北の湖1、現役力士時代 |
(最新見直し2015.11.30日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「北の湖1、現役力士時代」を確認しておく。 2015.11.30日 れんだいこ拝 |
【北の湖理事長履歴の総合評価】 |
血液型はAB型。身長179cm、体重169kg。日本相撲協会理事長(第9代、第12代)。息子は俳優の北斗潤。 |
【北の湖理事長履歴考その1、入門まで】 |
北の湖理事長の履歴は次の通り。(「北の湖敏満」その他参照) 1953(昭和28)年5月、北海道有珠郡壮瞥町字滝之町で生まれる。中学1年で173センチ、100キロ。柔道初段で高校生に勝って地区大会で優勝している。「北に怪童あり」の噂を聞きつけた相撲部屋から熱心に勧誘され、角界関係者に広まり、数部屋から勧誘される。女将の手編みの靴下をプレゼントされたことが縁で三保ケ関部屋へ入門する。 |
【北の湖理事長履歴考その2、入幕まで】 | |
13歳で北海道から上京、墨田区立両国中学校へ転校した。同年生まれには元横綱2代目若乃花、元関脇麒麟児らの人気力士がおり「花のニッパチ」と云われる。四股名の「北の湖」は、故郷にある洞爺湖に因んで三保ヶ関が命名した。湖を「うみ」と読ませたきっかけは水上勉の小説「湖の琴」(うみのこと)からの着想と云う。改名の多い角界に於いて、初土俵から引退まで一度も四股名を変えたことのない珍しい力士となった。 | |
1967(昭和42)年1月の初場所で、三保ヶ関の長男であり後に大関となる増位山と共に初土俵を踏む。「強くなるまで帰って来るな」。13歳で入門した時にもらった母・テルコの言葉を胸に北の湖は一心不乱に稽古に精進した。「誰よりも稽古やったから」の言葉を遺している。両国中に通いながら得意だった柔道、野球、水泳、スキーで鍛えたスポーツ万能の体を生かしてスピード出世し、立ち合いの強烈な当たりや左四つからの力強い右の上手投げで白星を重ね最年少昇進記録(当時)を次々に樹立、「怪童」と呼ばれた。三段目で一度だけ7戦全敗したことがあるが、中学卒業間際の1969年3月、15歳9ヶ月で幕下に昇進。同部屋、同期入門の元大関・増位山大志郎(67)は「入門した時から別格の存在だった」と振り返る。2年で幕下昇進はスピード出世だった。但し、成績を振り返ると初土俵から4場所目の新幕下場所は序二段で2勝5敗と負け越し。翌68年の春は三段目で7戦全敗と苦労している。また、72年初場所の新入幕まで十両以下の各段での優勝は一度もない。十両以下の優勝(下位優勝)がないまま、1971年5月場所、17歳11ヶ月で十両に昇進。71年夏場所の新十両昇進まで13場所を要した。 | |
次の言葉を遺している。
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三保ヶ関部屋は北の湖が1967年に入門した当時は力士の数が少ない小部屋だった。稽古相手がいないため、同じ出羽一門で元横綱・栃錦が師匠を務める春日野部屋へ出稽古する日々が多かった。連日、100番近い申し合いを繰り返すなか、他の力士の稽古を見ることを欠かさなかった。「稽古で大切なのは、他の力士の相撲を見ることなんです。そうすると、相手のクセが分かってくる。力士はそれぞれに、やはり特徴というものがありますから、そこを見て観察することが重要。私はそこを重視していました」。日々の朝稽古に加え、番付を上げていくと巡業に出る。そこでライバルたちの相撲を観察する。例えば、立ち合いで突っ張ると「必ずこう動くな」など、相手の特徴を頭の中にインプット。稽古で実際に胸を合わせると自分の観察した通りに動く。この「見る稽古」が本場所で存分に威力を発揮。加えて左四つ右上手という絶対的な強さがあった。実力を底上げする「頭脳」が史上最年少で横綱に駆け上がった原動力だった。 「どの程度の観察で相手の特徴を見抜くのだろうか?」の質問に北の湖理事長はこう答えている。「だいたい、1、2番見れば分かりましたよ。クセっていうのは、目に付くし抜けないものですから」。天才と言われることを嫌っていた北の湖理事長だったが、相撲を分析する頭脳はやはり「天才」だった(「【元番記者が語る北の湖理事長】(7)天才的な「頭脳」の持ち主」)。 |
