか言われていたが、そうでもないんだよ。ただ、輪島か北の湖かって言われた時代。仲良くなってちゃ、ファンは面白くないでしょう。(初代)貴乃花は、まあ相手として弱かったから、仲良く酒を飲みに行ったりしていたんだよ」。
(今西憲之「大横綱・輪島死去 記者に生前、明かした日大の田中理事長に絶対に譲れないネタとは?」) 

 幕内成績は620勝213敗。生涯戦績(戦歴)は673勝234敗85休(68場所)。優勝は歴代7位の14回、三賞5回。現役時185cm、125キロで、得意は左四つ、下手投げ、寄り。高見山を苦手とし金星配給は実に7個、これは1人に与えた金星の最多タイ記録である。

 1975年に腰痛などで3場所連続休場し、気分一新に濃紺が主流だったまわしの締め込みを金色に替えた。現在のまわしのカラー化の先駆けをつくっている。但し華やか過ぎて賛否両論があった。後に横綱・白鵬、遠縁の前頭・輝らに引き継がれている。

 1981.3月、春場所で連敗すると現役を引退、 定年退職を控えていた所属部屋の師匠、花籠 昶光(はなかごひさみつ)親方から花籠親方を襲名、部屋を継承した。年寄名も先代の名をそのまま継承し「花籠 昶光」(はなかご ひさみつ)となった。後に花籠大嗣(- ひろし)と改名した。これには、輪島が師匠花籠親方の長女(中島五月)と結婚したことが大きく関係している。

 1981.9.20日、輪島の断髪式。髷に多くの人がハサミを入れて最後は大銀杏を切り落とす断髪式。
 「各界の有名人が土俵にあがってゆく。すると急にざわつきはじめた。怖そうな若い衆が続々とまわりを囲み、なんだろうと思った。土俵にあがっていたのは、任侠の世界で有名な親分。各界で立場ある人がくる中でいくら時代が違うとはいえ、よく親分を断髪式に呼んだよな。輪島さんの人柄だから、みんないいじゃないって大目にみていた感じでしたね」。

 本来であれば、立ち会うはずの師匠花籠親方が断髪式を目前に急死したため、二所ノ関一門の総帥格であった二子山(若貴兄弟(若乃花・貴乃花)の父親)が止め鋏(とめばさみ)を入れた。

 1982.4月、妻、輪島五月(旧姓/中島五月)が自殺未遂している。輪島の豪遊ぶりは親方になってからも収まる様子もなく、父親の急死も重なり、借金問題を続発する等で精神的に追い詰められたと推測される。

 1983.1月、「わたし、元横綱輪島の"脱線"女房―寄った!ノコッタ!おもしろマジメの夫婦相撲」(主婦と生活社21世紀ブックス)。

 1985.2月、二人はその後、離婚する。
 1985.11月、年寄名跡(親方株)を実の妹に任せていたちゃんこ店の借金の担保に入れていたことが発覚した。前代未聞の騒動を重要視した相撲協会は臨時の理事会を開き、輪島を委員から平年寄への2段階降格処分、且つ無期限謹慎処分を下した。この騒動が影響し、1985.12月、日本相撲協会を退職廃業、角界を去った。

 この時の心境をこう述べている。
 「妹が困ってたんだ。店がうまくいかなくて。見て見ないふりなんてできるかよ。どんなことでも俺ができることならやってやりたいと思った。だから後悔してない。お前だって同じ立場ならそうしてるはずだよ」。(「輪島さんが真顔で語った廃業の真相/後悔してない」)
 「俺、ずっと相撲が強くてごっつあんですってやってきたでしょう。本を読むのも嫌いだが、数字の計算はもっと嫌なんだよ。ごっつあんですで通じて、それでやってきたのが気が付けば、自分の借金にされちゃったんだよ。引退したばかりのときは、また懸賞金ががっぽり入るって感じでやってたからな。現役時代は懸賞金が担保だって、一晩で500万円とか散財していたよ。そこで、払うために金を借りた。年寄株を担保にって言われて、いれたんだ。最初、担保って言葉もよく知らなかった。後で聞いて、ちょっとまずいなと思っていたんだよ。それが、本当にまずくなっちゃった。高い授業料だったよ。わはは」。(今西憲之「大横綱・輪島死去 記者に生前、明かした日大の田中理事長に絶対に譲れないネタとは?」)

 輪島が継承した花籠部屋を継いでくれる継承者もおらず、花籠部屋は消滅。所属していた花籠部屋の力士たちは、魁傑(かいけつ)が開いた放駒親方(元大関魁傑)の放駒部屋に移籍した。開いた記者会見の席上、輪島が関係者が用意した謝罪文を読み上げた。

