細川政変劇検証 |
1993年の衆院選挙後、「改革」を掲げてあれよあれよという間に首相の座につき、圧倒的な国民的人気を博しながら、さっさと政権を投げ出してしまった細川護煕氏。わずか8カ月で終わった細川政権。この「細川政変劇」をどう見るべきか、未だに観点のすりあわせが為されていない。この時期の続々たる新党誕生をどう見るべきかこの考察がからきし為されていない。出来事を羅列しただけでは何の意味も無い。本来、それらの事象の原因と本質を見極めることこそ肝要であるのに、これができていない。ここに研究者の口先のインテリ性とは別の知の貧困が垣間見られる。 |
手がけてみたものの一朝一夕には行かない。まだ見せるには至らないがそれでもサイトアップしちまえ。
【政権与党を目指す旧自民党系「日本新党」、「新党さきがけ」、「新生党」の揃い踏み考】 |
90年代初頭の1992年に輩出した新党諸派は、戦後の混乱期から1955年までの政党盛衰史以来のほぼ50年ぶりの政治ドラマのうねりであることに意義が認められる。その経緯の概要は「1992年細川新生党結党以来の新党の歩み」に記すが、これを更に要約すれば次のように云える。 1991.10月、海部俊樹総裁の任期満了に伴う自民党総裁公選が行われ、11.5日、宮沢内閣が誕生する。この時、宮澤喜一(宮澤派)・渡辺美智雄(渡辺派)・三塚博(安倍派→三塚派)の3名が立候補し、竹下派会長代行にして海部政権時代の幹事長として手腕を振るった小沢が、3候補を個別に面接(「小沢面接」)したことで物議を醸している。 |
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1992年(平成4).5.7日、細川護熙氏が「自由社会連合(仮称)」結党構想を発表し、文芸春秋6月号に掲載される。5.22日、 「日本新党(JAPAN NEW PARTY、代表・細川護煕)」が結成される。7.8日、第16回参議院議員選挙が公示され、日本新党は比例代表に16名を名簿登載して闘い、最初の選挙の洗礼で361万7235票、4議席(細川護熙、小池百合子、寺沢芳男、武田邦太郎)を獲得する。このことが日本新党のみならず新党創出を勢いづかせることになる。 |
![]() 結果的に、これが「政界再編の狼煙となる」。これが「政界再編の第一ベクトル」である。 |
参院選後の9月、金丸自民党副総裁が東京佐川急便事件で検察の摘発を受け、10.14日、議員辞職、竹下派会長を辞任した。こうして、竹下派会長ポストの後継を廻って派内の対立が激化する。竹下直系は小渕、小沢派は羽田を推し争った結果、10.28日、小渕が後継会長に決定した。しかし、派内の対立は収まらず、12.18日、小沢−羽田派が「改革フォーラム21」を旗揚げ、分派していくことになる。これにより、竹下派「経世会」は小渕派と、小沢−羽田派に分裂していくことになる。 |
![]() この時点での「金丸失脚」の背景は何であったか。検察摘発を指図した当局奥の院の意図はどこにあったのか。れんだいこが読み取るのに、金丸会長の庇護の下で勢いづき始めていた小沢−羽田グループに対する当局奥の院側の牽制であったと思われる。それほどまでに田中政治が忌避されているということになる。 それはともかく小沢−羽田派による「改革フォーラム21」旗揚げが「政界再編の第二ベクトル」である。 |
1992.9月、日本新党代表となった細川と田中秀征、武村正義の3者会談が行われ、田中秀征、武村正義らが自民党を離党し行動を共にすることを確認、同志を募り始める。当時武村は、政治家とカネに関する問題をきっかけに発足した勉強会「ユートピア政治研究会」を率いており、そのメンバーにも声がかけられた。こうして実際に離党予備軍として集まったメンバーは、武村、田中、園田に加えて、井出正一、佐藤謙一郎、渡海紀三郎、鳩山由紀夫、三原朝彦の計8人となった。 10月、行政改革をテーマにした超党派の勉強会「制度改革研究会」が発足。武村が座長、田中が事務局長を務め、運営委員となった細川が学者や評論家、経済界、労働界からメンバーを集めた。この時、社民連の菅直人なども参加しており、与野党問わずの流れを生み出している。結果的にはこれが「新党さきがけ」結成を準備していくことになる。 |
