アイヌ民族と日本古代史の関わり

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、アイヌ史の日本古代史上での関わりを確認しておく。「アイヌ民族の歴史年表」、「新ひだか町の歴史・アイヌ文化」その他を参照する。

 2008.5.19日 れんだいこ拝


 樺太では南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族はオロッコと呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒ)などの北方少数民族が先住。

 97年、(熊襲を制圧)


 110年、吉備武彦と大伴武日を連れて東夷征伐(現在の関東地区)に出発。


 488年 中国の史書「宋書」、倭王武の上奏文に触れる。倭王武はこの上奏文のなかで、「東は毛人55国を征し」たと述べる。また「旧唐書」では、「東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと」述べる。大山は箱根を指すといわれる。

 550年、倭国内で鉄生産始まる、東日本各地で馬匹生産の本格化。当初、馬は朝廷側の独占であったが、生産性も良く、もともとアイヌは器用であったため、蝦夷地にも急速に普及する。


 581年、蝦夷数千が反乱、その首領らを召し忠誠を誓わせる。


 589年、中臣勝海(東山道)・宍人鴈(東海道)・安部某(北陸道)を遣わし国境を視察。


 637年、蝦夷反乱、上毛野形名を将軍とし攻撃。


 640年、「流鬼」(樺太アイヌ)が唐に入貢。


 7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、780年に多賀城を一時陥落させた伊治呰麻呂、789年に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。日本は大軍で繰り返し遠征し、征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。日本の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。

 蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。


 647年 大和朝廷、日本海側の海岸線沿いに渟足柵(ぬたり)、磐船柵(いわふね)、都岐沙羅柵(つきさら)を設置。渟足は現在の新潟市、磐船は新潟県村上市、都岐沙羅は秋田県南部とされる。柵(さく、き)は砦の意味。
 655年 大和朝廷、難波宮で越と陸奥の蝦夷を歓待、柵養蝦夷と津軽蝦夷を叙位。

 655年、越・陸奥の蝦夷194人、百済の調使150人と饗する。


【阿倍比羅夫の蝦夷征伐】
 658.4月、日本書紀によると、阿倍比羅夫「蝦夷」を討つ。越国の国司だった阿倍比羅夫が軍船180隻を率い日本海を北上。第一回目の東北遠征に向かう。齶田浦(あぎたのうら)(飽田)、渟代(能代地方?)に達する。蝦夷の首長の恩荷(オガ)を恭順させる。彼は言う。
 「私達は弓矢を持つが、しかし私達は決して戦闘に用いるのではなくて、けものを捕まえるのに用いている。今、私達は更にあなた達と敵対することはしない、しかし、あなた達が万一平和条約を破るなら、秋田の浦の神はきっとあなた達を勘弁することはできないであろう」。

 阿倍比羅夫は、小乙上(せうおつじやう)の位を授け、渟代(ヌシロ)と津軽(ツカル)の郡領に任命。 渟代・津軽の蝦夷入朝。陸奥の蝦夷を連れて有間浜に至り、渡島蝦夷(わたりしまのえみし)と接触。有間浜は岩木川の河口、十三湖中島付近とされる。

 658年7月 ツカル・ヌシロの蝦夷200余人が、飛鳥の朝廷に朝貢。

 658年11月 阿倍比羅夫、粛慎を討ち帰還。熊二頭とクマの皮70枚を献上。

 659年3月 船180艘を率いて二回目の北征。飽田・渟代・津軽(ツカル)を制圧。これら三郡のほか胆振金且(いふりさへ)の蝦夷20名を集めて饗応。その後肉入籠(シシリコ)に渡る。先住民の勧めにしたがい、後方羊蹄(しりべし)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いたとの記述。(58年と59年の北征は、同じ出来事を別々の原典から取った可能性もあるとされる) 

 659年、第四次遣唐使を派遣、蝦夷男女二人を献じる。

 660年3月、阿倍比羅夫が船200艘を率いて三回目の北方探検。大河のほとりで、渡島(ワタリシマ)の蝦夷の要請を受け粛慎と戦い、これを撃破する。


 比羅夫の蝦夷征服に纏わる蝦夷成敗経緯は次の通り。(日本書紀による)