 「放駒親方は私と違って立派な方ですので…」。

年月 成  績 決定戦 金 星
48. 7 11 ○○○○○●○●○○○○●○●
48. 9 15 ○○○○○○○○○○○○○○○
48.11 12 ○○○○○○○○○○○○●■や
49. 1 12 ●●○○○○○○○○○○○○●
49. 3 12 ○○●○○○○●○○○●○○○ ③長谷川 ⑧高見山
49. 5 10 ○○○●●○○○○○○●●●○ ④増位山 ⑤豊 山 ⑫琉 王
49. 7 13 ○○○○○●○○○○●○○○○
49. 9 14 ○●○○○○○○○○○○○○○ ②大 錦
49.11 ●○○○○○●●●○○●○●○ ⑦高見山 ⑧大 錦 ⑫福の花
50. 1 10 ●○○○○○○●○●○●○●○ ①麒麟児 ⑩高見山 ⑭三重海
50. 3 11 ●●●■ややややややややややや ①三重海 ③増位山
50. 5 12 ●●■やややややややややややや ①増位山
50. 7 15 ややややややややややややややや
50. 9 10 ○●○○○○●○○○○○●●● ⑦高見山
50.11 11 ○○○○●●○○○●○○○○● ⑥金 城
51. 1 12 ●●○○○○○○○○○○○○● ①金 城
51. 3 13 ○○○○○○○○○○●○●○○ ⑪北瀬海
51. 5 13 ●○○○○○○●○○○○○○○
51. 7 14 ○○○○○●○○○○○○○○○ ⑥麒麟児
51. 9 12 ○○○○●○○○○●●○○○○ ⑤高見山 ⑩富士櫻
51.11 13 ○○○○○○○○●○○○○○●
52. 1 13 ○○○○○○○●○○○●○○○
52. 3 12 ○○○○●○○○○○○○○●● ⑤高見山
52. 5 11 ○●○●○○□●○○○○○○●
52. 7 15 ○○○○○○○○○○○○○○○
52. 9 10 ○○○○○●○○○○●●●○● ⑪豊 山
52.11 14 ○○○○○○○●○○○○○○○
53. 1 10 ○○○○○○○○○●○●●●● ⑩豊 山
53. 3 13 ○■ややややややややややややや
53. 5 ●○○○○●○○○○●●●○● ①大 潮 ⑥高見山 ⑪琴 風
53. 7 14 ○○○○○○○○○○○○○●○
53. 9 11 ●○●■ややややややややややや ①蔵 間
53.11 13 ○○○○○○○○○○○○●○●
54. 1 10 ○●○○○○○○●●○●●○○ ⑩富士櫻
54. 3 12 ○○○○○○○○○●○○○●● ⑩黒姫山
54. 5 12 ○○○○○○○○○●○○●○●
54. 7 14 ○○○○○○○○○○○○○○●
54. 9 10 ○○○○○○○●○●○○●●●
54.11 10 ●○○○○○○●○○●●○●○ ⑫栃赤城
55. 1 12 ●●■やややややややややややや ②豊 山
55. 3 11 ●○○○○●○○○○○○●●○ ①富士櫻 ⑥黒瀬川
55. 5 11 ○○○○○●○○○○○○●●● ⑥巨 砲
55. 7 10 ●○●●■やややややややややや
55. 9 11 ○○○○○○○○●○●○●●○ ⑨隆の里
55.11 14 ○○○○○○○○○○○○○●○
56. 1 10 ○○●○●●○○○○○○○●● ③琴 風 ⑥朝 汐
56. 3 ○●■
466勝142敗85休、勝率.766、在位47場所  配給39個
 1976年から1977年の2年間の輪島、北の湖の成績
場所 輪島成績 北の湖成績 優勝力士 備考
1976年1月場所 12勝3敗 13勝2敗 北の湖 千秋楽2敗同士相星決戦で、北の湖勝利。
1976年3月場所 13勝2敗 10勝5敗 輪島 千秋楽対戦は、輪島勝利。
1976年5月場所 13勝2敗 13勝2敗 北の湖 千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦。輪島勝利。優勝決定戦は、北の湖勝利。
1976年7月場所 14勝1敗 12勝3敗 輪島 千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦。 輪島勝利。
1976年9月場所 12勝3敗 10勝5敗 魁傑 千秋楽対戦は、輪島勝利。
1976年11月場所 13勝2敗 14勝1敗 北の湖 千秋楽1敗同士相星決戦で、北の湖勝利。
1977年1月場所 13勝2敗 12勝3敗 輪島 千秋楽2敗同士相星決戦で、輪島勝利。
1977年3月場所 12勝3敗 15勝0敗 北の湖 千秋楽対戦は、北の湖勝利。
1977年5月場所 11勝4敗 12勝3敗 若三杉(後の若乃花(2代)) 千秋楽対戦は、北の湖勝利。
1977年7月場所 15勝0敗 13勝2敗 輪島 千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗で対戦。輪島勝利。
1977年9月場所 10勝5敗 15勝0敗 北の湖 千秋楽対戦は、北の湖勝利。
1977年11月場所 14勝1敗 13勝2敗 輪島 千秋楽1敗同士相星決戦で、輪島勝利。