【北の湖理事長履歴考その3、横綱時代前】 |
1972年1月、18歳7ヶ月で新入幕。この時は5勝10敗と負け越して十両に陥落したがすぐに再入幕する。幕下では3度の負け越しも経験した。 |
1973年、19歳7ヶ月で小結に昇進。本人としては幕内上位から三役に上がった頃が一番楽しく相撲を取ることができたと云う。9月場所は8勝7敗と勝ち越し、11月場所で関脇に昇進。但し9勝2敗で迎えた12日目に足首を骨折する重傷を負い、千秋楽まで出場し続け10勝を挙げた。この間、殊勲賞2回、敢闘賞1回を獲得している。 |
1974年、20歳の時、初場所、14勝1敗で幕内関脇で初優勝。場所後に大関昇進(第207代大関、在位/1974.3月-1974.7月)。5月(夏)場所で13勝2敗で2回目の優勝。 |
7月(名古屋)場所でも千秋楽に輪島2敗、北の湖1敗で対戦、輪島が勝利。優勝決定戦も輪島が勝利し13勝2敗で準優勝。2場所連続で優勝、あるいは準じる成績を収め、名古屋場所後の番付編成会議と理事会で第55代横綱に推挙された。大関をわずか3場所での昇進。21歳2ヶ月の史上最年少記録となった。すべてにおいて破格の横綱・北の湖の誕生だった。伝達式は、名古屋市内の三保ヶ関部屋宿舎だった法持寺で行われた。口上を述べ、記者会見を終え昇進の儀式を終えた直後。新横綱は真っ先に宿舎の中にあるピンクの公衆電話へ向かった。「うん ほんまに横綱になったんや母ちゃん」。付け人に10円玉を入れさせながら、声を弾ませ横綱昇進をテルコさんに伝えた。この時の様子を法持寺の住職・川口高明さんが間近で見つめており、「こんないい言葉はない。後世に伝わるように残したい」と石碑にすることを決意した。地元の書道家が揮毫(きごう)、横綱自身もサインを入れて、横綱に昇進した74年の暮れに境内に石碑を建立し今も法持寺の境内で輝いている。自身の弟子ではないにも関わらず理事長自ら指導した理由は、春日野部屋と三保ヶ関部屋は同じ出羽海一門で、春日野は以前から北の湖をかわいがっており、実子がいないために養子に迎えたいと思っていた程であることも影響している。土俵入りは指導を務めた春日野の影響を受けて大抵50秒台で終わるようなテンポの速いものに仕上がった。 |
【北の湖理事長履歴考その4、横綱時代】 |
得意は左四つ、右上手。横綱時代は、北の湖が右上手を引くと波乱を期待した館内は、ため息に包まれるほど絶対的な右だった。一方で左も強力だったという。同じ三保ヶ関部屋で同期入門の元大関・増位山で演歌歌手の増位山大志郎は「とにかく、左が固かった。差そうと思っても、まったく入らない。あんなに固い左は、他にいなかったよね」。右上手を引き左を差す。差し手の左は、一端、入ると相手が懸命に巻き替えようとしても、まったく脇が空かなかった。この左差しが横綱・北の湖の強さの象徴だったのだ。
技と言えば、「北の湖スペシャル」とも言うべき、テクニックがあった。相手に回しを取られると、絶妙なタイミングで腰を振って切るのだ。他の力士も回しを切ろうとする時に同じ技をやるが、北の湖の腰を振って切る技術は、群を抜いていた。あのスペシャルのコツはどこにあるのか?理事長に聞くと「タイミングだよ」と明かしてくれた。 ポイントは、相手の呼吸だという。四つに組んだ時、相手が息を吸う、吐くリズムを観察していたという。「息を吐くと人間は、力が抜けますから、そこを見計らって回しを切る」。相手が息を吐いた瞬間を狙って回しを切っていたという。ただ、あの強力で独特な腰の振り方は「クッと腰をひねっていただけだよ」。まるで、誰もができるというようなニュアンスを込めた答えだった。もちろん、誰もができる芸当ではない。その答えが逆に横綱・北の湖の凄さだと実感した。 腰を振って回しを切る技では、こんなエピソードもある。弟子の幕内・北太樹が1998年春に入門して間もないころだ。稽古が終わり、大部屋でくつろいでいる時に師匠が入ってきた。