1993.6.18日、衆議院本会議で宮沢内閣不信任案可決される。その内訳は、賛成255、反対220、欠席21であり、自民党の小沢・羽田派34名を中心に39名の賛成票、18名の欠席で、可決されたことが判明する。宮沢政権は衆議院解散を打ち出し、第40回総選挙が行われることになった。 |
![]() 宮沢内閣不信任案可決の要因を見れば、小沢・羽田派こそが政界再編成の引き金を引いたことが分かる。 |
6.21日、「新党さきがけ(代表・武村正義)」が結成される。これに結集したのは、武村、田中、園田、井出正一、佐藤謙一郎、渡海紀三郎、鳩山由紀夫、三原朝彦、岩谷毅、簗瀬進の10名のいずれも自民党離党組であった。田中が執筆を担当した結成宣言、政治理念、政策の基本姿勢を発表した。 |
![]() 「新党さきがけ」の結成が「政界再編の第三ベクトル」である。特に、自民党離党組による結党という意味が貴重で、「改革フォーラム21」の離党をも誘発したという点で触媒力となった功績が大きい。 |
6.22日、竹下派から分派した小沢・羽田派(改革フォーラム21)も自民党を離党。6.23日、「改革フォーラム21」の44名らが「新生党」(党首・羽田孜、代表幹事・小沢一郎)を結成する。これが政界再編を急加速させ、非自民連立政権の中核として細川政権を樹立していくことになる。但し、日本新党。新党さきがけは小沢・羽田派の動きに対して慎重に様子見した。 ここに、「日本新党」、「新党さきがけ」、「新生党」が揃い踏みした。この三党が共同戦線を張り、政界再編を急加速させ、非自民連立政権の中核として細川政権を樹立していくことになる。 小沢は自民党を離党して総選挙に望んだ。小沢が戦略として目指していたのは、非自民、非共産勢力で衆院の過半数を制することである。小沢は非自民連立政権の実現へと猛然と走り始めていくことになる。連合の山岸会長と極秘に会談し、社会党、民社党の公明党を取り込み、選挙日を目前にした時点で社会・新生・公明・民社・社民連の5党が選挙後に非自民・非共産の連立政権を目指すことに合意、連立政権構想が完了した。 |
![]() 「日本新党、新党さきがけ、新生党の三党揃い踏み」が細川政権樹立の原動力となる。この現象が偶然か歴史の摩訶不思議か仕掛人がいるのか不明であるが、いよいよ「自民党一党支配による長期安定政権時代」が崩れ去る時代が到来したのは間違いない。 |
【細川政権誕生ドラマ考】 |
7.18日、第40回衆議院議員選挙が。投票率は総選挙史上最低の67%だったが、非自民政権の誕生と政治改革の実現を期待する新党ブームの追い風が吹き、選挙結果は自民党223、社会党70、新生党55、公明党51、日本新党35、共産党15、民社党15、さきがけ13、社民連4、無所属30となった。「自民は現有議席維持、社会党は一人負けの惨敗、新党それぞれが躍進」の構図となった。 特に新生党は公認立候補者69人のうち、55名を当選させた。日本新党は公認候補35名を当選させ、後に公認した3名を加えて大きな発言権をもつことになる。新党さきがけは13議席を獲得。自民党が過半数を割ったため、政界は自民連立政権か非自民連立政権かで混沌とし始めた。 |
![]() この時点での新党ブーム現象をどう読み取るべきか。 |
