柔道史



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 2005.4.14日、2010.10.1日再編集 れんだいこ拝


【幕末時の柔術の流派】
 ウィキペディア柔術を参照する。
 柔術(じゅうじゅつ)は、徒手あるいは短い武器による攻防の技法を中心とした日本の武術である。相手を殺傷せずに捕らえたり、身を護ること(護身)を重視する流儀の多いことは、他国の武術と比較して大きな特徴である。このような技法は広く研究され、流派が多数存在した。

 柔術の定義については、流派が数多くあり技法の内容も多種多様であるため、一概には言えない。しかし、例えば講道館の創始者嘉納治五郎は、「無手或は短き武器をもって、無手或は武器を持って居る敵を攻撃し、または防御するの術」である、と柔術を定義した。過去に武士、侍が使用していた(例外的に江戸期では岡っ引きや町道場に習いに行っていた町人や農民が使用していた)武術、またはそれが現代まで技が伝わり残っている武術が柔術でもある。

 柔道や合気道は、時代が進んでその名が広まるにつれて、これらの名称に「柔術」の語が含まれていないので、柔術のひとつであるという認識は希薄になり、独立した武道としての発展の道へ進んだ。よって、「柔術」というと明治維新以前から伝わる伝統的な古武道の柔術を指す場合が多くなった。

 江戸時代以前

 戦国時代から合戦のための武芸である組討や、人を捕らえるための捕手などと呼ばれた武技がすでに行われていた。確認できる最古の源流は、天文元年(1532年)に竹内久盛が開眼し、子竹内久勝が広めた竹内流である。柔術は江戸時代になってからの呼び名であり、

  • 戦場における組討の技術(弓・鉄砲、槍、刀剣の間合いに続く格闘における技術。敵将の首を取ることも行われた)
  • 武士の小太刀、小刀(小脇差)、脇差などでの護身術(小具足など)
  • 相撲(武士は相撲も組討のための鍛錬方法とした)
  • 治安維持のための捕手術、捕縄術

 などが柔術の源流である。

 江戸時代初期

 戦国時代が終わってこれらの技術が発展し、禅の思想や中国の思想や医学などの影響も受け、江戸時代以降に自らの技術は単なる力技ではないという意味などを込めて、柔術柔道やわらと称する流派が現れ始める(関口新心流楊心流起倒流良移心当流)など)。中国文化の影響を受け拳法白打手搏などと称する流派も現れた。ただしこれらの流派でも読みはやわらであることも多い。また、この時期に伝承に、柳生新陰流の影響を受けて小栗流や良移心當流等のいくつかの流派が創出されている。

 江戸時代、幕末頃

 武者修行の流行とともに全国的に各流派の交流、他流試合が盛んになり、素手の乱捕用の技が作られ始めた。現在ではどのようなルールで行われていたか不明であるが、真剣勝負の場合以外は当身技は除かれたようである。また、乱捕は組討に相当するもの、組討の鍛錬になるものとも見做された。これらの乱捕の技術が現在の柔道の乱取と試合の源流である。

 明治時代

 明治初期に多くの柔術家が藩指南役・師範等の立場を失ったため、柔術は指導されなくなったように言われているが、実際には全国的に地方の村落などで逆に柔術が流行し、娯楽の一種のように受け入れられ大変広まった。特に柔術が盛んだった地方では、一つの村落に幾つもの道場が存在し、集落の若者の大部分が入門していたことが様々な記録に残っている。この時期の奉納額が多くの寺社に残っている。帝国尚武会より野口清(一威斎・潜龍軒)が神道六合流柔術の通信教育を行ない、日本で初めて柔術の通信教育を実施した。

 講道館柔道の登場

 天神真楊流と起倒流を源流とする講道館柔道が創始された。「明治時代に全く新しい柔道が現れて、古い柔術と対決して柔術側を打ち負かし、柔術が衰退していった」と言う形で語られることも多いが、これはやや不正確であり、警視庁での採用を決定するための試合に講道館が勝利して警視庁に採用されたこと(警視庁柔術世話掛)と、学校体育への進出により、講道館柔道が全国的に広まったのである。警視庁では講道館柔道が採用されたことによって、警視流柔術は指導されなくなった。

 草創期の講道館の人間は天神真楊流などの柔術出身者が多く、柔術側からも講道館柔道は新しい柔術の一流派くらいに考えられていた(講道館の道場開きに多くの柔術関係者が招かれている)。

