白鵬 |
更新日/2019(平成31).4.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「白鵬」を確認しておく。「ウィキペディア白鵬翔」、「」その他を参照する。 2015.11.30日 れんだいこ拝 |
日本国籍を持たない力士は相撲部屋の親方になれない。横綱白鵬(30)が苦吟している。「国籍に関係なく親方になれる資格を」と訴えてきた。「国技の伝統」を重んじる北の湖理事長。12.16日、馳浩文科大臣を訪問。「将来、部屋を持つつもりは?」と聞かれると、我が意を得たりとばかりに、「内弟子も4、5人いる。一代年寄で白鵬部屋をやりたい」。白鵬は引退後、親方になる夢を持っている。しかし、現行のルールで親方になれるのは「日本国籍を有する者のみ」。白鵬は帰化だけは避けたいと協会に働きかけていたが、北の湖理事長は「それは絶対に変えられない」と突っぱねていた。 |
12月20日付け毎日新聞18時40分配信「<白鵬>幕内優勝33回祝う 北の湖前理事長も写真で出席」。
今年1月の大相撲初場所で歴代単独最多の幕内優勝33回を達成した横綱・白鵬(30)=宮城野部屋=を祝うパーティーが20日、東京都内のホテルで行われ、日馬富士、鶴竜の両横綱ら角界関係者のほか、2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗元首相、馳浩文科相ら約850人が出席した。当初は10月に開催予定だったが、9月の秋場所を休場した影響で延期されていた。白鵬は、先月亡くなった日本相撲協会の北の湖前理事長(元横綱)の写真を抱え登壇。あいさつでは時折言葉を詰まらせ、パーティーを予定通り行うよう助言されていたことを明かし、故人を改めて悼んだ。今年は優勝回数を35まで伸ばしたが、終盤2場所は優勝を逃した。今後の目標を問われると、「40回でしょうね」。森氏からは「私もそうだが、トップに立つとたたかれっぱなし。へこたれない相撲を取ってほしい」と、「エール」を送られる場面もあった。【岩壁峻】 |
「白鵬が撲協会巡業部に待遇改善求める提案書。休養の増加などを要求」。 |
白鵬 翔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
1985年3月11日。白鵬 翔(はくほう しょう、1985年3月11日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋所属の現役大相撲力士、第69代横綱(2007年7月場所 - )。本名はムンフバティーン・ダワージャルガル[1](モンゴル語キリル文字表記:Мөнхбатын Даваажаргал、ラテン文字転写:Mönkhbatyn Davaajargal;日本相撲協会による公式表記は「ムンフバト・ダヴァジャルガル」)、モンゴル語での愛称は「ダワー」。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。身長192cm、体重155kg(2016年1月場所現在)、血液型はA型。好物は焼肉と納豆、嫌いなものはあんこ[2]、趣味は読書、チェス、テレビゲーム。既婚。
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父親のジグジドゥ・ムンフバトはブフ(モンゴル相撲)で、5年連続6度の優勝をした元アヴァルガ(大相撲の横綱に相当)で、メキシコ五輪のレスリング重量級銀メダリスト(モンゴル初の五輪メダリスト)となったモンゴル国の国民的英雄である。母ウルジーウタス・タミルは元外科医でありチンギス・ハーンの流れを汲む家柄の出だという[3]。来日前にブフは10 - 12歳の時に遊びでやっていた程度で経験らしい経験はなく、バスケットボールに熱心に取り組んでいた。15歳になったころ、兄のバットホヤグが柔道の教師になったがダワージャルガルは「柔道はイヤだ。どうしても相撲をやりたい」と固辞した。ムンフバトは以前からそのダワージャルガルの意向を知っていたようだが母タミルは普通に勉学を重ねて学者にでもなってほしいと願っていたためダワージャルガルの決意を聞いた際にはショックで言葉も出ず、しばらくは入門するかどうかを巡って滅多にしない夫婦喧嘩もしたという。それでもタミルは内心「きっと激しい稽古が待っている。経済的にも大きな苦労を知らず、のびのび育ったダワーが、日本での厳しい修業に耐えられるはずがない。きっと、つらくて戻ってくるに違いない」と考え、早々と帰郷すると予想して入門を許したという。モンゴルの中等教育学校を卒業。 ダワージャルガルは初来日からその後2年半に渡り一度も帰郷せず日本で相撲に打ち込んだ。
大相撲で活躍していた同じモンゴル出身の旭鷲山をつてに、2000年10月25日に6人のモンゴル人と共に来日。大阪府内の摂津倉庫で相撲を習っていた(同社の相撲部には以前、後に前頭に上がる大飛翔も在籍)。共に来日した猛虎浪(立浪部屋)、千昇(式秀部屋)、大河(式秀部屋)らの入門が決まるなか、小柄だった白鵬を受け入れてくれる部屋は最後までなかった。少年白鵬は当時日本語が分からなかった為か英語で"I don't want to go back..."と言って泣いたという。その失意の帰国前日12月24日、彼を哀れんだ旭鷲山が自らの師匠の大島(元大関・旭國)と会食中に相談し、大島は友人であった宮城野(元幕内・竹葉山)に受け入れを申し入れた。当時の宮城野部屋は文字通り弱小部屋だった為に厳しいしきたりも少なく、育ちの良い白鵬には伸び伸びとやれる環境で結果的に良かったのだとされる。こうした経緯から宮城野が元十両の金親に代替わりしたのちも、熊ヶ谷を襲名して宮城野部屋付きとなった先代宮城野の指導を内弟子として受けた(後に熊ヶ谷は再度宮城野を襲名して白鵬の師匠に復帰する)。 こうして角界入りとなるものの、部屋の先輩力士に「若くてすらっとしている子」という条件で連れてこさせた少年を見た宮城野は、父親の実績を知る由もなく、その小柄な体から大きな期待はしていなかったという。しかし一方で、大きな手足と腰、柔らかい筋肉などから、もしかしたら化けるかもしれないと思い、入門してからの2か月間は稽古をさせず、毎日吐く程に食べさせ、牛乳を飲ませた。