代数 |
名前
(現役名、最高位) |
理事長在位期間/備考 |
初代 |
広瀬正徳 |
1928年1月7日~1938年 9月27日
陸軍主計中将。死去 |
|
空位 |
1938年9月28日~1944年 2月29日) |
2代 |
藤島秀光
(常ノ花寛市、第31代横綱) |
1944年 3月 1日~1957年5月6日 後に出羽海に名跡変更。辞任 |
|
理事15名、年寄・検査役制を廃し、新たに全年寄+力士・行事代表各2名づつの公選による 理事選出制
度を採用。公選初代理事長として時津風(元横綱・双葉山)を再任した。 |
3代 |
時津風定次
(双葉山/定次、第35代横綱) |
1957年 5月 7日~1968年12月16日
公選初代理事長。死去。 |
|
時津風理事長の逝去により、出羽海(元横綱・常の花)、時津風の2代理事長体制を支えた出羽海(元前頭
・出羽の花)が理事長に就任。平幕出身理事長は空前絶後。理事長就任に伴い部屋経営は養子縁組した
武蔵川(元横綱・佐田の山)に譲り名跡を交替。双葉山逝去後の時津風も立田川(元横綱・鏡里)の一旦継承
等二転三転の末、当初予定通り大関・豊山の継承に落ち着き、 一門総帥として31歳での理事就任となった
。 |
4代 |
武蔵川喜偉
(出羽ノ花國市、前頭筆頭) |
1968年12月17日~1974年1月31日 理事長就任前に出羽海から武蔵川に名跡変更。定年 |
|
武蔵川政権2期目。兼務していたナンバー2ポストの事業部長を春日野(栃錦)に譲り、次期理事長候補を
対外的に明確化した。 |
|
武蔵川が定年に。二所ヶ関(佐賀ノ花)主導で立伊連合の伊勢ヶ濱(元横綱・照國)擁立があったが 順当に
春日野が理事長ポストを承継。前武蔵川は相談役として留まり、出羽支配が強化された。事業部長ポスト
は二所一門ながら出羽に近い花籠(元前頭・大ノ海)に。 |
|
反出羽の頭目・二所ヶ関(佐賀ノ花)の逝去で後任は大鵬(元横綱・大鵬)との一門内の激しい 争いの末、
二子山(元横綱・若の花)が就任。二所一門の2ポストとも阿佐ヶ谷系が占め、二子山は直ちに ナンバー3
の巡業部長に就任した。 |
|
立伊連合の伊勢ヶ濱、宮城野(元横綱・吉葉山)が逝去し、一方は順当に伊勢ヶ濱(元大関・清 國)が継い
だが、 もう一ポストは一門内で出羽に近いとされ監事ポストを差し替えられたこともある武隈(元関脇・北
の洋)に。 立浪(元関脇・安念山改メ羽黒山)とともに一部屋から二人の理事輩出となったが、一門理事から
元横綱が消えたのは痛手だろう。また病身の立田川に代わり理事に昇格した伊勢ノ海(元平幕・藤ノ川改メ
柏戸)の後任監事ポ ストを時津一門でなく、 二所一門本家筋の片男波(元関脇・玉乃海)が入り、阿佐ヶ谷
系とのバランスを取る形とした。 |
5代 |
春日野清隆
(栃錦/清隆、第44代横綱) |
1974年 2月 1日~1988年1月31日 二子山が理事長代理。退任。 |
|
定年の花籠に代わり二所本家筋から大鵬が昇格。代わって二子山が事業部長に、出羽海が巡 業部長
に順当に昇格。 |
|
立伊連合に代わり高砂一門が2枠に拡大、以降98年の大乱まで5一門2ポストの派閥均衡内 閣が続く。
これまで格は高いが執行部として運営にはタッチ出来ない審判部長を実に5期10年勤めた高 砂(元横綱・
朝潮)が巡業部長に昇格した。また大鵬に続き鏡山(元横綱・柏戸)が入閣、柏鵬揃い踏みとなった。 |
|
勇退と見られた春日野が新国技館柿落としまで政権を続けることとなり理事長七選。二子山 を新設の「
理事長代理」に遇し、 協会運営は二子山、対外交渉が春日野の実質的な総総分離体制となった。九重(元
横綱・北ノ富士)が入閣してはみ出した春日山(元前頭・大昇)は監事に回り、又もや 立伊連合枠を侵食する
こととなった。 |
6代 |
二子山勝治
(若乃花/幹士、第45代横綱) |
1988年 2月 1日~1992年1月31日
定年。 |
|
「遅過ぎたプリンス」二子山が理事長就任、「土俵の充実」をモットにー掲げたが「人間辛抱だ」の方が有
