太刀山峰右衛門


 (最新見直し2015.11.30日)

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 2015.11.30日 れんだいこ拝


 太刀山峰右衛門(たちやま・みねえもん)
 本名・老本弥次郎。出身地・富山県。1877(明治10)年8月15日生。44年6月、横綱昇進。大正(1918)7年1月、引退。優勝9回。身長188cm、体重150kg。昭和16(1941)年4月3日没。

 幕内通算成績 31場所 195勝27敗10分5預73休 勝率8割7分8厘 優勝相当9回 優勝2回。最高位・横綱最高位・横綱。
 太刀山峰右エ門は大正期に無敵を誇った大横綱で、大関、横綱として雷電為右エ門以来ともいえる無敵の強さを誇った横綱である。その強烈な突っ張りは一突き半(1月半)をもじって「四十五日の鉄砲」と恐れられた。横綱時代の在位勝率は9割6分6厘という驚異的なもの。この在位勝率は、1場所だけで勝率10割の陣幕久五郎を除けば史上1位。そのため太刀山を史上最強力士として「20世紀最強の人類」に推す声もある。
  その取り口を評して、川柳に「太刀山は、四十五日で今日も勝ち」と詠まれた。太刀山の得意技は突っ張り。相手をひと突き半で突き出すことを常とした。その威力は二突き(2月)とは耐えられないとの意から一突き半(1月半)→45日で「四十五日の鉄砲」と恐れられた。土俵の直径が現在より60センチ狭い13尺(3・96メートル)だったとはいえ凄すぎる。小常陸などは十数メートルも突き飛ばされ、着地の際に国技館の床をぶち破って休場に追い込まれた。突きをかいくぐっても、小手投げ、仏壇返し(呼び戻し)で土俵にたたきつける。重さ約500キロの砲弾を持ち歩く怪力を誇り、当時の生物図鑑に「ゴリラは太刀山のように強力な動物」なる記述が見られるほど超人的な強さだった。とんでもない逸話がある。明治42年夏場所8日目から45年春場所7日目まで43連勝を記録。西ノ海に喫した黒星を挟んで、大正5年夏場所7日目まで56連勝した。西ノ海戦について、引退後に「あの相撲はわざと負けた」と告白。これが本当なら100連勝していたことになる。明治42年に優勝力士の表彰制度が導入されてから初めてとなる5連覇を達成した翌場所は全休し、休場明けに2連覇。休まない限り優勝が途絶えないありさまだった。けいこ土俵の中央に直径1メートルほどの小円を描いて「おれがここから出たら負けでいい」。他力士との力量差は歴然としていた。名声は世界にとどろき、世界最強のレスラーといわれたジョージ・ハッケンシュミット(ロシア)との異種格闘技戦も内定した。第一次世界大戦のために実現しなかったが、中国・上海巡業でインド人レスラー集団を手玉に取った実力をもってすれば、勝利はかたかっただろう。

 太刀山履歴
 太刀山の実家は製茶業を営み、太刀山の怪力で揉まれるお茶は針のごとく鋭く、品評会で必ず優勝したといわれている。徴兵検査での優勝な成績が評判となり、友綱が勧誘に動いたものの本人と家族が拒否したと云う。友綱の後援者であった自由民権運動の中心人物である大物政治家の板垣退助、内務大臣の西郷従道、富山知事らが動いて、明治32(1899)年、太刀山を友綱部屋に入門させた。太刀山の四股名は、地元の名峰・立山にちなみ、さらに横綱・常陸山(ひたちやま)谷右エ門に迫れとの意味も込めて板垣退助が命名した。まさに太刀山の入門は「国家プロジェクト」級。

