雷電


 (最新見直し2015.11.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「雷電」を確認しておく。「」、「雷電為右エ門■記録と伝説を作った史上最強力士」その他を参照する。

 2015.11.30日 れんだいこ拝


 雷電為右衛門(らいでん・ためえもん)
 本名・関太郎吉。出身地・長野県。1767(明和4)年1月、長野県出身。寛政2(1790)年11月初土俵。同7年3月大関昇進。最高位・大関。文化8(1811)年2月引退。1825(文政8)年2月21日逝去。

 身長197cm、体重170kg。その肉体は肋骨(ろっこつ)のすき間のない“一枚あばら”と呼ばれる特異体質であった。巨人にありがちな脆さもない「規格外」の体格であり、現在よりも平均的に小型の体格であった江戸時代においては想像を絶するサイズだったと思われる。現存する雷電の手形は長さ23.3cm、幅13cmで、多くが左手での手形であることから左利きだったのではと云われている。
 その圧倒的な成績と記録、伝説、逸話から史上最強力士といわれることが多い。横綱にこそならなかったが相撲史研究家は声をそろえて「史上最強は雷電だ」と云う。その名は永久不滅の光を放ち史上最強力士として語り継がれている。「横綱力士碑」を建立した12代横綱である陣幕久五郎も「無類力士」として雷電を「横綱力士碑」に顕彰し特別視している。雷電は当時の相撲取りとしては高い教養を持ち、「諸国相撲控帳」(通称「雷電日記」)、「萬相撲控帳」を残しており、これらは江戸の風俗を知る貴重な資料となっている。史上最強力士は文武両道でもあった。

 雷電為右衛門履歴
 明和4(1767)年に現在の長野県に生まれた。母が村の仁王像に「大きな男の子をお授けください」と祈って生まれたのが雷電だった。

 
15歳の時、碓氷峠で荷馬を引いていたときに加賀百万石・前田侯の大名行列に遭遇し立ち往生するや、荷車を担いで行列を通したとの怪物伝説が遺されている。

 天明3(1783)年、雷電に読み書きを教えていた庄屋の上原源左衛門の元に北陸巡業で困窮を極めた浦風一行の力士たちが転がり込んだ。雷電は9ヶ月間を力士とともに生活する。

 天明4(1784)年9月、浦風に入門し江戸に上る。江戸では、当時の第一人者である谷風梶之助の預かり弟子として初土俵までの6年間を過ごす。この間、期待の大きさからか初土俵前ながら松江藩に抱え上げられる異例の待遇を受ける。

 寛永元(1789)年7月、大坂で小結を務めた。

 寛永2(1790)年11月、関脇として江戸でデビュー。初土俵が関脇付け出しでいきなり優勝。期待通りにいきなり小野川との預かりを含む8勝2預の優勝相当の成績を残す。初土俵の3年後から4連覇。2場所の不出場を挟んで直後に7連覇。最晩年も7連覇し、そのまま全休して44歳で引退した。なお、この飛び抜けた成績は、史上ただ一人ハンディを課せられてのものだった。圧倒的強さから雷電には「張り手、鉄砲(てっぽう)、閂(かんぬき)」の3技、加えて「鯖折」が禁止されたとの証言が、生地に建つ「力士雷電之碑」に佐久間象山が刻した碑文にある。相手に負傷者が続出したための特別措置だったと云う。これを「禁じ手伝説」と云う。真偽に諸説あるが、このような伝説が生まれるところに雷電の圧倒的な強さがうかがえる。

 年間2場所時代の35場所(出場34場所)で優勝相当28回。現在の年6場所に換算すると優勝81回。通算成績254勝10敗2分14預5無勝負41休、勝率9割6分2厘、9連覇、7連覇、44連勝、43連勝。生涯勝率・962は史上最高。雷電は初土俵から引退まで一貫して圧倒的に強かった。2敗以上した場所は1場所もなく、同じ相手に2敗したのも花頂山のみである。現役21年間で喫した黒星はわずかに10。ほとんどは取りこぼしであったと云われている。

 大関に足かけ17年在位したが横綱にはなれなかった。大相撲史における最大の謎のひとつである。講談によると、遺恨のあった四海波を土俵上で投げ殺したことで横綱になれなかったとされるが、当時は大関が最高位で横綱制度が未成熟だったためというのが真相だろう。上覧相撲など横綱免許の機会がなかった説もあるが、享和2(1802)年に上覧相撲があり、雷電も出場していることからこの説は疑問視される。実質上初の横綱とされる谷風と小野川がペアで横綱免許を受けており、雷電の圧倒的強さから、雷電の実力に見合う相手としてのペアが見つからなかったとする説もある。この説はある程度の説得力がある。