バギーパンツ姿だった師匠は「ちょっと組んでみようか」と胸を合わせたという。 もちろん、互いに回し姿ではない。しかも師匠はバギーパンツで腰回りの素材は、ゴム。現役時代の師匠と同じ左四つの北太樹。右上手を力いっぱい引いたという。次の瞬間、腰を振った師匠。一瞬で上手は切られたという。驚きでまるでキツネにつままれたような顔をしていると師匠はニコニコ笑っていたという。 「回しじゃなくて、つかんでいるのはゴムですよ。引けば伸びるし、切ることなんて無理ですよ。ただただビックリして、師匠、凄い凄すぎると体で感じました」と北太樹。まさに生きる伝説。それが北の湖の強さだった(「【元番記者が語る北の湖理事長】(10)強さ支えた「力」 右上手引くと波乱期待する館内はため息」)。 |
1974年、21歳の時、9月、横綱で初の土俵入り。横綱時代の北の湖は、輪島、2代目若乃花、初代貴ノ花、三重ノ海らと覇を競った。特に、先輩横綱輪島とは白熱の賜杯争いを演じ、「輪湖時代」を築いて大相撲史を飾ると同時に人気を支えた。両者の対戦は右上手十分の北の湖に対して輪島が「黄金の左」で左下手投げを得意としたこともあり立合いからガップリ四つの横綱同士の力相撲となることが常で、観客をして手に汗握らせる好一番となった。「右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった」。 1977年3月場所は全勝の北の湖を1敗の輪島が追いかける展開だったが、14日目の結び前に輪島が敗れ、結びで北の湖が若三杉に勝利して優勝を決めた。その瞬間、館内には不満や抗議の意味で座布団が舞う異常な事態となった。強い横綱が敗れて金星を提供した際に、勝った下位力士を讃える意味で座布団が舞うことは多いが、横綱が勝って座布団が舞うというケースは極めて異例だったが、北の湖は動じずに千秋楽も勝利して自身初の全勝優勝を果たしている。この頃より「憎らしいほど強い横綱」と云われるようになり、敗れると観衆が湧いた。横綱北の湖は、倒した相手が起き上がる際、相手に一切手を貸さず、相手に背を向けてさっさと勝ち名乗りを受けた。その態度が観衆から「傲慢」、「ふてぶてしい」などと云われるようになったが、これについて、北の湖本人は「相手に失礼。同情をかけられたようでかわいそうでしょう」、「自分が負けた時に相手から手を貸されたら屈辱だと思うから、自分も相手に手を貸すことはしない」と説明している。1960年代の「巨人、大鵬、卵焼き」ほどではなかったが「江川、ピーマン、北の湖」と揶揄された。この時代、貴ノ花、千代の富士、蔵間など人気を誇った美男力士が多かったが、その人気者を容赦なく倒す北の湖が「敵役」に見なされる悲運もあった。但し、真摯に土俵を務める北の湖の姿や圧倒的勝負強さに魅了される好角家も少なくなかった。 1978(昭和53)年には初場所から5連覇し、当時の新記録となる年間82勝を挙げるなど双葉山、大鵬以来の無類の強さを見せた。1978年1月、立ち合い大関三重ノ海(左手前)の奇手猫だましにも動じず。1978年大相撲春場所で11度目の優勝を決め、増位山を旗手に従えパレードに出発。1978年7月16日、左からの豪快なすくい投げで若乃花(右)を破り13度目の優勝。1978年9月、とみ子さんと挙式。1979年5月夏場所9日目、黒姫山を破って32連勝。 「輪湖時代」を象徴する輪島-北の湖対戦は、1972年7月場所から1981年1月場所の52場所間に44回実現し、両者の通算成績は北の湖21勝23敗でほぼ互角。決戦優勝も輪島5回、北の湖5回と実力が全く伯仲している。優勝は両者合わせて38回で柏鵬の37回を上回っている。特に1975.9月-1978.1月までの15場所間の千秋楽結びの一番は全て「輪島-北の湖」対戦で、千秋楽の結び対戦連続回数15回は史上1位となっている(2位は白鵬 - 日馬富士の10回、3位は朝青龍 - 白鵬の7回)。1978年初場所以降は北の湖の11勝4敗で力関係が逆転し、北の湖の独走時代に入る。輪島が1981年3月場所中に引退するまで、両者による千秋楽結び対戦回数通産は22回で曙-貴乃花の27回に次いで史上2位となっている。千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(相星決戦が4回)、水入りが3回と数多くの名勝負を遺している。 |