 ケガや病気もあり、入門の1年後の明治33年5月に幕下付け出しで初土俵を踏む。順調に強さを増し、一門には太刀山と渡り合える稽古相手がおらず、出羽ノ海部屋の常陸山に頼み込んで稽古をつけてもらったと云う。この時、一緒に稽古をしたのが大関までライバルといわれた駒ヶ嶽國力。四つ相撲は不得手といわれながら、四つになっても「呼び戻し」という強烈な技があり、その強烈な決まり方から菊人形のからくりになぞらえて「仏壇返し」とも呼ばれた。明治37(1904)年5月に前頭1枚目で常陸山休場ながら優勝相当。明治40(1907)年5月には関脇で常陸山を初めて下し2度目の優勝相当の成績を挙げたが、本格的に強くなったのは大関になってからである。(優勝制度は明治42年6月からの新聞社による優勝掲額制度が始まりで、それ以前は優勝相当となります)(前頭筆頭はあえて前頭1枚目で表記した)

 長身(188cm)を持て余していたのが、体重の増加により、力強さと安定感が増した。明治43(1910)年6月から明治45(1912)年5月かけて5連覇、全休を挟んで、大正2(1913)年5月、大正3(1914)年1月の2連覇をしている。5連覇が始まる前の明治42(1909)年6月8日目から明治45(1912)年1月7日目まで43連勝、8日目に西ノ海嘉治郎に敗れたものの9日目から再び連勝し、大正5(1916)年1月8日目に栃木山守也に敗れるまで56連勝をしている。優勝回数はその後2回を重ね、最後の優勝をした翌場所の大正6(1917)年1月に大錦卯一郎との千秋楽全勝対決に敗れ、その後の稽古でのケガ、栃木山、大錦の台頭もあり、2場所全休後に現役を引退した。稽古でのケガが直接の引退の原因となり、みごとな引き際だった。

太刀山の強さを示す本場所でのエピソードとしては、大関時代の明治43(1910)年6月3日目の小結・小常陸戦、8日目の平幕(前頭8枚目)・八嶋山戦が有名。小常陸戦では、対戦の前日に小常陸の後援者が宴席をもうけて太刀山に酒を飲ませ、太刀山の二日酔いを狙ったものの、翌日の対戦では、小常陸を立会いの突き一発で桟敷まで飛ばし、桟敷を足で突き破った小常陸はその時のケガで翌日から休場してしまった。その5日後の8日目に太刀山と対戦したのが八嶋山。八嶋山は、小常陸戦の衝撃が頭にあったのか、立ち合いに太刀山の鉄砲(突き)を恐れてじりじりと後退し土俵を割り、太刀山は手を出すことなく、前へ進むだけで勝利を手にした。当時の新聞はこの一番の決まり手を「にらみ出し」ともてはやしたといわれる。(新聞の決まり手欄では「寄り切り」)

 土俵の上での本場所以外のエピソードとしては、太刀山が土俵に1メートル程の円を書き、円から自分(太刀山)を出すものがいたら10円(現在では数十万円に相当)をやると言い挑戦者をことごとく退けたというものがある。土俵外での怪力エピソードも多く、400kgの砲弾を片手で振り回した、500kgの弾丸を1人で運んだなど驚くべきものである。

 太刀山の体格

 太刀山の全盛期の体格は身長188cm、体重150kg。太刀山は全盛期へ向かう前には軽量だったため、長身を持て余していた。しかし、体重の増量とともに力強さと安定感が増して無敵の強さを誇ることになった。

 「勝つ相撲」の具現者

 太刀山は雷電為右エ門とともに「勝つ相撲」の具現者だと思われる。下半身が堅かったこともあり、突き押し相撲に徹したといわれるが、横綱としての強さはまさに無敵だった。積極的に攻める相撲はまさに「勝つ相撲」そのものだった。当時の相撲は常陸山に代表されるがっぷりの四つ相撲が全盛で太刀山のように一瞬で勝負が決する相撲は好まれなかった。しかし、常陸山らに代表されるがっぷりの四つ相撲から栃木山、大錦に代表されるスピード感ある速攻相撲へ変わる中間期に位置する太刀山は相撲の変化に重要な役割を果たしたといえる。ある意味で栃木山、大錦という近代相撲の先駆者に先んじた先駆者ともいえるかもしれない。43連勝した後1敗を挟んで56連勝しているが、これは「負けない相撲」と比較すると取りこぼしが多い傾向にある「勝つ相撲」においても極めると大きな連勝が可能であることを示している。