 雷電の名は、雷電為右エ門の登場以前には為右エ門より前の時代の為五郎、同時代の灘之助(雷電同士の対決も実現するが、後に手柄山繁右エ門に改名、対戦成績は為右エ門の2勝1預)など散見されるが、雷電為右エ門の登場以後は、明治期に兜山和助が雷電震右エ門を名乗った(後に病気による大関陥落で阿武松和助に改名)例外を除くと、以後は名乗るものはなく、いわゆる「止め名」となっている。なお、兜山が雷電を名乗る際に雷電ゆかりの松江藩に伺いを立てたと云われている。 

 雷電は酒も非常に強かった。日本酒2斗(36リットル)を飲んでも平気だった。酒好きゆえに「負けた相撲はすべて二日酔いによる取りこぼしだった」ともいわれる。享和2(1802)年の長崎巡業において、中国の学者で「李白の生まれ変わり」と噂された酒豪・陳景山との飲酒対決を行ったといわれます。陳が1斗(18リットル)を飲んでダウンした後で、雷電はさらに1斗、合計2斗(36リットル)を飲み干し、高下駄を突っかけ傘を差して雨の中を宿へ帰った。翌日の夕方まで寝込んだ陳はあらためて雷電の酒豪ぶりに脱帽し、絵と書を贈ったとの酒豪伝説が遺されている。

■通算成績
場所 番付 成績 星取表 優勝
寛政2(1790)年11月 西関脇 8勝2預 ○○○預○○○預○○ (1)
寛政3(1791)年6月 西関脇 6勝1敗1無勝負2休 ○○○○●○無休○休  
寛政3(1791)年11月 西関脇 8勝1預1休 ○○○○○○○○預休  
         
寛政4(1792)年11月 西関脇 2勝1休 休○○  
寛政5(1793)年3月 西関脇 8勝1敗 ○○○○○○○●○  
寛政5(1793)年11月 西関脇 8勝1預1休 ○○○○○預○○○休 (2)
寛政6(1794)年3月 西小結 6勝1分1預2休 休○○○○○分預○休 (3)
寛政6(1794)年11月 西関脇 8勝1預1休 ○○○○○○預○○休 (4)
寛政7(1795)年3月 西大関 5勝 ○○○○○ (5)
         
寛政8(1796)年10月 西大関 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (6)
寛政9(1797)年3月 西大関 8勝1敗1休 ○○○○○○●○○休 (7)
寛政9(1797)年10月 西大関 10勝 ○○○○○○○○○○ (8)
寛政10(1798)年3月 西大関 8勝1無勝負1休 ○○○○無○○○○休 (9)
寛政10(1798)年10月 西大関 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (10)
寛政11(1799)年2月 西大関 6勝1休 ○○○○○○休 (11)
寛政11(1799)年11月 西大関 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (12)
         
寛政12(1800)年10月 西大関 6勝1敗1預2休 ●○○○○○○預休休  
享和元(1801)年3月 西大関 6勝1預3休 休休○○○預○○○休 (13)
         
享和2(1802)年11月 西大関 8勝2休 休○○○○○○○○休 (14)
享和3(1803)年5月 西大関 5勝2預 ○○預○○預○ (15)
享和3(1803)年10月 西大関 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (16)
         
文化元(1804)年10月 西大関 8勝1敗1休 ○○○○●○○○○休 (17)
文化2(1805)年2月 西大関 10勝 ○○○○○○○○○○ (18)
文化2(1805)年10月 西大関 9勝1敗 ○○○○○●○○○○ (19)
文化3(1806)年2月 西大関 3勝1敗1休 ○○休●○  
文化3(1806)年11月 西大関 9勝1預 ○○○○○○預○○○ (20)
文化4(1807)年2月 西大関 8勝1預1休 ○○○○○○○預○休 (21)
文化4(1807)年11月 西大関 8勝1預1無勝負 ○○○○○預○無○○ (22)
文化5(1808)年4月 西大関 7勝1無勝負2休 ○○○○○○○休無休 (23)
文化5(1808)年10月 西大関 9勝1敗 ○○○●○○○○○○ (24)
文化6(1809)年2月 西大関 8勝1預1休 ○○○○休○○○預○ (25)
文化6(1809)年10月 西大関 7勝1敗2休 ○○●○○○○○休休 (26)
文化7(1810)年2月 西大関 9勝1無勝負 ○○○無○○○○○○ (27)
文化7(1810)年10月 西大関 7勝1敗1分1休 ○○○○●○○○分休 (28)
文化8(1811)年閏2月 西大関 10休 休休休休休休休休休休  