宮城野部屋入門時から大関になるまで、宮城野横須賀後援会が横須賀市内で主催するサマーキャンプに毎年参加し、午前中は横須賀市大津の土俵で稽古を積み、午後は市内の福祉施設の訪問や商店街の夏祭り等で子ども達に胸を貸し、相撲体験を通して夢や感動を与えてきた。サマーキャンプは、大関となる平成18年まで継続された。 四股名は、横綱大鵬と柏戸に因んで柏鵬(はくほう)とする案があったが、色白だったことから白鵬と付けられた(幕内・千代白鵬と四股名が比較されるが、命名は千代白鵬が先)。2001年3月場所に初土俵を踏むが、番付に名前が載った翌5月場所は身体の小ささもあり3勝4敗の成績で、後の横綱(しかも大横綱)としては異例の序ノ口での負け越しを経験する。しかし、入門当時身長175cm、体重68kgだった体は、食文化の違いを苦にせず大食漢だったことと熱心な稽古によって大きく成長し続けた。急激な肉体の成長と才能の開花に歩を合わせるかのように番付を駆け上がり、部屋で稽古を付けていた光法は、「あの白鵬って子、一晩眠るたびに強くなっている。2 - 3年後には化粧まわしや白い稽古まわし(共に関取の象徴)を身につける身分になりますよ!」と驚いていた。実際、皆勤して負け越したのは前述の2001年5月場所と三段目時代の2002年7月場所(3勝4敗)の2場所だけで、これ以降は休場を除いて負け越していない。 なお、幕下時代に朝帰りをし、土下座し謝り許しを得ようとするも、師匠は激怒し破門を切り出したことがあった。この時に部屋付きの親方衆や兄弟子たちが師匠を諫めていなかったら、白鵬は引退に追い込まれ、後の大横綱・白鵬は出現しなかったとも言われている。
十両
2003年11月場所では、東幕下9枚目で6勝1敗の好成績を上げ、関取の定員増もあり翌2004年1月場所に新十両に昇進し、翌場所、十両2場所目で12勝3敗の成績を挙げ追風海との優勝決定戦を制し優勝。十両はわずか2場所で通過し、入門からわずか3年での入幕となった。
新入幕
2004年5月場所で新入幕となる。19歳1か月での新入幕は貴花田(後の横綱・貴乃花)、北の湖、花田(後の大関・貴ノ花)に次ぐ当時史上4位の若さであった(外国人力士としては史上1位の若さ)。その場所、千秋楽まで単独で優勝争いの先頭に立っていた北勝力を立合いの変化で破り、星1つの差で追っていた同じモンゴル出身の横綱朝青龍の「援護射撃」を果たし、自らも12勝3敗の好成績で貴花田の18歳7か月に次ぐ19歳2か月の若さで初三賞(敢闘賞)を受賞した。新入幕での12勝は、15日制になってから歴代3位タイ。入幕を果たした際には「親方、一番強い人を倒したときの懸賞を持ってきます。待っていてください」と熊ケ谷親方と約束した。2004年11月場所11日目、白鵬は朝青龍を送り出しで破って初金星を獲得。その夜、この一番に掛かった懸賞を持って熊ケ谷親方の前にやってくると、「ここまで来られたのも親方のおかげです。受け取ってください」と差し出した。この懸賞は熊ケ谷親方の自宅の居間の一番見えるところに飾ってあるという。この場所は終盤まで優勝を争い、12勝3敗の好成績で初の殊勲賞を受賞した。
幕内
入幕1年目にして横綱最有力候補と目され、2005年1月場所は新三役(西小結)で魁皇、千代大海の2大関を破って11勝4敗の好成績を挙げ、初の技能賞を受賞した。3月場所は関脇に昇進し、直近の2場所で12勝3敗・11勝4敗の好成績を上げていた事から大関獲りの場所と目された。達成すれば貴乃花を上回る史上最年少での昇進となったものの序盤からまさかの3連敗で、終盤4連勝して8勝7敗と勝ち越しはしたものの、大関昇進を逃がした。
同年7月場所では7日目まで6勝1敗と優勝争いをしていたが、中日の普天王戦で左足関節靭帯損傷及び内反捻挫の怪我を負い、初土俵以来初めて休場し翌9月場所では、平幕落ちした。翌11月場所は、2場所ぶりに小結に復帰し栃東、魁皇の2大関を破り9勝6敗と勝ち越した。
大関獲り
関脇に復帰した2006年1月場所では、初日から6連勝し、その後2連敗したが12日目に朝青龍を小手投げで破る。千秋楽では大関昇進で先を越された琴欧州に寄り倒しで圧勝し、栃東との優勝決定戦を待ったが、栃東が朝青龍に勝ち優勝決定戦にはならなかった。それでも13勝2敗の好成績を挙げ、2回目の殊勲賞を受賞した。この時初めて千秋楽まで優勝に絡んだ。
翌3月場所は、自身2度目の大関獲りの場所であった。この場所は初日から11連勝し11日目に全勝の横綱朝青龍との相星決戦で、左四つに組み合った後、左手で朝青龍の左ももを払いながらの上手出し投げで完勝し、大関昇進の目安といわれる33勝目をあげた。千秋楽では魁皇に敗れたが、優勝を争っていた朝青龍も栃東に敗れたため13勝2敗同士の優勝決定戦で再び朝青龍と対戦。朝青龍に右四つからの下手投げで敗れ優勝は逃したが、技能賞と殊勲賞を獲得するなど高く評価された。この一番はモンゴル国内において、瞬間視聴率は93パーセントを記録したとされる。
場所終了後の3月29日、日本相撲協会は大阪市内で番付編成会議を開き、白鵬の大関昇進を満場一致で決め、理事会で承認された。正使として友綱理事(元関脇・魁輝)、副使に春日山審判委員(元幕内・春日富士)が、大阪府堺市の西本願寺堺別院に派遣された。師匠の宮城野(元十両・金親)夫妻とともに紋付き袴姿で出迎え、「謹んでお受け致します。大関の地位を汚さぬように、全身全霊をかけて努力します。本日は誠にありがとうございます。」と昇進口上を述べた。
大関
新大関で2006年5月場所は初日から4連勝し、5日目に雅山に突き落としで敗れたがその後は白星を重ねて14勝1敗の好成績を挙げた。本割で唯一負けた雅山との優勝決定戦で、取組前にかいた汗により雅山の突きが滑るという幸運にも恵まれて勝ち、新大関の勝ち星記録更新という快挙も成し遂げて初優勝を果たした。21歳4か月での初優勝は貴乃花、大鵬、北の湖に次ぐ歴代4位の若さだった。12日目の帰りの車の中で「君が代」を教わり練習し、初優勝を果たした千秋楽では君が代を歌った。優勝パレードの旗手は、兄弟子の光法が務めた。
綱獲り