7.19日、新党さきがけと日本新党が、衆議院に院内統一会派「さきがけ日本新党」を結成、キャスティングボートを握ることになった。7.23日、日本新党の細川とさきがけの武村が「政治改革を断行する政権」樹立を提唱。これに社会・新生・公明・民社・社民連の5党が受け入れを党議決定していく。小沢は、日本新党の細川の首班を打ち出し、その他人事面での優遇を保証し、「さきがけ日本新党」の取り込みに向かう。 そのころ自民党は大荒れであった。梶山幹事長をはじめとして、羽田派の離党を招いた執行部に非難が集中していた。自民党は選挙前の220議席から222議席に増えており宮沢続投が可能であったが、両院議員総会は執行部の総退陣を突きつけた。渡部美智雄と河野洋平による総裁選の結果、新総裁に河野洋平が選出された。かって自民党で時代を担うニューリーダーと呼ばれた自民党第四世代の竹下、安部、宮沢、渡辺四者時代が完全に終わった瞬間であった。 |
7.29日、非自民・非共産の8党派が党首会談開催。細川を首相とする連立政権を組むことで意思一致し、連立政権に関する合意事項(「7党1会派覚え書き」)を発表する。 「8党派連立」は、新生党の小沢一郎の政治手腕に寄るところが大きかった。選挙前既に新生・社会・公明・民社・社民連の5党による非自民・非共産の連立政権構想を確認していたが、選挙結果では非自民・非共産5党の議席の合計は過半数に届かず、政権を握るためにはさきがけと日本新党の取り込みが必須となった。このことを素早く見抜き、行動に移ったのが小沢であった。小沢は、首相の座を、有力視されていた新生党の羽田にではなく、また、さきの5党中の最大勢力の社会党にでもなく、日本新党の細川を指名し、細川は小沢の要請を受け入れた。まさにウルトラCと云うべきで、このウルトラCを民主改革連合を加えた7党1会派による8党派が受け入れ、連立政権が実現する運びとなった。総裁選で時日を費やしていた自民党は既に時遅しで、打つ手が封ぜられていた。 1993.8.9日、細川連立政権が誕生した。実に38年ぶりの政権交代であった。キャスティング・ボートを握る立場にあった日本新党の党首細川氏が、社会党や新生党などより大きな政党の党首を排除して、首相となった。小沢采配が光った。 組閣人事では、首相官邸が首相・細川、官房長官・武村、副官房長官・鳩山、代表幹事・園田、政策幹事・井出、首相特別補佐・田中秀征らによる統一会派「さきがけ日本新党」で固められた。国会でも総理会派ということで各議員が要職に就いた。大臣人事では、社会6、新生5、公明4、民社1、さきがけ1、社民連(日本新の枠)1、民間から2。このうち女性が3人含まれていた。新生党が主要閣僚を固め政権の中枢を担った。社会党は、書記長に久保、衆院議長に土井たか子が就任する。女性議長は国会で初。この流れを国民は歓迎し、細川内閣の当初の支持率は71%で、国民に大きな期待を感じさせるものとなった。 |
![]() 細川政権樹立は小沢采配無しにはできなかった。そういう意味で、「細川政権樹立に果たした小沢采配」をどう評するべきか。れんだいこは、政権政党として且つ戦後保守主流派を形成してきたハト派の最大派閥田中派の俊英として教育されてきた責任政治感覚に拠るものが大きいと読む。政権とって何ぼのものであるとする責任政治感覚こそ野党が身に着けていないものであり、賞賛に値するであろう。 |
【初期細川政権考】 |
細川政権は、政治政策として政治改革法案、経済政策として「規制緩和、コメ輸入」、社会政策として「高齢化が活力に結びつく社会の構築」、「豊かで質の高い生活基盤の構築」などを柱とする「21世紀ビジョン」を掲げた。軍事・防衛問題については具体的な言及が為されていない。 |
![]() 細川政権の政策を俯瞰すれば、これは紛れもなくハト派系のものであり、そのように評さないデマゴギーを垂れ流しているのが日本左派運動のイデオローグである。中でも「自民党より悪質な新帝国主義政権」なる規定を弄ぶ者は「その罪万死に値する」でふあろう。 |
