安部政権考

 (最新見直し2006.11.23日)

【太田龍・氏の安倍政権考】
 「太田龍の時事寸評」の2,006.9.30日付けbP819「安倍新政権に対する異常に高い世論調査支持率は、何を意味するか」を転載しておく。(れんだいこ責編集)
○「世論調査」なるものが、三百人委員会=イルミナティサタニスト世界権力の心理戦争の司令部、タヴィストック研究所の発明品であることは、ジョン・コールマン博士によって、明らかにされて居る。

○敗戦後、日本に導入された「世論調査」も、タヴィストック研究所を経由する、イルミナティサタニスト世界権力の、日本民族抹殺を目標とする侵略戦争の一環である、と見なければならない。

○敗戦後の歴代首相の人気投票=世論調査の数字は何を意味するか。それは、イルミナティサタニスト世界権力の日本の歴代首相に対する評価の点数を、ほぼ示して居る。その首相に対する世論調査支持率が高いほど、その首相は、イルミナティサタニスト世界権力によって高く評価されて居ることを意味する。ある首相の支持率が低くなって行くこと、それは、即ち、この首相の路線がご主人様たるイルミナティサタニスト世界権力=三百人委員会の意に反し、その利益に反して居ること。従って、それは、ご主人さま=三百人委員会は、その首相をクビにすべきである、と判断して居ることを示すのである。

○小泉首相は、五年間、いはゆる世論調査に於て異常な高支持率を得た。これは、小泉の日本破壊戦争路線が、ご主人さま=イルミナティ三百人委員会の意志に全く忠実であった事実の反映である。

○さて、今、安倍政権が登場すると、「世論調査」は、異常に高い支持率を与えた。これは何を意味するか。既に、安倍が米国ワシントンDCに於て、米国政府首脳と会談して居り、そこで、米国(イルミナティ)政権中枢が、安倍にヒモを付けた、ことを意味する。安倍政権は小泉につづき、米国=イルミナティサタニスト世界権力の忠実な走狗であると、信認されて居るのである。

○それでは、米国=イルミナティサタニスト世界権力は、安倍政権にいかなる任務を与えるのか。それは以下のごときものであろうと、推理する。

 (1)小泉政権期につづき、日本の資産すべてを米国(イルミナティ)に、二束三文で引き渡す作業を継続する。これは、自明の前提である。

 (2)日本は、米国(イルミナティ)の主導する第三次世界大戦の戦場へと、決定的一歩を踏み出すべきである。

 (3)この行動に反対する日本人を壊滅させよ!!

○つまり、安倍政権は、小泉政権の単なる延長であってはならない。安倍政権は、(2)(3)項の実現に向かって、強行突破せよ!と命令されて居る。

○イルミナティの第三次世界大戦のアジェンダは、全イスラム世界と、シオニストイスラエル、そしてシオニズム化された「キリスト教」の連合体との、全面衝突を、第一幕とする、と言う。日本もまた、米国の尖兵としてイスラム世界との全面戦争に動員させられなければならない、と。

○今、日本人の中で、イスラムと本気で戦争すべし、などと本気で考える者は殆んど存在しないであろう。しかし、米国=イルミナティのご主人さまは、安倍政權に対して、イスラムとの対決に反対する日本人を全滅させろ!!と命令するであろう。安倍政権は、この方向に日本を引きずって行くよう、ご主人様によって厳命されて居る。これが、現時点の日本をめぐる政治情勢の要点である。(了)

Re:れんだいこのカンテラ時評233 れんだいこ 2006/11/23
 【安倍政権考その1、安倍政権と小泉政権の相関関係】

 2006.11.23日、旧大蔵省か通産省のいずれが所管なのか分からないが、月例経済報告が発表され、2002.2月以来景気拡大し続けており戦後最長の58ヶ月に至っていると発表された。れんだいこは、これを「大本営景気」と命名した。今後はこの用語が定着することになろう。「大本営景気」は恐らくこれはジョークで、サルの何とかスリと同じで体がガクッとくたばるまで云われ続けることになるだろう。タウン・ミーティングに於ける「やらせ質問」の仕掛けが明るみになりつつあるが、同じ構図であろう。

 小泉時代つうのはホント何から何まで無茶苦茶であった。これから、小泉時代の負の遺産のウミが次々と出てくるであろう。安倍政権はここ暫くその尻拭いを余儀なくされよう。まことに小泉は政治のマジックショーマンであり名ピエロであった。「聖域なき構造改革」、「官業の民営化促進」、「国債30兆円枠」、「自民党をぶっ潰す」、「米百俵精神」云々と数々の名句を残した。判明していることは、そういう事を言わせる振り付け士が居たということである。しかし、5年有余の長期政権となったことにより、皮肉なことに全てがコマーシャルであったことを言い訳が聞かない形にした。もっとも、「官業の民営化促進」のように、コマーシャルで良かった場合もある。

