千代の富士1、現役力士時代 |
更新日/2017(平成29).12.15日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「千代の富士1、現役力士時代」を確認しておく。 2015.11.30日 れんだいこ拝 |
【九重親方(千代の富士)の総合評価】 |
第58代横綱。九重部屋。血液型はA型。身長183cm、体重126kg。 |
千代の富士貢は、優勝31回、53連勝などをした小さな大横綱です。千代の富士貢は、「ウルフ」、「大将」、「小さな巨人」、「小さな大横綱」などとよばれました。礼儀を重んじ、土俵上の所作が美しかった。相手の頭を押さえつけての上手投げは「ウルフスペシャル」として知られている。 晩成型の横綱で、30代過ぎから記録を大きく伸ばしました。若い頃はケガ、特に肩の脱臼に悩まされ、激しいトレーニングなどで克服しましたが、ケガの多かった横綱でもあります。ケガが多かった横綱でありながら数々の記録を作った横綱です。国民栄誉賞、一代年寄(辞退)に輝いた横綱です。優勝決定戦6戦全勝の勝負強さがありました。 |
【九重親方(千代の富士)履歴考その1、入門まで】 |
九重親方(千代の富士)の履歴は次の通り。(「ウィキペディア千代の富士貢」、「千代の富士貢、故障を克服し大横綱になったウルフ」その他参照) 1955(昭和30)年6月1日、北海道松前郡福島町で生まれる。漁師を営む家に生まれた。父親が戦時中に広島の基地に所属して被爆しており、本人は被爆2世である。本名は秋元貢。出身地や卒業した小学校とも千代の山と同じ。他に例がない。現在、故郷の福島町には横綱千代の山・千代の富士記念館があり、千代の山と千代の富士の土俵入りの様子をモデルにした銅像がある。 子供の頃から漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、中学生では運動神経が抜群だった。特に陸上競技では走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、「オリンピック選手もいける」と言われるほどだった。 中学1年生のときに盲腸炎の手術を受けたが、少年の腹の筋肉が厚いために手こずり予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまつた。終了直前に麻酔が切れてしまったが、必死に耐え続ける体格の良い秋元少年を見た病院長が見出し、千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎に連絡した。その連絡を受けた九重(千代の山)から直々に勧誘されたが、自身はあまり気が乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断わっていた。それでも諦めない九重は秋元少年に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」、「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると、結局、その飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。こうして、15歳の時、千代の山親方の九重部屋に入門する。 |
【九重親方(千代の富士)履歴考その2、入幕まで】 |
1970(昭和45)年9月、初場所を踏む。四股名は「秋元貢」(あきもと みつぐ)。11月九州場所/5-2.序ノ口につき「大秋元 貢」(おおあきもと
みつぐ)と改名。 上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。 1971年1月場所、「千代の冨士 貢」(ちよのふじ みつぐ)と改名。1974.11月場所までこの四股名が続く。四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られた。 相変わらず相撲に馴染めないまま日時だけが過ぎて行き、中学校を卒業後は帰郷する予定で、1971年3月場所の終了後は荷物を実家へ送り返してしまった。土俵での成績は概ね良好のため、逸材を手放すことを恐れた九重は秋元少年を故郷の後援会会員に世話を頼んで明治大学付属中野高校定時制へ進学させた。そこで学業と相撲の両立を図ったが失敗し、6ヶ月で中途退学して相撲に専念した。 |
1971年初場所/4-3。3月大阪場所/4-3。5月夏場所/4-3。7月名古屋場所/3-4。9月秋場所/5-2。11月九州場所/休場。 |
1972年初場所/5-2。3月大阪場所/5-2。5月夏場所/4-3。7月名古屋場所/5-2。9月秋場所/3-4。11月九州場所/4-3。 |
1973年初場所/4-3。3月大阪場所/4-3。5月夏場所/途中休場。7月名古屋場所/6-1。9月秋場所/5-2。11月九州場所/3-4。 |
1974年初場所/5-2。3月大阪場所/4-3。5月夏場所/3-4。7月名古屋場所/5-2。9月秋場所/7-0で幕下優勝。11月九州場所/9-6。9歳5ヶ月で十両昇進。史上初の5文字四股名の関取となった。新入幕した千代の富士は100kg以下の軽量小兵だった。 |
1975年、四股名を「千代の富士」)と改名した。この四股名が引退の1991年5月場所まで続くことになる。1975年初場所/十両で6-9。3月大阪場所/十両で8-7。5月夏場所/十両で9-6。7月名古屋場所/十両で9-6。9月秋場所/前頭で5-10(●○○○●●○●○●●●●●●)。昭和30年代生まれの力士として第1号の新入幕を果たした。幕内初白星を元大関大受から挙げたが負け越した。11月九州場所/十両で途中休場。 |
1976年初場所/十両で4-11。後幕下に陥落した。「入幕後、幕下まで陥落」を経験している。3月大阪場所/幕下で5-2。5月夏場所/幕下で4-3。7月名古屋場所/十両で9-6。9月秋場所/十両で8-7。11月九州場所/十両で5-10。 |
1977年初場所/十両で8-7。3月大阪場所/十両で10-5。5月夏場所/十両で5-10。7月名古屋場所/十両で8-7。9月秋場所/十両で10-5。10月29日、九重が死去し部屋を北の富士が継承した。11月九州場所/十両で9-6。 この年、千代の山が亡くなり、先代九重親方(元横綱・北の富士)が部屋を継承する。 |
異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚を捌いているところを見た九重が「狼みたいだな」と言ったことから付けられた。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化したそうで、これを聞いた春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる。ワシはマムシだった。狼は若乃花の昔のあだ名だ」と云ったと云う。 |