初の横綱獲りへ挑戦となった2006年7月場所初日に朝赤龍、9日目に雅山に敗れたが、その後順調に勝ち星を積み重ね、千秋楽ではここまで全勝の朝青龍に寄り倒しで土をつけ、4場所連続となる13勝以上の13勝2敗で場所を終えた。
横綱昇進が有力視されたが、日本相撲協会の放駒審判部長(元大関魁傑)は、朝青龍の独走を許したという理由で、理事会の招集も横綱審議委員会への諮問も行わず、横綱推挙は見送られた。千秋楽後の朝青龍の優勝インタビューの際、NHKのアナウンサーが白鵬の横綱推挙が見送られたことを朝青龍に伝えると、会場は大きなため息に包まれた。番付上、東横綱・朝青龍と東大関・白鵬との対戦が組まれるのは千秋楽であるため、そこまで優勝争いがもつれなかったという意味で「独走を許した」という表現となった(14日目の時点では横綱が14勝0敗で優勝決定、白鵬が12勝2敗)。横綱昇進を見送られた白鵬は、モンゴルの温泉で疲れを取るため帰国した。
翌9月場所で2度目の綱獲りを目指したものの、初日に稀勢の里に敗れ、その際右膝を負傷した。12日目でようやく勝ち越すが、その後千秋楽まで3連敗して8勝7敗に終わり、横綱への挑戦は白紙に戻った。
翌11月場所は、場所直前の11月1日稽古場のある公園内の階段でトレーニング中つまずき、左足親指を怪我、翌日、左母趾基節骨遠位端骨折と診断され福岡市内の病院で手術(ボルトを入れ4針縫う)し入院。9日に抜糸し退院したが、同日宮城野親方が会見を開き、怪我の回復を優先させる事から休場を発表、初の全休となった。次の2007年1月場所は、自身唯一の大関角番であったが、12日目で勝ち越して角番を脱出、10勝5敗と二桁勝利を挙げた。
3月場所前の2007年2月に当時学習院大学に在籍中の学生であった徳島県徳島市出身の和田紗代子と結婚。このとき夫人は第1子を身ごもっており、同年5月10日に第1子(長女)が誕生した。義父は実業家で、元朝青龍全国後援会長の和田友良。
3月場所は千秋楽の優勝決定戦で、立合いの変化で朝青龍を下し、13勝2敗で2度目の幕内最高優勝を果たしたが、日本相撲協会や横綱審議委員会ではその相撲内容が十分でないとの意見もあった。それでも3度目の綱獲りだった翌5月場所では、初日から14連勝で14日目で優勝を決め、千秋楽も堂々たる相撲振りで朝青龍に完勝し、自身初の15戦全勝優勝を達成。日本相撲協会からの諮問後の横綱審議委員会でも「満場一致」の横綱推薦となり、念願だった第69代横綱への昇進が決定した。なお横綱土俵入りは熊ヶ谷親方の推薦もあり、熊ヶ谷の入門時の師匠である元横綱・吉葉山と同じ不知火型を選択(白鵬自ら5月場所の全勝優勝インタビューで「部屋の大先輩である横綱吉葉山と同じ不知火型をやります」と宣言していた)[7]。土俵入りの指導は同立浪一門で、元横綱・旭富士の安治川親方(当時)が行った。土俵入りはせり上がりの際、四股を踏む前と最後の締めの部分の腕の所作に大きな特徴があり、前者は翼をピンと張るように切れのいい動作を、後者は翼を広げるようなゆったりとした構えを見せる。 |
横綱2007年7月場所は横綱として初の土俵。16連勝の中で初日を迎え、白星を重ねていったが、10日目に琴光喜に敗れて連勝は25でストップ。12日目の魁皇戦では、土俵際で魁皇が突き落としたが行司・木村庄之助の軍配は白鵬に上がった。これに物言いが付き協議の結果取り直しとなった。 この日の大相撲中継の解説であった北の富士勝昭、実況アナウンサーの刈屋富士雄は、魁皇の勝ちであるように見えたと発言している。この相撲で魁皇は負傷し、取り直しの一番は一方的に白鵬の勝利。翌日から魁皇は休場した。翌13日目の琴欧洲、14日目の千代大海との取り組みに敗れ、横綱として初の連敗を喫し、この時点で3敗に後退して3連覇の可能性が断たれた。 千秋楽は実に4年10か月振りとなる横綱同士の対戦(2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花以来)で朝青龍に寄り切りで敗れ、3連敗を喫し11勝4敗に終わった。 翌9月場所は朝青龍が自身の不祥事の為に出場停止処分となり、事実上1人だけの横綱となった。初日に安馬(当時、現・日馬富士)に敗れ、中日までは安美錦を追う形となった。さらに11日目には豊ノ島に敗れ(自身初の金星配給)、新入幕の豪栄道に優勝争いのトップを明け渡してしまったものの、13勝2敗で横綱昇進後初となる通算4度目の優勝を果たした。 9月場所直前、白鵬は出場停止となった朝青龍を気遣い、同情的なコメントを寄せている。8月23日には朝青龍の外出について感想を求められて「いいんじゃないですか?」と答え、朝青龍帰国に際しては「けがを治すなら、落ち着いてやるのがいい。体よりも心の痛みが強いと思う」と語った。 11月場所では朝青龍の休場(出場停止)もあり、自身初の東横綱の座に就いたがこの場所も初日に琴奨菊に寄り切られて黒星スタートとなった。14日目に11勝2敗の相星対決で負かした大関千代大海が右肘負傷により千秋楽を休場するアクシデントが発生した為、取組を待たずに5回目の優勝が決まった。その千秋楽結びの一番の琴光喜戦では下手投げで裏返しにされて敗北し、祝勝気分に自ら水を差した格好になった。なお、日本相撲協会によれば千秋楽に優勝を争う一方の力士が休場することによって幕内最高優勝が決まったのは、1927年(昭和2年)10月の不戦勝制度適用以来初めてのことだった。また同2007年、自身初となる年間最多勝(74勝16敗)を受賞した。 2008年2008年1月場所、この場所から茶色の締め込みに変更する。初日から好調で優勝争いのトップを走った。そして西横綱朝青龍も白鵬に並走し、2002年9月場所の武蔵丸 - 貴乃花以来となる東西横綱同士で13勝1敗同士の相星決戦となった。注目の一番は白鵬が朝青龍を得意技の左上手投げで下し、14勝1敗で3場所連続6度目の優勝を決めた。 3月場所では4日目の平幕安美錦戦で早くも土がつき、12日目も千代大海に敗北、それまで全勝の朝青龍に引き離されていた。しかし朝青龍が12日目と13日目で土がつき、14日目の時点で両横綱共に12勝2敗で並んだため、1995年3月 - 5月場所の貴乃花 - 曙戦以来、約13年ぶりの2場所連続の千秋楽横綱相星決戦となった。結果は朝青龍に右小手投げで敗れ、4連覇を逃した。 