幕末道場及び剣客論 |
更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).3.8日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで「幕末道場及び剣客論」をものしておくことにする。「剣道歴史年表」その他参照。 2005.4.14日、2010.10.1日再編集 れんだいこ拝 |
北辰一刀流 |
【千葉周作「玄武館」道場】 |
千葉周作成政は、1794(寛政6)年、奥州陸前高田市気仙町で生まれた。幼名を於寅松(おとまつ)といい、5歳の時に一家で気仙の地を離れた。気仙町中井には千葉周作の生誕地を示す立派な石碑がある。小野派一刀流を中西忠兵衛子正(たねまさ)の門人の浅利又七朗義信から学び、浅利又七朗の娘婿養子に迎えられる。その後、浅利が学んだ中西道場へ入門し奥義を得る。その後、北辰一刀流を唱えて独立し、1820(文永5)年春から関東一円に修行へ出掛ける。 日本橋品川町に道場を開設。1823(文永8)年、神田お玉ヶ池に道場「千葉道場玄武館」を構える。 周作は、従来の剣の伝授方式であった12段階、免許皆伝までの6段階を簡素化し、初目録、中目録、大目録皆伝の3段階にするなど革新した。しかも、初心者の2年間は竹刀中心で防具をつけた稽古を奨励した。形稽古を終えると打ち込み稽古に入り、次の段階で免許皆伝にしていた。 門弟も多く江戸1番の道場の座を獲得し、水戸藩などの「指南役」や「剣術顧問」を頼まれ、道場は更に隆盛の一途となった。最盛期には八間四方3千3百坪の広大な道場に町人を含む門弟数3千3百人を超えたと云う。幕末に至って千葉周作は引退し、玄武館は三男の道三郎が継ぎ、それを森要蔵、庄司弁吉、塚田孔平、稲垣定之助ら玄武館四天王や天才剣士海保帆平がこれを助けた。但し、弟・貞吉の桶町道場に徐々に人気を奪われる結果となった。1855(安政2).12.10日、千葉周作病没(享年62歳)。 周作の次男栄次郎成之(1833、天保4年生まれ)は片手上段の構えを得意とし「千葉の小天狗,お玉が池の小天狗」と恐れられ、斎藤弥九郎・海保帆平もまったく歯がたたなかった稀代の名剣士として伝えられている。貞吉の長男重太郎はそれに対して「桶町の竜」と称されたと云われている。1853(嘉永6)年、水戸藩に召し出され、馬廻組⇒大番組に昇進するも、惜しむべく1862(文久2).1.12日、30歳の若さで没した。 門人に山岡鉄舟(鉄太郎、1836-1888)、清川八郎(1830-1863)、藤堂平助(1844-1867)、山南敬介、森要蔵(1810-1868)など。坂本竜馬(龍馬)もこの流派に列なる。 |
【千葉定吉「桶町千葉、小千葉」道場】 |
周作の実弟・千葉定吉政道が、玄武館創設に協力した後独立して道場を開き、最終的に京橋桶町に定まった。その為、「千葉周作道場玄武館」と区別する意味で「桶町千葉」、「小千葉」と称された。1853(嘉永6))年、鳥取藩江戸屋敷の剣術師範に召し出された。その後を長男の重太郎一胤が引継ぎ、30歳にして道場を任された。この道場に坂本竜馬(1836-1867)が入門し、重太郎と親交することになる。 なお、1853(嘉永6))年、坂本竜馬が道場へやって来た時、定吉の長女の佐那と初手合わせし、歯が立たなかったと伝えられている。佐那は「千葉の鬼小町」と呼ばれる美人で、後に竜馬の許婚となったが、婚姻には至らなかった。1867(慶応3)年、龍馬が京都において暗殺されると、その為かどうかは分からないが一生独身を通している。 1860(万延元)年、重太郎も鳥取藩に召し抱えられ、1862(文久2)年、周旋方に就任。同年12.29日、勝海舟の開国論に反発して、坂本龍馬とともに勝邸を訪ね、機を見て斬ろうとしていたところ、龍馬が海舟の言に伏した為に沙汰止めとなったとの逸話が残されている(「海舟日記」)。 |
