双葉山 定次


 (最新見直し2015.11.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「双葉山 定次」を確認しておく。「」、「双葉山定次■不滅の69連勝、相撲道を極めた大横綱」その他を参照する。

 2015.11.30日 れんだいこ拝


 双葉山 定次(ふたばやま・さだじ)
 本名・穐吉 定次。明治45年2月9日生。大分県出身。昭和13年1月横綱昇進、最高位・横綱。20年11月引退。優勝12回。179センチ、134キロ。昭和43(1968)年12月16日。身長179cm、体重130kg。
 双葉山定次は史上1位の69連勝、ほかに5場所連続全勝優勝、全勝8回、年2場所時代の優勝12回などを記録した昭和の大横綱であり古今屈指の強豪である。立ち合いの変化、待ったをせず、相手が立てばいつでも立ち、その相撲に取り組む厳しい姿勢は求道者を思わせたとする伝説となっている。力水を1度しかつけないのも双葉山から始まったといわれる。その強さは「双葉の前に双葉なく、双葉の後に双葉なし」といわれ、双葉山が得意の左上手を取ると観客は安心して帰っていったと云う。 双葉山は単独での一時代を築いた点では太刀山以来の強豪だったといえる。
 双葉の前に双葉なく、双葉の後に双葉なし。ご存じ、69連勝の大横綱だ。大相撲の史上最多連勝記録である69連勝中に5連覇を達成し、その間に番付は関脇から横綱になった。昭和14年春場所4日目に安芸ノ海に連勝を止められたときには、新聞の号外が街に飛び交った。

 身体に障害があった。右目を失明し、右手小指の先が欠けていた。幼少時に吹き矢で目を射られ、碇(いかり)の巻き上げ機に指を切断された。ハンディキャップは心眼でカバー。生涯1度も“待った”をせず、1回目の仕切りで突っかけてきた龍王山も即座に組み止め、上手投げでたたきつけた。

 『木鶏(もっけい)』の境地を目指した。木彫りの鶏のように不動の心を持てば、無敵だ。敗れたときには「いまだ木鶏たりえず」「信念の歯車が狂った」などの言葉を残して、滝に打たれて修行し直した。アスリートの枠を超えた求道者だった。

 神仏に傾倒するがゆえに、引退後には新興宗教・璽宇(じう)教への入信騒動で世間を騒がせた。昭和22年、天変地異が起きると称して金品を受け取る詐欺行為で教団が摘発されたとき、洗脳されていた双葉山は警官隊約30人と乱闘し生け捕りとなった。洗脳が解け、のちに日本相撲協会理事長となって部屋別総当たり制を導入するなどの改革を実行した。

 右四つの型は古今最高といわれ、観客は双葉山が左上手を取った瞬間、“勝負あった”と帰り支度を始めた。人気力士の大邱山などは「どうせ負けるのだから、けがをしたら損」と、わざと負けるありさま。その心技体は他を圧倒した。


 双葉山履歴
 少年時代は成績優秀、父の事業の失敗、母や兄(双葉山は次男)、姉の死もあり、船に乗り家業であった海運業を手伝っていたといわれます。後の大横綱も元々は相撲に特に関心はなかった。。しかし村相撲に出場させられて大人を破り、評判となり、県警の双見喜一部長の働きかけで立浪部屋の入門する。四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」の故事と世話になった双見氏の名に因みます。