5月場所は9日目まで全勝だったが10日目の安馬(現:日馬富士)戦で敗れた際に左足首を捻挫、その影響で優勝争いから脱落する。千秋楽結びの一番で、朝青龍に引き落とされて両手をついて敗れた後、横から駄目押しされたためか、白鵬が立ち上がり、朝青龍に右肩をぶつけ両者が睨み合うという事件を起こした。その翌日の5月26日、北の湖理事長は「悪いのは逆上した白鵬だ」との理由で、師匠の宮城野親方だけを国技館に呼び厳重注意したが、横綱審議委員らは「その直後に横綱同士が土俵の中で睨み合うのは喧嘩両成敗。朝青龍にも問題が有る」と提言。翌5月27日には当事者の白鵬と朝青龍に対し、それぞれ口頭で厳重注意の処分となった。その後白鵬は「横綱として非常に申し訳無かった。深く反省しています」と記者陣に対し謝罪していた(但し朝青龍からのコメントは一切無し)。 7月場所は6日目から朝青龍の途中休場により1人横綱となったが、13日目に魁皇を下し7回目の優勝[10]、千秋楽には琴欧洲を上手投げで破り横綱昇進後初となる通算2度目の全勝優勝を果たした[11]。これで各場所すべて優勝(全6場所制覇)を成し遂げたことになる(歴代10人目、不知火型の横綱では初)。ちなみに歴代の不知火型の横綱で年6場所制になってからは、玉の海の優勝6回を上回り最多となり、昭和以降では年6場所制以前の羽黒山と並んだ。優勝制度が始まって以降の当時の最多記録は太刀山の9回だった。 9月場所前の9月3日、第2子(長男)が誕生。 9月場所は3日目の東前頭筆頭の琴奨菊との取り組みで左上手投げで勝ったが、立合い直後の「琴奨菊の手つき不十分」として放駒審判長(元大関魁傑)から「待った」がかかっていた(これは行司も気づかなかった)。やり直しの一番も寄り倒しで制し、“1日2勝”することとなる[12]。5日目に稀勢の里に横綱になって初めて敗れ、19で連勝はストップし金星を与える[13]。14日目に、自分の取組前に安馬と琴光喜が敗れ、結びの一番で琴欧洲と対戦、上手投げで相手を屠って8回目の優勝を決めた。また同時に、年間勝利数が2位の安馬と16勝差となり、11月場所を残して2年連続2回目の年間最多勝(2008年は79勝)を決めた[14]。千秋楽も琴光喜を破り、14勝1敗で9月場所を終えた。 11月場所は初日に安美錦に敗れるスタート[15]。この場所の序盤は相撲内容が良くなく、苦しみながら勝つという状況が続いて、12日目に大関昇進を目指す安馬に敗れた[16]。優勝争いは千秋楽の本割終了時点に於いて13勝2敗で安馬と並び、優勝決定戦となった。決定戦では両者白熱した攻防の末、白鵬が上手投げで安馬を下し、3場所連続9回目の優勝を果たした。この優勝で、歴代の不知火型の横綱では史上最多タイの優勝回数となった[17]。 2009年1月場所は初日から9連勝で4場所ぶりの土俵となった朝青龍と並んでいたが、10日目に日馬富士(当時新大関・安馬から改名)に敗れて朝青龍にリードを許した[18]。その後も全勝の朝青龍との星1つの差は変わらず、優勝争いはこの2者に絞られていった。千秋楽の本割では朝青龍を寄り倒して、14勝1敗同士の優勝決定戦に持ち込んだが、優勝決定戦で朝青龍に寄り切りで敗れて4連覇を逃した[19]。 3月場所も朝青龍と熾烈な優勝争いを演じていた。10日目に朝青龍が日馬富士に敗れた後も単独トップを維持し、14日目に10回目の優勝を決めた。これにより、不知火型の横綱の最多優勝記録を更新した[20]。翌日の千秋楽も朝青龍を寄り切って自身3度目の全勝優勝で締めくくった[21] 。 5月場所は12日目まで日馬富士と全勝で優勝争いのトップを走っていた。13日目の全勝対決において裾払いで日馬富士を破り、33連勝になった[22]。この日の勝利で従来羽黒山が持っていた取り直し制度導入後の不知火型の連勝記録(32連勝)を更新した。だが、14日目の琴欧洲戦で、琴欧洲の上手投げを食らい、連勝記録は33で止まった[23]。千秋楽は朝青龍を寄り切って日馬富士と同成績の14勝1敗で優勝決定戦に臨んだが敗れて優勝を逃した[24]。しかし、千秋楽の白星で前年7月場所からの6場所間での勝ち星が85となり、年度にこだわらない任意の場所の連続6場所としては北の湖(1977年9月から1978年7月にかけて)に並ぶタイ記録を樹立した。 7月場所は、11日目に琴光喜に敗れ1敗を喫するも[25]、13日目に同じく11勝1敗で並ぶ琴欧洲との直接対決を上手投げで制し単独トップに立つと[26]、そのまま千秋楽まで1敗を守り14勝1敗で11回目の優勝を決めた[27]。 9月場所は6日目に平幕の翔天狼に初顔で金星を許して1敗(2014年1月場所現在、本割ではこの1回のみである。)[28]、その後14日目まで全勝の朝青龍を1差で追っていた。千秋楽結びの一番では朝青龍を寄り切って勝利。14勝1敗同士の優勝決定戦へもつれ込んだものの、決定戦では朝青龍に右掬い投げで敗れて、同年1月場所同様に逆転優勝はならなかった。この結果、2009年は東京場所での優勝を果たせなかった。また、年間3場所(1月・5月・9月)の決定戦での敗戦は史上初となった[29]。さらにこの3場所とも14勝1敗で優勝を逃しており、14勝1敗の成績で優勝できなかった横綱の場所数としては歴代最多となった。 しかし、先場所の時点で玉の海(1970年9月―1971年3月)や千代の富士(1988年5月―11月)と並んでいた「4場所連続14勝以上」の記録を、千秋楽の勝利で「5場所連続14勝以上」に延ばし、単独トップとなった。11月場所は14日目に琴光喜を上手投げで下し、12回目の優勝を決めるとともに年間勝ち星の新記録を達成した[30]。(この場所で同時に史上初の「6場所連続14勝以上」と「9場所連続13勝以上」を記録)更に翌日の千秋楽で朝青龍を左上手投げで下し、2005年に朝青龍が記録した年間最多勝記録84を2勝更新する86勝4敗の新記録を打ち立て、4度目の全勝優勝、九州場所3連覇で2009年を締めくくった[31]。同時に白鵬自身と北の湖がもつ、年度にこだわらない任意の場所の連続6場所での勝ち星85をも更新した。 2010年 -63連勝-[編集]1月場所初日は、横綱土俵入りの所作に於いて、四股を自分の足元を見て踏む形に変更したことに気を取られたため、せり上がりを忘れるハプニングがあった。