アイヌ民族と日本近世史の関わり

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、アイヌ史の日本近世史上での関わりを確認しておく。「アイヌ民族の歴史年表」その他を参照する。

 2008.5.19日 れんだいこ拝



【松前藩の蝦夷地支配】

 1604年、徳川家康が松前藩(松前慶広)に黒印状(いわゆるお墨付き)を与え、蝦夷地における交易の独占を認める。この黒印状により、和人の商船は全て松前藩を通してアイヌとの交易を行う事になり、アイヌの本州島の和人との直接交易は禁止された。松前藩が蝦夷地での交易独占を許可されたのは、本州の藩と異なり米を得ることができなかったことによる。

 アイヌとの交易が専らの収入源で、乾燥鮭、ニシン、白鳥、鶴、鷹、鯨、とど皮、とど油などをアイヌ側が提供、米、小袖、木綿と交換していた。交易の物々交換は、例えば干鮭100本と米一俵という比率であった。ところが後に米のほうの量が減らされていき、最終的に半分以下にまで一方的に不平等交換レートを設定し、アイヌの人を苦しめていくことになる。


 1604年、千軒金山が発見される。 徳川幕府は 「山方三法」 を定め、 総ての鉱山は幕府の直営としているが、 松前氏所領下の砂金金山は遠隔の地であり、 鉱床・鉱区が特定出来ないとの理由で松前氏に下賜した。


 1606年、松前慶広、徳山館の南側の台地に新しく福山城を建設。城下町を構築し、蝦夷地貿易の中継点とし、蝦夷地での交易を行うすべての商船に対し、松前城下での検閲を義務化する。また交易場所も指定する。亀田と熊石に番所を置きそれより奥地への和人の立ち入りを禁止。

 「場所とは領分のようなもので、何れも海辺ばかり、一場所およそ50里から70里。奥は皆空地にして、人跡絶える深山、広野のみなり」(「蝦夷草紙巻之一」) 


 1615年、大阪夏の陣。慶広は自ら兵を率いて出陣。


【松前金山とキリシタン】

 1617年、松前の千軒岳周辺の礼髭・大沢両村で砂金が発見される。松前藩、砂金鉱の開発に着手。最初は千軒岳周辺河川、のちに島牧、国縫、日高の各河川に広がる。おりから東北地方が元和の大飢饉となり、松前はゴールドラッシュとなる。数万人の和人「入稼ぎ者」が北海道各地へ流入。砂金掘り・浜辺での漁業・樵などの労働力として働く。内地からやってくる砂金掘人夫をほとんど制限なしに受け入れる。

 砂金掘人夫には南部・松前・秋田・津軽の出身者が多かった。中には、迫害を逃れて渡航してきたキリシタンも多数いたといわれる。砂金採掘のために流域が荒らされた。造材のために森林が破壊された。また漁業者が河口で鮭を多量に捕獲したことから、内陸部アイヌの魚場への遡上数が激減。各地のアイヌの生活は圧迫される。


【イエスズ会のキリシタン活動】

 1618.6月、イエスズ会のジェロニモ・D・アンジェリス神父、松前に10日間滞在。キリシタン宗徒に福音を与え若干の人に洗礼を授ける。松前藩は幕府の禁令を無視し、「天下がパードレを日本から追放したけれども、 松前は日本ではない」とし、キリシタンの活動を容認した。

 アンジェリス神父: シシリア島生まれ。18歳でイエズス会に入会し、インドのゴアからマラッカを経て中国のマカオへ派遣される。1602年に日本に着いたあと京都伏見の修道院で日本語を学び、 その後京都から駿府付近までを持場として布教活動。キリシタン禁教令を受け長崎で船待ちをしていた時に蝦夷地訪問を決意した。

 カルワーリョ神父: ポルトガルのコイムブラ生まれ。1613年に日本に入り天草に赴任。キリシタン宗禁教令によって長崎から追放されたが、16年に密入国。アンジェリス神父の補助として東北地方で布教活動。

 1620年8月、ディオゴ・カルワ-リュ神父が松前に潜入する。慰問とミサ聖祭を行うため、知内川上流一帯のキリシタン集落を訪れる。カルワーリョは死の直前、二回目の松前訪問をしたとされる。

 カルワーニュの旅行記: 毎年300隻以上の大船が松前に集まると記録。「松前殿が士達に支給する知行は、近くの河川ですから、そこで漁れる魚がすなわち彼等の収入となります」とされ、アイヌから、ラッコの毛皮、鮭や鰊、緞子(蝦夷錦)などの交易品がもたらされる様子などが記録される。また、蝦夷地に渡航する砂金掘りの人数は、1619年に5万人、1620年には3万人と記述されている。

 1623年、アンジェリス神父(55)、カルワ-リュ神父(46)、家光の禁令強化により相次いで殉教。


 1624年、アイヌのあいだで最初の痘瘡の流行。


【松前藩の商場知行制】

 1630頃、松前藩が商場知行制(あきないばちぎょうせい)を確立する。これにより、アイヌの人たちが道外・ロシアのカラフトやアムール川、東北地方まで出向いていた自由交易活動を禁止され、交易権が与えられた家臣としての知行主が誕生した。知行主は、蝦夷地61箇所の交易地、つまり商場、場所を管轄し、アイヌと交易するようになった。年1回に知行主は場所へ行ってアイヌと交易をし、品物を商人に売却した。知行主は、独占的な「交易」を背景に不利な交換レートを強要し、これによりアイヌの生活は大きな圧迫を受けることとなった。

 商場知行制(あきないばちぎょうせい): 米の収穫がない松前藩は、蝦夷地61ヶ所にアイヌ交易地を作り、家来に交易権を与えた。これを商場あるいは場所といい、権益を与えられた家臣は知行主、俗に場所持ちと呼ばれた。これによりアイヌの交易相手は、商場の支配者の松前藩の家臣に限定されることになる。場所持といはれる家臣は、延宝元年には四十八人、普通の切米扶持の武士が百二十人、徒士足軽用地下侍百人余であった。知行主は年に一度自らの商場へ船を出し、その地域のアイヌと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却し、その収益で暮らしをたてた。商場知行制で無高大名であった松前領は十万石級の暮らしであったという。


 1633年、和人居住区が拡大される。函館東側の石崎を東端とし乙部までを北端とする。


 1633年、松前藩、数次にわたり奥地を探検。蝦夷の地図を完成させる。


 1635年、松前藩の松前公広が、藩士の村上掃部左衛門を藩命により蝦夷島を巡行させる。ウッシャムに至る。地図を作成。これを「島巡り」という。


 1638年、ロシア、オホーツク海に到達。南方進出に着手する。


 1639年、松前藩、島原の乱のあと幕府の圧力に屈し、千軒岳の砂金鉱で働いていたキリシタン106名を処刑する。この年だけで大沢金山で50人、石崎で6人、千軒金山で50人が殺されたという。なお金山の検司 (死) 役人として処刑に立会した池木利右衞門という藩士が、 五十年後の記録には古切支丹 (キリシタン本人) であったことが明らかになっている。


 1640年頃 蝦夷地の産物を上方などへ輸送する「北前船」が、この頃より盛んになる。


 1640年頃 この頃のアイヌ内部の勢力圏は、①内浦湾西岸部:アイコウインを大将とし、松前藩のお味方とみられていた。②余市方面:大将八郎右衛門の部族。宗谷方面にも支配がおよぶ。③石狩中流域:ハウカセ大将の部族。④新冠から胆振、石狩南部:シュムクル(西の人)と呼ばれる。シュムクルはパエ(門別)を本拠とし、オニビシが首長を務める。⑤静内以東厚岸方面:メナシクル(東の人)と呼ばれる。シプチャリ(静内)を本拠とし、首長はカモクタイン、副首長がシャクシャイン。1200年の項と比較されたい。


 1643(寛永12)年、蝦夷地西部で、セタナイのヘナウケが松前藩の横暴に抗議し蜂起する(「ヘナウケの乱」)。が、松前軍により制圧される。


 1643年、オランダ東インド会社のフリーズが十勝沖に現われ、厚岸に寄港。その後樺太とウルップ島に到達。ウルップ島の領有を「宣言」する。オランダで作られた地図には択捉島やウルップ島が記載される。

 1644年 西部の酋長ウスケシ(一説にヘナウケ)の乱がセタナイで起こる。まもなく蠣崎利広により鎮圧される。


 1644年、江戸幕府が松前藩から提出の所領地図「正保御国絵図」を作成した。


【シャクシャインとオニビシの抗争始まる】

 1648年、東部蝦夷(メナシ・シコツ)間の抗争。反松前のメナシクル(十勝方面の東の人)と親松前のシュムクル(日高方面の西の人)の二つの部族が、イウォロ(狩場)を巡る権利、川筋に出入りする和人砂金掘りへの対応を巡って衝突した。シュムクルはシプチャリ川の上流に入り込んでいたが、海岸部(現静内)はメナシクルが押さえていた。シュムクル(西の人)は一説にハエクルともサンクルともシコツクルとも言われる。親松前の部族とされる。西の人というのはメナシクルから見た言い方であり、本人たちが「西の人」という意識を持っていたかは疑問である。いっぽうメナシクル(東の人)は和人と距離を置いていたとされる。シャクシャインがオニビシの部下を殺害。松前藩が調停に入り、いったん和解する。

 1653年、東部メナシの蝦夷蜂起。パエのアイヌがシブチャリのチャシを打ち破り、カモクタイン首長を殺害。当時シブチャリ川の奥に砂金が発見され、多くの和人金掘りが入り込んでいた。彼らの応援で勢いを得たオニビシがメナシクルを圧倒。シプチャリの乙名となったシャクシャインも一時身を潜める。

 1655年、松前藩はたびたび使者を送り、「向後出入りしまじき」ことを合意させる。福山で領主立会いの下、オニビシとシャクシャインの手打ち式が行なわれる。

 シャクシャインはこの間にメナシクルの乙名となり、ウタリの信頼を克ち得て勢力を盛り返す。砂金掘りがバエ側についたのに対し、鷹持ちはメナシクル側につく(越後の庄太夫、庄内の作右衛門、尾張の市左衛門、最上の助之丞ら)。とくに庄太夫はシャクシャインの婿になり、アイヌの軍師を勤める。砂金掘りが自然を破壊するのに対し、鮭を生活必需品とするメナシクルも、広い森林を必要とする鷹持ちも環境維持を望んでいた。


 1661年、松前藩の吉田作兵衛、蝦夷全土を調査し地図を作成。


 1662年、東部の蝦夷騒乱。


 1665年、東部の蝦夷和解(下国安季のあっせん)


 1668.4月初め、シャクシャインが、シブチャリ川沿いの砂金掘り文四郎の家をおとずれたオニビシを襲撃・暗殺する。バエの「オニビシの姉」は戦闘態勢を命じるが、シャクシャインの急襲を受け壊滅。オニビシの姉は戦死し、残党はシコツ(現千歳)方面に逃れる。


 4.06日、オニビシの姉の夫ウトマサ(ウタフ?)が松前に出向き、兵器と食糧の貸与を依頼。松前藩は、「何方の夷も百姓の事に候得ば、仲ヶ間出入に加勢は困難」と断る。


 4月、ウトマサはシコツ(支笏)へ着くとすぐに死んだ。ほかの使者も相次いで急死。「松前で毒を盛られたらしい」という噂が広まる(実際は松前で感染した疱瘡が原因らしい)


