アイヌ民族と日本近代史の関わり

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、アイヌ史の日本近代史上での関わりを確認しておく。「アイヌ民族の歴史年表」その他を参照する。

 2008.5.19日 れんだいこ拝


 1868.3.25日、明治維新。新政府、蝦夷地開拓の事宜三条を発表。箱館奉行に代わって箱館府(当初は裁判所と呼ばれる)が設置される。反政府を唱える奥羽の騒乱が発生。東北諸藩の守備隊はすべて引き上げる。


 7.28日、藩内の勤王派・正義隊がクーデター。松前勘解由ら藩重役を切腹させ、実権を掌握。箱館府の了解を取り付ける。
 8月、職制を改め軍謀・合議・正議の3局を設置し役人を公選とする。

 10月、正義隊政権、農業開発を目指し厚沢部村の館(たて)に新城を築く。


 10月、榎本武揚の幕府脱走軍が上陸。五稜郭へ撤退し篭城。


 11月 福山城、館城ともに落城。藩主徳広は熊石から小舟で青森に逃れる。

 1868年、この時点で道内の和人は約12万人とされる。


 1869(明治2)年、開拓使設置、蝦夷地を「北海道」と改める。場所請負人を廃止。
 4月、新政府軍が攻撃開始。福山城を奪還する。
 5月、函館戦争。榎本ら旧幕派が政府軍に最後の戦いを挑むが敗れる。戊辰戦争終結。

 6月 藩主脩広(ながひろ)は版籍を奉還し、藩知事となり藩名が館藩となる。


7月、明治政府、蝦夷地を北海道と命名。開拓使を設置。蝦夷地及び北蝦夷地をそれぞれ北海道及び樺太と改称、無主地として名実ともに日本領土、内国植民地として開拓を始める


 10月、場所請負人制度が廃止される。当面は「漁場持」という名目で漁場経営の継続を認める。


 1869年、東京で北海道移民を募集。500人が樺太や宗谷、根室などに入る。


 1869年、第1期上川アイヌ地問題が発生。兵部省は、旭川に近衛師団を配置。師団予定地のアイヌ住民を石狩に強制移住させようとする。首長クーチンコロはこれに抗議し、いったん構想を撤回させる。


 1869年、大政奉還により、朝廷側だった西本願寺が台頭。徳川側だった東本願寺は、現如上人を投入し北海道「開教」による巻き返しを図る。「生き仏が開かれる大地」との宣伝文句のカラーポスターを作り、一大キャンペーンを展開、東北の門徒を中心に大量に動員した。


 1870.3月、開拓判官となった松浦武四郎、新政府の無理解に激怒し、職を辞す。


 1870年 開拓使設置。現地で初となる屯田兵が置かれる。樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹(樺太大泊郡大泊町楠渓)に開設される。黒田清隆が開拓次官となる。黒田は1か月余りかけて樺太を視察した後、帰京して建議書を提出。石狩に領府を置き、大臣を総督にして北海道、樺太を一体として経営するするようもとめる。


 1871年、明治政府、戸籍法を制定(編製は翌年)。アイヌは「平民(旧土人)」として編入される。アイヌの開墾者に家屋・農具を与え、アイヌ男子の耳輪、女子の入墨、家屋葬送など独自の風習を禁じ、日本語を強制する。イヨマンテ(熊送り)も禁止される。家屋葬送とは「死亡の者これありそうらえども、居家を自焼し他に転住等の儀、堅くあい禁ずべきこと」ということ。このとき道内のアイヌ世帯数は13,182戸、人口66,618人。


 1871年、 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。


 1872(明治5)年、開拓使、北海道土地売貸規則・地所規則制定公布。


 5月、 開拓史・黒田清隆の命によりアイヌ人男女27名が上京。仮学校で教育を受ける。この学校に連行されたアイヌの内、4名死亡、3名入院、1名脱走、役所の官吏として4名、官営企業に1名採用、あとは全て帰郷する(現在地・東京の芝・増上寺←実は東京タワーのすぐ下)。


 1873(明治6)年、開拓使、「賑恤規則」を制定。


 1874(明治7)年、屯田兵条例が制定される。失業した旧士族の救済と北海道開拓、それに北辺の防衛も受け持たせることを目的とする。


 1875(明治8).8月、ロシアとのあいだに千島・樺太交換条約締結。日露住民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領、千島列島全域を日本領とする。これにともない日本国籍を選択した樺太アイヌ108戸841名を宗谷に、翌年6月、札幌近郊の対雁(江別太)に強制移住させる。千島アイヌ全員を色丹島に強制移住させた、慣れない生活と風土にアイヌは次々に倒れ、戦前に全滅した。