 海の畔に渡嶋の蝦夷一千余の集落があり、そこに粛慎の船団が攻撃して来る。阿倍比羅夫は絹や武器などを差し出し、相手の出方を探る。粛慎からは長老が出てきて、それらのものをいったん拾い上げるが、そのまま返し、和睦の意思がないことを示す。その後粛慎は弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立てこもる。比羅夫はもう一度「和を請う」たあと攻撃を開始。激戦の末、粛慎は敗れ、自分の妻子を殺したのち降伏する。比羅夫の側でも能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が戦死。5月 阿倍比羅夫、朝廷に粛慎など50人を献上。粛慎に関しては諸説紛々。読み方もミセハシ、アシハセ、ミシハセなどまちまち。


 659(斉明天皇5)年 中国の史書「新唐書」の「通典」、日本から「使者与蝦夷(夷)人偕朝」と述べる。このとき使者は、「蝦夷(エミシ)には都加留(つがる)・アラ蝦夷(あらえみし)、そして熟蝦夷(にぎえみし)の三種類の蝦夷がいる」と説明したという。日本書紀ではこれに対応して「道奥の蝦夷(エミシ)の男女2人を唐の天子に貢した」とある。

 遣唐使と唐の高宗の問答で、日本に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)があったと記述している。都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在していたことになる。


 663年 日本水軍、白村江の戦いで唐・新羅連合軍の水軍に惨敗。壊滅状態となる。このあと、船団を組んでの蝦夷征伐はなくなる。


 666年、百済の奴婢男女2000余人を東国に移住させる。


 672年 壬申の乱。北方への進出は一時停滞。
 696年 大和朝廷、渡島蝦夷の伊奈理武志(イナリムシ)、粛慎の志良守叡草(シラスエ)らに錦などを送る。

 673年、美濃国に不破関を設置。


 684年、(百済からの渡来人23人を武蔵国に移す)


 685年、諸道(北海道を除く)に使者を派遣し巡察


 687年、(高句麗からの渡来人56人を常陸国に移す)


【「日高見の国」】

 日本古代史上、蝦夷族の居住する地方を「日高見の国」と称した。いわゆる日高見の国とは、「東方の蛮族が居住する日の出の国」という意味である。日高見の国がどこにあったのかは判然としない。大和王朝から見て、「臣下としてまつろわぬ東方の民の形成する王国」として位置づけられていたように思われる。

 大和朝廷は、勢力東漸に向かい、東方、続いて東北方へ移動した。日本武尊の伝説が成立した時代(6世紀)には、「日本書紀」の記録によると、日本武尊は海路を通って陸奥国(現在の東北地方)に進入し、日高見の国を攻撃している。討伐した後に、「蝦夷は既に平定された、日高見国より、南西の常陸(茨城県の東北方面)を経て帰ろう」といっている。これより、蝦夷族の勢力圏が茨城県の東北地区から東北地方全部に至っていたことが分かる。

 「日本書紀」の中で、蝦夷は次のように記録されている。

 「朕は耳にした。その東の異民族は、性強暴で、凌犯を宗としている。村に長がいなくて、県の首領もいない。各境界をむさぼって、そして互いに領土を奪い合う。山に邪神もいて、町はずれには悪賢い幽霊。……その東の異民族の中で、蝦夷は最も強力である。男女、父子の別もない。冬は穴に宿し、夏は木に居住する。毛皮を着て血を飲み、兄弟が互いに疑いあう。……ゆえに古来から、王化に染まっていない。……巧みな言葉で粗暴な神を鎮め、武を振るってずるい幽霊を退けよ」
 「東の夷の中、日高見の国がある。その国の男女は槌に髪を結んで入れ墨をして、人となりは勇ましい。すべて蝦夷と言うのである。また土地は肥沃で広く、撃って取る価値がある」(700年頃 大臣武内宿禰の東国巡視の報告(日本書紀))。

 これにつき、「」は次のように評している。

 「日本書紀」の記載する東北地方の蝦夷の奇異な風俗が本当かどうか、疑問がある。上述の記録は、「漢書」、「礼記」の言葉とほとんど同じである。換言すれば、「日本書紀」は、決して、実際に蝦夷の生活を観察、あるいは信頼できる情報を運用して来たのではなくて、ただ中国の古典籍の中の乱暴で俗っぽい記録に関係する記載を引用しただけのようである。

