貴乃花1、幼少期


 
 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).6.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「貴乃花光司」を確認しておく。「」、「」、「貴乃花光司■花田家の遺伝子を継ぐ平成の大横綱」、「貴乃花・若乃花の確執理由は父親が違うため?!現在の兄弟仲は?」その他を参照する。

 2015.11.30日 れんだいこ拝


 貴乃花光司(たかのはな こうじ)
 本名・花田光司~出身地・東京都~身長185cm、体重154kg。生没年月日・1972年8月12日-。最高位・横綱。
  貴乃花光司は、優勝22回などをした平成の大横綱です。貴乃花光司は、大関・貴ノ花の次男で、伯父に若乃花幹士(初代)がおり、兄に若乃花勝がいます。一代年寄です。数々の年少記録を作り、大鵬(当時1位)の優勝回数に迫ると思われましたが、晩年に失速した。兄・若乃花勝とともに「若貴ブーム」を作りました。

【貴ノ花出生】
 1972年8月12日、東京都杉並区で、大関・貴ノ花利彰と元女優の花田紀子(現・藤田紀子)との次男として東京都で生まれる。
 母親の藤田紀子の本名は藤田憲子。1947.9.7日、大分県大分市で出生。血液型はO型(A型説もある)。1967年、明星学園高校卒業後、松竹芸能に入社し女優活動を本格的に開始する。映画やドラマでもどこに出ているか確認するのが困難なほどの端役専門の女優であったが、「雌が雄を食い殺す 三疋のかまきり」に出演したことで注目されるようになった。彼女の女優時代を知る古参の芸能プロ関係者が次のように証言している。(「ピース綾部だけじゃない 藤田紀子」その他参照)。
 「当時は和製マリリン・モンローと言っていいほどのフェロモンを感じたものです。何しろ目に力があって、大柄じゃないけど胸が張っていて男が放っておかないプロポーション。本人も自分の魅力をわかっているようで、服装も花柄や原色が好み。通りを一緒に歩くと、すれ違った男がみんな振り向いたもんです」。

 デビュー作「雌が─」の制作関係者が次のように証言している。
 「あの作品には主人公と愛人の濡れ場があったんですが、愛人役の女優がドタキャン。彼女が急きょ抜擢されたんですが、『脱ぐのも平気です』と意欲的でした。当時は女優も男とたくさんつきあって芸の肥やしにしろという時代でした。彼女も食事に誘うと、すぐついてきたり、そういった努力をしていましたね」。

 本人も当時、女性誌のインタビューであるタレントとの交際を認めたうえで、「他にボーイフレンドも10人ぐらいいる」と語るなど複数の男性との交際をほのめかしてもいた。その頃、関係者の間でかなり深い仲とも言われていたのが大物俳優のTだった。芸能プロ幹部が次のように証言している。
 「私が『Tとつきあっているの?』と水を向けると、あっさり『あ~、バレちゃった』。Tが女優としての紀子さんをバックアップしてあげていたらしい。当時は芸能マスコミもうるさくなかったので、『いいけど、深入りせず慎重にね』と忠告すると、『ハイハイ、大丈夫』なんて笑っていましたよ」

 その後フリーになり次の出演がある。みな殺しの霊歌(1968年)、進め!ジャガーズ 敵前上陸(1968年)、極道社員遊侠伝(1968年)、新宿育ち(1968年)、喜劇 大安旅行(1968年)、女の手配師 池袋の夜(1969年)、夜をひらく 女の市場(1969年)。

 1970年、貴乃花と結婚。これを機に芸能界を引退する。翌1971年、花田勝(後の第66代横綱三代目若乃花)を出産。その翌1972年、花田光司(後の第65代横綱貴乃花)を出産。1982年、旦那の藤島親方(後の二子山親方)が藤島部屋を興したことで部屋のおかみとなり、毎日50~60人の食事や洗濯などの家事に追われる。2000.7月、医師との不倫疑惑報道で世間に騒がれる。2001年、二子山親方と離婚。芸能活動を再開させ舞台やドラマなどに出演し始める。2005年、二子山親方逝去(享年55歳)。2008年、芸名を藤田憲子から紀子に改める。2012年、デーブ・スペクターが代表を務めるスペクター・コミュニケーションズ)に移籍し現在に至る。
 輪島大士(わじまひろし)プロフィール

 本名は輪島博。1948年1月11日(69歳)、石川県七尾市で出生。花籠部屋所属の元大相撲力士、第54代横綱。後に全日本プロレス所属のプロレスラー、タレント。2013年秋、下咽頭癌の罹患が発覚し、12月に癌の切除。手術には成功したが声を失った。

 輪島は二子山親方の親友で、日大の学生だった頃から仲良くしていた。藤田紀子と二子山親方が初めて会うときにも輪島さんが付いてきたくらいの仲だった。輪島は会うたびに彼女が違うほどもてたと云う。貴乃花の母の藤田紀子は輪島の元カノで、結婚後もよく寿司屋の2階で食事をしていたと云う。