 小泉政治が実際にやったことは、彼が手を染めるところ全てがレイプ手法による強権政治であった。又は官邸政治という名の下での側用人利権政治であった。いわゆる小泉ブレーンの腐敗が今後次々と明るみにされるであろう。それと、小泉政治は直接間接合わせると一体いくら軍事費用に注ぎ込んだのだろうか。国債債務の急伸ぶりも然りである。明らかにされていないので植草氏辺りが指摘してくれねばなるまい。その植草氏が窮地に陥っている。真相は不明だが、意図的に有能士が狙い打ちされているのは事実だ。

 小泉は、道路公団民営化、郵政省の民営化、刺客騒動、靖国神社への8.15日首相の公式参拝等々、それに伴う混乱をレイプ式で強行したが、国益に資することは何もしなかった。今後とも国費の無駄使いとなり、事態は一層悪くなることはあっても良くはなるまい。つまり、いらんことばかりしたことになる。退任間際に、イスラエルを詣で、嘆きの壁参りしたが、あれは何の意味があったのだろう。野党はこれほど重大な事をなぜ問いたださないのだろう。

 小泉政権の後継を任ずる安倍政権は、これら負の遺産を踏襲し続けることしか出来ない。ここに安倍政権の危険性と脆弱性がある。2006.9.26日の安倍政権発足以来2ヶ月が経過しつつある。教育基本法改正を強行的に目論みつつある。目下、造反議員の復党問題が党内を揺さぶっている。造反議員と刺客議員のどちらを立てるのか、ややこしい問題を生んでいる。これまた小泉政治の失政であるが、双方が声高に主張すればするほどもつれた糸が解けない滑稽な様相を呈している。

 政府自民党がそういう苦境にある時、これを迎え撃つ野党の姿勢がお粗末極まりない。安倍政権の評価が定まっていない為に徒なイジメに上滑りしている。タウン・ミーティングに於けるやらせ質問問題は、本来なら小泉政権の痴態を撃つべきところであるのに、安倍政権に対する揺さぶりとしてのみ政治主義的に質疑されている。それは聞く者をして興ざめさせてしまう。

 民主党が、批判するための批判という旧社共式の万年批判姿勢を改めない限り、食傷されるであろう。安倍首相の官房長官時代の責任を問うことはできようが姑息である。ズバリ小泉政治を弾劾すべきであろう。そのことにより、小泉政権の後継を任ずる安倍政権がどう口を回すのか、それを見る聞くするのが政治と云うものだろう。ところが、何の憚りがあってかそういう風に向わない。我々は政権取りに向う民主党に期待しているのであって、ケチ付けイジメ的口先批判など又かよと思うだけである。あぁ政治が権力闘争として位置づけられ、政治路線を廻って党派と党派が鎬を削る時代を見てみたい。

 安倍政権を論ずるのに、一体、安倍政権の基盤は安定しているのか脆弱なのか、崩壊するシナリオがあるとすれば、それはどういうものなのかの見立てができていない。ここでも理論の貧困が見られる。「理論無ければ運動生まれず」は法理であり、早急に安倍政権論が為される必要があろう。そこで、いつものようにれんだいこが体を張り、試論を提供する。

Re:れんだいこのカンテラ時評234 れんだいこ 2006/11/23
 【安倍政権考その2、安倍政権の危険性と脆弱性考】

 安倍政権を前任の小泉政権と比較した場合、際立つ特徴がある。誰も指摘していないが、小泉首相には全編、頓珍漢な受け答えの妙味があった。安倍首相にはそれが無い。これをどう評すべきか。安倍首相の物足りなさを感ずるべきであろうか。

 これに対するれんだいこの結論は、安倍首相の方を良しとしている。なぜなら、小泉首相の頓珍漢ぶりは、マスコミが面白く採りあげ囃したてることで補完され、政治論法的に有効に使われたが、所詮どう演出しようとも狂人の類のそれであり、とても容認できるものではなかった。恐らく後日「狂人首相時代」と規定され、それを5年有余許した当時の政党政治のお粗末さが指摘されることになるだろう。小泉政治を持ち上げた側の痴性の狂気が問題にされることになるだろう。