昭和30年代生まれの力士としての幕内勝ち越し第1号も当時「北の湖2世」と呼ばれ将来を嘱望された小沼に先を越された。人並み以上の奮起で帰り十両を果たすが、以前から課題だった先天的に両肩の関節の噛み合わせが浅いという骨の形状から来る肩(左肩)の脱臼が顕在化する。取り口も力任せの強引な投げ技を得意としていたために左肩へますます負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされた。このため、2年間を十両で過ごすことになるが、元NHKアナウンサーの向坂松彦はこの頃から「(千代の冨士は)ケガ(脱臼)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と将来性を見抜いていた。晩成型で最年少記録の類とは無縁であるが、19歳で新十両、20歳で新入幕と出世は早く、新入幕からしばらくは「幕内経験をもつ最若年者」の地位を保っていた。1977年頃から頭をつける体格に合った相撲が見られるようになり、その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年1月場所に再入幕を果たした。 |
1978年初場所/前頭で8-7(●●○●○●○●○●○○●○○)。 3月大阪場所/前頭で8-7(○○○●●○○○○●○○●●○)。 5月夏場所/前頭で9-6(○○○○○○○○●○○○○○●)。13日目の対貴ノ花戦は、取組前の「両者とも足腰が良いからもつれるだろう」という実況・解説者の予想を覆して、頭を付けて懐に入ってから強烈な引き付けで貴ノ花の上体を起こし、貴ノ花が左からおっつけるところを一気に寄り切るという会心の相撲で勝利し、銀星と勝ち越しを同時に手にする大きな白星となった。初の敢闘賞を受賞。この活躍から7月場所では新小結に昇進する。 7月名古屋場所/小結で5-10(●○●○○●●●○●●●○●●)。貴ノ花、旭國の2大関を破ったが5勝10敗と負け越し。 9月秋場所/前頭で4-11(○●●●●●●●●○●●○●○)。 11月九州場所/前頭で9-6(●○○○○●○●○○○●●●○)。1978年頃、元恋人が借金を抱えていたこと、梶原一騎らの誘いを受けていたことからプロレス転向を考えていた。だがしかし、プロレスでも肩を壊せば脱臼だけでなく左腕切断の危険性もあり、これは思いとどまった。 |
1979年初場所/前頭で5-10(○●○○●●●●●●●○●●○)。 3月大阪場所/前頭で2勝6敗7休(○●●●○●●■休休休休休休休)。幕内に定着したと思われたが播竜山戦で右肩を脱臼して途中休場し入院して脱臼との戦いをまたも強いられることとなる。これは全治1年、手術すれば2年という重大な怪我であり、「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい」と医師に勧められる。この肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、こうして毎日500回の腕立て伏せ・ウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した。但し肩を徹底的に鍛えて筋肉で固めたことが脱臼しにくくする効果はあった反面、脱臼してしまうと元に戻すことが非常に難しくなってしまい、これを治せた人は元大関清國の伊勢ヶ浜親方1人だけだった。このため千代の富士が肩を脱臼すると伊勢ヶ濱親方がすぐに支度部屋に駆けつけていたほどだった。 5月夏場所/十両に陥落。2日休後の9-4()。周囲の予想通り十両に陥落した。取組中のケガだったことから公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずだったが手続きの不手際で公傷と認められないことが場所の直前になって発覚し休場すれば幕下陥落の危機もあったことから3日目より強行出場、9勝を挙げ7月場所の幕内復帰を確実にさせた。以降、幕内上位に定着することとなる。こうして、先には「入幕後、幕下まで陥落」、こたびは「三役昇進後、十両まで陥落」を記録している。これが後の大横綱の土俵履歴であり土俵苦労人であることが分かる。 7月名古屋場所/前頭で8-7(○○○●○●●●○●●○●○○)。再入幕を決める。 9月秋場所/前頭で8-7(○●○○○○●●○●○○●●●)。 11月九州場所/前頭で7-8(○●●●○○○●●●○○●●○)。 |
1980年初場所/前頭で8-7(○○●○●○●○○○○○●●●)。 3月大阪場所/前頭で8-7(○○○●●○○○○○○●●○●)。技能賞受賞。 5月夏場所/小結で6-9(●●○○○●●●●●○○●●○)。 7月名古屋場所/前頭で9-6(○●●●○○○●○○●○●○○)。第2回目の技能賞獲得。 9月秋場所/小結で10-5(●●○○○○○●○○●○○●○)。幕内初の二桁勝利を飾る。第3回目の技能賞獲得。この場所以降引退まで、皆勤場所では全て二桁勝利する。 11月九州場所/関脇で11-4(○○○○○○○○●○●●○●○)。新関脇に昇進すると初日から8連勝。第4回目の技能賞獲得。横綱・大関陣を次々と倒して人気者となり、特に大関昇進後の増位山に対しては6戦6勝負けなしと「増位山キラー」とされた。 |
【九重親方(千代の富士)履歴考その3、横綱時代前】 |
肩の脱臼を受けて、それまでの強引な投げから前廻しを取ってからの一気の寄りという形を完成させ、1980年3月場所、第1回目の技能賞受賞。これより幕内上位に定着する。脱臼癖に苦しめられてきた千代の富士であったが、一方では脱臼が大成の一助になったという見方もある。玉ノ海は「若い頃は軽量のくせに相手を引っ張り込んで、天井を向いて上手投げにいく『身の程知らずの相撲取り』だった」と語っている。そのような大きな相撲から前廻しを引き、頭をつける体格にマッチした取り口に変わっていったきっかけは、少しでも脱臼のリスクを軽減するためだった。この相撲が完全に身につき、大関・横綱に進むことが出来たことから、九重は「脱臼が千代の富士という大横綱を作った。前のままの相撲なら陸奥嵐のような存在で終わったかも知れない」と語っている。千代の富士自身も「もう少し早く、この相撲の取り方に気付いていたら、もっと早く横綱になれていた」と語っている。 |