 1927(昭和2)年3月、初土俵を踏む。大きく勝ち越すわけでもなければ負け越しもなく(4勝2敗が多く、3勝3敗は何度かあり)昇進して行く。

 1931(昭和6)年5月、19歳3ヶ月で新十両に昇進。年寄・春日野(栃木山)から「誰とやっても少しだけ強い」と評されている。

 1932(昭和7)年1月に起きた春秋園事件で関取が大量脱退したため、1月の本場所は中止となり、2月に開かれた本場所では双葉山は繰り上げ入幕する。正攻法過ぎる相撲と力がつく前の繰り上げ入幕で、上位にはさすがに通用しなかった。攻め込まれての逆転の「打棄り」が多く「打棄り双葉」といわれ、「相撲が消極的」との声もあった。しかし攻め込むだけの「攻撃力」がまだ備わっていないために、結果的に攻め込まれており、父の手伝いで船に乗って鍛えた足腰の強さと粘り強さが「打棄り」につながったと思われる。当時の第一人者の玉錦は「双葉の相撲はあれで良いのだ、今に力をつければ欠点が欠点でなくなる」と評価していた。この評価は、後に双葉山が強烈な足腰を攻撃に活かせるようになり正しかったことが証明される。玉錦はある程度評価していたものの、この時期の双葉山は何度か負け越しも経験しており、苦闘の相撲であった。~昭和10(1935)年1月は新小結で4勝6敗1分、5月は前頭筆頭で4勝7敗と連続負け越し~しかしこの年に蓄膿症の手術し、体重が増すと攻撃力も増し、右四つ左上手の型を身につけていきます。

 1936(昭和11).1月、前頭3枚目で9勝2敗の好成績、6日目の玉錦に敗れた翌日の7日目から69連勝がスタートする。5月場所には関脇で11戦全勝で初優勝、9日目には玉錦にも初めて勝つ。以後、玉錦が現役死するまで本場所で双葉山が玉錦に敗れることはなかった。この場所の9日目の双葉山が玉錦に初勝利した一番は、「王者交代」の幕開けと語られることになる。以後、初優勝を含め5場所連続全勝優勝、その間連勝も積み重ね、関脇1場所、大関2場所で横綱に昇進する。

 ~双葉山人気で連勝中の昭和12(1937)年5月には場所の取り組みが11日から13日に、連勝がストップした後の昭和14(1939)年5月には13日から現在と同じ15日に増えている。~昭和13(1938)年5月の場所中に江戸時代の大横綱・谷風梶之助の持つ史上1位の連勝記録である63連勝(分け・預かりなどを含む)を約150年ぶりに塗り替える。その翌場所となる昭和14(1939)年1月4日目、連勝を69にまで積み重ねた双葉山は、出羽海部屋の新鋭・安藝ノ海節男と対戦する。安藝ノ海は本場所で初顔合わせの相手であり、場所前巡業での稽古では体調不良を理由に手合わせを断った(その夜に入院、盲腸ともいわれている)ことで、「未知の対戦相手」だった。(双葉山は場所前に対戦しそうな相手と稽古をし、自身の強さを相手にイメージさせるとともに、相手の徹底研究をしたといわれる)さらに双葉山は場所前にアメーバ赤痢のため体重が激減して体調不良・・・休場も考えたといわれますが、場所の1ヶ月前に玉錦が現役死したこともあり、責任感の強い双葉山は強行出場することになります。双葉山が連勝がついにストップしたこの一番は・・・立ち合いで双葉山の右の食らいつき、頭をつけた安藝ノ海に対し、双葉山は自分の組み手の右四つながら、両まわしとも取れない窮屈な体勢・・・誘いの右掬い投げを2度ほど打つも安藝ノ海は食らいついたまま・・・双葉山が3度目の右掬い投げを放った瞬間、安藝ノ海の左外掛けが双葉山の右足を捕らえ、双葉山は崩れるように倒れかけた。「二枚腰」といわれた強靭な足腰の双葉山は、体勢を崩しながらも1度堪えた後で、安藝ノ海の体勢を浮かして外掛けを外して右掬い投げを再度打ちにいっており、安藝ノ海の体勢が右に傾きながら双葉山とともに倒れている。そのため遠目には右外掛けを掛けたように見え、翌日の各新聞にも「右外掛け」と誤って報じられたという。双葉山の勝負への「執念」と驚異的な「足腰の強さ」を示すエピソードである。この双葉山の連勝ストップは号外も出たという。

 安藝ノ海の所属する出羽海一門にとって当時連勝中だった双葉山の打倒は悲願であり、笠置山を作戦参謀に、「打倒・双葉山」の研究と稽古をしていた。特に作戦参謀の笠置山は、当時は珍しい学士力士(早稲田大学卒業)であり、雑誌「改造」にその研究内容を「横綱双葉山論」として発表している。双葉山は幼い頃に友人の吹き矢が右目に当たり、ほとんど右目が見えなかったといわれる。(さらにいえば巻上げ機械で右手小指も失っている) 双葉山の右目がほとんど見えなかったのは、親と親方夫婦以外には知られていなかったが、笠置山は、研究の中で双葉山の取り組みを分析し、双葉山の右目の状態を認識していたといわれる。作戦も双葉山の(死角となる)右を中心の攻めることだったそうである。安藝ノ海の殊勲の勝利は、作戦通りとなり、出羽一門の悲願が成就した瞬間でもあった。安藝ノ海は、殊勲の報告の後で、師匠の出羽海や藤島から「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」といわれたという。(どちらか一方からの言葉であるとの説もあり)双葉山は連勝ストップにも普段通りに一礼し、支度部屋へ引き上げたという。