 ▽現役引退後

 引退後は東関を襲名して独立しましたが、勝負検査役の選挙に敗れたのを機に弟子を高砂に譲って角界を去る。人望の無さが落選という結果になったといわれているが、晩年は巨万の富を築き、悠々自適の生活を送ったともいわれている。当時の力士としては食事面など健康に気を遣い、節食であったといわれる。
この健康への気遣いが昭和12(1937)年2月に還暦を記念した「還暦土俵入り」につながった。還暦土俵入りの元祖といわれる。現役時代から絵画に親しみ、日本画を学び、特に富士山を好んで描いたといわれる。角界を去りましたが、個人的には「人生の達人」だった。

■幕内通算成績
場所 番付 成績 星取表 優勝 備考
明治36(1903)年1月 東前6 6勝3敗1休 ●○○●○○○○●休    
明治36(1903)年5月 東前2 4勝4敗1分1休 ○●○●○●●分○休    
明治37(1904)年1月 東前2 7勝2敗1休 ○○○○●●○○○休    
明治37(1904)年5月 東前1 8勝1敗1休 ○○●○○○○○○休 (1)  
明治38(1905)年1月 東前1 7勝1敗1預1休 ○○○○預○○●○休    
明治38(1905)年5月 東関脇 5勝2敗1分2休 ○○○休●分●○○休    
明治39(1906)年1月 東関脇 7勝2敗1休 ○○○○○●●○○休    
明治39(1906)年5月 東関脇 4勝1敗5休 ○○●○○休休休休休    
明治40(1907)年1月 東関脇 5勝1敗1分3休 ●休○○○休○○分休    
明治40(1907)年5月 東関脇 8勝1敗1休 ○○○○●○○○○休 (2)  
明治41(1908)年1月 東関脇 6勝2敗1預1休 ○○○○○○●●預休    
明治41(1908)年5月 東関脇 7勝1敗1分1休 ○○○●○○○分○休    
明治42(1909)年1月 西関脇 6勝1敗1分2休 ○○○○●○休分○休    
明治42(1909)年6月 西大関 8勝2敗 ○●○○○○●○○○    
明治43(1910)年1月 西大関 6勝2分1預1休 ○○○○○分○休預分    
明治43(1910)年6月 西大関 9勝1分 ○○○○○○○○○分  
明治44(1911)年2月 西大関 8勝1分1預 ○○○○○○預○分○  
明治44(1911)年6月 東横綱 10勝 ○○○○○○○○○○  
明治45(1912)年1月 東横綱 8勝1敗1分 ○○○○○○○●○分  
明治45(1912)年5月 東横綱 10勝 ○○○○○○○○○○  
大正2(1913)年1月 西張横 10休 休休休休休休休休休休    
大正2(1913)年5月 東横綱 10勝 ○○○○○○○○○○  
大正3(1914)年1月 東横綱 10勝 ○○○○○○○○○○  
大正3(1914)年5月 西横綱 8勝1預1休 ○○○○○休○○預○    
大正4(1915)年1月 西横綱 10休 休休休休休休休休休休     
大正4(1915)年6月 西横綱 10勝 ○○○○○○○○○○  
大正5(1916)年1月 西横綱 10休 休休休休休休休休休休    
大正5(1916)年1月 西横綱 9勝1敗 ○○○○○○○●○○  
大正6(1917)年1月 東横綱 9勝1敗 ○○○○○○○○○●    
大正6(1917)年5月 東横綱 10休 休休休休休休休休休休    
大正7(1918)年1月 西横綱 10休 休休休休休休休休休休    
 幕内通算成績 31場所 195勝27敗10分5預73休 勝率8割7分8厘 優勝相当2回 優勝9回

 成績と記録
 幕内通算成績 195勝27敗10分5預73休 勝率8割7分8厘 31場所で優勝相当2回、優勝9回
 横綱在位成績 84勝3敗1分1預51休、勝率9割6分6厘、14場所で優勝7回