1981年初場所/関脇で14-1(○○○○○○○○○○○○○○●)(幕内初優勝)。大関を目前としており、前場所をはるかに上回る快進撃で、若乃花を真っ向勝負で寄り倒すなど初日から14連勝を記録。そして迎えた千秋楽(1.25日)、1敗で追いかけた北の湖との直接対決を迎えた。本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃すものの、吊り出された時に北の湖の足を見て作戦を立てており、それが見事決まって優勝決定戦では北の湖を右からの上手出し投げで下した。殊勲賞、第5回目の技能賞も獲得した。関脇千代の富士の優勝で横綱の連続優勝が史上最長の21場所で途切れた。場所後に千代の富士の大関昇進が決定した。千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている(ビデオリサーチ調べ)。
3月大阪場所/新大関で11-4(●○○○○●○○●○○○○○●)(優勝は北の湖13-2、21)。千秋楽まで優勝争いに残る。第213代大関(在位:1981.3ー7月)。 5月夏場所/大関で13-2(○○○○●○○○○○○○○○●)(優勝は北の湖14-1、22)。千秋楽1敗同士相星決戦となり連続して千秋楽まで優勝争いに残る。 7月名古屋場所(愛知県体育館)/横綱昇進が懸かる大関で14-1(●○○○○○○○○○○○○○○)(優勝2)。7.19日、千秋楽の結びの一番が1敗同士の相星決戦となり北の湖を破って2度目の優勝を果たして場所後の横綱昇進を確実とした。千代の富士は場所後横綱昇進し大関不在となる。鋭く踏み込んだ千代の富士が得意の左前みつを引いて頭をつけ、両まわしが引けない北の湖が強引に出るところを相手の左腰について、右からの上手出し投げ。バランスを崩した北の湖をそのまま寄り切った。劇的な瞬間に、千秋楽審判委員として土俵下に控えていた当時の九重親方(北の富士)は勝負が決まった瞬間手で涙を拭った。 |
横綱昇進が決まった日の夜、九重は千代の富士を自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと潔く辞めような。ちんたらチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。祝儀がもらえるのかと思っていた千代の富士はこの言葉に面食らったという。しかし、千代の富士の引退は正にこの言葉を守った潔いものとなった。これは、栃木山から言われた言葉を栃錦が千代の山に語り、千代の山から北の富士を経て、千代の富士へ受け継がれたものと云われている。 横綱土俵入りは九重と同じ雲龍型を選択した。横綱推挙の際「2代目・千代の山」の襲名を打診されたが、これを「横綱2人分(千代の山+北の富士=千代の富士)のいまの四股名の方が強そうだから」と固辞した。千代の富士の大関・横綱昇進伝達式の際には、北の富士と、北の富士からの配慮で先代九重親方の未亡人が同席した。1981年、テレビドラマ「あこがれベビー」の最終話「真人さん頑張って」(日本テレビ)。 |
【九重親方(千代の富士)履歴考その4、横綱時代】 |
1981年9月秋場所/1勝2敗12休(○●■休休休休休休休休休休休休)(優勝は琴風12-3)。新横綱となった初の本場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和以降では武蔵山、吉葉山に次いで3人目)。新横綱誕生の期待が一転して失望に変わった。第58代横綱(在位:1981.9月-1991.5月)。優勝した琴風は場所後大関昇進し大関不在が解消された。 11月九州場所/12-3(○○○●○○○○○○○○●●○)(優勝3)。12勝3敗の成績で朝汐との優勝決定戦を制して横綱としての初優勝を飾った。但し、この場所も14日目に隆の里に敗れている。隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で、千代の富士を長く苦しめることになった。 1981年には、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であったと言える。こうした事情から、関脇・千代の富士(不詳)、大関・千代の富士(テレビマガジンにおける永谷園「味ぶし」の宣伝に登場)と記された各種記録は少ない。1981年8月、横綱・北の湖が「道民栄誉賞」、横綱・千代の富士が「栄誉をたたえて」を受賞した。 この時期の千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。千代の富士の取組にかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を数周してもまだ余る状態だった(大抵の場合三周以上していた)。 |
1982年初場所/12-3(○○○○○○○○●○○●○○●)(優勝は北の湖13-2、23)。1月24日、北の湖と千代の富士の2敗横綱同士の大一番となり、北の湖(左)が千代の富士(右)を堂々つり出し13勝2敗で4場所ぶり23度目の優勝。北の湖は、1975年9月場所から1981年9月場所までの6年間を「37場所連続2桁勝利」でほぼ全ての場所で終盤まで優勝争いの中心に存在していた。この記録は、2013年5月場所で白鵬に破られるまで最長記録であった。 3月大阪場所/13-2(○○○○○○○○○○○○●●○)(優勝4)。 5月夏場所/13-2(○●○○○○○○○○○○●○○)(優勝5)。朝汐との優勝決定戦を制す。 7月名古屋場所/13-2(○○○○○○○○○○○●○●●)(優勝6)で3連覇する。自身初の年間最多勝も受賞する。7月場所後の「読売大相撲」に「ウルフV3はしたけれど……ひどい、低調しらけ場所」という総評が出されている。 9月秋場所/10-5(○●○●○○○○○●●●○○○)(優勝は隆の里15-0)。 11月九州場所/14-1(●○○○○○○○○○○○○○○)(優勝7)。 |
1983年初場所/12-3(○○○○○○○○○○●●○●○)(優勝は琴風14-1)。琴風が朝潮(改名前は朝汐)との優勝決定戦を制す。 3月大阪場所/15-0(○○○○○○○○○○○○○○○)(優勝8)。 5月夏場所/全休(休休休休休休休休休休休休休休休)(優勝は北天佑14-1)。北天佑は場所後大関昇進。 7月名古屋場所/13-2(○○○○○○○○●○○○○○●)(優勝は隆の里14-1)。隆の里が千代の富士との千秋楽結びの一番1敗同士の相星決戦を制す。隆の里とは1983.7月-1984年1月まで4場所連続相星決戦による千秋楽結びの対戦となった。同じ対戦カードによる相星決戦が連続することは、他には輪島-北の湖(1976年11月-1977年1月)、北の湖-千代の富士(1981年5月-7月)、曙-貴乃花(1995年3月-5月)、朝青龍-白鵬(2008年1月-33月)があるが、いずれも2場所連続にとどまっており4場所連続で相星決戦が実現したケースは千代の富士-隆の里以外過去に例がない。 千代の富士は隆の里を苦手としており大関から横綱にかけて8連敗している。曰く「裏の裏をかかれる」。