 双葉山はこの夜、師と仰ぐ安岡正篤に「ワレイマダモッケイタリエズ、フタバ」(我未だ木鶏たりえず、双葉)と打電したといわれる。(双葉山の言葉を友人が安岡に取り次いだともいわれ、双葉山本人は友人に宛てた打電を友人が安岡に取り次いだと著書で証言)(ちなみに「木鶏」は中国の古典「荘子」が出典で、双葉山は勝負師としての理想をこの中で語られる「雑念のない」木鶏の境地に求めました)この夜は前から決まっていた大分県人会主催の激励会もあったが、普段と変わらぬ態度で出席し、列席者は感銘を受けたという。双葉山は翌日以降も5日目、6日目と敗れ3連敗、9日目にも敗れてこの場所は4敗している。
 昭和の角聖こと、第35代横綱双葉山(時津風定次)が書いた1冊「横綱の品格」(ベースボール・マガジン社新書)。1956年に発売された「相撲求道録」(黎明書房)に加筆、修正されたもので、双葉山が考える横綱としての心得がつづられている。この本には双葉山の生い立ちから、横綱としての稽古、心得などがまとめられている。双葉山は幼い頃に友人の吹き矢が当たり、右目がほとんど見えず、機械に手を巻き込まれ右手小指を失うハンデもありながら、「立ち合いの変化、待ったをせず、相手が立てばいつでも受けて立つ」という横綱相撲を貫いた。相手より一呼吸遅れて立つ“後の先(ごのせん)”を磨いて69連勝を達成した。この本の中で横綱の振る舞いの基本として紹介されているのが『木鶏(もっけい)』の話だ。中国の古典に出てくる寓話で、むかし闘鶏飼いの名人は、鶏は空威張りをしたり、興奮したり、相手を見下すうちは駄目で、木で彫った鶏のように、いかなる敵にも無心で立ち向かえるようになって初めて最強の域に達したと認めた-という内容だ。双葉山が1939(昭和14)年初場所4日目に安藝ノ海に敗れ70連勝を逃した際、知人に「イマダ モッケイタリエズ フタバ」と電報を打ったのは有名な話だ。
=双葉山の69連勝中の星取表=====
(黄色の囲いは玉錦戦、桃色の囲いは安藝ノ海戦)

昭和11(1936)年1月(東前頭3枚目 9勝2敗)<69連勝が玉錦に敗れた6日目の翌日よりスタート>

昭和11(1936)年5月(東関脇・優勝 11戦全勝)<全勝で初優勝、双葉山は9日目に初めて玉錦に勝つ>

昭和12(1937)年1月(東大関・優勝 11戦全勝)<全勝で2連覇>

昭和12(1937)年5月(東大関・優勝 13戦全勝)<全勝で3連覇>

昭和13(1938)年1月(西横綱・優勝 13戦全勝)<全勝で4連覇>

昭和13(1938)年5月(東横綱・優勝 13戦全勝)<全勝で5連覇>

昭和14(1939)年1月(東横綱 9勝4敗)<4日目に安藝ノ海に敗れ連勝が69でストップ>

 翌場所の昭和14(1939)年5月は、先場所の不調(連敗ストップと9勝4敗)の影響が心配されましたが、15日となった最初のこの場所を15戦全勝で飾り、復活を果たします。(翌場所も14勝1敗で優勝、29連勝を記録)昭和15(1940)年5月に4敗(この後不戦敗も含め5敗)を喫し、「信念の歯車が狂った」と突如引退を表明しますが、周囲の説得で撤回し、途中休場、滝に打たれて再起を図り、復活します。昭和17(1942)年1月から昭和18年5月にかけて4場所連続優勝、昭和17(1942年)5月千秋楽から昭和19(1944)年1月5日目にかけて36連勝をしています。人によってはこの時期の双葉山が最も強く充実していたとの証言もあります。