 明治後期になり、講道館柔道が全国に広まるにつれ、試合を講道館のルールで行う柔術道場が増えた。柔術が対決で負けて消滅したというより、柔術が柔道化していったのである。実際、高齢の柔道家で柔術の経験者の人間は未だ存在し、現在は柔道道場であるが、遡ると柔術の道場であった所も存在する。逆に、講道館は寝技で不遷流柔術などに何度も負けたため寝技を研究することとなったこともある。

 大東流の登場

 明治後期に登場し当時有名となった柔術流派として武田惣角の大東流合気柔術がある。武田惣角は道場を持たず、講習会形式で各地の警察署などを廻っていた。講道館柔道には無い技法群を持っていることや武田惣角の卓越した技量が数々の武道家たちに支持され、後にいくつかの分派を生んでいる。大東流は合気道の源流のひとつである。

 大正・昭和

 流派の衰退

 一般的に、柔術(古流柔術)は、明治時代に柔道が普及してすぐに衰退したように思われているが、明治時代の項で書かれているように急激なものではなかった。実際は地方では第二次大戦前まで盛んに行われており、大正前後にはまだ多くの流派で多数の門人を抱え発展していた。柔道というと地元の柔術流儀をさす場合も多かった(埼玉県での気楽流、奥山念流、真神道流など)。古流柔術が更に衰退した原因として、第二次大戦により多くの継承者が戦死したことや、敗戦後のGHQ指令による武術禁止の影響で稽古が行われなくなったことなどがあげられる。

 現代

 現在でも複数の流派の伝承が存続している。柔道や空手等の現代武道だけでなく、各種スポーツ競技の普及により古流柔術が省みられなくなったり、継承者が「危険な古流の技術はもう必要ない世の中になった」とし指導を辞める例もあり、古流柔術はまた更に衰退していく一方で、徐々に復興していく流派もある。

 古流柔術系総合格闘技

 総合格闘技やブラジリアン柔術の影響から古流柔術も教えさらに総合格闘技にも応用ができる柔術も最近現れ出している。乱捕りを総合格闘技のルールに合わせて行う。そのために当身や打撃技も多用する。総合格闘技のルールにさらに立ち関節技も含めたルールも含むものもある。まだ始まったばかりの分野なので古流柔術の教えか総合格闘技の技術のどちらに重きを置くかは指導者により異なる。

 世界各国への柔術の普及

 明治以降、世界各国に柔術が普及した。講道館が世界各国へと普及する前に、多くの柔術家が世界各国へ渡った。神道六合流不遷流関口流堤宝山流神道揚心流など柔術流派が世界各国へ伝わった。

 現在、伝わった流派を元にして世界各国で独自の流派が開かれている例が多い(アメリカ合衆国ハワイ檀山流カジュケンボなど)。また現在そのままの名称で伝わっている例も多くあり、良移心頭流関口流堤宝山流竹内流竹内御家流竹内判官流神道楊心流双水執流などの流派が世界各国で伝承されている。

 また、多くの流派で世界各国に支部道場が存在する。それだけではなく、現在日本で失伝したと思われる流派が、他国で存続している例も確認されている。

 また講道館柔道がブラジルへ伝わり、ブラジリアン柔術となったように、海外では講道館柔道や合気道等から新しい柔術流派が生まれることもある。

 現代武道の母体としての柔術

 柔術から生みだされた武道として、柔道・合気道などがある。

 柔道

 扱心流出身で5度柔道日本一になった牛島辰熊

 柔道起倒流天神真楊流などを元に嘉納治五郎が創始した。投げ、固めの技法から、当身技や武器術も含む技法を網羅した武道を目指したものが柔道であった(前期柔道として現代柔道と区別する者もいる)が、乱取競技化したことにより(組み付いた状態での)投げ技寝技の乱取稽古に特化し、当身や対武器の技術は形稽古のみで行われ後に禁じ手・反則技とされてしまい形稽古自体さえも全く行われなくなった。さらに、柔道から寝技の勝負へより特化したのが高専柔道七帝柔道である。七帝柔道は高専柔道ルールを踏襲して現在も大会が続いている。

 この流れについては増田俊也の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』に詳しく書かれている。増田はこの中で「嘉納治五郎は当身を乱取りの中に取り入れたがっていた。試合では禁止でも、日常の護身術として講道館は当身を教えるべきではないのか」と主張している。松原隆一郎も『武道を生きる』の中で護身性・実戦性を失った柔道に問題提起している