 1875年、最初の屯田兵198戸が琴似(札幌市)に入地。これに伴い、屯田兵、札幌郊外の琴似兵村に入地。本格的な屯田兵の北海道入植が始まる


 1876(明治9). アイヌの仕掛け弓猟を禁止、代わりに猟銃を貨与。宗谷に移住したアイヌが石狩国対雁に再び強制移住。


 同9月、「漁場持」制度が最終的に廃止され、営業希望者に割譲される。運上家は買い上げられ、本陣、会所、旅籠、番屋などへとかわる。アイヌなど漁業労働者は引き続き「網元」の支配に縛り付けられる。


 1877(明治10).西南戦争勃発。明治新政府の西郷派士族らが武装蜂起し、熊本、宮崎、鹿児島を中心に7カ月に及ぶ戦いを展開した。


 1877年、英国人宣教師ジョン・バチェラー夫妻が来道。平取、有珠などに自費で教会を建てる。日英に翻訳したアイヌ語辞書を編纂。札幌に開いた無料診療所では、札幌市立病院院長もボランティア診療。養女に迎えた向井八重子はバチェラー・八重子としてアイヌ解放運動に尽力。


 1877(明治10).北海道地券発行条例制定(アイヌ住居地を官有地第三種に編入、一部に所有権付与)


 1878(明治11).開拓使、アイヌの呼称を「旧土人」と統一する。この前後に全道で、仕掛け弓・毒矢を用いた鹿狩りやサケ漁などが禁止される。鹿撃ちには猟銃が貸与される。北千島アイヌ全97名が色丹島に強制移住させる。


 1879(明治12).琉球処分。沖縄が日本政府の直接統治下に置かれ、自治権が完全に剥奪される。


 1880(明治13).平取村、有珠村(伊達市)にアイヌ子弟の学校設立。


 1882(明治15).開拓使制度が廃止され、札幌・函館・根室の三県が設置される。


 1883(明治16).札幌県は十勝川上流の鮭漁を禁止。


 1884(明治17).7月、 千島列島北端の占守島に住むクリルアイヌ97名が、色丹島に強制移住させられる。その後、千島アイヌは病気や気候の変化などで体を壊し絶滅。


 同年、根室県、「救済方法」により管内アイヌの勧農事業着手。クリルアイヌ、占守島から色丹島に強制移住。札幌県、「救済方法」により管内アイヌの勧農事業に当たることを政府から許可(翌年から日高国沙流郡より実施)。


 1886(明治19).1月、 北海道の特殊性に鑑み県制が廃止。道内三県に代わり新たに北海道庁が設置される。北海道土地払下規則制定。


 1886年、道内各地で天然痘の大流行。3年間の死者は2557名にのぼる。


1887(明治20).道庁は旭川近郊のチカップに居留地を与える。アイヌ人40戸が近文の一角に自発的に移住。チカップニコタンを形成。


 1888(明治21).イギリス人宣教師ジョン・バチェラー、幌別村(登別市)にアイヌ児童教育施設「愛隣学校」設立。


 1889(明治22).ジョン バチェラーの「アイヌ語辞典」が発行される。


 1889年、北海道庁がアイヌの食料分として許されていた鹿猟を禁止。バチェラー、幌別村・函館に相次ぎ愛燐学校を創設。


 1890(明治23).作家のアントン・チェーホフが、流刑地となっていた樺太を現地調査。後に報告記「サハリン島」を執筆する。


 1893(明治26)年、アイヌの生活困窮が全国的に問題となる。加藤正之助は第5回帝国議会に「北海道土人保護法案」を提出。「土人にして農を業とせんことを希望するもの」に、「1戸当たり6千ないし1万5千の未墾地を付与す」というもの。沙流系アイヌは法案成立を目指し国会に陳情。議会での討論の結果否決され廃案になる。