 それに比すれば、安倍首相の応答は妙味がなく地味である。が、議論の遣り取りそのものは正常であり、安心して聞けるものである。つまり、まともである。れんだいこは、安倍首相を唯一この点に於いて好評するのにやぶさかでない。小泉首相のそれがよほど酷かったというに過ぎないのではあるが。思えば、小泉首相の一言一句が、それを批評するのに気持ち悪くて仕方なかった。未だに小泉政治を高く評する者が居るが、漬ける薬がない連中である。

 次に評すべきは、安倍政権の政権基盤の安定性如何であろう。れんだいこは、安倍政治を戦前型保守と戦後型保守の相乗りと見る。戦前型保守とは皇国史観に通ずるものであり、戦後型保守とは今をときめくネオ・シオニズムに登用されその配下で利権化しているものである。この両者は本質的には相容れない。それを二頭立てで御しているところに安倍政治の特質が認められる。この相乗りは、うまく御せるうちはまだしも、いつしか股裂きの刑に向うことを余儀なくされる。

 安倍政治にあっては、ネオ・シオニズム派と皇国史観派の闘いが終始暗闘せざるを得ない。いずれネオ・シオニズム派が皇国史観派を封殺することになろう。つまり、安倍政権の政権基盤の安定性如何とは、ネオ・シオニズム一辺倒化による皇国史観封殺がどの時期に現われるのかによる。目下の教育基本法改正は、表向きは皇国史観派の教育理念に合致しており、憲法改正を視野に置いているネオ・シオニズム派はその為の前哨戦として後押ししているように見える。故に、両者は阿吽の呼吸で支えあっている。この時期の安倍政権は、政権基盤安定で推移するだろう。

 しかしながら、安倍政権はいずれ小泉同様にネオ・シオニズムに人身御供する為の日本ホロコースト化を推進せざるを得ない。それは、軍事、政治、経済、文化のあらゆる戦線に於けるネオ・シオニズムの傭兵化である。もし、ネオ・シオニズムが今後彼らの思い通りの世界支配を成就するとすれば「日本生き残り百年の計」に合致するかも知れない。外務官僚の何某はそう説き続けている。

 しかし、ネオ・シオニズムの選民思想により勝手にゴイム畜生類とされたその他諸民族特にイスラム勢力がこれに抵抗し、次第に力をつけ、全世界の被圧迫被搾取人民大衆が呼応すれば、むしろ逆にネオ・シオニズム派は怨念込めて袋叩きにされることになる。この場合、ネオ・シオニズムの傭兵と化した日本は、傭兵度に応じて相応の制裁を受けることになろう。それは、「日本生き残り百年の計」に合致しないどころか総スカンを食らう道となる。

 安倍政権は、ネオ・シオニズム傭兵化政策をどこまで押し進めることができるのだろうか。憲法改正による自衛隊の自在なネオ・シオニズム傭兵的派兵を狙いとしているが、この政策を彼らから見てどこまで勝利的に貫徹し得るのだろうか。この政策は、国内の格差社会化即ち食えない貧民創出による自衛隊入隊志願者の急増政策と一蓮托生しているように思える。この政策を彼らから見てどこまで勝利的に貫徹し得るのだろうか。政官財学報の五者機関総動員によりこれをやり切ろうとするであろうが、彼らから見て勝利的に貫徹し得るのだろうか。

 れんだいこは、日本人民大衆の叡智はそろそろ戻ってくると確信している。戦後65年、これを節目として潮流が変わり、敗戦以来のネオ・シオニズム・イデオロギープロパガンダの総点検に入ると思っている。インターネットが情報閉塞を打ち破り、日本人民大衆は真実の情報を手にし始め、我々の叡智がネオ・シオニズムのそれを上回り、日本ホロコースト化に抵抗する戦略戦術を持ち始めると思っている。

 今後は、兵器戦争よりも頭脳戦、知能戦の役割が大きくなる。世の中はそのように推移しているように思っている。ネオ・シオニズムにより勝手にゴイム畜生類化された世界人民大衆は、最終的にネオ・シオニズムに打ち勝つだろう。ネオ・シオニズムはイスラムに破れ、世界中で破れ、日本人民大衆に破れ、総破綻を余儀なくされるであろう。

 そうなると、歴史上かって経験したネオ・シオニズムの所払い(ディスポラ)が再現されることになるだろう。ネオ・シオニズム派がニュルンベルク裁判、東京裁判を為したように、今度は反ネオ・シオニズム共同戦線派がネオ・シオニズム裁判を国際的に開催し、彼らの「シオンの議定書」以来の漫画的世界支配構想を露見させ、二度と目論まれないよう断罪し、サタニズムに対する歴史的鉄槌を下すであろう。