通算でも13勝18敗(十両1勝2敗、幕内12勝16敗)と負け越しており、隆の里に負けたことで優勝や全勝を逃した場所が多かった。この7月場所から1984年1月場所にかけて4場所連続で勝った方が優勝という千秋楽相星決戦を行い1勝3敗を記録している。向坂松彦との共著「私はかく闘った―横綱千代の富士」で、向坂から隆の里の自身への対策の数々について知らされた千代の富士は「うーん、これでは当然研究負けだね。こっちはそこまでは考えてなかったから」と漏らしている。 9月秋場所/14-1(○○○○○○○○○○○○○○●)(優勝は隆の里15-0)。新横綱の隆の里が千代の富士との千秋楽結びの一番全勝同士の相星決戦を制す。隆の里は15日制で唯一の新横綱全勝優勝という偉業を成し遂げている。 11月九州場所/14-1(●○○○○○○○○○○○○○○)(優勝9)。隆の里との千秋楽結びの一番1敗同士の相星決戦を制す。2場所連続の千秋楽横綱相星決戦は15日制となってから2回目。1976.11月場所、1977.1月場所の北の湖-輪島戦以来。 |
1984年初場所/12-3(○○○○○○●○●○○○○○●)(優勝は隆の里13-2)。隆の里が千代の富士との千秋楽結びの一番を2敗同士の相星決戦を制す。3場所連続の千秋楽横綱相星決戦は史上唯一。千代の富士は朝潮に1月場所から4連敗。北天佑には1月場所から5連敗(不戦敗を含む)している。1983.7月場所(この場所は隆の里は大関)を含めれば4場所連続で、これも史上唯一。 3月大阪場所/4勝4敗7休(○○○●●○●■休休休休休休休)(優勝は若嶋津14-1)。右股関節捻挫で中日から途中休場。 5月夏場所/11勝4敗(○○○○○○○○●○○●●●○)(優勝は北の湖15-0)。2年ぶりの優勝を目指す北の湖敏満から一方的な寄りきられた。 7月場所/左肩の脱臼で全休(休休休休休休休休休休休休休休休)(優勝は若嶋津15-0)。 9月場所/10-5(○○○○○●○○●○○●●●○)(優勝は多賀竜13-2)。蔵前国技館最後の場所。入幕2場所目の小錦との初対戦で突き押しにあっけなく敗れ横綱としての面目を失った。千代の富士は場所後に「小錦対策」として高砂部屋に出稽古を開始し、翌場所から対小錦戦で8連勝を記録(通算で20勝9敗)。 11月九州場所/14-1(○○○○○○○○○○○●○○○)(久々の優勝10)。この頃、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から一時は限界説も流れた。 |
1985年初場所、15-0(○○○○○○○○○○○○○○○)(全勝優勝11)。両国国技館のこけら落とし場所となった。30代のこの頃より黄金時代に入る。 3月大阪場所/11-4(○○○○●○○●○○○○●●○)(優勝は朝潮13-2)。 5月夏場所/14-1(○○○○○○○○○○○○○●○)(優勝12)。5月場所から廻しの色が青から「黒」に変えている。 7月名古屋場所/11-4(○●○○●○○○○○○○●●○)(優勝は北天佑13-2)。 9月秋場所/15-0(○○○○○○○○○○○○○○○)(全勝優勝13)。 11月九州場所/14-1(○○○●○○○○○○○○○○○)(優勝14)。この年には史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝いた。 |
1986年初場所/13-2(○○○○○○○○○●○○●○○)(優勝15)。天敵・隆の里が引退し同年3月場所から7月場所までの番付は千代の富士のみ一人横綱となる(7月場所後に北尾が横綱昇進し一人横綱は3場所で解消する)。 3月大阪場所/途中休場の1勝2敗12休(○●■休休休休休休休休休休休休)(優勝は保志13-2)。 5月夏場所/13-2(○○○○○○○●○○○○○●○)(優勝16)。北尾(大関)との千秋楽2敗同士相星決戦となる。北尾は横綱昇進時に「双羽黒」と改名する。 7月名古屋場所/14-1(○○○○○○○○○○○○○○●)(優勝17)。 9月秋場所/14-1(○○○●○○○○○○○○○○○)(優勝18)。 11月九州場所/13-2(○○○●○○○○○○●○○○○)(優勝19)。双羽黒(横綱)との千秋楽2敗同士相星決戦となる。1986年も2年連続3度目の年間最多勝となるが、これが自身最後の同受賞となる。 |
1987年初場所/12-3(○○○○○●●○○○○○○○●)(優勝20)。5連覇を飾る。但し、小錦に負け、1月場所-5月場所まで3連敗する。小錦が初優勝した1989.11月場所-1990.5月場所まで4連敗している。 3月大阪場所/11-4(○○○○●○●●○○○●○○○)(優勝は北勝海12-3)。 5月夏場所/10-5(○○●○○○○○○○○●●●●)(優勝は大乃国15-0)。この年前半わずかに崩れたことで千代の富士時代は終わりに近づいたとの声が高まり、「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。 7月名古屋場所/14-1(○○○○○○○○○○○○○●○)(優勝21)。 9月秋場所/途中休場の9勝2敗4休(○○○○○●○○○○■休休休休)(優勝は北勝海14-1)。 11月九州場所/15-0(○○○○○○○○○○○○○○○)(全勝優勝22)。千代の富士斜陽の声を打ち消した。場所後、双羽黒が師匠・立浪親方(元関脇・羽黒山)らとの衝突の末24歳の若さで廃業した。千代の富士は現役引退後の著書で「もし双羽黒が廃業せずに現役を続け、さらに力を付けて来ていたら、その後の私の相撲人生は全く違っていたかも」と記している。千代の富士と双羽黒の幕内取組成績は千代の富士の8勝6敗(ほか優勝決定戦で2勝)。 |
1988年初場所/12-3(○○○○○○●○○○○○○●●)(優勝は旭富士14-1)。 3月大阪場所/全休(休休休休休休休休休休休休休休休)(優勝は大乃国13-2)。 5月夏場所/14-1(○○○○□●○○○○○○○○○)(優勝23)。千代の富士が天皇賜杯を抱いての記念撮影を行う際には賜杯と共に当時生後10か月の次女秋元梢(後のモデル・タレント)を抱いて記念撮影を行っている。 7月名古屋場所/15-0(○○○○○○○○○○○○○○○)(全勝優勝24)。 9月秋場所/15-0(○○○○○○○○○○○○○○○)(全勝優勝25)。 11月九州場所/14-1(○○○○○○○○○○○○○○●)(優勝26)。 この年の5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録する。53連勝で止まったのは11月場所千秋楽(対大乃国戦)である。奇しくもこれが昭和最後の取組となる。53連勝は昭和以降の記録としては2014.1月場所現在、双葉山(69連勝)、白鵬(63連勝)に次いで歴代3位。他を寄せ付けない強さで1980年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げた。大乃国に敗れた「53連勝でストップ」の一番は「年間3回の全勝優勝」、「3場所連続15戦全勝優勝」という史上初の快挙を逸する一番でもあった。2010.3月場所から7月場所にかけて白鵬が達成した。50連勝以上達成した力士のうちで横綱に敗れて連勝記録が止まったケースは千代の富士が唯一である(双葉山、白鵬は平幕力士に敗れている)。1988年、日本プロスポーツ大賞を受賞している。 |