 700年 越後北部に石船柵(イワフネ)を造営。越後國は出羽郡の新設を申請し、北方進出策を強める。


 702年、薩摩・多褹を征服。


【巨勢(コセ)朝臣麻呂、佐伯宿禰石湯(イワユ)の蝦夷征伐】
 709年 陸奥鎮東将軍に巨勢(コセ)朝臣麻呂を、征越後蝦夷将軍に佐伯宿禰石湯(イワユ)を任命。越後軍は100艘の船で最上川河口まで進み、ここに拠点として出羽柵(イデハノキ)を造設。この征討は、「陸奥・越後二国の蝦夷は、野心ありて馴れ難」いことを口実とする。

 712年 陸奥ノ國から最上・置賜の二郡を分割し出羽の国が設立される。渡嶋(蝦夷が島)は出羽国の管轄となる。このあと、太平洋側(海道)のアイヌは蝦夷、日本海側(北道)のアイヌは蝦狄と表記されるようになる。(ただしそれほど厳密な使い分けはしていない)

 これについて太政官は、「國を建て、領土を拡げることは武功として貴ぶ所である。官軍は雷のように撃ち、北道の凶賊蝦狄(エミシ)は霧のように消えた。狄部は晏然(アンゼン)になり、皇民はもう憂えることはない」とし、これを承認。


 714年 尾張・上野・信濃・越後の国の民200戸が、出羽柵にはいる。このあと諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。


 715年、関東の富民1000戸を陸奥に移配。


 716年、7国の高麗人1799人を陸奥武蔵国に移す、4国の百姓100戸を出羽国に移す。


 717年、4国の百姓100戸を出羽の柵戸に移す。


 718年 渡度島蝦夷87人が大和朝廷に馬千匹を贈る。


 719年、東海・東山・北陸道の民200戸を出羽柵に移す。


 720年 蝦夷(えみし)の叛乱。上毛野朝臣広人が殺される。征討軍は蝦夷を1400人余り、斬首・捕虜にする。隼人反乱。


 724年、陸奥国の蝦夷反乱。蝦夷が佐伯宿祢児屋麻呂を殺して叛乱を起こす。勢力範囲は多賀城の北、気仙・桃生地方や牡鹿地方とされる。朝廷は藤原宇合(うまかい)を持節大将軍に任命。関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。このとき設営された陸奥鎮所(宮城県多賀城市)が、のちに多賀柵と改名される。


 724年 出羽の蝦狄の叛乱。小野朝臣牛養が鎮狄将軍として派遣される。


 725年 陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人配す。この後和人に抵抗する蝦夷が数千人規模で諸国に配流される。


 728年、大和朝廷の勢力がだんだん北上する時に、岩手県の各郡内で日本式神社を創立し、しかも北方の浄法寺町では天台寺を建築した。これを換言すれば、8世紀以前は蝦夷族は仏教を信奉していなかったことになる。


 大和朝廷は、蝦夷に豊富な金と鉄が隠れていることを知る。蝦夷を討伐することを始める。しかしながら、大和朝廷は蝦夷を征服するのに、必ずしも武力を重点にするのではなく、取引と懐柔政策を組み合わせた。東北地方は昔から、鉄を産するので有名であった。日本の武士の刀は、一説には岩手県一関市の「舞草刀」に源を発する。


 733年 蝦夷との境界となる出羽柵が、山形庄内地方から秋田村高清水岡に移設される。 雄勝村に郡を建てる。


 737年 大和朝廷の鎮守将軍・大野東人が大軍を率い、多賀城から日本海側の出羽柵(秋田)にいたるルート確立を目指す。比羅保許(ひらほこ)山まで進出するが、蝦夷の反撃にあい敗退する。


 750年 大和朝廷、桃生柵・雄勝柵・伊治城などの城柵をあいついで設置。陸奥地方に多数の金山を開発し、本格的に採掘を行う。


 757年 不孝・不恭・不友・不順の者が捕えられ、桃生・雄勝へおくられる。このころから和人の浮浪者が、数千の規模で陸奥に送りこまれる。


 759年、俘囚2000人を雄勝村の柵戸とす。


 760年 大和朝廷の出羽支配の拠点、雄勝城(秋田)桃生城(海道)が、藤原朝刈により確立。没官奴233人・女卑277人が雄勝の柵戸として送られる。殺人犯、犯罪者、孤児なども桃生・伊治城に送り込まれる。