=4連覇、36連勝中の双葉山の星取表====
(桃色の囲いは安藝ノ海戦、空色の囲いは照国戦)

昭和17(1942)年1月(東横綱・優勝 14勝1敗)<9回目の優勝>

昭和17(1942)年5月(東横綱・優勝 13勝2敗)<2連覇、10回目の優勝>

昭和18(1943)年1月(西横綱・優勝 15戦全勝)<3連覇、11回目の優勝、全勝>

昭和18(1943)年5月(東横綱・優勝 15戦全勝)<4連覇、12回目にして最後の優勝、全勝>

昭和19(1944)年1月(西横綱 11勝4敗)<6日目に松ノ里に敗れ連勝が36でストップ>

 昭和19(1944)年11月6日目に下位の頃から目をかけていた東冨士に敗れたことにより、引退を決意したといわれ、この時は周囲の説得で撤回しましたが、翌日の増位山戦が不戦敗となり休場します。翌場所の昭和20(1945)年6月初日に相模川を破り休場、休場届が割りが組まれる前だったのでこの場所の成績は1勝6休となりました。さらに翌場所の同年11月を全休(10休)して引退しています。

■幕内通算成績
場所 番付 成績 星取表 優勝 備考
昭和7(1932)年2月 西前4 5勝3敗 ○○○○●○●●    
昭和7(1932)年3月 西前4 8勝2敗 ○○●○●○○○○○    
昭和7(1932)年5月 東前2 6勝5敗 ○●●●●●○○○○○    
昭和7(1932)年10月 東前2 11休 休休休休休休休休休休休    
昭和8(1933)年1月 東前5 9勝2敗 ○○○○●○○○○●○    
昭和8(1933)年5月 東前2 4勝7敗 ○●●●●●○●●○○    
昭和9(1934)年1月 西前4 6勝5敗 ●●○●○○○○●○●    
昭和9(1934)年5月 西前1 6勝5敗 ●●○●○●○○●○○    
昭和10(1935)年1月 東小結 4勝6敗1分 ○●●分●●○○○●●    
昭和10(1935)年5月 東前1 4勝7敗 ●●○●○●○●●○●    
昭和11(1936)年1月 東前3 9勝2敗 ●○○○○●○○○○○    
昭和11(1936)年5月 西関脇 11勝 ○○○○○○○○○○○  
昭和12(1937)年1月 東大関 11勝 ○○○○○○○○○○○  
昭和12(1937)年5月 東大関 13勝 ○○○○○○○○○○○○○  
昭和13(1938)年1月 西横綱 13勝 ○○○○○○○○○○○○○  
昭和13(1938)年5月 東横綱 13勝 ○○○○○○○○○○○○○  
昭和14(1939)年1月 東横綱 9勝4敗 ○○○●●●○○●○○○○    
昭和14(1939)年5月 東横綱 15勝 ○○○○○○○○○○○○○○○  
昭和15(1940)年1月 東横綱 14勝1敗 ○○○○○○○○○○●○○○○  
昭和15(1940)年5月 東横綱 7勝5敗3休 ○●○○○●○○○●●■休休休    
昭和16(1941)年1月 西横綱 14勝1敗 ○○○○○○○○○○○○●○○  
昭和16(1941)年5月 西横綱 13勝2敗 ○○○○○○○●○●○○○○○    
昭和17(1942)年1月 東横綱 14勝1敗 ○○○○●○○○○○○○○○○  
昭和17(1942)年5月 東横綱 13勝2敗 ○○○○○○○○○○○●○●○ 10  
昭和18(1943)年1月 西横綱 15勝 ○○○○○○○○○○○○○○□ 11  
昭和18(1943)年5月 東横綱 15勝 ○○○○○○○○○○○○○○○ 12  
昭和19(1944)年1月 西横綱 11勝4敗 ○○○○□●○○○○●●○○●    
昭和19(1944)年5月 東張横 9勝1敗 ○○○○○○○○●○    
昭和19(1944)年11月 東張横 4勝3敗3休 ●○○○○●■休休休    
昭和20(1945)年6月 西張横 1勝6休 ○休休休休休休    
昭和20(1945)年11月 西張横 10休 休休休休休休休休休休    
 幕内通算成績 31場所 276勝68敗1分33休、勝率8割0分2厘、優勝12回