1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回)
1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回)


【輪島の角界後の履歴】
 1986.4.8日、アントニオ猪木率いる新日本プロレスと激しい興行戦争を展開していたジャイアント馬場が率いる全日本プロレスにスカウトされ、鳴り物入りで入門したことが日刊スポーツの1面スクープとして報道された。大相撲の横綱として史上2人目のプロレスラー転身を果たした。輪島は馬場から特別待遇で迎えられた。ジャンボ鶴田や天龍ら、当時のトップレスラーにコーチ役を頼まず、いきなりハワイで練習。初代AWA世界ヘビー級王者のパット・オコーナーの指導を受け、馬場とタッグ戦で米国でデビューを飾った。ノド輪とかち上げを合体させた必殺技「ゴールデン・アームボンバー」を編み出し存在感を示した。

 同5.23日、輪島がお世話になった師匠花籠親方の妻/中島トミさんが、首吊り自殺している。

 1986.8.7(11.1?)日、地元・石川県の七尾市体育館で、“狂虎”タイガー・ジェット・シンとの国内デビュー戦。場外乱闘の末、5分55秒、両者反則で決着はつかなかった。日本テレビのスペシャル特番としてゴールデンタイムで放送された。1987年から本格的にシリーズに参戦した。 同年4月24日には横浜文化体育館で左腕から繰り出す最強の必殺技「ウエスタン・ラリアット」を持つスタン・ハンセンと対戦。「黄金の左対決」と注目を集めた。開始早々から相手のお株を奪うラッシュを見せたが、一瞬の隙を突かれて首固めで敗戦。ラリアットの相打ちで両者ダウンする場面もあるなど会場は大いに沸いた。

 同じ相撲出身のミスタープロレス天龍源一郎と命を削りあうような真正面からの勝負を展開した激戦はプロレスファンの語り草となっている。同じ大相撲出身の天龍源一郎(68)とは、相撲時代の格を超えて壮絶な技を出し合う、真っ向勝負の激しい戦いを繰り広げた。その一戦は伝説の試合とも言われ、衝撃を受けた前田日明(59)に「あんな事をやられたら、自分らの存在意義がなくなってしまう」と言わしめたほど。当時、長州力(66)が新日本プロレスにUターンして危機を迎えていた全日プロを再興させた。

 1988.12月、プロレスラーを3年足らずでひっそりと引退した。膝や首など、約3年間のプロレス生活で体はボロボロになっていた。引退後はプロレス業界に関わることはなかった。

【その後の輪島】
 その後、石川県の観光親善大使を務めた。

 1991年、横綱ブランドでアメリカンフットボールのクラブチーム「ROCBULL」の学生援護会総監督も任された。2000年、チームはXリーグに昇格している。

 タレントや評論家としても活躍した。日本テレビ系バラエティー番組「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」(1991年10月16日から2001年3月14日)に準レギュラーで出演し、2人(石橋貴明、木梨憲武)にいじられて持ち前の天然ボケ面白さを発揮、人気を博した。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚している。輪島は、この番組がきっかけとなり、テレビ出演などの仕事が増え、不安だった収入面も安定していったという。次のようにコメントしている。
 「俺ね、タカちゃんとノリちゃんにはすごく感謝してるの。あの二人のおかげで今の俺があるんだから。感謝しきれないくらい感謝してるのよ。この気持ちを忘れたら人生おしまい」。

 この頃のこと、輪島が日大の田中理事長について次のように語っている。
 「相撲をクビになって、プロレスに行って、そこからも引退。テレビなどでメシを食っていたが、うまくいかなかった時、田中先輩が助けてくれた。キューバの相撲の監督だとかを紹介してくれたり、助かった。田中先輩は『もし自分もプロに入ったら輪島より強かった。あいつは横綱になれなかった』とネタにしているようだが、絶対に俺の方が強かったよ。そこだけは、今も田中先輩には譲れないぞ」