1989年初場所/11-4(○○○○○○○●●○○□●●○)(優勝は北勝海14-1)。優勝候補筆頭だったが、前場所に連勝記録が途切れて緊張感がなくなったか雑な相撲が目立ち、8日目に寺尾に敗れて以降は優勝争いから後退した。 3月大阪場所/14-1(○○○○○○○○○○○○○○■)(優勝27)。4年4ヶ月ぶりに西正横綱として登場し、初日から他を寄せ付けない強さで14日目に大乃国を破って優勝を決めた。が、この一番で左肩を再び脱臼したことで千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左肩にテーピングを巻いて登場、右手のみで賜杯を手にした。この時は賜杯を受け取り損ねることがないように武蔵川親方(三重ノ海)が表彰式に付き添っていた。 5月夏場所/全休(休休休休休休休休休休休休休休休)(優勝は北勝海13-2)。6月、この年2月に誕生したばかりの三女をSIDS(乳幼児突然死症候群)で生後僅か4か月足らずで亡くす不幸に見舞われた。千代の富士の精神的なショックが大きく、師匠の九重でさえも「もう相撲は取れないのではないか」と思われる程だったという。 7月名古屋場所/12-3(○○○○○○○●●○○○○○●)(優勝28)。首に数珠を掛けて場所入りし、千秋楽の優勝決定戦では同部屋の弟弟子だった横綱北勝海を下して奇跡の優勝を果たした。初の同部屋横綱対決。 9月秋場所/15-0(○○○○○○○○○○○○○○○)(全勝優勝29)。通算勝ち星の新記録を達成した。 9.28日、大相撲で初となる「国民栄誉賞」の受賞が決定した。この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士の言は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」。協会は一代年寄「千代の富士」を満場一致で承認するが、本人は九重とも相談のうえで辞退している。 11月九州場所/13-2(○○○○○●○○○○○○●○○)(優勝は小錦14-1)。 1989年、日本プロスポーツ大賞を受賞している。 |
1990年初場所/14-1(○○○○○○○○○○○○○●○)(優勝30)。優勝回数を30と大台に乗せた。 3月大阪場所/10-5(○○○○○●○●○○○●●○●)(優勝は北勝海13-2)。7日目、花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した。20年後の2010年5月場所千秋楽に魁皇も史上2人目の通算1000勝を達成する。千代の富士は平幕の安芸ノ島(に負け、5月にも負け連敗し2場所連続で同力士に金星を配給している(結局、対安芸ノ島戦は千代の富士の7勝4敗で、4敗は全て金星)。 5月夏場所/13-2(○○○○○○●○○○○○○●○)(優勝は旭富士14-1)。旭富士に優勝を奪われた。 7月名古屋場所/12-3(○○○○○●○●○○○○○○●)(優勝は旭富士14-1)。連続して旭富士に優勝を奪われた。 9月秋場所/夏巡業で左足を痛めて全休(休休休休休休休休休休休休休休休)(優勝は北勝海14-1)。 11月九州場所/13-2(○○○○○○○○○○○○●○●)(優勝31)。 35歳という年齢から引退を囁かれたが、11月場所に復帰して4横綱が存在する中で14日目に31回目の優勝を決めた。同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。 |
1991年初場所/途中休場の2勝1敗12休(○○■休休休休休休休休休休休休)。初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(現在は史上2位)の記録を達成した。が、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。 3月大阪場所、全休(休休休休休休休休休休休休休休休)。 |
【九重親方(千代の富士)履歴考その5、引退】 |
5月夏場所/1勝3敗で引退(●○●■)。復帰場所となったが、初日に当時新鋭だった貴花田(のち貴乃花)と対戦し、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた。5月場所が始まる前の最大の注目は、3月場所に幕内下位ながら終盤まで優勝争いに加わった貴花田と千代の富士の初対戦であった。何日目に対戦するかが話題となる中で、誰も予想しなかった初日に取組が組まれた。これは当時審判部長だった九重が「勝ち負けが全くついていない、まっさらな状態で対戦させたい」との思いからであったが、千代の富士はこの取組に敗れた。貴花田に敗れた時点で千代の富士は引退を頭をちかつかせ、そのことを伝えに九重のもとに行ったところ、九重は千代の富士を見るなり「先に廻しを取られたからなあ。まあ明日がんばれよ」と言った。このために気勢を削がれた千代の富士は引退の意思を伝えそびれてしまった。翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とは程遠く、「もう1敗したら引退する」との決意を固めて3日目の貴闘力戦に挑んだがとったりで完敗した。 この貴闘力戦の取組を最後に、「気力・体力の限界」として、千代の富士は九重親方に引退の決意を伝えた。千代の富士と共に九重も思わず二人で男泣きしたという。1991.5.14日夜、千代の富士が九重部屋にて緊急記者会見で現役引退を表明とた。「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。引退声明した。この日は午前中に信楽高原鐵道列車衝突事故が発生し、NHKでは断続的に事故に関するニュースを放送していた。しかし夜になって、千代の富士自ら九重部屋にて突如引退会見を行うことになったため急遽ニュースを中断、駆け付けた大勢のマスコミ陣の前で会見の生中継を行った。この際千代の富士は「長い間、本当に皆様には、大変お世話になりました。まああの月並みの、引退ですが…」と語ったその後、言葉に詰まらせながら目を赤くして、「体力の限界!…気力も無くなり、引退することになりました…以上です」と振り絞るようにコメント、記者陣の目の前でハンカチで涙を拭っていた。 