アイヌ思想及び宗教及び文化考

 (最新見直し2008.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 地球環境汚染、破壊を代表とする「文明の限界」からアイヌ思想が脚光を浴びつつある。そもそもアイヌ思想が何時ごろどのように形成されたものなのか定かでないが、日本人の精神基盤に脈打ち、構造的に根付いている点は否定しようがない。

 日本人は、いわゆる在来の神道、インド-中国発の仏教、儒学、西欧発の近代西欧思想等々を上手く咀嚼してきたが、それはそもそも日本人が古来に確立していたアイヌ思想、それと深く関係すると思われる古神道の開放的思想構造が可能にせしめてきたものと思われる。

 れんだいこは従前、出雲神道的古神道に注目してきたが、その出雲神道的古神道の原基を為すと思われるアイヌ思想の特質と開かれた構造を検証することにする。

 「縄文からアイヌへ」(出版社:せりか書房 価格:2100円 )(書評者:国立民俗学博物館教授・アイヌ民俗学・大塚和義)、「アイヌのアイちゃん」その他を参照する。

 2008.5.19日 れんだいこ拝


 日本に受容された仏教は他の仏教に比国には類を見ない変容をした。一つは権力的な取り込み、一つは思想の陶冶。「天台本覚論」に「山川草木悉有仏性」という思想が打ち出されている。この観点はインド-中国経由の仏教からは発生せず、日本在来の縄文的アイヌ思想を取り入れた末の観点と思われる。「山川草木悉有仏性」とは、仏性をもつのは人間だけでない、動物だけでない、草木、植物、山、川も存在することごとくに皆仏性が宿っているとする霊気思想を云う。この観点がアイヌ思想と関連している。

 対極的に、西欧近代哲学を創始したルネサンスの流れを汲む.デカルトやベーコンの哲学は、ユダヤ-キリスト教の如くな神を世界の中心に置くのではなく、人間を世界の中心に置いたところに新思潮の意味が見出せるが、自然を人間の対立物とし、自然を征服して奴隷のように使うことが文明の進歩であると考え、そこから近代文明を創り上げた点では、西欧思想の伝統的枠組みから抜け出ていない。

 しかしながら、現代人は、自然と人間を対立させる考え方こそ最大の誤りで、神中心も人間中心主義も間違いであるということに気づかされつつある。人間は自然の一部であり、共存し合う関係を打ち立てることこそが真の叡智であるということに気づかされつつある。そういう意味で、「草木国土悉皆成仏」という天台本覚論にまとまり、日蓮や道元にも受け継がれた、元を辿ればアイヌ思想、その生命観こそ見直されるに値する。21世紀文明は、この思想、生命観に基づくしか生き残れない。「人類の哲学」とは、そのような課題に応える"人類救済の哲学"なのである。(「21世紀日本の展望(その16):日本で生まれた「共生の思想」の源流は縄文・アイヌ思想」参照)

 このような独特の文化変容を見せる日本の精神的風土の根源に日本神道があり、その根源に先住民族アイヌの思想があると考えられる。アイヌは、自然事象を神(カムイ)とし、その神々との共存共生による採集狩猟社会に生きてきた。その精神世界を知ることは古代日本人の精神構造を知る手がかりになる。

 アイヌにとって陸の神の頂点に立つのが熊であった。「クマ祭り」として知られるイオマンテなる儀礼は、春先に冬ごもりの穴から連れ帰った仔熊を1~2年飼育した後に盛大な儀礼とともに殺害し、その霊を神の国に送り返すものである。アイヌの精神文化が集約されているといってもよい。

 「神道の神々もそうであるが、アイヌのカムイも教義を語らない。ユダヤ教や、キリスト教の神のように、人間に生き方としての倫理を説くこともない」。神話や神謡はあっても宗教的教典というものがない。神もカムイも、生命の『ひびき』であって、ユダや教的な創造主と被創造主の間に介在するヒエラルキーがない。

 アイヌの精神世界は、人間(アイヌ)の生活に必要な自然物や人工物すべてに霊的な存在を認め、それらと人間が友好的な関係を維持し続けることを前提とする。生活のあらゆる場面でカムイノミ(神への祈り)を欠かさない。アイヌにとってはカムイは決して人間より上位にあるのではなく、人間に悪さをするカムイを恫喝し懲らしめることさえした。このカムイとアイヌの関係が注目される。「アイヌがカムイをいたずらに偶像視しないのは、カムイの実態が破壊されない生命そのものに他ならないことを直感しているからである」。

 このアイヌ的採集狩猟社会は縄文時代の精神社会をも規制することになった。縄文の社会を理解するためには、「伝統的な」アイヌ社会を知ることがもっとも近道であると考えられる。「アイヌ文化」を成立させ、その社会と文化を担ってきたアイヌは、日本本土から次第に追いやられ北海道へと移住を余儀なくされた。というか、北海道アイヌが内地アイヌを受け入れたということでもあろう。北海道を中心としたアイヌモシリは「人間の大地」において、時間の経過とともに変化したが、この間変わらぬ精神文化を維持してきた。日本の先住民アイヌの精神、文化、生命哲学は見直されて良い。