 こう話すと立ち上がり、相撲の立ち合いの恰好をし、おどけていた。(今西憲之「大横綱・輪島死去 記者に生前、明かした日大の田中理事長に絶対に譲れないネタとは?」)

 1996年、石川県でおこなわれた輪島さんの結婚を祝う会で、輪島が知人に「光司はちょっと変わってるんだよな」と漏らしている。(「週刊FLASH2018年10月30日号/貴乃花が輪島さんから指南された「土俵入り」「嫁の条件」スポーツ 2018.10.18)」)
 

 2000.7月、東京ドームを訪れ、巨人の松井、長嶋監督と話す映像が遺されている。

 2007.2.19日、先に朝青龍の八百長疑惑が報じられ 相撲協会は八百長を断固否定する姿を見せた。が、往年の名横綱、輪島(59歳、 本名=輪島博)の元妻が、 「週刊現代」で相撲界の八百長を証言した。元妻は、花籠部屋を潰したきっかけになった6億の借金の中に、八百長で星を買ったため作った借金も含まれていたと次のように証言している。(「輪島大士の嫁や息子が判明(画像あり)!前妻は輪島五月で離婚理由は自殺?」)
 輪島五月さんは、当時、朝青龍の八百長疑惑が大きく報じられるなか、「相撲界の八百長疑惑」について「週刊現代」で実名証言しています。それは当時、夫であった輪島大士さんの八百長に関する真相です。「輪島が八百長相撲を取っていたことを私に告白したのは、84年7月、名古屋場所中のことでした。当時、輪島は6億円もの借金を抱え、『これは妹が作った借金だ』と言っていました。それにしても金額が多すぎるので、『納得できない。本当はあなたも使ったんじゃないの?』と問い詰つめると、観念した彼は顔面蒼白になりながら、『じつは星(勝ち)を買うのに使ったんだ』と言い出したのです」。(中略)「借金に追いつめられた私たち夫婦は、京都のタニマチ(後援者)に肩代わりのお願いをしに行きました。その際、輪島の口からハッキリ『この借金には星の貸し借りのカネも入っている』と聞かされたのです。輪島が注射相撲(八百長)をしているという噂は角界では、有名でしたし、結婚前から不審に思うことも多かったので、察しはついていましたが、やはりショックでした」。(中略)「父はよく『輪島は稽古すれば本当に強いんだが、しないからなあ』と嘆いていました。輪島は稽古不足で自信がないから、保険をかけるように星を買っていたのではないでしょうか。相撲部屋で育った私には、どれがガチンコ(真剣勝負)でそれが怪しい相撲かぐらいはわかりますからね。輪島が高見山さん(現東関親方)の『お得意さま』と呼ばれていたことは、私も知っています。輪島は、高見山さんのことを、『壊されるかもしれない』と怖がっていて、(ガチンコ)では全然勝てなかったですから」。

 2009.1.18日、初場所、NHKの大相撲中継にデーモン小暮閣下と共に出演し、23年2ヶ月ぶりに国技館へ姿を見せた。不祥事で廃業した大相撲関係者としては異例のことだった。北の湖前理事長の配慮もあり大相撲とも“復縁”、解説が許されるようになった。

 2013年秋、下咽頭癌の罹患が発覚。テレビなどメディアへの露出も控え治療に専念した。同年12月、咽頭(いんとう)がんの手術を受け声を失った。以後、意思表示は筆談中心になった。翌2014年、高田川部屋へ、二所ノ関一門の連合稽古を見学に訪れ、筆談に応じるなど元気な姿をみせていた。

 2015年、雑誌の対談で両雄が再会した。輪島が「輪湖時代は私の誇り」と語っている。

 2015.11.20日、第55代横綱で日本相撲協会の理事長を務めた北の湖逝去。その際、治療のため入院していた輪島は、自身も大変な中、文書で次のようなコメントを寄せている。
 「最近理事長は元気だと聞いたばかりなので、とても驚いた。お互いに病気と闘っていたが、先に逝かれて寂しい」。
 「(北の湖は)運動神経が抜群だった。1度掛けた技は2度は通用せず、頭のいい力士だった」。
 「偶然、(北の湖さんと)ホテルのサウナで会い、『裸の付き合いだね』と笑った。その後食事に行き、酒は強かった。その縁で北の湖さんからは毎場所、番付表が送られてきた」。
 「昔のライバルが相撲界で頑張り続けていることが、とてもうれしかった。もらった番付表は全て取ってある」。
 「俺はもう少し頑張る。(北の湖さんには)よく頑張ったね、お疲れさまと言いたい」。