【山岡鉄太郎(鉄舟)】 |
山岡鉄太郎(鉄舟)は、天保7年、旗本・小野朝右衛門の子として生まれる。母は塚原ト伝の流れをくむ。千葉周作に北辰一刀流の剣を学び、20歳の時に、刃心流槍術の山岡静山に入門した。静山が早世したため、静山の弟で高橋家の養子となっていた精一(後の高橋泥舟)に請われ、静山の妹・英子と結婚し山岡家を継いだ。 1856(安政3)年、剣の腕を買われ幕府講武所の剣術世話役心得に取り立てられた。その剣技は「鬼鉄」と恐れられた。1859(安政6)年には清河八郎と結び尊皇攘夷党を結成した。1862(文久2)年、浪士組取締役に任命され翌年上洛するが、清河の建白書提出を受けて程なく江戸に帰還した。その後山岡は浅利又七郎に剣を学び、修行を重ね「剣を捨て、剣に頼らぬ」の境地に達し、一刀流正伝と秘剣・瓶割刀伝授される。 大政奉還後の1868(明治元)年3月には、勝海舟の使者として新政府軍東征大参謀の西郷隆盛を単身訪問し、静岡で会見、江戸総攻撃を仕掛けようと目論む新政府軍に、徳川家救済と戦争回避を直談判し、江戸城無血開城のきっかけを作った。西郷は当初、江戸城を無条件で引き渡す他、慶喜を備前に預けるとの条件を提示した。しかし、山岡は慶喜を備前に預けるのは罪人扱いだとして、涙ながらに説得。最後は切腹する構えをみせた。山岡の決死の交渉に対し、西郷は方針を軟化させ、これにより勝と西郷の会談が実現し、江戸城の無血開城が決められることとなった。 維新後は、茨城県参事、伊万里県権令を歴任し、1872(明治5)年には明治天皇の侍従となった。そして、宮内庁の要職を歴任する傍ら、剣と禅の修業に精進し無刀流を開いた。晩年は、子爵を授けられ華族に名を連ねている。 1888(明治21).7.19日、座禅のまま往生した(享年53歳)。 |
2024.1.11日、「千葉道場の天才剣士・千葉栄次郎~日本一と評判の北辰一刀流継承者」。 |
日本最強の剣士は誰なのか?歴史ファンなら誰もが一度は考えてしまうであろう、この問い。特に幕末はキャラクターも豊富で、「新選組なら沖田総司か、永倉新八か」、「薩摩藩なら大山綱良か、桐野利秋か」、「桐野も入っている四大人斬りで言えば岡田以蔵や河上彦斎もいるな……」と、おそらく侃々諤々、結論など出せずに終わってしまうことでしょう。上記のメンバーはいわば超実践派で、リアルに人を斬ったことで知られますが、一方で幕末当時は「道場」を中心に武名を誇った剣士たちも数多くいます。その中で最強候補の一人として注目したいのが千葉栄次郎。千葉周作の【北辰一刀流】でお馴染み、玄武館(千葉道場)の天才剣士です。大河ドラマ『青天を衝け』の序盤で注目された千葉道場は、父・周作から息子・栄次郎へと引き継がれることで繁栄を期待されておりましたが、儚くもその夢は早々に途絶えてしまいます。文久2年(1862年)1月12日はその命日。栄次郎に一体何があったのか、その生涯を振り返ってみましょう。 千葉栄次郎は天保4年(1833年)、武蔵国江戸神田お玉ヶ池(現在の東京都千代田区)に生まれました。父は幕末の名剣士として名を馳せた千葉周作。栄次郎の歴史を振り返るため、この父・千葉周作の経歴も先に見ておきたいと思います。周作は陸奥国気仙郡気仙村(現在の岩手県陸前高田市)に生まれ、その後、一家総出で江戸に近い下総国松戸へ移住しました。16歳の周作少年は小野派一刀流・浅利又七郎義信に弟子入り。剣術の腕をメキメキと伸ばしていきます。