この日は2007年以来の天覧相撲となったが[32] 、土俵入りは今上天皇・皇后の到着前だったため、大きな問題とはならなかった。 7日目に把瑠都に敗れて連勝が30で止まり[33]、12日目に日馬富士に敗れて2008年11月場所以来となる2敗目を喫した[34]。翌13日目も魁皇に敗れ、久々の連敗で3敗となった(それまで魁皇には17連勝中だった)。14日目は結び前の一番で琴欧洲に勝ったものの、朝青龍がその後結びの一番で日馬富士に勝利し、朝青龍に25回目の優勝を決められた。翌千秋楽の結びの一番、白鵬は朝青龍を寄り倒したが、この一番が横綱朝青龍と本場所での最後の対戦となった[35]。 1月場所後の2月4日に朝青龍が急遽現役引退を表明したため、3月場所からの番付は史上9人目の一人横綱となった。不知火型の横綱が番付上でも一人横綱となるのは、現在の型の元祖とされる太刀山以来、史上初のことである[36]。その2010年3月場所は、大関昇進を目指した関脇・把瑠都との優勝争いとなったが、11日目に把瑠都との全勝対決を制し[37] 、その後も連勝を続けて15戦全勝で13回目の優勝を飾った。これによって12回優勝の双葉山と武蔵丸を抜いて、優勝回数が歴代単独6位となった[38]。ちなみに東横綱での全勝優勝は自身初。また地方場所での2年連続全勝優勝は史上初で、場所を問わない4年連続での全勝優勝達成は、双葉山、大鵬、北の湖に並ぶ記録である。 5月場所も、把瑠都ら上位陣が星を落としていく中で連勝を続けた。そして独走の中で迎えた13日目に琴光喜を破り、輪島に並ぶ14回目の優勝を決めた[39]。14日目からは、輪島のトレードマークだった黄金色の締め込みで出場[40]。14日目は琴欧洲、千秋楽は日馬富士を退け、2場所連続6度目の全勝優勝を果たした。直近4場所で3度の全勝優勝は、15日制の下では初の快挙である。横綱昇進後の夏場所の優勝も初めてである(横綱の5月場所優勝自体2005年の朝青龍以来5年ぶり)。なお、横綱昇進後丸3年となるこの場所を終えた段階での横綱勝率は.900という近代の大相撲では驚異的な数字にまで達した。この14回目の優勝インタビューにおいて次の目標を聞かれ、「次は平成の大横綱、貴乃花関の記録に並びたい。その先は大鵬関の記録も追い抜きたい」と答えた[41]。優勝回数に関しては大鵬という大きな目標を出したが連勝記録については一切触れなかった事に関して、解説の北の富士は「連勝記録について何も言わなかったのは、彼自身、優勝は重ねていけても連勝を伸ばしていくのは難しいと実感しているからじゃないですかね。」と言っていた。 2010年5月に起きた大相撲野球賭博問題に関連し、花札で金を賭けていたことを上申書で申告したが、賭け金が軽微とみなされ、厳重注意以外の処分は行われなかった[42]。その直後の7月場所では、14日目に日馬富士を掬い投げで下し、輪島を抜く15回目の優勝を果たした。また、46連勝を達成し、大鵬の45連勝を抜いて昭和以降では歴代3位の記録となった[43]。千秋楽も把瑠都を上手投げで下して全勝優勝を果たし、連勝記録を47に伸ばした。1場所が15日制で定着した1949年5月場所以降初となる「3場所連続15戦全勝優勝」という快挙も成し遂げた。年間3回の全勝優勝も初である[44]。 9月場所は3日目で50連勝を達成。富岡八幡宮にある超五十連勝力士碑に名を刻むこととなった[45]。7日目には稀勢の里を押し出して54連勝とし、千代の富士の53連勝を抜いて昭和以降では単独2位となった[46]。14日目、自らの取組前に追う2敗力士が敗れたため、16回目の優勝が決定[47]。更に千秋楽、日馬富士を下し、4場所連続8回目の全勝優勝で双葉山、大鵬に並び、連勝記録も62とした。また自身がもつ、年度にこだわらない任意の場所の連続6場所での勝ち星記録86を更に塗り替え、87とした[48]。 11月場所は初日栃ノ心を上手投げで下し、江戸時代の大横綱谷風に並ぶ63連勝を達成したが、2日目に稀勢の里に右上手を許してしまい寄り切りで敗れ、連勝記録として歴代2位[49]、昭和以降、横綱として歴代1位の記録となる63で止まった。このあと呆然とした表情で、報道陣に「これが負けか」とつぶやいている[50]。しかしその後は白星を重ねて14勝1敗で平幕の豊ノ島との優勝決定戦を制し、5場所連続17回目の優勝を達成した。また千秋楽の白星で「2年連続年間最多86勝」を樹立した[51]。 2011年[編集]1月4日「白鵬横須賀後援会」が「宮城野部屋横須賀後援会」に名称変更し、新たに発足すること明らかになった。後援会関係者が「年末に師匠が交代し、今後は白鵬だけでなく部屋の後援会として発足させたい」。3代前の宮城野親方(元小結・広川)が横須賀出身だったことから、以前は部屋後援会として活動していたが、先代の宮城野親方(元十両・金親)が2004年に師匠になってからは白鵬の個人後援会になっていた[52]。
2月に発覚した大相撲八百長問題では関与は見られず、白鵬自身も記者会見で「ないとしか言えない」と否定しているが、この問題の影響で出演していたCMが放映自粛に追い込まれている。なお春場所で7連覇がかかっていたが、この八百長問題で春場所自体が中止となった。しかもこの年の誕生日には東日本大震災が起きた。 5月技量審査場所は再び7連覇がかかった場所となった。2場所連続で敗れていた稀勢の里に勝つなどなど12日目まで全勝を続けていたが、13日目に日馬富士に敗れた[56]。 千秋楽は魁皇に敗れて、2008年5月以来の千秋楽結びでの黒星となり2敗となったが、追っていた栃ノ心も千秋楽の本人の取組前に敗れたため、7場所連続(朝青龍と並んでタイ記録)19回目の優勝を果たした。 7月場所は新記録の8連覇がかかっていたが、11日目に大関昇進を懸ける琴奨菊に初黒星を喫し、14日目には全勝だった日馬富士との直接対決に敗れ、一人横綱となって以来初めて優勝を逃した[57]。千秋楽も把瑠都に敗れ、2010年1月以来8場所ぶりの12勝3敗に終わった[58]。 9月場所は琴奨菊と稀勢の里の両関脇と優勝を争う展開となり、11日目まで全勝も終盤に両関脇を相手に連敗(横綱昇進後初めて関脇以下の力士に連敗)。