 その為の我々の青写真が要る。これが無い限り海図無き航路になろう。れんだいこはそう思う。

 2006.11.23日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評238 れんだいこ 2006/11/30
 【小泉ー安倍の売国傀儡政権を打倒せよ】

 安倍政権は、前任の小泉政権の政策を踏襲し、1・教育基本法改正、2・防衛省法案、3・共謀罪の導入と着々と戦後国家改造に乗り出しつつある。現実に憲法改正が視野に入ってきた。我々はこれを如何に捉えるべきか。はっきりしていることは、自民党+公明党+民主党が組めば、どんな法案をも可決されることである。かっての社共勢力の大いなる後退が否応無く目に付くことになる。新左翼諸党派の凋落も激しい。日本左派運動は根底的に解体絶滅されたのだろうか。

 れんだいこは、その要因を分析し、阻害事由を取り除き、再生せしめねばならぬと考える。その一致点を次のところに求めたい。1・祖国を思い、民族の帰趨に責任を持つ政治の復権。これは、政府与党の排外主義的愛国心、民族主義と理論的実践的に闘う為に必要である。2・左派運動内に共同戦線思想を確立せよ。これは党内にも党外にも要求される。純化衛生主義は邪道と心得、党内反対派の棲息こそ健全な政党の姿と踏まえるべきだろう。その上での党中央指導制を確立すべきであろう。3・戦後憲法及びその秩序をプレ社会主義と見据え、これを擁護し実質化を目指すべし。この観点を失したばかりに無為有害な運動を展開し過ぎたのではなかろうか。4・反戦平和、国際協調運動を称揚せよ。これは、政府与党のシオニスタン的好戦政策と鋭く対立することになるだろう。5・各派共同して議会に進出せよ。その為に合従連衡せよ。

 今からでも遅くない。日本左派運動の潜在能力を顕在化せしめていくべきだろう。こうしない限り、政財官学報の五者機関による日本政治のますますのシオニスタン化を防げない。れんだいこは、日本の歴史的伝統的国体はそれなりに有意義なものであると思料する。日出る、山紫水明、五穀豊穣、豊葦原の瑞穂の国は絵空事ではない。相対比較的に見ればまっこと的確な日本表象概念言語ではなかろうか。これを徒に半身に構えて否定することは無い。その通りと認め、国と民族を愛する文化と伝統精神に支えられた政治が肝要と思う。

 この精神からのみ、小泉ー安倍政権が押し進める売国政策と闘うことができる。この精神を透過してこそ、小泉ー安倍政権の傀儡政権ぶりを炙り出すことが出来る。歴史に責任を持つ主体がどちらなのかを人民大衆に訴えることが出来る。れんだいこはそう思う。久々の「2006.11.30助けあい党声明」とする。御意の士よ、列なれ。

 2006.11.30日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評241 れんだいこ 2006/12/10
 【社共ー民主党野党の馬鹿さ加減考】

 2006.12.10日のNHK政治討論は、社共ー民主党野党の馬鹿さ加減が際立った。いわゆる道路財源の一般予算化を廻って、一定躊躇する政府与党に対し、一般予算化せよと迫っていた。れんだいこは、馬鹿の極まりと思う。「道路財源の一般予算化」は、先の狂人首相小泉政権が兇暴に押し進めたものであり、そこには何の正義もない。歴史の逆行愚行でしかない。それを後押しする社共ー民主党野党は狂っているとしか言いようがない。

元々の経緯を見ればはっきりする。道路財源の特定財源化は、去る日、田中角栄が議員立法で、大蔵省との熾烈な権益争いの中から生み出したものである。それは、国の予算を凡て牛耳る大蔵省権力に対する戦いとして、例外的に生み出したものである。それは、慧眼で有りこそすれ逆ではない。

 角栄は、道路整備こそ国土計画の基幹事業として位置づけ、国土の均衡的発展を促進する事を願って、熱弁を奮った。それはいきなり可能になったのではない。大蔵省との頭脳戦争で国会での何度にもわたる論戦を通じてしぶしぶ認めさせたという稀有なる事例である。

 そういう歴史的経緯のある「道路財源の特定予算化」を一般予算化に戻して何の利益があるのだろう。承知のように、今や我が国家は、米英ユ同盟の御用聞きとして言われるがままに野放図に「金と兵隊と兵器」に予算を注ぎ込みさせられている。道路財源を一般予算化したとして、その水路に引き込まれるのは火を見るより明らかであろう。

