北の湖3、北の湖論


 (最新見直し2015.11.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2015.11.30日 れんだいこ拝


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 2015年12月22日、刈屋 富士雄  解説委員「時論公論 「北の湖が残したもの」」。
 昭和から平成にかけて、大相撲界の大黒柱だった北の湖前理事長の日本相撲協会・協会葬が、日付が変わりましたので今日の午後、両国の国技館で行われます。今夜の時論公論では、北の湖前理事長の功績と相撲界に残したものについて考えます。

 現役時代、憎らしいほど強いと言われた第55代横綱北の湖、相撲協会の理事長としても、不祥事に沈んだ相撲協会を短期間に立て直しました。数ある北の湖さんの功績の中でも、最も評価が高いのは、現役時代の「土俵に向かう姿勢」と、理事長として難関と見られた「公益法人への移行」を成功させたことです。この二つの功績に焦点を当ててみると、北の湖さんが貫き通した信念が浮かび上がってきます。

 一つ目の現役時代の土俵に向かう姿勢には、力士としての哲学が表れています。北の湖さんは、昭和の大横綱と言われる数々の偉大な記録を残してはいますが、その記録よりも、攻め一手の攻撃相撲で、組んでは寄り倒し、ちぎっては投げの圧倒的な強さと、倒した相手が、土俵下に転落しても手を差し伸べない態度が、ファンに強烈な印象を与えました。「冷たい、ふてぶてしい。」などの批判を受け、憎らしいほど強いという形容詞がつくようになりました。この時のことを、直接本人に聞いたことがありますが、答えは「自分がされると同情されているようで嫌だから。同情と敬意は違う。その一番で終わるわけではないし、現役でいる限り、常に勝負の世界、そこには同情は必要ないでしょ。」と言うものでした。
 
 力士は、引退するまで常に真剣勝負の世界に身を置くべきという強い思いが話を聞いていても、伝わってきました。北の湖さんは、毎日の稽古でも必ず早い時間に姿を見せ、どんな力士相手にも、真っ向から受け止め、ちぎっては投げ、ちぎっては投げの相撲を、稽古場でも貫いたそうです。この力士としての経験が、「大相撲の命は、土俵の充実」という哲学に結びついたと思います。
 
 そして「土俵の充実に、最も大切なことは、稽古によって鍛え抜かれた力士がいること、その力士は師匠がつくり、その拠点として相撲部屋があること。つまり力士、師匠、部屋が、土俵の充実を守る根幹であり、土俵の充実があれば、時代がどんなに変わっても、大相撲が滅びることがない」というのが北の湖さんが、常々口にしていた信念でした。

 二つ目の公益法人への移行についてですが、相撲協会は、公益法人への移行を目指す時期に、存立の危機ともいえる最大のピンチを迎えていました。相撲協会は、大正時代から財団法人として税制上の優遇措置を受けながら活動してきました。しかし、平成20年に新しい法人法が施行され、5年の間に公益法人への移行手続きをしなければ、これまでと同じような税制上の優遇措置が受けられなくなり、経営不能に追い込まれるという状況でした。
 
 しかもこの時、野球賭博事件や八百長事件など不祥事が続出し、ついには春場所の開催中止にまで追い込まれるなど、世間の常識とかけ離れた、時代に合わない組織と言う批判を浴びていました。そんな時期に親方衆が担ぎ出したのが、北の湖さんでした。北の湖さんは、最初の理事長時代、力士暴行死事件の時、「それは部屋の責任である」と相撲界の常識で対応し、世間の常識との落差に激しい批判にさらされました。その後、自らの弟子の不祥事で、理事長職を退きましたが、この時、相撲界の常識と世間の常識とのずれ、説明責任の大切さ、情報発信の重要性を学んだと言われています。だからこそ、親方衆が、相撲協会最大のピンチに、北の湖さんなら何とかしてくれる、北の湖さんの決断ならしょうがないと命運を託したわけです。この時、すでに病魔に侵されつつあった北の湖さんは、その期待を一身に受け、2度目の理事長に就任しました。北の湖さんは、各親方衆にまず公益法人に移行し、その後、時間をかけて、時代に合わせての大改革を訴えました。公益法人化への最大のポイントは、組織改革と年寄名跡の管理方法です。
 