後年千代の富士が自ら語ったところによると、1991年5月場所3日目の夜、九重から「明日、発表しよう」と言われたがその日の夜に『サザエさん』を見ていた際に額の上に自身の引退を報じる速報が確認され、そうして慌てて会見に臨んだという。尚丁度20年前の1971年5.14日、大鵬も当時新鋭だった貴ノ花に敗れて引退を表明しており、大横綱と二子山部屋、藤島部屋が絡んでいる花田家には因縁がある。ちなみに、千代の富士が幕内初優勝を果たした1981年1月場所は、奇しくも貴ノ花が現役引退を表明した場所でもあった。 1991-1992年、「花王ファミリースペシャル」テレビドラマ「千代の富士物語」(関西テレビ制作 / フジテレビ系列(FNS))。第1部は6.2-23日(全4回)、第2部「青春編」は1992.2.2-9日(全2回)、第3部「栄光への道」は1992.10.4-11日(全2回)にてそれぞれ放送された。演出は清水満、中村金太。脚本は内舘牧子、小山内美江子。音楽は坂田晃一が担当。宮下直紀(新弟子時代)、宍戸開(現役時代)が千代の富士を演じた。 |
愛称は、ウルフ・大将・ゴリラ、小さな巨人・小さな大横綱。歴代3位・通算31回の幕内最高優勝を果たしたほか、歴代2位の通算勝利数(1045勝)と同3位の幕内勝利数(807勝)、1988年5月場所7日目から同年11月場所14日目までの53連勝(取り直し制度導入後歴代3位)など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱である。 得意技は右四つ、寄り、上手投げ。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いた。 体格で上回る力士との差を埋めるために土俵上では凄まじい集中力を見せ、本場所で負けた相手に対しては相手の部屋に出向いて稽古、攻略法を身につける努力家。廻しを緩まぬようにきっちり巻くことにより、四つに組み相手の指が廻しにかかっても腰の一振りで払いのける、など体格差を感じさせない取り口で、全盛期に見せた相手の頭を押さえるような独特の上手投げは、「ウルフスペシャル」としてつとに知られた。このウルフスペシャルは「横綱になったら勝った相撲は新聞に載せてもらえない。それなら勝っても取り上げてもらえるような相撲を取ろう」という思いから編み出されたという。鍛え抜かれた腕力を生かした廻しの引きつけには脅威的なものがあり、重い相手も腰を浮かせた。また、体の芯が異常に強く、常に軸がぶれずに堂々とした相撲を取った。 横綱土俵入りは四股も美しく、全体として気合の入った土俵入りでかなり上手い。重い横綱を付けた状態で上げた足が頭より高い位置に達するのは、千代の富士のほかには例がない。また取組前の入場時には両手で下がりを持ち、制限時間いっぱいになった時には、頭を下げて廻しを右手で叩いてピンク色のタオルを受け取り、必ず左右の腋の下の後に顔面の汗を拭くなど、几帳面に見えるほど礼儀作法を重んじている。 立合いの踏み込みの鋭さは歴代屈指のもので、短距離走のスタートにも例えられた。この鋭い立合いがすぐに得意の左廻しを奪うこと、重みに優る相手にも当たり負けしない強さを可能にしていた。休場明けの場所に強いことも特徴で、実に6度も休場明けの場所で優勝している。特に30代に入ってからが顕著で、休場の度に限界が囁かれながらも翌場所に優勝して不死鳥とも言われた。その強さもさることながら、均整のとれた筋肉質の体格(183cm・126kg、体脂肪率10.3%)、逞しさ漂う風貌でも人気を集めた。幕内から大関、横綱へ一気に昇進してからは絶大な人気を誇った。 |
8歳年下だった弟弟子・北勝海信芳との猛稽古は毎回壮絶だったと云う。その甲斐もあって北勝海は1986.9月場所に新大関、その後1987.7月場所には第61代横綱へ昇進を果たし、幕内優勝を合計8回も達成した。1989.7月場所では、千代の富士と北勝海で史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦、千代の富士が優勝(しかし優勝決定戦後は二人共に「今後は二度とやりたくない」とコメントしていた)。北勝海本人は現役引退後「大将(千代の富士)がいたおかげで自分も横綱になれたと思う」と語っており、千代の富士の指導力・影響が如何に大きかったかを物語っている。事実、千代の富士が横綱昇進を決めた時は部屋の関取が千代の富士だけだったが、その後も北勝海を筆頭に、孝乃富士・巴富士が関取(共に最高位は小結)に昇進している。当の千代の富士本人も「北勝海は同部屋ながらも自身にとって非常に良いライバルだった。もしも稽古熱心な北勝海がいなかったら、自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。北勝海の横綱昇進に伴い、同部屋に横綱が2人となったため、力士が2人をどう区別して呼ぼうかと迷った際、北勝海の提言で千代の富士を「大将」と呼ぶようにさせた話も残っているが、横綱となった身の者が先輩横綱という意味のみならず「ワンランク上の横綱」と見ていた存在感の大きさを現すエピソードである。
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【千代の富士の通算成績】 | ||||||||||||||||
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【八百長相撲疑惑考】 |
現役時代、八百長相撲疑惑が持たれた力士の一人ではあるが、板井圭介、高鐵山孝之進といった八百長の告発者たちは、『実力があってガチンコで戦っても勝ち目が無いと相手に思わせられたからこそ、相手の力士も礼金が貰える八百長に応じたということ』だと言っていた。板井圭介はさらに「ガチンコで唯一かなわないと思ったのは大将(千代の富士)だけ」「八百長が無くてもガチンコでは大将が一番強かった」と強さを認めている。ちなみに板井は千代の富士と16回対戦して1度も勝てず、千代の富士が現役最後の白星を挙げた相手でもある。小錦には初顔合わせで完敗した後8連勝をしているが、高鐵山の著書『八百長』によれば、小錦の強さに脅威を感じた千代の富士は小錦を八百長の仲間に引き入れようとしたが、その為に取った方法が、「ガチンコで徹底的に勝ちまくって力の差を見せつけ、逆らわない方が得だと思わせる」であり、それがあの8連勝だと述べている。あまりの存在感のためか、現役最後の取り組みの際には、横綱在位を59年と間違ってアナウンスされた。 |
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千代の富士の八百長相撲疑惑考は、田中角栄のロッキード事件と同じで何やら作為的な臭いがする。追って精査しようと思う。 2016.2.7日 れんだいこ拝 |