横綱・北の湖には、最大のライバルがいた。第54代横綱・輪島だ。 日大で2年連続で学生横綱に輝き、1970年初場所に鳴り物入りでプロ入り。幕下付け出しでデビューし、2場所連続で幕下優勝。同年夏場所で新十両に昇進すると秋には十両優勝。入門からわずか1年後の71年初場所で新入幕を果たし、72年秋場所で大関昇進。2度目の優勝を飾った73年の夏場所で横綱昇進を果たした。入門からわずか1年半での横綱昇進は、当時、史上最速。13歳で入門し、たたき上げで横綱の地位を獲得した北の湖とは好対照の出世街道だった。
「輪島さんがいたから、私は、精進できました」。現役時代を振り返った時、北の湖理事長がこう明かしたことがある。それは、史上最年少の21歳2か月で横綱に昇進した怪童にとって、先輩横綱が大きな壁となって立ちはだかってくれたからだ。横綱昇進を決めた74年名古屋。13勝1敗で迎えた千秋楽。輪島に勝てば優勝だった本割で敗れ、優勝決定戦でも先輩横綱の下手投げで倒された。屈辱の2連敗。横綱昇進後、3場所連続で優勝を逃した。この間、輪島に3連敗。綱を張って初めて優勝した75年初場所は、輪島が休場していた。「とにかく力が強かった。これまで対戦した力士では、経験することがなかった。それほど、力が強かった」。輪島の力にまさに歯が立たなかった。当時は、ライバルと言うよりも大きな力の差を見せつけられた遠い存在だった。それは、数字が明確に証明している。初顔合わせとなった72年名古屋から75年初まで15回の対戦で3勝12敗。途中、2度の5連敗をはさんでいる。輪島を倒さなければ、堂々と横綱を張ることはできない。史上最年少横綱という勲章にもおごることなく稽古に打ち込めたのは、まさにライバルがいたからこそだった。 横綱に昇進してからも春日野部屋への出稽古は日課。「出稽古に行く時は、部屋でしこ300回、鉄砲300回をきっちりやってから春日野部屋に行っていました」という。自らの部屋で基礎を固めることを欠かさなかった。稽古も初日の2週間前となる番付発表まで徹底的に追い込んだ。番付発表後は、本場所に照準を合わせじょじょにペースを落としていったという。稽古でも頭の中にあったのは「どうしたら輪島さんに勝てるのか」。後に「輪湖時代」とうたわれた大相撲の黄金時代。ライバル物語は、輪島に追いつけ追い越せと精進した北の湖の汗と涙の結晶でもあった(2015年12月7日、スポーツ報知「【元番記者が語る北の湖理事長】(15)最大のライバルは第54代横綱・輪島」 」)。 |
1981年8月、「道民栄誉賞」を受賞した横綱・北の湖と「栄誉をたたえて」を受賞した横綱・千代の富士の記念写真。1982年1月24日、2敗横綱同士の大一番は、雄々しくよみがえった北の湖(左)が千代の富士(右)を堂々つり出し、13勝2敗で4場所ぶり23度目の優勝。北の湖は、1975年9月場所から1981年9月場所までの6年間を「37場所連続2桁勝利」でほぼ全ての場所で終盤まで優勝争いの中心に存在していた。この記録は、2013年5月場所で白鵬に破られるまで最長記録であった。 初土俵から1度も休場しない抜群の安定感を誇ったが、1981年の夏巡業中に膝を痛め、同年9月場所は皆勤するも(10勝5敗)、11月場所は9日目で遂に不戦敗の途中休場を余儀なくされた。これにより通算(幕内)連続勝ち越し50場所、幕内連続2桁勝利37場所の記録をストップさせた。横綱昇進後7年間も休場しない横綱は他に例がない。 1982年1月場所は13勝2敗で優勝。次の3月場所は11勝4敗。これ以降は足や腰の故障との戦いが続くことになる。同年5月8日、夏場所初日を翌日に控え、優勝額贈呈式で横綱千代の富士と健闘を誓い合う。但し、5月場所は途中休場、7月場所は初の全休。休場明けの9月場所は初日に大寿山に吊り出されるなど、全盛期には考えられない負け方で敗れた。