 772年 下野国から「課役」を逃れるため、農民870人が陸奥へ逃げ込む。


 東北大戦争(38年戦争)


 774 海道の蝦夷の宇漢迷公(ウカンメノキミ)宇屈波宇(ウクハウ)が反乱。大和朝廷への朝貢を停止。蝦夷・俘囚を結集し桃生城を攻略。


 774年 大和朝廷の大伴駿河麻呂、二万の軍勢を率いて東北に侵攻。陸奥国遠山村(登米郡)を攻撃。東北地方全土を巻き込む「38年戦争」が始まる。


 776年 大伴駿河麻呂、山海二道の蝦夷を制圧。引き続き志波(秋田県南部)から雄勝(秋田)を制圧する。出羽国の俘囚358人が、大宰管内と讃岐國に配流される。うち78人が諸司と参議に献上され、賤の身分におとされる。


 777年、出羽国の兵士、志波村の蝦夷に敗退。


 778年 出羽の蝦夷が大和朝廷軍を打ち破る。朝廷軍は俘囚から編成した俘軍を編制し蝦夷軍と対抗。俘囚の長で陸奥国上治郡の大領、伊治公呰麻呂(いじのきみ・あざまろ)が伊治柵の司令官となる。


 780年、俘囚の呰麻呂が蜂起。伊治柵の参議で陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)らを殺害。さらに多賀城を略奪し焼き落とす。反乱は出羽地方の蝦夷へも拡大。同僚の道嶋大楯(みちしまのおおだて)からの差別や、城作の造営への地域住民の酷使への反感から決起したといわれる。


 780年 朝廷は藤原継縄(つぐただ)を征東大使に、大伴益立・ 紀古佐美(紀広純のいとこ)を征東副使とする討伐隊を編制。数万の兵力で多賀城を奪回するが、伊治公呰麻呂は1年にわたり抵抗を続ける。


 784年、大伴家持、征東将軍として陸奥に派遣される。高齢の為にまもなく死亡。


 786年、蝦夷征伐と東北平定を命る。


【アテルイの奮戦】

 788.7月、桓武天皇が、紀古佐美を征夷大将軍に任命。東海・東山・板東から兵員を集める。日高見国のアイヌは、胆沢(現在の岩手県奥州市)の大墓公阿弖流為(たものきみ・あてるい)と磐具公母礼(いわぐのきみ・もれい)を指導者として防衛体制を固める。


 789(延暦8).3月、5万2千の大軍を与えられた紀古佐美は、多賀城を北進。エミシの集落14村・家800戸を焼き払いながら侵攻。アテルイは遅滞攻撃をかけながら徐々に後退。


 4月、紀古佐美軍の先遣隊4千名、衣川付近の巣伏村で北上川を渡る。これを狙ったアテルイは、急遽反転攻勢をかける。朝廷軍は急襲にあい惨敗。部隊の半分が死傷。このうち戦死者25人、矢にあたったもの245人、河で溺死したもの1036人、河を泳ぎ逃げたもの1217人とされる。アテルイ側の兵力はわずか1500名、戦死者は89人だったとされる。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。この戦いは、アテルイ軍が寡兵をもって大兵を破ること著しく、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。(第1次東北侵攻・衣川/巣伏の戦い)


 9.19日、帰京した紀古佐美は喚問され、征夷大将軍の位を剥奪される。


 791.7月、大伴弟麻呂が征夷大使に任命される。百済王俊哲、坂上田村麻呂ら4人が征夷副使となる。侵攻に備え10万の大軍が編制され、26万石の食料が準備される。(この年と794年の2回征討作戦があったとは考えにくいので、とりあえずあいまいに書いておきます)


 794.4月、桓武朝廷軍10万が日高見へ侵攻開始(第2次東北侵攻)。


 6月、副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を征すと報告。


 11月、大伴弟麻呂が帰京して戦果を奏上。蝦夷側は首457級・捕虜1501。拠点75カ所を失い、馬85匹を奪われた。アテルイは攻撃をしのぎ生き延びる。


 796年、この年だけで関東一円を中心に、9000人の諸国民が伊治城下の旧蝦夷領に入植。おそらく日高見侵攻作戦の参加者が褒賞として与えられたものと思われる。


【坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷征伐】

 797.11月、蝦夷征伐で戦功を上げた坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される。

 801年2月 征夷大将軍坂上田村麻呂、第三回目の日高見国攻略作戦(第3次東北侵攻)。4万の軍が胆沢のアテルイ軍を破る。アテルイとモレイは度重なる物量作戦により弱体化。