【花田家のルーツ考】
 「第45代横綱/若乃花幹士 (初代)」。本名は花田勝治。四股名は若ノ花 義美 → 若ノ花 勝治 → 若乃花 勝治 → 若乃花 幹士。(1928-03-16) 1928年3月16日、青森県弘前市青女子(あおなご)出身。青森のリンゴ園農家に、10人兄弟の長男(上に姉が1人いた)として生まれた。二所ノ関部屋→芝田山部屋→花籠部屋。引退後は二子山部屋師匠。日本相撲協会第6代理事長。
 或る韓国人が、「力道山、大山倍達、貴乃花は韓国人。だから強い」と誇る。
  1972年7月、愛人関係にあった韓国人女性との間に息子(韓国名・朴祐賛)が韓国・ソウルで誕生。1985年12月に養子縁組を行い13歳で日本へ移住。藤島部屋に入門し、1989年3月初土俵。若剛志の四股名で幕下まで昇進した(1997年1月に引退)。引退後、母への仕送りがストップし、弁護士を介して慰謝料と認知を求めたところ、2002年5月、初代・若乃花が認知し、花田河成を名乗ると同時に帰化した。その後、起業して日韓を往来している。自著『花田家の隠し子―アボジと呼ばせて』(主婦と生活社)では、移住してから民族差別を受けたことで素行が荒れた結果として高校進学が困難になったため藤島部屋に身を寄せ、大相撲時代には従兄にあたる3代若乃花の付き人を務めていたことが語られている。暴露の内容としては嫡外子、そして韓国人としての境遇を強いた父・初代若乃花への恨みがつづられており、自身が引退したと同時に初代若乃花が若剛志の母への仕送りを打ち切ったことが認知を求める動機であったとも明かされている。他に、3代若が遺産を相続放棄した背景には初代若が入れ知恵をしたという説も唱えている。叔父であり師匠でもあった藤島や当時女将を務めていた藤田紀子への恩義も語られている。  

【出生の秘密疑惑】
 話題 若貴、骨肉の争い。貴乃花親方=ドツボにはまったか」、「藤田紀子、若貴兄弟“父が違う”説に言及」、「藤田紀子、「息子2人の父親が違う」という噂について語り始めた深い事情2005.8.22日、「花田勝の父親は花田勝治 」。2005.10.19日、「花田家の歪んだ性癖貴乃花は輪島の子!」、2005.10.19日、「花田家の歪んだ性癖!貴乃花は輪島の子 vol.2」、2014.1.17日付け「藤田紀子、貴乃花親方との不和真相告白その他参照。
 初代横綱若乃花(花田勝治)が愛人との間に作った子供が後の大関貴ノ花(二子山親方)。洒落にならんので弟ということにした。

 二子山親方が現役(初代・貴ノ花)の頃から親交のあった人物が言う。元々大部屋女優だった憲子は輪島の彼女だった。当時、六本木の寿司屋の二階でよく二人で一緒だった。輪島にはいろんな女がいましたから憲子もそのうちの一人にすぎなかった。寿司屋で貴ノ花が憲子を見て一目惚れして、二人の交際が始まった。最初のころのデートには輪島と3人で一緒だった。輪島は貴ノ花が見てないところでまだ憲子に手を出していた。憲子が妊娠したとき、『輪島の子じゃないのか』と噂が広まってもいた。二人の結婚に先代の二子山親方(花田勝治)が激怒して猛反対した。初代若乃花(当時の二子山親方)は憲子が輪島の彼女であったことを知っていた。憲子を花田家に入れることに猛反対し、何度も憲子のもとに通っているうちに初代と憲子が出来てしまい憲子が妊娠!! その子が花田勝(兄)。このことが「花田勝と花田勝治がよく似ている」との詮議を産む。

 その後、貴ノ花と憲子が結婚。この時、 勝を我が子とした。勝治は、本当は弟にして戸籍上の息子である二子山に大きな借りができた。後年、勝治が、当時の藤島親方に二子山部屋をタニマチごと破格の安さで譲り渡したのは、このためである。その後、貴ノ花と藤田憲子の間に貴乃花(花田光司)が生まれた。ここにも疑惑があり、貴乃花は憲子と輪島の子だと云う。貴乃花の顔、体つきそれを信じさせるのに十分足りる。二子山はタネなしとも言われる。このことを花田勝はある程度知っていたが全く知らなかったのが光司。このことを光司の耳に吹き込んだのがあの整体師・冨田である。それを聞いて家族が嫌になり以降全く親方、兄と袂を分かとうとしたのがあの「絶縁宣言」の真相である。以上は、角界では有名な話になっている。

 貴ノ花(故・二子山親方)は貴乃花が本当に自分の子かどうか疑っていたという。輪島は、若貴ブームの頃、当時藤島親方(故・二子山親方)の親友としてテレビ出演した際に、「二人が付き合い始めた当初、親方(故・二子山)が寡黙で会話の間が持たないので、わざわざ俺を呼んで3人でデートしていた」などと喋っている。憲子は大部屋女優出身で映画や写真集で脱いでたりもする。憲子はいつもゴムを持ち歩いていた。当時の女にしては珍しく膣の洗浄液も持ち歩いていた。察するに、強い男の子が欲しかったんじゃないかって気がする。上は先々代若乃花のDNA、下は輪島のDNAで子供を計算してつくった。その目論見は見事達成された。二人とも名横綱に成長した。医者と不倫して離婚する際、二子山部屋の三井住友銀行の通帳残高は10億円に近い額だった。離婚してからしばらくして、故・二子山親方が通帳記入に行ったら残高3万円しかなかったというのは有名な話である。憲子は代官山にキャッシュで億ションを購入したり、勝のちゃんこ屋に資金を提供するなど今でも潤沢な資金を持っている(故・二子山親方の友人の話)。

 1995年、ある講演会で野球評論家(註/佐々木信也のことと思われる)が「若貴は本当の兄弟じゃないんだよね」と発言した。夫の二子山親方(2005年死去)がその事実を知り、評論家はすぐやって来て土下座して謝罪した。激怒していた二子山親方だが、出席者全員にデマであったことを告げることを条件に許した。「私はそれでもう終わったと思っていたんです。それが、こんなに根付いてしまうなんて…」と藤田は困惑している。離婚後の2005年、藤田は婦人公論誌上で「独占告白」し、「いま、息子たちにこれだけは伝えたい」と。その中で、実際には受けなかったが一時はDNA検査さえ考えたことを明かした。当時、兄の元若乃花のタレント・花田虎上は先代の二子山親方の子で、弟の貴乃花親方は輪島の子供ではないかと一部で報じられたことがあった。