 1894(明治27)年、日清戦争。


 1894年、北海道庁が、近文に、アイヌへの付与予定地を確保。以降、第七師団設置に伴う移転命令や反対運動が起きる。


 1895(明治28)年、「北海道土人保護法案」、第8回帝国議会に提出、廃案。


 1897(明治30)年、国有未開地処分法が交付される。内地の資本家、大土地所有者向けに農地150万坪、牧草地250万坪、森林200万坪を上限とする土地が無償貸与される。(貸与といっても、成功後は無償に付与されるというもの)。


 1899(明治32)年、 北海道旧土人保護法が制定される。アイヌ人の困窮に対処するため一戸あたり1万5千坪以内の農地が「下付」される。教育・共有財産管理などを規定)
近文アイヌ給与地問題(第1次)(以後、第七師団設置に伴う移転命令や反対運動などがおきる)。

 旧土人保護法の問題点: 土地問題でも明らかな差別があった。和人には一戸あたり150万坪を限度に開墾地が無償で払い下げられていた。給付された土地も、共有財産管理権は道庁に残された。また日本語や和人風の習慣による教育を行うことで、アイヌ民族の和人への同化を強制するが、和人児童との別学を原則とし、教育内容も「簡易教育」をむねとするなど不当な格差を設けていた。 


 1899年、第二次近文アイヌ給与地問題が発生。近衛師団・第七師団の旭川への設置に伴い、近文アイヌの付与地が接収されることとなる。


 1900(明治33)年、近文のアイヌ給与地売却をめぐり、大倉財閥などが絡み、中央政府の大規模な汚職事件に発展。アイヌ人の抵抗も強かったことから、当局は移転を断念。


 1901(明治34)年、旧土人児童教育規程公布(和人児童と区別する簡易教育)。日本人児童と区別する簡易教育が行われる。


 1901年 この年、全道の人口101万1,892人。うちアイヌは1万7,688人。


 1902(明治35)年、 青森歩兵第五聯隊が八甲田山で遭難。落部村(八雲町)からのアイヌ捜索隊が活躍。


 1904(明治37)年、日露戦争勃発。樺太アイヌの山辺安之助、上川アイヌ北風磯吉らアイヌ人63名が従軍。


 1905.7月、日露戦争末期、日本軍が樺太島に進攻、全域を占領(樺太作戦)。


 1905.9.5日、露戦争後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより割譲されて日本領土となり、樺太民政署により管理。1875年北海道に移住した樺太アイヌのうち336人が故郷に戻った。


 1906(明治39)年、 対雁に強制移住させられたアイヌの多くがサハリン島に帰還。


 1907.4.1日、樺太民政署の発展的解消により樺太庁発足。


 1908.3.31日、内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。


 1910(明治43)年、 白瀬中尉ら南極探検隊が開南丸で出港。樺太アイヌの山辺安之助らが加わる


 1913(大正2)年、 北見の最寄村でモヨロ遺跡が発見される。オホ−ツク文化の存在が確認される。考古学に高い関心をもっていた理髪師米村喜男衛が発見した。


 1914(大正3)年、 第一次世界大戦。

 1915.6.26日、勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。


 1916(大正5)年、新冠村の80戸のアイヌが御料牧場の都合で上貫気別に強制移転させられる。
 1919(大正8)年、北海道旧土人保護法第一次改正。
 1919年、道内4ヶ所(平取、静内、白老、浦河)にアイヌのための病院が設けられる。

 1920(大正9)年、知里幸恵、心臓病で東京にて死去。


 1922(大正11)年、 旧土人児童教育規程廃止。十勝地方のアイヌ系住民が道庁の指導の下に「十勝旭明社」結成。勧農施策、住宅改善、小規模融資事業を展開。


 1923(大正12)年、 「土人救療規程」、「土人保導委員設置規定」、「土人救護規程」制定。


 1923.8月、詩人の宮沢賢治が樺太訪問。


 1923年、知里幸恵の編になる「アイヌ神謡集」が刊行される。


 1924年、道庁によるアイヌ給与地の調査。成懇地の半分が和人に賃貸されていた。


 1925年、1918年からのシベリア出兵の際に日本は北部も占領したが、1925年に撤兵する。


 1926年、旭川で部落解放運動の影響を受けた「解平社」が結成される。労働運動や農民運動と結びつく。


 1929年、拓務省の設置に伴い、樺太庁がこれに編入される。


 1929.3.26日、樺太町村制が公示され、町村に自治制が敷かれる。


 1930(昭和5)年 道庁の肝いりで北海道アイヌ協会が設立される。バチェラー系のキリスト教関係者や十勝の旭明社などが中心となり、旧土人保護法の改正を目指す。近文の解平社は参加せず。