 アイヌ人は、始めから持たなかったのか或る時代に於いて喪失したのか不明であるが、文字を使わない。そのため、できごとや歴史を口伝えで語り継いできた。そういう形で代々の伝統的知恵そのものを伝承している。アイヌ人は、アイヌ民族という一つのまとまった民族にはなっていない。その様は、南北両大陸に住む先住民インディアン(北米をインディアン、南米をインディオと云う)と同じで、インディアン民族という概念がないようにアイヌ民族もない。各部族ごとに伝統を継承し、今日へと至っている。各部族間に多少の確執があり、一つにまとめるのは既に無理な事態になっている。

 当然、各部族の伝統伝承は異なっており、アイヌ文化というのは断絶しているように見えるが、共通したものも多い。その共通部分は、「古き良き、日本の心」を知ろうとする時、滲み出てくるものとなっている。日本の伝統の奥にある核のようなものはアイヌに由来していることが多い。アイヌの心を訪ねねばならない所以がここにある。ここでは、その共通項的アイヌ的心象を確認する。

 「アイヌ」とはアイヌ語で「人間」を意味する言葉である。アイヌ人は、自然界の全てのものに心があるという考え方を基調にしており、自然を指す「カムイ」に対する概念として「人間=アイヌ」を位置付けている。

 アイヌ語には 「アイヌ・ネノアン・アイヌ」(人間らしくある人間)という言葉がある。アイヌを二つ重ねて呼ぴ、それをめざすと云うアイヌ的知性が秘められている。

 アイヌでは赤ちゃんはカムイ(神)と崇められ、コタン(村)全部のものと考えられている。赤ちゃんには 躾(しつけ)が重視される。一人前の人としての礼儀やマナーが教えられる。人間と人間がどう向き合うべきかのアイヌ的真髄が躾される。

 アイヌの自然観は、現代社会に厳しい警告を発している。鹿の肉などの獲物を獲っても、決して必要以上を捕獲しない。それらを神からの恵みとして受け取り、一部は木の枝に吊るしてカラスのために、一部は雪の下に置いてキツネのためにと残しておくしきたりがある。これは、自然の中で共に生かされ合っていのちを共有するという自然観に基いている。世界三大叙事詩といわれる「ユーカラ」や「サコロベ」は、現代がすでに失ってしまったモノを私たちに教えてくれる。現代人は、「アイヌから学ぶ自然と生きる知恵」を持つべきではなかろうか。

 こう了解すべきところ、和人は、アイヌのこの精神文化に対して「無知蒙昧」かの如く蔑んできた。日本の近代化は、異民族に対する同化教育の歴史でもあった。アイヌ、ウィルタ、朝鮮民族に対して、土地を奪い、言葉を奪い、名前を奪い、「日本人」となることを押しつけてきた。日本人は、このことにあまりにも、鈍感に過ごしてきた。

 「赤色赤光・白色白光……」(「仏説阿弥陀経」)という釈尊の教えがある。異なるものを互いにその存在を認め合いつつ共に生きていく道を実践する生き方を諭している。真実の教えはかくも近いというべきではなかろうか。

 アイヌの宗教、思想をもう少し確認しておく。アイヌの習俗習慣は民族宗教に根ざしており、アイヌの生活には祈りの儀式が多い。カムイノミという神様への祈りの儀式、イチャルパという先祖供養、イヨマンテという神様の霊を神様の国へ送り返す儀式がある。

 山へ入る時にはカムイノミをする。山には神々が住まいしており、「おじゃまします」の挨拶を行う儀式である。山に入って木を切ったり皮をはいだりするときも、木の神様にお願いのカムイノミをしてからする。道具にも魂があって、その道具が使えなくなったとき、イヨマンテをしてその道具の神様を国へ丁重に帰す。歌や踊りが、こうした儀式のときに行われることが多い。

 アイヌ文化の象徴としての歌や踊りの際の着物、木彫りに使われるアイヌ文様には呪術的な意味がある。文様には、人間と自然の関わり方を描いた生きる知恵と想いが織り込まれている。例えば、代表的なモチーフ「渦模様」は、ぐるぐると渦巻く“無限の力”を表し、棘のような「括弧(アイウシ)模様」は“魔除け”を意味している。これらの文様を生かした衣装を身に纏うことで、自然の力と共に生き続けようというのがアイヌ流の考え方である。ユーカラは国生み神話だったりするわけで、全て宗教に根ざしている。

 アイヌ人は狩猟採集経済を基調として生活している。これにより狩をする。鉄砲が入ってからは鉄砲を使うようになつたが、それ以前は弓矢を道具としていた。矢には矢毒というトリカブトを主原料とした毒を使っていた。他にも呪術的な意味を持つ塗り物を混ぜていた。矢がまっすぐ動物に向かって飛んでいってくれますようにという、矢の神様への祈りの意味があったと云う。矢には部族ごとの印があり、毒矢が当たった動物が逃げ出した場合、印が決め手となり引き渡されたと云う。

 これまでアイヌ文化が研究されているが、それらは全て民俗学からの研究であった。今後は、宗教、思想学の観点から見つめ直し、日本の古神道に繋がる叡智を確認する必要があるように思われる。






(私論.私見)

刺繍に宿る物語
~アイヌから学ぶ自然と生きる知恵~