 タレントの藤田紀子(70歳)がテレビで、「若貴兄弟、父が違う」という噂や貴乃花親方との疎遠関係について言及している。
藤田は「カメラの前で言ったことはないんですけど」と前置きし、「根も葉もないことで、本当にくだらない作り話。最初聞いた時はビックリしたけど、今は怒るのもばからしい」と笑いながら全否定した。但し、輪島については、「輪島さんは親方の親友で、日大の学生だった頃から仲良くしてて、私と親方が初めて会うときにも付いてきてくれて私と3人で仲良くしていた間柄」と説明。父親の噂がたった輪島とは家族ぐるみで仲が良かった過去を語った。輪島は子供好きでもあったことから、「親方の巡業中、フラッとうちに来て、(長男を)巡業に連れて行っていい?と。私も(次男の)光司がいて大変だったから、お願い!と言って連れて行ってもらって。親方も巡業先に自分の子供がいてビックリしたくらい」と家族ぐるみで仲良くしていたと語った。「貴乃花親方の本当の父親は元横綱の輪島大士氏」という噂があったということ自体に言及したことが注目される。
さらに「貴乃花親方とは14年もの間会っていない」、「二子山親方との離婚の理由は絶対に言えない」などとも話した。
 若貴の対立の背景にはDNAの違いがある。母親は憲子で共通しているが、父親が異なる。弟の光司は輪島大士(54代横綱・本名輪島博)の子供である。その事実を貴乃花が知って以来、貴乃花はドラスティックに変わった。兄若乃花の批判を始めた時期と一致する。当時マスコミを賑わせた洗脳整体師、冨田多四郎氏にそのことを相談している。冨田氏は「あーそうなんですか。全くしりませんでしたね」としらを切っている。この時期に貴乃花は生活環境が激変している。勝は先々代若乃花こと花田勝治に似ている。貴乃花は二子山親方との共通点がまったくない。声すらも似ていない。これだけないないづくしだと、DNAの違いを指摘する声が上がるのも仕方がない。元祖プロ野球ニュースのキャスターを務めていた佐々木信也は、1998年、自分の講演で二子山親方との親密な交際を述べた上で、「花田家には秘密がある。実はあの兄弟は父親が違うんですよ。お兄ちゃんは先々代若乃花こと花田勝治が父親で弟は輪島が父親なんです。ここだけの話ですよ!」と喋っている。当然、貴乃花の耳にも入る。インターネットの巨大掲示板でも「貴乃花は輪島の子」と書き込まれている。佐々木信也は取材に対して一切のコメントを残していない。貴乃花は、たちの悪い冗談かと思っていたが、ある時ふと気がついた。「得意技は『左四つ』。さらに『まるで機械のような取り方』と呼ばれたところまでそっくりだった。本人は『私は輪島さんの子供なんでしょうか』と真剣に悩んでいた。それを母の憲子に打ち明けたところ、『そんなことを言っても仕方ないでしょう』と一喝されて終わった。それでも、『お袋、本当のことを言ってくれ』と詰め寄ったが、『花田家を崩壊させる気か、お父さんを困らせる気か』と怒られた」(元後援会関係者)と伝聞されている。
 ちなみに、貴乃花親方が最近になって暴露した「先代二子山(花田勝治)の愛人の子を弟(故・二子山親方)に押しつけたことも家族崩壊の原因の一つ」という話があったが、その愛人の子は二子山部屋にいたが、若乃花(花田勝)にそっくりだった。現在は、勝の経営するちゃんこ屋に出入りし、近日、韓国支店をオープンするが、そこの責任者となる予定だそうだ。
「貴乃花と輪島は血がつながっている、ということを調査しようとした週刊誌や新聞記者は、DNA鑑定しようと、貴乃花の髪の毛を入手までしようとした」(スポーツ紙記者)。「声紋判定家に貴乃花と輪島の声紋を提出した結果、『非常に似ている』との答えが出たし、美容整形外科に二人の写真を持っていったところ、こちらからも『非常に酷似している』との判定が出ていた。ただ今一歩詰めることが出来なかった。輪島に直撃しても、『あぁん』とか『うぉん』とかよく分からないことしか言わないし」と話すのは週刊誌記者。真相はよく分からないというのが本当のところである。ただ、貴乃花と輪島大士、若乃花(花田勝)と先代二子山(花田勝治)は非常によく似ていることは確かである。
 貴乃花は数年前に光通信で7億円もの債務を負った。
それを請け負って処理したのが アルテカグループ(東京都港区)の野村紘一社長である。
資金をだしたのは健流会という暴力団である。渡辺謙や坂口憲二、山田優らが所属するケイダッシュも資金を出している。貴乃花の引退相撲のチケットで資金を健流会が回収していた。サポーター制度が聞いて呆れる。