 成績と記録
 幕内通算成績 276勝68敗1分33休 勝率8割0分2厘 31場所で優勝12回
 横綱在位成績 180勝24敗22休 勝率8割8分2厘 17場所で優勝9回

 連勝~69~史上1位。双葉山の69連勝を上回る力士は今後現れないともいわれている。

 連続全勝優勝~5~史上1位。この記録も69連勝同様におそらく破られないでしょう。なぜなら記録達成には現行の1場所15日制だと少なくとも75連勝が必要になるからです。

 全勝~8回~史上2位タイ。この記録は年6場所時代になって大鵬幸喜が並んだに過ぎません。ちなみに史上1位は白鵬です。

 優勝~12回~年2場所時代では4位。年2場所時代に双葉山を上回るのは雷電為右エ門(28)、谷風梶之助(21)、柏戸利助(16)で、上位3力士が優勝制度制定以前の記録であるのに対し、双葉山の記録は年2場所時代で優勝制度制定以降では1位の記録です(厳密に言えば雷電、谷風、柏戸は優勝相当です)

 横綱在位勝率~8割8分2厘~昭和以降では1位。昭和以降で9割近い勝率は驚異的だと思います。

 ▼「勝つ相撲」と「負けない相撲」の折衷型

 双葉山は立ち合いに待ったをせず、必ず受ける点では「負けない相撲」といえますが、「後の先」で自分の相撲を取る点では「勝つ相撲」ともいえます。初期の「打棄り双葉」といわれた時代は、受け身の相撲にならざるをえなかったようですが、後に実力の充実により常に自分から攻め、右四つ左上手の絶対的な型を完成させました。双葉山の相撲のタイプ(「勝つ相撲」と「負けない相撲」の折衷型)こそ理想なのではと考えます。

 ▼エピソード

 双葉山は現役時代に横綱になった頃、梅ヶ谷の襲名の打診を断り、年寄としても時津風ではなく由緒のある雷への改名を打診されるがいずれも断っています。一門の親方の縁者や花柳界の者を妻することが一般的だった当時の相撲界において双葉山は一般女性と結婚しています。師匠の娘を師匠自ら紹介されるも断り、その娘は弟弟子の羽黒山と結婚、羽黒山が立浪部屋を継ぎます。

・昭和15年(1940)年1月8日目、双葉山の立ち合いに待ったをせず、相手が立てばいつでも立つことを利用して竜王山が1回目の仕切りで立つ奇襲を見せますが、あっという間に敗れています。竜王山は双葉山には「小細工」は通用しないと感嘆したといわれます。

・双葉山の強さを支えた相手に合わせて「後」から立ちながら「先」に自分の有利な体勢になる「後の先」はある意味で武道の極意の1つといえるかもしれません。

・力士が力水を1度しかつけないのは双葉山に始まったといわれています。

・双葉山の連勝の始まりから引退までは日中戦争や太平洋戦争と重なっており、この間に69連勝を始め相撲界に君臨した双葉山は国民的英雄といえました


・横綱・若乃花(初代)が時津風(双葉山)理事長に力士の給料アップを直訴した時に「相撲界にはいつから労働組合が出来たんだ」と一喝され、そのまま引き下がったことがあります

・昭和35(1960)年、相撲協会の財団法人化35周年式典が行なわれた際に理事長として挨拶状を読み上げることになっていましたが、当日挨拶状を渡す秀ノ山(笠置山)が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻りました。時津風は秀ノ山が戻るまでの間土俵上で直立不動、当初失笑が洩れていた館内はやがて静まり、拍手の渦となりました。中には涙をこぼす者もあったということです。

 ▼ライバル

 双葉山のライバルとしては双葉山が充実する前に「壁」となっていた玉錦三右エ門、双葉山の連勝を69でストップさせた安藝ノ海節男、双葉山の晩年の強敵となった照國万蔵、激しい相撲で対決が沸いた前田山英五郎、さらには玉錦と同じく双葉山の充実する前に「壁」となっていた武蔵山武、男女ノ川登三、双葉山最後の敗戦相手となった東富士欽壹を挙げました。
(対戦成績は双葉山から見たものです)