その後は勝ち進んで立ち直ったかに見えたが終盤に崩れて10勝5敗。11月場所と1983年1月場所は途中休場、3月から7月場所にかけては3場所連続で全休。 1983年9月場所、進退を賭して臨み初日から4連勝したが、その相撲で大ノ国を破った際に脚を故障、再び途中休場した。同年11月場所、「休場=即引退」という状況で臨み11勝4敗、終盤まで優勝争いに加わって引退危機を脱した。1984年1月場所8勝7敗。横綱審議委員会より「気の毒で見ていられない」、「引退したほうが良い」などの声が相次いだ。同年3月場所は10勝5敗。この頃既に第一人者の座を千代の富士、隆の里に明け渡していた。同年5月場所、全勝で24回目の優勝を果たした。この場所13日目に弟弟子の北天佑が隆の里を下した瞬間に北の湖の優勝が決定したが、控えに座る北の湖に対して北天佑が土俵上で微笑むと、北の湖が笑みを返したシーンは特に有名。結果的にこれが自身最後の優勝となった。優勝24回は当時大鵬に次ぐ歴代2位の記録となった。同年7月場所11勝4敗。これが最後の皆勤場所となった。9月場所は横綱昇進後で初となる初日からの連敗で途中休場。11月場所は7日目から2場所連続で途中休場した。 |
角界の頂点に立った時、ある人に呼び出されたという。当時の理事長、第44代横綱・栃錦の春日野親方だった。戦後間もないころ、ライバルの初代若乃花と共に「栃若時代」を築き、大相撲の枠を越え、敗戦で沈んだ日本人の心の復興に大きく貢献した親方。春日野部屋と三保ヶ関部屋は同じ出羽一門。若いころから、出稽古で春日野部屋へ通い自分の弟子のように目をかけ、周囲に「北の湖を自分の養子にしてもいい」と明かすほど、評価していた新横綱。待望の昇進に綱の心を指導した。
「春日野親方から『横綱たるもの、人前で軽々しく話すな。何があっても動じるな。堂々と胸を張っていろ』と言われました」。
「ふてぶてしい」。「憎らしいほど強い」など評された横綱・北の湖。時には、それは批判の意味を込めた響きでもあった。しかし、周囲に何を言われようが、胸を張り、堂々とした土俵態度は、一貫して変わることはなかった。それは、あの時の春日野親方からの教えを守り続けてきたからだたった。当時は、国民的人気を誇る大関・貴ノ花をはじめ、本場所がない時、力士はテレビ番組などへの出演、CM、レコードを出す力士などマスコミから引っ張りだこだった。もちろん、北の湖にも声がかかった。しかし、よほどのことがない限り土俵外の活動をすることはなかった。 その真意も理事長時代に明かしてくれた。「それぞれ考え方ですから、土俵以外の活動もいいと思います。ただ、みんなが、土俵の外に出て行くなら、土俵はオレが守るという気概でした。常に土俵の真ん中には自分がいるんだ。そう思って常に土俵を中心に考えていました」。「話すな」「動じるな」。春日野親方から伝授された「綱の帝王学」をかたくなに守った姿がそこにはあった。 そして、現役時代を振り返って北の湖理事長は言った。「オレは、春日野親方との約束は守ったと思っている。それは、何よりの誇りですよ」(2015年12月3日、スポーツ報知「【元番記者が語る北の湖理事長】(11)春日野親方との約束を守ったことが何よりの誇り 」)。 |
横綱・北の湖の全盛期は、1977年と翌78年だろう。 77年は春場所で自身初の全勝優勝。秋も全勝で賜杯を抱き年間80勝を記録した。そして、迎えた78年。強さは、まさに最盛期となった。初場所から秋まで5場所連続優勝。年間勝利数も82勝となり、年6場所制となった58年以降で、63年に大鵬が樹立した年間81勝を抜き史上1位の大偉業を飾ったのだ。
そして、この頃、あまりの強さにこう評された。「憎らしいほど強い」。
