玉錦三右衛門 |
(最新見直し2015.11.30日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「玉錦三右衛門」を確認しておく。「」、「玉錦三右エ門■ケンカ玉、ボロ錦」その他を参照する。 2015.11.30日 れんだいこ拝 |
玉錦三右衛門(たまにしき さんえもん) |
本名・西ノ内 彌寿喜。出身地・高知県。明治36(1903)年12月15日生。大正8(1919)年1月初土俵、昭和8(1933)年1月横綱昇進。昭和13年5月最終場所。身長173cm、体重139kg。昭和13(1938)年12月4日~現役死。 |
玉錦三右エ門は、昭和初期に双葉山が台頭する前に一時代を築いた強豪横綱である。土佐犬のような男だった。玉錦は闘魂で土俵の王者となった。高知出身。13歳で入門したが、体重63・75キロという当時の新弟子検査規定に達せず、番付に乗るまで3年かかった。恵まれない素質を熱心なけいこでカバー。ナマ傷が絶えず、つけられたあだ名が「ボロ錦」。けいことともに熱心だったのが、ケンカ。刃物を手にしたヤクザとも平気で渡り合い、部屋の近所でもめ事があると「犯人は玉錦だろう」と真っ先に疑われたほど。もうひとつのあだ名は「ケンカ玉」。番付が不満で相撲協会の実力者、出羽海親方(元小結両国)を日本刀で襲ったこともあった。乱暴狼藉がアダとなり、大関で昭和5年10月場所から3場所連続で優勝しても横綱になれなかった。25年に設置された横綱審議委員会の横綱昇進内規は「2場所連続優勝か、それに準ずる成績」。今後は大関で3連覇して横綱になれない力士など永久に出るまい。8年1月にようやく横綱に昇進した。負けん気の強さと抜群の稽古量で名横綱となった。玉錦時代が到来したが王座は短かった。鋭い出足を武器に10年1月から3連覇を続け、同5年から27連勝を記録していたが、その連勝を止めたのが自ら胸を貸して強くした双葉山だった。双葉山はそのまま69まで連勝を続け覇者が劇的に交代した。その後は打倒双葉山に闘志を燃やしたが志半ばでたおれた。巡業中に虫垂炎を発症したが、「おれが盲腸になるはずがない」と病院行きを拒否して弟子に腹をもませた。盲腸が破れて膿(うみ)が腹腔にあふれ、緊急手術したが手遅れだった。13年12月4日、死去。出世の原動力となった強情が命取りになった。現役横綱の死は江戸時代の谷風以来143年ぶりの悲劇だった。薄れゆく意識の中で発した最期の言葉は「おい相撲だ。まわしを持ってこい」だったという。 |
玉錦履歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
玉錦三右エ門は、小さい頃より負けん気の強さで知られ、喧嘩と相撲が好きであったと云う。大正5(1916)年に太刀山一行が巡業に来た際に自ら望んで二所ノ関の門に入った。体格不足だった為にすぐに正式に力士になれたわけではなかった。但し、体格不足ながら、気持ちはすでに一人前の力士で、朝一番で誰よりも早くから稽古を稽古を始め、そのため部屋の他の力士は寝不足になったともいわれている。この稽古好きは番付が上昇し横綱になっても変わらなかった。 大正6年(1917)年、まだ正式の力士としてデビューする前に、稽古場で当時の大横綱・太刀山峰右エ門が「儂を背負って土俵を1周したら米1俵やるぞ」といったのを聞きつけ、1回目はあと少しで失敗したものの、2回目には成功し、米1俵をせしめた。この頑張りに太刀山も感心したと云う逸話が遺されている。 大正8(1919)1月、初土俵を踏む。入門時からの稽古量の多さは変わらず、その猛稽古のため全身は生傷が絶えず、膏薬や包帯だらけで「ボロ錦」といわれ、喧嘩好きであったことから「ケンカ玉」ともいわれました。大正14(1925)年1月に十両、大正15(1926)年1月、入幕を果たす。体格や素質には恵まれてはいなかったが負けん気の強さと猛稽古の賜物だった。小部屋ゆえに最初は回向院周辺で稽古をしていたが、強い稽古相手がおらずその後は師匠の配慮で出羽ノ海部屋に預けられ、栃木山などの胸を借りて実力を増していった。昭和3(1928)年5月、関脇に昇進すると毎場所好成績を挙げるが、上がつかえていたことや喧嘩好きゆえの素行の悪さ、小部屋ゆえの力関係も作用してなかなか大関に昇進できなかった。昭和5(1930)年5月、関脇8場所(うち優勝1回、優勝同点2回)を経験して大関に昇進。