 明治後期以降、大正、昭和の時代に入っても、実は特に関西以西においては講道館柔道より古流柔術が優勢にあったことは、この増田、松原以外にも井上俊ら研究者がたびたび指摘している。

 柔道史上最強の木村政彦竹内三統流出身だった

 例えば大正時代後期から昭和前期にかけて5回も講道館柔道日本一に就いている大柔道家・牛島辰熊熊本時代にはもともと扱心流を修行しており初めて日本一に就いた時には講道館の段位を持っていなかった。

 またこの牛島の弟子で講道館史上最強と言われる木村政彦は昭和12年(1937年)から昭和24年(1949年)まで全日本柔道選手権を保持しこの時代を全盛とするが、やはり熊本時代に修業したのは竹内三統流であり、講道館ではない。段位も3段までは武徳会から允許されている

 また牛島辰熊も木村政彦も高専柔道をやっていたため、実際には彼らの寝技は講道館の寝技ではなく高専柔道のものであった。

 このように、講道館中心史観によって、柔術と柔道の歴史は大きく歪められて伝えられていると指摘されている。

 武徳会柔術形

 制定委員

 明治39年(1906年)7月、京都大日本武徳会本部にて、講道館嘉納治五郎委員長と戸塚派揚心流戸塚英美委員、四天流組討星野九門委員、他17名の委員補(双水執流組討腰之廻第十四代青柳喜平、不遷流柔術四代田邊又右衞門など)柔術10流・師範20名で構成される「日本武徳会柔術形制定委員会」により嘉納委員長の提示した当時の講道館形を原案に検討し1週間で制定された。その内容は1908年便利堂書店から『大日本武德會制定柔術形』として出版される。講道館柔道を含む全柔術流派を統合する形であった[6]。講道館柔道形の投の形、固の形、極の形として残されている。

 合気道[編集]

合気道大東流合気柔術起倒流柔術柳生流柔術新陰流剣術などを修めた植芝盛平が、大東流合気柔術を骨子に創始した武術「武産合気(植芝流)」が一般に広く普及(植芝は普及には否定的だったともいわれるが)された現代武道である。柔道とは異なり、対武器の技法と腕に対する関節技や投げを中心とした武道である。さらに、富木謙治が合気道に起倒流の要素を加え、乱取りを導入した独自の合気道(富木流合気道とも呼ばれる)を編み出した。

空手・拳法の流派[編集]

幾つかの空手拳法の流派が柔術の影響を受けて創始されている。

和道流空手(柔術拳法)[編集]

流祖大塚博紀和道流空手道開祖)は、自身が学んだ神道揚心流為我流をもとに和道流柔術拳法を編み出した(ただし、和道流柔術拳法は日本古武道協会に柔術流派として加盟していることから、現代武道ではなく古武道である)。

神道自然流空手[編集]

空手と諸流の柔術や合気道、剣術等を学んだ小西康裕が創始した空手流派として神道自然流がある。

日本拳法[編集]

直接柔術と関連がないが、柔道で廃れていった当身技の稽古のために生まれたのが日本拳法である。澤山宗海は柔道をもとに(空手ボクシングも参考にした)、当身と当身から投げ技への変化の技法を専門化した武道として編み出した。

軍隊格闘技[編集]

近年のCQCを重視する各国軍隊近接格闘術に柔術の技が採り入れられていることもある(サンボ等)。ただし、柔術に限らず伝統武術に共通する欠点である「習熟に時間がかかる割りに、現代の戦闘では役に立ちにくい非実戦的な技も多い」点により、伝統流派自体の採用ではなく、一部の技の採用や、各国で独自に近代化した柔術技法などが採用されている。

分類[編集]

柔術はおおむね、江戸時代までに興された徒手武術をさす。武術としての柔術には、現代柔道、合気道、ブラジリアン柔術等は含まれないが、より明確に分けるために「古流柔術」と呼ぶこともある(下に記す)。また、上記のものは柔術の流れを汲むため、広義では柔術に含まれる。またその古流柔術にもどの時代に発達した柔術かにより技術体系が違う。戦国時代特有の条件がある場合の柔術もあり、そういった柔術は自ら甲冑を着込んで、甲冑を着た相手という特殊な条件があり甲冑兵法や甲冑柔術と呼ぶ場合がある。