細川政権は、「選挙制度改革を含む政治改革」を政権の使命とした。「金のかからない政党本位の選挙」を目指して中選挙区制から小選挙区制へと大胆な転換をするというものであったが、社会党がこれに抵抗した。しかし、社会党は、それまでの小選挙区制反対路線からの180度転換し、政治改革担当大臣の山花前委員長と自治大臣の佐藤観樹前副委員長という選挙制度改革担当の2大臣を出し、積極的に小選挙区制導入の中心的役割をはたした。 11.16日、細川首相と河野自民党総裁のトップ会談で、「定数小選挙区274、比例区226、政党助成金を国民一人当たり250円、総額309億円」の合意が為され、11.18日、政治改革4法案が衆議院で可決される。「賛成270、反対226、棄権10」であったが、社会党左派の一部が反対し、逆に野党の自民党の一部が賛成するという難産であった。ところが、1994.1.21日、参院で政治改革法案が否決されるというハプニングとなった。「賛成118、反対130」であったが、又もや社会党議員が反対に回っていた。与党にあるまじき行動を取った。結局、社会党のこうした与党にあるまじき対応が細川政権の致命傷になる。 1994.1.28日、細川首相は、土井衆院議長の仲介で河野自民党総裁とのトップ会談を行い、自民党の譲歩案を飲むかたちで1.29日なんとか政治改革関連4法案を成立させた。「定数小選挙区300、比例区200、比例区は全国11ブロック、企業団体献金は1団体を認め、1企業50万円。政党助成は、政党の前年収支の40%」となった。何とか政治改革法案を成立させ政権の最大公約を果たした細川内閣の支持率は高く2.1日の朝日新聞の世論調査では71%であった。 |
![]() この時骨格が定まった「細川政権の選挙制度改革法案」の功罪は歴史的見て決着がついていない。しかしながら、「小選挙区制導入による金のかからない、、政党本位の選挙」化へ流れをきったことは疑いない。政権党に有利であるかの如き批評を為すものがいるが、それは為にする批判であろう。 |
この間の12月、政治改革法案優先か平成6年度予算編成を優先させるかを廻って、小沢と武村が対立した。小沢は政治改革を優先し、武村は景気対策に繋がる予算編成優先を主張した。結局、細川首相が小沢の補正予算による措置案を採用したが、国会の会期延長を廻ってそれを拒否しようとする自民党との攻防が待ち受けていた。 |
細川政権の「ウルグアイ・ランドを廻るコメの部分開放」の動きは次の通り。1993.12.13日、細川首相、ウルグアイ・ラウンドでコメの部分開放を決断。12.14日、コメの部分開放を閣議決定。1994.1.7日、自民党が、ウルグアイ・ラウンドでの政府のコメ市場部分開放受け入れについて、羽田外相・畑農水相の問責決議案を参院に提出する。 |
【与党間の足並みの乱れ】 |
細川連立政権の寄り合い世帯には、成立当初から、さまざまな亀裂が存在していた。ある種ガラス細工のようなものであった。そのひとつが、社会党と他の連立与党との政策面での相違であり、もうひとつは、小沢と新党さきがけ代表の武村正義との対立であった。 社会党は、9.20日の社会党委員長選挙で、山花貞夫から村山富市へバトンタッチした。村山委員長は、政権与党としての下支えに向かうよりも、やがて自身が首相になり自民党と連立するというウルトラDを画策していくことになる。細川政権は、この社会党を取り込んだことで苦労を重ねていくことになる。 もう一つの悩みは、小沢と新党さきがけ代表の武村正の対立であった。「与党内では次第に小沢−武村の対立が顕在化しろ、それに引きずられるように細川−武村の関係も悪化していった」(平野貞夫「日本を呪縛した8人の政治家」)。 当初はさきがけと日本新党の二人三脚で運営されてきた細川内閣であったが、小沢一郎、市川雄一を中心とする新生・公明ブロックが運営していくことになる。それは、新生・公明ブロックこそがせ意見運営能力を持っていたことによると思われる。細川首相は必然的に新生・公明ブロックに軸足を次第に移し始めていくことになる。 |