大関2場所目の同年10月から3連覇するものの横綱昇進がならず、4連覇を目指すも師匠の看病疲れもあり8勝3敗と崩れ昇進が見送られる。大関8場所(うち1場所は春秋園事件のため中止になり実質7場所、優勝4回)を経験後の昭和8(1933)年1月に横綱に昇進する。春秋園事件でも角界に残り奮闘していたことも昇進直前場所が7勝4敗ながら横綱昇進につながったと思われる。横綱2場所目に優勝し、全休、9勝2敗を挟んで3連覇。3連覇がスタートした昭和10年(1935年)1月からは現役ながら年寄・二所ノ関を襲名し、協会から二枚鑑札を許され、弟子の育成、スカウトにも尽力した。4連覇を目指し、27連勝をしていた昭和11(1936)年5月9日目に双葉山に初めて敗れて連勝ストップ、連覇も3で止まり10勝1敗の優勝次点、優勝は11戦全勝の双葉山だった。双葉山は玉錦が部屋は違うものの立浪部屋に出向き稽古をつけていた相手であり、双葉山の初優勝のお祝いに駆けつけたといわれる。 玉錦と双葉山には不思議な縁がある。玉錦の最多連勝である27連勝は昭和10(1935)年5月4日目の双葉山戦から始まり、連勝ストップも昭和11(1936)年5月9日目の双葉山戦だった。双葉山の69連勝は玉錦に最後に敗れた昭和11(1936)年1月6日目の翌日からスタートしている。翌場所の昭和11(1936)年5月9日目に玉錦に初めて勝った双葉山は11戦全勝で初優勝をしている。以後、玉錦が現役死するまで3度相対したが、双葉山は玉錦に敗れることはなかった。最後の対決は昭和13(1938)年5月千秋楽で、その7ヶ月後の同年12月4日に玉錦は現役死している。双葉山が敗れて連勝がストップするのは玉錦が現役死した1ヵ月後の昭和14(1939)年1月4日目の安藝ノ海戦で、連勝は69に達していた。 以下に玉錦の最後の輝きである最多連勝27がスタートした昭和10(1935)年5月から双葉山が全勝で初優勝して時代を切り開いた昭和11(1936)年5月までの3場所を示す。王者交代の「ターニング・ポイント」ともいえる3場所である。(黄色の囲いが両力士の対戦) 昭和10(1935)年5月 <玉錦2連覇、8回目の優勝、玉錦の最多連勝27は4日目の双葉山戦よりスタート> 玉錦三右エ門(東横綱・優勝 10戦1敗)
昭和11(1936)年1月 <玉錦3連覇、9回目にして玉錦の最後の優勝、双葉山の69連勝は玉錦に敗れた6日目の翌日よりスタート> 玉錦三右エ門(東横綱・優勝 11戦全勝)
昭和11(1936)年5月 <双葉山が全勝で初優勝、玉錦の連勝が9日目の双葉山戦で27でストップ、双葉山は初めて玉錦に勝つ> 玉錦三右エ門(東横綱 10戦1敗)
双葉山に覇権を奪われた後も、覇権奪還はならなかったものの、打倒・双葉山を目指し奮闘しました。 ▽現役死 昭和13(1938)年の九州巡業から大阪へ向かう船の中で虫垂炎になり、その処置を遅らせてしまったことにより12月4日に現役死しています。享年36。現役力士としては初の協会葬で送られました。横綱の現役死は江戸時代の大横綱・谷風梶之助以来2人目(丸山権太左衛門を含めると3人目)となります。余談ながらやはり虫垂炎が原因となり肺血栓症で昭和46(1971)年10月に現役死した横綱・玉の海正洋は玉錦の孫弟子に当たります。玉錦は虫垂炎で痛みが出た時点で適切な処置をすれば助かっていたといわれます。しかし、虫垂炎から腹膜炎になっているとの診断を受けた痛みにも「儂がそんな病気になるはずがない」「冷え腹に決まっている」と言い、病院行きを拒否し、その後病院行きを納得するも、迎えを待っている間に蒸しタオルで腹を揉ませ、痛みをまぎらわしたといいます。病院に着いて開腹したときには虫垂が破裂して膿が腹腔全体に広がっていました。これは搬送前に蒸しタオルで腹を揉んだせいであり、執刀医は驚きのあまり「玉関はこれでも何ともないのか」と言ったそうです。さらに後にNHK相撲解説者となる玉ノ海(解説者としては玉の海)によると、手術後にしばらくは水を飲むことを禁じられていたのにもかかわらず、「喉が渇いた」と氷嚢の氷を取り出しかじっていたといわれます。このような患者らしからぬ行動で腹膜炎が悪化して死につながります。最期は「まわしを持って来い、土俵入りするんだ」と言い、拍手を打って息絶えたと伝わります。 ▼エピソード 稽古と喧嘩が大好きで生傷が絶えず、膏薬や包帯だらけだったことから「ボロ錦」、「ケンカ玉」、「ゴロ玉」と言われましたが、親分肌で、義侠心に厚かったといわれます。