アイヌ神話に於ける宇宙観、自然観

 (最新見直し2008.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、アイヌ神話における宇宙観、自然観ついて確認しておく。

 2008.10.23日 れんだいこ拝


アイヌ文化 (7)  宇宙観と神話




アイヌ人は最初から地球が丸いと思っていたらしい。常に宇宙は丸で描かれる。

 

・・・美しい娘は孤独を感じ、小屋中を見つめ、それから小屋外を見渡した。彼女はそれから外に出てまた見た。雲はアイヌ地平線上に美しく輝き、うねっていた。そう、それが彼女が見たものであった。そして小屋に戻り、針仕事を始めた・・・

 

 アイヌ英雄、オキミクルが恋をして、その仲介をセキレイがする伝説一節である。セキレイは「オキミクル思いが通らずに、彼がいなくなったらアイヌ国も無くなる」と娘を説得する。

 

 どの民族伝説もそうだが、そこで語られる話は美しく素朴だ。

 

  冥界もあったし、天上も存在した。神様も悪魔も、そしてその周りに天使もハッキリと意識されていた。

 

 アイヌ人には無神論者はいなかっただろうと言われている。この世すべてことは神がお作りになり、人間は感謝しながらその一部として生きる。仕方ないものは仕方が無く、できないことは出来ない。

 

 川は上流と下流に分けられる。上流は神住むところであり、人間は下流だけしか利用できない。この神聖な掟はおそらく「自然と共存」ものであり、人間活動を制限することによって、持続的な共存関係を築くものだったに違いない。

 

 もし人間が川上流までさかのぼってそこものを取るようになれば、彼らは永続的な資源供給源を失うだろう。

 

 さまざまな掟は生活を縛り、それだけ自ら生活自由をも奪った。でもそれは自然中で生きる人間というものの自制心だったように感じられる。

 

 川自体もそうだが、川辺に茂る木々一本一本もまた「俺は木曽川と共にいるだ」と自慢しているようだ。

 

 自然ものはデザインしなくても美しい。アイヌ人が住んでいたコタン(集落)、それは常に美しいところにある。自然と共に生活をし、神が与えてくれた範囲で生きていた彼ら人生は豊かだった。武田邦彦