 1931年 違星北斗遺稿「コタン」、バチェラー八重子「若きウタリに」、貝沢藤蔵「アイヌの叫び」などが相次いで出版される。


 1931年、「北海道アイヌ青年大会」、札幌で開催。


 1932年 「解平社」を中心とするアイヌ運動左派は、「全道アイヌ代表者会議」を開催。「旧土人保護法撤廃同盟」を結成する。


 1933年 樺太島域ののアイヌに日本国籍があたえられる。


 1934年、解平社の運動を受け、「旭川市旧土人保護地処分法」が制定される。「貸付したる土地を、特別縁故ある旧土人に無償下付する」ことが認められる。しかし本来無条件に下付されるべき土地を、共有財産として北海道庁長官の管理下におくなど、後に問題を残す。


 1934年、旭川市旧土人保護地処分法制定。


 1937年、日中戦争始まる。


 1937年、旧土人保護法の第二回改正。アイヌ人は大日本帝国の国民として位置づけられる。(付与地の譲渡規制緩和、住宅改良資金の給付制度等新設)


 1937年、知里真志保の「アイヌ民譚集」が発表される。


 1941年、(真珠湾攻撃。太平洋戦争、始まる)


 1942年、高倉新一郎の「アイヌ政策史」が発表される。


 1942.11.1日、拓務省が他省庁とともに一元化され、大東亜省が設置される。これに伴い樺太庁は内務省へと移管される。


 1945.8.9日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して占領作戦を開始する。8月11日には北緯50度国境を侵犯してソ連の赤軍第一極東軍が南樺太に攻め込み、千島でも入れ替わるように国籍不明機(実際はソ連軍機)の攻撃を受ける。


 1945.8.14日、日本は連合国に対してポツダム宣言受諾を表明、8月21日に停戦。









(私論.私見)

 アイヌ人は、 アテルイの戦いなどのように東北地方を中心に和人の侵略と闘い抵抗を続けるが、次第に基盤を失う。最終的に、日本本土から離れ、「蝦夷島」と呼ばれていた北海道を中心に生息するようになる。中世に入ると、いわゆるアイヌ文化の形態ができあがり、文献にも表れてくる。

 しかし、和人のアイヌ人征討は続く。15世紀初め、和人が「蝦夷島」まで攻め始め、アイヌ人は道南の渡島(おしま)地方に十二の「館(たて)」を造り抵抗する。特に、1457(長禄元)年のコシャマインの戦い、1669(寛文九)年のシャクシャインの戦いが大規模なものとして知られている。しかし、どちらも最終的に和人側の巧妙な策略により敗北を余儀なくされている。

 18世紀、松前氏が  「蝦夷島」の蝦夷地を支配するようになる。松前氏は、大商人と手を結び「場所請負制」を採用する。これにより、アイヌ人は戦争の災禍から免れるようになったものの奴隷的な労働を強制され、コタン(村)が崩壊の危機に陥った。

 1789(寛政元)年、アイヌ人反乱のメナシ・クナシリの戦いが起こっている。ノッカマップでの和人による大虐殺が発生している。これは、こうした歴史的な状況のたかでおこるべくしておきたものと云える。

 1869(明治2)年、明治政府は、開拓使を設置し蝦夷地を北海道と改称した。その後、地租改正条例を発令し、アイヌから土地を取り上げ「御料地」とするなどアイヌモシリは政府の専政支配のなかに組み入れられた。「富国強兵」、「殖産興業」を旗印とした日本の近代化が押し進められた。

 1899年(明治32)年、「北海道旧土人保護法」が制定された。この法律は、「保護」という名目で狩猟と漁撈を制限し、山の木を伐ることも「盗伐」、鮭漁も「密漁」ということで禁じた。明治政府の手による強引な同化政策が遂行された。これによってアイヌ民族のもっていた文化と民族としての誇りが否定され、抹殺されていった。和人への「同化」が強要され、「旧土人保護法」によって与えられた給与地さえ剥奪される歴史へと向かうことになった。
  