【シャクシャインの戦い】
 1669.4月、シぺチャリ(現在の静内)の総酋長シャクシャインは、松前藩の圧政に抗してアイヌの総決起作戦を開始した。シャクシャインは、松前藩によってアイヌの人々が皆殺しにされると訴え、各地のアイヌを糾合する。内浦湾西岸のアイコウイン、石狩のハウカセのグループをのぞきすべての部族がこれに応じる。シュムクルも反乱に加わることとなる。これを「寛文九年蝦夷の乱(シャクシャインの戦い)」と云う。

 アイヌ総蜂起の背景: 実権をにぎっていた家老の蠣崎蔵人広林は、藩の財政を立て直すため、干鮭100本あたり米2斗だった交換比率を7~8升に減らした。岩内では、和人が川に大網を入れてサケを根こそぎとり、和人の横暴を松前藩に訴え出た余市の村長は、半殺しにされて追いかえされる。また予定通りの品物を調達できなければ子供が人質にとられるなどの事態も発生する。津軽藩の隠密は、「蠣崎蔵人が家老になってからひどくなった」と報告したという。
 「蝦夷島異聞5」の「寛文九年蝦夷の乱(シャクシャインの戦い)」は次のように記している。

 蛎崎季広の時代にはオムシャと言って、アイヌ同士が久しぶりに会った時互いの身体を擦りあって健康を祝し、久闊を叙するという交友関係の親愛を表すやり方を習って、珍しい土産を先方に贈り、久闊の挨拶をし、アイヌの方もその返礼として産物を土産物として返すという方法によって交易が成り立っていた。

 これが、松前慶広の代になってオムシャ交易から家臣にオムシャ交易権を知行として場所を区切って分割して与える商い場所制度に移行した。土産物が知行主の収入となり、それを持って帰って、本州から来る商船に売り渡して収入を得る。こうした場所を分けてもらえる家来を、場所持ち、支配所持ちと言った。

 始めは知行主とアイヌとは聊かの摩擦はあったが、アイヌの旧来の習慣に習った友好関係として始められたが、アイヌの素朴で無欲な態度につけ入って、次第に知行主が勢力を得て、アイヌに恩恵を施し、制令を伝えるという支配者的な立場を執り始めた。

 松前慶広が徳川幕府の大名として藩主となってからはアイヌモシリは松前藩の藩土として捉えられ、知行主は藩の代官的色彩を帯び、アイヌは領民的存在として捉えられるようになっていった。商い場所の当時は知行主が自ら場所に出かけたが、次第に代理人が出かけるようになり、そのうちに公然と交易所を設けるようになった。始めは毎年舟一艘の産物の交易品であったが、新しい漁業を起こすという名目で、藩主に願い出て運上金を納めると、舟二艘分でも三艘ぶんでも良くなった。

 一方で、商船との取引では大型化につれて、資本の面や技術の面で、武士では運営が困難となり、商人に対して借金や負債が多くなって、その返済に困るようになって場所交易を商人に任す場所請負になって行った。これは藩士の場所だけでなく藩主の直場所も場所請負の形態となった。言い換えればこれまでは藩主・藩士対アイヌの取引から商人対アイヌの取引という構図になったのである。藩士にすら簡単に牛耳られる素朴なアイヌウタリは商人たちにとっては鷹の前の子雀であった。

 特に近江商人が蝦夷地へ進出してからはアイヌの生活は悲惨となった。元来交易は利潤を追求するものであるから相手の損を構わず、自分の利益を追うのは当然であるが、当時のアイヌとの交易上では、米一俵というのは四斗ではなく半分の二斗であった。それでも表面上は一俵は一俵で数えられた。それが、だんだんと年が経つにつれて、二斗入りが一斗入りとなり、最後には一俵が八升とか七升しか入っていなかったという。

 「蝦夷忍び」の草間一族の領袖竹沢伊織之助が書いた「草の間席調査書控」では「アイヌの酋長たちは総て藩の威令に服し、藩の制度に従ってオトナに就任し、ウタリを取り纏めている。殿様の御仕置きも宜しきを得て、安穏である。」と報告して、アイヌ虐待の現実をひた隠しにしているが、津軽藩の隠密が調べた報告の中では次のようである。

 津軽隠密の秋元六左衛門は漂流を装って浦河に向かったが、浦河のアイヌ部族に追い払われ内情を探る事は出来なかった。しかし、日本海岸に向かった、牧只右衛門の船はシャコタン(積丹)半島まで辿り着き、忍路の峪に入って、直接この地方のアイヌから松前藩や奥地に入り込んだ和人商人に対する鬱憤晴らしの話を聞くことが出来た。これによれば、積丹美国(ビクニ)の酋長は「松前の殿様のお仕置きも総てが悪うございます。米二斗入りの俵も、この頃は見た目でも少なく七、八斗位しか入っておりません。それも押し買い的に買い上げて、その上、売り渡した俵物で串貝一束でも不足すると、来年は不足分として二十束も取られ、出すことが出来ないと言うと、子供を質に取られ、女房を妾にされてしまう」という程、酷いものであった。イワナイの酋長も「去年、私どもの仲間がシャモを殺しましたが、その訳は、前前の殿様の時代には米二斗入りの大俵で、干し鮭五束宛てで交換出来ましたが、近年ご家老様が仕置きになりまして、米七、八升入りで、干し鮭五束でお取替えになる様になりましたので、そのためについに殺ってしまいました」「しかも、前々はアイヌは自分の好きな所へ行って交易する事が出来たが場所交易、請負場所となってからは、アイヌ交易の自由は失われてしまった。また、元はアイヌの獲った物産を交易していたが、この頃はシャモが勝手に狩猟や漁業をする様になった。」と語っている。

 これに加えてシフカリの酋長は、近年になって松前から和人が大網を持って来て鮭をどんどん獲り始めた。「このままでは、アイヌウタリが飢え死にしてしまう」と抗議したところ、和人は「この場所はもともと松前の知行所である」と言って暴力を振るったと訴えている。

 松前季広から二代後の公広の時代に後志余市の酋長が和人商人の乱暴な場所商いに対して不満の余り、訴えのため松前に出向いた。「余りにも迷惑に思いましたので、ヨイチの大将ケクシケは七十才ほどの老人ですが訴訟のためと、御当代様にお目見えのため、松前まで参りました。それなのにお役人は、来てはいけない御法度の処へ来たと言って、首を切り、髷を切るなど、いろいろな御折檻に逢い、ようようやっと命助かり、コタンへ帰ることが出来ました。アイヌが来たと言って、戦仕度していると思いましたが、私たちウタリが異議を申しまして、我慢して帰りました」。

 七十歳の古老(エカシ)であるヨイチの酋長ケクシケが鮭商人の非道を訴えに松前へ行った。松前藩では逆に「首を切るぞ」「髷を切るぞ」と言って脅かして追い払ってしまったのである。髷を切られるのはアイヌに執って最大の屈辱であり、罪を犯した者への刑罰とされていた。このアイヌ酋長たちの証言でも解るようにシャモに対するアイヌ民族の怒りは蝦夷島内に充満しつつあった。

 「アイヌ神謡集」の著者の知里幸恵氏は著書のなかで「その昔、この広い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。冬の陸には林野を覆う深雪を蹴って、山また山を踏み越えて熊を刈り、夏の海には涼風泳ぐ緑の波、白い鴎の唄を友に、木の葉のような舟をうかべて、ひねもす魚をとり、花咲く春は軟らかな日の光を浴びて、永久に囀る小鳥とともに歌い暮らして、蕗を採り蓬摘み、紅葉の秋には野分けに穂揃う薄(すすき)を分けて、宵まで鮭を獲るかがりも消え、谷間に友を呼ぶ鹿の音を外に、円な月に夢を結ぶ、ああ、なんという楽しい生活でしょう。平和の鐘、それも今は昔」と言っているが、アイヌモシリは、コシャマインの蜂起と滅亡後二百年にして、この頃すでに無惨な姿に変わりつつあったのである。

 アイヌ民族は普通七八戸でコタンを作り、それぞれのコタンを中心に狩と漁の生活を行っていた。これに対し時と共に数を増し、奥地に入り込み、つぎつぎとアイヌの生活の場所を奪い取ってゆくシャモに対して一つのコタンでは、どうする事も出来ず、シャモのさまざまな非道にも、じっと耐えるよりしかたが無かった。しかし、この様な状態に置かれたアイヌ民族の中から、もしも全島に渡ってコタンの長と若い戦士たちを糾合する指導者が現れたら、圧迫され、追い詰められて来た者が立ち上がるのは当然であった。

 シャクシャインという酋長がいた。彼はアイヌウタリの中でも、とりわけて背が高く骨格が逞しかった。その力強さは誰も適う者はなく、幾多の戦場を潜っても、かすり傷一つ負わなかったと言われている。シベチャリの酋長カモクタインの死後、衆人に押されてその後を継ぎ、シベチャリ川口にある丘の上にチャシを構え、アイヌの独立を唱えてのろしを上げたのである。

 シャクシャインこそ、積もりに積もったアイヌウタリの憤怒を晴らすべくカムイより遣わされた英雄ポンヤウンペに相応しい人物だったのである。シャクシャインは当時のアイヌモシリの状態から見れば、現れるべくして現れたアイヌ独立の指導者であった。

 シャクシャインの蜂起の動機は、はじめ部族同士の衝突から起こった。それは日高を堺に東北部のメナシウンクル(東方人)とシュムウンクル(西方人)と二大勢力に分かれていたアイヌ勢力の衝突であった。

 日高という地方は冬は暖かくて雪が少ない。冬になると蝦夷全島の鹿が越冬のため集まるという、だから、鹿を重要な食料とするアイヌも、それを追うようにして集まり、自然人口が緻密になるところから、東北部のように人口の少ない地方と違って猟区とか漁業権が、やかましく規制されていたので、何かと紛争も多く、その解決のため互いに切磋琢磨する必要があった。

 シブチャリ川口にチャシを持つ東方系のシャクシャインとハエ(現在の新冠)の奥にチャシを構える西方系のオニビシとは互いに勢力が拮抗していた。この二人が酒宴を開いた席上、どうした行き違いか、シャクシャインがオニビシの部下を殺害してしまった。オニビシはそれに対して謝罪の物品を要求したがシャクシャインはそれに応じず、ついに武力による解決に発展し、前後六年にわたって干戈を交える事となった。

 この紛争に対し松前のシャモの大将は、シャモの場所請負の運営に差し支えがあるので、使いを出して和解させようとしたが、解決の糸口を掴めないうちに、次第にオニビシを応援するシャモが多くなり、それに勢いを得たオニビシが、ついにシブチャリのチャシを打ち破り総酋長のカモクタインは倒れシャクシャインも危なくなった時、松前のシャモの大将から家来が派遣されて来て、和解が成り、やっと争乱が収まった。二人の酋長は遠く松前まで出かけて和平を誓った。一時は窮地に追い込まれていたシャクシャインは、その後カモクタインの後継として酋長の座に就き、次第にウタリの信頼を克ち得て勢力を盛り返し、再びオニビシとの間に葛藤を生じる事となった。