 801年9月 坂上田村麿、「遠く閉伊村を極めて」夷賊を討伏したと報告。

 802年1月 田村麻呂、アテルイの本拠地に陸奥国胆沢城を造築。住民を追放した土地に、関東・甲信越から4000人が胆沢城下におくり込まれ、柵戸(きのへ)として警備にあたる。

 4月15日 大墓公蝦夷阿弖流爲(アテルイ)、盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて朝廷軍に降伏。二人は田村麻呂に従って平安京に連行され、7.10日、平安京に入った。

 8月13日 朝廷、「蝦夷は野生獣心、裏切って定まりない」とし、田村麻呂の反対を押し切り、アテルイとモレを河内国の杜山(現枚方)で斬刑に処せられる。(椙山との記載もある)


【アイヌ人の配流】

 802年 律令政府は三次にわたる戦役で捕虜となった蝦夷を、夷俘として各地に移配する。風俗習慣に慣れていないという理由で田租の納入を免除されるなど一定の配慮。

 803.3月 坂上田村麻呂、造志波(しわ)城使に任じられる。志波城は北上盆地のほぼ北端に位置し、それから北は奥深い山林となる。

 804年 第4次の征夷作戦が計画される。目標は岩手県の北から青森県にかけて。坂上田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられる。板東・陸奥7カ国に動員令がだされ、兵糧が小田郡中山柵に運び込まれる。陸奥国中山柵を陣とする。


 9世紀に蝦夷に対する朝廷(関西)からの征服活動は、岩手県と秋田県のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。こうして、東北地方では12世紀には蝦夷としての独立性は失われた。


 日高見国の滅亡


 805.12月、桓武天皇の御前で「天下徳政」相論。北進継続を主張する菅野眞道に対し、藤原緒嗣は「方今、天下の苦しむ所、軍事と造作なり。この両方の事を停(とど)めれば百姓安んぜん」と主張。帝は藤原緒嗣の意見を採り、第4次の征夷作戦が中止になる。「衆の推服する所のもの一人を撰び之が長とせよ」との触れが出される。


 805年 播磨国に配されたアイヌ人俘囚が反抗。吉弥侯部兼麻呂・吉弥侯部色雄ら十人が、「野心を改めず、しばしば朝憲に背く」ため、遠島に流される。


 806年 近江國の夷俘の六百册人が大宰府に派遣され防人となる。「平民と同じくするなかれ」とされ、一段低い身分を押し付けられる。


 809年 藤原緒嗣、東山道顴察使に加えて陸奥出羽按察使に任命され多賀国府に赴任。緒嗣は三度に渡って「自分の任ではない」と辞退したという。


 811.2月、坂上田村麻呂の支持を受けた文室綿麻呂が、藤原緒嗣に代わる陸奥・出羽按察使に任命される。北方平定のため2万5千の兵力を要請するが、実際には1万人足らずにとどまる。


 4月 文室綿麻呂、現地の俘囚の同盟軍を加え、2万の軍を編制。紫波城より北方の爾薩体、弊伊(ニサッタイ、ヘイ)を侵略。戦功が認められ征夷将軍に任命される。


 10月 文室綿麻呂の38年戦争終結宣言。陸奥國の公民の内、征夷の戦いに参加した者に対しては調庸(税金または使役)を免除。


 812年 陸奥国胆澤に鎮守府を設置。和我(和賀)・稗縫(稗貫)・斯波(紫波)の三郡を設置。占領地を律令政府の行政区画に組み入れる。


 アイヌ虜囚の反乱


 813年  陸奥で止波須可牟多知(トヒスカムタチ)の反乱。トヒスカムタチは帰順した蝦夷で吉弥侯部の姓を持つ。


 814年 出雲国意宇でアイヌ俘囚の乱。この反乱で米が奪われたため、神門三郡の未納稲は十六万束になる。甲斐國でアイヌ俘囚の乱。賊首とされた吉弥侯部井出麿ら男女13人が伊豆に流される。