   伊藤博文が提案した囚人労働は、樺太集治監をはじめ、空知・釧路・網走・十勝の五集治監に六千有余名を収容し、足首に鎖をつけ強制労働させた。死者を多数生みだした囚人労働の本質は、その後タコ部屋(監獄部屋)に受けつがれて行くことになる。タコ労働は、1896(明治29)年の官営の鉄道工事から現れ、その後、道内の鉄道トンネル・ダム・道路・港湾などの事業をになうことになる。 逃亡すればつかまりリンチに遭い、あるいは苛酷な労働の末に死にいたらしめられた労働者も少なくなかった。

  いわゆる北海道の開拓の歴史は、先住民のアイヌ民族に対するすべてにわたる収奪に始まり、囚人・タコ労働者・中国人・朝鮮人強制連行とつながる。その人権を無視した差別の構造は、北海道開拓の本質であり、日本の近代化の縮図とも云える。

 他方、差別と抑圧の呻吟のたかでも、アイヌ民族としてめざめ、文化と民族の自立を求めるひとびとの群れも存在し続けた。 違星北斗(いぼしほくと)や知里幸恵(ちりゆきえ)等が、民族の覚睡とユーカラの伝承を復権させ、アイヌ人は「滅びゆく民族」と云われながらも滅びないアイヌを訴え続けた。

  ここで、ウィルタ(トナカイとともに生活している人間という意味を持つ)を確認しておく。ウィルタは(サハリン(旧樺太)のツンドラ地帯で、漁撈・狩猟しながらトナカイとともに移動して生活していく遊牧民族として自己形成している。ニブヒ(ギリヤーク)、ヤクーツ、キーリン、サソダーなどの民族と同じ北緯50度近辺に居住していた「北方少数民族」である。

  日露戦争が終わってポーツマス条約が結ばれ、樺太の北緯50度以南は日本の領土、北はロシア領ということで、その地域に住んでいた少数民族は分断された。1921(大正10)年、土人戸口届出規制が始まったが、その対象はアイヌのみであって、ウィルタ、ニブヒなどの少数民族には戸籍が与えられなかった。

 1930(昭和5)年、敷香(ポロナイスク)に土人事務所がつくられ、名前を変えさせられたウィルタは「原住民人名簿」で管理され、オタスという所に集められ閉じこめられた。 その後、皇民化教育をされた15才以上の少年たちが旧敷香陸軍特務機関から招集令状をうけ、北緯50度国境戦線へとかりだされ、多数の戦死者をだした。  生き残ったひとびとは戦後、戦犯者としてシベリアに抑留され、シベリアの重労働にも耐えた彼らはサハリンに戻れず、第二の祖国を求めて日本の網走へ引き揚げることになった。

 ウィルタは、戸籍すら申請して得なければならなかつた。差別のなかで自らをウィルタと名のることもできずに生活していたが、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)さんは、ウィルタとして生きる決意をして立ち上がり、軍人恩給の支給を要求する運動に取りくみ始めた。しかし、日本政府は、「当時の国籍がない。戸籍がない。軍隊といっても特務機関が非公式にだした招集令状だから」などの見解に終始し、恩給の支給は実現されなかった。

  しかし、その運働を契機に、北川氏は、ウィルタの三つの夢を実現することを願いに1984年に急逝するまでウィルタとして生きる道を歩み続けた。 元来、ウィルタには私有概念がなく、上下の身分階級がなく、平等が徹底していて、どの民族とも争わず、平和に共存していく民族であった。


蝦夷地
 江戸時代、日本人(和人)がアイヌ民族の居住地を指して使った言葉で樺太・千島列島を含む。アイヌ(蝦夷・えぞ)の住む場所という意味で、和人の居住地を指した和人地の対語。ただし江戸時代末期に至っても、和人地は渡島半島に限られていた。アイヌ民族が自らの土地を指す場合には「アイヌモシリ(人間の静かな大地)」と呼んだ。

明治天皇の下問書について
 1869(明治2)年5月21日、五稜郭開城で戊辰戦争が終了した3日後、蝦夷地開拓の大方針を決定する明治新政府の上局会議に明治天皇が下問した文書。明治天皇の下問書:国立公文書館所蔵
同化政策の文字切り抜き「文字も相学び候様」「従来の風習を洗除」:開拓使事業報告(北海道立文書館)より

屯田兵について
 北海道の開拓と警備に当たった兵士とその部隊。当初は困窮士族、後には農民出身者が多く送り込まれた。1874(明治7)年設置、1904(明治37)年廃止。