 当時シブチャリ川の奥に砂金が発見され、多くの金掘り人足たちがシブチャリの奥地に入り込んでいた。一方、鷹をとる鷹待ちの中に、越後の庄太夫、庄内の作右衛門、尾張の市左衛門、最上の助之丞などという連中がシャクシャインに組していた。特に庄太夫はシャクシャインの婿になっていたので、シャクシャインは彼らの知恵を借りて、庄太夫らはシャクシャインの力を頼み、あわよくば松前のシャモの勢力を駆逐し覆し、シャクシャインは理想のアイヌモシリの復活を、庄太夫らは松前に代わる自分達の土地となることを望んでいた。

 こうした情勢に対して松前のシャモの大将は和解の送ってきて一時抑えたが、幾許もなくして、またしてもシブチャリの配下がオニビシの配下の者を殺した。

 アイヌの殺人に対する刑罰は厳しかったのでオニビシは謝罪の品をシャクシャインに要求したが、またもシャクシャインは言を左右して、これに応じないので日毎に対立は激化した。これを見た砂金採りの頭文四郎という者が、双方を和解させようと努力した。文四郎はシャクシャインのチャシから一望に見下ろせる川向こうの原野の中に土塁を築いてそこに住んでいた。

 蜂起の前年四月、和解の話に文四郎方を訪れたオニビシの姿を見たシャクシャインは、翌日文四郎の家を囲んで泊まっていたオニビシを討ち果たした。それを知ったオニビシ一派も残党を集めてシャクシャイン方を襲ったりして反撃した。

 オニビシの没後、その志を継いだ姉も抵抗戦を挑んだが、結局はシャクシャインに破られハエや厚別のチャシはシャクシャインに落ち、オニビシ一派は離散となった。それでも、密かに勢力の挽回を画策して、シャモの大将松前殿に願って兵器と食糧の貸与を申し出た。しかし、シャモはそれをしないで、オニビシの姉の夫ウトマサを松前に止めて、シャクシャイン方に使いを出して和解させた。その記しとして双方から宝を出し合わせて和解の証拠とした。

 ところが、和解の帰りに使者のウトマサはシコツ(支笏)へ着くとすぐに死んだので、「松前で毒を盛られたらしい」という噂が広まった(本当は松前で感染した疱瘡が原因らしい)。その流言を利用して、シャクシャインは「ウトマサは松前のシャモに毒殺された。我らは結束してウトマサの仇を討たなければならない」と檄を蝦夷島全土に飛ばした。そこで、オニビシの残党の中にもシャクシャインの檄に従う者が出るように成った。シャクシャインは配下の者を全島に送って「松前の近年の処置は我らを絶滅しようとしている。現にウトマサは毒殺されている。今年の商船の貨物にはみな毒が入っている。だから、全ウタリは力を合わせて、奥地のシャモを殺し、その米・味噌を奪って兵糧にし、アイヌモシリからシャモを追い出して我がモシリを取り戻そう。もしウタリで蹴起に賛成しない者があるならば、シャモより先に殺す」と檄を飛ばして煽った。毒殺という言葉は、よく詩曲の中で毒酒として出てくるがそれは樺太アイヌ詩曲の中での事で、蝦夷島や奥羽でシャモに飲まされたという話はシャモの耳に達しない所で密かに囁かれていたらしい。

 シャクシャインのこの脅かしの言葉は、単なる脅しの言葉でなく現実にアイヌウタリの身辺に、ひしひしと迫る危機感を、誰しもが感じ取っていたから一斉に立ち上がったと言える。アイヌウタリは一斉に立ち上がって、奥地に入っていた鷹師、商船、金堀たちに襲い掛かり、太平洋岸で、白老九人、幌別二十三人、三石十人、幌泉十一人、十勝二十人、釧路音別十三人、白糠十三人を討ち取った。また、日本海岸では、後志歌棄二人、磯谷二十人、岩内三十人、余市四十三人、古平十八人、小樽祝津七人、増毛二十三人を惨殺した。このように大勢のシャモが討ち取られたが、普段からアイヌの人権を認めて親切に大愚してくれたシャモ二十二人(日本海岸では七人、太平洋岸で十五人)が目こぼしを受けて、助かった。

 蜂起に参加したアイヌは太平洋岸では釧路白糠、日本海岸では増毛まであったが、石狩のアイヌはこの蜂起に誘い込まれないで、蜂起軍にもシャモに対しても中立の立場を採った。シャモとの接触の少なかった宗谷のアイヌも、釧路から東のアイヌも蜂起に参加しなかった。このような事情はあったものの、シャクシャインの蜂起がこれ程大きく爆発したのは、日ごろシャモと接触の濃かった地方が、、酷い仕打ちに耐えかねて、『窮鼠猫を噛んだ』ことを示している。

 蜂起軍は胆振、後志、日高、十勝、空知、天塩のシャモを撃ち殺し、これらの地方を席巻すると、シャクシャインの指揮にしたがって、渡島の和人地に向かって南下を始めた。この叛乱の知らせが松前に達すると松前藩は直ちに噴火湾沿いの国縫に蛎崎作左衛門に兵三百を与えて、兵を繰り出すと共に、江戸幕府に急報した。

 シャクシャインの軍は、やがてエトモ(室蘭)に達する。これを聞いた松前のシャモたちは人心大いに動揺して、多くの和人は早くも本州へ逃げ仕度を始める者も出始めた。国縫では、金堀工夫二百人と兵三百人、合わせて五百人で土塁を築きアイヌ軍の襲撃に備えた。さらに松前藩の後続、佐藤権左衛門の兵百二十人、松前儀左衛門の兵百二十人、新井田瀬兵衛の兵百三十人が到着して、シャクシャイン軍二千人の半分の千人となった。

 松前藩から急報を受けた幕府は、藩主の従祖父松前泰広にアイヌ討伐を命じて急遽出動させた。アイヌ軍がエトモまで進出した、という知らせに藩家老蛎崎蔵人は、松前から国縫に到着した。松前軍は松前泰広を総大将として国縫川を挟んでシャクシャイン軍と対峙し、時を選んで一斉に攻撃を仕掛けた。

 相対するシャクシャイン軍は敵のチャシを焼き落とす事は巧みであったが、国縫川を挟んでの攻防は巧みではなかった。国縫川は川幅六・七間の小川で、松前軍は鉄砲二百挺ばかりを川の前面に並べ、隙間なく打ち出したのでアイヌ軍はたちまち百人ばかりが討ち倒された。シャクシャイン軍は、これに肝を冷やし皆引き気味に見えたが、アイヌ軍もさる者揃いで槍を持って、または半弓で毒矢をしきりに射掛けてきた。

 しかし、和人の武士は鎧を着込み、金堀たちは着込みを着装していたので、矢は一本も刺さらない。朝から昼まで、討ち合い戦が続いたが、やがて鉄砲側が有利となり、アイヌ兵は鉄砲に討ち立てられ叶わずと見て山中に逃げ込んだ。アイヌ軍にとって火器の威力を見せ付けられた一戦で、アイヌ軍の槍、太刀、狩猟用毒矢では到底適わない一戦であった。この戦いで、アイヌ軍の律儀なところは打ち倒された味方の死体を悉く引き取って逃げた事であった。

 国縫川の戦い後もシャクシャインは弓矢で抵抗を続けるが、松前軍の鉄砲のため、次第に押し戻された。松前軍本隊が国縫に到着すると戦況はシャクシャイン軍にいよいよ不利となった。こうして、シャクシャインは後退を続け、オシャマンベのチャシに逃げ込んだが、ここも鉄砲には対抗して持ち応えられず、オシャマンベから更に後退してシベチャリのチャシに向かって後退した。

 一方、松前藩の別働隊は亀田から船に乗って内浦湾を渡って一挙にエトモに進み、ここから総勢七百人を三陣に分け、ピポク(新冠)を衝き、シベチャリのチャシに篭城したシャクシャインと対峙した。シャクシャインのチャシは、シベチャリ川の対岸七十メイトルに近い断崖上にあり自然の要害であった。ここに立て篭もれば鉄砲でも効果はない。すでにアイヌモシリは秋が深まっていて、時が立てば松前軍はなっていくばかりである。

 そこで攻囲軍が考えたのが、例によって和議を申し入れて欺き、戦闘態勢を解いたところを見計らって騙し討ちにすることであった。松前軍は、和人がこの使いに立っては疑われると考え、松前藩に従っているアイヌを使い再三に渡って工作する。この申し入れに対してシャクシャインはなかなか耳を貸そうとしない。シャクシャインには持久戦に持ち込んで、雪と兵糧不足で敵が疲れたところを狙って一気に勝敗を決しようとする考えがあった。しかし、子のカンリリカの勧めにより、ようやく意を決して部下数十人を率いて、刀を佩き、弓矢を携え、甲冑を着して松前軍の本営を訪れた。

 そこで松前軍は配下に命じて武装を解かせ、巨魁十六名を招き、「降伏するならば命を助けるであろう」と言って償い品をださせたところ、巨魁は宝物とする大小の刀類、鍬先、鍔、などを集めて差し出してきた。その後、松前後軍の到着した夜に、「和議を祝す」として、シャクシャインらに酒を振舞い、彼らが酔ったところを見計らって、にわかにシャクシャイン、チメンバ等を取り囲んで切りかかった。たちまちにしてシャクシャイン始め巨魁十四名は惨殺された。ウエンシルシ一名は虜となって、彼の案内によってシベチャリのチャシに進みチャシを焼亡して、シャクシャインの乱は鎮圧された。

 攻め破られたシャクシャイン方は、その後どうなったか、近年までシャクシャインについて口伝えに伝えられていた事は、シャクシャインはサンクスアイヌともトンクスリとも言い、弟はリックスアイヌとか、トンキヤマと言って二人とも十勝の暴れ者で、十勝にいられなくなって山越えをしてシブチャリ川を降ってきて、豊畑や農家にいたが、最後に川口の方に出てきた。というシャクシャイン悪党説である。

 だがこれを口にする者はシャクシャインの敵である西方系のオニビシ方の人々の口からであった。シャクシャインに味方する説は、その後、何処からも現れない。シャクシャイン方は藩の記録とは違って皆殺しにされたらしく、シャクシャインについての伝承はない。後になって、シャクシャインは松前藩の権力に屈する事なく、同族のために敢然と戦った悲劇の英雄であったという声が高くなって、シャクシャインの後裔と名乗る者も現れるようになった。そのような一族間で密かに語られるシャクシャイン伝承は次の様である。

 シャモの金堀が金を掘るために、シブチャリ川の奥のシュムベツに入って川底を掘って川を濁らすため、川に魚が登らなくなった。そこでシブチャリ川の魚を糧にしていたペッパナやイチブイ、ルベシベなどのコタンの人々が生活に困ったので、酋長たちが「川を濁らせないよう」に抗議した処、「悪かった」と言って酋長たちを招いて、詫びの酒宴を開いたが、それに出かけた酋長たちは、一人も戻らなかった。それはシャモが落とし穴の上で酒宴を開き、宴たけなわを見計らって、落とし穴上の舞台を落として、酋長たちを皆殺しにしたのだ。