相手を寄せ付けない絶対的な右上手。ふてぶてしいまでの表情。揺るぎない土俵態度…。対戦相手が到底、届かない無敵の力は、まさに一般のサラリーマン、主婦から見れば「憎らしい」ほどだっただろう。中でも倒した相手に手を貸さないことに「傲慢だ」などと批判を受けたこともある。 その理由をこう明かしていた。「若いころ、自分が負けた時に手を貸されたことがあったんです。その時、恥ずかしくてたまらなくなった。負けた相手に情けをかけられるなんて、ある意味、屈辱ですよ。だから、私は、勝っても相手には一切、手を貸すことはしませんでした。それは、相手にとって失礼にあたるものですから」。 「憎らしい」と評されたことも聞いたことがある。「憎らしいって言われていい気持ちはしませんよ」と苦笑いを浮かべて、こう続けた。 「横綱というのは、勝てば評価されるものではないんです。勝って当たり前という地位。つまり、優勝すること以外に責任を果たすことになりません。大関までと違って、これが非常に大きく重いものなんです。ですから、憎らしいと言われようが何と言われようが勝つこと、優勝することが私の責任だと思ってました。『憎らしいほど強い』という声は、横綱としての私を評価してくれているものだと前向きに考えていましたよ」 昨年の名古屋場所。横綱・白鵬が負けた時、花道で白鵬めがけ座布団を投げた観客がいた。動画サイト「ユーチューブ」でも投稿され、観客のマナーがネット上で問題視されたことがあった。この騒動を北の湖理事長に聞きにいくと「座布団?オレなんかしょっちゅう狙って投げられたよ。一回、顔に座布団が飛んできて、かわしたら、ブーメランみたいに戻ってきて当たったことがあったよ。あれは、恥ずかしかった」と笑って受け流した。もちろん、観客のマナーは、ほめられたものではない。その上で「横綱ですから、それぐらいは当たり前です」と言った。現役時代に勝ち続けて「憎まれた」北の湖理事長ならではの見解だった。 勝ち続ければ憎まれるもの。そして、それは横綱の宿命。「憎らしいほど強い」。この言葉は、横綱・北の湖への最大級の賛辞だった(2015年12月4日、スポーツ報知「【元番記者が語る北の湖理事長】(12)「憎らしいほど強い」は最大級の賛辞」)。 |
「優勝が当たり前」という不退転の決意で土俵を務めていた横綱・北の湖。ただ、本場所の15日間は、とてつもなく長い。自らが課した綱の責任を果たすべく本場所へ臨む独自の考え方があった。「15日間を考えると、先は長く精神的にもちません。だから、私は、1場所を5日間で区切るように考えていました。初日を迎えれば、まずは5日目まで行こうと。5日目をすぎれば、10日目。そこを越えればあとは千秋楽というように、とにかく5日間を乗り切ろうというように考えていました」。
一瞬で勝負が決まる大相撲。だからこそ、大切なのは、土俵に臨む際の集中力になる。本場所中は、集中力を高めるために常に緊張した状態でもある。ただ、15日間もの長丁場に渡って緊張を持続させるのは優勝24回の大横綱をもってしても「とても、もたない」。だからこそ、5日間という短期決戦と区切ることで気持ちを切り替えるように努めていたのだ。 5日間に区切ることで白星への思いをさらに高めることができたという。「例えば最初の5日間で1敗すれば、次の5日間は、1敗しかできないと考えていました。2敗なら優勝圏内ですから、最後の5日間は『優勝するためには、もう負けられない』と集中することができたんです」。この5日間理論は、理事長時代に白鵬、日馬富士、鶴竜と新横綱が誕生するたびに囲み取材で「横綱になったら、精神的にきつい。5日間で考えた方がいい」とアドバイスを送っていた。 「憎らしいほど強い」と評された裏側に、これほど繊細な心が潜んでいたとは、意外だった。しかし、逆にどれほどの責任感を背負って横綱を務めていたのかと実感させられた。 ふてぶてしいまでの表情、土俵態度が印象深い北の湖だが、実は、新入幕の時はそうでなかったという。1972年初場所の新入幕。当時18歳で支度部屋に入ると、横綱・北の富士を筆頭にそうそうたる先輩力士に囲まれ、取組の前に緊張で疲れ果ててしまったという。当時は蔵前国技館。今の両国とは違って幕内と十両は支度部屋が別だった。「支度部屋にいるだけで緊張してしまって、途中から明け荷を十両の支度部屋に移したんだ」と打ち明けてくれた。 精神的な疲労のためか、新入幕場所は5勝10敗で1場所で十両に陥落した。春場所で好成績を収め、夏場所で再入幕。そこから横綱まで出世街道をばく進した。これは、直接、伺うことはできなかったが、1場所を5日間で考える発想は、この時の苦い経験から生み出したのかもしれない(2015年12月5日、スポーツ報知「【元番記者が語る北の湖理事長】(13)綱の責任果たすため独自の5日間理論」)。 |