 消費税の目的税化が云われている。ならば、「道路財源の特定予算化」は、その先を云っている英明策と考えて何らおかしくない。れんだいこの見るところ、明治以来、我が国家は、内治優先か外治優先かで鋭く対立してきた。戦後の公共事業優先は、特に道路事業主体の国土総合開発は、内治優先派の凱歌的政策であった。これを誉れと思わず何とする。

 社共ー民主党野党は、そういう経緯を知りつつ反公共事業政策の一番雄たけびを競おうとしている。漬ける薬が無いとはこのことだ。そして、「金と兵隊と兵器」への予算注ぎ込みには、腰を引かせたアリバイ的な反対で遣り過ごしている。結果的に、我が国家は、米英ユ同盟の云うがままにあやつられている。「道路財源の特定予算化」の切り崩しは、戦後の良質英明政策の橋頭堡の切り崩しであり、更に売国奴道に向うことを余儀なくされよう。

 そういう意味で、国民党の亀井の発言は際立って賢明であった。地方の利益の立場から、道路行政のますますの意気軒昂を要請していた。まさに戦後が生んだハト派的政治の観点からの発言であった。今は皆して左右からこれを抑圧しようとしている。れんだいこの見るところ、歴史的左派は僅かに国民党に残滓しており、政府与党、民主、社共は揃いも揃って売国派に成り下がっている。彼等は討論の途中でよく意味のない笑いを交し合う。政治をお遊びにしているからであろう。

 れんだいこ党は、党首責任で、今日より国民党支持に転換した。小沢民主党は、鳩山ー岡田ー前原ラインを斬るか抑圧しない限り、ますます愛想尽かされるだろう。社共から人心が離れた今、民主党しかないのであるが、民主党の防衛庁の省格上げ推進、憲法改正、「道路財源の一般予算化」等々は怒るに怒れない寂しさをもたらす。民主党に期待されているものは、社共の口先だけでない責任政治にしてハト派政策の貫徹だろうが。これをやらない民主党なぞ何の用もないわい。

 それにしても、不用道路云々と云う。社、共、民主よ、一体、不用の道路がどこにあるのだ。例示してみたまえ。それなりの箇所を示してみよ。それをせぬまま言い続けるのは悪質だろう。れんだいこは、道路こそ地域発展の要と思っている。当然その集積が列島発展になる。公共事業への投資は、下手な文化事業より国防へのそれよりも数十倍も恵みが大きいと考えている。不用道路云々は休み休み云うべきだろう。

 2006.12.10日 れんだいこ拝

【安部政権考その1】
 2007.6.15共同集会に参加して思ったことを書き付けておく。6.15共同集会は、1960.6.15日の国会構内での樺美智子さんの死を追悼する集会であり、安部政権の改憲策動に抗議し阻止する意思を込めた集会でもある。それ故に安部政権打倒運動を組むのは自然の勢いでありそれはそれで良いのだが、各党派の寄り合う6.15共同集会の雰囲気内で共有されている安部政権論と憲法9条論について若干の疑義があるので、その視座について一言申しておきたいと思う。この燻りをれんだいこなりに検証してみたい。何事も理論が伴わなければ実践が発展しない。両者は車の両輪となって弁証法的に競合すべきであろうから。

 安部政権批判の視座について、れんだいこには次のような疑問がある。爾来、日本左派運動は、マルクス主義の資本主義体制=旧体制的規定に染まって、戦後日本をも資本主義体制だとして革命を念頭に反体制運動を展開してきた。この観点基づき、戦後日本の政権を与ってきた政府自民党に対し、いかなる政権が生まれようとものべつくくまなく性懲りも無くというべきか万年批判を繰り返してきた。その弊害はおざなりの批判に堕すことであろう。旧社共の何でも反対運動が飽きられた原因がここにある。我々は、その轍を踏むべきでない。

 最近の事例で行くと、小渕内閣、森内閣、小泉内閣、安倍内閣と続いてきた自公政権に対して、日本左派運動はどのように対したであろうか。れんだいこには、それぞれの政権の特質を判じることなく職業的稼業的に漫然と批判して事足れりとしているように見える。批判するのは間違いではないが、一律的なありきたりの批判では何の役にも立たないのではなかろうか。

 れんだいこは、こういう悪しき作法を踏襲することに大いに不満を覚えている。第一に、戦後日本=資本主義体制規定が気に入らない。これについて愚考する。戦後日本は、資本主義体制ではあるが、最新の社会主義研究の成果である社会主義的市場主義論を視野に入れて再考せねばならないのではなかろうか。れんだいこが読み直したマルクス主義によれば、国有化理論はマルクス主義のものではない。従って、ソ連邦の国有化政策は大いなる誤りであった。社会主義的市場主義を前提にした官民棲み分け、丁度戦後日本に現出していたような−こそ本来のマルクス主義の政財政策であった。社会主義的経済政策理論はこのように獲得されるべきであった。