 847年 日向国の記録に「俘囚死に尽くし、存するもの少なし」との記載。


 848年 上総国でアイヌ俘囚の乱。丸子廻毛らが反乱。まもなく当局により57人が捕らえられ処刑される。


 875年 渡島の荒狄(アイヌ?)が水軍80隻で秋田地方に襲来、百姓21名を殺害。


 875年 下総国でアイヌ俘囚の乱。「官寺を焼き討ちし、良民を殺戮」する。朝廷は「官兵を発して以って鋒鋭を止め」よう指示。さらに武蔵・上總・常陸・下野の国に各三百人の兵を派遣するよう命じる。まもなく反乱は鎮圧され、100人以上が処刑される。朝廷は行過ぎた弾圧を批判。


 秋田アイヌによる元慶の反乱


 878年 東北地方に飢饉。出羽の国では苛政に対し不満が高まる。出羽国の蝦夷俘が反乱。


 879年2月 元慶の乱が発生。秋田の蝦夷が反乱。秋田城を攻める。出羽国守の藤原興世は城を捨てて逃げ走る。城司の良岑近は「身を脱れて草莽(くさむら)の間に伏し竄(かく)れ」たという。逆徒(げきと)は蟻のごとくに聚り、兵営や要塞を囲み、城と周辺の民家に火を放つ。


 3月 朝廷は陸奥国に出羽を救援するよう指令。陸奥の守は精騎千人歩兵二千人を編制し、藤原梶長を押領使とする軍を派遣。


 4月 陸奥の軍勢と出羽軍2千が、秋田川のほとりに達する。このとき霧にまぎれて、賊徒千余人が早船で奇襲攻撃。同時に数百人が背後より攻める。官軍は狼狽して散じ走った。この戦闘で500余人が殺され虜となる。逃げ道では互いに踏み敷かれて、死するもの数え切れず。軍実甲冑は悉くに鹵獲される。文室有房(副官)は瀕死の重傷を負い、小野春泉(副官)は死せる人の中に潜伏してかろうじて死を免れる。藤原梶長は深草の間に隠れ、5日間も飲まず食わずに送り、賊去りし後、徒歩で陸奥まで逃れた。 


 5月 陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に任命。小野春風を朝廷軍指令官とする。陸奥・上野・下野に動員をかけ、4000人の兵で秋田に入る。


 5月 秋田の北東12か村が反乱。秋田城が急襲され、朝廷軍は大敗。食料・軍備を奪われる。「賊虜強く盛にして、官軍頻に敗れ、城或は守を失ひて群隊陥没」する。


 6月 小野春風の率いる陸奥=俘囚の軍、反乱集団の多くを懐柔することに成功。「夷虜は叩頭拝謝し、態度を改めて幕府に帰命」する。その証として、帰順を拒否する首長二人の首を斬って献上する。秋田城を包囲して攻撃。反乱軍2000人が逃亡。


 12月 鹿角の反乱軍300余人が降伏。元慶の乱が終結。


 883年 上総国市原郡で俘囚の乱。40人あまりの集団が「官物を盗み取り、人民を殺略。民家を焼き、山中に逃げ入」る。当局は「国内の兵千人で追討」する許可をもとめる。朝廷は「群盗の罪を懼れて逃鼠した」に過ぎず、人夫による捜索・逮捕で十分であるとし、国当局の申請を棄却する。


 883年 結局、俘囚は全員が処刑される。太政官は討伐隊の戦功をたたえつつも、①渠魁を滅ぼし、梟性を悛めることがあれば務めて撫育せよ。②事態が急変したのでなければ、律令に勘據し太政官に上奏せよ、と注文。


 893年 出羽の俘囚と渡島の狄との戦い。国司は城塞を固めて万一に備える。


 東北アイヌ、最後の蜂起


 939年4月 出羽国で、俘囚による反乱。秋田城軍と合戦。天慶の乱と呼ばれる。


 5.6日、賊徒が秋田郡に到来し、官舎を占拠し官稲を掠め取り、百姓の財物を焼き亡くす。朝廷は陸奥の守に鎮圧を指示。


 6月 平将門の謀反。平将門が兵13000人を引き連れて陸奥・出羽を襲撃するとのうわさが流れる。


 947年 陸奥国の狄坂丸の一党が鎮守府の使者並茂を殺害。






(私論.私見)


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