よく物言いをつけたといわれますが、若い頃に部屋の枠を越えて稽古をつけてもらった春日野(横綱・栃木山)には頭が上がらず、春日野に説得されると納得したといわれます。春日野から「おい、玉!」と一喝されると大人しくなったとも・・・。春日野を見習ったのか部屋の枠を越えて若手に稽古をつけてやり、その中には稽古熱心だった後の大横綱・双葉山もいたといわれます。玉錦は稽古熱心なものは可愛がり、稽古をしないものには厳しく接したといわれます。猛稽古は後に一門の伝統となります。出羽海一門の「分家・独立は認めず」とは反対に、玉錦の二所ノ関一門は「独立したいものは認める」との基本方針を打ち出しました。横綱土俵入りは「動く錦絵」と賞賛され、その力強い拍手は後の北の湖以外には見られません。足を高く上げる四股は玉錦からで、伝統的ではないとの批判もありましたが、現在の四股の主流となったといえます。八百長が大嫌いで、昭和3(1928)年1月の千秋楽で全勝で初優勝目前の三杉磯を下し、その時の覚悟を「負ければその場で引退しようと考えた。誰が見ても八百長といわれるから」と語ったとされます。三杉磯が敗れ、優勝が決定した常陸岩の優勝祝勝会に誘われても「他人のために相撲を取っているわけではない」と断ったといわれます。また、後に横綱になる武蔵山の昇進の「壁」となり、武蔵山が優勝目前や横綱昇進のかかった一番で何度も武蔵山を撃破しています。 ▼特徴 玉錦は足腰のもろさを左を差して一気に攻める速攻の吊りや寄りで補ったといわれます。そして玉錦を支えたのは負けん気の強さと豊富な稽古量だったといえるかもしれません。双葉山の台頭するまで第一人者として一時代を築いた名横綱といってよいでしょう。金星を与えない横綱であり、在位12場所で金星4個、昭和の横綱で玉錦より1場所当たりの金星配給が少ないのはやはり現役死した玉の海の在位10場所で3個があるのみです。双葉山が充実するまでは玉錦に勝てなかったことと合わせて若手や下位の力士にとっては玉錦が「壁」となっていたことを物語ります。前述の武蔵山にとっても玉錦は「壁」でした。 ▼ライバル ライバルとしては後に玉錦と入れ替わるように一時代を築いた双葉山定次と昇進への道に何度も玉錦が立ちふさがった武蔵山武を挙げます。(対戦成績は玉錦から見たものです) 双葉山定次 大分県出身、身長179cm、体重130kg 幕内通算成績 31場所 276勝68敗1分33休 勝率8割0分2厘 優勝12回 最高位・横綱 双葉山は史上1位で不滅ともいわれる69連勝を記録した昭和の大横綱で史上最強との声もあります 立会いの変化、待ったをせず、記録もさることながら相撲に取り組む姿勢は伝説になっています 引退後も理事長として部屋別総当り制など多くの改革を断行しました 玉錦は双葉山が本格化する前の「壁」となっていました 双葉山の69連勝は、玉錦に最後に敗れた翌日からスタートしました 両者の白星と黒星が前半と後半でくっきり分かれた対戦成績は、明確な王者交代を象徴しているといわれます 双葉山定次についての更なる詳細は、史上最強力士RANKINNG内の双葉山定次を参照 対戦成績 6勝4敗 ○○○○○○●●●● 武蔵山武 神奈川県出身、身長185cm、体重116kg 幕内通算成績 28場所 174勝69敗2分71休 勝率7割1分6厘 優勝1回 最高位・横綱 当時の力士としては長身(185cm)で、同じ長身(191cm)の朝潮(後の男女ノ川)ととも将来を期待されました。しかし玉錦が壁となり、優勝目前や横綱昇進のかかった一番で何度も玉錦に敗れています。小結時代に優勝同点が2回あるがその時の優勝はいずれも玉錦でした。昭和6(1931)年5月に初めて玉錦を下し10勝1敗で初優勝します。その後大関となり、昭和9(1931)年1月から2場所連続優勝次点の8勝3敗、9勝2敗の好成績を挙げ、翌場所は玉錦の全勝を阻み8勝2敗1分、さらにその翌場所に玉錦に次ぐ優勝次点の9勝2敗の成績でようやく横綱に昇進します。しかし小結時代に右肘を故障しており、横綱にはなったものの苦闘の土俵でした。右腕が強力だっただけに右肘の故障はあまりにも痛かったし、惜しまれます。 対戦成績 11勝5敗 ○○○○●□○○○●○○●●○● |
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(私論.私見)