 これを聞いたシャクシャインが怒って、松前のシャモと戦争になった。シャクシャインはシャモ軍が鉄砲(テレケ・シホプ・ケプ)でくる事は解っていたので、ニイカップ寄りのシンヌップという所の藪の中に、仕掛け弓を仕掛けて応戦したが適わないので、シブチャリのチャシに追い詰められた。その時ニスレックルという自分の子供を、臼を伏せた下に隠して、臼の神に保護を頼み、自分は崖の上からシブチャリ川に飛び込み、すばやく着ていた鹿皮の袖無しを脱いで、それを流すとシャモ軍はそれに向かって矢玉を集中した。

 その隙にシャクシャインは水を潜って川下に逃れ、海に出てシンノブに姿を現したが、追われてオニビシのチャシのあったアツベツのモトカンベに逃れ、そこの同族の者に「山に隠れているから誰にも知らせるな」と言って山に入ったが、松前のシャモの探索がきた時、モトカンベの者たちが、裏切って喋ったので山は囲まれて生け捕りにされ、松前に護送されて四辻に磔にされた。

 「この者は極悪人であるから、ここを通る者は鋸で挽いて通れ」という立て札をして竹の鋸を置いたので、それで二つに挽き割られてしまった。弟のトンクスリは兄が捕らえられて処刑された事を知らずに、兄を探してモトカンベの山まで行ったが、疲れて倒れていると、鴉が集まって来て、「さあ、食べよう、さあ、食べよう」と一羽が鳴くと、他の一羽が「まだ、生だ、まだ、生だ」と鳴いているのが聞こえたが、やがて本当に死んでしまった。その死んだ後に家を建てる者があると、何か災難が起こるようになった。臼の下に隠れた子供のニスレックルは、成長して家内を貰い子もできたが、後になって、「シャクシャインに子孫はいないか」と調べられて「殺される」と思い、誰にも、ひた隠しにして話さなかったという。これがシャクシャインの死後のアイヌの口伝による伝承である。


 1669.6.14日、シュムクル、シコツ(現千歳)で和人12人を殺害。このあと幌別(登別市)から釧路の白糠に至る東蝦夷のアイヌが一斉に蜂起。商船11隻を襲撃。


 6月 西蝦夷地では、歌棄(寿都)から祝津(小樽)、増毛にかけて8隻の船がおそわれる。(宗谷・利尻・石狩・釧路以東は不参加)。和人273(津軽一統誌では355)名が殺害される。

 殺されたものの数と内訳: 太平洋岸では、白老9人、幌別23人、三石10人、幌泉11人、十勝20人、釧路音別13人、白糠13人。日本海岸では、歌棄2人、磯谷20人、岩内30人、余市43人、古平18人、祝津7人、増毛23人。武士はわずか5名でほとんどが商人、鷹師、船乗り、金堀たち。藩外の流れものが193人と2/3以上を占める。


 6月 松前藩は、津軽藩などから武器の貸与を受け、国縫と、亀田、熊石に兵を送り防衛線を敷く。和人の脱出は禁止される。


 7月 シャクシャインはシブチャリのチャシを出陣。松前からは蛎崎作左衛門以下300名が国縫まで出動。金堀工夫200人と合わせて500人で、土塁を築きアイヌ軍の襲撃に備える。


 7月 幕府は松前泰広を総大将に任命。津軽藩も幕府の命令で松前に出兵、南部藩、秋田藩にも出兵の準備が命じられる。


 7.28日、シャクシャイン軍およそ2千人、国縫川の松前軍防衛線に攻撃を開始。松前軍は佐藤権左衛門の兵120人、松前儀左衛門の兵120人、新井田瀬兵衛の兵130人を加え、約千人となる。

 国縫川は幅約七間。初回の戦闘で、松前軍は前面に鉄砲二百挺を並べ一斉射撃。アイヌ軍100人を殺害。武士は鎧を着込み、金堀たちは着込みを着装していたので、アイヌの毒矢は一本も刺さらず。昼過ぎにアイヌ軍は壊走し、山中に逃げ込む。(一説に「鉄砲一五〇〇丁を並べて斉射」とあるが、これは眉唾)


 8.4日、1週間の戦いの後、アイヌ軍は松前軍の鉄砲の前に崩れ去り、オシャマンベのチャシに撤退する。さらに松前軍の進出を受け、シャクシャインはシベチャリの砦に撤退し篭城するとともに、各地でゲリラ戦を挑む。


 8月下旬、江戸から総大将の松前泰広が国縫に到着。全軍628人を3軍にわけてシブチャリをめざす。


 10月、ピポク(新冠)に進んだ松前軍、シャクシャインに講和とツグナイをもとめる。シャクシャインは当初、冬場にかけて持久戦をもくろむが、子のカンリリカの勧めにより和平に応じる。


【シャクシャイン反乱が騙し打ちで鎮圧される】

 1669.10.23日、劣勢に立つシャクシャインが松前軍との和議に応じる。講和の宴にのぞんだシャクシャインは、酒に酔ったところをチメンバら幹部14名もろとも殺される。この日、アイヌ側の死者は74人とされる。これによりアイヌ人はシャクシャインの命日の10.23日、城跡に集まり、盛大なシャクシャイン祭を執り行う。

 10.24日、松前軍はシブチャリのチャシを焼きはらう。アイヌ軍参謀の鷹待庄太夫は火あぶり、ほかの3人の和人は討ち首となる。その後も散発的な抵抗は72年まで続く。


【シャクシャイン反乱の余波】

 1670年、松前藩は西蝦夷地に出兵。与伊知(よいち)の蝦夷大将八郎右衛門を征す。宗谷・利尻もこれに伴い臣従を誓う。石狩のハウカセは、当初武装中立の姿勢を崩さず。交渉の席に出ることを拒否するが、周囲の圧力により屈服。(一説では石狩・シリフカのアイヌが蜂起を策すが、宗谷・利尻の説得を受け挫折)

 1670年、和人居住区が熊石まで拡大される。

 1670年 シャクシャインの戦いをきっかけに、改良された南部馬が蝦夷地に大量移入され、松前藩の守備にあたる。


 1670年、津軽藩、東西の蝦夷地に内密のうちに調査船を派遣、東蝦夷地では追い払われ失敗するも、西蝦夷地では各地の首長と接触、津軽アイヌを通訳として貴重な記録を残す。

 「津軽一統志」に残された隠密の牧只右衛門による報告: 美国の酋長は、「米二斗入りの俵も7、8升しか入っていない。串貝を押し買いし、一束でも不足すると、翌年は科料もふくめ二十束も取られてしまう。それが出来ないとなれば、子供を質に取られ、女房を妾にされてしまう」と述べる。イワナイの酋長は、「去年、新家老が干し鮭の交換比率を半分以下としたため、仲間がシャモを殺した」と述べる。シフカリの酋長は、和人の大網を使った鮭乱獲に抗議したところ、暴力を振るわれたと証言。ヨイチの大将ケクシケ(70歳)は、松前で鮭商人の非道を訴えたところ、「首を切るぞ」、「髷を切るぞ」と脅され追い払われた。


 1671年、松前軍、東部之良遠伊(しらをい)の蝦夷に対し掃討作戦。日高、およびノサップ(根室)、厚岸、釧路のアイヌと和平を結ぶ。


 1672年、松前泰広、みずから東部久武奴伊(くんぬい)の掃討作戦。浦川のアイヌとの和平成立。アイヌの抵抗は最終的に終焉。


 1679年、松前藩の穴陣屋が久春古丹(後の樺太大泊郡大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。


 1680年、アイヌの宝物を盗んだ和人盗賊二人が、国縫でさらし首にされる。


 1688年、水戸藩の水戸光圀、三次にわたり快風丸を蝦夷地に派遣。石狩川流域の調査を行う。快風丸は總長約49メートル、巾約16メートル、櫓40挺の巨船。


 1693年、松前藩、知行主がアイヌを「奴僕」化することを禁じる。


 1697年、ロシア帝国、カムチャッカ半島を征服し、千島列島を南下。


 1700年、松前藩が幕府に「元禄御国絵図」を提出。千島列島が描かれた日本最古の地図とされる。


 1702年、飛騨屋久兵衛、蝦夷地の蝦夷檜(エゾマツ)に目を付け進出、松前藩より蝦夷檜山請負の独占権を獲得、沙流・釧路・石狩・夕張・天塩などの材木を江戸・上方に運び巨利を得る。さらに海産物を商いとして東蝦夷地に進出。

 飛騨屋久兵衛: もともと飛騨国益田郡湯之島村(現在の岐阜県下呂町)の材木商。江戸時代の初め江戸に進出した。その後下北半島の大畑に基地を構え、材木を江戸に出荷していた。


 1707年、 和人地の戸口調査が行われる。福山城下(松前)及び57村で、15,848人。


 1709年、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江河口対岸に島があると聞き、満州語で、現地民の通称であるサハリン・ウラ・アンガ・ハタという名で呼んだ。


 1711年、ロシア、北千島のシムシュ島やパラムシル島を占拠。


 1719年、 松前氏は1万石格とされ、交代寄合のまま大名同然に処遇される。


 1720年、新井白石、蝦夷地の地理・風俗を紹介する「蝦夷志(えぞし)」を著す。


【松前藩の対アイヌ通商政策を商場知行制から場所請負制に転換する】

 1720年頃 松前藩やその家臣は、参勤交代など財政上の理由から経営困難になり、累積債務を清算するため、債権者である商人に交易権一任という形で事実上権利を売却し、税金として運上金を徴収する制度に転換した。知行主が知行地の交易を商人に一任し、商人による場所請負制が一般化する。この「民営化」に伴い、商場知行制の時よりも収奪・酷使が激化した。税制改革として昆布役、穀物役、鱈役、鮫取役、出油役、入酒役などの新しい課税制を布く。ほぼ同時に鱒船、秋味船、海鼡引船の操業も許可される。

 場所請負制はさらに進化を続け、今度は場所ごとに拠点をつくるようになる。これを運上屋(運上家)と云う。場所を任された商人が支配人・通辞・帳役の三役と番人を置いて管轄した。蝦夷地にはこうした運上屋が80箇所以上設置されたと云われる。

 商人が漁業に携わるようになると、今度はその労働力としてアイヌの人たちを酷使するようになりました。この場所請負人運上屋の酷使に立ち上がったのが国後と目梨羅臼のアイヌの人たちで、これが1789年に起きた 「クナシリ・メナシの反乱」に繫がる。国後泊村の場所請負人飛騨屋の運上屋が襲撃され22人が殺害されている。


 1720年頃、商人たちは高まる本州方面の需要に応じ、場所に新しい漁法を持ち込み、アイヌを使役して自ら漁業を行うようになる。アイヌ人は、交易の対象ではなく、漁場に隷属させられた労働者とされる。コンブは大阪・富山を経由して沖縄にまで流通。魚肥(ニシンなどの油を絞ったシメ粕)は、燐酸と窒素を含み、花付きを良くし植物を丈夫にする効果が高かった。綿花・菜種・藍などの商品農産物の生産性を大幅にを向上させたことから、「金肥」と呼ばれ、近畿市場を中心に大量に流通。上方や江戸に花開いた大衆の消費文化を支える基盤となった。