もとより天賦の才があったのでしょう。周作は優れた剣士から次々と指導を受け、免許皆伝を言い渡されますが、このとき彼は、流派の改良をめぐって師匠の又七郎と対立してしまいます。本当は義理の息子として浅利道場を継ぐ予定だったのですが、最終的に絶縁してしまいました。道場を去った周作は武者修行の旅に出て、先祖代々伝わっていた北辰夢想流と小野派一刀流をかけ合わせた新しい流派を創設します。 そして文政5年(1822年)、周作は日本橋品川町に道場「玄武館」を開きました。北辰一刀流は免許習得が容易だっただけでなく、竹刀を用いた合理的でわかりやすい指導から人気を博し、3年後の文政8年(1825年)には神田お玉ヶ池に道場を移転。広さ、門下生の数ともに随一の存在へ成長し、実に「江戸の三大道場」と呼ばれるまでに成長します。 【江戸の三大道場】とは江玄武館・斎藤弥九郎の「練兵館」、桃井春蔵の「士学館」、千葉周作の「玄武館」。こうした道場は剣術修行の場としてだけでなく、諸藩の剣士たちが天下を語り合う「サロン」のような役割も持ち合わせていました。栄次郎が生まれ育ったのは、そんな道場でした。北辰一刀流の始祖から生まれた千葉栄次郎は、兄弟の仲でも飛びぬけた才能を誇っていました。幼いころから周作に学び、14~15歳のころには「千葉の小天狗」として名を馳せるようになります。19歳のときには、幕末でも屈強な一派として知られる「神道無念流」斎藤弥九郎の三男・斎藤歓之助と試合をしました。栄次郎と同年の斎藤歓之助もまた、父親の七光りではなく「鬼歓」と呼ばれるほど激しい剣技の持ち主。その対決で栄次郎は胴や小手を決め、見事に勝利します。若き天才同士の戦いに勝利した彼の名声は、江戸中に鳴り響いたことでしょう。 ときは安政2年(1855年)、鉄舟まだ20歳の頃の話です。当時の鉄舟は「鬼鉄」として知られ、血気盛んな青年でした。彼は、千葉栄次郎と同門の井上八郎から北辰一刀流を習い、なかなかの腕前を誇っていたようですが、栄次郎の前では歯が立ちません。そこで一計を案じます。仲間を20人ほど集めて代わる代わる栄次郎に挑ませ、疲れきったところで一本だけでも取ろうとしたのです。武士の風上にも置けない、なんとも卑怯な戦法と思われるでしょうか。確かに当時の武士は、今を生きる我々よりもはるかに「メンツ」を重視していました。裏を返せば『そうでもしないと栄次郎には決して勝てない』ほどの圧倒的存在だったのでしょう。さすがに20人が相手では天才剣士でも勝ち目がない。鉄舟もそう考えたはずですが、しかし……。栄次郎の剣術は常人の思惑をはるかに上回っていました。20人ことごとく竹刀で打ち破ったかと思ったら、戦いが終わった後も息一つ切らさず、飄々としていたのです。しかも、です。諦めきれない鉄舟がもう一度栄次郎に飛び掛かろうとしたとき、栄次郎の竹刀を確認すると、中ほどからポッキリ折れていたというから驚き。20人の武士を相手にするうちに竹刀の方が先に音を上げてしまったのかもしれません。いずれにせよ栄次郎は折れた竹刀で鉄舟を翻弄しており、さすがにここまでされたらお手上げというほかなく、鉄舟はただただ栄次郎の強さに関心したといいます。 かくして江戸中で評判の剣士となった千葉栄次郎。嘉永6年(1853年)になると、その腕前が評価され、水戸藩江戸定詰(出張所のようなイメージ)の剣術指南役に抜擢されました。江戸で指導するだけでなく、水戸へ出向くこともあったといいます。この頃にはすでに一人前の剣士として認められており、偉大な父・千葉周作から独立、水戸でも父の代わりに稽古をつけるほどだったのです。しかし、その類稀な剣術が、かえって水戸藩士の反感を買ったというエピソードが残されています。