千秋楽では稀勢の里が3敗を守り2敗だった琴奨菊が敗れたため、3人での優勝決定巴戦の可能性もあったが、日馬富士を破って13勝2敗での優勝を決め、20回目の幕内優勝を達成した[59]。 11月場所は初日から連勝を続け、優勝を争っていた新大関の琴奨菊や大関昇進のかかる稀勢の里らを退け、13日目に琴欧洲を豪快な下手投げで破り優勝を決めた(13日目での優勝決定は自身3度目)[60]。その後千秋楽で把瑠都に敗れ、全勝優勝とはならなかった[61]。また、この場所の7日目で5年連続5回目の年間最多勝を確定させたが、5年連続の年間最多勝は史上4人目のタイ記録である[62]。 2012年[編集]3連覇を懸ける1月場所は2日目、3日目と続けて6人の上位陣全員が勝利するなど、好調な大関陣との優勝争いとなった。白鵬自身は5日目の雅山戦で以前も負傷した経験のある左足親指を痛めるというアクシデントもありながら9日目まで連勝して星を重ねたものの、10日目にこれまで20戦全勝と圧倒していた鶴竜に初めて黒星を喫し1敗に後退[63]。全勝の把瑠都を追いかける形となったが、12日目に日馬富士の注文相撲に屈し2敗となり、あっけなく自力優勝が消滅してしまった[64]。13日目には琴欧洲に約3年ぶりの黒星を喫し連敗。これで把瑠都との星の差が3つとなり、大関に13日目に初優勝を決められるという屈辱的な展開となった[65]。千秋楽は前場所に自らの全勝優勝を阻まれた把瑠都に雪辱を果たし把瑠都の全勝優勝を阻止、12勝3敗で場所を終えた[66]。 3月場所は順調な滑り出しで始まり、8日目には玉の海の「6場所連続」を超える史上最多記録の「7場所連続中日勝ち越し」を決めた[67]。しかし、9日目の鶴竜戦では2場所連続で敗れ[68]、その後も13日目に稀勢の里にも敗れたが、千秋楽まで1敗の鶴竜と優勝を争っていた。千秋楽ではこの日敗れて2敗になった鶴竜との決定戦を制し、逆転で貴乃花に並ぶ22回目の優勝を果たした[69] 。 しかし5月場所は、初日に小結安美錦に敗れる波乱の幕開けとなる(この一番で宮城野親方が左手人差し指を剥離骨折した事を後日表明)[70]。その後5連勝したものの、7日目に平幕の豊響に小手投げで敗れ金星を許し、8日目関脇豪栄道に敗れて2連敗、9日目も関脇豊ノ島に物言いの末敗北、新横綱だった2007年7月場所以来の3連敗を喫して5勝4敗になった[71]。これにより、2008年7月 - 2012年3月場所まで続いた幕内連続12勝以上勝利が22場所(史上1位)でストップした。途中休場も危惧された中、10日目に新大関・鶴竜を破り4日ぶりに勝利を収め[72]、12日目に8勝4敗とようやく勝ち越し[73]。14日目で10勝4敗と2桁勝利を挙げ、一時は千秋楽で11勝4敗同士の優勝決定戦進出の可能性もあったが、結局は勝ち越しを賭けた日馬富士に敗れ10勝5敗、横綱昇進後ではワーストの成績に終わった[74]。 7月場所で横綱在位数が30場所を迎え、羽黒山と並び歴代10位タイの記録となる。この場所は初日から14日日まで大関日馬富士と共に14連勝で進んだが、千秋楽結びの一番では日馬富士の寄り切りに完敗して全勝優勝を逃し、一人横綱となってから初めて2場所連続で優勝を逃してしまった[75] 。尚この一番は、1983年9月場所で日本人横綱同士の隆の里対千代の富士戦以来29年ぶりの14戦全勝対決であるが、初めて外国人力士や大関が参加した対決となった。また、14勝1敗で優勝を逃した横綱として、2009年9月場所に横綱朝青龍に決定戦で敗れて以来、最多の通算4場所目となり(2位は羽黒山、栃錦、大鵬、貴乃花の2場所。白鵬は2009年だけで1月・5月・9月場所の3場所において、いずれも14勝1敗の決定戦で優勝を逃しており、この時点で最多)、不名誉な単独1位の更新となった。 9月場所では横綱在位数が31場所を迎え、歴代単独10位の記録となり、不知火型の横綱では羽黒山を超える史上単独1位の記録となった。しかし10日目の栃煌山戦で敗れ、7個目の金星配給を許してしまう。千秋楽も大関で2場所連続全勝で横綱を目指した日馬富士に、大熱戦の末下手投げに敗れ13勝2敗に終わった。尚白鵬が3場所連続で幕内優勝を逃したのは、横綱に昇進して以降初めてとなる[76] 。 翌11月場所は日馬富士が第70代横綱に昇進。新横綱誕生は2007年7月の白鵬以来32場所ぶり、東西二人の横綱が出揃うのは2010年1月の朝青龍と白鵬以来16場所ぶりとなった。なお日馬富士も横綱土俵入りは不知火型を選択したが、本場所で不知火型の土俵入りを複数披露する横綱は大相撲史上初めて。また白鵬の横綱在位数32場所は、千代の山と並ぶ歴代9位タイ記録である。この場所は11日目に大関琴欧洲に初黒星を喫したが翌12日目の大関琴奨菊戦は勝利し、本人の取組後に日馬富士が敗れたため、大相撲史上初の6年連続での年間最多勝を確定させた[77] 。また14日目に琴奨菊が旭天鵬に勝利したことで、貴乃花を上回る4場所ぶり23回目の幕内優勝(大鵬、千代の富士、朝青龍、北の湖に次ぐ史上5位)[78] 、さらに九州場所6連覇(同場所の史上最多数は千代の富士の8連覇・1981 - 1988年)を達成した。2010年1月場所以来となった千秋楽結びの横綱同士の一番でも新横綱日馬富士を破り、14勝1敗で取り終えた。 2013年[編集]1月場所で横綱在位数が33場所となり、歴代単独9位に。しかし序盤3日目、妙義龍戦で自身8個目の金星を許して1敗[79]。その後12日目に琴欧洲にも敗れ2敗に後退。結局同場所を無敗で進む日馬富士を逆転できず、14日目に優勝をさらわれてしまった[80]。千秋楽も日馬富士に敗れて12勝3敗に終わった。 3月場所は2009年11月場所以来、19場所ぶりに西横綱の地位となった。この場所は序盤から好調であり中日に勢を上手投げで下し、中日勝ち越し場所を26場所とし、千代の富士の25場所を抜いて歴代1位となった[81] 。さらに10日目、大相撲の末把瑠都を上手出し投げで下して10連勝、幕内連続2桁勝利記録が37場所となり北の湖と並び歴代1位タイ記録となった[82]。