 1739年、スパンベルグの率いるロシア探検隊、千島列島の地理の全貌を解明。


 1737年、根室で藩の交易船とアイヌのあいだに「騒動」。松前藩はこの地域への商船派遣を一時見合わせる。


 1739年、松前藩記録によれば、道東地方のアイヌは剛強で、ややもすると松前藩の命令も聞かない.根室、厚岸、釧路あたりは特別に取り扱いが難しい、との記載あり。


 1740年、蝦夷地の海産物が中国向け嗜好食品として人気が高まる。これらは長崎俵物(たわらもの)に指定され、幕府が直接買い上げるようになる。松前、江差、箱館の三湊の問屋で結成された株仲間が俵物の集荷に携わった。

 長崎俵物: 煎り海鼠(いりこ) 、白干鮑(ほしあわび) 、鱶鰭(ふかひれ) の三品を指し「俵物三品」と呼ばれた。他の海産物として昆布、鯣(するめ) 、鶏冠草(とさかぐさ) 、所天草(ところてんぐさ) 、鰹節、干魚、寒天、干蝦(ほしえび) 、干貝などがあるが、これらは俵物諸色(しょしょく)と呼ばれた。


 1740年頃、場所の中心に、諸業務を統括する運上家が設置される。漁期には支配人・通辞・帳役の「会所三役」が詰めた(休漁期には番人のみ越冬)。このほか各所に漁場を監督する番屋が建てられた。場所請負人の配下の和人の番人が多数派遣された。

 近世蝦夷人物誌: 番人は場所稼方の者より見立てられた無頼の博徒や無宿人たちであった。父母親戚にも疎まれるやからで、往々非道に及んだ。年寄り子供であろうと、しけの時であろうと漁を強制した。クスリ場所では当時41人の番人のうち36人までが、土人の女の子を奸奪して妾となした。


 1741年、渡島大島が噴火し、大津波が発生。松前藩領内諸村で家屋破壊791棟、破船1521艘、溺死者1467人に達する。


 1742年、樺太アイヌが清商人を略奪し、清の役人が樺太アイヌを取り締まる。


 1747年、ロシア正教会、ヨアサフ司祭をクリル列島に派遣。その後の数年間で200人あまりがギリシャ正教に改宗。


 1748年、邦広の税制改革。入津する船の積載荷物への課税として、「沖ノ口入品役」が布かれた。


 1754年、松前藩、蝦夷地の国後島に場所を開き、択捉・得撫までの交易場所とする。


 1758.7月、ノシャップ(キイタップ)とソウヤの蝦夷同志の抗争。シクフとカスンテ親子が率いるキイタップアイヌ2千人がソウヤアイヌを襲撃し、60人を殺害し、200人あまりの負傷者をだす。


【ロシアの千島進出】

 1759年、エトロフの乙名カッコロ、松前藩に対し、ロシア人がクルムセに居住していることを明らかにする。

 1765年、ロシアの狩猟隊、エトロフ島に上陸。周辺のアイヌに暴行して去る。

 1768年、コサック百人長のイワン・チョールヌイ、エトロフ島に上陸。アイヌのラッコ猟場を荒らし、小規模な抗争となる。(65年の記載と同一事実か?)


 1770年、十勝の蝦夷と沙流の蝦夷の抗争。


 1770年、エトロフ、ウルップ島にプロトジャコノフ商会のロシア人狩猟者(隊長イバレンエンチ)が乗り込み、クリルアイヌに暴行。長老らを殺害。


 1771年、ウルップ現地のアイヌはロシア人に逆襲。20人を殺害し、残りを追放。


 1771年、ぺニョフスキー事件。カムチャッカからの脱走者ぺニョフスキーが、ロシア人の意図を長崎商館長に警告。ロシア人が千島に砦を築き、 松前およびその他の諸島をうかがっているとする。

 ぺニョフスキー: ハンガリー人でポーランド軍に参加してロシアと戦った。ロシア軍に捕えられ、カムチャッカに送られた。ロシアの船を奪って逃亡し、 阿波の港に着いて徳島藩の保護を受ける。 さらに琉球の大島で薪水供給を受けたあと、マニラに向かう。


 1772.6月、ロシア人が霧多布に入る。通商の申し出に対し松前藩は「来年回答する」と言って帰国させた。


 1773年、ロシア人四十八人が再び来航。「蝦夷地での通商行為は国禁であり、長崎で幕府と交渉すること」と通告。


 1774年、飛騨屋久兵衛が、松前藩からエトモ(室蘭)、アッケシ(厚岸)、キイタフ(現在の霧多布ではなく根室周辺)、国後(翌年には宗谷も)場所での交易権を請け負う。定置網などの漁法を持ちこむ。

 この頃の松前藩は、城下の大火事、江戸藩邸の焼失、藩主の婚礼、参勤交代などで、巨額の借金をこしらえた。飛騨屋への債務は8183両にもおよんだ。クナシリ方面の場所請負の権利は債権の「カタ」として譲られたものであった。


 1774年、クナシリ島の首長ツキノエ、飛騨屋の交易船を拒否。


 1775年、ツキノエ、ふたたび大舟で渡来した飛騨屋を拒絶。交易船に乗り込み、積み荷を破壊・略奪。その後、国後への交易船派遣は8年間にわたり中断。松前藩は報復としてエトロフを経済封鎖。和人に対し、ツキノエとの交易を禁止。ツキノエらは、ロシアと独自に交易を開始。


 1778年、イルク-ツクの商人ラストチキン、商船ナタリア号を千島に派遣。シャバーリン船長らは、ツキノエの案内によって松根室のノッカマップに来航。前藩と交易交渉。


 1778年、吉雄幸作、「北警論」を著す。


【松前藩のアイヌ民族の有力者宛て文書】

 「東大研究チーム:アイヌ宛て最古の古文書 ロシアで発見」。

 1778(安永7)年、松前藩から北海道東部のアイヌ民族の有力者宛て文書が発送されている。2016.10月、原本が、ロシアの国立サンクトペテルブルク図書館で発見した。東京大史料編纂(へんさん)所などの研究チーム(代表、保谷徹・東京大史料編纂所教授)の調査で見つかった。240年前に松前藩からアイヌ民族に手渡された最古のオリジナル文書とみられ、アイヌ民族とロシアとの接点を示すものとしても注目される。松前藩の文書は幕末や明治初期の混乱などでほとんど残っていないため貴重。共同研究者で北海道博物館の東俊佑(あずま・しゅんすけ)学芸主査(近世史)は「原本としては最も古いものとみられる。発見の経緯から、鎖国の時代にアイヌの手から蝦夷地を訪れたロシア人に文書が渡り、それがロシアで見つかったことになる。その点に意義がある」と話している。文書は松前藩の「蝦夷(えぞ)地奉行」から、根室半島先端に近い「ノッカマップ」(現在の北海道根室市)を拠点としていたアイヌ民族の有力者「ションコ」に宛てたもの。交易に使われる施設の「運上小家」の火の用心に努めよ▽和人の漂流船が漂着した際は、この文書を見せて介抱の上、送り届けよ--など4項目を「定(指示)」とし、背いた者は厳罰に処すとしている。


 1779年、アッケシのツクシコイで松前藩とロシアの折衝。応待した松前藩士は国禁であるとこれを断わり、 これを幕府に報告しなかった。ロシア人はツキノエらとの交易も取りやめる。


 1780年、石狩などで天然痘が流行、アイヌの死者647人に及ぶ。


 1782年、クナシリ首長ツキノエら、飛騨屋との交易を承諾。松前藩によれば、「ツキノエが心を改め詫びた」ため交易を再開したという。


 1783年、天明の大飢饉。津軽の人多く渡海す。松前及び桧山地方鰊不漁。以後20年にわたり群来絶える。


 1783年、ソーヤ・メナシ・カラフトで飢饉。アイヌの餓死者がソーヤ・メナシでは800-900名、カラフトでは180名に及ぶ。


 蝦夷地防衛論の興隆。


 1783年、仙台藩医工藤平助が「赤蝦夷風説考」を発表。ロシア人の南下に対する蝦夷地防衛の必要性を訴える。


 1784年、「赤蝦夷風説考」を読んだ勘定奉行松本秀持が本を添えて、老中田沼意次のもとへ蝦夷地調査についての伺書を提出。


【江戸幕府の蝦夷地探索】

 1785年、江戸幕府にロシア脅威論が高まる。幕府の命により東西二つの調査隊が蝦夷地を探索。 

 山口鉄五郎率いる東蝦夷調査隊(最上徳内をふくむ)にはツキノエらが協力し、エトロフ、ウルップ、カラフトまでを調査する。西蝦夷探検隊は樺太に渡る。西蝦夷隊の鈴木清七は単身、中部蝦夷(オホーツク沿岸)を探検したあと東蝦夷班に合流。大石逸平はカラフト中部のタライカ湖まで到達、さらに東端の北シレトコ岬まで行く。サンタン人(アムール・沿海州の民族)と接触。西蝦夷探検隊のうち宗谷で越冬した庵原弥六隊長ら5人が凍死。

 1786年、最上徳内ら、蝦夷地の千島を探検、得撫島(ウルップ)に至る。蝦夷地探検隊、「蝦夷地の儀、是迄見分仕候申上候書付」と題する報告書を、田沼意次あてに提出。「蝦夷地は広大なうえ地味がよく農耕に適しているが、松前藩はアイヌを農耕化させないため、彼らが穀物を作ることを禁止している」とのべる。 

 根室歴史研究会「クナシリ・メナシの闘い」によれば、幕府は85年から86年にかけて調査隊に「お試し交易」を実施した。松前藩と請負商人の交易はこの間中止。この交易を通じて、現地での経営がきわめてずさんで不正であることが明らかになる。またアイヌを魚油作りの労働に酷使。暴力を振るっていることも明らかになる。


 1786.8月、十代将軍徳川家治が死亡。これにともない老中田沼意次は失脚。


 1786.10月、蝦夷地探検が中止される。このとき調査隊は根室のノッカマップとニシベツ(別海町本別海)で調査と交易を実施中であった。


 1787年、蝦夷地探検隊による探検記録「蝦夷拾遺」が執筆される。アイヌの民俗から自然、人文、地理などが詳しく報告されるが、新政府により黙殺される。


 1786年、林子平が「海国兵談」を著す。


 1787年、最上は江戸に戻った後、松前藩を批判する「蝦夷国風俗人情沙汰」を発表。①松前藩は家康の黒印状に示された「蝦夷は蝦夷次第」の条項を無視している。②アイヌに対して日本語・日本風の髪型を禁止、笠・蓑・草鞋の使用まで禁止している。③アイヌを「禽獣の類」として区別し、奴隷として酷使している、ことを暴露する。


 1788年、古川古松軒(63歳)、幕府巡見使に随行して江戸から蝦夷地に至り、紀行「東遊雑記」を著す。庶民の服装や食事、アイヌ民族の言語や信仰、漁具や海産物などについて貴重な資料となる。