 51歳で授かった息子の輪島大地が野球に打ち込み、強豪・天理高に進んで、2017.8.20日、第99回全国高等学校野球選手権大会第12日準々決勝第2試合の明豊高校戦で、10点リードの9回、リリーフでの甲子園初登板を果たした。 しかし、代打満塁本塁打を浴びるなど1死も取れずに4失点で降板。結果は天理13-9明豊。「味方がリードして投げさせてもらったけれど、自分の力不足」と悔しさをにじませた。父譲りの立派な体格(身長187cm)が話題になった。

 2016.2月、前頭・豊響(現幕下)の披露宴に出席した時は、だいぶやせていた。前年の九州場所中に亡くなった北の湖前理事長の死を悲しむとともに、自身は「もう少し生きる。毎日1時間近くウオーキングもしている」と筆談で告げ笑顔も見せていた。


【輪島の葬儀】
 大相撲の元横綱輪島の輪島大士さんの葬儀が15日午前10時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で執り行われることが分かった。10日、関係者が明らかにした。喪主は妻の留美(るみ)さん。

【輪島語録】
・大学4年の全国学生選手権での優勝インタビュー。「ご兄弟は」と聞かれると「兄弟はいませんが、妹はいます」

・ある時、寿司店で「今日は辛いものが食べたい。“さちこ”明太子(めんたいこ)を握ってくれ」と注文。指をさしたメニューは「“辛子”明太子」。

・米国からの電話で後援会会長に「会長頼みがあります。お金もかかりますので、コレステロールでお願いします」と直訴。もちろんコレクトコールと言いたかったのだが…。

・取材で九州場所の宿舎を説明する際には「ピオネ荘の“ピ”はパピプペポの“ペ”」と意味不明発言。

・ホテルに後援会関係者から電話がかかってきた時だった。「すいません。もう10円玉がなくなったので、(公衆電話が)切れます」と先方が言うので「じゃ、こっちからお金を入れるよ」

・ホテルで居合わせた俳優の竹脇無我さんには「テレビの大川越前、面白いですね」と言ってけげんな顔をされた。もちろん、竹脇さんが出演していたのは大岡越前。


【輪島の逸話】
 10.9日、TBSテレビ「ひるおび」(月~金曜前10・25)でコメンテーターが思い出を語った。相撲協会会友でスポニチOBの大隅潔氏は「それまで相撲界ではタブー視されていた走ること、外車に乗ること、ホテル住まいなどを最初に行ったお相撲さん。ご両親は大変まじめで質素な方なのに、輪島本人は派手好きで、豪放らい落な人でした。取り組みで勝つともらえる懸賞金はその日のうちに使ってしまう。ふぐ食べて銀座に繰り出すという形で…。現在の懸賞金制度(あらかじめ協会が税金分を引いて渡す)というのも、輪島が豪快な金使いして懸賞金をすべて使ってしまって翌年の税金が払えなくなり、協会が税金800万円を立て替えたことから始まったんです。輪島が協会に残した唯一の“功績”かもしれませんねえ」と暴露した。
 スポーツ評論家の二宮清純氏は「私は相撲界からプロレス(全日本)に転身した時に話を聞いたのですが、リングシューズ履くのが嫌だと言っていたんですよ。なぜか…水虫になってしまって困った。また、相撲では投げられて土が付けばそれで終わりなのに、プロレスはそこから再度立ち上がってまた試合に臨まなきゃならない。それが嫌で、もう帰りたくなっちゃいますよ」と吐露していたそうだ。
 大関昇進伝達式で、「謹んでお受け致します」と言ったところで口上を度忘れしてそれ以上言えなくなるというハプニングを引き起こしている。
  現役時代を通してスタミナ面が課題であり、そのため1974年7月場所前には精を付けようと泥鰌を3匹一気飲みしたことがある
 現役時代に、横綱ながらも週刊ポストに「輪島の美女対談」と称する対談コーナーを持ち、当時の人気アイドル達を招いて、かなりくだけたトークを繰り広げ話題になったが、一方で「品が無さ過ぎる」というクレームもかなり来たと言われ、同コーナーは半年で打ち切られている。
 十両になった時に羽織のたたみ方が分からないので、同じ一門である佐渡ヶ嶽部屋の琴乃富士(輪島より4学年下で当時は幕下以下。のち前頭5枚目まで昇進)に「先輩。どうやってたたむのか、教えてくださいよ」と頼んだ。
 日大相撲部に入学する時に上京してきて、ある食堂の会計をツケですませようとしたが断られたため、「石川県では有名人やお役人は、初めてでもツケが利くんですよ」と言いながら渋々金を払った。
 プライベートでも交流のあったデーモン閣下は、「ここ1年くらいは『人に会いたがっていない』ということだった。闘病のためやつれた姿を見せたくないとのことだったので、吾輩も何かの誘いをしたりなどは遠慮していた。気にはしながら見舞状を出したりはした」と明かした