その後も全勝を守り13日目に豪栄道を上手投げで破り、前の取組で2敗で追っていた隠岐の海が栃煌山に送り出しで破れ3敗に後退したため、歴代4位の北の湖に並ぶ24回目の優勝を千秋楽を待たずに決めた[83]。千秋楽は日馬富士を上手投げで破り、9度目の全勝優勝を決めた。これにより全勝優勝回数でも双葉山、大鵬を抜いて歴代単独1位となった[84]。 5月場所も先場所同様無敗で中日勝ち越し。10日目に豪栄道をとったりで下し10連勝、幕内連続2桁勝利記録が38場所となり、長年北の湖が保持した記録をついに破って歴代単独1位に[85]。翌11日目の琴欧洲戦も上手投げで下して、横綱勝利数が467勝目に達し輪島を超える歴代4位の記録となった。そして14日目、稀勢の里と13戦全勝同士の対決は、大熱戦の末白鵬が掬い投げで制し単独トップに立った。翌日の千秋楽は、結び前の一番で稀勢の里が琴奨菊に寄り倒され13勝2敗となった時点で、歴代3位の朝青龍と並ぶ白鵬の25回目の優勝が決定。そして結びの一番では日馬富士を寄り切って、大相撲史上初の二桁となる10度目の全勝、さらに2場所連続全勝優勝(3月場所初日から30連勝)も達成した[86]。場所後に優勝記録で朝青龍と並んだことから本人から祝福された一方で「偉大なる私に追いついたと思うのは100年早いぞ」と朝青龍なりに威厳を誇示するコメントも寄せられた[87]。
9月場所も、初日から8連勝で史上最多の29度目の中日勝ち越しを決めた。また、中日には宝富士に、1997年3月場所9日目に貴乃花が剣晃に決めて以来、16年ぶりの呼び戻しでの勝利を飾った[92]。しかし10日目に豪栄道に押し出され初黒星を喫した。その後は白星を重ね、14日目に先場所連勝を43で止められた稀勢の里を叩き込みで下し、4場所連続27回目の優勝を14日目に決めた。千秋楽も日馬富士を小手投げで下し、14勝1敗の成績で締めくくった。14勝以上の場所は23度目で、共に22度の大鵬、千代の富士を抜いて単独最多となった。 11月場所は2日目の隠岐の海戦に勝利した時点で、7年連続7回目の年間最多勝を確定させる(7回目の年間最多勝は北の湖と並び史上1位タイ)[93]。また10日目の栃乃若戦で10連勝、横綱在位中の連続2桁勝利記録が38場所となる(従来は北の湖の37場所)[94]。さらに11日目の栃煌山戦の勝利で、史上最多となる年間最多勝80勝以上を3回(2009年86勝・2010年86勝・2013年)達成した(過去は北の湖の1977年80勝・1978年82勝、貴乃花の1994年・1995年共に80勝の、各2回が最多記録)[95]。13日目まで先場所から18連勝だったが、14日目に稀勢の里に上手投げで敗れて初黒星を喫した。千秋楽結びの一番は日馬富士との13勝1敗同士の相星決戦となったが、寄り切りで敗れ2010年11月場所以来の5連覇と11月場所での7連覇をも逃した[96]。 2014年[編集]1月場所では初日に栃煌山を押し出しで破り、大鵬の記録を更新する史上最速の76場所での通算800勝(前相撲を除く)を挙げ[97]、続く2日目には豊ノ島を引き落としで破り、幕内通算707勝として武蔵丸を抜いて、外国人力士の最多勝利を更新した[98]。5連勝で5日目で早くも単独トップとなると[99]、中日には自信2度目の6場所連続での中日勝ち越しを決め[100]、10日目には10連勝で通算50度目の2桁勝利とした[101]。しかし、14連勝で迎えた千秋楽の結びの一番では1敗の鶴竜に寄り倒しで敗れ、14勝1敗同士で優勝決定戦となるが、決定戦では鶴竜を寄り切りで破り、2場所ぶり28度目の幕内最高優勝を果たした[102]。 3月場所は初日から12連勝、また8日目には自身と並ぶ「7場所連続幕内中日勝ち越し」の史上1位タイ記録を達成。しかし13日目に琴奨菊に敗れた時に右手を負傷してしまう。このケガの影響で14日目に綱獲りを狙った鶴竜に寄り切られて2敗に後退、千秋楽では日馬富士と対戦し同体で取り直しとなるも敗れて3連敗となり、優勝を逃した。 5月場所では「8場所連続幕内中日勝ち越し」を達成し、史上単独1位の記録となった[103]。11日目に豪栄道に押し出される不覚でついに連勝ストップ。翌12日目の結びの一番(鶴竜-豪栄道)では、勝ち残りで東の土俵下に座っていた白鵬が、行司の判定に異議があるとして物言いをつけた。協議の結果、豪栄道がはたき込んだ際にまげをつかんだとして、鶴竜が反則勝ちを得た。幕内の取組で土俵下に控えていた力士が物言いをつけたのは、1996年1月場所の当時大関だった貴ノ浪以来18年ぶり[104]。14日目の新横綱・鶴竜戦でも危なげなく寄り切り、千秋楽結びの一番も日馬富士を豪快な上手投げで破り14勝1敗、2場所ぶり29回目の幕内優勝となった[105]。 7月場所は横綱在位42場所となり、朝青龍と並んで歴代8位タイの記録となる。同場所で「連続幕内中日勝ち越し」が9場所となり、自身の記録を更新。しかし11日目に豪栄道に浴びせ倒しで敗れ初黒星を喫した[106]。13日目も大関・稀勢の里に小手投げで敗れ2敗に後退。しかし千秋楽に日馬富士を上手出し投げで下し、13勝2敗で史上3人目の幕内優勝30回を達成した[107]。 9月場所は横綱在位43場所を迎え、朝青龍を抜き歴代単独8位の記録に。同場所も初日から8連勝、「連続幕内中日勝ち越し」が10場所となり、大相撲史上初の2桁記録を達成。9日目に全勝で単独トップに立ち[108]、その後12連勝としたが、13日目にここまで2連敗と苦手の豪栄道に敗れ初黒星を喫した[109]。これにより新入幕で同モンゴル出身の逸ノ城と1敗同士で並んだ。翌14日目にその逸ノ城と対戦(これにより大関・琴奨菊との取組が消滅)し、上手出し投げで破り再び単独トップに立つと[110]、千秋楽も横綱・鶴竜を掛け投げで破り、14勝1敗で千代の富士と並ぶ史上2位の通算31度目の幕内優勝を達成した[111]。 11月場所は6日目に髙安に敗れ、自身9個目の金星を許し2年ぶりに前半戦で1敗を喫した。その後は白星を並べ、7日目に大鵬と並ぶ872勝にならび、8日目の照ノ富士戦に勝利した時点で、史上1位となる8年連続8回目の年間最多勝を確定させる。13日目に単独トップに立ち、14日目の日馬富士戦で2年連続通算4回目の年間80勝を達成。