【藤田紀子が語る初代・貴乃花との出会いについて】
 2014.11.28日付け「藤田紀子 二子山親方の出会いは『詐欺』」転載。
 タレントの藤田紀子が28日に関西テレビで放送された「快傑えみちゃんねる」(金曜、後7・00)に出演。2001年に離婚した二子山親方(初代・貴乃花)との出会いについて「詐欺です」と語った。親方が19歳、藤田が21歳の時に出会ったという2人。当時は携帯電話もなく、親方からは毎日手紙が速達で届き、藤田は心を動かされ「好きになった」たという。親方の手紙は季節の挨拶から始まる「すごい達筆で、すごい素敵な文章だった」という。ところがある日、ものすごい「(汚い)字で、すごい文章で手紙がきた」と藤田。「どうしたの?」と親方に聞くと、親方は「いや~、あれ書いてた付き人がやめちゃったんだよ」と悪びれずに明かしたという。藤田は「詐欺ですよ~。最初からひどい字で、ひどい文章なら、もしかしたら好きにならなかったかもしれない」と“親方の恋文が代筆”だったことを暴露していた。親方は離婚の4年後の05年5月に亡くなった。
 2018.10.10日、日刊スポーツ/小谷野俊哉「藤田紀子、元貴ノ花とのデートにはいつも輪島氏同席」。タレント藤田紀子(71)が9日、日刊スポーツの取材に対し、50年近い付き合いの輪島さんをしのんだ。
 初めて輪島さんと出会ったのは、元夫で05年に亡くなった貴ノ花との初デートの時、1969年のことだった。「私は松竹を辞めてフリー、親方(貴ノ花)は幕内から十両に落ちて、互いに再出発ということで紹介され、新橋の喫茶店で待ち合わせたんです。その時、親方が連れてきたのが当時は日大相撲部で、学生横綱だった学ラン姿の輪島さんでした。肩幅が広くて『衣紋掛けが来たかと思った』って笑ったのを覚えてます」と振り返った。

 その後はデートする度に、輪島さんも同席した。「互いに『輪島』『満』と呼び合って、喫茶店でお話しした後にご飯を食べに行きました。支払いの時には輪島さんが貴ノ花のお財布を持って堂々と払っていました。明るい人で、面白いことを言って、いつも笑わせてくれました。同級生みたいな感じです。亡くなったと聞いても、楽しかった思い出ばかり。輪島さんがいてくれたから、私たちは結婚できたと思います」。

 長男花田虎上氏(47)が3歳くらいの時には「勝(虎上氏)、連れてくよ」と声を掛けて、静岡の巡業先までリンカーンに乗せていったこともあったという。「子供が大好きで、お兄ちゃんは『輪島ちゃん』と慕っていました。最後に親しくお話ししたのは20年くらい前に結婚式でご一緒した時で、その後は15年前に対談の仕事で一緒になりました。本当に残念です」と“恩人”の死を悼んだ。

(私論.私見)
 「初めて輪島さんと出会ったのは、元夫で05年に亡くなった貴ノ花との初デートの時、1969年のこと」は、輪島が貴ノ花に藤田憲子を紹介した説と食い違う。「貴乃花の父親が元横綱の輪島という説は、もともと母親の憲子さんが輪島の彼女だったからだ。結婚する前の憲子さんは、よく輪島と六本木の寿司屋でデートしていたとか。初代貴ノ花は、その寿司屋で憲子さんを見て一目惚れ。その後2人の交際が始まったという」。こちらの説が本当だとすると、「貴ノ花との初デートの時、輪島と初めて出会った」は藤田憲子の虚言と云うことになる。「子供が大好きで、お兄ちゃんは『輪島ちゃん』と慕っていました」も不自然で、弟の貴乃花との関係を記すべきところをすり替えていることになる。藤田憲子の口の巧さが分かるが次第に舌をもつれさせて行くことになるだろう。

 2018.10.15日、週刊朝日2018年10月26日号の今西憲之記事「元横綱輪島が生前、元貴乃花騒動で『相撲発展のために協力しろと言ってやりたい』」が貴重情報を吐露しているので確認しておく。
 「『初代貴ノ花とは、オレが日大の相撲部時代から親しかった。貴ノ花と藤田紀子さんとのキューピッド役はオレなんだ。最初のデートも同席し、メシもオレのおごりだよ。いつしか2人が付き合いだして本当に結婚しちゃった。だから、よく貴ノ花の家に遊びに行って、ただ飯、ただ酒だったよ』と笑って思い出を語っていた輪島さん。

 輪島さんは若貴兄弟が幼いころ、稽古をつけた思い出も記者に明かしていた。『貴乃花も若乃花も子供のころからよく知っているよ。まだ2人が幼稚園に行くくらいだったかな。自宅に行って‘’ぶつかってこい‘’って稽古をつけてやったんだ。どっちも相撲取りになれば、大物だ、さすがに血筋、センスがあると思った』。

 相撲界を去ってからも、テレビで相撲中継は欠かさず見ていた。輪島さんの後援者によれば、大親友の貴ノ花の息子、若乃花や貴乃花の取組が終わると、電話してきて解説したという。1995年九州場所で兄の若乃花、96年初場所では同門の貴ノ浪が優勝し、2場所連続で貴乃花は賜杯を逃した。しかし、輪島さんは後援者にこう語っていた。『2場所連続決定戦で負けたのは、力量以上に心の実力。相撲は心技体。あの子なら改めてそれを思い知ったはず。相撲はまず心が充実すれば、技と体はついてくる。貴乃花は無敵だ。次の場所からは、また快進撃がはじまるぞ』。その言葉を聞いた後援者は当時、貴乃花の師匠だった二子山親方に伝えた。貴乃花は輪島さんの予言どおり、96年春場所から4場所連続で優勝したのだ。後援者はこう振り返る。『
輪島さんは、若乃花と貴乃花については、とても気にかけていた。晩年、兄弟の仲が険悪になり、大騒動に発展したときは‘’2人を子供のころから知っている俺が間に入って相撲発展のため協力しろと言ってやりたい‘’』とも語っていました。元貴乃花親方は輪島さんについて自身の応援会のホームページで『‘’こうじ、こうじ‘’と、元気にお声がけ頂いたことが思い出されます』と哀悼をささげた」。

 2018.10.10日 れんだいこ拝

【貴乃花は輪島の子説についてその2】
 1995(平成7).11月、九州場所千秋楽。先に横綱に昇進していた弟の貴乃花と、大関で伸び悩んでいた兄の若乃花が、14日目が終わって12勝2敗で並んでいた。星勘定次第では兄弟決戦の可能性があった千秋楽で、両者は揃って敗れ12勝3敗となり、角界史上初めての同部屋優勝決定戦、しかも若貴兄弟対決となった。