古流柔術
甲冑を着用しない柔術
おおむね江戸時代に発達した柔術である。甲冑を着込んで、甲冑を着た相手と戦うことを想定していない場合が多い。しかし例外とする流派もある。
甲冑兵法・甲冑柔術
概ね戦国時代までに発達した甲冑を着込んでの柔術である。戦国時代の合戦場や戦場で柔術を使うことを念頭においている。武器を用いて、または武器が無い状態(なんらかの理由で武器を紛失した状態)での柔術である。甲冑を着込まない柔術との違いは相手も甲冑を着込んでいるために突きや蹴りはあまり有効技ではないために突きや蹴りより関節技や投げ技や武器技が主体となっている。甲冑を纏うために身軽さや身体の自由自在さを維持するためにより少ない動作や少ない体力の消費で最大の効果を得る様に技が作られている。また戦場では1対多数が当たり前のために1対1の戦いでも常に周囲に気を張り、多数相手に動けるようにしておくという点にもさらに比重が置かれる。実際に甲冑を着込み練習もする。口伝や書物にだけ残っている場合もある。
現存する甲冑柔術には東北に伝播した中で柳生心眼流甲冑柔術が存在する。実際に甲冑を着込んでの技の練習もしている。
また起倒流では水野忠通『柔道秘録』によれば、甲冑を実際に身に着けて行なう組討の形が五つあり、相手を組み敷き短刀で首を取る形や組み敷かれた時に短刀で反撃する方法の伝承もあるとされている。
古流柔術以外の柔術
現代柔道、合気道、ブラジリアン柔術など。

「柔術」が意味するところの変遷[編集]

本来、「柔術」は日本における徒手武術全般の総称であるが、その流れを汲む現代柔道、合気道、ブラジルで発展したブラジリアン柔術ヨーロッパで発展したJJIF柔術・IJJF柔術等も「柔術」に含まれる場合がある。柔道(特に現代柔道)、合気道が世に出、全国に普及して以降、これらと区別するため、日本古来の柔術を「古流柔術」という表現を用いて区別するようになった。一部では正式名称であるかのごとく、そこまではいかないが多くの人の間でも数十年以上にわたり定着している。柔術の実践者、関係者の間でも使われる。

組み技、組み討ち技という意の「柔術」[編集]

武術界において、「柔術」を組み技・組み討ち技の意として使うことがある。例えば新体道である。柔術が組み技、組み討ち技が主な武術・格闘技と考えている人も多い。なぜ、このような傾向になったか原因を挙げてみる。

  • 柔術の流れを汲む柔道の試合に当身技がなく、幕末あたりから各地で行われた他流試合や乱捕稽古も当身技を禁じていた場合が多いこと(現代柔道では多くの形が演武用、セレモニー用となっている傾向がある)。
  • 江戸時代は捕縛術としてそのような技術が中心に据えているような印象を与える流派も多く、かつそれは古流柔術全体の特徴でもある。
  • ブラジリアン柔術の影響は選手が総合格闘技の試合で当身技も使うこととブラジリアン柔術競技に当身技が禁じられていること両面があり、抑止要因になったか原因になったか、どちらかは確認されていない。

しかし、柔術には嘉納治五郎が柔術を「徒手もしくは小型の武器を持つ武術」と定義したように、その程度しか共通理念はない。したがって、当身技を排除する要素はない。大半の流派で小脇差鉄扇十手等を使った当身技や、その他隠し武器術を伝えており、素手での当身技法も深く修練する体系になっている流派もある。

 

主な流派[編集]

 ここでは115の流派を挙げているが、まだ挙げられていない流派の柔術も多く存在する。

 神道殺活流

流派名 流祖 道場 特徴
主な門弟

【主な柔術道場と柔術家】
 幕末になると時代が騒然となったことによってか「剣術ブーム」が起き、江戸三大道場として「桃井春蔵の士学館」、「千葉周作の玄武館」、「斉藤弥九郎の練兵館」が名声を高めた。「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されていた。これは、久留米藩士の松崎浪四郎(1833-1896)の評が始まりとのこと。

神道無念流

【福井平右衛門(嘉平)―戸ヶ崎熊太郎】
 天明の頃(1781~1789)、下野の福井平右衛門(嘉平)が神道無念流を編み出した。技の特徴は、相手の攻撃を右斜め前でかわし、「真を打つ」一撃で打って取る力剣にあった。その弟子が戸ヶ崎熊太郎で、江戸に道場を構えて門人を採った。この系譜に岡田十松、斉藤弥九郎、鈴木斧八郎が連なる。

