アイヌ民族と日本現代史の関わり |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.13日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、アイヌ史の日本近代史上での関わりを確認しておく。「アイヌ民族の歴史年表」、「アイヌ モシリ年表」その他を参照する。 2008.5.19日 れんだいこ拝 |
1945(昭和20).8.15日、第二次世界大戦、日本が無条件降伏。
8.20日、北のひめゆり事件が起こる。占守島の日本軍武装解除は8月23日と24日に行われた。ソ連軍が、8.26日、松輪島(マツワ島)。8.27日、ウルップ島を占領。8.29日、択捉島を占領。9.1−4日、国後島と色丹島を占領。9.5日、歯舞諸島を占領。
1947年、第92回帝国議会衆議院請願委員会、「アイヌの保護事業に関する請願」参考送付。北海道旧土人保護法改正、
1949(昭和24).6.1日、樺太庁消滅。北海道開発庁設立。復員兵や満州引揚者の就労の場として北海道の農地開拓が推奨される。
1950(昭和25)年、朝鮮戦争勃発。米・ソの冷戦と世界分轄が朝鮮半島を舞台とした戦争に発展した。同じ民族同士が先祖の土地で殺し合いを行う悲劇が起こった。一方日本では、この戦争での物資需要による特需景気により経済が進展した。
1953(昭和28)年、知里真志保「分類アイヌ語辞典」が発刊される。
1955(昭和30)年、イヨマンテ(熊送り)禁止される。
1959(昭和34)年、金田一京助、金成イメカニ「ユーカラ集」が発刊される。
1960.4月、道庁の支持を受けて北海道アイヌ協会の再建総会が開かれる。会員は400名ほど。名称をウタリ協会と改める。
1964年、行政管理庁、北海道旧土人保護法の廃止を勧告。その後、貧困者の子弟への学資援助や住宅改良資金などが次々に廃止される。
1964(昭和39)年、全道アイヌ祭り。旭川市の支援の元、川村カネトアイヌは、全道からアイヌ約230名を招き、アイヌ民族の生活や文化の向上、紹介などを目的とした巨大な大会を開催する。市営球場でのイヨマンテ(実際には送らず)や川下り、料理教室、ウポポ大会、ユカラ大会、弁論大会などの16の行事を五日間に渡って開催、氏の「アイヌ根性」と、民族アイヌの健在ぶりを内外に誇示した。尚、ウタリ協会は祭りの呼称に「アイヌ」を冠する事に抗議し、協力せず。
1966(昭和41)年、アイヌ民芸使節団の弟子豊治、沖縄の真栄平に「南北の塔」建立。
1970(昭和45)年、全道市長会総会で北海道旧土人保護法廃止案採択。ウタリ協会は廃止反対の立場を明らかにする。
1970年、有珠火力発電書反対闘争開始。北海道電力は、伊達に火力発電所を建設すると発表、。これに対し、このころ各地で問題化しつつあった公害問題に注目した周辺漁民が反対闘争を開始。地域のアイヌの漁民の活動も活発化し、数年間に渡り実力闘争を継続、機動隊との衝突や反対派磯船の沈没、多数の逮捕者を出した激しい戦いであった。
1970年、風雪の群像事件。旭川市常磐公園に北海道開拓を記念して5体の像からなる群像が建設された。「波涛」、「大地」、「沃野」、「塑風」、「コタン」と名付けられた群像の実体は、伸び伸びとした和人の彫像の中、アイヌの古老がただ一人、膝をついて和人の入植者たちを案内している。これが批判された。
1970年、鳩沢佐美夫「対談・アイヌ」を日高文芸誌上で発表。
1971(昭和46)年、東アジア抗日武装戦線が、興亜観音像、殉国七士の碑を爆破。
1972(昭和47)年、アイヌ解放同盟結成・山本太助翁らと共に人類学会批判。札幌で開催された第26回日本人類学会・日本民族学会連合大会に対し、結城庄司らがアイヌ研究を批判、萱野茂が仲介。9月20日、結城庄司らが、静内のシャクシャイン像の台座に刻まれた「北海道知事・町村金五書」の文字を、和人と戦ったシャクシャインがうかばれないと考え削り取った(シャクシャイン像台座損壊事件)。10.23日、シャクシャイン暗殺の日、東アジア抗日武装戦線などの和人の活動家の手により、旭川の風雪の群像と北大資料室が爆破される。後日、東京で三井・三菱の工場も爆破され死傷者が発生、京都や青森でも事件が発生し、混乱は全国区に発展した。