千秋楽結びの一番にて鶴竜を寄り切りで下して4場所連続で、大鵬と同じ年間勝利数81勝で、そして大鵬の優勝回数に並ぶ32回目の優勝を果たした[112]。 2015年[編集]1月場所では初日に栃煌山を突き落としで破り、続く2日目にも栃ノ心を下手投げで負かし、危なげなく着実に白星を挙げていく。12連勝で迎えた13日目、10勝2敗で白鵬を追う大関の稀勢の里を押し倒しで破り、大鵬が保持していた幕内最高優勝記録である32回を上回る33回目の優勝。歴代1位となった[113]。この優勝は大鵬に続いて大相撲史上二人目の2回目の5連覇で13日目での優勝は2013年名古屋場所以来6度目で自身の最多記録を更新[114]。続く14日目、横綱日馬富士を破り、史上最速で幕内800勝を達成した。千秋楽には鶴竜を寄り切りで破り、9場所ぶり通算11度目の15戦全勝を果たし、大相撲史上初の各場所すべて全勝優勝(全6場所全勝制覇)を成し遂げた[115]。15日目の懸賞金では史上最多の61本(183万円)を獲得した。しかし後述の審判批判を行ったことで相撲協会から問題視され、世間からバッシングを受けることになった。 3月場所では初日の妙義龍戦は押し倒し、続く2日目の佐田の海戦では上手投げで勝利し、順当に星を積み重ねる。6日目の高安戦では引き落としで勝利し、自身5度目の30連勝を達成する。13日目に好調の関脇・照ノ富士に敗れたものの、14日目は苦手の稀勢の里、千秋楽は敗れれば照ノ富士と優勝決定戦という状況だった。自身の弟弟子の照ノ富士に援護射撃をしたい日馬富士戦では2分を超える大熱戦の上勝利し、34回目の優勝を果たした他、自身2度目の6連覇を果たした。 史上初の2度目の7連覇を狙った5月場所では初日でいきなり逸ノ城に敗れ、2012年5月場所以来3年ぶりとなる初日黒星スタートで波乱の幕開けとなった[116]。しかし、2日目以降は宝富士を寄り切りで破り、翌3日目も栃ノ心に寄り切りで勝利し、着実に白星を重ねていった。5日目には栃煌山を上手投げで破り、横綱在位中の勝ち星が626となり、千代の富士を抜いて歴代単独2位となった[117]。しかし、12日目以降は精彩を欠き、12日目は直近1年の対戦成績が3勝3敗と苦手にしている豪栄道に土俵際の首投げで敗れ、2014年7月場所以来6場所ぶりの2敗となった[118]。14日目には稀勢の里に土俵際の突き落としで敗れ、2014年3月場所以来約1年ぶりの3敗となった[119]。優勝争いのトップとなる3敗が白鵬・照ノ富士の2人、4敗が6人と大混戦で迎えた千秋楽、照ノ富士が敗れて白鵬が勝てば前人未到となる自身2度目の7連覇だったが、照ノ富士が碧山に勝利し、「白鵬が日馬富士に勝てば照ノ富士と優勝決定戦」となった。自身2度目の7連覇を狙って挑んだ照ノ富士の兄弟子の日馬富士戦は寄り倒しで敗れ、惜しくも優勝はならなかった[120]。この場所は11勝4敗で取り終え、2012年7月場所から続いた連続12勝以上勝利記録は17場所で途切れた。白鵬が4敗以上するのは2012年5月場所以来3年ぶりであった。 7月場所では9日目の逸ノ城との対戦に勝利して初日から9連勝を記録。しかし、勝負が決まった後に逸ノ城に対して右手で顎にアッパーをしたことで、土俵下で審判長を務めた藤島審判部副部長から「見苦しい? 見苦しいでしょう。相手が(土俵を)出ていないと思って行ったのならダメ押しじゃないけど、出てると思って(やったの)ならダメ押しでしょう。一番、番付が上なのだから、見本になるような立ち居振る舞いをしてもらいたい」と苦言を受けた[121]。翌日は栃煌山に叩き込みで敗れるもこの1敗を守り、今場所は14勝1敗で2場所ぶりに35度目の優勝を果たした[122]。 9月場所は初日に小結隠岐の海、2日目に前頭筆頭嘉風と、過去に一度も負けたことのない相手に2日続けて敗れた。嘉風に敗れたことで自身10個目の金星配給となり、白鵬が小結時代の2005年11月場所以来、また横綱になって初めての連敗スタートとなった。場所前の稽古で左膝を痛めており、「左大腿四頭筋腱炎で4週間の加療を要する見込み」との診断書を提出し、3日目から横綱昇進後初の休場となった。これにより昭和以降1位の幕内連続勝ち越し、連続2桁勝利記録はともに51場所でストップ、史上1位の横綱としての連続出場記録は722回で途切れることになった[123]。 横綱昇進後初の休場明け場所となった11月場所は初日から12連勝と好調で、9年連続の年間最多勝を獲得した。13日目に1敗で追っていた日馬富士に敗れた後は照ノ富士と鶴竜に相次いで敗れ失速し、2014年春場所以来となる終盤3連敗で日馬富士に優勝をさらわれ、場所を終えた。白鵬が西横綱の地位で優勝を逃したのは2008年夏場所以来のことで、また2場所連続で優勝を逃したのは2012年5・7・9月までの3場所連続以来のことである。 2016年[編集]2016年1月場所は大関・琴奨菊と共に初日から10連勝、5日目の碧山戦で北の湖と並ぶ通算951勝(史上4位タイ)となり、6日目の栃ノ心戦で歴代単独4位となる通算952勝目に。しかし11日目の琴奨菊戦で押し出されてついに初黒星。さらに14日目の稀勢の里戦でも押し出されて2敗に。この敗戦で通算200敗目を喫した。千秋楽結びの一番の日馬富士戦でも呆気無く上手投げに敗れ3敗。結局幕内優勝は、日本出身力士として大関・琴奨菊が栃東以来10年ぶりに達成した事により、白鵬は横綱昇進後2度目の3場所連続して優勝を逃す格好となった。 |
年表[編集]
主な成績[編集]2016年1月場所終了現在 連勝記録[編集]
通算成績[編集]
各段在位場所数[編集]
各段優勝[編集]
三賞・金星[編集]
場所別成績[編集]2015年11月場所終了現在
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人物・エピソード[編集]
土俵上の記録・合い口[編集]
その他相撲関連[編集]
土俵外の出来事・交友関係[編集]
身体・生活習慣[編集]
審判批判問題[編集]
著書[編集]
写真集[編集]
脚注[編集]
関連項目[編集]外部リンク[編集]
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(私論.私見)