名。事業部長は次期理事長として出羽ノ海に。春日野は定年前に理事を離れ、後に春日野を継ぐ中立(元
横綱・栃ノ海)に交替し、 中立の監事後任として北の湖が早くも登場。出羽は監事→理事の昇格システム
が旨く機能して いる。一門の結束の強さの証明か。春日山の定年に伴い高砂の監事ポストは立伊連合に
返却。 |
7代 |
出羽海智敬
(佐田の山/晋松、第50代横綱) |
1992年 2月 1日~1998年1月31日 後に境川に名跡変更。退任。 |
|
二子山退任で出羽ノ海が順当に理事長昇格。時津風が事業部長となったが出羽ノ海より 年長とのことも
あり出羽政権の伸長によっては次期理事長は微妙な状況だった。 二子山に代わっては二所本家筋から佐
渡ヶ嶽(元横綱・琴櫻)が入り異例の3審判部長制。後任監事には二子山の実弟・藤島(元大関・貴ノ花)が昇
格し、間もなく二子山を継承する。 |
|
鏡山(元横綱・柏戸)の退任に伴い4期続いた鏡山・陣幕の両審判部長が交替。新九重(元横綱・千代の
富士)との名跡交換で部屋経営を譲り、理事長に意欲満々の 陣幕は新設の広報部長に就任したが、巡業
部長が取れなかったためか「何をやるのか分からな い」 と不満顔だった。病身の鏡山の後任には時津風
部屋付きの枝川(元関脇・北葉山)が就任。80年の立浪・武隅以来の同部屋からの複数理事就任となった
。 |
|
義父に習って部屋経営を新出羽ノ海(元関脇・鷲羽山)に譲り理事長職に専念した境川3期目。二所本家
を継承出来なかったことと、引退間もなく脳溢血に倒れたことで永年地方場所担当の 不遇に据え置かれた
大鵬が退任に追い込まれ、代わって二子山が昇格、若貴ブームに乗って 早速ナンバー3の巡業部長ポス
トを占める厚遇振り。7月に前二子山の脱税問題で 一旦解任されるが2年後にはあっさり再任された。85
年の日航機墜落で妻子を亡くした伊勢ヶ浜だが後妻の不評もあり退任、木瀬(元前頭・清乃盛)に交替した
。以降、木瀬退任後の若藤(元前頭・和晃)と 立伊連合理事は一門のベテラン・ポストと化している。 |
|
世に聞こえた「平成10年の大乱」。境川の巡業・親方株制度改革に若手親方が猛反発。 とくに高騰する親
方株から脱税問題、また人材流出の恐れがあるとして協会が親方株を 一定数プールする方策は、大枚を
叩いて生活保障を得た親方陣の総スカンを食らい、 高田川が理事選出馬を表明、更に親方数の多い二所
一門からも 間垣が立候補し一門がこれを追認する形となった。これにより理事選挙制導入以来 初の選挙
戦に突入。票数の少ない高砂一門は高田川を破門、共倒れを恐れて一門立候補者を一人に絞ることとし
たが、本家高砂(元小結・富士錦)が勝利。破れた陣幕は次期理事長の可能性が断たれた形と なり 即座に
廃業する余波を経て、計11人で争われた選挙戦は基礎票2の高田川が当選し、 時津一門の枝川(元関脇
・北葉山)が落選する波乱で決着が付いた。如何に若手親方層の反発が 大きかったかが伺われよう。この
責任を取り4選予定だった境川は理事長を辞任したが、更に理事会で世代間闘争となり 一旦は挙手採決
で北の湖が多数、更に記名投票で5対5の同数という過程を経て、 漸く北の湖が身を引く形で時津風理事
長の就任となったが、協会改革が頓挫したのは 言う迄もない。 |
|
前回で懲りたか時津、高砂両一門が組み、高砂は前回同様理事立候補者を一名とする代わり に八角(元
横綱・北勝海)で監事ポストを確保する作戦に出たが、結果は再び高田川に苦杯を嘗め、 再び時津から伊
勢ノ海(元関脇・藤ノ川)が落選。監事選も立伊連合の武隈(元関脇・黒姫山)が 涙を飲んだ。元関脇・板井の
八百長告発等に対抗するため元理事長としては異例の境川の24年振りの審判部長復帰が話題となった。 |
8代 |
時津風勝男
(豊山/勝男、大関) |
1998年2月1日~2002年1月31日
定年。 |
9代 |
北の湖敏満
(北の湖/敏満、第55代横綱) |
2002年2月1日~2008年9月8日 一代年寄。 |
|