 二人の師匠で実父の故・二子山親方(元大関貴ノ花)から、当時小結時代の初優勝時から3年近く天皇賜杯から遠ざかっていた兄若乃花に、既に二桁の優勝回数に達していた弟貴乃花は名横綱への歩を進めており、兄に花を持たせるべく譲歩するよう、直接の親子交渉があったと週刊誌上にスクープされている。親方が貴乃花に「兄ちゃん勝たせろ」って業務命令して仕方なく弟の貴乃花がそれにしたがって八百長相撲をとったと云う。

 喧嘩四つの両者の立ち合いは緩めで、吸い込まれるように胸を合わせるがっぷり右四つに組み合い、互いに廻しを引きつけ合って膠着状態となった。こうなると体力差がモノを言ので貴乃花充分、軽量の若乃花不利と見られたが、この時の暫くの差し手争いで、何と若乃花が先代若乃花を、貴乃花が輪島を髣髴とさせる取り口を見せている。これぞ遺伝子のなせる技であろう。ちなみに輪島と貴乃花は両者とも腕が長い力士だった。
数呼吸を置き、若乃花が寄り身でジリジリと前進するや、貴乃花が為すすべなく後退し土俵際に迫った。貴乃花がこれを押し返し両者土俵の真ん中に戻った。一呼吸置いて若乃花が再び寄り身で押していったところ、足腰抜群の貴乃花が之を残せず、脆くも下半身(ヒザ)から崩れ落ち尻餅をつきあっけなく勝負が決した。全盛期の大横綱時代にあって、あり得ない敗れ方となった。
 兄の若乃花は93年9月の秋場所で大関に昇進したものの、1度の優勝もなく、小結時代の93年3月の大阪場所以来、2年8か月ぶり2度目の優勝、大関としての初優勝となった。翌平成8年初場所千秋楽においても同部屋優勝決定戦を兄弟子の貴ノ浪と争う顛末となった貴乃花は、この大一番で土俵際まで詰める取り口では終始イニシアチブを握りながら、最後の最後部分で詰めを誤り、貴ノ浪起死回生の河津掛けの珍手で逆転で敗退し、手の内にあった天皇賜杯を逃している。初優勝を狙う貴ノ浪の気力が優った勝利劇なのか、やはり前場所同様に八百長相撲をとったと解釈すべきかは未だに見方が分かれる。

 確かに二人は似ていますね。
(「輪島と貴乃花が似てる理由!そっくり画像を比較!ネットの声まとめ」)


【若乃花の貴乃花論】
 2014.5.7日付「藤田紀子、貴乃花親方との修復希望も…」。
 元横綱でタレントの花田虎上=まさる=(43)と母で女優の藤田紀子(66)が6日、東京・渋谷で行われた映画「私の、息子」(6月21日公開)の試写会にそろって登場した。ステージでは、藤田に「さすが私のDNA」とほめられた花田が、「違うかもしれないですよー」と返し、かつて藤田が語ったDNA鑑定計画をジョークにする親子漫才のようなやりとりも。藤田は「大丈夫よ、自信があるから言ってるの」と笑うなど、仲の良さを見せつけた。また、藤田は「会えない息子もおりますが」と不仲と言われる次男・貴乃花親方(41)との関係修復も希望。花田は「あの人入れたらトークじゃなくて殴り合いになっちゃう」と笑わせ、「(男性と)うわさになってもいい。破天荒に楽しんで、長生きしてほしい」と母を気遣った。

【若乃花略歴】
 東京都中野区で育つ。兄は元大相撲力士で現タレントの花田勝(現・虎上)の横綱・三代目若乃花。伯父は横綱・若乃花幹士(初代)。

 子供時代、父親が引退する前は伯父が主宰する二子山部屋、父親の引退後は父親が主宰する藤島部屋に出入りするなど、幼少期から相撲に親しんだ。1981年に父が大相撲を引退すると貴乃花親方は本格的に相撲に力を入れ始めた。小学5年生の時には、わんぱく相撲の全国大会に優勝。わんぱく横綱として土俵入りを行うなどこの頃から非凡な才能を見せていた。後の関脇・貴闘力となる鎌苅忠茂少年と兄弟ともに親しく、よく相撲を取っていたと云う。その後、相撲の名門・明大中野中に進学。相撲部で武井美男監督から、のちにまで通用する技術を教わったと云う。中学卒業と同時に角界(父の藤島部屋、後に二子山部屋へ)に入門。四股名は貴花田。

【花田家の風聞家系図】
花田勝治(初代若乃花)と韓国女性の間に花田河成(若剛志)。
花田勝治(初代若乃花)と芸者(住田)の間に花田満(貴ノ花)。 
花田勝治(初代若乃花)と藤田憲子の間に花田勝(3代若乃花)。
花田勝治(初代若乃花)と香代子の間に花田幸子、下山勝則(2代若乃花、現・間垣親方)、侑子。
藤田憲子と輪島博(12代花籠親方)の間に花田光司(貴乃花、貴乃花親方)。
花田勝(3代若乃花)が栗尾美恵子と結婚。後に離婚。
花田光司(貴乃花、貴乃花親方)が景子と結婚。
【表】
      ┏━━━━━━━━━━┏━━━━━━━━━━━┓
   初代若乃花      元三段目若緑 元大関貴ノ花:二子山
   (花田勝治)       (花田陸奥之丞)   (花田満)━━━┳━━━藤田憲子
     ━━━┳━━━韓国人                  ┏━━┻━━┓
     元幕下若剛志                     若乃花    貴乃花
     (花田河成)                     (花田勝)  (花田光司)


 【裏】
            初代若乃花                    輪島大士
  芸者━━┳━━(花田勝治)━━┳━━藤田憲子━━┳━━(輪島博)
       ...┃            ...┃            ...┃
  元大関貴ノ花:二子山     若乃花         貴乃花
      (花田満)         (花田勝)       (花田光司)

 「MATOMEDIA」の氏の2018.3.3日付ブログ「霊友会の被害や評判&芸能人9名を総まとめ!貴乃花親方は?
 目次

 霊友会とは?