 横綱在位勝率~9割6分6厘~史上1位
 幕内勝率は8割7分8厘ながら、横綱在位勝率は9割6分6厘(84勝3敗1分1預51休、14場所で優勝7回)を記録しており、この在位勝率は1場所だけの記録である陣幕の勝率10割を除けば史上1位です。
(陣幕の横綱在位勝率10割は1場所だけのため参考記録としました)

 優勝回数~11回(優勝相当2、優勝9)~年2場所時代では5位
年2場所時代においては優勝11回(優勝相当2回、優勝9回)は、雷電為右エ門(28回)、谷風梶之助(21回)、柏戸利助(16回)、双葉山定次(12回)に続く5位の記録です。

 連覇~5~史上4位
 明治43(1910)年6月から明治45(1912)年5月かけて5連覇を記録しています。

さらに1場所の全休を挟んで大正3(1914)年1月まで出場場所7連覇も達成しています。

 連勝~56~史上4位
明治45(1912)年1月9日目から大正5(1916)年1月8日目に栃木山守也に敗れるまで56連勝をしています。

 この連勝以前に明治42(1909)年6月8日目から明治45(1912)年1月7日目まで43連勝を記録、8日目に西ノ海に敗れてから再び連勝して前述の56連勝を記録、真偽は分かりませんが、太刀山が後に43連勝と56連勝の間の1敗については「あれは西ノ海に勝ちを譲った」と語ったともいわれています。

 ▼ライバル

 太刀山は大関から横綱として無敵の強さを誇りましたが、大関になるまでライバルといわれた駒ヶ嶽國力、大関の頃まで第一人者であった常陸山谷右エ門、横綱の晩年に速攻で近代相撲の先駆者となった栃木山守也、大錦卯一郎をライバルとして挙げます。

 栃木山は太刀山の連勝を56でストップし、大錦は太刀山の現役最後の対戦相手です。(対戦成績は太刀山から見たものです)

 駒ヶ嶽國力
 宮城県出身、身長188cm、体重135kg
 幕内通算成績 22場所 105勝44敗22分7預45休 勝率7割0分5厘
 最高位・大関

 太刀山が大関の頃までライバルといわれ、将来を期待されていた。上がつかえて関脇に据え置かれていた太刀山に先んじて大関になりましたが、太刀山が横綱になる頃には相手ではなくなっていた。酒豪で知られましたが、酒で生活が荒れ、茨城県での巡業中に濁酒を飲んで荷車で仰向けになっている間に日差しを受け、お腹で酒が発酵して、そのことが原因で急死した。対戦成績 8勝3敗2分2預 ○○○預●●分●○預分○○○○

 常陸山谷右エ門
 茨城県、身長174cm、体重146kg
 幕内通算成績 32場所 150勝15敗22分2預131休 勝率9割0分9厘 優勝相当7回 優勝1回
 最高位・横綱

 梅ヶ谷藤太郎(2代)とともに一時代を築いた強豪で、引退後わずかの期間に出羽ノ海部屋を大勢力にし、角聖、御大と称えられました。大関になるまで太刀山の「壁」となりました。対戦成績 3勝4敗3分1休
●●●分●○休○分○分

 栃木山守也
 栃木県出身、身長172cm、体重103kg
幕内通算成績 22場所 166勝23敗7分4預24休 勝率8割7分8厘 優勝9回。最高位・横綱

 筈押しの相撲を完成させた近代相撲の先駆者で、引退の6年後に年寄ながら第1回大日本力士選手権に参加し現役力士を下して優勝してしまった強豪です。大正5(1916)年1月8日目に太刀山の連勝を56でストップした。対戦成績 2勝1敗 ○●○

 大錦卯一郎
 立ち合い一気の速攻相撲で同部屋の栃木山と一時代を築きました。大錦は太刀山の現役最後の対戦相手で、大正6(1917)年1月に千秋楽全勝対決を制しました。対戦成績 2勝1敗○○●




(私論.私見)