【元貴乃花親方の輪島追悼文】
日本相撲協会を1日付で退職した元貴乃花親方(元横綱)の花田光司が、「貴乃花応援会」のホームページで8日に70歳で死去した元横綱輪島の輪島大士の哀悼の思いを記した。2018.10.10日付けブログ「輪島さんに哀悼を告げます 」。
 哀悼を告げます。輪島さんに最後にお会いしたのは、未だに私の尊敬する、亡き北の湖前理事長との対談をされていたときで、その際傍でご挨拶ができました。その時は、声帯の手術と治療をされていると聞きましたが、かすれながらに「こうじ、こうじ、」と、元気にお声がけ頂いたことが思い出されます。それが輪島さんと最後にお会いした時でした。その時期の私は、北の湖理事長の下で職務を学んでいた頃でした。輪島さんに久しぶりにお会いできて大変嬉しく、同時に北の湖理事長の輪島さんに対する労わりの精神を垣間見させていただきました。

 北の湖理事長も横綱を張った輪島さんとあって緊張された様子でした。その御心を察して、手を引くように国技館をご案内され、労わるように輪島さんの前を歩いておられたそのお姿。神が降臨したかのような北の湖理事長の優しさ、美しさ。そして、近年の実績でも追従をゆるさない横綱北の湖関に、私は魅了されてしまいました。輪島さんの緊張を察してそれをほぐすかのように、川の流れのように、自然体で深くて美しくゆったりとした風格。それこそが私には印象的でした。

 輪島さんとその前にご同席できたのは、石川県にあります、かの有名な和倉温泉の加賀屋様でのひと時でした。一晩、加賀屋様にお泊めいただいた私は、「この世に竜宮城のような、こんな絢爛豪華なお宿があるのか」と思った次第です。それに加えて、従業員さんたちの礼儀正しさと、気品溢れる大女将様の仕草と語らいは、日本国を代表するこの世の居留地であり、人生のあらゆる場面で生じた喜怒哀楽を青く澄んだ海に浮かべることができるようなお宿で、展望台の中に佇んで旅情を包んでくれる御心与えしおもてなしでした。輪島さんの気さくで誰も真似のできない会話のユニークさ、そして、演出できない輪島さん節を聞きながら、天空のお宿、加賀屋様で過ごした思い出は私の人生の財産です。

 輪島さんは定年以前に角界を去りましたが、後援会長や支援者に長年にわたり愛され、大切にされた方です。個人名は出せませんが、輪島さんを永年ご支援された方々は存じております。私の父、先代貴ノ花の師匠からも輪島さんが人々に愛され大切にされてきたお話はたくさん聞いておりました。私が幼い頃ですが、輪島さんは先代貴ノ花の自宅へ遊びに来られていました。夜に突然来られてあっという間に残り香を遺して帰られるような輪島さんは、私の子供の頃の記憶を辿ると、宇宙人みたいな、それこそ天孫降臨されたような方でした。

 大相撲の時代を作った輪島さんの黄金の左下手は天才です。ふと私の父の遺した言葉が蘇りますが、"輪島は黄金の左下手といわれるがそれは違う、左を差した時の右からのおっつけが強かった。"黄金の左下手には、そんな秘訣もありました。これも私の父が遺した言葉です。"北の湖は天才。北の湖は若い頃から孤独でそれに打ち勝って横綱になった。北の湖は強かった。"

 もう一つ父の言葉が蘇ってきます。"俺は、玉の海関に強くしてもらった。玉の海関がいなかったら今の自分は存在しない。"輪島、貴ノ花が若手の筆頭株で、二人で幕内上位に昇り龍のごとくに活躍していた前から、バリバリの若手を相手にして息も上がらずに、一番も負けずに何十番と稽古をつけられた方が、横綱玉の海関でした。玉の海関は、解説でも著名な北の富士親方の盟友でもあった方です。