 霊友会(南千住霊友会)は1924年に教祖・久保角太郎により創立された法華系の新興宗教です。霊友会の信者数は「宗教年鑑 平成28年版」によれば国内で1,295,497人だとされていますが、公称では4,263,879人となっています。霊友会の教理は「先祖供養」にあり、自分の父系、母系の先祖全ての総称とした「総戒名」を前に「青経巻」と呼ばれる霊友会独自の経巻を読誦することで自分を含めた先祖全てに経を聴かせることになるとされています。多くの新興宗教がお布施を集めているのに対して、霊友会はひとりあたり月会費500円という経済的に優しいことからも入信したいと考える人が多いようです。一見良心的な宗教だと思えますが、霊友会には信者や元信者、その家族・親族による被害が報告されていることも事実であり、評判はほとんど良いものを見かけません。なぜ霊友会がこれほど悪評で溢れているのかいくつかご紹介していきましょう。 

 霊友会は法華経を歪めた解釈をした宗教

 日蓮正宗信徒の人の話によれば、霊友会の教理である「先祖供養」の解釈は根底から間違っており、一般的な仏教のように仏ではなく先祖の霊を本尊と立てることは悪縁につながるということです。霊友会を調べていくと教祖・久保角太郎を含め成り立ちからかなりきな臭い印象を受けるようです。霊友会は、久保角太郎が、彼の兄嫁・小谷キミを霊能者に仕立て上げ、シャーマニズム(霊媒信仰)と法華信仰、先祖供養などを混ぜ合わせて作り上げた新興宗教です。当初、霊友会は久保角太郎が知り合った霊能者・若月チセ、戸次貞夫らとともに設立した宗教でしたが、仲違いして一度分解してしまっています。それでも再び霊友会を発足させるために久保角太郎は普通の人だった兄嫁・小谷キミを霊能者に仕立て上げて再興したそうです。しかも、久保角太郎は小谷キミを洗脳して荒行をさせて霊能者に仕立てあげており、霊能会の教祖自体が人として歪んでいると見ることができます。

 霊友会は麻薬、脱税などに手を染めていた

 久保角太郎は小谷キミに施した方法で次々と女性を洗脳して霊能者に仕立て上げて霊友会を大きくしていきましたが、死去後は小谷キミが全権を握り麻薬や脱税に手を染めていきました。こうした霊友会会長の小谷キミや幹部の不祥事が相次いだことで霊友会信者らは不満が爆発し、霊友会の教えを引き継ぐ形で分派し、いくつも新興宗教ができることになりました。 

 霊友会系宗教のリストは以下のとおりです。 

孝道教団(1935年、岡野正道、天台宗系教団とも分類される)
立正佼成会(1938年、庭野日敬、長沼妙佼)
思親会(1938年、井戸清行)
希心会(1953年、思親会から分派)
日本敬神崇祖自修団(1947年、戸次貞雄)
普明会教団(沿革では霊友会からの分派とされるが、戸次貞雄を恩師・教祖と仰いで教団を組織)
霊法会(1949年、吉岡元次郎)
妙智会(1950年、宮本ミツ)
佛所護念会(1950年、関口嘉一)
妙道会(1951年、佐原忠次郎)
大慧会(1951年、石倉保助)
正義会(1951年、山口義一)
Inner Trip REIYUKAI International(2001年、松本廣)
在家仏教こころの会(2004年、久保継成、Inner Trip REIYUKAI Internationalから分派)

 霊友会に入信している芸能人 花田勝治(初代若乃花)/第45代横綱で初代若乃花・花田勝治

 花田勝治さんは第二次世界大戦後に活躍した力士で、当時は二所ノ関部屋に所属し、”土俵の鬼”と呼ばれた戦後としては最軽量の横綱でした。

 花田勝治さんについてのプロフィールはこちら。 

四股名: 若ノ花 義美 → 若ノ花 勝治 → 若乃花 勝治 → 若乃花 幹士
本名: 花田 勝治(はなだ かつじ)
愛称: オオカミ、土俵の鬼
生年月日: 1928年3月16日
没年月日: 2010年9月1日
出身: 青森県弘前市青女子
身長: 179cm
体重: 107kg
BMI: 33.40
所属部屋: 二所ノ関部屋→芝田山部屋→花籠部屋
得意技: 左四つ、上手投げ、呼び戻し

 花田勝治は青森でりんこ農園をしている家に生まれ、姉一人を除いて10人兄弟の長男。6歳頃に室戸台風に被災して農園が全滅してしまった為、花田一家は破産して北海道室蘭に移住した。父親が戦争で負傷して働けなかったため家計を助けるために沖仲仕などの仕事をしていた一家の大黒柱として働いた。通常、110kg程度の石炭や鉄鉱石を担ぐところ、花田勝治は150kgを担ぎ、最終的には200kgの重さを担いでいた。このことが後の横綱になる驚異的な身体能力を培った。この頃、誤って石炭のタンクに落ちてしまい死ぬギリギリで助け出されたり、3000ボルトの電圧に触れて吹っ飛ばされ生死の境をさまようなどの経験をしている。1946年、巡業で訪れた二所ノ関一門の力士相手に相撲大会で数人を倒すなどして、大ノ海にスカウトされて父の反対を押し切って入門した。四股名”若乃花”として角界で目覚しい活躍をし続けた。1957年の11月場所で優勝次点、翌年1月場所で優勝し第45代横綱となった。戦後に初土俵を踏んだ最初の横綱と言われている。第65代横綱の貴乃花(現・貴乃花親方)と、第66代横綱・若乃花(現・タレント花田虎上)は甥にあたる。 