1972年、二風谷アイヌ資料館設立。萱野茂氏が建設。アイヌ自身の手による2番目の記憶の砦。
1972年、東京の山谷地区で、差別致傷事件発生。アイヌ差別が元で刺傷事件が発生。ウタリ協会は本件を関知しなかったが、川村カネト、荒井源次郎、苫和三、高橋真らが支援。
この年は札幌オリンピックを控え、北海道での過激派の活動が活発化する。同時期に結城庄司らの活動(台座損壊など)も活発化した事もあり、各地で(活動家でない人も含む)アイヌに対する盗聴・尾行・不当逮捕が多数発生する。そのような状況の中、自衛の意味もあり旭川アイヌ協議会が結成される。
1973(昭和48)年、「全国アイヌの語る会」が札幌で開催される。砂沢ビッキ、結城庄司らが活躍。開拓記念塔の脇に、大地の手・建立。札幌郊外にある開拓記念塔の脇に、5200人の手形を集めた碑が建設される。この手形に、山本多助は「アイヌネノアンアイヌ」、結城庄司は「アイヌ解放」、と刻み参加した
1973年、有珠火力発電書反対闘争の機関紙として新聞「アヌタリアイヌ」創刊。「ヤイユーカラ・アイヌ学会」「東京ウタリ会」発足。
1974(昭和49)年、北海道庁が、ウタリ福祉対策(第1次)開始、現在(第4次)も継続中。
1974年、萱野茂「ウェペケレ集大成」。シャクシャイン像の台座損壊事件を元に、アイヌ解放同盟の結城庄司らが逮捕される。かつて強姦や酷使に耐えかねて「クナシリ・メナシ蜂起」が戦われ、多くのアイヌが虐殺されたノッカマップ岬において、アイヌ解放の戦士達のイチャルパが開催された(ノッカマップイチャルパ開催)。
1975(昭和50)年、苫小牧ガスライター不当逮捕事件発生。タバコを吸わないアイヌの活動家が、壊れたガスライターを盗んだとして8ヶ月間拘留される。
1976年、十勝旭明社が解散。「アイヌ系住民が一般社会の中において渾然一体となり、一般日本民族として生活を営むにいたったため」とする。
1977(昭和52)年、「闇の土蜘蛛」が東本願寺大師堂を爆破。
1980年、関東ウタリ会発足。
1982(昭和57)年、国際連合「先住民に関する作業部会」設置。札幌豊平川で「アシリチェップノミ」開催。
1983年、屈斜路湖畔でシマフクロウのイヨマンテ復活。東京で「アイヌ民族の現在を考えるレラの会(後のレラの会)」発足。
1984年、アイヌ古式舞踊が国の重要無形民俗文化財の指定を受ける。
1985(昭和60)年、「アイヌ肖像件裁判」提訴。アイヌ民族誌という本にチカップ美恵子が映画に出演した際の写真が無断に掲載され、しかも「滅び行く民族」という見出しを使われた。このことに対し、チカップ美恵子らが更科源蔵などの研究者を相手取り「アイヌ肖像件裁判」提訴した。1988年和解。
1985年、旭川でイヨマンテ復活。川村・シンリツ・エオリパック・アイヌが、実際にクマを送り、全てを伝統的なアイヌ式で執り行う見世物ではない完全なイヨマンテを復活。その過程は1年にわたるTBSの取材を受け、特別番組として全国区で放映された。
1986年、中曽根康弘総理大臣が「日本は単一民族国家」、「日本国籍をもつ方々で、差別を受けている少数民族はいない」と発言。大きな社会問題となる。
1987(昭和62)年、旭川と二風谷でアイヌ語教室始まる(現在は全道で11教室)。第二回「全国アイヌの語る会」開催。北海道ウタリ協会、国際連合の「先住民族に関する作業部会」に初参加。
1988年、「ウタリ問題懇話会」から北海道知事に対し、アイヌ新法問題について報告書提出。北海道議会全会一致でアイヌ新法の制定についての要望意見書を採択。北海道ウタリ協会・北海道・北海道議会が「旧土人保護法の廃止」と「アイヌ新法の制定」を要請。
1989(平成元)年、札幌でアイヌ文化祭(ユカラ、アイヌ語劇、古式舞踊)、東京でアイヌ語弁論大会が開催。札幌で新法制定を要求するデモ行進が行われた。釧路でイタオマチプ(外洋帆船)復元される。