 1788年、飛騨屋、クナシリ場所にて大規模な搾粕製造を開始する。現地のアイヌを低賃金で牛馬のように酷使した。このためアイヌのあいだで餓死者が頻発した。

 新井田孫三郎「寛政蝦夷乱取調日記」: 飛騨屋は搾取に反発するアイヌに対し脅迫・暴行を加え、見せしめとして毒殺などを繰り返した。老人や病人など労働力として価値の無いものは虐殺した。また、和人の支配人や番人らは、アイヌの女性を手当たり次第に強姦、抗議に来た夫を虐待し、さらに弁償させるという傍若無人の振る舞いを行った。


【クナシリ・メナシの反乱】

 1789年、クナシリ・メナシの反乱。5.7日、国後の惣長人(そうおとな)サンキチ、ウェンベツからきた支配人勘兵衛のふるまい酒を飲んだ直後に急死。長人のマメキリの妻は運上屋でもらった飯を食べた後まもなく死亡。二人が和人に毒殺されたと見たマメキリは、アイヌの蜂起を呼びかける。サンキチの息子ホニシアイヌ、フルカマフの首長ツキノエの子セツハヤもこれに呼応した。このときツキノエは厚岸の長人イコトイ(息子?)とともに得撫、択捉まで漁に出かけて不在だった。

 5.10日、武装したアイヌ41名が、国後トマリの運上屋や番屋を襲撃。竹田勘平(松前藩の足軽)、飛騨屋の支配人、通辞、番人など22名を殺害。クナシリ組41人の構成は、マメキリを先頭にホニシアイヌ、ノチウトカン、サケチン、イヌクマの5人が指導部を形成。ほか9人が殺害に直接加わる。さらに27人が襲撃に参加する。彼らはクナシリ島内のフルカマフ(古釜布)、ムシリケシ、エトリレ、フユニの集落の若手リーダーだった。

 5.10日 その後、反乱部隊は200人以上に膨れ上がり、国後全島の騒乱に発展する。殺された和人は泊で10人、トップライで6人、古釜布で5人。フルカマフに出張中に捕らえられた厚岸の支配人伝七と吉兵衛は、たまたまエトロフ島に来ていた厚岸の首長イコトイの知り合いであったことから、助命される。

 (「クナシリ・メナシの戦い」ではかなりの異同がある。これによると、フルカマフで4人、トウフツ(東沸、マメキラエ?)で2人、泊で5人、チフカルヘツ(秩苅別)で8人、ヘトカ(別当賀)で3人の計22人。)

 5.13日早朝、弓と槍で武装した忠類のアイヌ部隊が反乱。指導者は忠類の首長ホロエメッキ。部隊は忠類河口沖に停泊していた飛騨屋の交易船大通丸を、40艘ほどの小船で襲撃、船子13名を殺害する。ただ一人生き残った大通丸の乗員庄蔵は、ホロエメキの黙認の下でその息子セントキに保護される。

 大通丸襲撃を機に、根室のメナシ地方のアイヌも蜂起する。メナシは現在の根室支庁目梨郡標津町など。メナシ組89人の構成は、忠類の首長ホロエメッキ(ホロメキ)、シトノエ、ケウトモヒシケの3人が指導部を形成。ほか21人が殺害に直接加わる。さらに89人が蜂起に参加する。

 国後の反乱者を加え総勢200名あまりとなった反徒は、標津で六名、忠類で八名、古多糠(コタヌカ)で五名、崎無異(サキムイ)で五名。ほか薫津、植別、訓根別、オロマップの各地で計36名を殺害。これにより和人側の死者は総勢71名となる。竹田勘平を除く70人は、いずれも飛騨屋の使用人で、松前や東北各地からの出稼ぎ者。

 (「クナシリ・メナシの戦い」ではかなりの異同がある。これによると、標津で5人、忠類で10人、古多糠で5人、クンネヘツ(訓根別、薫別?)で5人、サキムイで5人、ウエンベツ(植別)で8人の計38人。大通丸の死者はこれに含まれない。)


【クナシリ・メナシの反乱その後】

 5.15日、当地を巡察中だった飛騨屋の使用人助右衛門、野付から標津にかけて偵察。和人の死体多数を目撃する。助右衛門はただちに松前に向け出立。

 5.17日、クナシリの反乱部隊が海を渡り、対岸のチウルイ(忠類)に上陸。庄蔵の引渡しを要求。ホロエメキの仲裁により一命を取り留める。その後ノカマップの首長ションコの斡旋により厚岸まで護送され解放される。

 6.1日、助右衛門、松前に到着し現地の状況を報告。事件発生後24日目に異変を知った松前藩では、新井田孫三郎を隊長とする260名余の鎮圧軍が編成される。

 6.11日、新井田隊、松前を出発。鉄砲85丁、大筒(大砲)3丁、馬20頭が配備される。

 6月中旬、 庄蔵は厚岸で救出され、陸路松前までたどり着く。

 6月中旬、古釜布に帰って来たツキノエは、生き残った和人商人から騒乱の発生を知る。ツキノエはいったんエトロフに移り、厚岸から来ていた腹心のイコトイ(息子?)に命じて択捉の紗那のアイヌ勢をつけ、野釜布に向かわせる。イコトイと野釜布の酋長ションコはメナシに上陸。反乱部隊と交渉を開始。

 6月下旬、新井田隊、厚岸で全軍が合流。ノッカマップの惣長人ションコと打ち合わせしたあと、海路ノッカマップに向かう。

 6月、マメキリら反乱部隊、長老たちの説得で戦闘を停止。国後の131名、メナシの183名、合計314名が投降する。以後国後はツキノエが代表となり、目梨はションコが代表となってこの地方を取り締まることになる。騒ぎを鎮めた長老たちは「御味方蝦夷」と呼び尊重される。一方反乱の残党は「月ノ井を相殺し申すべし」とつけ狙ったという。

 6月、松前軍はイコトイとションコに予審をさせる。その結果、クナシリではマメキリ、セツハヤが首魁とされ、目梨ではホロエメッキが首魁とされる。

 7.8日、新井田隊、根室の野釜布に到着。反乱軍を武装解除。弓102張、毒矢3900本、槍57本、刀68振などが没収される。

 7.15日、反乱参加者131人がノッカマップに出頭。うち直接加害者とされた37人が牢に入れられる。

 7.20日、捕囚に対する取調べ。訴訟に及ぶことなく殺害に及んだ仕儀を死罪にあたると判断。いっぽう「国後・メナシの支配人と稼方が心得違にて非分」を働いたとし、4代続いた飛騨屋を出入り禁止とする。

 7.21日、蜂起の指導者マメキリら7人をノッカマップの丘で死刑に処す。これを知り騒ぎ始めた捕囚30名は、全員が鉄砲などで撃ち殺される。メナシの民衆は反撃せずそのまま解散。その後ツキノエ、イコトイ、ションコらの手勢が防衛に当たる。

 7.27日、新井田隊、ノッカマップを離れる。藩主への御目見えとして、43名(一説に39名)のアイヌ人質が松前城下に連行される。蛎崎波響の「夷酋列像」は彼らを描いたものとされる。

 9.5日、新井田隊が松前に帰還。首謀者らの首は塩漬けにされて松前に運ばれ、城下で晒し首とされた。 


【幕府の探索】

 1789年、江戸幕府はこの事件を重大視し、南部・秋田・八戸の各藩に出兵の準備を指示。青島俊蔵、笠原五太夫、最上徳内らの探検家を隠密として蝦夷地に派遣する。

 1790年、 松前藩、国後・メナシのアイヌ反乱に関して幕府に報告。

①東西の蝦夷地交易を商人に請け負わせていたが、「利勘にまかせ、自然と蝦夷人を押掠め、不正の取計等」があったため、今後は松前藩が手持ちの船を用い直差配にいたし、介抱交易を進め蝦夷人帰服の実をあげたいと述べる。
②また「稼方の者共他国人多く入込」のため、今後は「松前百姓共計差遣、稼方」とする意向を表明。③さらに「向後東蝦夷地あつけし、西蝦夷地そうやへ番所を建置、番頭と侍足軽を差置、蝦夷人行跡万事取締る」とする。


 1790年 江差漁民騒動が発生。石崎から熊石までの漁民、一揆をおこす。


 1790年 最上徳内と青島俊蔵、争乱の調査のため蝦夷へ。その後、「国家隠密法違反」で入牢。


 1790年、樺太南端の白主に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。


 1791年、最上徳内、幕命によって国後・択捉両島に渡る。


 ロシアの貿易開始要求。


 1792年、ロシア使節ラックスマン、根室に来航。光太夫ら3名を日本に送還。ラクスマンはこれをきっかけとして外交・通商を求める。幕府は漂民移送ということから会見に応じる。 光太夫は伊勢の漂流民で、モスクワに送られ、エカテリーナ女王とも謁見するなど丁重な扱いを受けた。


 1793.6月、ラックスマン、箱館へ入港。陸路松前に到り幕吏と交渉。幕府は松前での交渉を拒否する代わりに、長崎に入港するための信牌を交付し帰国させる。


 1794年 国後でアイヌの反乱。藩は国後との交易強化のため、飛騨の商人で南部下北の大畑居住の武川久右衛門に、絵友、厚岸、霧多布、根室の四場所を請け負わせる。


 1794.3月 松前藩主道広、妄言多く幕府に譴責される。幕府目附朝比奈次左衞門が来藩して、 藩主道広の隠居致仕を求め、 血誓書を提出させる。道広は、「蝦夷地の措置よろしからず。沿岸の警備も厳格でない。加えて言動や行跡不謹慎である」とし、藩邸に幽閉される。幕府目付け石川将監、村上大学が松前に配属となる。さらに南部藩、津軽藩が藩兵を蝦夷警備のため上陸させる。(今のところ隠居致仕の処置と、自宅蟄居の処分との時間的関係が不分明です)


 1795年、厚岸の乙名イコトイ、アイヌ人1人を殺害。男女10人あまりを伴ってエトロフ島に渡り、争いを起こす。イコトイはさらにウルップ島に渡り、ロシア人と交易して冬場をしのいだという。


 1796年、英国船プロビテンス号(ブロートン船長)が虻田に来航、周辺海域を測量。翌年根室にも来航する。


 1796年、高田屋嘉兵衛は1,500石積みの大船、辰悦丸に乗船し箱舘に入る。天然の良港である箱舘に目を付け、ここを交易の拠点とする。


【近藤重蔵の東蝦夷・千島探検】

 1796年、ロシア人の南下に対し蝦夷地防衛の必要性が高まる。近藤重藏(28歳)、蝦夷地取締御用を命ぜられ、幕府に北方調査、蝦夷地掌握の上申書を提出する。


 1798.3月、江戸幕府、蝦夷地に総勢180名余の大巡見隊を派遣。最上徳内(44歳)が国後で合流。


 1798.7.27日、近藤重蔵が、択捉島に「大日本恵土呂布」の標柱を立て領有を宣言する。この時点ですでに多数のロシア人が住んでいたという。

 択捉島南端のベルタルベの丘に建てられた標柱は水戸藩の木村謙次(変名 下野源助)が書いたという。表には「寛政十年戊午七月 大日本恵登呂府 近藤重蔵 最上徳内」

 1798.10月、近藤重蔵、千島からの帰路、広尾町のルベシベツとビタタヌンケの間に延長約3里の山道を開く(重蔵山道)。翌年には様似山道が開通(距離約5km、3時間)。さらに幕府普請役の最上徳内が、幌泉から猿留川に至る約28Km(猿留山道)を開削。南部馬15頭が茂寄(広尾)と大津に備馬(そなえうま)として配置される。