 通算成績と記録
 35場所、254勝10敗2分14預5無勝負41休、勝率9割6分2厘、優勝相当28回。

 ▽勝率~9割6分2厘~史上1位。雷電が史上最強力士といわれる大きな根拠として、この圧倒的な勝率が挙げられる。

 ▽優勝相当~28回~史上3位。優勝相当28回は、年2場所の時代にあっては、この記録を抜くものはなく、年6場所の時代になっても、白鵬(34回、現役で平成27年春場所現在)、大鵬(32回)と千代の富士(31回)がこの記録を上回ったにすぎない。しかも35場所(引退場所は全休なので出場34場所での記録で、ほとんどの場所で優勝相当の成績だったということになる。

 ▽連覇~9~史上1位。文化3(1806)年11月から文化7(1810)年10月にかけての9連覇は史上1位。その翌場所の文化8(1811)年閏2月に全休してそのまま引退している。雷電は9連覇のほかに、寛政8(1796)年10月から寛政11(1799)年11月にかけての史上2位タイとなる7連覇、さらに寛政5年(1793)11月から寛政11(1799)年11月の間に出場場所11連覇という驚くべき記録も達成している。ちなみに享和元年(1801)3月から文化2(1805)年10月の間にも出場場所7連覇を記録している。

 ▽連勝~44~史上8位。雷電を上回る連勝を記録したのは、双葉山(69)、谷風(63)、白鵬(63)、梅ヶ谷藤太郎(初代)(58)、太刀山(56)、千代の富士(53)、大鵬(45)です。

 ▼雷電に勝った力士。雷電は本場所においてわずか10敗で、2敗した場所は1場所もなく、2敗した相手も花頂山のみです。雷電に勝つことは、それだけで相撲史に大きな足跡を残したことになります。雷電に勝った力士を以下に列記します。ここでは、本場所の敗戦ではありませんが、上覧相撲において雷電に勝った陣幕も列記しています。(前頭筆頭、幕下筆頭は、あえて1枚目で表記しました)(対戦成績は雷電から見たものです)

 陣幕嶋之助 (寛政3年6月の上覧相撲~本場所での番付・東関脇)最高位・大関

 寛政3(1791)年4月の本場所を中断しての上覧相撲においての雷電の敗戦です。本場所ではありませんが、上覧相撲は、本場所以上の「公式戦」とされていました。対戦成績 6勝1預(1敗)(●)○○預○○○○

 梶ヶ濱力右エ門(寛政3年4月5日目~東前頭4枚目)最高位・前頭4枚目

 寛政3(1791)年4月の本場所が雨天順延でずれ込み、上覧相撲を経ての本場所の再開後であり、雷電の公式戦初黒星ですが、時期としては上覧相撲での陣幕からの敗戦に次ぐものです。対戦成績1勝1敗●○

 花頂山五郎吉(市野上浅右エ門)(寛政5年3月8日目~東幕下1枚目~常山五郎吉)(寛政9年3月7日目~東前頭2枚目~花頂山五郎吉)最高位・大関

 雷電が唯一2敗した力士です。花頂山は、寛政5(1793)年3月に幕内の雷電と幕下(現在の十両)時代に常山として対戦、さらに寛政9(1797)年3月に幕内で花頂山として連勝しました。雷電はこの2敗をはさみ19連勝、43連勝、44連勝をしています。対戦成績3勝2敗1預●●○○○預

 鯱和三郎(寛政12年10月初日~東幕下3枚目)最高位・前頭3枚目

 寛政12(1800)年10月に雷電の連勝を44でストップしました。鯱は、幕内と幕下を往復するエレベーター力士でしたが、世紀の大番狂わせの主役となりました。結果を見ずに観客が帰りかけたほど全く期待されていなかった幕下の鯱が、立ち合いに大きく変化していなしたか、後ろへ回り込んでの送り出しでの勝利だったようです。雷電にとって最多連勝である44でストップしたこの痛恨の敗戦は、俳人の安井大江丸によって「負けてこそ人にこそあれ相撲取」と詠まれました。対戦成績3勝1敗○●○○

 柏戸宗五郎(文化元年10月5日目~東小結)最高位・大関

 文化元(1804)年10月に本場所では三役で唯一勝った力士です。雷電に唯一2勝した花頂山とともに、雷電のライバルといってもよい力士であり、自身も強豪大関でした。対戦成績 5勝1敗1分2預3無勝負 無●○○預○無無○預○分