![]() 「細川連立政権の寄り合い世帯」による求心力の無さを必要以上に指摘されるべきだろうか。それは端から分かっていたことであり、むしろ、支える側でなく分裂させる側で動いた社会党、新党さきがけを取り込んでいたことに原因を求めるべきではなかろうか。ちなみに、その後の社会党も新党さきがけも三日天下の挙句政治史から消えていった。政治哲学無き安逸な遊泳術のツケであろう。 |
12.16日、田中角栄が死去。 |
![]() この時期の角栄の死も考えさせられる。角栄はどういう思いで息を引き取ったのだろうか。 |
1993年末、1994年度予算案の越年編成やむなしとする小沢に対して、武村が年内編成を主張し、亀裂が生じた。 |
![]() 細川政権は、発足当初はさきがけと日本新党の二人三脚で運営されてきたが、新生党の小沢とさきがけの武村の確執が生まれ、小沢は市川雄一書記長を代表とする公明党に接近し始める。新生・公明ブロックが形成され、細川首相もこれに軸足を移し始める。「12.26日の細川・小沢・市川会談以降、急に細川さんの態度がよそよそしくなった」とあるように、武村氏が浮き始める。こうして、女房役の武村官房長官との「官邸内離婚」が囁かれ始めた。 小沢と竹村の対立の背景は、政界再編成を通しての権構想の違いにあった。小沢は、新生党、公明党、日本新党、さきがけ、民社党、自民党ハト派、社会党右派を含めたハト派系政治の再興を期そうとしていた。竹村にはそういうイデオロギー的なものがなく、むしろ排除しようとしていた。ここに両者の対立があった。 新生・公明の結びつきが強くなり、小沢を代表とする新生党と市川雄一書記長を代表とする公明党が引っ張り、日本新党が概ね追随し、さきがけ、民社党が追認、社会党が抵抗すると言う形で政策決定していった。しかし、この「一・一ライン」が他党の反発を招くことになる。 この間、与党第一党の社会党は、与党にあるまじき日和見的な動きを繰り返した。今日、細川政権ができた直後から、自民党の社会党に対する工作が始まっていたことが判明している。自社両党の「国対」ルートが作動し始めていた。社会党は、細川連立政権の与党として汗をかくよりも、いわば「自社55年体制の夢よもう一度」という復古的対応を採ったことになる。小沢の「愛想尽かし」の非を責められようか。 |
1994.1.31日、新党さきがけの田中秀征が政治改革法成立で区切りがついたとして首相特別補佐を辞任。この頃、社民連の江田五月、阿部昭吾、菅直人が統一会派「さきがけ日本新党」入り。他にも自民党離党組が続く。 細川政権は呉越同舟化し始める。 |
【細川政権突然の幕切れ考】 | ||||||||
1994(平成6).2.3日、細川首相が高い支持率を頼みに、いきなり7%の国民福祉税構想を発表した。武村官房長官が「寝耳に水」発言し、両面あいまって与党内に衝撃を与えた。翌2.4日、細川首相はすぐに構想を撤回した。 | ||||||||
![]() 「細川さんと武村さんの仲は決定的に悪くなった」。この事件が細川連立政権の潮目を変え、細川政権崩壊への転回点となる。 |
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2.14日、国民福祉税構想騒動後、細川は内閣改造を打診。「新生・公明による社会・さきがけ外し、武村外しの思惑」が取りざたされ、社会党の村山、民社党の大内啓伍、官房長官武村が揃って反対し、3.2日、細川首相が内閣改造を断念。結局、内閣改造は断念せざるを得なくなった。 | ||||||||
![]() 日本新党、さきがけの蜜月時代が終わったことを意味する。連立与党内の一連の争いは「一・一ライン」vs.「村・村コンビ」28)とも揶揄された。「後になって分かったことだが、この時既に自民党と社会党左派、そしてさきがけの間で、細川連立政権つぶしの話がまとまっていたようだ」。 |