 江戸時代から300年以上続いてきた大相撲界の組織は、相撲部屋は独立したものであり、その集合体が日本相撲協会。そして親方衆の代表による理事会が最高の意思決定機関でした。しかし、公益法人化に向けては、理事会の上に、外部有識者による評議員会が必要となり、しかも評議員会が理事を選任することになります。また相撲部屋を相撲協会の完全な管理下に置くことも要求されました。北の湖さんは、相撲部屋は、相撲協会と人材育成業務の業務委託契約を結ぶ形で、これまでの独立性を残し、理事を選任する外部有識者の評議員会にも半数の力士出身者を入れ、親方衆の推薦による理事の選定を重視する流れを作りました。そして最大の難関、年寄名跡の相撲協会一括管理も親方衆を説得しました。年寄名跡は、力士が引退したあと協会に残り経営に参加する権利で、そもそも師匠が後継者として見込んだ弟子に無償で譲ってきましたが、それがいつの頃からか金銭の授受が伴うようになりました。
 
 公益法人化の前は、1億7千万円が相場と言われていました。しかし、雇用資格である年寄名跡を多額の金銭で譲渡するのは公益法人としてはふさわしくなく、規定にも違反します。ところが、現在ほとんどの親方が、多額のローンを組んで年寄名跡を取得し、まだ沢山の借金が残っています。今すぐに年寄名跡を協会に管理されてしまうと、多額の借金だけが残ってしまう親方が続出することになり強い反発が起きたわけです。
 
 そこで、年寄名跡は協会が管理するものの、次期継承者の推薦権を認めました。ここに謝礼金やアドバイス料が発生する余地をわずかに残したことで、親方衆の合意を得ました。つまり、事実上、現状をあまり変えることなく公益法人化に成功したわけです。

 この時、北の湖さんに、私は「何も変わっていないという批判にはどう答えますか」と質問しました。北の湖さんは、「時代に合わなくなってきている部分があることは間違いないが、あわててすべてを変えてしまったら、大切なものも失ってしまう。残すべきものは残し、変えるべきものは変える。何を残し、何を変えるのか、じっくり見極めて改革していきたい。今、そのスタート地点に立ったわけで、これからが大事です。」と答えました。
 
 残すべきものの核は、北の湖さんの信念「土俵の充実」、相撲部屋があり師匠がいて、鍛え抜かれた力士がいるという、この環境を守りながら、時代に対応した組織にどう改革していくのか。不祥事の再発防止や危機管理のための組織改革、より外部の声を取り入れていく組織づくり、親方衆の意識改革や力士の教育システムの確立など変えるべきものは山積していました。それゆえに、体調不良に苦しみながらも、九州場所では連日、福岡国際センターに姿を見せ、駐車場の車で体を横たえながらも、幕内の取組に目を光らせ、亡くなる3日前にも、横綱白鵬の奇襲技・猫だましに、横綱としてやるべきではないと苦言を呈し、横綱とはどうあるべきかを発信し続けました。外国出身力士が活躍する現状も、出身は関係ない、力士は力士だと話していましたが、その力士を作る稽古の質と量が落ちていることに危機感を抱いていました。「大相撲の命は、土俵の充実。」という信念は、そのまま昭和から平成にかけての相撲界の真ん中を貫き通した大きな柱であり、大相撲の屋台骨を支えてきました。以前インタビューの約束の30分前に到着したら、北の湖さんは「遅い」と言い残して帰った後でした。実直で律義で、少しせっかちのところがあった北の湖さん、あの世にも急いで旅立たれてしまった印象です。改革はここからが正念場と言う北の湖さんの遺志をしっかりと実現していってほしいと思います。(刈屋 富士雄 解説委員)








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