 春日山鹿右エ門(文化2年10月6日~東前頭1枚目)最高位・小結。対戦成績 10勝1敗○○○○○○○○●○○。

 音羽山峰右エ門(文化3年2月4日目~東前頭4枚目)最高位・前頭3枚目。対戦成績 6勝1敗○●○○○○○。

 鏡岩濱之助(文化5年10月4日目~東前頭3枚目)最高位・小結。対戦成績 9勝1敗○○○○○●○○○○。

 立神盤右エ門(文化6年10月3日目~東前頭7枚目)最高位・関脇。対戦成績 1勝1敗●○。

 江戸ヶ崎源弥(文化7年10月5日目~東前頭1枚目)最高位・関脇。対戦成績 11勝1敗2預○預○○○○○預○○○○○●。

 雷電にはライバルはいなかった。但し、雷電と好勝負をした力士はいる。柏戸宗五郎と雷電に唯一2勝している花頂山がそうである。また、上覧相撲において記録に残る上で、唯一雷電を正攻法で下した陣幕と谷風のライバルだった小野川もライバルとして挙げた。(対戦成績は雷電から見たもの)

 柏戸宗五郎/埼玉県出身、身長184cm、体重116kg 幕内通算成績 30場所 156勝36敗9分12預11無勝負54休 勝率8割1分3厘 優勝相当1回 最高位・大関。

 雷電と渡り合うこと12回、雷電に本場所では唯一の三役で勝利した力士であり、最後の対戦(この対戦は、雷電にとって現役最後の一番)では雷電にとって2回しかない引き分けを記録している。雷電と同時代のため優勝相当は1回だが、優勝同点相当を6回記録しており、雷電と違う時代であれば、横綱の可能性もあった強豪大関である。対戦成績 5勝1敗1分2預3無勝負/無●○○預○無無○預○分。

 花頂山五郎吉(市野上浅右エ門)/山形県出身、身長176cm 幕内通算成績16場所 65勝23敗10分6預9無勝負30休 勝率7割3分9厘 優勝相当2回 最高位・大関。

 雷電に唯一2勝した力士。花頂山は、寛政5(1793)年3月の幕下時代(現在の十両)に幕内で、さらに寛政9(1797)年3月に幕内で雷電に連勝している。雷電は、花頂山からの2敗を間にはさんで19連勝、43連勝、44連勝をしている。つまりこの間に雷電は花頂山以外には敗れておらず、花頂山は「雷電キラー」といってよい。優勝相当2回、享和2(1802)年2月に大関となり、花頂山浅右エ門から市野上浅右エ門に改名しているが、その場所を全休、同年8月13日に現役死している。対戦成績/3勝2敗1預●●○○○預。 

 陣幕嶋之助/愛媛県出身、身長189cm、体重146kg 幕内通算成績 16場所 60勝22敗9分14預7無勝負38休 勝率7割3分2厘 最高位・大関。

 実力のある力士であったが優勝相当はない。寛政3(1791)年4月の本場所を中断しての同年6月の上覧相撲において雷電を立ち合いから喉輪で一気に下したといわれる。記録に残る限り、雷電をここまで正攻法で下した力士は他にいない。本場所ではないものの、雷電にとって初土俵から初の敗戦であり、しかも上覧相撲は、本場所以上の「公式戦」であったといわれている。対戦成績/6勝(1敗)1預 (●)○○預○○○○。

 小野川喜三郎/滋賀県出身、身長176cm、体重135kg 幕内通算成績 23場所 144勝13敗4分10預3無勝負40休 勝率9割1分7厘 優勝相当7回 最高位・大関(横綱免許)。

 谷風梶之助のライバルであり谷風の連勝を63でストップしたことでも知られている。自身も古今の強豪であったが雷電との対戦では江戸で勝つことはなかった。対戦成績/2勝2預 預預○○。

 引退後の履歴
 文化8(1811)年閏2月を最後に現役引退後、松江藩相撲頭取として、強豪・稲妻雷五郎を見出す。

 文化11(1814)年、大火で焼失した報土寺の鐘楼と釣鐘の再現に尽力する。この鐘の形状などが幕府上役の不興を買い、江戸払いにとなる。

 文政2年(1819)年、藩財政緊縮の流れの中で相撲頭取職を解任される。晩年は妻の実家のある現在の千葉県佐倉市に移り、その地で暮らす。

 文政8(1825)年2月21日に亡くなったとされている。享年58歳。




(私論.私見)