谷風梶之助


 (最新見直し2015.11.30日)

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 2015.11.30日 れんだいこ拝


 谷風梶之助(たにかぜ・かじのすけ)
 本名・金子与四郎。出身地・宮城県出身。身長189cm、体重169kg。アンコ型の巨漢で、色が白く、目が細かったといわれる。寛延3(1750)年8月8日、宮城県出身。明和6(1769)年4月初土俵、寛政元(1789)年11月横綱昇進、同6年11月最終場所。生没年月日・寛延3(1750)年8月8日-寛政7(1795)年1月9日~現役死。最高位・大関(横綱免許)。
 谷風梶之助は第4代横綱である実質上最初の横綱とされている。古今の最強力士といえば、雷電為右エ門、谷風梶之助が不動の1位、2位といわれることが多い。両力士はそれだけ大相撲において抜きん出た存在であり、特別視され別格で扱われている。谷風は実質上最初の横綱としてその強さのみならず、人物のスケールの大きさでその後の横綱のあるべき姿を示した。横綱の手本、基準、横綱中の横綱と云える。
 通算成績 49場所 258勝14敗16分16預5無勝負112休 勝率9割4分9厘 優勝相当21回。最高位・大関(横綱免許)。約150年間も破られなかった63連勝を記録した古今の超強豪で、雷電とともに大相撲において別格、特別視されています。その圧倒的な成績、記録はもちろんですが、人物のスケール、人格なども、その後の横綱の規範となったといわれます。
 大相撲の最多連勝記録は“昭和の大横綱”双葉山の69。史上2位は谷風の63連勝。双葉山は安芸ノ海に連勝を止められると、そのまま3連敗した。が、谷風は小野川に連勝を止められた翌日から再び勝ち続け43連勝している。当時は江戸のほかに大阪と京都にも大相撲集団があった。63連勝は江戸本場所のみの数字である。大阪、京都の本場所を加えると何と98連勝を記録している。双葉山の69連勝を上回ること29である。

 寛政元(1789)年にライバルの小野川と同時に横綱になり、史上初めて横綱土俵入りを披露、空前の黄金時代を現出した。名声を耳にした11代将軍家斉が江戸城内で上覧相撲を催したほど。優勝21回。相撲ぶりは典型的な横綱相撲で、常に受けて立ち、相手に十分に力を出させてから料理した。当時の文献に「力量万人にすぐれ、相撲の達人にて、腰低く寄る足いたって早く」と記されている。“怪物”雷電をマンツーマンで鍛えて強くしたのは谷風である。

 「土俵上でワシを倒すのは無理。横になっているのを見たければ、風邪をひいている時に来い」(「土俵上で儂を倒すことはできない。倒れているのを見たければ儂が風邪にかかった時に来い」)と豪語した谷風の強さに掛けて、天明年間に流行した悪性の風邪を人々は「タニカゼ」と呼んで恐れた。ところが皮肉にも谷風自身、大流行した風邪のために寛政7(1795)年1月9日に現役横綱のまま44歳で急死した。この時35連勝中でした。ちなみに死亡前の3年間は無敗。その死は江戸っ子を悲しませた以後、この古今並びなき偉大な大横綱である谷風の名を名乗るものは無く、当然のごとく、「止め名」となっている。


 谷風履歴
 寛永3(1750)年8月8日、現在の宮城県に生まれた。

 明和6(1769)年4月、伊達ヶ関の名で看板大関として初土俵を踏む。翌場所には、仙台藩主である伊達家を憚って達ヶ関に改名する。看板大関を3場所務めた後、その待遇をよしとせず、明和7(1770)年11月に前頭1枚目から再スタートする。安永5(1776)年11月に谷風に改名。

 安永7(1778)年3月から天明2(1782)年2月にかけて63連勝をします。この63連勝は双葉山が69連勝をするまで約150年間も連勝記録となっていた。連勝をストップさせたのが、後にライバルとなる小野川喜三郎(当時・幕下3枚目、当時の幕下は現在の十両)。連敗がストップした翌日から谷風は再び43連勝している。寛政元(1789)年11月に小野川とともに横綱免許を受ける。