【幕府が蝦夷地基本政策を策定】
 1798年、蝦夷地取締御用掛の羽太正養らが中心となって五つの柱からなる蝦夷地基本政策を策定した。(1)幕府による産業の発展、(2)アイヌとの交易をただす、(3)択捉の中心にした警備、(4)産業・警備のため陸と海の交通路を整える、(5)蝦夷地経営の経費は幕府財政から支出する。

 これにより、東蝦夷地の場所請負制を廃止、運上屋を会所と改めて、1812年に松前藩に戻されるまで江戸幕府が直轄した。その後入札で場所請負人を決定するシステムに変更された。但し、本当に廃止の方向へ向かうのは1858年のことで、石狩、長万部、小樽などが村並(つまり道外の村と同格)に置き換えられ、その先駆けとなった。正式に廃止されたのは明治政府により開拓使が設置された後の1869年10月。但し、漁場の場所については「漁場持」が続けられた。この漁場持も廃止されたのは1876年9月。また、運上屋は政府に引き取られ、会所、番屋などに代わった。場所請負制で本州と蝦夷地を行き来して物品を運んだのは「北前船」である。(「松前藩時代のアイヌとの交易」参照)

【幕府による東蝦夷地の直轄】
 1799.1月、江戸幕府は松前藩のアイヌに対する苛斂誅求ぶりが、ロシアを利するとの疑念を持ち介入。「辺海警備の為暫く東蝦夷地官の直轄となす」とし、向こう7年間、幕府が仮に上地する決定。

 同2月、幕府は対露緊張切迫に伴い、松前藩には対応能力が無いと判断、東蝦夷地を直轄地とする。1807年には西蝦夷地も直轄にする。東蝦夷地のうち、「浦川より東北の知床半島及び国後、択捉」までが、松前藩から召し上げられる。松前藩には東蝦夷地に替えて新たに武蔵の国の久喜五千石を采地とする告示。

 8月、松前藩、「知内川以東浦河までの地」も返上したい旨を願い出る。幕府はこれも上地する。これにより幕府直轄地の範囲が箱館もふくめて拡大。

 11月、幕府は、南部・津軽の両藩に対し、1か年それぞれ重役3名、足軽500名をもって、津軽藩は砂原以東、南部藩は浦河以東の地を警衛するよう命じる。箱館を本陣とし、南部藩がネモロ・クナシリ・エトロフ、津軽藩はサハラ・エトロフに勤番所を設ける。


 1799年、幕府が「三章の法」を発布する。アイヌ同志の窃盗や殺人を幕府が裁定することとする。松前藩による場所請負制度を廃止し、運上屋に代え「会所」を設け、幕府の直捌制度にする。実態は変わらなかったとされる。蝦夷地の産物は江戸伊勢崎町の会所を通じて販売された。またまた禁止していた和語の修得を指示し、同化・改俗を計る。


 1799年、近藤重藏、高田屋嘉兵衛にエトロフ開発を命じる。場17か所を開かせ、択捉島全島(アイヌ人口1118人)に郷村の制を創設して斜那など7郷と25村の名称を定める。


 1800.2月、両藩は箱館に本陣屋を置き、南部藩は根室・国後・択捉に、津軽藩は砂原と択捉に勤番所を設け、藩士を駐屯させる。これに伴い和人居住区が噴火湾の野田追まで拡大される。


 同4月、八王子千人同心の原半左衛門、農業をしつつ、南部藩の警備をおぎなうこととなる。天明の飢饉の救済策と考えられる。130人がユウフツ、シラヌカに入る。このうち33人が現地で死亡。3年後に残ったのは85人であった。


 1800年 高田屋嘉兵衛、手船辰悦丸(1500石積)と図会船および鯨船4隻を率い、米塩木綿煙草その他雑貨日用品等を満載して択捉に向かう。


 1800年、伊能忠敬が蝦夷地を測量。翌年には蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を完成。


 1801年、最上得内、富山元十郎などが得撫島(ウルップ)島を探検。「天長地久大日本七属島」の標柱を立てる。


 1802.2月、幕府は、東蝦夷地一帯の直轄地を永久上地することに決定。箱館に蝦夷奉行をおく。アイヌに対する和人風俗化、農耕の指導を禁止。(99年政策と矛盾しているようだが?)


 1802年、近藤重蔵、「蝦夷地図式二」を作成。過去10年ほどのあいだに作成された各種の蝦夷地図を総合したもの。


 1804年、長崎でのロシア通商使節ニコライ・ザレノフとの交渉は決裂に終わる。レザノフは帰路、宗谷地方や樺太を探検。蝦夷地の防備の手薄を知る。


 1804年 ユウフツ、シラヌカの八王子千人同心、入植を断念。箱館地役雇というかたちで幕府雇となる。


 1804年 江戸幕府、土人教化のため有珠に善光寺(浄土宗)、様似に等樹院(天台宗)、厚岸に国秦寺(臨済宗)を設立。蝦夷三官寺と呼ばれる。これらの寺は檀家を持たず、全て財政は幕府持ちの出先機関であり、アイヌ教化と和人の橋頭堡確保を目的とする拠点と位置づけられる。


 1805年、海岸部で鮭捕獲のため定置網がもちいられるようになる。さらに1864年になると大謀網(たいぼうあみ)の使用も開始される。網をおこすのに船3隻、漁夫25人を要したという。鮭を主要な生活資源とする内陸部のアイヌは、生活に困窮する。また漁業労働者としてアイヌを大量に使用したことから、内陸部の過疎化が進む。


【ロシアの樺太・千島攻撃】
 1806年、レザノフの指示を受けた部下フォストフのロシア船、樺太に渡来し、久春古丹に上陸し会所を襲い番人を連れ去る。樺太クシュンコタンの運上屋を攻撃。

 1807.3月、松前藩が北辺警備に対する積極的対策をとらなかったため、幕府は西蝦夷地をふくむ蝦夷全島を直轄することを決定。「蝦夷地は外国に接し今や魯国の侵略下にあり、松前一藩では到底治める事はできない」とされる。


 1807..5月、フォストフ、前年に引き続きエトロフを襲い、ナイボ(内保)、シャナ(紗那)の番屋・会所から番人を連行する。遮那では小規模な交戦事態も発生。これはロシア政府の意向と反していたため、フォストフはカムチャッカでロシア官憲に処罰されたという。


 1807.5月、箱館奉行はロシア来襲に対応するため南部・津軽・秋田・庄内・仙台・会津など奥羽諸藩に4000名の出兵を命じる。

 各藩の割り当て: 松前:会津藩200人、箱館:仙台藩800人、江差:津軽藩100人、クナシリ・エトロフ:仙台藩1200人、根室~砂原:南部藩250人、樺太:会津藩1300人、宗谷~シャリおよび天塩~マシケ:津軽藩50人、石狩~利尻:幕府直轄、高島~熊石:津軽藩100人、


 1807.9月、 幕府、松前藩を福島の梁川領9000石に移封する。松前藩に代わり松前奉行が設置され、これにともない、蝦夷奉行改め箱館奉行所は廃止される。この時点で幕府の把握したアイヌ人人口は26800人。


 ロシア人、連行した番人を通して通商を要求、拒否の場合は攻撃を予告する。幕府を蝦夷地に派遣するもロシア船、利尻島を襲い幕府の船を焼く、ロシア船打払いを命ずる。西蝦夷地を幕府直轄化。。箱館奉行を廃止し松前奉行を置く。アイヌに対する和風化政策がおこなわれる。


 1807年、近藤重藏、箱館から西蝦夷地の海岸を北上し宗谷に達する。樺太のアイヌを召集して事情を聴取。帰路は天塩川-石狩川-中山峠と陸路をとる。視察後、「総蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付」を提出。総蝦夷地の中央に要害を立て四方へ道路を開くよう提案。候補地として①石狩川筋カバト山、②浜通りタカシマ・ヲタルナイ、③イシカリサツホロの西テンゴ山があげられる。


 1807年、蝦夷出兵した各藩藩士に病死が相次ぐ。斜里に出陣した津軽藩士100人は最初の冬に85人が病死。翌年の樺太への出陣では708人の内の119人が病死した。


 1807年、江戸の役人がアイヌの国勢調査人口が2万6256人であると見積もっている。18533年になると、その数は1万7810人に減っている。


 1808年、江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで樺太に派遣。松田伝十郎、間宮林蔵両人が樺太のラッカに達する。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。


 1808年、長崎でフェートン号事件。


 1809年、間宮林蔵が樺太が島であることを発見し、呼称を北蝦夷と正式に定める。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献した。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。


 1810年、間宮林蔵、二回目の樺太探検。ナニオーから間宮海峡を渡りアムール川を遡上。満州のデレンに達する。帰国後『東韃地方紀行』を著す。


【ゴロウニン騒動】

 1811年、ゴロウニン艦長拘留事件。日露の緊張が高まる。

 1811.5月、国後島でゴロウニン事件が発生。ロシア軍艦ディアナ号は、 南部千島の海域を測量調査。国後島の泊に入港し水、薪、米等を求める。同所在勤の松前奉行調役と南部藩士は、上陸した艦長ゴロウニン少佐、 ムール少尉ら八名を逮捕。ディアナ号副艦長リコルドは、 南部藩との間で砲撃戦を行った上帰航。

 1811.5月、ゴローウニンら八名は松前に連行され、 奉行直々の取調べの上、捕虜として抑留される。フォストフ事件への日本側の報復行動とされる。

 1812.4月、ゴローウニンらが拘留先から脱走。13日間山中や海岸を隠れ歩いたのち、木ノ子村 (上ノ国町) で捕えられる。一行はバッコ沢に建てられた堅牢な牢屋に再収容された。

 同8月 リコルド少佐が国後島の泊に来訪。中川五郎治および六名の漂民を返還するのと引き換えに、ゴローウニンの釈放について交渉したが不調に終る。帰路、高田屋嘉兵衞の手船観世丸を襲い、嘉兵衞と四名の水主を捕えカムチャッカ半島ペテロパブロフスクに連行。

 同9月 リコルド少佐、高田屋嘉兵衛をともないクナシリ島を訪れゴロウニン釈放を求める。ロシア側からシベリア総督・オホーツク長官連名の謝罪文が提出される。

 同9月 ゴローウニンらと高田屋嘉兵衞らの交換で合意に達する。リコルド副艦長の指揮するディアナ号が箱館に入港し、 両者の交換。高田屋嘉兵衛の尽力により両国関係は正常化される。


 1811年、この年、蝦夷全道の人口5万4,097人(和人地3万330人、蝦夷地2万3,767人)


 1812年 蝦夷地運営にかかわる経費が高騰。幕府内部で、直接経営より商人にゆだねたほうが効率がよいとの意見が強まる。松前奉行所は、東蝦夷地直捌を断念し、各場所の請負人を入札で決定することを決定。


