稲妻雷五郎



 (最新見直し2016.02.09日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「稲妻雷五郎」を確認しておく。「」、「稲妻雷五郎■古今の強豪にして風流人」その他を参照する。

 2015.11.30日 れんだいこ拝


 稲妻雷五郎(いなづま らいごろう
 本名/根本才助~出身地・茨城県~身長188cm、体重145kg。生没年月日・享和2(1802)年-明治10(1877)年3月29日。最高位・大関(横綱免許)
 稲妻雷五郎は、江戸期は文政・天保年間に活躍した強豪で阿武松緑之助とともに一時代を築いた。阿武松との直接対決ではわずかに負け越し(4勝5敗5分1預)たが、成績、記録などでは阿武松を圧倒しており、古今屈指の強豪力士として認識されている。

 稲妻履歴
 文政4(1821)年2月、巻ノ嶋の名で初土俵を踏む。槇ノ嶋の名を経て稲妻に改名。文政7(1824)年10月、入幕。新入幕でいきなり7勝1預2休と優勝相当の成績を挙げる。以後順調な成績で出世する。文政11(1828)年11月、大関。文政13年(1830)年9月、横綱免許。同じ松江藩抱えだった先人の雷電為右エ門と比較されるほど期待が高く、その期待にたがわぬ強豪に成長した。その期待ぶりは川柳に、「雷電と稲妻雲の抱えなり」(松江藩は雲州ともいわれていたことによる)、「稲妻はもう雷電となる下地」と詠まれたことでもわかる。怪力でも知られ、天保銭10貫(100枚)を埋めた火鉢を片手で取りキセルの火をつけたと云われている。その怪力に驚いた火鉢の持ち主は稲妻にその火鉢を贈ったとの逸話がある。
 
 稲妻のライバルは同じ時期に横綱となった阿武松緑之助。(対戦成績は稲妻から見ています)

 阿武松緑之助
 石川県出身、身長173cm、体重135kg。阿武松は慎重な立合いが多く、「待った待ったと、阿武松じゃあるめぇし」と江戸の流行言葉にもなったといわれます。阿武松緑之助についての更なる詳細は、史上最強力士RANKING内(RANKIG外の強豪力士)の阿武松緑之助を参照。対戦成績/4勝5敗5分1預。●●○○●●○分●分○預分分分。最初の3戦は稲妻がまだ幕下(現在の十両)にいる時に幕内で阿武松と対戦したものです。

■幕内通算成績
場所 番付 成績 星取表 優勝 備考
文政7(1824)年10月 西前5 7勝1預2休 ○○○預休○○○○休 (1)  
文政8(1825)年正月 西小結 5勝2敗3休 ○○○●○○●休休休    
文政8(1825)年10月 西小結 8勝1敗1休 ○○○○○○○○●休 (2)  
文政9(1826)年正月 西関脇 6勝1敗1分2休 ○●○○○休分○○休    
文政9(1826)年10月 西関脇 7勝1分1預1休 ○○○○○○預分○休    
文政10(1827)年3月 西関脇 5勝2休 ○○休○○○休 (3)  
           
文政11(1828)年11月 西大関 4勝1敗4休 休休休○○○○●休休    
文政12(1829)年2月 西大関 6勝1休 ○休○○○○○ (4)  
文政12(1829)年10月 西大関 8勝1分1休 ○○○○○○○○分休 (5)  
文政13(1830)年3月 西大関 8勝2休 ○○休○○○○○○休 (6)  
文政13(1830)年11月 西大関 6勝1敗1預2休 ○休○●○○○○預休   横綱
天保2(1831)年2月 西大関 3勝1敗6休 休○○○休休●休休休    
天保2(1831)年11月 西大関 8勝 ○○○○○○○○ (7)  
天保3(1832)年閏11月 西大関 8勝1分1休 ○○○○休○○○分○ (8)  
天保4(1833)年2月 西大関 9勝1分 ○○○○○○○○分○ (9)  
           
天保6(1835)年正月 西大関 5勝2分3休 ○休○休○分○○分休    
天保6(1835)年11月 西大関 6勝2敗2休 ○○○●○○●○休休    
天保7(1836)年2月  西大関 6休 休休休休休休    
天保7(1836)年11月 西大関 3勝7休 休休休休○○○休休休    
天保8(1837)年正月 西大関 5勝1分4休 ○○休○分○休○休休 (10)  
天保8(1837)年10月 西大関 5勝1敗2分1無勝負1休 ○●無○○分○○分休    
天保9(1838)年2月 西大関 3勝3休 休休○○○休    
天保9(1838)年10月 西大関 10休 休休休休休休休休休休    
天保10(1839)年3月 西大関 1勝3敗1分5休 休休○分●●●休休休    
天保10(1839)年11月 西大関 4勝3分3休 ○○○○休分休分分休    
 幕内通算成績 25場所 130勝13敗14分3預1無勝負73休 勝率9割0分9厘 優勝相当10回

 引退後の履歴
 古今屈指の強豪力士というだけでなく力士の品格、精神修養、あるべき姿を説いた「相撲訓」を著し、一流の風流人としての側面も持っていた。文武両道の強豪だった。引退後、松江藩で相撲頭取を務め、明治維新後は東京に戻り、明治10(1877)年3月29日没。辞世の句は「稲妻の去り行く空や秋の風」。




(私論.私見)