1場所を5日間で区切る独自の発想で横綱の責任を果たしていた北の湖。技についても己だけの理論があった。弟子で元幕内・北桜の式秀親方がそのひとつを明かしてくれたことがある。それは「腕(かいな)の返し」だ。例えば左四つが得意な力士なら左腕を相手の右脇にねじ込んで攻める。右四つなら逆。これを「差す」と呼ぶが、差した時の基本が腕の返しとなる。「返し」とは、一般的に差した腕のひじが内側に返るようにねじることを意味する。多くの指導者が弟子にこう指導してきた。しかし、北の湖理事長は違った。「師匠から教えられた腕の返しは、『ねじるな』でした。返すのは、手の甲を上に向けるだけでいいというんです」。
式秀親方から聞いた話を理事長にぶつけた。「腕の返しでひじをねじるのは、間違ってますよ。どうしてかというと、ねじるともう一方の肩が動かなくなる。腕というのは、この肩甲骨の部分でつながっているんです。せっかく差したのにひじをねじると一方の腕が窮屈になってしまって、上手が取りにくくなるでしょ。それではいけません。腕の返しは手首をひねるだけで十分なんです」。 実際にやってみると、確かにひじ、例えば左腕をひねると右肩の動く領域が制限される。手首をひねるだけなら、違和感なく動く。話を聞きながら現役時代、猛稽古を積みながら、常に考えて相撲を取っていたことを実感。優勝24回の偉業の秘密を垣間見た気がした。式秀親方も「こんな教えは師匠だけです。まさに目からうろこでしたよ。さすが師匠です」と興奮していた。もちろん、自分の弟子にも北の湖直伝の腕の返しを教えている。 また、勝つために強調していたのが、「ひと呼吸」だった。自分が得意な形になったら「喜んで出て行ったらいけません。そういう時こそ、ひと呼吸おかなければいけません」。焦って前に出れば、隙が出る。何が起きるか分からない土俵際。逆転劇は、ここで生まれることが大半だ。だからこそ「ひと呼吸」置くことでより態勢を万全にする。勝てると思った時こそ慎重になれ。一瞬で勝敗が分かれる相撲の奥深さがそこにはあった。 理事長時代、特にこの「ひと呼吸」を強調していたのが、大関・稀勢の里の相撲だった。得意の左四つになりながら土俵際で逆転負けを喫する姿をテレビで見るたびに「あそこは、ひと呼吸置かなければいけません」と話していた。日本人大関が横綱になるためのヒントがそこには込められている」(2015年12月6日、スポーツ報知「【元番記者が語る北の湖理事長】(14)技についても己だけの理論を持っていた」)。 |
【北の湖理事長履歴考その5、横綱引退】 |
1985年、31歳の時、1月15日、両国国技館のこけら落しとなった初場所に、ケガが完治していなかったが、当時の春日野理事長から「晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ」の言葉を受け強行出場。初日の旭富士、2日目の多賀竜と相次いで全く良い所なく敗れて2連敗して引退表明した。所有していた年寄名跡・清見潟を他の力士に貸していたため、横綱特権での5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した(当時は優勝32回の大鵬しか一代年寄の例がなかった)。 初土俵1967年初場所、入幕1972年初場所、引退1985年初場所。通算成績は951勝350敗107休(109場所)、幕内戦歴は804勝247敗107休(78場所)、殊勲賞2回、敢闘賞1回、幕内最高優勝24回、横綱在位は10年強の63場所、の大記録を残した。1985年9月、北の湖引退一代年寄襲名披露。1985年12月、断髪式。 |
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(私論.私見)