 付言すれば、プロレタリア独裁理論もうそ臭い。これはなるほどパリ・コミューンの経験からマルクスが理論化したものであったが、変な話ではあるがマルクスもマルクス主義を間違えた形跡がある。歴史をそのように焦って進める必要はどこにも無い。この辺りを疑い出せばマルクス主義そのものの再検証を要することになるが、ここではそれを問わない。要するに、マルクス主義に拘ることなく人民大衆の社会変革理論が必要なのであり、創造せねばならないだけの話である。

 社会主義的市場主義論を前提にすれば、戦後日本はひょっとしとてソ連邦、東欧、中国、北ベトナム、北朝鮮、キューバ辺りの実験的社会主義国を押しのけて史上稀有なプレ社会主義体制であった可能性がある。しかも、マルクス主義が最も理想的に展開された体制であった可能性がある。これがれんだいこ史観である。この観点は、我が社会からプレ社会主義体制的要素がますます失われていくことにより自ずと見えてくるものであり、今後は失ったものを求めてますます着目されていくことになるだろう。

 この観点に拠れば、戦後左派運動は、体制批判運動よりも何が何でも権力掌握に向かうべきだったのであり、共同戦線的な政権与党を目指すべきだった。我々が権力を握ることにより、戦後憲法秩序の受肉化を促しプレ社会主義体制から社会主義体制へと進化発展せしめるべきであった。実際には、戦後日本はまもなく冷戦下の日米安保体制に組み込まれたことにより、憲法秩序と安保体制秩序の二元体制に入ってしまった。これにより、戦後憲法秩序のプレ社会主義秩序的側面が隠れてしまい、左派の理論的貧困と相俟ってますます見落とされてしまった。日本左派運動は、社共的投降主義的運動と新左翼的反体制運動に傾斜していくことになった。そのどちらもが、戦後憲法秩序のプレ社会主義性に注目することなく、おざなりの護憲運動と抵抗運動にのみ耽ることになってしまった。

 戦後左派運動は、戦後直後の日共を指導した徳球−伊藤律党中央派を失って以来、政権奪取の歴史的責務を放棄し、気楽な野党稼業ないしは反体制運動で安逸をむさぼっていくことになった。新左翼運動も本質的に見れば大同小異で、単に急進主義的抵抗闘争を繰り広げたに過ぎないということが見えてくる。彼らの一部はあろうことか、戦後憲法秩序のプレ社会主義性を捉えず、本質はブルジョア憲法であり、社会主義を目指す我々は故に戦後憲法の意義を認めない、むしろ戦後憲法の反動的本質を引き出すべきである云々とするポツダム憲法粉砕なるスローガンを提起する始末であった。そこまで主張しない党派も、ブルジョア憲法と卑下する姿勢には変わりなく、護憲受肉化運動に取り組むことはなかった。

 6.15共同集会は、小泉−安倍政権下での戦後憲法秩序の最後的瓦解局面を迎えて、いわば本能的感覚的に護憲へ走り出したものではなかろうか。現在は、理論獲得前の胎動期であると思われる。歴史の流れを本能的直感的に感知し、まず行動へと躍り出たのが60年安保世代の第一ブントの面々であったことが興味深い。実に60年安保闘争も叉本能的直感的に感知し、まず行動へと躍り出てネオ・シオニズム系岸政権を打倒せしめ、その後20数年余を雌伏せしめた功績を持ちその意義は高い。してみれば、歴史はDNAは繰り返すということか。

 我々はいずれ、この辺りの理論的考察にも向かうべきではなかろうか。憲法9条をなぜ護憲するのか、過去の言説と正面から向かい合い、自己批判を経由して新理論を獲得せねばなるないのではなかろうか。れんだいこの戦後憲法秩序=プレ社会主義論は新護憲運動の試論として叩き台にされる値打ちがあると考える。

 2007.6.20日 れんだいこ拝

【安部政権考その2】
 日本左派運動の悪しき作法の第二として、れんだいこは、政府自民党=反動的規定が気に食わない。本当にそうか、じっくりと考え直さねばならないのではなかろうか。戦後与党を形成した自民党は、1955年の自由党と民主党の合併史からも分かるように、犬猿の仲的天敵党が大同団結して生まれた政党である。それ故に、自民党は発足当初より深刻な党内対立をはらんでおり、これが派閥と云う形で表現され、派閥が党内党を形成しつつ合従連衡する形で自民党を構成してきた。