3回連続の選挙となったが、今回は当選9人が綺麗に10票、9票の武蔵川(元横綱・三重ノ 海)対湊(元小
結・豊山)の決戦投票も順当に武蔵川が勝ち、出来レースに戻った感が強い。これにて勢力分布は出羽、二
所が3、立伊2、高砂、時津1。時津風の定年で北の湖新理事長が誕生、二子山が離婚騒動や長男(元横
綱・三代目若の花)の廃業等で打撃著し く、九重(元横綱・千代の富士)に反発が強いなか超長期政権が嘱
望されたが、そうは問屋が 卸さなかった。 |
|
理事は4期振り無投票で第二次北の湖政権発足。理事再選直後に貴乃花に部屋経営を委譲し 協会職に
専念する二子山が事業部長を得た。監事は立伊連合の友綱(元関脇・魁輝)が一門内の 次期理事候補を
狙って出馬したが、三保関(出羽)・秀ノ山(二所)・前回理事選に出馬し今回は 時津高砂合同候補となった
湊が順当に入閣した。 |
|
5期10年振りに理事・監事とも無投票と漸く落ち着いた。立伊連合は高齢の若藤に替わり友 綱、二所一門
は癌で逝去した二子山と定年の押尾川に替わり秀ノ山の昇格と阿佐ヶ谷勢から放駒、 監事の後任には不
知火と順当無風。武蔵川が事業部長に昇格し、24年振りに同一一門が 上位2ポストを占めることとなった。 |
|
21横綱・朝青龍の二場所連続出場停止、時津風リンチ事件等問題を抱えながら二期連続の無投票。 定
年の長谷川に替わり二所一門総帥ながら継承騒動や親方株の担保入れ問題により蟄居の続いていた 二
所ノ関が還暦を前に漸くの入閣。朝青龍の監督責任を取る形で高砂が退任し、傍流の悲哀を 味わってきた
九重が前九重の陣幕の退任廃業以来10年振りに理事ポストを得た。前年脳出血で倒れた間垣は留任した
が、8月に所属力士の大麻問題で引責辞任。事件は更に 拡大し北の湖理事長の辞任、武蔵川新理事長主
導による初の外部理事・監事の招聘へと 相撲協会執行部を大いに変貌を遂げるに至った。 |
|
機構改革後初の理事選は、貴乃花親方の出馬で四期振り投票に。貴乃花派7名の離脱に伴い二所一門
が候補者を減らした替わりに時津風一門が同じく 少数派閥の高砂一門から票を融通して貰い、副理事ポ
ストを高砂に譲る前提で二人を 立てて自派の引き締めと貴乃花への刺客としたことから投票に縺れ込ん
だ結果が、 立浪一門からの二票流出が決め手になり大島親方の落選、貴乃花逆転当選で幕を閉じた。勇
退の伊勢ノ海に替わり出羽ノ海が事業部長と出羽一門がワンツー・フィニッシュとは 最大派閥の為せる業
か。しかしながら親方・現役力士の野球賭博関与問題で外部の村山氏が理事長代行に就任の挙句、 体調
を崩した武蔵川が再任後半年で辞任、辛くも放駒の昇格で決着したが、又もや貴乃花の反乱で 放駒対北
の湖の投票(8対4)に持ち込まれるなど波乱のスタート。この過程で九重が事実上のナンバー2に浮上した
。 |
10代 |
武蔵川
(三重の海、第57代横綱) |
2008年9月8日~2010年8月12日 |
11代 |
放駒輝門
(魁傑、大関) |
2010年8月12日~2012年1月31日 |
12代 |
北の湖敏満
(北の湖、第55代横綱) |
2012年2月1日~2015年11月20日死去。 |
|
八百長問題の責任を取る形で一旦理事職も辞任した北の湖が定年退職の放駒に替わり 史上初の理事
長復辟。時津・高砂は連携して辛くも三ポストを確保したが、 基礎票7の貴乃花に11票で楽勝を許し、九
重は最下位7票当選で一転理事長に向け赤信号が灯った。また立浪一門は一問内調整が付かず三候補
が乱立。投票直前に伊勢ヶ浜(元大関・旭富士)が 辞退する形となったが、現職の友綱が落選。総帥である
べき立浪親方が貴乃花G入りし、 一門自体が春日山・伊勢ヶ浜連合を経て伊勢ヶ浜一門に解消される羽
目に陥った。なお雷は不正経理問題にて12/9/20付辞任、補選により無投票で伊勢ヶ浜が専任された。 |
|
前回落選した友綱が伊勢ヶ浜一門外の無党派票を得て復帰、5票に留まった九重が落選の波乱に。 この
ため巡業部長の尾車を飛び越え、同じ高砂旧九重系の八角が事業部長に躍進、 次期理事長の有力候補
に躍り出た。 |