 谷風に対する人物評

 当時の谷風に対する人物評は、「いつもにこやかで少しもおごったところが無い」、「力量すぐれ、相撲は達人、腰低く寄り足は早い・・・寛永このかた、こんな完璧な力士はいない」といったものです。怪力で多くの逸話、伝説も持ち、力量に優れながらもおごらず堅実な相撲を取っていたようです。人物としてのスケール、度量の大きさも称えられていた。一方で負けず嫌いでも知られ、物言いをよくつけたといわれる。雷電を預かり弟子として初土俵まで6年間育てたのも谷風の功績。

 

■通算成績
場所 番付 成績 星取表 優勝 備考
明和6(1769)年4月 西大関 4勝3休 休○○休○休?○  
明和6(1769)年11月 西大関 1敗7休 休休休休休休休●    
明和7(1770)年3月 西大関 3勝5休 休休休休○○休○    
明和7(1770)年11月 西前1 7勝1敗 ○○○○●○○○  
明和8(1771)年3月 西前3 8休 休休休休休休休休    
明和8(1771)年11月 西小結 5勝1分2預 ○○預○○預分○    
安永元(1772)11月 西小結 6勝2休 ○○○○○休○休 (1)  
安永2(1773)閏3月 西前1 5勝1敗1分1預 ○○○○預○●分    
安永2(1773)10月 西前1 5勝2敗1預 ○○○○○預●●  
安永3(1774)4月 西前1 6勝2休 ○○○○○○休休 (2)  
安永3(1774)10月 西小結 5勝2分1休 ○○分休分○○○    
安永4(1775)3月 西小結 4勝 ○○○○ (3)  
安永4(1775)10月 西小結 5勝1敗2預1休 ○○●○○預預○休      
安永5(1776)1月 西前1 (記録不明) (記録不明)    
安永5(1776)10月 西小結 7勝1無勝負 ○○○○○無○○ (4)  
安永6(1777)4月 西関脇 2勝1敗5休 ○●○休休休休休    
安永6(1777)10月 西小結 5勝1敗1分1預 ○○○預○○●分 (5)  
安永7(1778)3月 西関脇 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (6)  
安永7(1778)11月 西関脇 10休 休休休休休休休休休休    
安永8(1779)3月 西関脇 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (7)  
安永8(1779)10月 西関脇 9勝1分 ○○○○○○○○分○ (8)  
安永9(1780)3月 西関脇 6勝 ○○○○○○ (9)  
安永9(1780)10月 西関脇 8勝2預 ○○○預○○預○○○ (10)  
安永10(1781)3月 西大関 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (11)  
天明元(1781)10月 西関脇 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (12)  
天明2(1782)2月 西大関 6勝1敗3休 休○○○休○●○○休    
天明2(1782)10月 西大関 7勝1預1無勝負1休 ○○○預○○○○無休 (13)  
天明3(1783)3月 西大関 5勝1無勝負4休 休○○○○○無休休休 (14)  
天明3(1783)11月 西大関 8勝1分1休 ○○○○○○休○分○ (15)  
天明4(1784)3月 西大関 6勝2預2休 ○○○○○○休預預休 (16)  
天明4(1784)11月 西大関 3勝7休 ○○○休休休休休休休    
天明6(1786)3月 西大関 10勝 ○○○○○○○○○○ (17)  
天明6(1786)11月 西大関 3勝1敗6休 休○○●○休休休休休    
天明7(1787)5月 西関脇 (不作のため中止) (不作のため中止)    
天明7(1787)11月 西関脇 6勝1敗1分1預1休 ○○○○○○預分●休    
天明8(1788)4月 西関脇 7勝1分1預1休 預○○○○○○分○休 (18)  
天明8(1788)11月 西関脇 7勝1分1預1休 ○○休○○○分○預○    
寛政元(1789)3月 西関脇 7勝1敗1分1休 ○○○○○○○●分休    
寛政元(1789)11月 西関脇 6勝1分3休 ○休○○休○○○分休   横綱
寛政2(1790)3月 西大関 4勝1分1預1無勝負2休 休○○預○分休○無    
寛政2(1790)11月 西大関 7勝1敗1分1休 ○●○○○○○分○休    
寛政3(1791)6月 西大関 6勝1敗1無勝負2休 ○休○○●○○○無休    
寛政3(1791)11月 西大関 10休 休休休休休休休休休休    
寛政4(1792)3月 西大関 8勝2休 ○○○○○○○○休休 (19)  
寛政4(1792)11月 西大関 3勝 ○○○ (20)  
寛政5(1793)3月 西大関 7勝2休 ○休○○○○休○○ (21)  
寛政5(1793)11月 西大関 5勝2分3休 ○分休○○休○○休分    
寛政6(1794)3月 西大関 5勝5休 休○○○休休○○休休    
寛政6(1794)11月 西大関 4勝6休 休○休休○○休○休休    
 通算成績 49場所 258勝14敗16分16預5無勝負112休 勝率9割4分9厘 優勝相当21回  