 新聞ジャーナルは、派閥批判を得々と繰り広げてきたが、いかにも三文売文屋の皮相的批判でしかない。自民党はむしろ、派閥的内部対立を抱えながらそれを、字義通りの理想的な民主集中制で運営してきた大人の政党である。それは日本の伝統的な和合精神と噛み合い生命力を保持していた。それは責められるのではなく褒められるべきであった。相互に対立し続けて排除し合い数多くの「お山の大将」を生み出すしか能のない左派諸政党に爪の垢でも煎じて飲ませたいほど政治的に進んだ英知であり、自民党はこのように党形成してきた歴史的風土も踏まえた近代政党である。こういう気づきが欲しい。

 その自民党内の根本矛盾は、れんだいこが見立てるところ、ハト派対タカ派、民族派対買弁派という対立である。他にも官僚派対党人派、経済派対軍事派、東大閥対京大閥対私大早稲田閥対慶応閥等々様々の対立を抱えているが、この根本対立には及ばない。自民党の派閥はこういう背景事情によりもたらされているものであり、本来は極めてイデオロギッシュなものである。それを大人の智恵でぼかしつつ切り盛りしてきているのが従来の自民党の派閥であった。強権的民主集中制しか持たない日本左派運動諸党派は、自民党のこの柔構造組織論が理解できない。これは習うべきであり批判するのはお門違いであろう。日本左派運動が、自民党の派閥体制を批判して得意がる姿は、芸の素人が玄人に説教垂れている構図に等しい。こういう気づきが欲しい。

 そういう訳で、本来の左派政党なら、自民党内の両者の抗争と調和の様態を座標軸に据えて、その時々の政権がどの位相にあるかを分析して批判の視座を定めねばならない。本来の左派政党なら、自民党内で一時期、戦後主流派を形成したハト派系の吉田−池田−(佐藤)と続いた政権、1970年代に登場した田中−大平同盟を大いに評価して是々非々で相対するべきだった。あるいは共闘すべきであった。今日の日本政治史上この系譜が完全に一掃されているが、このことがその後の政治の貧困を招いている真因ではなかろうか。

 確認すべきは、日共が、1970年代に開花した田中−大平同盟潰しに狂奔したことである。日共は、田中角栄に対し憎悪を込めた政界追放運動を繰り広げた。今日でもこれを誇りにしており、この変態党中央にはつける薬が無い。その日共は反対に、1980年代から始まる中曽根以降小泉政権に至るネオ・シオニズム系タカ派による権力簒奪史に於いて、これを通り一遍な批判はするがそのトーンを落としており、あるいは石原都知事との是々非々路線に見られたように、ネオ・シオニズム系とは親和的である。日共がそれほど親ネオ・シオニズム的であるという視座が欲しい。これもれんだいこ史観である。

 今日の政治構図を把握するためには次のことを理解しなければならない。1970年代のロッキード事件の喧騒過程で真正ハト派の田中−大平同盟が駆逐された。この系譜は、鈴木善幸政権で終わる。代わって、1980年代初頭、ネオ・シオニズム系タカ派の中曽根政権が誕生し、岸政権瓦解以来雌伏せしめられていたタカ派の政局支配が始まった。その後、真正ハト派の田中−大平同盟に代わってネオ・シオニズム肝いりのねじれハト派の竹下−宮沢同盟が登場し、中曽根−福田同盟の配下として権力分与に群がり始めた。

 ねじれハト派には真正ハト派の見識も政治能力も無く、以降の日本政党政治史は、タカ派の中曽根−福田同盟が政治を牛耳り始める過程に他ならない。それはネオ・シオニズムにあれほど身も心も委ねていることを露骨にさせつつ御用聞き政治した稀代の狂人首相小泉政権を生む地ならし過程でしかなかった。

 この道中で旧田中−大平同盟的勢力を支持基盤とする細川政権が誕生したが、既に蟷螂の斧的役割しか果たさなかった。付言すれば、この時も日共がことごとく敵対し政権打倒運動に狂奔したことも銘記されるべきであろう。そのことはともかく、今日の小沢民主党は、細川政権騒動の再チャレンジを試みようとしているように見える。れんだいこはこのように見立てている。

