常陸山谷右衛門 |
(最新見直し2015.11.30日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「常陸山谷右衛門」を確認しておく。「」、「常陸山谷右エ門■大横綱にして出羽一門を築いた角聖、御大」その他を参照する。 2015.11.30日 れんだいこ拝 |
常陸山谷右衛門(ひたちやま・たにえもん) |
本名/市毛谷右衛門。1874(明治7)年1月19日生、茨城県出身。25年6月初土俵。1904(明治37)年1月、横綱昇進、大正3年(1914)年5月引退。大正11(1922)年6月19日。最高位・横綱。身長174cm、体重146kg。 |
常陸山の相撲は相手に十分に取らせてから反撃するいわゆる横綱相撲だった。全盛期の強さは驚異的であった。梅ヶ谷藤太郎(2代)とともに一時代を築いた古今の強豪で、引退後はわずかの期間に出羽ノ海部屋を一大勢力にし、角界への貢献、功績から「角聖」、「御大」と称えられた。「角聖」と尊称される史上唯一の大力士だ。常陸山は土俵の内でも外でも他を圧した。相手の声で立ち、左腕を抱えて土俵際で片足で残すと、そのまま振り飛ばすか突き放すという横綱相撲。「どんな相手もおれより弱い」という自信のなせるわざだった。のちの無敵横綱太刀山の豪腕突っ張りを胸で受け、ひねり倒した。強豪大関国見山は差し手を返しただけで吹っ飛んだ。入幕から引退までの16年間で15敗。ライバルの2代目梅ケ谷と明治37年1月に横綱に同時昇進し「梅常陸時代」を築いた。 |
常陸山履歴 |
明治23(1890)年に出羽ノ海の門に入った常陸山は、明治25(1892)年6月に御西山の名で初土俵を踏みます。明治27(1894)年1月に師匠の現役時代の名をもらい常陸山と改名する。明治28(1895)年に師匠の姪との交際の末の失恋で部屋に居づらくなり、巡業中に脱走し名古屋相撲へ、翌明治29(1896)年には大阪相撲に加入する。明治30(1897)年春頃に東京相撲への復帰を許される。明治32(1899)年1月に新入幕を果たし、その場所8勝1分1休の優勝相当の成績を挙げると、その後も順調に好成績を挙げ、明治34(1891)年5月に大関に昇進、明治36(1893)年5月には横綱に推挙される。横綱推挙の際に梅ヶ谷藤太郎(2位)も一緒に昇進させてほしいと常陸山が希望して受け入れられた。梅ヶ谷藤太郎(2代)と同時昇進です。 明治40(1897)年8月から8カ月間、現役横綱として門弟3人を連れて欧米に渡り、アメリカではルーズベルト大統領と会見し、ホワイトハウスで土俵入りを披露している。筑波山では、8人がかりで運ばれた重さ300キロの巨岩を軽々と抱え上げてみせた。米国では数人の男女に腹を押させて腹筋で吹っ飛ばし、世界一の怪力を誇ったアレキサンダー(スウェーデン)と力比べをして引き分けた。けいこ場で幕内力士を担ぎ上げたこともあった。 角界屈指の艶福家としても知られ、一説には“千人斬り”したといわれ、認知した子供の数は55人にのぼり十分な援助をしていたといわれる。力士に絣の着物と袴の着用を徹底させ、ちゃんこや後援会の創始者とされている。葬儀は史上初の協会葬で行われ、葬列は上野駅から両国橋まで途切れることなく続いた。常陸山の出羽ノ海に敬意を払い、以後の(名跡を継承した)出羽ノ海からは「ノ」を抜いた出羽海を名乗るようになる。 |
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常陸山のライバルといえば同時に横綱昇進し、ともに一時代を築いた梅ヶ谷藤太郎(2代)である。対戦成績/6勝3敗5分1休、○分○○●●○○○休●分分分分。 |
大正3(1914)年6月、引退し出羽ノ海を襲名する。年寄としては栃木山守也、大錦卯一郎、常ノ花寛市の3人の横綱を筆頭に多くの幕内力士を育てた。常陸山は現役時代から力士の社会的地位向上に努め、力士のあるべき姿を模索していた。現役時代に第一人者として角界を牽引した功績はもちろん、引退後に年寄としてわずかの期間に3横綱4大関を筆頭に多くの幕内力士を育て出羽ノ海部屋を一大勢力とし、今日に続く出羽一門の基礎を築いた。面倒見のよさから現役時代から一門以外の力士にも稽古をつけた度量の大きさもあった。角界への貢献、功績から常陸山は「角聖」、「御大」と称えられた。「御大」。人々はこう呼んで慕った。相撲界で初めての組織的後援会には政財界、軍部などの名士が競って名を連ねた。引退後は3横綱4大関など多くの名力士を育成。力士としても親方としても、かわらぬ英雄だった。 1922(大正11)年6月19日、敗血症で死去。相撲協会は初の「協会葬」でその功績をたたえた。 |
(私論.私見)