【九重親方(千代の富士)の逸話】 |
角界屈指のゴルフ好きで知られるが、元々は趣味としていなかった。休みの日は麻雀やファミリーコンピュータに夢中の彼に対して、九重が「健康的な休みを取らないとダメだ」と無理やりゴルフに連れて行ったことがきっかけだった。しかし初めてのゴルフのハーフで40台を出し、ワンラウンドを86で回って、九重のスコアより良かったことに「いやぁ、ゴルフっていいですねぇ!」とすっかり上機嫌になって九重のメンツは丸つぶれ、以後ゴルフにのめり込んだ。 |
ゴルフの他にもジグソーパズルを趣味としていた時期もあった。1986年4月から8カ月をかけて5146ピースもある古い世界地図が描かれたパズルを完成させたという。これが良い気分転換となってか千代の富士の土俵人生は絶頂期に突入し、特に1987年1月場所の辺りで最後の1ピースをはめて完成させた頃の相撲を見た当時の春日野理事長は「この相撲なら2、3年は大丈夫だな」と語ったそうだが、実際に引退に至ったのは4年後の1991年5月場所であった。 |
尊敬する力士として貴ノ花を名を挙げている。新入幕後に十両から幕下で低迷してしまいやけになって煙草の本数が増え、一時は1日3箱も吸うヘビースモーカーとなってしまったが、貴ノ花から禁煙を勧められたことに「尊敬していた大関がそんなに自分の事を心配してくれているのか」と感激し、50万円のダンヒルの金のライターを隅田川に投げ捨て、さらに飴玉を使って禁煙を遂げた。これがきっかけで体重が増え、後の横綱昇進に繋がる(貴ノ花を参照)。 |
岳父は玄洋社記念館館長、玄洋ビル社長を務めた進藤龍生。夫人は進藤喜平太(第2代・第5代玄洋社社長)の曾孫で、進藤一馬(第十代玄洋社社長、元福岡市長)の姪孫。次女はファッションモデルの秋元梢で、他に息子と娘(梢の兄と姉)が1人ずついる。梢の妹に当たる娘もいたが生後4か月で他界した。 |
横綱として全盛期を極めていた当時、テレビ番組、特に生放送の番組に出演することは稀であったが「夜のヒットスタジオDELUXE」(フジテレビ)には1985-1987年まで3回、特別ゲストとして番組オープニングからエンディングまで出演している。これは当時の同番組司会者である芳村真理の誘いを受けての出演だったと言われている。 |
次女はモデル・タレントの秋元梢。秋元はモデルとして成功するまで父が千代の富士である事を公表していなかったが、専属モデルや広告モデルに起用されるようになってからバラエティーで公表し、「二世タレント」としてバラエティーなどに出演しているが、相撲を知らずさらに千代の富士の現役時代を知らない世代が中心のモデルであり、千代の富士自身もバラエティーに出演があまりないため、ほとんど実力で芸能活動をしている。 |
【九重親方(千代の富士)履歴考その5、横綱引退】 |
1991.5.15日、引退と同時に、陣幕親方(元前頭1・嶋錦)と自身が所有していた年寄・八角を名跡交換した。これにより年寄名・陣幕を襲名し「陣幕
貢」(じんまく みつぐ)と名乗り、九重部屋の部屋付きの親方となった。7月場所前、千代の富士改め陣幕は自ら土俵に立って若い力士に稽古をつけたが、あまりの充実ぶりに九重から「現役以上じゃないか。引退させるのは早かったな」と言われたほか、周囲からは「史上最強の新米親方」と評した人もいた。それから21世紀に入り、当時千代の富士の持つ通算勝星及び幕内勝星を塗り替えた魁皇も「余力を残して辞められた九重親方(千代の富士)と違って、こっちは必死こいて辿り着いた記録なので。とても比較にはならないし、申し訳ない」と謙遜するコメントを述べている。
1991年、陣幕貢「負けてたまるか」(東京新聞出版局)。 千代の富士貢、向坂松彦「私はかく闘った 横綱千代の富士」(日本放送出版協会)。 |
1992年1月場所後の2.1日、千代の富士の引退相撲、断髪式が行われTBSが放送した。最後の横綱土俵入りでは露払いに引退直後の旭富士、太刀持ちには弟弟子の北勝海の両横綱を従えた。 大銀杏を切り落とす瞬間には大粒の涙を流していた。 4.1日、師匠の九重(元横綱・北の富士)と名跡交換し、年寄名「九重 貢」(ここのえ みつぐ)を名乗り、九重部屋を継承した。しかし、まもなく陣幕(先代九重)と対立。1992年、千代の富士貢「不撓不屈 : 一〇四五勝への道のり」(日之出出版)。 |
1993.10月、弟弟子の八角(元横綱・北勝海)が九重部屋から独立し八角部屋を創設。この際、陣幕を含む部屋付の年寄全員が同部屋に移籍する事態となった。さらに、施設も旧九重のものを継承し、九重の方が部屋を追い出される形となった。このため、九重はやむなく自宅を改装して部屋を新設した。現在の九重部屋は「大横綱・千代の富士が師匠の相撲部屋」という色を前面に打ち出した部屋になっている。1993年、九重貢「ウルフと呼ばれた男」(読売新聞)。 |
1994年、日本相撲協会人事で、千代の富士が武蔵川と揃って役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めた。但し、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身であるため、理事に立候補することができずにいた。 |
1998年、弟弟子の八角が格上の監事に就任。審判部長は理事が担当するため、古くから審判部副部長職にあるにも関わらず、二子山、押尾川、放駒と3代続いて大関止まりの理事が九重を抑えて審判部長に就任。「副部長を務めている」というよりも「部長に昇進できずにいる」という感が漂っていた。 |
2000-2002.3月までエアガンを至近距離から打つなどの陰湿ないじめが自身の部屋で兄弟子たちから行われており、被害者の若い力士(四股名=河内)とその父親からいじめを行った千代天山と共に訴えられていたが、2003年の5月に謝罪することを条件に民事裁判で和解し、告訴は取り下げとなった。河内(2002年の3月に脱走して廃業)は苦境を九重に訴えたが、九重は取り合おうとしなかったとのこと。 2000.6月、大鵬(一代年寄)の還暦土俵入りに露払いを務める。 |
2002.2月、元師匠の第52代横綱・北の富士勝昭の還暦土俵入りに千代の富士が太刀持ち、北勝海が露払いを務める。但し、当時北の富士は日本相撲協会を退職したため両国国技館が使えず、代わりにホテルイースト21東京を借りて披露した)。
千代の富士は引退後、2010.5月場所まで毎場所に渡って中日新聞に「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載していた(系列紙の東京新聞には「ウルフの目」というタイトルで掲載)。注目した取組や力士に対する独自の解説、相撲界への提言、優勝力士の予想など幅広く執筆していた。優勝力士予想については千秋楽当日でも当たらない場合があった。しかし、親方業の傍ら執筆しているために自分の部屋に所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞の相撲担当記者が書いた記事とは違った魅力がある。近年は力士の稽古不足、下半身の強化不足に警鐘を鳴らし続けた。 |