同化政策、引用している文字について
 「文字も相学び候様」は1871(明治4)年開拓使により、アイヌ民族の伝統的な文化・風俗の禁止を厳達した文書より引用。死者が出たとき家を焼く風習、男子の耳環、女子の入れ墨などを禁止。日本語を学ぶよう指示している。「従来の風習を洗除」は1876(明治9)年開拓使札幌本庁が管内のアイヌに出した同様の内容の文書より引用。ここではアイヌの伝統文化は陋習なので禁止し、アイヌを開明の民とすること、男子に耳環をさせたり、女子に入れ墨を施した場合は懲罰を科すと述べている。

開拓政策について
 1872年「北海道土地売貸規則」「地所規則」で一人10万坪を上限に土地払い下げ。10年間に6万5000人の開拓民が流入。1877年「北海道地券発行条例」では富裕層を対象にさらに広大な土地払い下げが進められた。例えば華族たちによって設立された華族組合農場は1億5000万坪の払い下げ。1869年5万8000人だった北海道人口は明治末には170万人に膨れあがる。

開拓民の記録について
 1882年静岡で結成され、帯広開拓に入った晩成社の報告書「北海道晩成社第三回報告書」より引用。

旧土人学校、旧土人の用語について
 1878年開拓使は、本支庁あてにアイヌのことを「旧土人」と称するよう達しを出す。以後、アイヌに対する官庁側の呼称は「旧土人」となる。
1898年第13回帝国議会で可決、施行された「旧土人保護法」ではアイヌ児童のための小学校設置が定められた。こうして1901年から1912年までの間に21校が設置、一般に「旧土人学校」と称された。
明治時代以前、アイヌは狩猟・漁業・農業で平和な生活を享受していた。そして川でとれたサケなどアイヌの特産物で、樺太を通じてロシアと、そして東は千島列島を通ってカムチャツカ半島の先住民イテリメン人たちと広範囲に交易・貿易も行っていた。アイヌは文字を持たない民族ながらも一大文化圏を築いていた。しかし19世紀に入り、アイヌの平和を脅かす存在となったのがロシアと日本だった。南下して領土を拡張をしたいロシア、それに危機感を覚え、樺太・北海道・千島など北方の島を一刻も早く自国領土にしたい日本。極東における「国境線の概念」を、両者が強く意識せざるを得なくなった19世紀後半に入っても、樺太・千島のみならず、北海道はロシアと日本のどちらの領土にもまだなっていなかった。

明治政府によるアイヌへの植民地政策(土地の没収、収入源である漁業・狩猟の禁止、アイヌ固有の習慣風習の禁止、日本語使用の命令、日本風氏名への改名による戸籍への編入等々)により、アイヌの生活は明治時代以前の平和で穏やかな生活から一変し、悲惨なものへと変わっていた。とりわけ、アイヌにとって外からやって来た明治政府に自らの土地を没収され、その没収されたアイヌの土地が日本人開拓民に平然と払い下げられる様子は経済的に致命傷となったばかりか精神的にアイヌを絶望させた。

明治政府に土地や漁業権・狩猟権など生活の基盤である収入源を政策的に収奪されたことで、アイヌは経済的に止めを刺され極貧へと追い込まれた。座して死を待つばかりとなっていたアイヌ民族とアイヌの伝統文化は消滅の危機に瀕していた。

先住民族の権利に関する宣言について
20年以上にわたる議論の末、2007年9月13日に国連総会で採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」。

国会決議について
2008年6月6日衆参両院で採択された「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」。日本政府に対して、アイヌを先住民族と認め、総合的施策を行うよう求めたもの。『新版アイヌ政策史』高倉新一郎(三一書房)
『アイヌ民族の歴史』榎森進(草風館)
『アイヌ民族抵抗史』新谷行(三一書房)
『アイヌ民族と日本の歴史』宮島利光(三一書房)
『アイヌ史』(北海道ウタリ協会)
『別冊太陽 先住民アイヌ民族』(平凡社)
『アイヌの歴史と文化T・U』榎森進(創童社)
『アイヌの歴史と文化』(財団法人アイヌ民族博物館)
『アイヌ、神々と生きる人々』藤村久和(小学館ライブラリー)
『クスクップオルシペ 私の一代の話』砂沢クラ(北海道新聞社)
『焦らず挫けず迷わずに』荒井和子(北海道新聞社)
『先住民族の「近代史」』上村英明(平凡社)
『グローバル時代の先住民族』上村英明ほか(法律文化社)