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2.22日、衆院予算委、細川首相が佐川急便から1億円を借金した問題で、国会法104条により東京地検、国税庁に資料提出を要求。両庁は拒否。3.31日、参院予算委員会で細川の佐川疑惑を集中審議。細川首相の一億円借金問題は日本新党が最初の参議院議員選挙に出馬したころから噂されていたことであるが、ここにきて細川の証人喚問が要求されることになってきた。 4.8日、細川首相が総理大臣を辞任表明。細川政権はわずか8ヶ月で崩壊した。 |
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![]() 細川総理は、自民党から執拗にいわゆる佐川急便スキャンダルを追及され、耐えきれずに退陣した。突如の辞任には、連立与党内の対立による政権の行き詰まりも考えられる。振り返ってみれば、細川政権は政治改革法の成立で燃え尽きていたのかも知れない。それ以後の細川政権の政策・構想で目ぼしいものはない。 |
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【ポスト細川を廻る与党の分裂考】 |
ポスト細川を廻る次期政権構想を廻って、連立与党内は制御不能に陥った。新生・公明・日本新の3党と社会・さきがけ・民社などの4党派が対立し、分裂状態になった。小沢はこの時、渡辺美智雄、鹿野道彦・前総務庁長官ら自民党内の一部と連携することも視野に入れていた。しかし、渡辺は動かなかった。結局、連立与党は羽田を擁立することで合意した。ただし、さきがけは、新生・公明主導の政権運営を警戒し、次期政権では閣外協力に転じることを決定した。これに社会・民社の一部が連携する構えを見せた。4.22日、連立与党は、首相後継候補に羽田副総理兼外相(新生党党首)を擁立することで決定する。 |
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【羽田政権考】 |
4.25日、細川内閣が総辞職。衆院が新生党党首の羽田孜を首相に指名。非自民・非共産の連立政権が誕生した。羽田政権を支えたのは新生党を中心にした5党派で、社会党を抜いて新統一会派「改新」が結成された。この経緯で社会党が政権与党から離脱した。村山社会党はさきがけ、自民党との連合に向かい始める。 4.28日、羽田内閣が39年ぶりの少数与党政権として成立。組閣人事では、新生党から8名、公明党から6名入閣し、両党で閣僚の3分の2を占めた。こうして羽田政権は、少数与党政権として出発することになった。 新生・公明主導の連立与党からなる羽田政権は、社会党、さきがけを取り込もうと努力したが不調に終わった。5.28日、社会党が連立政権離脱後初めての中央委員会を開催し、村山富市委員長が羽田政権に対して総辞職による新たな連立政権づくりか、衆院の解散・総選挙を求める考えを表明。6.23日、自民党、94年度予算の成立直後、内閣不信任決議案を衆院に提出。6.25日、内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田内閣は、解散総選挙に出ず内閣総辞職を選んだ。羽田内閣は少数与党政権に苦吟しつつ在任58日間という戦後2番目の短命政権に終わった。 この間の5.22日、社民連が解党し、日本新党と合併している。 |
![]() 羽田内閣が発足する過程で、小沢と社会党、さきがけとの対立が決定的になり、この両党は連立政権を離脱する。少数与党政権となった羽田内閣は、結局、自民党が提出した内閣不信任案を前に、わずか65日で総辞職することになる。その結果、自・社・さきがけ連合による村山政権が誕生することになり、それは「ひとたび壊された自社55年体制の修復」となり、それが自民党長期安定政権への道筋となる。 しかしながら、細川−羽田の二代にわたった非自民連立政権の誕生は、一時にせよ自民党一党支配を終わらせ、政権交代を実現したという点で、歴史的に大きな意味を持ったと云える。 |
(私論.私見)