 玉錦三右エ門
 高知県出身、身長173cm、体重135kg
 幕内通算成績 38場所 308勝92敗3分17休 勝率7割7分0厘 優勝9回
 最高位・横綱

 体格にも素質にも恵まれておらず、小部屋の悲哀も味あいながら、抜群の稽古量で強くなっていきました。猛稽古により包帯と膏薬だらけの姿から「ボロ錦」といわれ、喧嘩好き、親分肌の性格で「ケンカ玉」「ゴロ玉」などのニックネームもあります。まだ初土俵を踏む前の頃、太刀山が「儂を背負って土俵を一周したら米1俵やるぞ」と言ったのを聞きつけ、最初の挑戦では失敗したものの、2度目の挑戦で成功したエピソードは負けん気の強さを示すものです。角界の第一人者として双葉山が台頭するまで一時代を築きました。しかし負けん気の強さが災いし、虫垂炎の処置が遅れて現役死したのは惜しまれます。二枚鑑札で、二所ノ関部屋及びその一門を大部屋、大一門に育てた功績も大きいといえます。双葉山にとっては「壁」となっていた玉錦・・・双葉山の69連勝は、玉錦に最後に敗れた翌日からスタートしました。両者の白星と黒星が前半と後半でくっきり分かれた対戦成績は、明確な王者交代を象徴しているといわれます。対戦成績 4勝6敗●●●●●●○○○○。

 安藝ノ海節男
 広島県出身、身長177cm、体重128kg
 幕内通算成績 18場所 142勝59敗38休 勝率7割0分6厘 優勝1回
 最高位・横綱

 平幕時代に双葉山の連勝記録を69でストップさせ名を上げました。その際に師匠の出羽海、入門時に世話になった藤島から「勝って褒められるより、負けて騒がれる力士になれ」といわれたとされています(諸説あり)。その後は2度と双葉山に勝てませんでしたが善戦し、自身も努力し横綱に昇進しました。対戦成績 1勝9敗 ●○○○○○○□○○。

 照國万蔵
 秋田県出身、身長173cm、体重161kg
 幕内通算成績 32場所 271勝91敗74休 勝率7割4分9厘 優勝2回
 最高位・横綱

 入門からわずか3場所で関脇、7場所で大関、9場所で横綱になり、当時の最年少横綱昇進記録を作りました。全盛期にはアンコ型の色白の博多人形のような体に紅がさす様子とリズミカルな取り口から「桜色の音楽」と形容されました。アンコ型ながら低い姿勢で前に落ちない天才型で、双葉山にも2勝3敗と勝ち越しています。双葉山が対戦成績で負け越したのは、上昇期以前の第一人者であった玉錦と横綱になってからは休場が多かった武蔵山、晩年の双葉山に1度だけ対決して勝った東富士などを除けば照国だけで、晩年であったとはいえ双葉山が横綱時代に3敗したのも照国のみです。優勝2回の成績以上に強さを感じる横綱だったといえます。対戦成績 2勝3敗●○○●●。

 前田山英五郎
 愛媛県出身、身長181cm、体重120kg
 幕内通算成績 26場所 206勝104敗39休 勝率6割6分5厘 優勝1回
 最高位・横綱

 巡業中にプロレス入りする前の力道山ともめて、力道山を張り手一発で倒した逸話を持ちます。途中休場した場所中にサンフランシスコ・シールズと巨人の試合を観戦し問題になり、それがもとで責任をとり引退に追い込まれます。引退後は年寄・高砂として角界に貢献、横綱・朝潮や外国人初の関取となった高見山などを育てました。双葉山と前田山は下位の頃から激しい稽古をしていた間柄で、本場所でも対戦も激しかったといわれます。対戦成績 7勝1敗○○○○○○●○。

 武蔵山武
 神奈川県出身、身長185cm、体重116kg
 幕内通算成績 28場所 174勝69敗2分71休 勝率7割1分6厘 優勝1回
 最高位・横綱

 当時の力士としては長身(185cm)で、同じ長身(191cm)の朝潮(後の男女ノ川)ととも将来を期待されました。しかし玉錦が壁となり、さらに右肘を故障し、横綱にはなったものの苦闘の土俵でした。右腕が強力だっただけに右肘の故障はあまりにも痛かったし惜しまれます。横綱時代は休場が多く対戦成績が双葉山の上昇期以前に集中しているため、双葉山に対戦成績で勝ち越した数少ない力士です。対戦成績 2勝4敗1分 ●●●分●○○