【岡田十松「撃剣館」道場】
 岡田十松(おかだ じゅうまつ)は、神道無念流戸ヶ崎熊太郎暉芳に弟子入りし、14785(天明5)年に20歳で「目録」、同7年、22歳で「皆伝」の印可を授けられた。師の帰郷により道場を継ぎ、後に神田猿楽町に「撃剣館」を建て、神道無念流を幕末の3大流派にまで引き上げた。神道無念流の中で達人中の達人と云われている。門弟に斉藤弥九郎、江川太郎左衛門、渡辺華山、水戸藩士の藤田東湖、武田耕雲斎、伊東甲子太郎(1835-1867)、水戸浪人の芹沢鴨(1827-1863)、新見錦、平山五郎、平間重助、渡部昇(1838-1913)、新撰組の永倉新八(1839-1915)らが輩出している。

【斉藤弥九郎「練兵館」道場】
 斉藤弥九郎(1768-1871)は、越中国射水郡出身。岡田撃剣館で岡田十松の門下生として江川坦庵と共に神道無念流剣を学び、四天王と呼ばれた。後、九段坂下の俎橋付近に練兵館道場を起こす。その後、九段坂上(現在の靖国神社境内)に移転する。斉藤と江川の交流は終生続き、江川が名代官として善政をほどこし、領民から「江川大明神」とあがめ慕われる背後に斉藤の補佐があった。千葉周作の玄武館、桃井春蔵の士学館と並び江戸の三大道場に数えられた。「技の千葉、位の桃井、力の斎藤」と評された。

 水戸藩、長州藩と強い絆を持ち、門下生として桂小五郎(1833-1877)が知られる。1852(嘉永5)年、桂小五郎が20歳の時、斉藤弥九郎の息子にして江戸の剣客・斉藤新太郎が萩に来訪。9月末、長男の新太郎に従って江戸へ旅立つ。11月末、江戸九段下の斉藤弥九郎道場に着。以降頭角を現し塾頭になる。他にも、新選組・芹沢派の「平山五郎」等々。この練兵館には、高杉晋作(1839-1867)、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代も務めている。

北辰一刀流

【千葉周作「玄武館」道場】
 千葉周作成政は、1794(寛政6)年、奥州陸前高田市気仙町で生まれた。幼名を於寅松(おとまつ)といい、5歳の時に一家で気仙の地を離れた。気仙町中井には千葉周作の生誕地を示す立派な石碑がある。小野派一刀流を中西忠兵衛子正(たねまさ)の門人の浅利又七朗義信から学び、浅利又七朗の娘婿養子に迎えられる。その後、浅利が学んだ中西道場へ入門し奥義を得る。その後、北辰一刀流を唱えて独立し、1820(文永5)年春から関東一円に修行へ出掛ける。日本橋品川町に道場を開設。1823(文永8)年、神田お玉ヶ池に道場「千葉道場玄武館」を構える。

 周作は、従来の剣の伝授方式であった12段階、免許皆伝までの6段階を簡素化し、初目録、中目録、大目録皆伝の3段階にするなど革新した。しかも、初心者の2年間は竹刀中心で防具をつけた稽古を奨励した。形稽古を終えると打ち込み稽古に入り、次の段階で免許皆伝にしていた。門弟も多く江戸1番の道場の座を獲得し、水戸藩などの「指南役」や「剣術顧問」を頼まれ、道場は更に隆盛の一途となった。最盛期には八間四方3千3百坪の広大な道場に町人を含む門弟数3千3百人を超えたと云う。幕末に至って千葉周作は引退し、玄武館は三男の道三郎が継ぎ、それを森要蔵、庄司弁吉、塚田孔平、稲垣定之助ら玄武館四天王や天才剣士海保帆平がこれを助けた。但し、弟・貞吉の桶町道場に徐々に人気を奪われる結果となった。

 周作の次男栄次郎成之(1833、天保4年生まれ)は片手上段の構えを得意とし「千葉の小天狗,お玉が池の小天狗」と恐れられ、斎藤弥九郎・海保帆平もまったく歯がたたなかった稀代の名剣士として伝えられている。貞吉の長男重太郎はそれに対して「桶町の竜」と称されたと云われている。1853(嘉永6)年、水戸藩に召し出され、馬廻組⇒大番組に昇進するも、惜しむべく1862(文久2).1.12日、30歳の若さで没した。

 1855(安政2).12.10日、千葉周作病没(享年62歳)。

 門人に山岡鉄舟(鉄太郎、1836-1888)、清川八郎(1830-1863)、藤堂平助(1844-1867)、山南敬介、森要蔵(1810-1868)など。坂本竜馬(龍馬)もこの流派に列なる。