▼成績と記録
 通算成績 258勝14敗16分16預5無勝負112休 勝率9割4分9厘 49場所で優勝相当21回

 ▽勝率~9割4分9厘~史上3位
 幕内勝率9割4分9厘は、雷電(9割り6分2厘)、梅ヶ谷藤太郎(初代)(9割5分1厘)に続く史上3位の記録です。

 なお、横綱在位勝率は、9割6分5厘(55勝2敗5分1預2無勝負36休、勝率9割6分5厘、11場所で優勝相当3回)で、1場所のみで勝率10割の陣幕久五郎を除けば、太刀山峰右エ門の勝率9割6分6厘に次ぐ史上2位です。

 ▽優勝相当~21回~史上8位
 優勝相当21回は、年2場所の時代にあっては、雷電(28回)に続くもので、年6場所の時代も含めては、白鵬(34回、平成27年春場所現在)、大鵬(32回)、千代の富士(31回)、雷電(28回)、朝青龍(25回)、北の湖(24回)、貴乃花(22回)に続くものです。(白鵬は、史上1位の34回優勝(平成27=2015年の春場所現在)していますが、現役中で変動の可能性あり)

 ▽連覇~6~史上5位タイ
 安永8(1779)年3月から天明元(1781)年10月にかけての6連覇は史上5位タイです。この6連覇は、63連勝をしている間にあたり、この期間は負け知らずでした。

 谷風は6連覇のほかに天明2(1782)年10月から天明4(1784)年3月までの4連覇、さらに安永6(1777)年10月から天明元(1781)年10月の間に全休を挟んで出場場所8連覇を記録しています。(白鵬は、史上2位タイの7連覇(2013年5月現在、技量審査場所などを含む)していますが、現役中で変動の可能性あり)

 ▽連勝~63~史上2位タイ
 双葉山(69)に続く史上2位タイで、この記録は約150年間破られませんでした。谷風は、ほかに43連勝、35連勝(現役死まで継続)を記録しています。こと連勝記録に関しては、3度にわたる大きな連勝があり、他の追従を許さぬ実績を残したといえます。(白鵬は、史上2位タイの63連勝(2013年5月現在)していますが、現役中で変動の可能性あり)

 ▼ライバル
 谷風のライバルといえば、やはり谷風の連勝を63でストップし、後に同時に横綱免許を受けた小野川だと思います。(対戦成績は谷風から見たものです)

小野川喜三郎
滋賀県出身、身長176cm、体重135kg
幕内通算成績 23場所 144勝13敗4分10預3無勝負40休 勝率9割1分7厘 優勝相当7回
最高位・大関(横綱免許)

谷風の63連勝をストップさせた小野川は、後に谷風と同時に横綱免許を受けた古今の強豪力士でした。体格、地力で上回る谷風に対して駆け引き、技術で対抗したといわれます。

 対戦成績 6勝3敗2分2預3無勝負
 ○○○●○無分預●○預●分無○無分

 初戦、3戦目、4戦目は小野川が幕下(現在の十両)にいる時に幕内の谷風と対戦したものです。谷風の63連勝がストップした一番は4戦目の対戦で、天明2(1782)年2月7日目のことです。小野川喜三郎についての更なる詳細は、史上最強力士RANKINNG内の小野川喜三郎を参照





(私論.私見)