 花田勝治は最愛の息子の死がきっかけで霊友会に入った

 花田勝治は最愛の長男を亡くし、霊友会に入信した。その後、花田一族も霊友会に入信することになる。1955年9月場所の横綱をかけた場所前に花田勝治さんの長男がちゃんこ鍋を誤ってひっくり返してしまい、大火傷を負って亡くなった。この悲しい事故で花田勝治さんは相撲の稽古をする精神状態ではなく、本場所出場も難しいと思われていたが、息子の名前を入れた数珠を下げて場所入りして話題となった。その鬼気迫る様子と数珠を下げた姿から「数珠をさげた名力士」として皮肉にも人気を集めることになった。

 霊友会に入信している芸能人 花田満(二子山親方) /若乃花・貴乃花兄弟の父親・花田満

 花田満は現役時は二子山部屋の所属で最高位は東大関で、兄・花田勝治さんが「土俵の鬼」と称された第45代元横綱であることや、容姿が整っていることから「角界のプリンス」と呼ばれ人気を博した。

 花田満さんについてのプロフィールはこちら。 

四股名: 花田 満→貴ノ花 満→貴ノ花 利章→貴ノ花 利彰→貴ノ花 満郎→貴ノ花 健士→貴乃花 健士→貴ノ花 利彰
本名: 花田 満(はなだ みつる)
愛称: 角界のプリンス
生年月日: 1950年2月19日
没年月日: 2005年5月30日
出身: 青森県弘前市
身長: 183cm
体重: 114kg
BMI: 34.04
所属部屋: 二子山部屋
得意技: 左四つ、寄り、吊り、上手投げ

 花田満は兄・花田勝治さんを含む10人兄弟の末っ子として生まれた。杉並区立東田中学校に通っていた頃に水泳で頭角を表し、メキシコシティオリンピックの代表選手でメダル候補と言われた高田康雄とライバル関係にあった。現役時代に横綱だった兄・二子山親方(花田勝治)に憧れて部屋への入門を希望した。二子山親方は兄弟の縁を切ることを条件に入門を許可した。二子山は花田満を弟とは考えず、門弟のひとりとして徹底的に厳しく稽古を付け、それは世間から弟だから贔屓にしていると思われないためのことだった。花田満は1975年に2度優勝した頃が全盛期となり、横綱候補のまま大関として在位50場所という当時としては史上1位の記録を持っている。当時女優をしていたタレントの藤田紀子と結婚。2001年に離婚している。その間に第66代横綱で3代目若乃花、現在はタレントとして活動している花田虎上さん(花田勝)と、「平成の大横綱」と呼ばれた第65代横綱で現在は貴乃花親方となっている花田光司さんをもうけている。 

 兄・花田勝治と同様に霊友会に入信した花田満

 花田満はその整ったルックスから霊友会のCMに出演しており、兄・花田勝治さんや子供達の若貴兄弟と共演したことがある。005年5月30日に口腔底癌のため55歳の若さで死去。戒名は霊友会から「誠生院法憲祐幸智徳善士」と天桂寺からの「双綱院貴関道満居士」のふたつを貰っている。そして、花田満さんの葬式を巡って、若乃花と貴乃花は反目し合っておりこの頃から兄弟の亀裂は決定的なものとなった。

 霊友会に入信している芸能人 花田光司(貴乃花親方) /「若貴兄弟」として人気を博した元横綱・貴乃花

 貴乃花親方は第65代横綱。現役時代は藤島部屋から二子山部屋に所属し、兄・若乃花(花田虎上)とともに「若貴兄弟」と呼ばれて人気を博した。

 花田光司さんについてのプロフィールはこちら。 

四股名: 貴乃花 光司
本名: 花田 光司(はなだ こうじ)
愛称: コウジ
生年月日: 1972年8月12日
出身: 東京都杉並区
身長: 185cm
体重: 161kg (現役時)、73kg (2016年)
BMI: 47.04(現役時)、21.30(2016年)
所属部屋: 藤島部屋→二子山部屋
得意技: 突っ張り、右四つ、左四つ、寄り、上手投げ

 19722年、東京都杉並区で父親・花田満さんと母親・藤田紀子さんの間に生まれた。小学校5年生の頃に「わんぱく相撲全国大会」で優勝し、”わんぱく横綱”として土俵入りしている。相撲の強豪校である明大中野中学校に進学して相撲部に所属し、武井美男監督に指導された。遅れて入幕した兄・花田勝と共に二人共横綱となり「若貴フィーバー」を巻き起こした。父親・花田満譲りの甘いルックスの花田光司、叔父・花田勝治似のルックスを持つ花田虎上が女性週刊誌の表紙を飾るようになり、平成初期の相撲ブームの火付け役となった。現役時代22回の優勝をし、歴代6位の「平成の大横綱」と称された。

 2017年11月場所中に日馬富士による貴ノ岩への暴行が発覚した際、貴乃花親方が相撲協会へ叛旗したことにより結果的に2017年12月28日に日本相撲協会理事を解任された。