2007年半ばより始まる朝青龍のトラブルや時津風部屋力士暴行死事件で角界が大揺れの中、一門代表の理事だった高砂が朝青龍の師匠として責任を問われたことにより2008.2月からようやく理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めた。 |
2008.3月場所8日目、審判部の職から離れたことでNHKの大相撲中継の解説者として登場し、15年ぶりに正面解説席で幕内取組の解説を務めた。また、直後の5月場所から東京場所限定でファンサービスの一環として、親方衆による握手会を開催して先着100名に直筆サイン色紙をプレゼントした。その後は日替わりで玉ノ井、高田川とともに日本相撲協会のキャラクターグッズを先着100名にプレゼントをした。 |
2010.1.26日、愛弟子でこの時に引退したばかりの佐ノ山(元・千代大海)から、「森田一義アワー 笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに出演依頼を受け、同番組に初登場した。金髪剃りこみ姿で入門を直訴してきた佐ノ山のエピソードや、前述の飛行機に乗りたいがために入門した逸話など披露した。翌日のゲストには綾小路きみまろ(漫談家)を紹介した。
その直後の理事選挙には、高砂一門から立候補して当選を果たし、新弟子検査担当・ドーピング委員長を兼任する審判部長に就任した。理事長が放駒に代わった後の体制では巡業部長を務めている。2010年9月場所7日目に正面解説席で解説を務め、この日に自身の連勝記録(53連勝)を超えた白鵬を支度部屋で祝福した。2011年、九重貢「綱の力」(ベースボールマガジン社)。 |
2011年、八百長問題で師匠としての責任をとって理事を辞任。 |
2012年2月、理事改選で最下位当選で返り咲きした。直後の改選理事による理事会において、貴乃花とともに北の湖の理事長就任に尽力したことから、論功行賞により2月の職掌任命において、事実上のナンバー2である事業部長に就任した。9月に雷理事が辞任したことを受けて、総合企画部長と監察委員長も兼任。 |
2014年1月場所は北の湖が腸閉塞のため初日から7日目までを休場する中で理事長代行を務め、協会挨拶も担当した。挨拶として「大関稀勢の里が休場致し、遺憾に存じます」と謝罪した。 |
【九重親方(千代の富士)履歴考その6、理事落選】 |
2014.1.31日、公益財団法人に移行した日本相撲協会は、東京・両国国技館で新法人の理事候補を決める選挙を行い、協会NO・2の事業部長を務める九重親方(元横綱千代の富士)がただ1人、最下位となる5票しか獲得できず、11人の候補者中唯一の落選となった。九重支持は部屋付きの佐ノ山親方(元大関千代大海)ら4人とみられていた。当選者で最少だった元理事の友綱親方(元関脇魁輝)の7票に及ばなかった。高砂一門が八角を第1候補に擁立していたことから驚きをもって迎えられることはなかった。「不徳の致すところです」とひと言。午後5時すぎ。業務を終えた九重親方は「しょうがないじゃない」とサバサバした様子で国技館を後にした。新理事の体制は、春場所後の評議員会で決議後、移行する。同親方は、役員待遇となる可能性が高い。現職NO・2の落選は異例。理事改選では現職の事業部長の落選は、68年初場所後の理事選挙開始以降、24度目で史上初。(「九重親方、現職事業部長初の落選 nikkansports.com 2014年2月1日」)
2014.4.3日、日本相撲協会の職務分担で委員に降格。31回優勝に国民栄誉賞、大関(千代大海)も育てた九重親方(58=元横綱千代の富士)が理事から委員に3階級降格。年寄(親方)の階級は理事、副理事、役員待遇委員、委員、主任、年寄となっている(元大関の「委員待遇年寄」もいるが)。理事経験者は役員待遇におさまるのが通例であるところを、それをすっ飛ばして下がってしまった。役員待遇なら理事と同じ給与がもらえるが、委員では理事と比べて数十万円のダウンになる。本場所中、国技館などへ出勤しても役員室に入れるわけでもない。割り当てられた監察と指導普及の部署は、いずれもトップが貴乃花親方(41歳)。こちらも一代年寄の大横綱とはいえ、その“部下”となるのはプライド高き九重親方にとって屈辱ものの人事。八百長問題で降格となった陸奥親方(元大関霧島、55歳)は委員から役員待遇に昇格した。今年の理事選で落選したとはいえ、処分案件のない九重親方の異例の降格は左遷に等しい。総合企画部長から指導普及部長、生活指導部長、監察委員長、危機管理委員長などと肩書きラッシュの貴乃花親方の厚遇ぶりは、北の湖理事長(60歳)が貴乃花後継体制の準備段階に着手したことを意味するとみられる。ということで、九重親方は協会運営的には引導を渡されたも同然の感が強い。 (「相撲協会の大横綱冷遇 東スポWeb 2014年04月22日」) |
2015.5.31日、6.1日に還暦(満60歳)を迎える前日、両国国技館で「還暦土俵入り」を披露した。露払い・日馬富士、太刀持ち・白鵬と、共に現役横綱が担当した。三つぞろえの化粧まわしは、還暦土俵入りのために新調した。デザインは親方が赤富士、太刀持ちの横綱白鵬が青富士、露払いの日馬富士が白富士となる。「現役の横綱に介添えをしてもらえる。感無量。これだけみんなの手間暇がかかっているのを見ると、無事に務めたいね」と意気込みを語った。「千代の富士~、日本一!」とあちらこちらからかけ声が飛んだ。その土俵入り用の「赤い綱」の綱打ちが3日前の5.28日に九重部屋で行われ、九重親方は「現役の頃を思い出すね」と笑顔で語っている。尚元横綱の還暦土俵入りを披露するのは、2013.6月の北の湖親方(一代年寄)以来2年ぶり10人目。なお、従来還暦土俵入りを行った歴代横綱は綱だけ赤く、垂らす御幣は現役時と同様に白色であるが、千代の富士は綱だけでなく紙垂も赤色であった。元横綱の還暦土俵入りで、赤い紙垂を採用したのは現時点で千代の富士が唯一であり、他に例はない。(「「ウルフ」の赤い綱作製 九重親方の還暦土俵入り」)
2015.7.12日、7月場所初日、「内臓疾患により3週間の加療入院」の診断書を提出し、同場所を全休した。翌9月場所初日の復帰時に初期の膵臓癌が発覚し手術を受けたことを公表した。 |
「昭和最後の大横綱、千代の富士の生涯」。
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(私論.私見)