彼は水戸の弘道館道場で稽古した際、・頭の上で竹刀をクルクル回転させる。・竹刀を相手のコカンにくぐらせる。・竹刀を頭上に放り投げ、落ちてくる竹刀で相手を攻撃する。といったアクロバティックな剣さばきを披露しました。しかし前述の通り、当時の武士たちはとにかくプライドが高いもの。彼の振る舞いは「自分たちをバカにして無礼だ!」と捉えられてしまい、激怒した水戸藩士らに謝罪することでなんとか場を収めたといいます。まぁ、真面目に戦っているところで妙な技で翻弄されれば、誰でも腹が立ちますよね。私ですら、さすがに『バカにしすぎでは?』と思ってしまいましたが、真相は違うものでした。栄次郎は、ふざけたように見せかけることであえて隙を作りだし、油断した相手を打ち倒す術を教えるつもりだったようです。「私が隙を見せている間に攻撃できないとは、まだまだ修行が足りない」。栄次郎にしてみればそういうことだったのでしょう。しかし彼はそれをうまく説明する言葉を持ち合わせていなかったようで……自身は剣術の天才でも、指導者にはあまり向いていなかったのかもしれません。実際、栄次郎の稽古は「フザけている」と思われてしまい、一部には「あいつの剣には実がない。だからまやかしの剣だ」と揶揄する声もありました。まぁ、単なる嫉妬にも見えますが……。個人的には『鬼滅の刃』における最強剣士・継国縁壱を思い出してしまいました。剣技の次元が違いすぎて、常人からは飄々淡白に見えてしまう現象です。 現代では、あまり有名とは言えない千葉栄次郎。幕末当時は全国区で名が知られていたことを伺わせる話があります。九州の久留米藩に、武藤為吉という優秀な剣士がいました。その武藤が栄次郎との試合に挑み、こんな言葉を残しているのです。「初対面の初試合、日本一になれると覚悟を決めて勝負に臨んだ。熱戦を繰り広げることはできたが、運悪く負けてしまった」。運悪く……とは、これまた負け惜しみっぽい雰囲気が見てとれますが、注目したいのは「日本一になれる」という節です。江戸ではなく久留米藩士の武藤が「日本一になれる」と表現したのは、つまり当時の栄次郎が日本一強いという評判が全国区だったからでしょう。この時代は、黒船来航によって日本中が危機感を抱いていた動乱期。戦から離れていた武士のみならず農民に至るまでの階層でも剣術修得に躍起になっていて、栄次郎のいた千葉道場は、坂本龍馬をはじめとした全国の志士たちが一堂に会する場でもありました。そこで圧倒的な腕前だったのですから、日本一と評されるのもあながち誇張ではない気がします。むろん、こうした道場はサロン的な一面があり、超実践的な殺人剣である天然理心流や薩摩のジゲン流と比べたら、また評価も変わってくるかもしれませんが……。 圧倒的剣技で天才の名をほしいままにした千葉栄次郎。残念ながら彼が幕末維新の時代に活躍することはありませんでした。文久2年(1862年)1月、無敵の剣士は病によって31歳の生涯を閉じてしまったからです。遺伝的なものもあったのでしょうか。父・千葉周作の子どもたち、つまり栄次郎の兄弟たちは短命な人物ばかりで、安政2年(1855年)には長男が、文久元年(1861年)には四男が亡くなっています。幕末ファンとしては、どうしても『栄次郎が生きていたらどう活動したのか?』を考えてしまうかもしれません。しかし、個人的には厳しかったような気もします。明治時代に入れば政治・外交・経済などの実務が重視される一方、剣術は冷遇され、栄次郎自身の口下手さ等を考えると、その力を発揮する場面が少ないように感じるからです。「最強の剣士」として北辰一刀流全盛期に亡くなったのは、不謹慎ながら、ある意味で幸運だったのかもしれません。 |
(私論.私見)