 1812年、漁場運営権の入札が行なわれる。競争入札のための高額落札が相次ぎ、どの場所においても経営を圧迫したという。


 1813年、ゴローニン事件が解決するものの日露の緊張が残る。


 1817年 石狩で天然痘が流行、住民2130名中833名が死亡する。以後数次にわたり天然痘が猛威を振るう。


 松前藩の蝦夷地支配の復活


 1821.2月、幕府、財政難から蝦夷地直営を断念。ロシアに対する警戒心も薄れたたことから、ふたたび松前氏に管轄をゆだねる。松前藩の賄賂攻勢を受けた老中水野出羽守忠成の独断ともいわれる。この頃、幕府の把握しいたアイヌの人口は23720人、石狩・宗谷・積丹6131人、釧路・根室・斜里5975人。


 1821年、伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』を完成。伊能は実際は東蝦夷地の東海岸を除き測量はしておらず。間宮林蔵の協力を得て測量図を完成させた。


 1822.5月、松前章広、松前に戻る。蝦夷地および和人地のすべてを直領と定め、以前に知行地として場所を与えられていた家臣に対しては、米および金をもって支給することとし、蝦夷地の各場所は、幕府の請負人制を踏襲して請負人の統制を強化する。北辺警備にも意を用い、松前に6、箱館に4の台場を設けるなど体制を強化する。


 1825年、幕府が異国船打ち払い条例。


 1831年、松前家、万石格に準ずる家格を認められる。


 1832年、天保の大飢饉。各地で一揆が相次ぐ。


 1845年、松浦武四郎、この年から6次にわたり蝦夷各地を探検。虐げられたアイヌの生活を記録。松前藩などの妨害に会い、その記録は生前には発表されなかった。


 1848.3月、ペリイ提督の艦隊が浦賀からの帰途、箱館へ寄港。


 1848年、ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイにアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。ロシア人も樺太が島であることを知る。


 1849年、幕府、警備強化のため松前藩に福山城の築城を命ずる。


 1853年、ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。ロシア軍が久春古丹を襲撃する。ロシア使節プチャーチン来日。長崎に於いて樺太・千島の国境交渉と交易を求め、日本全権筒井肥前守・川路聖謨と交渉したが、決裂した。


 1853年、プチャーチンがニコライ一世の特使として長崎に来航。日露通好条約の締結をもとめる。日本側代表遠山金四郎は、クリル諸島は「蝦夷詞」の使われてきた地域であり、わが国の諸領であると主張。


 1854.3月、日米和親条約、別名「神奈川条約」が締結される。箱館は下田とともにアメリカ船に対する薪水供給地となる。箱館を選んだのは中国航路を開くためとされる。この後1年以内に英国とも同様の条約。


 同4.15日、五隻のペリー艦隊が箱館入港。箱館湾や内浦湾 (噴火湾) の測量を行う。箱館住民に触書。もし、 アメリカ船が来航した場合、 浜辺や高い所に立って見物をしてはならない。 小舟を乗り出したり、 みだりに徘徊してはならない。 アメリカ人はよく人家に立入り食物や酒を求め、 「あるいは婦女子に目を掛け小児を愛する」ので、 婦女子は山手方面や遠方に避難させ、 商店は休業せよと指示。


 同6月、 開港場箱館の外交処理機関として箱館奉行所が作られる。外国人遊歩地域として箱館より五里四方が上地される。


 同6月、江戸幕府、開国政策に転じる。日米和親条約により箱館・下田を開港。松前藩より箱館および周辺5~6里四方を上知し、箱館奉行所を開く。箱館(69年に函館と改称)の人口は急増し、数年のあいだに松前・江差を追い抜く。


 同9月、ロシア艦二隻が樺太南端近くの九春古丹を占拠する。これに対し松前藩が出兵する。ロシアはクリミア戦争への対処を優先するために樺太から撤兵。


 同12月、プチャーチンが再度来航。サハリンの国境問題を保留にしたまま日露和親条約を締結。千島は得憮水道を境界とし、蝦夷地が日本領、得撫島以北の千島列島がロシア領に決まる。樺太の領属は棚上げし、両国民の雑居地となる。


【日露和親条約締結】

 1854年、日露和親条約締結、北海道が日本領、得撫島以北の千島列島がロシア領に決まる。樺太地区は日露国境を樺太島上で定めず1852年までに日本人(大和民族)とアイヌ民族が居住した樺太の土地は日本領、その他是までの仕来りによることを決定した。


 1854年 福山城が日本最後の旧式城郭として竣工。


 1855.2月、箱館開港にともない、幕府は千島・樺太を含む蝦夷地を再び上知し箱館奉行所の直轄とする。仙台・秋田・南部・津軽の奥羽諸藩と松前藩の5藩に命じ、土地を区分して警衛させる。知内ー乙部線の南側は松前藩所領として残される。

 厚岸駐在の仙台藩士が書いた玉虫「入北記」では、バラサン岬に300目の砲筒が一挺あるだけで、「何ノ防ギニモナルマジ」と述べられている。


 同3月、日米・日露和親条約にもとづき箱館の港が正式に開かれる。


【幕府が日米、 露、 英、 蘭、 仏五か国間通商条約締結】

 1855.6月、日米、 露、 英、 蘭、 仏との五か国間に通商条約が締結。箱館は貿易港として開港。幕府は木古内、乙部以北を再び直轄とし、諸藩に警備を命ずる。人口は急激に増加し、西洋文化に浸される。アメリカ、イギリス、オランダが箱館で蝦夷地の昆布を買取り、中国にむけて売込んだため、生産量や出荷量が大幅増加。


 1855年、島小牧から古平にかけての漁場で、乙部から熊石にかけての漁民約500人が、「場所請負人」らの漁業経営に対する不満から、「網切り騒動」を起こす。


 1855年、この頃、幕府の把握していたアイヌの人口は17810人、石狩・宗谷・積丹3400人、釧路・根室・斜里3609人。


 1855年、松浦武四郎、蝦夷御用雇となり、これ以後4年間、幕府の蝦夷政策の問題点に関する報告を行った(三航蝦夷日誌・東西蝦夷山川地理取調日誌・近世蝦夷人物誌)。これらの書物は松前藩の妨害にあい、明治45まで刊行されず。


 1855年、日露和親条約で択捉島以南が日本領として確定する。


 アイヌ政策の抜本転換


 1856.2月、幕府、松前藩では警備不能との判断から、松前の近隣村々を残し再上地させる。木古内と乙部を結ぶ線から南が松前藩領として残される。松前藩は蝦夷地上知の替地として梁川のほか出羽国村山郡東根をあたえられ、3万石の大名となる。


【幕府がアイヌの本格的な和風(同化)政策を開始する】

 1856年、幕府がアイヌの本格的な和風(同化)政策を開始する。交易や保護を通してアイヌを懐柔し、さらに松前藩が禁じていた笠、簑、草履の着用を解禁する。アイヌが日本に帰属すること、そしてその住居地が日本領であることをロシアに主張するためのもの。同時に和人の蝦夷地への入植を奨励。

 徳川幕府のアイヌ政策: 幕府はいっぽうで髪形、着衣、名前なども本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れ墨、髭、クマの霊送りなどアイヌの人たちの古来からの風俗、習慣を禁じようとした。役人が各地のアイヌを襲い剃髭を強行、同化・改俗を計る。和風化したアイヌを「帰俗土人」「新シャモ」などと呼び奨励する。


 1856年 幕府、蝦夷地への出入り禁止令を解除。和人の移民促進と永住者増加対策を施行。水田開発など農業推進を図る。


 1857.5月、白糠のシリエト、釧路市益浦のオソツナイ(獺津内)で石炭の採掘が始まる。流れ者のほかアイヌも使役されたという。


 1857年、東西蝦夷地で天然痘の予防のための巡回種痘を実施。実態としてはアイヌを利用した人体実験であったとされる。


 1857年、幕府、樺太を直轄地とし、開発を有力商人にゆだねる。クスリ場所の請負い人米屋孫右衛門は、クシュンコタン・イヌヌシナイに漁場をひらくが失敗。


 1857年、武四郎、「近世蝦夷人物誌」を著す。箱館奉行に提出されたが、出版のゆるしがでないまま放置される。(発行は明治45年)

 おそらく理由はたとえば次のような記述にある。「クスリ場所にては、当時、41人の番人のうち36人まで、土人の女の子を奸奪して妾となしていた。その夫たちは厚岸や仙鳳趾に雇われて出張中だった」


 1858年、和人人口が増えたことから石狩場所の請負制度が廃止され、箱館奉行所直轄の石狩村となる。以後、長万部や山越内、小樽などで順次請負制度が廃止に向かう。


 1859.11月、 江戸幕府、蝦夷地を東北六藩に分領し、警備を命ずる。永久守備の基礎を固める必要があるとして、守備と開墾の両方が行き届くようにすることとする。


 1859年、ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。品川で日ロ交渉が始まる。ロシア使節ムラヴィヨフは、カラフト全島領有を主張。幕府はこれを拒否する。


 1862年 日本側、北緯50度線を樺太国境とする案を提示。ロシア側は宗谷海峡を国境とする案を示す。双方ともに提案を受け入れず。


 1864.4月、松前藩主崇広は幕閣に参加。寺社奉行に抜擢される。大名中では西洋通として高い評価を受けていた崇広は、さらに老中格に進み、海陸軍総奉行となった。


 11.20日、大沢村櫃でイギリスの商船エゲリア号が遭難。大沢村名主は村民を総動員して船長モウーラら19名全員を救助した。イギリス国ビクトリア女帝は、 松前崇広に金側懐中時計を贈る。


 1864年、岩内の茅沼炭鉱で採炭が始まる。函館・江戸の囚人を集めて労働力をまかなう。これに伴い白糠の鉱山は閉鎖。


 1865.10.21日、箱館駐在の英国領事館員によるアイヌ人骨盗掘事件。英国領事ワイスは、人類学研究のためアイヌ人骨の盗掘を計画。館員3名が森村などでアイヌの墓を発掘し、人骨を英本国に送る。11.22日、アイヌ人骨盗掘事件が発覚。箱館奉行小出大和守秀實は英国領事ワイスと直接交渉を開始。ワイスがあいまいな立場をとるため、小出は仏・蘭・米の三国領事立会の下に領事裁判を要求する。窮地に陥った英国側は13体の盗骨を奉行所に返還する。


 1865年、岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。


 1866.1月、奉行小出大和守、「アイヌ墳墓の発掘は英国領事館全体の計画」とし、領事ワイスをはじめ館員が処罰されることをもとめる。横浜のパークス公使はワイスらを更迭することで誠意を示す。


 同4月下句、領事ガワーが落部村に来てアイヌに陳謝。慰霊祭を執行し、一分銀千枚(333ドル33セント)を慰謝料として、また出訴費用として一分銀424枚(142ドル)を支払う。


 1867.3月、ペテルスブルクで千島・樺太交換条約が締結される。樺太は日露の『雑居地』となる。


 1867.4月、英国商船エラスムス号が、盗掘された人骨を積んで箱館に入港。奉行所はこれをもって事件の決着を宣言。


 1867年、ロシアが軍事力を背景にサンクトペテルブルグの国境交渉で、幕府に迫り、樺太仮規則に調印。樺太は初めて日露両国の共同管理地となり、両国民が雑居したが、紛争が絶えなかった。






(私論.私見)