【千葉定吉「桶町千葉、小千葉」道場】
 周作の実弟・千葉定吉政道が、玄武館創設に協力した後独立して道場を開き、最終的に京橋桶町に定まった。その為、「千葉周作道場玄武館」と区別する意味で「桶町千葉」、「小千葉」と称された。1853(嘉永6))年、鳥取藩江戸屋敷の剣術師範に召し出された。その後を長男の重太郎一胤が引継ぎ、30歳にして道場を任された。この道場に坂本竜馬(1836-1867)が入門し、重太郎と親交することになる。

 なお、1853(嘉永6))年、坂本竜馬が道場へやって来た時、定吉の長女の佐那と初手合わせし、歯が立たなかったと伝えられている。佐那は「千葉の鬼小町」と呼ばれる美人で、後に竜馬の許婚となったが、婚姻には至らなかった。慶応3(1867)年、龍馬が京都において暗殺されると、その後は一生独身を通し、為にかどうか生涯を独身で過ごしている。

 1860(万延元)年、重太郎も鳥取藩に召し抱えられ、1862(文久2)年、周旋方に就任。同年12.29日、勝海舟の開国論に反発して、坂本龍馬とともに勝邸を訪ね、機を見て斬ろうとしていたところ、龍馬が海舟の言に伏した為に沙汰止めとなったとの逸話が残されている(「海舟日記」)。

山岡鉄太郎(鉄舟)
 山岡鉄太郎(鉄舟)は、天保7年、旗本・小野朝右衛門の子として生まれる。母は塚原ト伝の流れをくむ。千葉周作に北辰一刀流の剣を学び、20歳の時に、刃心流槍術の山岡静山に入門した。静山が早世したため、静山の弟で高橋家の養子となっていた精一(後の高橋泥舟)に請われ、静山の妹・英子と結婚し山岡家を継いだ。

 安政3(1856)年、剣の腕を買われ幕府講武所の剣術世話役心得に取り立てられた。その剣技は「鬼鉄」と恐れられた。安政6(1859)年には清河八郎と結び、尊皇攘夷党を結成した。文久2(1862)年、浪士組取締役に任命され翌年上洛するが、清河の建白書提出を受けて程なく江戸に帰還した。その後山岡は浅利又七郎に剣を学び、修行を重ね「剣を捨て、剣に頼らぬ」の境地に達し、一刀流正伝と秘剣・瓶割刀伝授される。

 大政奉還後の明治元(1868)年3月には、勝海舟の使者として新政府軍東征大参謀の西郷隆盛を単身訪問し、静岡で会見、江戸総攻撃を仕掛けようと目論む新政府軍に、徳川家救済と戦争回避を直談判し、江戸城無血開城のきっかけを作った。西郷は当初、江戸城を無条件で引き渡す他、慶喜を備前に預けるとの条件を提示した。しかし、山岡は慶喜を備前に預けるのは罪人扱いだとして、涙ながらに説得。最後は切腹するかまえをみせた。山岡の決死の交渉に対し、西郷は方針を軟化させ、これにより勝と西郷の会談が実現し、江戸城の無血開城が決められることとなった。

 維新後は、茨城県参事、伊万里県権令を歴任し、明治5(1872)年には明治天皇の侍従となった。そして、宮内庁の要職を歴任する傍ら、剣と禅の修業に精進し無刀流を開いた。晩年は、子爵を授けられ華族に名を連ねている。

 1888(明治21).7.19日、座禅のまま往生した。享年53歳。

鏡新明智流

【初代・桃井春蔵「士学館」道場】
 初代・桃井春蔵(直由、1772-1780)は福島の郡山藩士。自身の修得した戸田流、一刀流、柳生流、堀内流を合わせ鏡心明智流を創始した。1773(安永2)年、日本橋南茅場町(現東京都中央区日本橋茅場町)に「士学館」を開く。流派名は戸田流抜刀術の形名「鏡心」に因み「鏡心明智流」とされ、後に「鏡新明智流」と改められた。ただしその後も両方の表記がみられる。
 桃井直一(2代目 桃井春蔵)が南八丁堀大富町蜊河岸(現 中央区新富)に移転。