 私も本場所中は花田家の仏前に祈りを捧げて通っておりましたが、玉の海関の戒名もうちの仏前には書き込んでありました。毎回、私は御先祖様と玉の海関に蝋燭とお線香をたいて祈りを告げておりました。

 輪島さんの思い出を辿ると、先代貴ノ花の師匠が遺して下さったお話も尽きないほどに思い出されますが、どれもが懐かしいことばかりです。輪島さんのあの愉快な楽しい話がまた聞きたいです。グァム旅行にご一緒したこともありました。大きな大きな背中の輪島のおじちゃんとの大切な思い出を、いつまでも心にしまっておきたいと思います。貴乃花


【元貴乃花親方の輪島追悼文】
 10.9日、元横綱・若乃花でタレントの花田虎上(47)がブログを更新し輪島を追悼した。父の故二子山親方(元大関貴ノ花)と輪島さんのツーショット写真を掲載し、「若い頃の輪島さんと父。私が持っている唯一の輪島さんの写真です」と説明。「小さい頃初めて私を巡業に連れて行ってくれたのは輪島さんでした。父が、なんで勝がここにいるんだ!と驚いた顔を今でも覚えています」とエピソードを披露した。花田氏が初土俵を踏んだ1988年、輪島さんはプロレスラーとして活躍していた。「私がプロになった頃はもう輪島さんは協会を辞められていたので、もし明るい性格の輪島さんが協会に残っていてくれたら…私の相撲人生も楽しかったかもしれない。そう思う日々でした」と“すれ違い”を残念がった。「久しぶりに父と再会して昔話に花を咲かせているかもしれません。輪島さんまたいつか子供の頃のように一緒に遊んで下さい。これまでありがとうございました。御冥福をお祈り致します」と天国の輪島さんに呼びかけた。

【白鵬の輪島追悼コメント】
 10.10日、東スポ「【輪島さん追悼】「日本の父」慕った白鵬」。
 輪島さんが本紙専属コメンテーターをされていた関係で当時、相撲担当だった自分も何度か食事をともにさせていただいた。その席で常に感じたのは輪島さんの相撲への深い愛だった。事情があり角界を追われたが、育ててくれた恩返しをしたいという気持ちは変わらなかった。その一つの表れが白鵬への愛情だった。駆け出しのころから食事に連れて行くなどかわいがり、白鵬も「日本の父」として慕っていた。白鵬との食事中も相撲談議に熱が入ると、身ぶり手ぶりを交えて相撲の指導をしていた姿を思い出す。

 2007年5月の夏場所で白鵬が全勝優勝で横綱に昇進すると「自分にとっても白鵬関は息子のようなもの。2場所連続優勝、しかも全勝で横綱に上がるとはオレにとっても感慨深いよ」と自分のことのように喜んだ。その後も白鵬との親交は続き、白鵬のモンゴル帰国の際には同行して相撲教室を行ったほか、毎年1月には輪島さんの故郷である石川・七尾市でトークショーも行うほどだった。白鵬も本場所で輪島さんの黄金のまわしを着用するなど、その尊敬ぶりを隠さなかった。異国で頑張る白鵬にとって、輪島さんの存在はまさに父親そのもの。現在、優勝41回の大横綱の成長過程で輪島さんが果たした功績は大きいと思う。

 17年には奈良・天理高野球部の本当の息子、輪島大地くんが甲子園出場を果たし、投手としてマウンドに立った。闘病中の輪島さんにとって、孝行息子たちの存在が大きな心の支えになったと信じたい。(元大相撲担当・坂庭健二)

【元横綱三重ノ海・石山五郎(70)氏の輪島追悼コメント】
 10.9日、両国国技館内にある相撲博物館の館長を務めている元横綱三重ノ海・石山五郎(70)氏が、「ニュースで(訃報を)知ってびっくりした」。輪島さんと最後に会ったのは2年前。名古屋場所で当地を訪れた際、ホテルのロビーで偶然、顔を合わせたという。声を失った輪島さんと会話はできなかったが「こちらから一方的に『今度、食事にでもいこう』と。普通に歩いていたし、元気だったのに」。輪島さんとは同じ昭和23(1948)年生まれ。たたき上げと大卒の違いで、初土俵は同館長が6年半早いものの横綱昇進は輪島さんが約6年早い。輪島さんは地方場所では高級ホテルに宿泊。相撲の稽古にはなかったランニングを取り入れるなど「われわれが教わった相撲界では、考え方も含めて番外だった。考えられなかった。また、それがうらやましかったな」。伝統の枠に収まらない行動を「番外」と表現した。