日本神話アイヌ神話、 出雲神話と『もののけ姫』


縄文からアイヌ
出版社:せりか書房 価格:2100円
「本家インド仏教や大先輩中国仏教とはおよそ似て非なるものになってしまった・・・僧職にある者肉食妻帯を許したり、どんなに深い罪でも一回念仏を唱えれば極楽浄土間違いなしと説いたりすることは、まず、他仏教国、特に釈迦教えを忠実に守ろうとする上座部仏教を信奉する国々仏教徒にしてみればほとんど外道教えに近い(P151)」。
 日本に受容された仏教は他仏教に比国には類を見ない変容をした。このような独特文化変容を見せる日本精神的風土根源を探るべく、著者は日本先住民族アイヌにアプローチした。明治に入るまで、「異族」と認識されていたアイヌは採集狩猟を柱とする自然物に生活を依存する経済社会に生きてきたのであり、その精神世界を知ることは仏教伝来以前、あるいは弥生時代米栽培文化伝来以前における古代日本人精神構造を知る手がかりになると予想した。そして、アイヌ精神世界に触れた実に多く著作を読みこなし、99年夏には、2ヶ月間を北海道でアイヌ人々と語り合うという作業を通してこの本をまとめている。
 著者は、自ら仏教者として20数年を過ごし、さらにアメリカ神学校でキリスト教を学び、また法然研究によって学位を取得する
という、本人言によれば、「節度無い宗教遍歴」を送ってきた。その経歴が示すように、本書中には宗教学、哲学、神話学、言語学など多彩な分野における著作から引用がなされ、それを読むだけでおもしろく、本書スケール大きさを実感する。
 アイヌは人間(アイヌ存在にかかわる自然事象を神(カムイ)とし、人間と神と対等な共存を図ってきた。わけても陸頂点に立つクマに対する儀礼は重要で、「クマ祭り」として一般的に知られてきた。このイオマンテとよばれる儀礼は、その内容から「飼い熊送り儀礼」とするが適切である。春先に冬ごもり穴から連れ帰った仔熊を、1〜2年飼育した後に盛大な儀礼とともに殺害し、その霊を神国に送り返すというものである。アイヌ精神文化が集約されているといってもよいこの儀礼を、著者は民俗学、文化人類学をふまえた独自、宗教学者目によって解釈し、儀礼各プロセスが細かく分析されている。すなわちマルセル・モース「贈与論」を下敷きにして、イオマンテも人間(アイヌ)が生きていくために必要なカムイと交換であると結論づけている。そしてまたアイヌ交易も、それが単なる経済行為でなく、当事者マナ(霊的な力)が込められた品物交換であったとする。こうした解釈は当事者アイヌが、現在では当然認識できないであろうし、過去においても明確には認識していなかったであろうと思われるものではあるが、読者になるほどと思わせるには十分である。
 第3章では、ギリシャ語ゾーエー(Zoё)と、ビオス(Bios)という言葉について紹介する。ハンガリー神話学者カール・ケレーニィによれば、ゾーエーは「ビオス1つ1つが真珠ように通して並べられる糸であり、この糸はビオスとちがって、ひたすら無限に連続するもの(P114〜115)」すなわち、「ビオスである個々生滅にかかわらず、ゾーエーはタナトス(死)存在を認めず、永遠に存在しつづける。(P115)」のである。そして言う、「神道神々もそうであるが、アイヌカムイも教義を語らない。ユダヤ教や、キリスト教ように、人間に生き方として倫理を説くこともない。」 その特徴なさは、まさにゾーエーそのものである。その証拠に日本列島には、神話や神謡はあっても、そこで生まれた宗教的教典というものがないのである。神もカムイも、生命『ひびき』であって…したがって、創造主と被創造主…ようなヒエラルキーが、神と人間間に介することもなかった。破壊されるビオスは、破壊されないゾーエー『ひびき』に共鳴することを願っただけである。(P115)
 アイヌ精神世界は、人間(アイヌ生活に必要な自然物や人工物すべてに霊的な存在を信じ、それらと人間が友好的な関係を維持し続けることにもっぱら関心が持たれ、生活あらゆる場面でカムイノミ(神へ祈り)を欠かさなかった。しかしカムイは、決して人間より上位にあるではなく、アイヌは人間に悪さをする、カムイを恫喝し懲らしめることさえした。このカムイとアイヌ関係が著者によって、「ゾーエーとビオス関係」という言葉によって明確に説明される。「アイヌがカムイをいたずらに偶像視しないは、カムイ実態が破壊されない生命そのものに他ならないことを直感しているからである。」として、この直感を、<ゾーエー的生命感覚>と呼ぶ。
 さらに著者は、アイヌ伝統的生活文化さまざまな場面を切り取って独自見解を述べ、採集狩猟民族であったであろう縄文時代精神社会をも推測する。考古学学徒であった評者も、縄文社会を理解するためには、「伝統的な」アイヌ社会を知ることがもっとも近道であると考え、アイヌ民族学研究に踏み込んできた。評者目指した方向はもっぱら、厳然と存在する物質文化をとおして、その作り手や、使い手心や社会を理解するという方法である。それゆえ、本書著者方法論には、アイヌ文化を読み解くひとつ思考として非常に興味を覚えるものであった。しかし日本列島に約1万年より2300年前までに存在した縄文文化とおよそ700年前に成立したアイヌ文化をそれぞれひとくくりにして考えることや直接結びつけることなどについても、評者は、著者と意見を異にする点が少ない。「アイヌ文化」を成立させ、その社会と文化を担ってきたアイヌは、北海道を中心としたアイヌモシリ「人間大地」において、時間経過とともに変化してきたものであり、少なくとも数百年間変わらぬ精神文化を維持してきたものではないのである。
 結論的には、現在知られているアイヌ精神文化を独自視点によって分析し、アイヌ生命哲学というものを中心に唱えて、著者は現在日本人がもはや問い掛けることを忘却したといってよい生きること自覚、全存在的な生き方をもう一度想いだしてほしいと、読者に呼びかけている。日本先住民アイヌとその文化存在に一般人々興味を向けさせ、アイヌが今模索している文化再生と継承へ試みに対する共感を生む著作であろう。(了)書評者:国立民俗学博物館教授・アイヌ民俗学 大塚 和義

 






(私論.私見)