【4代・桃井春蔵「士学館」道場】
 桃井春蔵(1825―1885)は駿河国沼津藩士・田中豊秋の次男として生まれた。幼名は甚助、名は直正。1838(天保9)年、江戸に出て3代目桃井春蔵の名を継ぐ直雄に入門し、鏡新明智(きょうしんめいち)流を学んだ。直正は剣術の才能を師匠に見込まれ、その婿養子にまで取り立てられる。1841(天保12)年、弱冠17歳の若さで4代目桃井春蔵の名を襲名する。桃井春蔵の名は士学館で代々受け継がれる名であり直正は第4代桃井春蔵。1848(嘉永元)年、免許皆伝される。

 1866(慶応2)年、幕府から講武所剣術教授方出役に任じられ、幕臣として取り立てられた。1887(慶応3)年、遊撃隊頭取並に任じられている。明治時代には大阪で誉田八幡宮の神官となった。明治12年(1879年)、警視庁に撃剣世話掛が創設されると、士学館の高弟であった上田馬之助、梶川義正、逸見宗助が最初に登用され、これに続いて阪部大作、久保田晋蔵、兼松直廉などの弟子も採用された。その後警視庁で制定された警視流木太刀形と警視流立居合にも、鏡新明智流の形が採用された。1885(明治18)年)、コレラにより死去(享年61歳)。

 門人として武市半平太(瑞山、1829-1865)、岡田以蔵、中岡慎太郎(1838-1867)、田中光顕(1843-1939)等々。

天然理心流

【近藤勇「試衛館」道場】
 後の新撰組隊長となる近藤勇が道場主を務めていた道場で、天然理心流の「試衛館」。「牛込甲良屋敷」にあった。

直心影流

【男谷精一郎「男谷道場」】
 直心影流13代目。防具による試合稽古を創始した。幕臣の門人が多かった。心胆の練磨を強調する重厚な剣。門人は、島田虎之助、勝海舟、天野八郎。江戸末期の剣豪では、「男谷信友、大石進、島田虎之助」が「幕末の三剣士」と云われた。

島田虎之助
 島田虎之助は、1814年生まれで、九州の中津藩出身。24歳の時に江戸の直心陰流(じきしんかげりゅう)の男谷道場へ入門。勝海舟の剣の師匠であったが、38歳の若さで病没。剣術以外に儒教や禅を好んで学んだことから、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」の言葉を遺している。虎之助の出生地の石碑には、「剣は心なり 心正しからざれば 剣また正しからず。剣を学ばんと欲すれば 先ず心より学ぶべし」と印されている。島田虎之助の弟子に幕末の三舟(勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟)がいる。

【榊原鍵吉】
 榊原 鍵吉(さかきばら けんきち、1830.12.19日(文政13.11.5日) - 1894(明治27).9.11日)は江戸幕府幕臣であり幕末から明治にかけての剣術家。遊撃隊頭取。諱は友善(ともよし)。男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承した。明治維新後に撃剣興行を主宰して剣術家を救済したことや、明治20年(1887年)の天覧兜割りなどで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。

 文政13年(1830年)、江戸麻布の広尾生まれ。父は御家人・榊原益太郎友直。5人兄弟の長男であった。

 天保13年(1842年)、13歳のときに直心影流剣術・男谷信友の道場に入門する。当時、男谷道場は広尾から近い狸穴にあった。しかし、同年に母が死去し、父・益太郎は下谷根岸に移ったために狸穴は遠く不便となった。その上、鍵吉は亡き母に代わって家の雑務や兄弟の面倒を見る必要があった。見かねた男谷は、玄武館・士学館・練兵館など名のある道場の方が近くて便利だと移籍を促した。しかし鍵吉は、いったん入門した以上は他に移る気はないと言って通い続けた。鍵吉はめきめき上達したが、家が貧乏なため、進級しても切紙や目録など、費用のかかる免状を求めたことがなかった。

 嘉永2年(1849年)、男谷は事情を察し、男谷の方で用意を整えてやり、鍵吉に免許皆伝を与えた。

 安政3年(1856年)3月、男谷の推薦によって講武所の剣術教授方となる。後に師範役に昇進。

 安政7年(1860年)2月、講武所が神田小川町に移転した際、2月3日の開場式に将軍・徳川家茂、大老・井伊直弼ら幕閣が臨席して模範試合が開かれた。鍵吉は槍術の高橋泥舟(謙三郎)と試合した。すでに高橋は井戸金平と対戦して、相手の得意技である足絡みで勝ち、席を湧かせていた。鍵吉は高橋に勝って、満座の喝采を浴びた。これを家茂が気に入り、鍵吉は将軍の個人教授を務めるようになる。