藤田紀子、デートは必ず輪島さんも…夫・貴ノ花との友情語る あさチャンで」。

 10.10日、タレントの藤田紀子が、TBS系「あさチャン」の電話取材に応じ、元横綱・輪島大士との思い出を次のように語った。
 貴ノ花(花田満)と輪島は親友同士で、輪島が日大の学生時代から親交が深かった。互いに「輪島」、「満」と呼び捨てで呼び合う仲だった。レストランなどの支払いはすべて親方が行っていた。「学生だからお金を持っていない。『払う時だけ俺の財布持って行っちゃうよ』って」。本当に仲むつまじい友人でした」。初デートの日、輪島も詰め襟姿でくっついてきた。「新橋のアマンドだったんですよ。輪島さんが親方の後ろから入ってきて『輪島だ』って紹介されて。それからほとんど3人でデート」。「必ず輪島さんを交えてデートしていた」と懐かしそうに振り返った。結婚が決まり、藤田はこれまで自宅にあったピンクのダブルベッドの処分に困っていたところ、輪島がもらってくれた。「それを日大の合宿所に置いていたら、輪島の1つ先輩の田中さん(現在理事長の田中英寿理事長)が『なんでお前、こんなピンクのベッド置いてるんだ』って放り出されたんです」とも告白した。結婚後も自宅によく遊びに来てくれたといい、2人の息子も「輪島ちゃん、輪島ちゃん」と慕っていた。「親方が55歳で先に亡くなって、輪島さんが逝って…。勝負師じゃなくて『輪島』、『満』って顔を合わせると思うと、もちろん寂しいけど、また仲良くねっていう気持ちです」。

【元横綱輪島通夜】

【元横綱輪島葬儀・告別式】
 10.15日午前10時、輪島の葬儀が15日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。日本相撲協会の八角理事長(元横綱・北勝海)、NHK解説者の北の富士勝昭やプロ野球・巨人の次期監督就任が決定的な原辰徳氏、好角家のデーモン閣下ら各界から約300人の参列者が訪れ、最後の別れを惜しんだ。

 夫人の留美(るみ)さんが喪主を務め、涙をすすりながら次のような喪主あいさつを行った。
 「主人は大きくて、優しくて、強い人でした。また自由で、自由すぎて大丈夫かと思うことばかりでしたが、皆様の支えがあり、お許しいただき、ここまで生きてこられました」、「(参列者亡くなった時の様子として)最後は、主人は自宅のソファでテレビを見ながら静かに眠るように、座ったまま亡くなっておりました」、「ご迷惑をおかけすることも多かった人生ですが、最後は1人で誰にも迷惑をかけず、静かにとてもいい顔で眠っておりました。とてもにぎやかなことが好きだった人なので、本日、皆さまにお集まりいただき、さぞ喜んでいることと存じます」。

 出棺時には代名詞「黄金の左」にちなみ25メートルの「黄金のカーペット」が敷かれた。黄金の上に止まる霊きゅう車に棺が運び入れられると、通算勝ち星と同じ673個の黄金の風船が宙を舞った。

 弔辞は大相撲中継を長年担当して、輪島さんの取組も実況した元NHKアナウンサーの杉山邦博が読んだ。杉山は「底抜けの明るさで誰からも愛された。相撲の天才で、今でも取組は目に焼き付いている。本当に名残惜しい」と悼んだ。好角家のアーティスト/デーモン閣下がは、温めていた「千秋楽」という歌を献歌した。

 ボクシングの元WBA世界ライトフライ級王者の具志堅用高氏が参列した。同氏が世界王者、輪島さんが横綱という、ともに全盛期から交流があったという。中でも夜中に呼び出され、具志堅氏が減量中にもかかわらず、大きなおにぎりを食べるよう、半ば強引に勧めてくるような、豪快な性格が強烈に印象に残っているという。「よく銀座や赤坂に呼び出されましたよ。しゃぶしゃぶとかも連れて行ってもらった。相撲も何回か見に行っています。さみしいね」と、故人をしのんでいた。
 輪島と現役時代に対戦して通算7勝5敗と勝ち越した北の富士は「一番取りにくい力士でした」と振り返った。輪島の代名詞となった「黄金の左」の強さはもちろんのこと「右からのおっつけが効いた。あれは素晴らしかった。同じ左四つでこっちが十分になっても相手はもっと十分だった。足腰も強かった」と話した。「北の湖相手に14回も優勝するのはすごいこと。華があった横綱でした。いろいろあったけどそれも含めて話題性のあった力士でした」としのんだ。




(私論.私見)