大達羽左衛門 |
(最新見直し2015.11.30日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「大達羽左衛門」を確認しておく。「」、「」その他を参照する。 2015.11.30日 れんだいこ拝 |
大達羽左衛門(うめがたに・とうたろう) |
1853(嘉永6)年12月15日、山形県出身。1873(明治6)年12月初土俵、明治19年1月大関昇進、28年6月引退。176センチ、125キロ。 |
「眼中敵なし、傍若無人」と評された力士が大達である。仕切りの際に、中腰のまま拳を相手の目の前に突き出して挑発。立ってきた相手には、首を両手でつかんで後方へほうり投げる徳利投げの荒技を炸裂(さくれつ)させた。投げる前に「ええか、ええか」と声をかけたと云うのだから恐れ入る。相次いで3つの部屋に所属した。理由は、師匠を殴るなどして2度破門されたから。傍若無人さの根底にあったのは桁違いの腕力だった。筋肉が張りすぎて腕が曲がらず、雨の日に傘をさしてもずぶぬれだったという。巡業相撲で幕力士6人に同時に飛びかからせ、全員ひねり倒したこともある。「虎を張り倒してみたい」とうそぶいたほどの強さだった。
明治17年3月10日、東京・芝延遼館で催された天覧相撲で、“無敵横綱”梅ケ谷と史上最高の死闘を繰り広げた。明治天皇の指名で実現した戦いは、左四つで2度の水入りを挟んで40分間に及んだ。天皇の許しが出て引き分けの裁定が下ったとき、大達の指が梅ケ谷のまわしから離れず、呼び出しが1本ずつ引き離したという力相撲だった。5月場所で梅ケ谷と再戦した大達は、水入りの末に突き出しで勝った。その場所から20年5月までの7場所が全盛期で、4場所で優勝、1場所で優勝同点。それでも最高位は大関だった。今なら間違いなく横綱だが…。 傍若無人が力士生命を縮めた。飲めと言われれば日本酒1斗(18リットル)をがぶ飲みし、食えと言われればガラスも食う無鉄砲がたたって黄疸(おうだん)と脚気(かっけ)を患い、2年間全休し平幕に陥落。往年の強さを取り戻すことなく、28年6月場所に初日から5連敗して寂しく引退した。 |
(私論.私見)