 文久3年(1863年)、将軍上洛に際し、随行する。二条城内で新規お召し抱えの天野将曹(将監とも)と試合して勝つ。天野は男谷派の同門だが、新規お召し抱えの意地もあって「参った」と言わず、それならばと鍵吉は激烈な諸手突きを食らわせ天野をひっくり返したという。また、京都の四条河原で土佐藩浪人3人を斬ったともいう。

 慶応2年(1866年)7月、家茂が大坂城で死去すると、江戸に戻る。11月に講武所が陸軍所と改称、組織替えになると、職を辞して下谷車坂に道場を開いた。

 慶応4年(1868年)、上野戦争のとき、鍵吉は彰義隊には加盟しなかったが、輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、土佐藩士数名を斬り倒して、山下の湯屋・越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って三河島まで脱出。その後何食わぬ顔で車坂の道場に戻っている。

 明治維新後、徳川家達に従って駿府に移るが、明治3年(1870年)に再び東京に戻る。明治政府から刑部省大警部として出仕するよう内命があったが、鍵吉は、自身は幕臣であるとの思いからこれを受けず、代わりに弟の大沢鉄三郎を推挙した。

 明治5年(1872年)、士分以上の帯刀が禁じられたことで、道場経営が立ちゆかなくなり、警察の武術教授らも不要として職がなくなる。鍵吉は、これら武芸者の救済策として、明治6年(1873年)に「撃剣会」を組織、浅草見附外の左衛門河岸で見世物興行する。これが撃剣興行の始まりで、東京で37カ所に上り、地方にも及んだ。考案した撃剣興行は、剣術を見世物にしたことや、客寄せのための派手な動作が後の剣道に悪影響を与えたとして批判される一方、剣術の命脈を保ったという評価も認められており、功績をたたえ平成15年(2003年)に全日本剣道連盟の剣道殿堂に選ばれている。晩年まで講釈席や居酒屋を経営したが上手くいかず、車坂道場で後進を指導し、著名人が招かれた園遊会などで度々演武を行った。

 明治9年(1876年)、廃刀令が出ると、刀の代わりに「倭杖」(やまとづえ)と称する、帯に掛けるための鉤が付いた木刀(政府に遠慮して杖(つえ)と称していた)と、脇差代わりの「頑固扇」と称する木製の扇を考案し、身に着けた。

 明治11年(1878年)、明治天皇が上野に行幸し、天覧試合が挙行された。鍵吉は主宰として審判を務めた。

 明治12年(1879年)、警視庁に撃剣世話掛が創設されると、鍵吉は審査員として採用者を選抜した。

 明治20年(1887年)11月11日、明治天皇が伏見宮邸を訪れた際、天覧兜割り試合が催された。出場者は警視庁撃剣世話掛の逸見宗助と、同じく上田馬之助、そして鍵吉であった。逸見、上田は失敗したが、鍵吉は名刀「同田貫」を用いて明珍作の兜を斬り割った(切口3寸5分、深さ5分)。

 明治27年(1894年)元旦、山田次朗吉に直心影流の免許皆伝を授け、同流第15代と道場を譲る。9月11日、脚気衝心により死去(享年65歳)。四谷西応寺に葬られた。法名は義光院杖山倭翁居士。死ぬまで髷を解かず、道場も閉じなかった。

 逸話

  • 稽古で長さ六尺、重さ三貫の振り棒を2000回も振ったといわれ、腕周りは55cmあったという。
  • 車坂の道場には、英国領事館書記のトーマス・マクラチ、フェンシングの名手でもあったハインリッヒ・シーボルト、ドイツ人の東京帝国大学講師ベルツ、フランス人ウイラレー及びキール(共に陸軍戸山学校西洋剣術教師)ら外国人も訪れ、鍵吉の指導を受けた。

心形刀流

【坪内主馬「坪内道場」】
 心形刀流の「坪内主馬道場」。この道場に師範代として「永倉新八」が招かれた。門人として島田魁。後に、永倉新八は新撰組=二番組組長、島田魁は二番組伍長というコンビを組んだ。他に伊庭八郎。

【天野静一「天野道場」】
 「天野道場」、道場主は天野静一。新選組で一番長生きした隊士「稗田利八(池田七三郎)」が、剣術を学んだのが「天野道場」。

【佐々木只三郎】
 

【浅利 義明】

【梶川義正】

【逸見宗助】
 

大石進大石神影流)】

比留間与八甲源一刀流








(私論.私見)