【安部政権考その3】
 以上を踏まえて、れんだいこが安部政権を評すれば、次のように判定できる。安部政権は前任の小泉政権同様にネオ・シオニズム系岸−福田派を出自としており、改憲を前面に押し出している点で日本左派運動にとって容認すべからざる政権であることには相違ない。が、安部政権を小泉政権と全く同じ土俵で捉えるのはいかがなものであろうか。れんだいこの見立てるところ、安倍首相には小泉前首相ほどの狂気は認められない。ここは決定的な大きな違いであるように思われる。このように見立てないおおかたの安倍政権批判の観点は、従来の政府自民党万年批判の延長上のもので、薄っぺらではないかと思う。

 もう一つ。安部政権は小泉政権の直系後継政権として生まれたが、小泉政権のイエスマン一辺倒ではなく若干の対立を宿していると見たてている。陰に陽に小泉−飯島派が安部政権の足を引っ張っており、両者は案外と地下で暗闘していると見立てている。かく構図を認識した上で安倍政権批判に向かうべきで、時の政権を徒に批判するだけの万年批判は正しくないと考える。安部政権の不祥事は絶え間なく続いているが、安逸な安部政権批判は、これを裏で画策する小泉−飯島派の糸引きと通底すると見立てる。

 安部政権を小泉政権と比較して、我々は、どちらがより反動とみなすべきであろうか、これを問わなければならない。れんだいこは、小泉政権こそ中曽根以来のネオ・シオニズム直系であり、近年まれに見る極悪反動売国奴政権であったと見立てている。その後継として誕生した安部政権は同じくネオ・シオニズム政権では有るが、小泉的ネオ・シオニズム・オンリーと違って、ネオ・シオニズムと国粋主義のやじろべえ的両面を持っており、小泉政権ほど単純な売国政権ではないと見立てている。というか、売国奴的ではあるが、小泉政権ほどファナティックではないと見立てるべきか。

 付言すれば、小泉政権は徹頭徹尾買弁売国奴政権であったが故に、速攻で内閣打倒されるべきであった。我々は、その小泉政権をして史上3位の長期政権にしてしまうという不名誉を歴史に刻みしめた。なお且つ、小泉首相秘書官飯島を今もなお政界に跋扈させており、安倍院政を敷かせていることは大いに問題である。飯島は、安部政権のお目付け役であり同時に政権崩壊を裏と陰で画策しており、絶えず糸を操っていると見立てている。

 この飯島が、先の松岡農相変死事件で種々工作したさまを見せ付けられたが不快なことであった。日本左派運動が国会内に席を占めていれば、松岡農相変死事件につき飯島工作の実態を明らかにするべく直ちに調査委員会を設け、国会へ証人喚問すべきところであるが、貧困なことに飯島弾劾に動く議員、政党はどこにも居ない。これも叉飯島工作の為せる技であろう。

 我々は、安部政権を批判する場合、国粋右翼とネオ・シオニズム右翼の二股性に注目すべきである。なお且つ、両者は漫然と批判されるべきではなく、悪しき程度を「国粋右翼<ネオ・シオニズム右翼」とみなすべきであると考える。だとすれば、我々の安部政権批判は、安部政権がネオ・シオニズム右翼に移行する時、最も強く批判のボルテージを挙げ速攻の政権打倒へ向かわねばならないと考える。安部政権が国粋右翼に移行する時、左派的見解を対置し徹底議論を為しつつ長期戦へ引き込まねばならないと考える。

 れんだいこ史観によると、ここ10年間の小渕政権から安部政権の評は次のようになる。より悪いと云う意味で、小渕政権<森政権<安部政権<小泉政権と見立てている。ところが、おおかたの評者は安部政権の改憲呼号に幻惑されて、小渕政権<森政権<小泉政権<安倍政権としているように見える。れんだいこは大いに不満である。

 安部政権論に対するこのような見立てが披瀝されることは珍しいだろうが、それは、ネオ・シオニズムの世界史的危険性とそれの日本政界汚染を見ないからであろう。確かに改憲を正面から押し出している安部政権を憎みて余りあるべきであるが、それさえネオ・シオニズムの強い要請に基づくものであり、小泉政権以来の情動として捉えなければならないと考える。

 日本左派運動の従来の理論に中に、ネオ・シオニズム問題がすっぽりと欠落していることに気づかされる。現在、太田龍・氏が精力的に考究し喧伝中であり、れんだいこも大いに啓発されている。日本左派運動は一刻も早く太田氏の思想的格闘から学ぶべきである。他にも木村愛二氏や宮地健一氏も活躍中である。れんだいもその中に加わっていると自負している。これらの諸見解が日本左派運動内に獲得され、大いなる実を結ぶことを祈念する。

 2007.6.20日 れんだいこ拝





(私論.私見)