 男女ノ川登三
 茨城県出身、身長191cm、体重146kg
 幕内通算成績 35場所 247勝136敗1分33休、勝率6割4分5厘、優勝2回
 最高位・横綱

 武蔵山とともに将来を期待されるが、春秋園事件で脱退、その後に帰参するが、帰参時に番付外のいわゆる「別席」となり、その場所に全勝で初優勝します。帰参後は「儂が一番強い」と豪語し、双葉山が横綱になると「双葉山を強くしたのは儂だ」といったといわれます。言い過ぎの感もありますが、双葉山が充実するまでは確かに玉錦や武蔵山とともに「壁」になっていたことも事実ではあります。奇行でも知られ、ダットサンを運転して場所入りし、燃料規制で運転できなくなると、自転車に切り替えました。さらに引退後は、理事にまでなりながら、突如廃業し、衆議院選に出馬(落選)しています。サラリーマンや探偵をしたこともありましたが、探偵は長身のため尾行時に目立ってしまったようです。不遇な晩年でしたが、最晩年は料亭で下足番をしていたということです。料亭の経営者がファンだったといわれます。対戦成績 10勝5敗 ●●●●●○○○○○○○○○○

 東富士欽壹
 東京都出身、身長179cm、体重160kg
 幕内通算成績 31場所 261勝104敗2分54休 勝率7割1分5厘 優勝6回
 最高位・横綱

 江戸っ子らしいあっさりとした性格が災いしてか連続優勝や全勝はなかったが「怒涛の寄り」と形容された取り口は迫力がありました。引退後は高砂一門内の揉め事に巻き込まれ、それを嫌い角界を去り、プロレス入りしました。双葉山が本場所の土俵での対決で最後に敗れたのが東富士(当時は東冨士)でした。双葉山は東富士に目をかけて、よく稽古をつけていたといわれ、最初にして最後の本場所の対決で東富士は「恩返し」をしたことになります。この敗戦が双葉山引退の決意のきっかけだったといわれます。対戦成績 1敗●

 双葉山の名言
 双葉山の代表的な名言。
 「われいまだ木鶏たりえず」
 「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」。
 「相撲は体で覚えて心で悟れ」。
 「一日に十分間だけ精神を集中させることは誰にでも出来るはずだ」
 「勝負師は寡黙であれ」
 「待ったをしないのは余計な動きをせず『後の先』を取るため」

 現役引退後
 現役時代から実績を評価され、現役力士ながら弟子の育成を許され福岡県で「双葉山道場」を開いていたが、引退後は年寄・時津風を襲名する。昭和22(1947)年1月、新興宗教・璽宇教の教祖とともに警察に逮捕される事件が起こる。(璽宇教が世間の不安を煽っているとなどを理由として警察が教祖に出頭を求めたものの幹部を代わり出頭させ、教祖が逃亡を図ったため警察が璽宇教の本部を強襲した事件で、この時双葉山は信者に交じって抵抗し、特に双葉山は大暴れしたため教祖とともに逮捕されている)日蓮宗を信仰していたといわれる双葉山が璽宇教に帰依したのは今もってはっきりした理由は謎で、双葉山の求道的で一途な性格が裏目に出たとされている。その後友人の新聞記者の説得で双葉山は我に返ったといわれている。昭和32(1957)年5月に出羽海(常ノ花)理事長自殺未遂の後を受けて理事長に就任する。秀ノ山(笠置山)、武蔵川(出羽ノ花)らを参謀に、外部ではかつての盟友でNHK相撲解説の玉の海の意見にも耳を傾け、部屋別総当り制、相撲協会構成員の65歳定年制、相撲茶屋の再編と法人化などの改革を断行した。年寄・時津風としては1横綱(鏡里)、3大関(大内山、北葉山、豊山)などを育てた。昭和43(1968)年12月16日死去。享年56。死の直前に東大病院に入院する際は死に装束を模した白いスーツで向かったと伝えられている。




(私論.私見)

双葉山

70連勝に届かなかったときに打った電報。意味は「私はまだ木彫りの鶏のように無心の境地に至れなかった。」。木鶏(もっけい)とは中国の古典『荘子』からの引用で、木彫りの鶏のこと。

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発言者 双葉山について

双葉山のプロフィールを紹介します。

双葉山