釈迦ケ嶽 雲右衛門


 (最新見直し2015.11.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2015.11.30日 れんだいこ拝


 釈迦ケ嶽 雲右衛門(しゃかがたけ・くもえもん)
 1749(寛延2)年、島根県出身。明和7(1770)年11月初土俵、安永3(1774)年4月最終場所。身長227センチ。体重180キロ。
 1770(明和7)年、釈迦ケ嶽が江戸大相撲に突然現れた。松江藩の抱えで 巨人力士だった。雲州藩の抱え力士、雷電為五郎に16歳で弟子入りした時が215センチ、21歳で江戸相撲で初土俵を踏んだ時が222センチ、その後5センチ伸びた。琴欧洲より25センチも高く、プロレス界伝説の大巨人アンドレ・ザ・ジャイアント(公称223センチ)よりひとまわり大きい超巨人だ。記録に残る成長ぶりがすごい。14歳で196センチ。東京・深川の富岡八幡宮に立つ13回忌に実弟の力士、真鶴が建立した等身大碑の石柱の他に、巨人力士身長碑、手形碑、足形碑からも大きさが伺い知れる。履く草鞋(ぞうり)の長さは約38cm(43cmとも)、手形は長さ25.8cm、幅13cmだったと伝わる。

 江戸本場所の番付に登場すること足かけ5年で通算6場所。初土俵から大関の地位を占めた。出場は4場所で、そのうち3場所で優勝相当の成績を残している。得意技は空前絶後の荒技。長さ26センチ×幅14センチの巨大な手のひらで相手の首根っこをつかむと、そのままつるし上げて土俵外にほうり投げた。“最強横綱”谷風の若手時代に3戦し1勝1敗1分けの五分の星を残している。強さは本物だった。「この怪物はどこまで強くなるのか」と相手方力士を恐れさせたが、26歳で現役のまま突然、死んでしまった。死因は腸閉塞(へいそく)と伝わるが、「あまりの強さゆえに毒殺された」とのうわさもある。

 逸話、伝説
 豆腐屋の2階の雨戸をたたき、応答がないので閉店と勘違いした。摂州の住吉神社に参詣した帰りに茶店に立ち寄ったが、休息して立ち去る時に茶代を払うのに2階の屋根のひさしに並べて支払ったと伝わる。女性と×××したら、へそに口紅がついた。いずれも規格外の巨体ゆえの逸話だ。普段から顔色が悪く、目は鳩の様だったと伝わる。長躯で何事につけ不自由するので性格も塞ぎ勝ちであり、芝居等の人混みを嫌った。安永2年に後桜町天皇から召されて関白殿上人らの居並ぶ中で拝謁して土俵入りを披露し、褒美として天皇の冠に附ける緒2本が与えられた。それは聞いた主君の出羽守から召されて、2本の緒を目にした出羽守は驚き喜び、側近に申しつけて小さな神棚を設けて緒を祀った。彼が没した時に神棚が激しい音を立てて揺れたので出羽守は気味悪く思って出雲大社に奉納した。命日は釈迦の命日でもあり、奇妙な符合と評判に上った。





(私論.私見)