 花田家は代々霊友会を信仰しているが、貴乃花親方は現在違う宗教を信仰している。霊友会から龍神総宮社という宗教法人に代わっている。貴乃花部屋が例年拠点を構えるのは、会場である大阪府立体育会館から車で1時間あまりのところにある京都府宇治市の神社。ここに寝泊まりし、敷地の一角につくられた土俵で力士らは稽古に励んでいる。神社の名は「龍神総宮社」。先代の辻本源治郎氏が1961年に設立した比較的歴史の浅い宗教法人。この龍神総宮社という宗教は2代目の辻本公俊が祭主を務めており、執筆された著書『2012人類の終焉 太陽からの啓示』では貴乃花親方が推薦する旨を顔写真付きで寄稿している。

 霊友会に入信している芸能人 花田虎上(若乃花) /貴乃花の兄で第66代横綱・若乃花

 花田虎上は弟・貴乃花とともに「若貴フィーバー」として世間を騒がせた横綱である。2011年4月9日に風水建築デザイナーの直居由美里さんのアドバイスにより芸名を「花田勝」から「花田虎上(はなだまさる)」に改名している。

 花田虎上さんについてのプロフィールはこちら。 

四股名: 若乃花 勝
本名: 花田 勝(はなだ まさる)
愛称: お兄ちゃん・若・若様・若関(大相撲現役時)
生年月日: 1971年1月20日
出身: 東京都中野区(出生地・東京都杉並区)
身長: 180cm
体重: 134kg
BMI: 41.36
所属部屋: 藤島部屋→二子山部屋
得意技: おっつけ、押し、左四つ、寄り

 花田虎上は貴乃花の兄。1988年3月に初土俵を踏み、弟の貴乃花親方と元横綱・曙、元大関の魁皇が同期であり「花の六三組」と呼ばれている。1989年11月場所で史上最年少で関取となった貴乃花親方に比べて、花田勝治は1990年3月に遅れて新十両となり、同年9月場所で新入幕を果たしている。元々左股関節が弱かったため、それを庇うような相撲を取りながら横綱まで昇格した。引退後はタレントに転身し、スポーツキャスターとして活躍する傍らで2002年にドリームアーク社を立ち上げ、「Chanko Dining 若」、「うどんダイニング若」など数々の飲食店をプロデュースした。2012年、個室居酒屋で業界大手のアンドモワ株式会社と花田虎上のコラボレーションで「若の台所」、「赤鶏御殿」などの居酒屋や、ラーメン屋「若のらーめん」をプロデュースしている。 

 貴乃花親方は1998年の秋場所前に「洗脳騒動」で世間を騒がせ、兄・花田虎上を一方的に拒絶するようになった。この時、父親である二子山親方が、貴乃花親方は当時懇意にしていた整体師から洗脳されたと告白して騒動に発展した。2005年5月30日に二子山親方が亡くなると、喪主を巡って花田虎上と貴乃花親方の対立が起き、位牌や墓の所有権や財産相続権について紛争が起きた。その後、弟・貴乃花親方との復縁について度々インタビューされているが、「100%ない」とした上で、「弟は頭がおかしくなった」とコメントしている。

 霊友会に入信している芸能人 石原慎太郎/東京都知事を長く務めた石原慎太郎

 石原慎太郎は作家から参議院議員となり、第8代環境庁長官、第59代運輸大臣、第14~17代東京都知事を歴任したが、2017年には豊洲市場移転問題で追求された。

 石原慎太郎さんについてのプロフィールはこちら。 

本名: 石原慎太郎(いしはら しんたろう)
生年月日: 1932年9月30日
出生地: 兵庫県神戸市須磨区
出身校: 一橋大学法学部卒業
所属政党: (自由民主党→)(無所属→)(自由民主党→)(無所属→)(太陽の党→)(日本維新の会→)次世代の党
称号: 法学士(一橋大学・1956年)、旭日大綬章
配偶者: 石原典子
子女: 5人
長男・石原伸晃
次男・石原良純
三男・石原宏高
四男・石原延啓
親族: 父・石原潔
母・石原光子
弟・石原裕次郎

 石原慎太郎は1932年9月30日に海運会社山下汽船に勤めていた石原潔と妻の光子の長男として兵庫県神戸市須磨区にて生まれた。1934年12月28日には弟で昭和の大スターと呼ばれた故・石原裕次郎さんがが生まれている。1952年4月、一橋大学法学部に入学。柔道部とサッカー部に入部していた。在学中、石原慎太郎は簿記や会計学など公認会計士としてビジネスシーンで役立つ勉強を集中的にしていたが、向いていないと感じてやめた。その頃、学校内で発刊していた同人誌『一橋文芸』に 処女作となる『灰色の教室』を発表して復刊に尽力した。翌年、当時18歳だった石田由美子と結婚し、作品『太陽の季節』が文學界に掲載され、「第1回文學界新人賞」を受賞した。作家としての活動しながらも東宝の入社試験を受けて合格し、助監督として採用された。1956年、「第1回文學界新人賞」を受賞した『太陽の季節』が「第34回芥川賞」を史上最年少で受賞し、ベストセラーとなった。人気作家として活動しながら1968年7月に第8回参議院議員通常選挙で初当選。1987年7月17日、弟の石原裕次郎が肝細胞癌のため52歳の若さで死去した。1999年4月、東京都知事選に出馬して当選。2011年までの四期を東京都知事として務め上げた。2014年12月16日に政界引退を表明。翌年4月、旭日大綬章受章受章。2017年3月20日に豊洲市場移転問題に関して現・小池百合子都知事から厳しい追及を受け、都議会百条委員会にて証人喚問を受ける。

 石原慎太郎は霊友会の顔として有名だった

 石原慎太郎は霊友会と蜜月関係にあり、政治的に宗教を利用していた。宗教は選挙において集票力や動員力に優れているため、特に創価学会擁する公明党などは選挙戦で盤石な強さを見せている。石原慎太郎も霊友会を政治利用していたと言われており、初出馬の時には20万票を頼んだというエピソードを自らの著作で紹介している。






(私論.私見)