1990(平成2)年、笹島差別致死事件発生。名古屋駅裏の寄せ場笹島で、辛辣な差別が原因となった殺人事件が発生。さらに、支援の際の対応のデリカシーの無さから支援団体と支援を受けるアイヌとの間で深刻な軋轢が発生する。尚、ウタリ協会は本件を支援せず。
1990年、セイクレッド・ラン、大地と命の為のランニング開催。アイヌ・ソビエト親善交流協会(AS協会)、サハリンを訪問。
1991(平成3)年 外務省国連局人権難民課、「アイヌの人々は、独自の宗教および言語を有し、また文化の独自性を保持しており、国連の規定による少数民族であるとして差し支えない」と報告。
1991(平成3)年、「北海道立ウタリ総合センター」設置。アイヌ・モシリの自治区を取り戻す会発足。
1992(平成4)年、国連本部で開催された「世界の先住民の国際年」の 開幕式典で北海道ウタリ協会理事長 野村義一が日本の先住民族として記念演説。東京で、アイヌ新法の早期制定を要求する大規模なデモ行進が行われる。萱野茂、比例代表の名簿順位次点で落選する。
1993(平成5)年、二風谷ダム訴訟始まる(原告、萱野茂、貝沢正)。
1994(平成6)年、萱野茂氏がアイヌ初の国会議員として参議院比例代表繰り上げ当選。国際連合の「世界の先住民の国際10年」はじまる。日本TVによる金粉イヨマンテ事件発生。お笑いウルトラクイズにおいて全裸で金粉、ペニスケースの芸人が登場し「イヨマンテの夜」を熱唱、抗議された。東京にアイヌ料理の店「レラチセ」がオープン。
1995(平成7)年、内閣官房長官、「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」を設置。
1995年、北大人骨事件発生。北海道大学古川講堂「旧標本庫」から、アイヌ民族・朝鮮民族を含む6体の頭骨が発見され、その処遇を巡り韓国まで問題が波及。人骨の奪還・保持に山本一昭らが活躍する。尚、現在も本件は闘争継続中である。
1996(平成8)年、「萱野茂のアイヌ語辞典」刊行。 二風谷ダム貯水開始。萱野茂参議院議員らが反発。
1997(平成9)年 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興法)が制定される。一般にはアイヌ新法と呼ばれる。国家の政策がアイヌの人たちの民族性を否認し同化と是としてきた従来の姿勢から転換することを促し、アイヌ文化の振興等を図るための施策を推進することを国及び地方公共団体の責務と位置づける。これにともない「北海道旧土人保護法」並びに「旭川市旧土人保護地処分法」が廃止される。「(財)アイヌ文化振興・研究推進機構」設立。
アイヌ新法: 正式名称は「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」といわれる。第一条の「目的」は、「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与すること」と述べられている。 |
1997(平成9)年 札幌地方裁判所が、「二風谷ダム訴訟」の判決でアイヌの先住民権を認め、土地強制収用を違法と判断、アイヌ原告側が勝利する。
1997年、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」制定(通称、アイヌ文化振興法)。「北海道旧土人保護法」、「旭川市旧土人保護地処分法」廃止。「(財)アイヌ文化振興・研究推進機構」設立。
1999(平成11)年、「伝統的生活空間(イオル)の基本構想」、国に提出。
1999年、Ainu puyarA開設。アイヌ自身の手による、アイヌについて考える初のホームページ。
2001(平成13)年、鈴木宗夫「アイヌは同化されていなくなった、日本は単一民族」と発言。この発言への対応を巡り、ウタリ協会、笹村理事長を解任。アイヌ解放の戦士、山本一昭脳卒中で倒れる。病床から河野本道裁判闘争を継続中。
(私論.私見)